◇
それから俺たち三人は屋上へと向かう。
起きた時、近くにみかんがいなかったのは気になったけれど、屋上に着いたらすぐにその理由も分かった。
「………………ノラちゃん」
遠くの山から顔を出した朝日と、その方向を向いて立ち尽くしている一人の女。彼女の頭の上には一匹の猫が乗っている。
母親が名前を呼ぶと、奴はゆっくりとこちらを振り返った。
数秒間、静寂が明け方の屋上に流れる。
しばらくの間、俺たち主藤家三人と、その一員になり損ねた魔法少女は、何も言わずに見つめ合った。
「お疲れさまでした。これでもう、あなたたちが命を狙われる事はありません」
そして、魔法少女は静けさの中に言葉を零す。
「あなたたちには、最後の最後まで迷惑を掛けてしまいましたね。ありがとうございました。勝つ事ができたのは、間違いなく皆さんのおかげです」
逆光で顔を隠す魔法少女は、そんな風に感謝をしてくる。
でも、俺たちにとってはそんなのどうでもよかった。
「これで何も思い残す事はありません。皆さんが私を忘れれば、私は元の世界に帰れます」
魔法少女はそう言ってベルトに付いた三つのワスレダマを外し、それを自分の前に浮かべる。
「ノラちゃ」
「皆さんと過ごす時間は、とても楽しかった。元の世界にいたままでは、一生かかってもあんな日々を手に入れる事はできなかったでしょう。それくらい…………充実した毎日でした」
親父の声を遮るように、自分の言葉を並べる魔法少女。
「でも、これ以上ここにはいられません。私は、
魔法少女がそう口にした途端、俺の両脇に立つ両親が息を呑むのが分かった。
「だから、これでさようならです。皆さんは私のすべてを忘れて元の生活に戻り、私は元の世界へと帰る。これは、たったそれだけの事です。何も悲しくはありません」
魔法少女はそう言って、風に揺れる金色の前髪を触った。
「本当にありがとうございました。…………では」
「ノラちゃん──っ!」
魔法少女が何かをしようとした時、右隣に立っていた母親がその名を呼んで一歩前に出る。
まだ朝日の影になって奴の顔は見えないが、奴が驚いているのは何となく理解できた。
母親は少しの間、言葉に詰まっていた。
それはきっと、地面に零れ落ち続けている涙の所為。
「行かないで…………ノラちゃん」
それから絞り出すような声で母親は言い、手で顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
気づくと、左隣に立っていた親父も腕を目に押し付けていた。
母親の涙声を聞いて、魔法少女は下を向く。
その時、ちょうど太陽に雲がかかった。
「どう、して」
そして、次に奴が顔を上げた時。
「どうしてそんな事を言うんですかっ!?」
魔法少女はやっぱり────泣いていた。
「私だって本当は帰りたくない! 皆さんとずっと一緒にいたいっ! 私を忘れてほしくないっ! そんなの当たり前じゃないですかっ!?」
涙を隠さずに叫ぶ魔法少女。
悲しんでいるのが自分たちだけだと思い込んでいた俺たちに、その思いをぶつけてくる。
「姫としての責務? どうだっていいんですそんなものっ! 私は、あんなくだらない世界になんて帰りたくないっ。この素敵な世界で、皆さんといつまでも一緒に生きていたいんですよぉ……っ」
魔法少女はそこで言葉を切り、零れてくる涙を拭いた。
そうして何度か嗚咽を繰り返し、それが落ち着いてから静かに声を零す。
「…………分かってください、おかーさん。私も同じ気持ちなんです。でも、それは許されない。私はやっぱり、帰らなくちゃならないんです」
目を潤わせて唇を噛みながら語る魔法少女。彼女が本当にこの世界で俺たちと暮らしたいと思っているのは、その表情から痛いくらい読み取れた。
それでも、奴は最後まで自分の意思を貫いた。
「皆さんと出会えてよかった。皆さんが私の事を忘れても、この世界で過ごした日々を、私は忘れません。だから、これでいいんです」
そう、自分自身に言い聞かせるように言ってから、魔法少女は振り返った。
再び顔を出した朝日を見つめて、奴はその場に立ち尽くす。
「カイトさん」
そして、前を向いたまま俺の名前を呼んで来た。
「…………んだよ」
「そういえば、私がカイトさんを主に選んだ理由、伝えていませんでしたよね?」
俺は何も言わず、聞こえてくる続きを待った。
「あの日。通りすがりの人間の中からあなたを選んだのは、あなたの在り方が私と似ていたからです。数多の人間の中で、カイトさんは誰よりもこの世界の物事をくだらなそうな目で見ていた。それは、他人が生きている事も、自分が生きている事でさえも」
「…………」
「だからこそ、あなたとなら分かり合えると思った。私と同じ目でくだらない世界を見ている、私と同じ────捻くれ者の、あなたとなら」
ただ、と魔法少女はその言葉に言葉を付け加える。
「この世界はあなたが思うほど、くだらなくありません。これは異世界からやって来た私だから言える事です。ここはまだまだ捨てたものじゃない。あなたが生きる価値は、確かにあるんですよ」
賛同するように、奴の頭に乗るみかんがにゃんと鳴いた。
「だから、カイトさん。あまり世界に向かって中指ばかり立てないでください。あなたの指は、そんな事をするためにあるんじゃないんです」
魔法少女は少し間を置き、半身になってこちらを向いた。
「それは、おとーさんとおかーさんがくれた────かけがえのない、宝物なんですから」
そして、優しく微笑みながらその言葉を紡いだ。
「…………最後に。カイトさんに、ずっと言いたい事があったんです」
魔法少女はこちらを見つめながらそう言ってくる。
俺は頷き、奴に訊ねた。
「なんだよ」
その問いを聞いて、魔法少女は満面の笑みを浮かべた。
────柔らかな風が吹き、金色の髪が揺れる。
────同時に、三つの透明な玉から俺たちに向かって白い光が放たれる。
────ひときわ大きな光に包まれて行く、三毛猫と魔法少女。
────その姿が消える直前、奴は俺に向かって言った。
「その髪型、あんまり似合ってませんよ?」
「うるせぇバーカ」
そして、眩い朝日がくだらない世界を照らし出した。
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