「よいしょっと」
まだ薄暗い明け方、一人の少女が井戸から水をくみ上げていた。手桶を二つ、水をたっぷり満たして持ち上げる。ここ何年かは母親に代わって、毎朝の日課となっており、初めこそ肩と腕がぱんぱんになったものだが、もう今では疲れた内にも入らない作業として身についていた。季節は春から初夏に移りつつあり、この仕事で唯一辛かった朝の冷え込みもだんだんと弱まってきており、今日のような天気のいい日は実に清々しい気持ちにさせてくれる。朝露に濡れる雑草を見ながら、そろそろ刈らないと、今年の小麦は生育が順調だ、などと考えることもだんだん大人のようになってきた。妹にも簡単な農作業を教え始めてもいいかな、とそんなことを思いながら、あと3往復をこなした。
「ああ、エンリ、今日もありがとね」
「いいのよ、お母さん」
手桶から水瓶に移しながらエンリはこたえた。母は朝食の準備をもうそろそろ終えようとしており、妹のネムは目をこすりながらテーブルについている。まだ仕事を教えるのは早いかな、と考えながら、父がいないことに気づき母に聞いた。いつもなら畑仕事の準備をしながら朝食を待っているはずなのだ。
「エンリが水汲みに行った後にラッチモンさんが来てね。何人かの男衆を連れて急いで出て行ったんだよ。何があったのかはわからなかったけど、ひどく急いでたわ」
「どうしたのかしら。井戸と広場の方はいつもと変わらなかったわよ」
まあどうしたのかしらね、と朝食を並べて早くも準備が整ってしまった。三日前に焼いたパンと野菜の切れ端のスープ、森の浅いところでもいできたまだ酸っぱい木の実がいくつか、といういつもと変わらない朝食だ。
「待っててもしょうがないから、さっさと食べちゃいましょ。仕事は待ってくれないからね」
お祈りを済ませて、早速食べ始める。一日を働ききるためのどうしても必要なものだが、毎日変わらないもの、特段おいしいものではないので最早作業のようにどんどん詰め込んでいく。母の食べる速度も速い。このあとの動きももう決まりきったいつもの繰り返しだ。畑に出て、作物の世話して、雑草を抜いて、薪を割って、薬草を干したり潰したり、日が落ちるまでできるだけの作業をこなしていくだけだ。
母はもう食べ終わり片付け始めていた。ネムはもう少しかかりそうで、母を手伝って片づけを進めていく。
「帰ったぞ!」
バン、と扉を開け放ち、小走りで父親が飛び込んできた。
おもむろにパンをポケットに詰め込むと、冷め始めたスープをガブガブと口に流し込んでいく。ネムがぽかんとそれを眺めていた。
「どうしたのよ、あなた。何かあったんだね?」
「・・・んぐ、村の外れにモンスターがでた」
皆がはっと息を飲んだ。口に手を当てたまま、スープを食べ終えた父親の言葉を母と姉妹はじっと待った。
「ひとまずは大丈夫なんだ。そのモンスターはひどくボロボロな状態で森から出てきて、村に入る前に息絶えていたようだ。でもな、今まで誰も見たことがない虫のモンスターで、ラッチモンさんは強そうだと言うんだ。そんなモンスターがボロボロになって逃げたんだ。森で何か強いモンスターがうろついているのかもしれない。もしかしたら伝説に聞く、森の賢王かもしれない。ああ、そんなに怖がらないで。それで俺が村を代表して冒険者組合に報告にいくことになったんだ。最近では街道付近のモンスターの討伐に街から報酬が出るようになったらしいんだ。なんでも黄金の姫様のご提言らしいよ。だから村からの報酬も思ったより少なくてもなんとかなるかもしれないんだ」
一気に言い切った父親は木のカップに水を注ぐと、一息に飲み干した。母と姉妹はまだオロオロとしている。
「そんなに心配しないで。村から馬車を借りてすぐに行って戻ってくるから。その間はラッチモンさん達が交代で村の周りを見て回ってるからね。何かあったら頼るんだよ。話はついてるから。それで、せっかく街に向かうなら手ぶらじゃなんだということになって、村に今ある薬草や野菜なんかも積んでいくことになったんだ。これから広場で積み込みだから、エンリも手伝って、薬草を持っていくよ。母さん、畑は頼んだよ。ネムは村外れにはいかないで、子供たちは広場に集まって過ごすことになったからね」
自分が出ていけばこの家には男手がいなくなってしまう。不安になるのも十分わかる。だが、村のためにも急いだほうがいいだろうという話になったのだ。とにかく善は急げである。父はてきぱきと指示しながら、女だけで残してしまう家族を思った。
