ストック八十万字くらいあるので、完結までは絶対にいけると思います。
1.狂喜の男
今日、私の隣にいた子が捧げられました。
耳を澄ますと、その子と御神体様の声が聞こえてきます。体をさらに丸めて、耳を塞いで。そうして私は、聞きたくないものから逃げようとするのです。
「いいねぇ、いいねぇ……。アナタは中々良い肉をしているよ」
「ああ、ああ」
「特に良く育った乳房。ほら、見てごらぁん。こうして開いて見ると……、おお、なんと素晴らしい。歯応えのある脂肪だねぇ」
あふれんばかりの叫び声が、耳の中に飛び込んできます。塞いでも塞いでも、入り込んできます。体の震えは止まらず、爪を噛みながら、私は生きたまま食べられているあの子の悲鳴を聞くのです。痛みで恐怖を紛らわす段階は、過ぎ去ってしまいました。爪を咥えて無理やりはがしても、薄汚れた髪を何本か抜いてみても、上と下の奥歯がぶつかりあい、がちがちと鳴り続けています。
そのうち、あの子の声は止みました。
肉が裂け、骨が咀嚼される生々しい音。
時折御神体様がもらす笑い声を聞きながら、必死に祈りました。
これで、満足するように。
あれが、もう二度と食事を望まないように。
「エルドリッチ様」
「ふぅむ、味は申し分ない。しかしこれではまるで足りない」
「今日の予定分は、全てなくなりましたが」
「だめだよ、だめだめだめ。ソウルだ、ソウル。もっとね、ソウルが、ないとだめなんだよ。これでは、火にくべる薪となるには不十分だ。わかるかい、使命が果たせないんだよ」
「ならば、明日の分を追加して、持って来させましょうか。火継ぎは何よりも優先すべきことです」
「じゃあ、あのコ。ロスリックの気狂い共の落胤がいい。ああ、光を受けて輝く銀糸。すすってみたら、どんなにいい食感がするだろうねぇ」
私。
もう綺麗だった頃の姿とは一変してしまったけれど、贄の中で銀髪を持つのは私だけでした。姿さえおぼろげな母が、とても優しい手つきで梳いてくれた髪。記憶の中で唯一、暖かい風を吹き込んでくれるもの。
視界の先で扉が開かれるのを見て、そんな思い出も醜い憎悪に塗りつぶされていきました。こんな、目立つ髪ではなかったら。まだこの先も、生きていられて。
「出ろ。特別にお前も今日、尊き犠牲者に加わるのだ」
もしかしたら、この運命も変わったかもしれないのに。
当たり前の後悔を味わえたのは、ここまででした。あとはもう、狂ったように喚いたのか、連れて行かれまいと抵抗したのか、それさえもわかりません。
次にはっきりと憶えているのは、御神体様の前に出た時です。
「おやぁ、随分と痩せ細っている。もう皮と骨だけの食事は飽いたよ。大丈夫、怖がらないでぇ。ゆっくりと、そう、焦らずに目を開けてごらぁん」
背筋が凍りつくような、美貌。
一度その姿を視界に入れてしまったら、呼吸さえも忘れてしまいそうでした。その口の周りが真っ赤に染まっているのも、暗い魅力を引き立てています。女として以前に、人間として当たり前の情動をほぼ壊されていたのにもかかわらず、心の中でさざ波が立ったような気がしました。
白く、陶器のように精巧で滑らかな胴体。しかし、そこから下は全て黒く蠢めいている大きな膿の塊に覆われています。その姿は、やはり、異形と呼べるものでした。
「どうぞ、お召し上がりください。じきに、御尊を移っていただくことになっています」
「不快だねぇ。暗月の粘着共め、奴らも一人残らず食ってやりたいものだ」
御神体様は妖しく上唇を舐めると、私の方へ近づいてきます。
「……アナタ、ワタシの目を見なさい」
やっとの事で指示に従うと、少しの間沈黙が続きました。そして、御神体様は口の端を吊り上げます。
「うふふふぅ、なるほど。面白い瞳をしているんだねぇ。決ぃめた。アナタのことは食べないであげるから、代わりにその可愛い目玉を貰うよ」
