◇ Interlude
校舎の脇に停めてあった黒いセダンにエンジンがかかる。運転席に座るのは、サングラスを掛けた中年の男。彼はアクセルを軽く踏みながら、目線の先にいる黒い魔物に目を向けた。
「…………あれの注意を惹いて、校舎の前まで誘い込む」
ステアリングを指で擦り、先ほど金色の少女に課された指示を呟く。
それから彼は窓の外に顔を出し、ルーフの上に乗る女性に向かって言った。
「何だか懐かしいね、ママ。追ってくる何かから車で逃げるのなんて、何年振りだろう」
「そうね、二十年くらい経ったかしら。ついこの間の出来事みたいに思えるけどね」
中年の女性はそう答え、巨大な魔物を見つめた。彼女の手には一挺の弓矢が握られている。
「…………パパが引き寄せたら、あの両目を矢で射る」
それから、運転席にいる男性と同じように少女に課された指示を唱える。
夫婦は互いに深呼吸をし、再び魔物へと顔を向けた。
「行くよ、ママ。振り落とされないように注意してね」
「分かったわ、パパ。いつでもどうぞ」
ハイビームを点灯し、発進する車。
そうして校庭に姿を現し、百メートルほど離れた魔物へと高速で接近していった。
「さぁこっちだでっかいの! その遅い足でついてきなっ!」
魔物の足元に接近し、運転手は車体を百八十度回転させ、クラクションを鳴らす。必然、その存在に気づく魔物。
「気づいたわパパっ!」
「了解! じゃあ飛ばすよっ!」
ルーフの上に立つ弓使いからの指示を受け、運転手はギアを入れて再度車を発進させる。
向かうは校舎の中央。そこに魔物を惹きつけるために。
先ほどまではゆっくりと歩いていただけの魔物。だが、ターゲットである車を見つけて叫び声を上げた瞬間、ただの歩行から走行へと移動の速度を切り替えた。
「速いっ!?」
「追いつかれちゃうわパパっ!? もっとスピードを上げてっ!」
徐々に近づく魔物と車の距離。このままでは数秒もせずにあの大きな足で踏み潰されてしまう。運転手はそんな最悪なイメージを頭に浮かばせた。
「…………ははっ、じゃあ。やるしかないか」
しかし、運転手はそう呟き、既に六速に入れたシフトノブへと左手を伸ばす。
これ以上のギアはこの車に存在しない。アクセルをべた踏みしても、速度は変わらない。だが。
「パパ! もうダメ! 限界よっ!」
弓使いの声が運転手の耳に届き、彼はふぅ、と一度息を吐いた。
そして、タコメーターの針が九千を指した瞬間。
「────入れッ! 幻の七速ッ! スピードの向こう側ァッ!!!」
左足で勢いよくクラッチを踏み込み、シフトノブを手前に傾けた。
がこん、という音とともに急加速する黒のセダン。
速度メーターは限界を振り切り、接近していた魔物からみるみると距離が空いていく。
「すごいわパパ! やっぱりパパはカッコいいっ!」
「ふふっ、惚れなおすのは早いよ。今度はママの番だからね」
肩で息をしながら妻の声に応える夫。その言葉を聞いた弓使いは車体の上に立ち、弓を後ろから追いかけてくる魔物に向けて構えた。
「…………そうね。なら、次は私がパパを惚れなおさせてあげる」
弦を引き、迫ってくる魔物の両眼に狙いを定める。チャンスは一度。一本を当ててから次の弓を弾くまでの猶予は残されていない。魔法少女の指示は、一度の射で魔物の両眼を潰せ、というもの。そんな離れ技を、彼女は不安定なルーフの上で成さなければならない。
「…………ノラちゃんのためよ。大丈夫、できるわ」
静かな声で自分に言い聞かせる弓使い。
現役時代、流鏑馬の名手として知られた彼女は、巨大な赤い目を狙って弓を引いていた。
そうして車と魔物が校舎へと近づく。その距離、三百メートルほど。
車の速度が限界突破した今、それだけの距離を詰めるのにそう時間はかからない。
「ギリギリまで引き寄せるよママ! あと三秒っ!」
運転手の声を聞き、弓使いは心の中でその秒数を数える。
ルーフの上に吹く強い夜風。靡く黒髪と、震える指先。
心身を集中させ、数十年という年月が忘れさせた弓の感覚を呼び覚ます。
普段の状態ならば、普通の人間ならばそんな事は容易では無いだろう。しかし、彼女が持つ弓には文字通り魔法がかかっている。それをかけてくれたのは他でもない、愛する居候の魔法少女。
彼女のために、家族のために。
「──今よっ!」
そして車が校舎に激突する寸前、矢は放たれる。
闇を切り裂き高速で魔物の目へと向かったその二本の矢。