いつも通りの朝は、思いもよらず慌ただしくなっていった。
「思いがけない戦闘に飛び込もうとするのは相変わらずだな」
魔法の鏡には黒煙を上げる村の様子が映し出されている。ここは第6階層闘技場である。
「色んな準備ができているから飛び込めるんだよ。情報収集に戦闘訓練、撤退手順の構築まで色々手を尽くしてくれた配下の皆に感謝しなきゃならないな」
傍に控える叡智を誇る悪魔二人は感じ入ったように頭を下げる。その周りには訓練中の多くの配下が並んでいる。
「突入は手順通りだな?カウントはそっちのタイミングで頼むぜ」
オシリスはショットガンを腰だめに構えると姿勢を低くし、いつでも飛び出せる態勢をとった。装備はすり切れた黒のローブに黒鋼の鎧をまとったものだ。
「最終確認後、カウントスタートだ。アルベド、周囲に配置する護衛はニグレドと連携して目立たせるな。情報は欠片も残してはならんぞ」
「心得ております」
アルベドは丁寧にお辞儀してから、今回抜擢された護衛役を見やる。
視線を受け、アウラがこくりと一つ頷いた。その横にはソリュシャン、エントマ、シズが並び、さらに
「オシリスさん、少女二人が森に駆け込んできます。その後方に騎士2つ、後続なし。少女の進行方向の繁みにゲート開きます。カウント、5、4、3、2、1」
エンリ・エモットは妹を抱えて蹲っていた。突如村を襲ってきた騎士に追われ、自分たち二人を逃がしてくれた両親を置いて、僅かな可能性に賭けて森に逃げ込もうとしたが、あと僅かのところで背を切り付けられ、倒れこんでしまったのだ。背中の焼けるような痛みが、死を強烈にイメージさせ、それから守るように妹を抱き込んで動けなくなってしまった。
下卑た笑いを漏らしながら、近づいてくる騎士2人。兜越しで表情が見えなくともわかる。どんな人間なのかが。ようやく1人前の女になれる程度の人生経験ながら、これまで出会ってきたどんな人間よりも下種で最低だと。
なぜこんなことに?いつもと変わらない平凡な一日になるはずだった。変わったこととして、森からモンスターが出てきたことは挙げられるが、それくらいだ。そんなことは度々あった。辺境の農村なのだ。たまにモンスターが現れることくらいある。しかし、こいつらは何だ?突如村を包囲し、次々と村人を殺し始めた。楽しむように。自身の命運が尽きかけるこの時において、少女の心に沸き起こった感情は燃えるような怒りであった。あと数歩のところまで兵士が近づいてきていた。
(なんとか、ネムだけでも!その前にせめて一発でもお見舞いしてやる!)
エンリは憤然と立ちあがると、右腕を目一杯振りかぶり、騎士に向かって駆け出し。
「えーーい!!!」
拳を顔面目掛けて振りぬいた。
騎士の
「・・・え?」
オシリスは
(重装備の騎士に女が拳一つで挑みかかるか!いい女だ!)
少女の背を追い、加速して繁みを跳び越す。少女の真後ろから低い姿勢で駆け寄っているので騎士からはほとんど見えていないはずだ。さらに小さな子は振り返って姉を見上げている。オシリスに気づいている者はいないが、油断はしない。一気に少女の背後に迫り、追い越し様にスライディングすると、腰だめに構えたショットガンを騎士の腹目掛けて撃ち込んだ。バゴン!という腹の底に響く轟音が鳴り響く。この音を楽しめない残念な奴が折れるように崩れ落ちる。少女の拳は空を切った。
(
(胴撃ちの時点でキル確定か。情報通り大したことはなかったな)
リボルバーをホルスターに戻しつつ少女を見る。拳を振り抜いた姿勢で固まっている。それもそのはずだ。それだけ一瞬で片が付いたからだ。
(この女なら心配はいらんな。さてと、現地の獲物はどんなものかなっと)
オシリスは転がる騎士からロングソードを二本回収するとそのまま、村に向かって歩き出した。
「ハッ!・・・あっ、痛たたた・・・」
「お姉ちゃん!」
よろけるエンリをネムが支えるが、そのままよろよろと倒れこんでしまった。背から尚も流れ出る血にネムは思わず傷口をギュッと押さえる。
「痛つつつ・・・。ありがとうね。ネム」
「騒がしいな。まったく」
少女二人は驚いて声の方を向いて、ひゅっと息を飲んだ。森の暗がりから死神がこちらを見ていたのだ。剥き出しの骸骨の顔、眼窩に灯る生者への憎悪、禍々しい漆黒のローブ。見紛う事なき死の使者である。
「さっさと戻れ。ここはお前らの居場所ではない」
まるで地獄の底から響くような声に震え上がった二人は、何度もすっ転びながら村の方へ駆けて行った。
(何なの!私たちが何したっていうのよ!)