長く、筋張った両手の指先が私の頬に触れます。鋭く伸びる爪が探るように目の周りをぐるりとなぞり、二つ同時に、一気に中へ突き入れてきました。
痛いのかどうかは、よくわかりませんでした。体温のない指が私の
視界が歪み、緑色へと変わり、何かが取りだされる異物感とともに、
私は、光を失ったのです。
◆
目を開いても、まだ暗かった。
鐘の音。
体の奥底に響くようなそれのせいで、目が覚めた。
まだ起きる時ではないと理解して、再び寝ようとしても、やけに冴えた意識が何かがおかしいと脳に警告を送ってきている。
彼は自分の体の感覚を、何よりも信頼している。生活リズムはほぼ完璧に整えているし、就寝前の酒など絶対に嗜まない。体が目覚めているというのに、まだ朝ではないというのはおかしかった。
それに、自分の部屋はこんな墨をそのまま塗りたくったような暗闇にはならない。深夜だとしても、街灯の光が窓から入ってくるはずだった。
(なんか、カビ臭くねえか)
手を横に伸ばそうとしてもできなかった。どうやら固い壁のようなもので、体の周りが囲まれている。
(閉じ込められてんのかこれ。は、ふざけんなよ……。どこの糞野郎がやったんだ? 今日はやりたいことたくさんあるんだぞ。死ねよ。それとも、まだ夢の中にいんのか?)
今度は上に手を向けてみれば、また固い感触に突き当たる。力を入れると、ほんの少しだけ何かがずれる物音がした。そこに希望を見出し、さらに押し上げて行くと、左側の端に開いた隙間から光が入ってきた。同時に誰かの話し声、しかも大勢の声が伝わってくる。
(うるせえな。もしかして、俺をこんなくっせえ所にぶち込んだ奴らか? だったらまず下手に出て、隙を見て通報だな。貴重な休日を台無しにしやがって。十万は請求してやる)
石造りの蓋が次第に横へとずれていく。広がっていく視界には、薄く靄のかかった空が広がっていた。
この時点で、既に事態はそう単純ではないことに、気づき始めていた。自分はこの棺桶の中に入れられたうえ外にまで運び出された、だけではないということに。
眺めていてどこか不安になる空だった。いつも見ているものとは何かが違う。雲の小さな間から見える太陽も、やけに色彩が暗い。
(いや、太陽じゃない? なんか見憶えが)
半身を起こし、自らの体を見下ろすと、さらに疑問は増した。昨夜風呂に入り、その後着替えた愛用している寝着が消え、身につけているのは紺の下着だけになっている。いつ脱いでいたのかどうかは一旦置いて、完成された自分の腹筋に見とれている時だった。
「先生?
職場でしか呼ばれない敬称を耳にして軽く混乱しながらも、貴樹は顔を上げた。長い黒髪を垂らし暗い青のローブを着た女子がほっとした表情をして、すぐ横に座り込んでいた。
「
「やっぱりそうだ。他の皆もここにいるから、もしかしたらって思っていたんです。先生が一緒なら、安心できますよ」
「皆だって?」
なかなか上手く働かない頭を回転させて、状況把握に努める。周りには彼が入っていたものと同じく、石造りの棺が三十一個置かれていた。その全てが開かれた状態で、中身だった人間達が全員、彼の方を見てきていた。
彼らに共通するのは、どれも憶えのある顔ということだ。
「クラスの全員がいるみたいです。どこなんですかね、ここ。高校の近くに霊園がありますけど、雰囲気が違う気もします。かなり不気味、ですよね」
新宮の話を、貴樹はほとんど聞いていなかった。心に浮かんできた推測が、徐々に大きくなっていた。本人としては推測と呼ぶことすら馬鹿らしいものであったが、幾度となく繰り返した記憶の中に、この風景は強く残されていた。
(これは、まさか、嘘だろ)
元より小さかった現実感が、なくなっていく。
(この場所は、灰の墓所だ)
