夜の森というものは暗く、そして危険に満ちている。
月明かり以外は一切の光がなく、夜行性の獣が森の中をうろついている。足場も悪く、おおよそ夜目に慣れていない子供が一人で踏み入るような場所ではない。
それでもナキが一人で森に踏み込んだのは、ひとえにルフィが心配だからこそ。足場の悪い中を何とか進めるのは、生まれつきの見聞色の覇気があってこそだ。
暗闇をだいぶ進んだ先で、ナキは目を閉じて意識を集中させた。森の中に充満する気配を出来る限り丁寧に探っていく。気が遠くなりそうな作業だが、7年間共に過ごした弟の気配を忘れるなんて事はありえなかった。
しばらくして、頭の中でピンッとアンテナが張ったような感覚が起こり、ナキははっと目を開いた。暗闇の、足場の悪い危険な森を、たった一人で駆けて行く。
走りながら向かった先は谷底だった。暗闇の更に奥深く、暗黒と比喩するに相応しい程の闇。
何故こんな場所からルフィの気配を感じるのかは謎だが、おおかた橋や谷から足を滑らせて落ちたのだろう、とナキは思った。だいたい合ってる。
「ルフィ…!」
か細い声で名前を呼ぶ。段々深く濃くなっていく闇に、ナキの恐怖は大きくなる。それでもルフィの、弟の名前を呼び続ける事はやめなかった。
「……ねーちゃん?」
「!」
聞こえた声に、ばっと後ろを振り向く。暗闇の中からゆっくりと姿を見せたのは、ぱっくりと瞼を切ってしまったルフィだった。
声にならない掠れた悲鳴をこぼしながら、ナキはすぐルフィに駆け寄った。目の前にいるのが大好きな姉である事を確信したルフィは、大粒の涙を目からボロボロとこぼした。
「ねーぢゃん"っ…!」
「ルフィ…!どこ、どこに、行ってたの…!け、怪我も、して…」
「ゔゔ…狼に"、おっがげられでだ…!」
ぎゅうっと力強くしがみつき、嗚咽と共にルフィが言った言葉に、ナキは目を見開いた。
ぐるりと周囲を見渡して、見聞色の覇気で気配を探る。いくつか気配は感じたが、それが狼か否かまでは判別する事ができない。
「…と、とにかく、帰ろ…?」
「ゔん…」
「け、怪我、大丈夫…?」
「へーぎ…いだくねーもん…」
嘘だ。ぱっくりと切れた瞼は、血こそ流れていないもののジクジクと赤く滲んでいる。このまま放置していれば、傷口が膿んで悪化するかもしれない。
手を引いて来た道を引き返す。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ルフィもしっかりその後ろをついてくる。
坂を昇って、わずかな月明かりがこぼれる場所に手を伸ばそうとしたその時、ナキから見て右側から獣の唸り声が聞こえた。その瞬間、ナキは血の気が引いた顔を強ばらせ、勢いよく駆け出した。
「わっ!」
突然走り出した事でルフィが転げそうになり、腕の力だけで支えながらとにかく走る。
油断した。ルフィが見つかった事に安心して、見聞色による警戒を怠った。
その結果が、今自分達を追いかけてくる獣だ。気配が一つだけしかないのは不幸中の幸いか。いや現在進行形で幸い所ではないのだけれど。
「うぎゃっ!」
「きゃっ…!」
コケに覆われた岩場の上を、ルフィがずるっという音を立てて滑る。ルフィとしっかり手を繋いでいたナキも一緒に、バランスを崩して岩場から落ちていく。
地面に体を打ち付けた痛みに耐えながらナキは身を起こすと、自分の隣に落ちたルフィの方に視線を向けた。
──そして、こちらをまっすぐに見据える狼の姿を見て、ひゅっと息を止めた。
「ルフィ!」
反射的にルフィの名を叫ぶ。普段声を荒らげないナキが大声を上げた事に驚いたのか、ルフィは目を丸くして手を伸ばすナキを見つめ返した。
その大声を合図にしたかのように狼は走り出すと、ナキとルフィの二人に迷う事なく向かっていった。
タンッ、と狼が軽く跳躍し、月明かりが牙に反射する。
ナキがぎゅっと守るようにルフィを胸に抱き締め──それと同時に、ガンッ!という強い音が、二人の耳に鈍く聞こえた。
恐る恐る目を開くと、目の前に迫ってきていた筈の狼が少し離れた岩壁にぶつかっていて、代わりにナキの視界に映ったのは、鉄パイプを持った一人の少年の姿だった。
「…お前ら、大丈夫か!?」
「…!?ぁ、ぇ…だ、だい、じょうぶ…で、です…」
「そっか、良かった!」
そう言うと、少年は月明かりに照らされながら爽やかに微笑んだ。シルクハットから覗く金髪が光の加減でキラキラと光っているように見える。
