第1話、謎の場所での始まりはじまり
ふと気が付くと、少女の視界は一面が真っ白な世界で広がっていた。
「……え?」
ぱちぱちと目を瞬かせて周囲を見渡すも、白い世界には変わりない。どこが壁で果てになっているのか、上下左右がまるでわからない。一応服を確認すると、着ていたのは通っている中学の制服で、それ以外は特別な変化はなかった。
どこを向いても何もない。物も、景色も、音さえ聞こえる事はない。孤独とかそんな生易しいレベルじゃない。ここは、文字通りの“無”の空間だ。
「…何だかとっても泣きそうだなぁ、君。大丈夫?」
そんな、とめどない恐怖で少女が思わず泣きそうになっている時、不意に後ろから声がした。魚のように少女の肩がびくりと跳ね、勢いよく振り返る。見つけたのは、黒いローブとその背中にある黒い翼の誰か。顔はローブのフードで隠れているせいで見えないが、白い空間に黒一色はかなり目立つ。そしてふと、思う。
「……ど、どこ、から……?」
少女は先程、周囲をぐるりと見渡している。果てすらわからない無の空間に、少女の心は孤独と恐怖で押しつぶされそうになっていた。そんな時に突然やってきた黒い彼(?)は、一体どこから現れたのか。
驚きから消え去っていた筈の恐怖が再びやってきて、少女は頬を引き攣らせた。そんな彼女に、彼は絞り出すような笑い声をくつくつとこぼした。
「そんなに怖がらないでくれ。別に君を取って食おうってんじゃないんだぜ?」
ローブの裾から見えた黒い手袋が、恭しく胸に手を当てる。わずかに見えた腕の肌は、一切の血の気を感じさせないほどに青白かった。
「俺は…そうだな。とりあえず、“グリム・リーパー”とでも名乗ろうかな。よろしくね、お嬢さん」
そう言って“グリム・リーパー”は、まるで英国紳士のように深々とお辞儀をした。一つ一つの仕草がまるでどこかの貴族のようで、少女は呆然としながら小さな声ではい、と呟いた。グリム・リーパーはまたくつくつ笑って、黒いローブをふわりと揺らすと、胸に当てていた手をそっと差し出された。
「まず先に言っておこう。君は死んだ。その事について自覚はあるかな?」
「…えっ」
「あれ、もしかしてなかったりする?」
ある訳がない。そう言いたい筈なのに、何かが喉に引っかかっているような気がして、うまく言葉が出てこない。記憶を辿ろうとしてみても、うっすらともやがかかったようで、最近あった事すらも思い出せなかった。
もしや、本当に死んだのでは。そうすると一つだけ、腑に落ちる事はある。
「あー、君“特例”かー…そっかー…」
「……あ、あの」
「ん?あ、やっぱり何か覚えてた?」
「…あ…貴方は、死神……?」
死神。
生死を司る伝説上の存在。全世界数多くの神話や創作物に用いられており、少女の母国である日本にもその存在は知られている。仏教では“死魔”と呼ばれる人を死に誘う魔物が存在し、キリスト教では悪魔そのものが死神と同一視される。
そして、死神は英語読みすると、“Grim Reaper”。
目の前のローブの男が名乗ったのもまた、『グリム・リーパー』だ。
「…博識なんだなぁ、君は」
恐る恐る尋ねた少女の問いかけに、グリム・リーパーは肩をすくめながらそう言った。否定も肯定もするつもりはないらしいが、その態度なら肯定と見て良いのだろうか。つまり彼は、やっぱり少女の言う通り、死神というやつで。
「……ぅ……」
自分から言ったクセに、目の前の人物が死神であるという事実に、涙目だった少女の目が更に潤んでいく。中学三年生にもなってこんな事で泣くのか、などと言わないで欲しい。
気が付いたら訳もわからずこんな空間に立っていて、目の前には厨二病じゃない本物の死神なんて名乗る黒ずくめの相手がいて。怖がりで泣き虫な少女にとって、この現状はただただ恐怖でしかない。
思わず泣き出すのではと勘ぐったグリム・リーパーは、小さくなため息をつきながら言葉を続けた。
「まぁ、とりあえず君は死んだんだよ。で、ここは言わば死後の世界だ。君は自分の死に際は、本当に覚えてないのかな?」
再び問われ、少女は弱々しく首を横に振った。死に際など本当に覚えていないのだ。
強いて言うなら自分が受験生であった事や、いじめられていて友達が全くいなかった事、両親の関心を少しも得られなかった事など、そんなどうしようもない記憶だけは覚えている。
しかし、自分が死んだ瞬間など、ましてその死の間際の記憶なんてものは、これっぽっちもわからない。