それは思惑通り、眼球を貫いた。
「…………あら」
しかし、弓使いに見えたのは、矢が
それを見て、彼女は困ったような微笑みを浮かべた。
「お母さんも腕が落ちたわね。やっぱり歳かしら?」
そして、痛みに暴れ悶える魔物の腕が、車に向かって振り下ろされた。
Interlude End
◇
「親父っ、お袋ォ──っ!」
母親が放った矢が目に突き刺さった瞬間、突如として暴れ始めた魔物。屋上からではよく見えなかったが、魔物が暴れ出して数秒経った後、あの二人が乗る車は爆発し、校舎の前にある花壇を燃やした。確実に分かるのはあんな状況で二人が無事ではない、という事実だけ。
「くそッ!」
「ダメですカイトさんっ。あなたが下に戻ったら私を守る人がいなくなりますっ!」
屋上から降りて二人のもとへと向かおうとした時、白い魔方陣の中で呪文のようなものを詠んでいた魔法少女がそう言ってくる。
「でもっ!」
「あの二人なら大丈夫ですっ! 今はとにかく私の所から離れないでくださいっ。カイトさんはおとーさんとおかーさんの努力を無駄にしたいんですかっ!?」
その言葉を聞いて、少しだけ冷静になる思考。俺は動こうとする両足をなんとか踏み止まらせた。
「ならてめぇも早くしろっ!」
「無理言わないでくださいっ。あの大きさの魔物を倒すのに、どれだけの魔力を練る必要があると思ってるんですかっ!?」
焦る俺に向かって叫んでくる魔法少女。あいつもあいつなりに焦っているのがその声を聞いて分かった。
余程ひどい痛みを感じているのか、けたたましい叫び声を上げながら暴れている魔物。目の辺りを押さえながら、奴は遂にそのデカい片方の手で校舎の一角を吹き飛ばした。必然、屋上にいる俺たちにもその振動は伝わってくる。
「…………少しマズいですね。あの魔物はまだ片目が見えている。両目を潰せれば、この魔法を絶対に当てられる自信があったんですが。このままでは」
魔法少女は両手を前に突き出しながら悩むような声を零す。
こいつが両親に頼んだのは、あのデカブツをこの校舎の付近まで引き寄せた上でその視界を奪う事。そうすれば確実に倒せる、と言った。
だが結果的に片目だけが残ってしまった。その所為で魔物は暴れ、両親が乗る車は破壊された。
「どうすりゃいい」
「仕方ありません。このままいきます。皆さんのおかげで魔力は十分です。これを当てれば、どれだけ大きな魔物であっても一撃で倒せます」
魔法少女は俺の方を見て、
そのいつも通りの仕草を見て、こいつがそれに対して不安を抱いている事に気づいた。
「でも、絶対とは言えねぇんだろ」
「…………どうして分かるんです」
「バーカ。てめぇの嘘は分かるっつったろ。で、俺は何をすりゃいい。いいから早く言え」
そう言うと、魔法少女は図星といった顔を浮かべた。
それから少し時間を空けて、奴はその小さな口を開く。
「…………先ほども言った通り、あの魔物の残った目を潰せば絶対に倒せます。これは嘘じゃありません。ただ、どこに当ててもいい、というわけじゃないんです。狙うのは、心臓。そこにこの魔法を当てる事ができればいいんです」
「そうか。んなら」
「え……カイトさん?」
俺は足元に落ちていたグラウスの剣を拾い上げる。
「用は俺があいつの目ん玉をぶっ潰してくりゃいいんだろ? んだよ、超簡単じゃねぇか」
思いついた考えを軽い感じで口にしてみる。俺にはこれくらいしか思い浮かばなかった。割とマジで言ったのに、後ろからは否定的な意見が飛んで来る。
「な、何を言ってるんですかっ。そんな事ができると、本気で思ってるんですかっ!?」
「思ってっから言ってんだよ。それとも、それ以外にあの化けモンに勝てる手段があんのか? あんなら言ってみろ」
振り向き、真面目な顔を浮かべて俺を見ていた魔法少女に問いかける。
すると奴は少し目を見開き、それから黙ったまま左手で前髪を触った。
ほら見ろ。やっぱ無いんじゃねぇかよ。
「いいからてめぇはその魔法とかいうのを使う事に集中してろ。行くぞ、みかん」
「なっ、待っ──! カイトさんっ!」
頭に載ってるみかんのにゃー、という返事を聞き、俺は剣を握り締めて走り出す。
後ろから聞こえて来た魔法少女の静止の声はもちろん無視した。