「とりあえず、落ち着こう。僕だってわけがわからないんだ。普通に考えて、こんな人数が全員同時に連れ去られたなんていうのはありえない。けど、今は逆に冷静になって、これからどうするべきか考えるんだ。起こったことは起こったこととして、ちゃんと受け止めよう」
男子はほぼ全員、金属作りの鎧を身に付け、女子は黒の混ざった青か白色のローブを着ている。男子十六名、女子十五名、担任教師一名を合わせた全三十二名が揃っていることを確認した後は、下手な行動をしないよう呼び掛けることから始めた。
しかしもちろん、非常時とあって生徒達が素直に黙るはずもなかった。
「これって、集団誘拐ってやつですよね──」
「てゆうか、俺シャツと短パンで寝たはずなのに、こんな鎧いつの間に着させられたんだよ」
「一度、犯人の奴らに裸見られてるのかもな」
「やだ―、なにそれぇ」
「誘拐? 家族にもばれないで、誰にも目撃されずに、どうやってこんな大人数を連れて来られるんだ?」
「私、集団催眠って聞いたことある。全員が同じ夢を見てるのかも。こうゆうのって、不吉の象徴らしいよ?」
「こわーい」
貴樹はしばらく生徒達の口が動くのを見守った後、手を叩いて静かにさせた。
「はいはい。君達、もっと緊張したらどうだ。気の緩みは危険かもしれない。第一、ここがどこなのかもはっきりしていないんだから。こういうときは、騒がず、落ち着いて、状況理解に努めないと」
(いやっほおおおおおおおおううううううううううきたああああああああああああああああああああありがと神様ああああああああああああああああああああああ、ついに、ついについについについについに、妄想が現実にいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい、はあ、はあ、はあ、落ち着け、俺。でも駄目だああああああああああああああ頭が爆発すりゅうううううううううううううう、あ、やべ、下半身が……)
さりげなく近くの石蓋に腰かけ、前かがみになる。変態である。
彼の表情筋は非常に完成されていた。極度の興奮で唇が緩むこともなく、頬が紅潮なんてもってのほか。代わりに男の本能として表れるのが、より変態性を高めている。
「え―だって」
「貴樹せんせ、その格好どうにかしないと、全然締まらないですよぉ」
「寒くないんですか?」
「うん、まあそうだな……」
自分の下着一枚のみという外見は、確かに真面目な空気にさせるのを阻害している。どこへやらいなくなった寝着はたった数千円の価値しかないが、教師の威厳が乱されているのは容認できないことだった。
「え、でも私、たかにぃの体かっこいいし、このままでいいと思うけどなあ」
「芳野。その呼び方はやめなさいって言ったんだけど。僕は君達の家族じゃない。わかるね? 戸水先生と呼びなさい」
「ちょっとさあ、写真とらせてよ、ねえ。一枚だけでいいから」
(てめ―らいちいち馴れ馴れしいんだよビッチが。俺が、一度でも、名前呼びを許しましたかぁ? はあぁ────―、これだから最近のビッチは)
「これ、もしよかったら着てください」
苦笑いして新宮が立ち上がり、自分の身に付けているローブを脱いで貴樹に差し出してきた。
「いいの? 寒くはないから、別に大丈夫だけど」
「いいんです。その、こっちが見てられないってこともありますし」
目を伏せ、ほのかにはにかんでみせた後、新宮はローブを彼の胸に押し付けた。
「ありがとう。本当に助かるよ」
(ありがとな、清楚ビッチ。癪だが、貰える物は貰っといてやる。これで借りができたなんて思うなよ)
その態度のでかさがどこからきているのかはわからないが、もはや小物以外の感想を抱きようがない。
貴樹がローブを手に取った所で、一人の男子生徒が呆れた様子で割り込んできた。
「ちょっと待って。先生と新宮さんじゃサイズが合わないんじゃないかな。俺のアンダ―ウェア二枚あるみたいだから、それでいいと思うよ」
鎧に着られている男子が多い中で、
