暗い部屋の中、ほのかにきらめく明かりがあった。それはまるで、夜空に輝く星のような。
明かりの中で、少女は夢を見ていた。穏やかで、緩やかで、ぼんやりとした夢を。
『………おやすみ……え』
夢の中で誰かが語りかける。輪郭はぼやけて見えない。それはとても温かくて柔らかな声だった。
『………また……あえ……ら』
「………!?」
目を覚ました少女が最初に見たのは、横たわった自分の身体を包む虹色に輝く光の粒だった。
「………ここは?」
少女が目覚めると同時に、目の前を覆っていた機械の蓋が開いていった。周囲は暗闇で満ちている。ゆっくりと起き上がり、自分の足元に目をやると、少女は何かを見つけて手に取った。それは、虹色の光を放つペンと、古ぼけたスケッチブックだった。
「これ、私のなのかな。でも、思い出せない。自分の名前も、この場所も」
少女は暗闇の中で恐怖した。足がすくんで動けなかった。しかし、スケッチブックを身体に抱くと、何故か少しだけ心が落ち着くのを感じた。
スケッチブックを手に取り、少女は虹色のペンの光を頼りに暗闇の中を歩いていった。部屋のドアは開いていて、そこから通路をしばらく行くと昇りの階段が見えた。少女はとにかく建物の外、地上を目指して歩いて行こうと決心した。建物の内部は所々崩壊していて、瓦礫などが散乱しており、裸足の少女が歩くには少々危険であった。しばらく歩くと、建物の中に明かりが差してきた。地上が近いことを悟った少女は早足になり、目の前のドアに手をかけドアノブを回す。すると、少女の目に強い光が差し込んできた。
「………まぶしい」
暗くて不気味な無音の世界から一転して、建物の外は、見たことのない光で満ち溢れていた。鳥のさえずり、動物の鳴き声、そよぐ風の音、そして遠くに見える虹色の峰。その全てが、少女の不安と恐怖を、好奇心で塗り替えていった。
「でも、ここは一体どこなんだろう」
少女が疑問を口にした直後、近くの草場から物音が聞こえてきた。恐る恐る近づくと、見たことのない青色の生き物が顔を出した。
「ひっ、何これ」
少女は咄嗟に身構えたが、謎の生物はじりじりと少女の方に向かってきた。スケッチブックを両手に抱きしめ、後ずさりするも、ついに建物の壁際まで追い詰められる。得体の知れない生物が少女に飛びかかろうと動いた次の瞬間、別の影が勢いよくパッと飛び込んできた。
「危ない!」
パッカーーーーーーーーン
青色の生物は、背中の硬い石の部分を砕かれて、まるで花火のようにはじけて消えた。少女はほっとひと安心し、壁にもたれたままへたりこんだ。そして、ピンチに颯爽と現れた人物に向かってこう言った。
「ありがとうございます」
その人物は少女に手を差しのべながらこう返した。
「いえいえ、あなたが無事でよかったです」
その手を掴み、すっくと立ち上がった少女は、まじまじとその人物を見つめてこう言った。
「あなたは、ヒトですか?」
一瞬きょとんとした表情を覗かせたその人物は、少女にこう答えた。
「ぼくはイエイヌです。ヒトじゃないですけど、ず~っと前はヒトと一緒に暮らしてました」
流暢に言葉を喋り、容姿はまるで人間のようではあったが、犬の特徴である白とグレーを基調にした三角型の耳と、大きく揺れるもふもふ尻尾が、ヒトとは違う存在なのだということを少女に強く感じさせた。
「イエイヌさんって言うんですね。不思議な感じ。あ、さっきは助けてくれて本当に……」
「はっはっはっはっはっはっ」
「ん!?」
「はぁ~~~~~~~~~~!会いたかった!!」
突然の抱擁。少女はイエイヌに抱きつかれ、そのもふもふな耳を思い切りスリスリされてしまった。
「え、えー、どうしたのいきなり。あはは、くすぐったいよ」
我に返ったイエイヌは、少女を解放するとすぐさまこう返した。
「ご、ごめんなさい急に抱きついたりして、初対面のヒトに失礼なことを」
イエイヌは左右で色の異なる瞳を潤ませながら、少女に謝った。突然のことで最初はビックリした少女だったが、スリスリされて嫌な気持ちはしなかった。
「大丈夫、気にしてないです。それよりイエイヌさんに聞きたいことが……」
こしょこしょと、草場から物音がするのを敏感に察知したイエイヌは、少女に向かってこう言った。
「近くにまだセルリアンがいるかもしれません。ここは一旦、安全なところまで離れましょう」
少女は頷き、イエイヌに導かれながらその場所を後にした。
木々の合間から木漏れ日が差す閑静な林道を歩いていると、イエイヌが後ろの少女に声をかける。
「この道をしばらく行くと、ぼくのおうちがあります。おうちに着いたらゆっくりお話しましょう」
「うん、ありがとう」