振り返ることはできなかった。振り向いたが最後、そのまま死の世界に引きずり込まれそうな、匂い立つほどの濃密な死の気配だった。少しでも距離をとったほうが生き延びられるかもしれない。
(どこかの納屋の藁の中に身を隠そう。さっきの黒い魔法使いが騎士を追い払ってくれるかも)
淡い期待と感じつつも全力で村へと駆け戻った。なんで剣を拾って行ったんだろうと思いながら。
襲撃目標の一つ、カルネ村の広場にて襲撃部隊の副長として指揮を飛ばしていたバハルス帝国の甲冑を着たスレイン法国の軍人、ロンデス・ディ・クランプは違和感を感じ始めていた。
「住民を広場に集めるペースが落ちている」
チラと頭をよぎったのは下種なお飾り隊長が率先して、略奪と暴行に勤しむから、隊員もつられて暴虐に耽っているのでは、という考えだ。それは今までの村でもあった。だがそれにしても遅いのだ。陽動作戦のため、村人がある程度逃げたところで問題ない。せいぜい撒き餌として獲物をおびき寄せるのに役立ってもらえればよい。深追いなどしなくてよいのだ。だとすると。
(あのくそ隊長め。神の裁きで地獄に落ちろ!くそ!)
ここにきて、より下種の極みに至ったのか。想像するのも汚らわしい。広場で住民を拘束している部下たちに残りの者を探して来いと命令を下す。この村も十分痛めつけた。そろそろ引き上げ時であった。
「どうした?さっさと行け・・・」
部下が一方向を見たまま動かない。そのままロンデスもその視線の先を追うと。
(ベリュース・・・隊長?)
髪を引っ掴まれてブラブラと揺れている。白目を向き、首から下はない。滴り落ちる鮮血は今しがた討ち取った証であろう。引っ提げているのはすり切れたローブを纏った黒鋼の戦士。片手に生首、もう片手に血濡れのロングソード。
「隊長って名乗る割にずいぶんな下種だったぜ?ダメな上官の下には大抵ちょっとマシな下種がぶら下がってると相場が決まってるんだが、どうやら間違ってねぇみたいだな」
黒鋼の戦士は下種を投げて寄こした。ドチャリとロンデスの足元に転がった生首は、なるほど確かに下種の者であった。下種は下種である。下種と呼んで間違いはない。だが目の前の戦士は看過できないことを言った。
「聞き捨てならんな、貴様。誰が下種だって?」
戦士は剣を肩に担ぎながら、明らかにこちらを侮るような態度だ。
「手前のことだよ。下種野郎。隊長を殺されたのに腹を立てる所は自分を馬鹿にされた所だけだな?こんな奴を野放しにしておいたお前は同類なんだよ。下種野郎」
「貴様・・・!」
好き好んでこんな奴の下にいた訳ではない!命令で仕方なく!その言葉は腹にしまわれたままとなった。
「作戦中にへまこきました。で、後ろから殺っちまえばよかったじゃねぇか。国へ帰っても碌なことしねぇだろ。野放しにすることで世を乱すことの片棒を担いだんだよ。自分で考えられねぇのか。お前は立派な下種だ」
尚も下種呼ばわりを続ける謎の黒鋼の戦士。おそらく冒険者だと思われるが、このような者が村に滞在していたとは。事前準備として偵察させていた斥候兵の報告にはなかったが、
「貴様のような放浪者にはわかるまい。そして、わかることもない。この辺境の村で朽ち果てるのだからな」
ロンデスはソードを黒鋼の戦士に向ける。それに合わせるように戦士も構えをとった。それにあわせて、居合わせた数名の騎士が武器を構えながら黒鋼の戦士を囲み始める。村人は数名逃がせとの指令があった。その範囲外のこいつは活かしておく必要はない。侮辱を受け、怒りが燻る自尊心を癒すためにもこいつには今ここで死んでもらう以外の選択肢はなかった。
「勝負はついているぞ。無様に命乞いをするならば、せめて一息に殺してやろう」
ロンデス率いる騎士たちの包囲は完成した。鎧だけは立派な戦士はすくみ上ってしまったらしい。包囲を受け入れるなど愚の極み、よほどの愚か者か、英雄譚に憧れる夢見人だ。どちらも同じ意味か、と口角が吊り上がる。
「そうだな、勝負はついたな」
「ふん・・・。ようやく現実を理解したらしい。まぁ今更しおらしくなっても遅いがな」
「強ぇ奴を中心に雑魚が周りを回るもんだ」
こいつっ!激高し、斬りかかるタイミングで黒鋼の戦士も飛び出した。右肩に剣を担ぐように構え、突っ込んでくる。なんの捻りもない振り下ろしだ。
(芸のない攻撃だ!)