フェンスが吹っ飛んでいた箇所を見つけ、そこから飛び降りる。その真下にあるのは未だに暴れている魔物のデカい腕。この行動の結果がどうなるかなんて考えない。行き当たりばったり? 上等だよ。とにかく、今はあの化け物の目を潰す事だけを考えろ。
「っ、と」
魔物の腕に着地する。だが、母親が放った矢で片目を穿たれた魔物はその痛みに悶え続けているため、足場がなかなか安定しない。
視線を上げると、かなり上方に赤い玉のようなものを見つけた。たぶん、あれがこいつの目玉。振り落とされないように気をつけながら、魔物のごつごつした肌の上を走り出した。
「暴れんじゃねぇ!」
魔物の暴れ方には波があり、時おり握った剣を足元に突き刺して振り落とされないように踏ん張った。その揺れが治まったのを見計らい、目に向かって腕を駆け上がる。
それを何度か繰り返して何とか肩の付近まで辿り着き、赤い瞳をすぐそばに見た。よし、これなら何とかなる。
そう自分に言い聞かせた時、頭の上から聞こえてくるみかんの鳴き声。
「な──っ!?」
その瞬間、俺の両腕以外の体幹は魔物の手に握り締められた。
身体を捻じってどうにか脱出を試みるが、こんな馬鹿デカい奴に掴まれてそう簡単に抜け出せないのは自明の理。案の定、徐々にその握力は強くなってくる。
身体が軋む音が聞こえ、同時にどこかの骨が折れる感じがした。魔法をかけられているおかげで何とか生きているが、それでもこの状況はマズい。いくらあいつの魔法でも限界はある。
だったら、どうすりゃいい。どうにかしなければ俺はこのまま握り潰されて死ぬだけ。せっかくここまで来たってのに、それで終わってたまるか。
「みか、ん……っ!」
俺は自由な右手で頭の上に載った三毛猫の首の後ろを掴み、顔の前に持ってくる。
こうなりゃ一か八かだ。何度も命を救ってくれた
俺が考えている事が、ただの捨て猫に伝わるかどうかは分からない。
でも、あのクソガキに育てられたこいつなら、この意思が伝わってくれると信じる。
「あのクセェ口ん中に、これを放り込んで来い!」
それから胸ポケットに入れていた小瓶を咥えさせ、みかんを魔物の腕の上に置いた。
すると三毛猫は俺に言われた通り、くるりと踵を返して黒い肌の上を駆けて行く。
あれがこのデカブツに効く保証は無いけれど、今は賭けるしかない。
『私がいた世界に住む生物はみんな、辛いものが食べられないんですっ!』
あの女を後悔させるために持ち歩いていた、悪魔のスパイス。
これを口の中にぶち込めば、きっとどうにかなってくれるはず──!
「みかんっ!」
叫んだと同時に、魔物の口角に着いたみかんはその口の中に小瓶を放り込む。
そして、途端に動きが止まる。
数秒の沈黙。
心の中でダメか、と思いかけた時、魔物は再び動き出した。
「うぉ────ッ!?」
魔物は掴んでいた俺を上空へと放り投げ、口から火を吹きながら暴れ始める。
あの小瓶が効いたのかどうかは知らない。だが、この位置なら間違いなく当てられる。
空中で体勢を整え、落下していく場所へと握り締めた剣の切っ先を向ける。
重力に逆らわず落下し、その勢いのままがら空きの目玉に剣を突き刺した。
直後、悲鳴のような声を出しながら後退って行く魔物。
視界を奪われた所為で平衡感覚すらおかしくなったのか、奴は両手で目を押さえたまま校庭の中心へと下がって行く。
宙に浮くこの身体。
暴れ出した魔物に振り払われ、あえなく地面に向かって落ちて行く途中だった。でも、役目はしっかり果たした。
あとは。
屋上に立つあのクソガキに、すべてを託すだけ。
「行けぇ────ノラァッ!!!」
空中で叫んだ瞬間、魔物に向かって白い光線のようなものが屋上から放たれた。
続いて聞こえてくる魔物の悲鳴。
そして。
「
誰かの偉そうな声が耳に届き、ちょっとだけムカついた。
◇
「────魁人っ、起きて魁人っ!」
「あ。見てママ! 魁人が気づいたよっ」
耳元で名前を呼ばれながら身体を揺さぶられている。
それに気づき、俺は目を開けた。
「魁人ぉっ! よかったわぁっ!」
「んぉ!?」
直後、寝そべっているこの身体を母親が抱き締めてくる。
「よかったっ、生きていてくれてよかったっ」
傍らで泣いている親父。
それを見て、なんとなくこの状況を理解できた。
「…………あぁ」
俺たちはあの魔物に勝って、その上でみんな生きている。
それだけ分かれば、今は十分だった。
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