「あ、国広君……」
「新宮さんのそういう優しい所は良いと思うよ。でも、君さっき少しだけ震えてたじゃないか。自分の体も気遣わないと駄目だよ」
「ありがとう」
「俺の意見というより、男子の総意だから。クラスのマドンナは、大事にしないと」
「照れるよ、そんなこと……」
貴樹は、心の中で唾を吐いた。
(はい、こういう寒い会話が様になってしまうほど、こいつはイケメンということですね。マドンナって何だよ。今どき誰もそんな言葉使わねえよ。か、見つめ合っちゃってま──、爆散しろ蛆共)
人の親切心を理解できない奴には、言われたくないものである。
新宮が友達の方へ戻った後、国広は衣服を手渡してきた。
「じゃあ先生、どうぞ」
「ありがたい」
(うぇっ、男から貸してもらった服とかないわ―。絶対雑菌まみれだろ。臭そうだし、汗ついてたらやだなぁ)
先ほど使っていないスペアがあることを言っていたはずなのに、この男の耳はどこに付いているのだろう。ここはむしろ耳鼻科というより、精神科に行くことををお勧めしたい。
内心はどうあれ、嫌な素振りなどおくびにも出さずに、黒一色の肌着を広げる。ばれない程度に臭いをかいで、一応の安心を得てから、彼は裾口に頭を突っ込んだ。よく売られている綿布の服とは感触が異なっている。慣れないものに多少の不快感はあるが、肌をさらしつづけるよりはずっとま
「痛っ……」
両手を袖に通した直後、鋭い激痛が貴樹の全身を貫いた。思わず素に近い低音の声が漏れ、地面に倒れ込む。それ以上は口が利けないほどだった。小学校の時グラウンドの砂場で転んで膝の皮がはがれたことがあったが、それが体全体に及んだ感じだった。
「え、ちょっと先生!」
「だ、大丈夫ですか?」
「何だ急に苦しみだしたぞ」
周りで聞いていた生徒達も集まり始め、貴樹を見下ろす。そんな状況になってもなお、彼は目の前の痛みを取り除こうと必死になっていた。
(いってえええええええええええええええええええええええええええ、くそ、てめえら見下ろしやがって、何様のつもりだあああああああああああ、あ、づ、これか、この服か? こんなものおおお)
首の襟もとに手をかけ、死に物狂いで力をかける。糸がほどけ、あっとう間にアンダーウェアが二つに引き裂かれた、わけはなく、もがきながらも服を脱ぎ、近くの地面に投げ捨てた。
国広が、度肝を抜かれた様子で貴樹に手を貸し、立ち上がらせる。
「先生、急にどうしたんですか」
「ああ、いや……その服を着たら急に。痛みが。もうなくなったんだけど」
(あぶねえ、もう少しで国広を殺す気になる所だった。いや、もうこれ殺していいだろ。確実に俺を始末しに来てたよな。命には、命をもって償わせるべきだろ。やる? やる? 倫理は俺の味方だぜ)
誰か早めに、こいつを始末した方がいい。
「それって」
「服が着れないらしい。無理やり身に付けようとすると、異常な痛みがくる」
「ズボンとかは、大丈夫だったりして」
「多分、駄目だと思う」
念のため試してみたが、案の定、同じ結果となった。今度は男の部分にも痛みが走ったので、高い奇声を上げてのたうち回った。あまりに刺激の強い痛みだったため、生徒達が噴き出しそうになっていた事には気がつかなかった。
「お前ら、なに呑気にしてんだよ! 状況わかってんのか!」
貴樹の呼吸が整った時、一際大きな声が、墓所内に響き渡った。皆が、朽ちた墓の上に立ちあがり、顔を真っ赤にしている男子生徒に視線を向ける。
「こ、このまま時間を潰してたら、確実に死ぬぞ! い、いい生きたかったら、お俺の話を聞けぇ!」
脂っこくぺったりとしている伸びきった髪と丸く膨らんだ顔。その中に埋もれている糸目。さらに鎧の上からでもわかるほど前にせり出た腹が、その生徒の性質をおおよそ表していた。
(ん──と、誰だっけこいつ。何で学生の中にキモデブがいるんだ? 性犯罪者か?)
