能力を制御する為の訓練が始まって早くも一週間。海楼石の腕輪は、未だにナキの腕を飾っている。
体力面においては、ナキは他の同年代の子供と比べるとずっとずっと恵まれていた。何しろ育った環境が山賊、海賊、山、ゴミ山、猛獣の住処、ジャングル、その他諸々エトセトラの危険要素が満載のコルボ山である。
英雄ガープの故郷という事を考えても、ドーン島は東の海でトップクラスにヤバい場所の一つであるような気さえしてくる。
そういう訳でナキの訓練は早々に技術的内容にランクアップを果たしたのだが、これがまた、ナキにとってはきつかった。特にきついのは、悪魔の実の制御だ。
悪魔の実の能力で他人を傷付けた事がある人間は、能力制御が難しい傾向にある。その記憶がトラウマとなって、能力を扱う事に躊躇いが生まれるからだ。
特に、制御できなかった自分の能力に飲み込まれていく人の姿を、目の前で見てしまったナキの心の傷は深い。
「………ダメ、だなぁ」
水筒を持って地面に腰を下ろし、か細い弱音をぽつりと吐く。三人の講師達は電伝虫で呼ばれてどこかに行ってしまったので、訓練場にはナキの姿しか見当たらない。そうして一人でいると、余計にネガティブな考えを思い浮かべてしまって止まらないのだ。
「……もう、あんなのは、嫌なのに」
例えそれが、酷く残忍な相手でも。
誰かを自分が傷付けるという事実に耐えられそうになかったから、せめて制御できるようになれればと、この海軍本部にやってきたのだ。
それなのにこのていたらく。海楼石を外すたびに変わり果てたポルシェーミを思い出してしまい、制御するどころか水銀を出さないようにする事さえできなかった。
そんなネガティブ思考に支配され始めていたその時、突然ナキの頭上からにゅっと影が伸びてきた。
「あらぁ? カワイコちゃん一人だけ?」
同時に聞こえた声に驚き、急いで立ち上がり顔を上げる。すると、そこにはナキも見た事がある一人の男が、窓の縁からナキを覗き見下ろしていた。
見聞色で気付けなかった事にナキ自身が唖然としていると、気だるげな声色で質問が投げかけられた。
「どうも、この前ぶり。俺の事覚えてる?」
数秒固まってから、は、とナキは意識を取り戻した。それと共に、はじめて海軍本部にやってきた時の記憶が頭の中で再生される。
大将クザン。またの名を青キジ。ガープ曰く“匠のサボり魔”。
最後の情報は置いておくとして。
「え、っと……青キジ、さん……」
「そっちかー……ま、覚えてくれてんだしいいか」
少し大袈裟に胸を撫で下ろしたクザンは、窓からひらりと訓練場に降り立った。
そして、目を丸くするナキの前に堂々と座り、そのまま肘をついて横になる。
「ふいー……どうもナキちゃん、改めて俺はクザンね。覚えててくれて嬉しいよ」
「……え。あ、えと……は、い……?」
祖父の評価をしっかり体現した目の前の男に当惑するナキ。
「そういえば、あの三人は? キョウテン少将とかが講師してるんじゃなかったっけ」
「で、電伝虫から、連絡があって、い、行かなきゃいけない、から、休憩して、待っててって……」
「へー……何か問題でもあったのかね」
なお、その通達の内容は逃走した執務を放ったらかしにしているクザンの捜索であるという事を、二人(片やその当事者)は知らなかった。
「で? 今は訓練で何やってるの」
「え、えっと……走り込みとか、の、能力の制御、とか……」
まぁ、それも順調とは言い難い成果ではあるのだが。
途端に俯いてしまったナキに、クザンはガシガシと頭をかきながら何かを探すように辺りを見回す。
そして、少し離れたテーブルの上にある銀色のカギを見つけると、ぐいっと身を乗り出してそのカギを手に取った。
「ほら、腕出しな」
「え」
「大丈夫だって、取って食う訳じゃねェんだから」
ンな事したらガープさんにブッ飛ばされるから、なんて軽口を叩きながら、クザンはあれよあれよという間にナキの海楼石の腕輪を取り外してした。
細い腕から音を立てて枷が外れ、ナキは途端にびくりと肩を跳ねさせた。
慌てる間もなく周囲に銀色の粒が姿を現し、ナキが無意識に身を引こうとする。しかし、しっかりと細腕を握り締めたクザンの手がそれを許さない。
「は、離し、て」
「落ち着け、大丈夫だ。たったこれしきの銀じゃ俺は殺されねェから」
極めて冷静な声でクザンは言い、かすかな冷気を漂わせて、怯えるナキをまっすぐ見据える。
「この水銀はお前の一部だ。自分が生んだものを怖がってもどうしようもねェ、とにかく慣れろ。自分から生まれて、自分の周りに在る事に慣れろ。わかるか?
