◇
突如響いた爆音。直後、俺たちが乗っている観覧車の箱は左右に激しく揺れ、俺は反対側の窓に身体を叩きつけられた。
受け身など取れるわけもなく、激突した左腕と背中に痛みが走る。両親たちの状況を確認しようとするが、箱が揺れている所為で視界が何も捉えてくれない。
「おかーさんっ!? おかーさんっってば! 返事をしてくださいっ!」
揺れが多少治まり、ハッキリと目が物を捉えられるようになったと同時に聞こえてくる焦った声。何とか首だけを横に動かし、そこに目を向けた。
「なんで私を庇ったりしたんですっ。私は大丈夫だったのに、どうしてっ!?」
見えたのは、箱の床に倒れる母親に向かって必死に声をかけている魔法使いの姿。母親の額には血が滲み、垂れたそれが白い肌を伝って細い腕を赤く染めていた。
その母親の足元に覆いかぶさるように倒れている親父は、かろうじて意識を保っている。
鳴き声が聞こえ、その方向へ目を移す。俺が座っていたはずの座席の上。そこに、みかんが短い四本足で立っていた。どうやら怪我は無いように見える。
だがみかんは窓の外を見つめながら、全身の毛を逆立たせていた。
「…………まさか」
異常に気づいた魔法使いは窓の外を凝視しながらそう呟き、俺もその視線を追うように、夕暮れに染まっていたはずの外の景色を目に映す。
けれど、そんなものはどこにも無かった。
「……んだよ、あれ」
この目が映し出しているのは、灰色の空。そして、俺たちが乗る観覧車の周囲を取り囲むように、羽が生えた無数の黒い
「やられました。まさか、こんなタイミングを狙って来るだなんて」
そう言いながら、苛立つように自分の前髪を右手で握り締める魔法使い。
こいつがこんな顔をするだなんて──じゃない。今はそんな事よりも大事な事がある。
「しっかりしろクソガキっ。この状況が理解できんのはてめぇしかいねぇんだろっ!?」
倒れたままそう叫ぶと、見開かれた緋色の目はこっちを向いた。もしかしなくてもこいつは今、我を忘れていた。どんな物事でもムカつくほど冷静に対処してきたこの女が、初めて俺に油断を見せた。つまり、これはそうなってしまうほどヤバい状況なんだろう。
「…………分かりました。ですが、その前にひとつ聞いてください」
魔法使いは抱えていた母親を床にそっと寝かせ、立ち上がる。
それから閉ざされていた観覧車の箱のドアを何かの魔法でぶっ飛ばした。
「あの魔物たちは、私を連れ戻しに来たんです。この前、公園に現れた二匹の魔物も目的は同じ。あれは、私を元の世界に連れ帰るために召喚されたんです」
服装を魔法少女モードに変化させ、右手の赤いステッキを握り締めながら、早口にそう説明した。すると開け放たれた観覧車の箱の外から、何かが聞こえてくる。
『ヒメサマ──ヒメサマッ』
『ワスレダマ──ワスレダマッ』
観覧車を囲っているデカい蝙蝠のような化け物たちは、気持ち悪い声でそう言っている。『姫さま』、『忘れ玉』と聞こえる気がするけど、それで合っているのかは分からない。
「……連れ、戻しに?」
「はい。勝手にいなくなった私を、世界を越えて追って来たんです。魔法が使えない人間しかいないこの世界に、あんな魔物なんかを引き連れて」
無くなった扉の前に立ち、前を睨みながら唇を噛む魔法使い。それがどういう意味なのか訊ねようとした時、誰かが俺よりも先にその言葉に返事をした。
『────その通りでございます』
声の方向へ目を向ける。だが、そこには何も無い。
意味が分からず声が聞こえてきた場所を見つめていると、不意に白い光が宙に浮かび上がった。その光はしばらくして人の形へと変わり、やがてそこから一人の影が身を現した。
「…………なんで、あなたが」
「お久しぶりでございます。こうして顔を合わせるのはいつ以来でしょう」
空中に浮かんだまま頭を下げてくるのは、背の高い一人の男。白い制服を纏い、銀色の剣を腰に差している。さらりと長い髪の色は、俺の前にいる魔法使いと同じ金色だった。
「知りません。そんなのどうだっていいでしょう。さっさと失せてください」
「そういうわけにはいきません。そんな事をすれば私が国王様に叱られてしまいます」
「いいから早く帰りなさい。私が怒って、煩い口がついたその顔を弾き飛ばす前に」
金髪の女がそう言った途端、背中に寒気が走る。今のは何だ。武者震い? ちがう。そんな生易しいもんじゃない。今のはたぶん、この女が出した────殺気だ。
「やはり一筋縄ではいきませんか。そうだと思って魔物たちを連れてきたのですが」
「聞こえなかったんですか、グラウス。早く魔物を連れて帰りなさい。これ以上この世界に留まるというのなら、本当に容赦はしませんよ」
殺気を出しながらそう語る金色の魔法使い。だが、グラウスと呼ばれたあのルックスの良い男は、その忠告を聞いても表情ひとつ変えなかった。