「おい!そっちのお前も無事か!?」
「おう!切られたら痛ぇけど、ぶつかるのは痛くねぇから平気だ!」
「そ、そうか…?よくわかんねぇけど、あの狼がまた起き上がる前に逃げるぞ!」
「わっ…!」
少年がナキの手を引いて走り出し、一緒にルフィも引っ張られる。
岩場を飛び、縫うように走り抜き、少年が大きく叫んだ。
「お前ら!名前は!?」
「俺はルフィ!将来は立派な海賊になるんだ!」
「ナ、ナ、ナキ…」
「俺はサボ!よろしくな!」
二人の手を引きながら、少年──サボは、目一杯笑ってそう言った。
・
「…ここまで来れば、流石にもう大丈夫だろ」
自分達の来た方向を見返しながらそう言うと、サボはずっと繋いでいたナキの手を離した。
「ったく…ナキって言ったよな?お前が谷底に向かうのを俺が見つけて、ビックリして後をつけてきたから良かったものを…お前らだけだったら、今頃狼の腹の中だぞ!」
「う、うん…あ、ありが、とう…」
「そっちのお前もだぞ!何で谷底になんていたんだよ!?あんなとこ、夜に行くようなもんじゃねぇのに!」
どこか呆れた様子でサボがルフィに説教するが、ルフィはムッとしてサボに反論した。
「自分から落ちたんじゃねぇ!エースに落とされたんだ!」
「は?…エース?」
「そうだ!鉄パイプで思いっきり殴られて、落ちた!」
「鉄…っ!?」
ルフィの言葉にナキは顔色を真っ青にしたが、サボは訝しむように首を傾げた。
「なぁ、エースってポートガス・D・エースか?」
「ん?サボ、エースの事知ってんのか?」
「いや、知ってるも何も、俺毎日エースと会ってるぞ?」
「えっ!そうなのか!?」
予想だにしていなかったサボの言葉に、ルフィは目を丸くして驚愕の声を上げた。
「なんだよー、エースだってサボと遊んでるじゃねーかよー。エースのやつ、俺が一緒に遊ぼうって言っても無視するんだぞ!?」
「はは…エースは、ちょっと気難しい所があるからな。でも悪いヤツって訳でもないから、許してやってくれよ」
「おう!わかった!」
予想以上にけろっと許したルフィに、サボは面食らいながら苦笑すると、隣でずっとおろおろしているナキに視線を移した。
「お前ら、流石にこれから戻るよな?二人だけで大丈夫か?」
「…えっ、と…た、多分、だ、大丈夫、だとは…思う、けど…」
「…聞いておいてなんだけど、あんまり大丈夫そうに見えねぇぞ?さっきだって狼に追われてたし」
「ぅ…」
本当なら、見聞色の覇気を使って獣の気配を避けながら戻る事はできる。しかし、ついさっき狼の気配に気付けなかった事もあって、自分の覇気を頼りにする事が不安だった。
サボは、そんなナキの不安をなんとなく感じ取ると、しばし考え込んでからこう言った。
「…二人だけが心配なら、俺も一緒に行こうか?」
・
「誰だクソガキテメェ!!?」
「おう、俺はサボ!縁あってルフィとナキと知り合っちまったから送ってきたんだ。ついでに夜分遅かったから勝手に泊まらせてもらってた!」
「泊まるんじゃねェよ!!!」
鬼の形相で叫ぶダダンの怒声を、サボは爽やかな笑顔で聞き流す。
サボの背後には青い顔でおろおろとしたナキと、まだ眠そうに目をこすっているルフィ、目を見開いてサボを凝視しているエースの姿があった。
昨晩、サボはルフィとナキを送ったついでに、この山小屋で一晩を明かしていた。
本当は戻るつもりだったのだが、ルフィがサボに懐いてしまい、泊まれ泊まれと駄々をこねたので、仕方なく泊まる事にしたのだ。
ナキは申し訳なさそうにしていたが、どうせエースもいるのだからと、サボは案外気兼ねなく過ごした。
「あ、そうだエース!お前何でルフィの事、俺に一言も話さねーんだよ!?」
「は…?な、何でって…」
「そーだぞエース!サボは俺とねーちゃん、一緒に遊んでも良いって言ってたぞ!」
「俺達の邪魔しないなら、だけどな」
「…!?な、何勝手に決めてんだよサボ!こんなクソガキ、一緒にいた所で役にも立たねぇだろ!」
「クソガキじゃねぇ!俺はもう7歳だぞ!」
「充分クソガキだろうが!そもそも何でお前らがサボと一緒にいるんだよ!?おかしいだろ!」
「あ…ル、ルフィ、お、落ち着いて…」
「エースも落ち着けよ。7歳相手に大人気ないぞ。それに、元はと言えばお前がルフィを谷底に落としたからで…」
「うるせぇっ!!いっぺんに喋んじゃねぇこのクソガキ共ッッ!!!」
これでもかというダダンの大声が、コルボ山一帯に響き渡った。