お前は名誉棄損罪である。全国のデブに謝れ。
近くにいた男子達が、嘲笑を浮かべて囁き合っている。
「
「あいつを黙らせた方が安全だって、言ってやろうかな」
(解説おっつ。こんな奴いたわ)
仮にもこの教師は二年間、同じクラスを担当している。というか先ほど全員の顔を確認したはずなのに、すぐに忘れる畜生である。
「丸戸? あんまり騒がない方がいいぞ。何か言いたい事があるなら」
「だ、黙れ! 先生、あんたは何もわかってない。そんなんじゃ、すぐに死ぬぞ!」
貴樹は瞬き一つして、平常心を保った。
(あ? んだと糞デブ。てめ―の粗チンひき肉にしてやろうか)
「いまいち要領を得ないな。丸戸、お前は何か知っているのか」
「ああ、そそうだ。俺は、ここがどこなのかはっきりとわかるんだよ」
丸戸は一旦間を置き、今この瞬間自分に集まっている全ての視線を味わうようにして目を閉じた後、非常にもったいぶりながら言った。
「いいか、お前らは信じないかもしれないが。この場所には見覚えがあ、あるんだ。ここは日本でも他の国でもない、そもそも地球にすら存在しない。ここは、俺がささ最近買ったゲームの」
悲鳴が、全員の関心を中断させた。
向かった視線の先で、女子生徒が腕を抑えて倒れている。上腕に深く切り裂かれた傷があり、大量の血が草木を濡らしていた。それだけでも異常だと言うのに、各々に戦慄を与えたのは、その怪我のことではなかった。原因だ。
女子生徒の目の前で、紺色のターバンを巻き、ボロボロに擦り切れた布を着こんだ、半裸の男が立っていた。構えた短剣の先からは血が滴り落ちている。その顔は痛々しいほどに頬が削げ、皮膚色に乾いた唇の端からは涎が垂れていた。
「も、亡者だ」
明らかに正気ではないとわかる呻き声を上げ、男は女子生徒に、再び剣を振り下ろした。その間、まともに反応できたものは誰もいなかった。ただ一人を除いて。
全速力で走り込んでいた貴樹は、亡者に体当たりし、そのまま倒れ込む。同時に剣は離れた地面に落ちたが、なおも亡者は彼を食べようともがいた。
(こいつ、近くで見ると本当にキモイな。くそ、暴れんな。涎汚ねえ! 近くで生徒殺されると、あとあと責任問題とかでめんどいんだよ。余計なことするな)
しかし、亡者の腕力は体格に似合わず、強かった。抑え込もうとしても、完全に動きを止めることはかなわない。
「おい、どけよ。邪魔だ」
背中に悪寒を感じて、反射的に貴樹が身を引くと、淀みのない軌道で亡者の顔に長剣が突き立った。濁った色の血が彼の顔に飛び散り、眉をひそめる。
亡者は幾度か痙攣した後、剣で地面に固定されたまま動かなくなった。あっという間に分解が始まり、体が小さな光の塵となって消えていった。
「馬鹿じゃないのか、先生。素手で何とかなるわけないだろ」
背の高い茶髪の男子生徒が、地面から剣を引き抜いた。
「
「鎧の鞘に収まってた。ロングソード。初期装備、ってことだ。な、丸戸」
知らぬ間に墓石から転げ落ちていた丸戸は、崩れた態勢のまま目を泳がせた。みっともない呼吸を何とかして整え、座ったまま叫ぶ。
「み、皆見ただろ? あんな人間現実にいるわけがない。俺達は、異世界に来たんだ。それもゲ―ムの」
宇部がにやりと笑う。
「『ダ―クソウル』の世界にな」
他の生徒が唖然とする中、貴樹は欠伸をこらえながら、顔に付いた血が取れないかどうか思案していた。
(今更かよ)
ダークソウル。
コアなゲームを作ることで有名なフロムソフトウェアと、ソニーが協同して作り上げた、デモンズソウル。その流れをくみ、三つに渡るシリーズとして打ち出されたゲームである。新作が発表されるごとに売り上げが伸びて行き、最新作にして完結作である「ダークソウルⅢ」はシリーズ最多の売り上げを記録した。
その人気の要因の一つに、世界観の独特さにある。火が陰り、暗闇に覆われようとしている世界を救うために、主人公が王の薪を集めるというコンセプト。不死の人間が精神を壊して欲望のまま動くようになった亡者や、人食いを繰り返して異形化した聖職者など、とにかく絶望的な世界観、そして他のどのメーカーも成し得なかった絶妙な難しさとアクション性が今までにない衝撃をユーザーに与えた。