ずしりとのしかかる言葉の重み。
泣きそうに少女の顔が歪むが、それでもクザンは目を逸らさなかった。
「やるしかねェんだ。逃げたいなら尚更、最初は向き合わなきゃならねェ」
ぐっ、とナキが唇を噛み締める。
同じ能力者故なのか、いやに説得力がこもった言葉。人より聡いナキには余計にしみるようだった。
「使いこなせ。誰も傷付けないように、誰も壊さないように。それが、何よりも今のお前さんがすべき事だ」
低く、冷たく、同じ意図を、青キジは静かに繰り返す。
気付くと、水銀はナキの周りのどこにも見当たらなくなっていた。
「何してるんですかこの変態!不審者!ロリコンプレイボーイ!」
「ついに子供にまで手を出し始めたんすかあんた……流石にねぇわ」
「まさかそこまで守備範囲が広いとは思ってもみませんでした。インペルダウンの皆さんによろしくお願いします」
「タンマタンマ違う違う」
突然聞こえた三人の罵倒に、ぱっとクザンの手がナキから離れた。
その瞬間を見逃す事なく、ウェニーがナキを庇い、ダルメシアンが二人を後ろに庇い、更にキョウテンが彼らの前に立つ。
流れるような素晴らしい動きである。
「なんだかんだと上司としてお世話になりましたから最後のチャンスです。ガープさんに通報されるかセンゴクさんに通報されるか、他の大将御二方に通報されるかは選ばせて差し上げます」
「選択肢があるように見えて実質選択肢がない」
「そりゃそうだろ」
呆れたようにダルメシアンが声を被せた。
何しろ呼び出しから帰ってきた指導者達が目にしたのは、幼い少女を怖がらせている上司の姿。
過剰反応するも無理からぬ事である。
スピード感溢れる突然の展開についていけていないナキをよそに、大人達の攻防は更に続く。
「見損ないましたよクザンさん! 女の子の細くて柔い腕を無理に掴んで、怖がらせて! いつの間にペドフィリアになっちゃったんてすか!」
「うん、確かに怖がらせた。反省してるからその言い方やめて、語弊がありすぎる」
「語弊と誤解を招くような行動を取らないでください!」
もしも某新聞社の社長がこの場にいたら、涙を流すくらい爆笑しながら写真を撮って記事の構成を練っている事だろう。
さしずめ見出しは『ロリコン大将、英雄の孫娘に手を出した!』『女たらしの青キジ大将、女なら子供も守備範囲』『海軍史上最低のスキャンダル』。
こうなったが最後、待ち受けるのはクザンの社会的死とセンゴクの胃の終わりだけだ。
「いやさァ、俺マジで何も変な事してねーのよ。ただ訓練あんまりうまくいってないって聞いたから様子見に来ただけで……」
「そうですか、わざわざ仕事をサボってまで見にいらしたんですか」
「ごめんて」
どっちに転んでもクザンの立場は危機的状況だった。だいたい日頃の行いのせいである。
「……っ、あ、の……っ!」
──と、ここでようやくナキが口を開いた。
ぴく、と大人達は揃って動きを止めると、首を動かしてナキの方を見た。
「な、何も……されてない……から……」
「そう言えって脅されてるの?」
「軽蔑しました。センゴクさんと赤犬大将呼びます」
「ガープさんより殺意の高いコンビじゃん」
「あ、あの……ほんとに、なにも、されてなくて……」
「わかった、ガープさん呼んでゲンコツで解決しましょう。それで全部丸く収まる」
「それ俺が軽く死ねるやつ〜……」
おろおろするナキの声は、届いているようで届いていなかった。
自体は完全なる膠着状態。このままではダメな大人は社会的に殺されてしまう。
どうしよう、と誰かの心が嘆きを叫んだ、その時。
「……何やってるんだ? お前ら」
絶妙に凍った緊張感の中、間抜けたような暖かい声が全員の耳に聞こえた。
一斉に視線が声の聞こえた扉の方に向けられる。そこには大柄な男が一人、不思議そうな顔をして彼らの事を眺めていた。
やっとこの膠着状態を変える人物、それは───。
「聞いてくださいゼファー先生! ついにクザンさんが守備範囲をこんな小さな女の子にまで伸ばしやがりました!」
「シャレにならねェし誤解だって言ってるから流石にこの人にそれ言うのはやめてくれますゥ!?」
前言撤回。
やっぱり自体は膠着状態のままであった。
この後誤解を解くのに多分30分くらいかかった。