目覚めたばかりの少女にとって、イエイヌは唯一の頼れる存在だった。身長は自分と同じくらいではあるが、その背中は大きくてたくましく感じた。ピョコピョコ揺れる尻尾とのギャップがそれを際立たせる。
「いてっ!」
突然空から降ってきた何かが、少女の頭にコツンとぶつかって地面に落ちる。何事かと見上げるも、そこには樹があるだけだった。
「あっ、大丈夫ですか?」
「平気だよ、全然痛くなかったし」
地面に落ちたものをイエイヌが拾い上げる。
「これは、じゃぱりまんですね。でも、どうしてこんなところに」
「ご~め~ん~ね~」
樹上から声が聞こえてきた。二人は声の方に振り返って見るも、樹の枝しか見えない。
「こ~こ~だ~よ~」
「あっ、見てイエイヌさん。あそこの樹の上に誰かいるみたい」
少女が指差した方向を注意深く見ると、樹の枝によく似た姿をした何者かが、枝にぶら下がりながら手を振っていた。
「なぁんだ、ナマケモノちゃんだったんですね。こんにちは」
「こ~ん~に~ち~は~」
じゃぱりまんを落とした者の正体は、樹上でぶら下がっていたナマケモノだった。1週間ぶりに食べようとしたところ、誤って落としてしまったという。イエイヌは樹に上って落としたじゃぱりまんをナマケモノに手渡した。
「あ~り~が~と~」
「なんていうか、すごいゆっくりな動きと喋り方なんですね、ナマケモノさんは」
「そ~だ~よ~………すぴー」
喋っている途中で、ナマケモノは眠ってしまった。
「ナマケモノちゃんは1日のうちほとんど樹の上で眠っているんですよ。たま~に地面に降りてくることもありますけど」
「そうなんだ。ちょっとめずらしい子なんだね」
二人はナマケモノを起こさないよう、静かにその場を後にした。
しばらく歩くと、家が建っているのが見えてきた。煙突がある、2階建てのレンガの家だった。その屋根には、太陽光パネルが設置されている。
「ここが、ぼくのおうちです。さあ中へ、どうぞどうぞ」
「お邪魔しまーす」
玄関で足についた泥を払った後、家の中へ入ると懐かしい匂いが少女を包み込んだ。リビングのソファーに腰掛け、家の中を見渡すと、とても綺麗に掃除が行き届いているのがわかる。
「お茶を淹れました、どうぞ」
「あ、いただきます」
カップに注がれたお茶を一口飲んだ後、少女は口を開いた。
「あの、さっきのセルリアン?とかいう生き物だったり、ナマケモノさんだったり、ヒトや動物とは違う生き物がいるこの場所は、どこなんですか?」
少し考えた後、イエイヌはこう言った。
「ここは、ジャパリパークです。ナマケモノちゃんやぼくは《フレンズ》といってヒトと動物が合わさったような存在だとか。サンドスターという光る結晶が動物に当たると、フレンズに変化するって言ってました。でも、さっき見たセルリアンは別です。ぼくたちフレンズを食べようと襲ってくるので気をつけてくださいね」
「ジャパリパークか。そうだ、他にヒトは?私以外のヒトはどこにいるの?」
少女の質問に対して、イエイヌは少し寂しげな表情でこう返した。
「あなた以外のヒトは……どこにいるのかわからないです」
少女はがっかりした様子で、ため息をついた。イエイヌは少女にこう投げかけた。
「もしかして、誰かヒトを探しているんですか?」
「うん、たぶん私にとって大切なヒトだと思う。私が眠っている間に、どこに行っちゃったんだろう。すごく会いたい……」
スケッチブックを抱きながら俯く少女に、イエイヌはこう言った。
「もしかしたら、港にいるのかもしれないです。ヒトが最後に目撃されたのが港だって、聞いたことがあります」
「え、そうなんだ。港に行けばヒトに……教えてくれてありがとうイエイヌさん」
少し安心したのか、少女はスケッチブックを膝元に置き、ほっとため息をついた。
「いえいえ、あ、そう言えば名前まだ聞いてませんでしたよね。あなたはなんて名前なんですか?」
少女は俯きながらこう答えた。
「わからない。私、自分の名前思い出せないみたい。記憶を失くしてしまったのかな」
イエイヌは少女の膝元のスケッチブックに、何かが書いてあるのを見つけた。
「今持っているそれ、あなたのなんですか?」
イエイヌがスケッチブックを指差す。
「えっと、このスケッチブックは私が眠っていた場所にあったから持ってきたんだけど、だからたぶん私のかな?」
「じゃあじゃあ、もしかしてそこに書いてあるのって、あなたの名前なんじゃないですか?」
そう言われて少女がスケッチブックをまじまじ見てみると、確かに文字が刻まれているのに気付いた。
「これは、漢字で“友”と“絵”って書いてあるみたい」
少女がその言葉を口にすると、イエイヌは続けてこう言った、!