防御態勢をとり、しっかりと受けきれば、あとは包囲した隊員が後ろから斬りつけてそれでお終いだ。一対一の決闘をするような状況でもなかろうに、頭の中はお花畑のようだな!戦士を蔑むように見つつ、剣の腹に手を添え振り下ろしの一撃を確実に受けきる体勢を整えた。ロンデスの描いた世界と寸分違わず剣は振り下ろされる。ガキン!と剣撃の音と共に相手の武器がへし折れるのが視界に入った。凄まじい威力に腕に痺れ走り、視界もブレる。
(大した膂力だ!しかし受けきったぞ!お前の負けだ!)
しかし、戦士は諦めが悪いと見え、肩からタックルを見舞ってきた。先の一撃と同じく重い衝撃に体勢が大きく仰け反る。そしてロンデスの左脇腹に二発打撃が加えられると、顔面を兜ごと鷲掴みにされた。
「終わりだ」
その言葉は黒鋼の戦士のものだった。脇腹ににわかに熱を感じ始めると、ガクンと衝撃の後に意識が途絶えた。
ロンデス配下の騎士たちは一瞬の出来事に理解が追い付かずにいた。本来ならば、戦士が斬りかかった後にその背を攻撃する予定であったが、戦士が体を沈み込ませ、体当たりを仕掛けたため斬りかかればロンデスに当たってしまいかねない状況となってしまった。突きでの攻撃は、戦士の体を剣が貫いて、ロンデスをも刺しかねないのでこれはできなかった。戦士はするりとロンデスの背後にまわった。今こちらを向いているロンデスの喉からは血が滝のように溢れかえっている。脇腹からも出血がおびただしい。
戦士はロンデスを蹴とばし、騎士二人にそれを受けさせた。重装備の男を蹴り飛ばす脚力は大したものだ。最早生存の望めないロンデスは、騎士二人をよろめかせるのに十分な威力をもって衝突した。その隙に戦士は残った一人に飛び掛かった。
よろめく二人の騎士はそこで見た。戦士が短刀を携えているのを。あれは隊員全員が所持している短刀、おそらくロンデスの物だと思われた。突っ込んでくる戦士に合わせて騎士も突きを繰り出すが、迷いのない突進ですぐさま距離を詰められ、手甲で剣を逸らされると首元に短刀を叩き込まれた。崩れ落ちる騎士から剣を奪うと、そのまま二人に襲い掛かった。ロンデスもそうやって殺したのか。二人の騎士は同時に戦士を迎え撃った。
広場に集められ、処刑されるものと絶望の中にいた村人たちは、期せずして処刑を目の当たりするに至った。どこからともなく現れた黒い戦士はあっという間に4人の騎士を切り伏せた。戦士は倒れた騎士を一人ずつ剣で刺し、念入りに止めを入れると、天を仰ぎ、獣のような咆哮をあげた。
黒鋼の戦士、オシリスは高揚感に包まれていた。
(怖かった・・・。怖かったがやってやった。殺ってやったぞ!ちくしょうめ!)
正直に言うと
(こんなに消耗するんだな。俺は今までとんだぬるま湯生活に浸ってきた、クソもやし野郎だったんだな)
周囲に敵が残っていないか確認しつつ、民家の壁まで近づくと、背を預け腰を下ろした。今までのナザリックで過ごした1週間を振り返った。模擬戦に次ぐ模擬戦をこなしてきたが、思い返せばどの戦いにおいても、相手の目に殺気は感じられなかった。それが今わかった。短いながらも濃密な、ナザリック地下大墳墓での準備期間を、感謝と共に思いを馳せた。
広場に集められた村人たちは、暴虐の限りを尽くした騎士の一団が戻ってこないことに安堵しつつ、座り込んで動かなくなってしまった黒い戦士にどう接していいのやらわからず、そのまままごまごと遠巻きに眺めた。