「ですから、そういうわけにはいかないのです。本当はご自身でも分かっているでしょう? あなたは今、禁忌を犯している罪人です。いくら国王の娘だとしても、その罪を無かった事にはできません。いや、むしろそれを犯したのがあなただからこそ、正しく裁きを加えなければならないのです。それに、あなたは私がただでは帰れない事を知っているはずだ」
白い制服の男はこちらに歩み寄りながら言う。
そして、奴はニヤリと口元に笑みを浮かべて再び口を開いた。
「改めてお告げします。あなたは城から秘宝を持ち出し、世界を越えるという大禁忌を犯した。私には、罪人を連れ帰る義務がある」
白い制服の男は両手を拡げ、目線の先に立つ魔法使いに告げた。
「さぁ、帰りましょう。こんなくたびれた世界の薄汚い空気を、これ以上あなたに吸わせるわけにはいきません。そうでしょう────ノーライナ姫」
「…………姫?」
白い制服の男が口にしたその言葉が、何故か頭に引っかかった。
「…………私は、帰りません」
「なぜです姫さま。あなたが生きるべき場所はこんな世界ではない。今すぐ国に戻り、次の戦争の準備をしなければならない。それが、姫さまに与えられた使命なのです」
グラウスと呼ばれた男がそう言った直後、金色の魔法使いは大きな舌打ちをした。
「うるさい。そんなのどうでもいいんです。私はもう、あの城には帰らない」
「お言葉ですが姫さま。それは我が儘というものです。あなたには国と城を守る義務がある。だと言うのに、その責務を投げ出し、挙句の果てにこんな世界に逃げ込むとは。国王様と女王様がお怒りになる気持ちもよく分かります」
少女の頑なな言葉を聞き、グラウスは呆れるような顔を浮かべる。
「姫さまが城から逃げてから、あのお二人は血眼になって『姫を探せ』と騎士たちに命令しました。そして私たちはこの二か月間、世界中を探し回りました。それでも手がかりひとつ掴めなかった。魔力の残滓すら残さず、あなたは煙のようにどこかへ消えてしまった」
「…………」
「ですが、ひとつだけ不可解な事がありました。城の地下に封印されていた三つの宝玉が無くなっていた。あの秘宝を外部に持ち出す事は、絶対の禁忌とされているというのに」
グラウスは右手を上げ、その人差し指をこちらへ向けてきた。
「それでもしや、と思ったのです。姫さまは禁忌を犯し、なおかつそれを越える大禁術を使ってしまったのかもしれない、と。どうやら、その推理は正しかったようですね」
この女の腰には、白いベルトのようなものが巻かれている。
そこに付けられた三つの透明な玉。おそらく、グラウスはそれを指差していた。
「おい、どういう事だ」
俺が声をかけても、魔法使いの女は前を向いたまま固まっている。ただ金色の髪だけが前方から吹いてくる冷たい風に嬲られ、ゆらゆらと揺れていた。
「おい」
「…………ごめんなさい。私はやっぱり、皆さんと一緒にはいられません」
もう一度声をかけると、そんな言葉が零される。親父と母親が聞いているかどうかは分からないけれど、少なくとも俺にはその声が耳に届いている。
「そして、これから少しだけ怖い思いをさせてしまいます。でも、安心してください。皆さんは私が絶対に守ります。何が起きても、あなたたちだけは──必ず」
前方へ突き付けられる赤いステッキ。
それを見て、白い制服の男は予想通りだと言うようにこくりと頷いた。
「やはりそうする事を選びますか、姫さま」
「黙りなさい。こうなってしまった以上、あなたを倒す以外にこの人間たちを守る方法はありません。あなただって、それを覚悟してこの世界に来たんでしょう」
「さぁ、何の事やら。私はただ、そこにいる人間を殺した上で、姫さまを連れ帰る事だけを考えておりました。そうしなければならない理由が、私にはありますから」
グラウスは腰に差した銀色の鞘から剣を抜き、それをこちらに突きつけてきた。
今度はこの女じゃなく、後ろにいる俺たちに向かって。
「グラウス。あなたはもしかしなくても、私を監視していたんですか?」
「もちろんです。いくら人間といえど、無駄な殺戮は行いたくはありませんから」
剣の切っ先を俺たちの方へ向けたまま、グラウスは言葉を続ける。
「姫さまが城から持ち出した宝玉は三つ。ならば、あなたが姿を見せた人間は少なくとも三人。この数日間でその仮説は確信に変わりました。姫さまは、その三人の人間にしか姿を見せていない。だから、私が殺す人間はそこにいる三人だけでいい。そうでしょう?」
男はそう語り、また口元に笑みを浮かべる。それを見た瞬間、何故か全身に鳥肌が立った。
「…………ふざけないでください。あなたなんかに、この人間たちは殺させません」