「“とも”と“え”ですか。ということは、あなたの名前は“ともえ”ってことですね」
「そっか、そうなるね。“友絵”か、私の名前」
二人が顔を見合わせると、自然に笑みがこぼれてきた。イエイヌは、少女に笑顔が戻ってほっと胸を撫で下ろした。
「では改めて、ぼくはイエイヌです。よろしくお願いします、ともえちゃん」
「よろしくね、イエイヌさん」
「あの、できればイエイヌちゃんって呼んでもらえると嬉しいです」
イエイヌが尻尾を振りながら訴えかけてくる。少女はそれに応えた。
「うん、イエイヌちゃん」
しばらく二人で話していると、外はすっかり日が落ちてきた。友絵は名残惜しそうに、イエイヌにお別れを言おうとしたが、その言葉を遮るようにイエイヌはこう言った。
「外は暗くなってきましたし、今日はうちに泊まっていきませんか?」
友絵は申し訳なさそうにこう応えた。
「いいの?ありがとう、正直一人になるのちょっと怖かったんだ。今日はお泊まりさせてもらうね」
イエイヌはなんだかとっても嬉しそうだった。
「そう言えば、イエイヌちゃんってこの家に一人で住んでるの?」
遠い目をしながら、イエイヌはこう応えた。
「はい、今は一人で住んでます。ずっと前はご主人と一緒に住んでいたんですけど、中々帰ってこないみたいで」
「じゃあ、この家のご主人が帰ってくるのを、イエイヌちゃんはずっと待っているんだね」
イエイヌは初めて、友絵の前で自分の孤独な寂しさを露にした。二人はお互いのことを少しわかり合えた気がした。次の瞬間、友絵のお腹がぐぅ~っと音をたてて空腹を知らせる。
「あっ、そろそろご飯にしましょう。いまじゃぱりまんを用意しますからね」
台所に向かったイエイヌに、友絵が話しかける。
「じゃぱりまんって、ナマケモノさんが落とした、あれのこと?」
「そう、じゃぱりまんはフレンズ皆の大好物なんですよ。あぁ、でもともえちゃんはヒトですから、お口に合うかどうか」
友絵は最初に会ったときにも感じた疑問を口にした。
「なんでイエイヌちゃんは、私がヒトだってわかったの?」
じゃぱりまんを持ってきたイエイヌは、友絵の隣に座ってこう応えた。
「匂いでわかりました。ぼくはずっとご主人、あ、ヒトと暮らしていましたから、ヒトの匂いとフレンズの匂いを区別することができるんです」
「へぇ、フレンズさんってヒトみたいな姿だから、耳とか尻尾とか特徴がないと区別できないんだと思ってたよ」
「たぶんヒトとフレンズを匂いで区別できるのは、ぼくがフレンズになる前からヒトと一緒に暮らしていたからだと思います」
友絵はじゃぱりまんを食べつつ、イエイヌの話に耳を傾けた。
「はっきりと覚えてるわけではないですけど、ぼくはフレンズになる前からご主人とここで暮らしていたんです。ただ、何故ご主人がこの家に帰って来なくなったのか、その理由はわからないんです」
遥かな記憶の中に思いを馳せるイエイヌ、友絵も同じように自分の記憶を辿ってみた。
「……やっぱり、思い出せないや」
二人はじゃぱりまんを食べ終えると、お風呂に入り、寝床についた。
2階の寝室のドアを静かに開けて、イエイヌが友絵の様子を伺いにきた。すやすやとベッドで寝息をたてるのを確認し、イエイヌが寝室を後にしようとドアに手をかけたそのとき。
「………ないで」
微かな友絵の寝言が聞こえてきた。
「……行かないで」