貴樹達が目を覚ましたのは、ダークソウルⅢのスタート地点である灰の墓所だ。ここから、主人公は、世界存続のための旅へ出ることになる。
「でも、そうそう信じられる話じゃないな」
国広が言うと、宇部は鼻で笑う。
「現実を見ろよ。どうやってだなんて問題じゃねえんだ。実際に起きたんだからもう切り替えろ。くずくずしてたら、さっきの奴がまた出てくるぞ。他にも、亡者なんかとは比べ物にならないほどやばい化け物がたくさんこの世界にはいる。俺はこのゲームでラスボスまで倒した。だから絶対に正しいことだ。丸戸なんか、三周したらしいぜ。な、おい、そうだよな?」
クラスの中でも目立つ二人の輪に加わっている丸戸は、変な汗をたくさんかいていた。
「そ、そそそうだ。だから俺の知識は絶対に役立つ」
「俺達、だろ。そこ間違えたら駄目だろ、なあ?」
「わかってるっ! ……てます」
宇部はクラスの中でも一番の問題時だ。学校内で直接事件を起こしたわけではないが、外で他校とつながり、良くない噂がたくさん流れていた。最近は、ほとんど登校していなかった。
(こいつ、もし俺がよけられなかったら、どうするつもりだったんだ? いつか絶対、事故に見せかけてあの世へ送り込んでやる。調子に乗ったガキが一番嫌いなんだよなぁ。お仕置きが必要だよ)
調子に乗っている大人は、目も当てられない。
貴樹は、イケメンと不良とデブの会話に早くも興味をなくし、別の方の人だかりへ向いた。
「先生、先生。こっちへ来てください。駄目です。血が……」
襲われた女子生徒が、幾人か分のローブが敷かれた所に寝かせられている。傷口は衣服の破れ端で巻かれ、一応の応急手当てがなされているものの、滲みだした血液が絶えず滴り続けていた。切られた場所が悪すぎた。流れ出す勢いはそれほど強くないが、このままでは十分もたたないうちに失血死してしまうだろう。
「手首二巻き分、布を貸してくれ。圧迫止血する。新宮、ありがとう」
傷よりも数センチ肩口側の所に、生徒から貰った布を巻き付け、肌が白くなるほどきつく縛る。鼓動のリズムで噴き出していた血の勢いが、相当小さくなった。
(つっても血だけが問題じゃねえ。皮膚下二センチってところか。傷口を清潔に保っておく環境が乏しい今、処置は気休めにしかならない。すぐに雑菌が入って、数日もしたら壊死が始まる。それまでに生きて祭祀場へ行けたらいいが、無理だよなぁ。ここで一人でも足手まといができれば、難易度は跳ね上がる。囮にでも使い捨てるか)
腐臭のする思考をしながらも、彼の顔は苦しむ生徒への心配で完璧に塗り固められていた。目の端には薄く涙もためている。このあざとさは、幼少時からすでに学んでいることだった。
「先生、
外道の演技を完全に信じ込んだ友人の新宮は、本当に目を潤ませて尋ねてきた。その手を握ってやり、貴樹は安心させるように微笑む。
「心配しなくていい。絶対になんとかする。生徒は僕にとって大切な存在だから。死なせやしない」
「でも、でも、もし万が一のことがあったら。実織、あれに襲われそうになってた私を、かばってこうなったんです。全部、私のせいだ……」
「新宮は悪くない。誰だってとっさに体が動かないことがある。悪いのは、俺達をこんな所に連れてきた奴だ。誰も君のことなんか責めてないよ」
(おい、くっついてくんな! ったく、シチュエーションを利用しやがって、お前がこいつの心配より俺とのスキンシップに関心があるのはモロバレなんだよ。は──、面がいいのもめんどくさくてかなわんな―)
自意識過剰もいいところである。
「あの、もしかしたら、治せるかも……」
そう言って近づいてきたのは、白色のローブを身に纏った、男子の中では小柄な方の生徒だった。ほとんどの男子は鎧姿だが、例外的に一人だけ違っている。それが恥ずかしいのか、フードを目深にかぶり辛気臭い印象だ。
「それは本当か、
「はい、その、言ってもあまり信じてもらえないかもしれませんけど、さっき……」
「とりあえず、今実織に試してみてくれないか。とても痛そうで、見てられないんだ」
「あ、わかりました」
