第三十話
◇ Epilogue
「…………ん」
朝、起きる。自室のベッドの上。閉め切られたカーテンの隙間から細い朝日が差し込み、暗い部屋の中に微かな光を与えていた。
何でもない一日の始まり。今日も面倒くさい学校に行って、何もせずに時間を浪費する事だけが決まっている。その時間を出来るだけ短くするために、朝はゆっくり目覚めるのが俺の習慣。
「あ?」
だというのに、壁に掛けられた時計の針は六時半を指し示している。
意味が分からない。なんで俺がこんな規則正しい時間に目覚めなければならないのか。
それと、腹の上に何も乗って無い事に対して違和感を覚える。
「……訳わかんねぇ」
たまにはこんな日もあるか、と自分に言い聞かせ、ベッドから起き上がる。
起きたばかりの部屋に誰もいない事が、何故か久しぶりなような気がした。
◇
それから階段を下り、顔を洗っていつもの髪型を作る。
これは俺が俺である証。誰に何を言われようとも、この
「あら、おはよう魁人。今日は早いのね」
髪型を作り終わり、時間を潰すためにリビングへ向かった。するとそれに気づいた母親が声をかけて来る。
だが、何も言わない。親とは口を利かない。これも俺の習慣だから。
「ああ、おはよう…………ん?」
なのに、自然と口が動いて母親に挨拶を返してしまう。
今のは完全に無意識だった。それを聞いた母親も、驚いた様子でこちらを見てくる。
「な、何でもねぇよ。こっち見んなクソババァ」
「そ、そう。ごめんね、魁人」
そう言っていつも通り距離を取り、俺はソファに腰を下ろしてテレビを点ける。
なんだ、今日は。いつも通りの自分じゃない気がする。こんなの、まるで。
「おはようママー……って、え?」
天気予報を眺めながらそんな事を考えていると、リビングに親父が入ってくる。
親父は俺の姿に気づくなり、おかしなものを見つけたような目をこちらに向けて来た。
「か、魁人もおはよう。今日は早いんだな」
親父に声をかけられるが、今度は意識的に無視をする。
だが、無視をする事に意識を向けている時点で、自分がいつもとは違うのは明らかだった。
親父はそれ以上何も言わず、食卓の席に腰を下ろす。
「あれ、新聞が無いな……」
途端、自分の周りをきょろきょろと見渡しながら独り言を言い始める。
その意味不明な動きを眺めていると、視線に気づいた親父は咳払いをしてから口を開く。
「魁人。早起きしたならお母さんの手伝いくらいしたらどうだ」
「は? うるせぇな。話しかけてくんじゃねぇよバーカ」
「なんだその口の利き方は。お前も少しはあの子を見習って────」
と、親父はそこまで言って言葉を止めた。
その会話を聞いていた母親が台所から顔を出し、親父に向かって問いかける。
「パパ。あの子って?」
「あ……ああ、なんでもないよママ。少し寝ぼけてた。眠気覚ましに新聞取ってくるよ」
親父は母親の質問を誤魔化し、空笑いしながらリビングから出て行った。
その奇妙な様子を見て母親は首を傾げ、気を取り直すように微笑みを浮かべる。
「朝ご飯できたわよぉ。じゃあこれを持って行ってくれる? ──ちゃん」
「…………」
「…………って、あれ? いま私、なんて」
今度は母親が訳の分からない独り言を言い出した。
口に出してから自分の不審さに気づいたのか、母親は口に手を当ててその場に立ち尽くしている。
そうしていると、新聞を持った親父がリビングに戻ってくる。
「ん? どうしたんだい、ママ」
「え? あ、ううん。なんでもないわ、パパ。それより、朝ご飯を食べましょう」
親父に声をかけられて我を取り戻す母親。その姿は誰が見たって不自然に思っただろう。
両親は二人で朝食を並べ、それから母親がこちらに向かって声をかけて来る。
「魁人、よかったら一緒に食べない?」
「あ? なんで俺が」
「ママの言う通りだ、魁人。たまには一緒に食べよう」
母親の提案を拒否しようとすると、親父も俺を誘ってくる。普段ならば無理やり拒んだところだが、今日は誰かに『早くしてください!』と急かされている気がして、何故か立ち上がってしまった。
「仕方ねぇな。今日だけだぞ」
「ふふ、よかったぁ」
舌打ちをしながらそう言い、食卓に座る。
それから嬉しそうな顔をしている母親は、誰もいない俺の隣の席に向かって言った。
「じゃあ、いただきますをしなきゃね」
その言葉がリビングに零された時、それがおかしい事に気づいた。