「ほう。『戦場の邪神』と呼ばれた姫さまが、まさかそこまで人間に執着するとは。これは私も予想外です。しかし、姫さまが命を賭ける価値はその人間たちには無い」
「あなたにはその価値は分かりませんよ。あなたは、この世界を見くびっています。人間が支配した
「ですが、そこにいるのは力を持たない動物ではありませんか。そんなゴミを気に入る意味が分かりません」
金髪の男がそう言った瞬間、身体に熱が帯びてくる。
ああ、間違いない。あいつは俺を馬鹿にした。俺だけじゃなく、俺以外の人間も。
「あなたには一生分からなくていい。ただ、私は何度でも言います。この世界は美しい。人間も、猫という可愛い動物も。今の私にとってはそのすべてが、かけがえのない宝物なんです」
魔法少女はそう言ってから、戦闘態勢に入るように重心を下げる。
それを見て、グラウスと呼ばれた男も銀色の剣を両手で握り締めた。
「カイトさん」
名前を呼ばれ、顔を上げる。数秒の間を置いて、声は聞こえてきた。
「これが終わったら、私はあなたたちに全部を話します。だから、今はどうか見守っていてください」
「…………いいのか?」
「これは、私が招いた災厄です。その落とし前は
馬鹿みたいな事を言われたが、その気持ちは伝わった。
「よく分かんねぇけど、怪我はすんじゃねぇぞ。このバカ親共がうるせぇからな」
そう言ってみせると、金髪の少女はふっと笑う。
「観覧車が下まで戻ったら、皆さんを連れて逃げてください」
「無茶言うな。この状態でそんなもんできるわけ」
「それは分かっています。私を誰だと思っているんですか? ─
無茶振りを否定すると声が被せられ、それと同時に薄緑色の光が全身を包み込んだ。
「こうすれば、カイトさんなら二人とみーちゃんを連れてでも逃げられますよね」
「てめぇは何回、俺の身体を改造すりゃ気が済むんだ」
「カイトさんがお望みなら何度でも。でもごめんなさい。本当は二人にもかけてあげたいですが、これ以上魔力を無駄に出来ないので、今はカイトさんだけで許してください」
自由になった身体を起こし、前に立つ小さな背中を見つめた。
「遊園地の周りには結界が張られていますが、カイトさんの全力パンチを当てれば壊れるはずです。そこから外に出れば、あの男も魔物も追ってきません」
金色の魔法使いは俺に向かってそう言った。だけど。
「てめぇはどうすんだ」
「私は、あの男を倒してから家に帰ります。カイトさんたちは先に帰っていてください」
「本当に」
大丈夫か、と言いかけた時、緋色の目はこちらを向く。
「大丈夫ですよ。この世界で私が帰れる場所は、あの家しかないんですから」
そう言い残し、魔法使いは観覧車の外へと飛び出して行く。向かう先は空中に浮いて待ち構えていたグラウスとかいう男。奴らが戦う理由は分からないけれど、あの女が俺たちのために戦ってくれている事だけは分かった。だから今は、あいつの言う通りにする。
「親父」
「魁、人…………ノラちゃんは」
「あいつは大丈夫だ。それより今はお袋の方がやべぇ。とにかく、ここを出て早く帰るぞ」
母親は倒れたまま動かない。息はしているようだが、ここでは応急処置すらままならない。
「そうか…………ごめんな」
「なんで謝んだよ。悪いのはあんたじゃねぇだろうが」
そう言うと、親父は首をゆっくりと横に振った。
「そうじゃない。魁人に相談もせず、ノラちゃんにあんな事を言ってしまって」
それから、うわ言のように親父は謝罪を繰り返した。でも、今はそんなのどうだっていい。
やがて観覧車は地上に到着し、意識の無い母親を背負い、同時に親父に肩を貸してやって地面に降り立った。みかんはリーゼントの上に乗っている。
「頑張れよ二人とも。あと少しだからな」
そうして数分かけて俺たちは門の前まで到着する。
あいつが言っていた通り、ここには結界という見えない壁が張られているらしい。
「ちょっと離れてろ」
親父と母親を地面に座らせてから、助走をつけてその結界を全力で殴る。すると、拳が当たった箇所に罅が入り、やがて人が通り抜けられるくらいの穴が開いた。
再び両親を抱えて歩き出す。そして、そこを出る前に一度後ろを振り返った。
姿は見えないけれど、まだあいつが戦っているのは確か。それを無視して自分たちだけが逃げ帰る。それを思うと、何故か心が痛んだ。俺なんかが力になれないのは分かってるのに。
でも、あいつは必ず帰って来ると言った。帰って、俺たちにすべてを話してくれる、と。
だから、今はその言葉を信じて安全な場所に逃げる。家に帰って、あいつの帰りを待つ。
「…………先に帰ってんぞ」
灰色に染まった遊園地に向かってそう言い残し、俺は両親を連れて結界の外に出る。
その直後、『すぐに帰ります』という誰かの声が聞こえたような気がした。