包帯代わりになっていた布が取れ傷口が露わになると、下田はうろたえたように表情を固めた。しかし、動きを止めていたのはほんの少しの間だけで、軽く深呼吸すると、痛々しい切り傷の真上に両手をかざす。目を閉じ、何かを思い浮かべる数瞬が過ぎた後、変化は訪れた。
(ふ―ん、意外だわ)
白く発光する球体が下田の手から生じ、傷の中へ吸い込まれていく。そして一呼吸の間に、裂けていた皮膚が逆再生するように治っていき、正常な状態へと戻った。荒かった実織の呼吸が落ち着く。
「これは」
「わ―、すごい……」
「ここに来てちょっとしてから、できるようになったんです。その時、棺の淵で手の甲をすっちゃって。痛いなって撫でてたら、いつ間にか治ってて」
「自分の意思で、治せるのか」
「それも、少し時間がかかりましたけど」
「まるで魔法だな。いよいよ、ここが現実とは違うってことの確信が強まったわけだ。とりあえず、本当にありがとう。お前は実織の恩人だ」
「い、いえ、そんな。大げさです。その、戸、あ、実織さんには僕が助けたなんて言っても、困ると思うし」
「うん? 別にそういうこともないと思うけど」
「じ、じゃあ、失礼します。他の人にもこのやり方教えないといけないので」
下田が走っていく先には、同じく白ローブをきた女子達が大勢待っている。そこでも実織救命の感謝をたくさん言われているが、真っ赤になって謙遜する。
(ああいう童貞臭いのが、女子人気出るんだな。マスコット的ポジションだろうが。虚しいね)
本当にどうでもいい情報を挙げるが、この男も童貞である。
「新宮、多分すぐに実織が目覚めるだろうから、見ててやってくれ。あっちの会議もそろそろ結論が出そうだ。俺も加わりに行く」
「行っちゃうんですか?」
「あとは友達同士で。まあ、そいつのことだ。お前の悩みなんて笑い飛ばしてくれるに決まってるよ」
「先生……」
爽やかな笑みを残して、貴樹はその場を去った。内面を知ると実に白々しい表情だ。
ダークソウルには、素性システムというものがある。初めのキャラクリエイトの段階で選択する必要があるもので、そのキャラタ―のスタート時における特性を決定づける。礼を挙げるとするなら、戦士と騎士は近接に適し、魔術師、聖職者などは遠距離での戦いに適性がある。しかしゲームにおいて戦士が魔術等を使えないということは決してなく、ステータスの条件を満たせば可能になっている。要は、ステータスの初期値が違うだけなのだ。王道はバランスの良い騎士から初めて、レベルが上がってきたら魔術、呪術、奇跡を取り入れるというパターンだった。
生徒達の内訳としては、男子がほぼ戦士か騎士、女子は全員魔術師か聖職者で、その中に例外的に下田が含まれている。前衛職と後衛職は大まかに男女で分けられ、その中でおそらく性格的な違いから二つにすみ分けされていた。下田の存在の曖昧さが良くわかる結果だ。
「先生、もう少し内側に寄ってください」
「急に何かが飛び出してくるかもしれませんから、ちゃんと下がってて」
「私達が守るからね」
貴樹は集団の中心、最も安全な場所で歩いていた。
(そうだ、お前らは俺の肉壁になって守るんだな。ちゃんと犠牲になってくれや)
もちろん素性は他にもたくさんある。盗賊、狩人、庶民、貴族など種類は二ケタに及ぶ。その中でもっとも初期ステータスが貧弱で、もはや玄人が縛りにしか使わないネタ素性があった。
持たざる者、である。
恰好で素性を判断するのなら、まさに貴樹がそれに当たった。
(マジでふざけんなよ……。確かに今度の周は、久しぶりに全裸脳筋プレイで行こうと考えてた。それが反映されたってだけなら、二〇〇〇歩譲ってまだいい。けどなぁ……)
装備できないのは衣服だけではなかった。生徒達の中で唯一何も武器を持っていなかった彼は、倒された亡者の短剣を貰おうとした。しかし、柄を手に持った瞬間、あの痺れる痛みが走り、持っている間はまともに立つことでさえできなかったのである。
(持たざる者って、そのまんまかよ。武器もなしにどうやって進めばいいんだ。さすがに素手で戦う理不尽さは求めてなかったわ。とりあえず、こいつら全員利用してでも生き残らなければ)