いや、ちがう。
こんなやり取りがおかしいのは、最初から分かっていた。
「…………なん、で」
この主藤家には三人しかいない。
それはみんな分かってる。
なのに何故、
「あれ? …………おかしいわ」
「ママ…………」
「どうして、泣いちゃうの……? 何も、何もおかしくないのに…………なんで?」
そう言って、涙を流しながら机の上に顔を押し付ける母親。
横で突然泣き崩れた母親の肩を優しく擦る親父の目にも、同じ滴が光っていた。
「分かってる。分かってるよ、ママ」
「昨日まで、誰かがそこに座ってたのよ? でも、それって誰なの? ねぇ、誰なのよぉっ」
声を上げて泣く母親を見て、俺の目からも自然と水が零れて来た。
嘘だろ。なんで、こんな奴らを見て泣かなきゃならねぇんだ。
なんでだよ。
なんで、俺の横には誰もいねぇんだよ。
「…………俺も、覚えてる」
でも、ひとつだけ思い出せる事がある。
俺は立ち上がり、泣き崩れる母親の横に移動する。
そして、親父の真似をしてその肩に手を置き、言った。
俺たちは、その誰かを拾ったんじゃない。
「俺たちはそいつに────
そうして俺たちは、昨日までそこにいた誰かの事を思い、ただひたすらに泣き続けた。
◇
「じゃあ、行ってくる」
玄関を開けて振り返り、並んで立っている両親に向かって俺は言った。
「いってらっしゃい」
二人は口を揃えてそう言い、涙の線が残ったままの顔で微笑んでくれた。
「…………あー」
その表情を見て少しだけ考え、それから似合わない勇気を出す事にする。
この髪型にしてから一度も口にしなかった彼らの呼び方。
確かに恥ずかしさはある。でも、今はそれより二人の事をそう呼びたくて堪らなかった。
だから、俺は言う。
知らない誰かが教えてくれた。
家族を大切に思う気持ちを笑顔に乗せて。
「行ってきます。お父さん、お母さん」
◇
──この心情を映し出すように、夏空は晴れ渡っている。
その美しい晴天を見上げながら、学校まで続く道を歩いた。
「待ってよお兄ちゃーんっ」
「早く行くぞっ、学校まで競争だぁ!」
そうして、いつか見た仲の良い兄妹とすれ違う。
立ち止まり、遠ざかって行くその二人の背中を見つめて微笑んだ。
どうせまた、くだらない毎日が続くのは分かってる。くだらない人間が住むこの世界で、その誰よりもくだらない自分も例外なく、くだらない人生を送って行く。
ただ今は、こんな景色が少しだけ綺麗に見える。
それはきっと、自分がほんの少しだけこの場所を許せたからなんだと思う。
なぜ許せたのかは、よく分からないけれど。
この世界はくだらない。それでも、生きる価値はある。
そう自分に言い聞かせて、今日も不良として生きてやろう。
そんな事を考えながら公園を歩いていると、近くからとある女の声が聞こえてきた。
「──まったくぅ。誰ですか、人間の記憶だけ消せれば元の世界に帰れるとか本に書いたの。姿を見られた動物の記憶まで消さなきゃいけないなんて、そんなの知りませんでしたよ、もう」
「…………」
「せっかく素敵な家族に巡り合えたっていうのに、これじゃあまた捨て魔法少女に逆戻りじゃないですかぁ。ねぇ、みーちゃん?」
にゃあ、という猫の鳴き声。
その方向に顔を向けると、また声が聞こえてくる。
「あーぁ、どこかに可愛い魔法少女と猫を拾ってくれる優しい人間はいませんかねぇ。別に、目つきの悪いやんきーさんでもかまわないんですが」
そこには段ボール箱の中に足を突っ込んで立っている金髪の女と、一匹の猫がいた。
その女は視線に気づき、こちらを向いて口を開く。
「あぁ、そこの変な髪型のお兄さん」
◇
これは本当につまらなく、且つ普遍的な一日の始まり。
そんなありきたりで代わり映えのしない日々に発生した、ただひとつのイレギュラー。
ここから始まる日常は、きっとウザいくらいに騒がしくて、それと同じくらい楽しいのかもしれない。何故かは分からないけれど、この第六感がそう叫び続けていた。
俺はそこにいる金髪に向かってメンチを切った。
だがやはり、奴が動じる事はない。
そして、その全身ピンク色の女はムカつく笑顔を浮かべて、言った。
これは────くだらない日々の中に訪れた、心底くだらない物語。
「よかったら、私を拾ってくれませんか?」
「あ?」
その日、俺は捨てられていた魔法少女に出会った。
捨て魔法少女とリーゼント
終