その消え入りそうな儚い声を聞いたイエイヌは、そっと友絵の傍に寄り添った。不安と恐怖が入り交じった表情で、友絵の目から一粒の涙がこぼれ落ちる。イエイヌはそれを優しく舐めとると、友絵の身体をそっと抱き寄せた。
翌朝。
「いろいろありがとう、イエイヌちゃん」
「いえ、そんなこと。行ってしまうんですね」
友絵はゆっくりと頷いた。記憶の中の大切なヒトの面影、そのヒトを探しに行くため、港に行く決意をしたのであった。
「……じゃあ、またね」
友絵が別れの言葉を口にした瞬間、イエイヌはたまらずこう叫んだ。
「待ってください!ぼくも、ぼくも一緒に連れていって!」
突然の言葉に驚いた友絵は、こう返した。
「それはすごく嬉しいけど、でもイエイヌちゃんはこの家でご主人を待っているんじゃ」
「本当はわかっているんです。ご主人はもう……」
イエイヌの言葉を遮るように、友絵はこう言った。
「そんなことないよ!きっと忙しくて帰りが遅れてるだけだって。だから、そんな顔しないで、ね」
今にも泣き出しそうな顔をしていたイエイヌの頬を、友絵は優しく撫でた。イエイヌの決心は固かった。
「ご主人の帰りを待つのも大切ですけど、ともえちゃんのことがすごく心配なんです。だから、ぼくで何かお役にたてることがあれば、付いていきたいんです」
純粋な瞳で自分を見つめるイエイヌに対して、友絵も心を決めたのであった。
「うん、ありがとう、一緒に行こう」
イエイヌが旅に出る支度を整えてリビングに戻ってくると、友絵はある提案をした。
「そうだ、もし家を留守にしてるときにご主人が帰ってきたときのために、書き置きを残しておこうよ」
「カキオキ?ってなんですか」
友絵はスケッチブックの白紙のページに、すらすらと文字を書き始めた。
「この紙に、今家を留守にしてます、って文字を書いてテーブルに置いておけば、帰ってきたときご主人も心配しないでしょ。そうだ、せっかくだから……」
友絵は書き置きの文字の余白に、虹色のペンで絵を描き始めた。
「何を描いているんですか?」
「ちょっと見ててね。すぐにわかるから」
虹色のペンを使うのは初めてだったが、何故かその使い方が友絵の頭の中に浮かんできた。そのペンは、友絵が心の中で思い描いた色をスケッチブックに光る軌跡として写し出していく。完成した絵を見たイエイヌは、感動を露にしてこう言った。
「うわあ、すごいです。これ、ぼくとともえちゃんの絵だ!キレイだなぁ」
「初めて描いてみたんだけど、結構上手く描けてよかった」
スケッチブックの書き置きをテーブルの上に置いた後、イエイヌが友絵にあるものを手渡した。
「これ、もし良かったらどうぞ」
「え、でも、この家の物なのに、いいの?」
手渡されたのは、片側に青い飾り羽根が付いた水色のサファリハットと、青と黒の色がセパレートになったショルダーバッグだった。
「外に旅に出るなら、必要ですから。それに、ヒトに使ってもらった方がいいのかなぁと思って」
「そっか、じゃあお言葉に甘えて、大切に使わせてもらいます」
イエイヌは嬉しそうに尻尾を振りながら、ハッと何かに気づいて、玄関から黒いブーツを咥えてもどってきた。
「あはは、ありがとう」
旅立ちの支度を終えた二人は、玄関のドアを開き、家を後にした。イエイヌは一度だけ家の方を振り返り、そして友絵の方に向き直してこう言った。
「さあ、一緒に行きましょう。ともえちゃん」
小さな勇気を込めたその言葉に、友絵は笑顔で頷くのであった。
≫つづく。
次回「雪のあしあと」