ふむ、とグリム・リーパーは頷くと、考えるように顎に手を当てた。少女からは顎と呼べる部分は見えないが、とにかくそういう体勢で、何かを静かに考え込んでいた。
数十秒ほど置いて、グリム・リーパーがまた話し始めた。
「本来、死者というものは自分の死の瞬間を覚えているものなんだ。病死にしろ事故死にしろ殺されたにしろ、はっきりと鮮明に、写真に納めたみたいにその瞬間を覚えている。死者はとはそういうものだ」
「…は、ぁ…」
「けれど稀に、君のように自分の死の瞬間を覚えていない人がいる。そういう人は“特例”って呼ばれていてね、特別な人生を歩んでもらう事になっているんだよ」
「……特別…です、か…?」
とてつもなく嫌な予感が少女の胸に渦巻いた。特例だとか特別だとか、もう明らかに駄目な気がしてならない。普段は全く働いてくれない少女の勘が働いて、ガンガン警報を鳴らしているのだ。
どれだけ鳴らした所で、あまり意味はないのだけれど。
「そういう特例の死者達は、前世の記憶を保持したまま新たに転生してもらう。それもだいたい物語の世界で、たまに命の危険もあったりする所にね」
少女はもう泣きそうだった。
ガンガン頭の中で鳴り響く警報は正しかった。しかしその警報が正しいからと言って、現状がどうにかなる訳ではない事は、なんとなくだがわかっている。少女は馬鹿ではなく、むしろ中学生にしては割と賢かったので、諦めるしか選択肢がない事は容易に察する事ができた。察せた所で、怖い事には変わりはないが。
「君はONEPIECEって漫画、知ってる?そこに転生してもらおうと思うんだけど。あ、一応転生特典っていう、特例の転生者達に与えられる特権はあるから、そう易々と死んだりはしないと思うよ!」
少女の恐怖は止まらなかった。というか、ここまで泣くのを我慢できている自分を褒めたくて仕方ない。
さらりとグリム・リーパーが言った言葉に結構な絶望を覚えながら、少女は頭を抱えた。ONEPIECE、と頭の中でそのタイトルを復唱する。
少女は漫画をあまり読まず、どちらかというとシェイクスピアやカフカのような外国文学が好きだった。しかしそんな彼女でも、その名前はよく知っていた。
何しろ世界的大人気を博す集英社少年ジャンプ誌の看板中の看板だ。知識が浅いどころか主人公のフルネームすら知らない少女ではあったが、その漫画が世界中の漫画のトップと言っても過言ではない名作である、という事くらいは知っている。
ここで何が問題かというと、ONEPIECEという漫画はバトル系少年漫画であるという事だ。
不名誉極まりない事だが、少女は中学校でいじめられていた。自分が所謂コミュ障やら陰キャなどと呼ばれる部類だという自覚もある。逆に体力はなく非力で、人を傷付けるという思考になった事もない。
そんな自分が、世界的バトル系少年漫画の世界に転生するなんて。
あの漫画がどんな世界でどんな敵がいてどんな戦いを繰り広げているのかは、原作を読んでいなかった少女には知る由もない。ないのだが、わざわざ死地に赴くような事はしたくなかった。
「ま、知ってても知らなくても、そこそこ原作と違う事になってる世界に転生してもらうから、あんまり意味ないと思うけれどね」
しかし、全ては決定事項だった。
紳士的な態度は変わらないが、絶望に叩き落とされた少女にとって、目の前の黒ずくめはまさしく死神に等しい。何だったら悪魔の呼称の方が相応しいのではないだろうか。
「うん、何か恨めしい視線を感じるけれど俺は気にしない!それよりも、君に特典をあげなくちゃあならないね」
そう言ってパチンと指を鳴らすと、グリム・リーパーの目の前に黒く大きな本が現れた。ビクッと跳ね上がった少女に肩をすくめながら、グリム・リーパーは一枚一枚、分厚いページをめくっていく。
やがてうーんと一考してから、反対側の手でまたパチンと指を鳴らした。
瞬間、パッと足元の感覚が消える。え、とか細く呟いた時には、重力に従ってぐんっと体が引きずられた。
「これより新たなる生を以て君を歓迎しよう!与えし転生特典は生まれながらの“見聞色の覇気”!一体何の役に立つんだって?これからわかるからノープロブレム!」
「まっ…、」
紳士な空気はそのままに。しかしどこか道化のように、グリム・リーパーは高らかに笑った。
「それでは君の人生が、混沌に満ちた美しい物である事を祈るとしよう!」
その言葉を最後に聞きながら、少女の視界は暗転した。