わが身しか考えていないクズとは違い、彼の優しい担任像を信じ込ませられている周りの生徒達は、彼を守ろうと必死になってあたりを警戒していた。
とはいえ、そうして過剰に緊張しているのはゲ―ム未体験者がほとんどであり、先頭を行く宇部とそこに付き従う男子生徒の一部は、笑い合う余裕すら見えていた。今の所、進む道の構造も、敵の配置も全てゲーム通りだったために、丸戸が事前に指示し、男子生徒達が数で一体を囲んで倒す戦法が通用していたからだ。
「丸戸、右に何かいたっけ」
「ええ、えっと、亡者と犬が二匹。犬は盾を構えた数人で囲って、動きを殺させよう。その間に亡者を早めに狩る」
「ははは、言うだけなら簡単そうだな。お前、もっと痩せて動けるようになれよ」
「へへへ……、その通りで……」
「じゃあ、やるか。おい、国広お前本当に参加するのか」
剣先に残る血を見て喉を鳴らしていた国広は、額に脂汗をにじませながらも頷いた。
「ああ、やるよ。俺も、クラスの皆を守りたい」
「は、ダクソやったことないくせに頑張るぜ。どっちでもいいけどな。おい、女子ども。お前らはこの先のボス戦で役立ってもらうからな。俺達男子が守ってやってるんだから、借りくらい返せよ」
何かを言い返す者は一人もいなかった。現状、女子生徒の中で戦力として機能するのは五人にも満たず、魔術関連を使いこなせていない者がほとんどだった。使える者も一つの術が限界らしく、さらには下級の威力しか出ていない。ゲームで使われている名で挙げるなら、「ソウルの矢」「火球」「回復の施し」だ。ただし、本来の威力に到達しているとは思えない出来である。矢は一本しか出ず、火球はかなり小さい。唯一下田の回復が、実用的な効力を持っている。
(意外なのは、男子の落ち着きようだな。普通なら、女子達の反応が当たり前なんだが。上二人が比較的受け入れているからか、どうにも緊張感がない)
「今の所女子がほとんど役立たずなのもそうだけど、一番酷い誰かさんは、その役立たず共に守られてるわけだ。情けねえ恰好してなぁ、みっともねえにもほどがあるぜ、偽善者」
(あん?)
宇部の矛先は、貴樹へと向けられた。指摘するのを今までずっとこらえていたように粘つく笑みだった。それに追従して、丸戸や他の宇部と同じグループに属している男子達が冷やかしの笑いを漏らす。
貴樹の人気は、どちらかといえば女性に偏っていた。おまけに彼は外面だけは本当に優しい。優しすぎて、勘違いする女性も出てくるほどだ。告白された時の断り方も自然なもので、女性側は押していけば何とかなるのだと思ってしまう。それが余計、熱を高める要因になった。
男子側からも一定の支持はあったが、偽善野郎だとやっかむ輩も当然出てくる。特に生徒指導などで多く関わってきた宇部には、良い感情を持たれているとは言えなかった。
「ちょっと、宇部。そんな言い方ないでしょ! 先生だって、ちゃんとみんなのこと考えて」
「考えるだけじゃ、駄目だな。実際に役に立ってもらわないと。いいか、足手まといが一人でもいるだけで、どんなに苦労が増えるかわかるか? 高原、お前も早く魔術を使えるようになるといいな。皆が生き残るために」
反論する声はなく、貴樹もまた何か口を挟むことはしなかった。俯いてしまった高原の頭にそっと手を置き、耳元で囁く。
「ありがとう、高原。僕のために発言してくれて。でも宇部のいうことは正しい。お前達の命が最優先だ。な」
「でも、あんなこと言われて、悔しくないんですか?」
「事実だし。僕は僕のできることを、考えてみるよ」
(さて、笑ったのは宇部と丸戸と、新野、桧垣、高坂に、砂川か。よし覚えた。俺を虚仮にした奴らは死刑と太古から決められている。全くひどいガキ共だ。いつかなるべく苦しみながら死んでくれると最高なんだけど。ファッッッック!)
この男が偽善者であるのは、的を得た指摘である。
灰の墓所はそれほど広いエリアではない。丸戸の知識に穴はなく、驚くほど呆気なくエリアほとんどの敵を倒すことに成功した。残るは、エリアボスとあともう一匹。
「多数決を取る」
宇部が石壇の上に座り、生徒全員を見回す。すっかり仕切りを取られてしまった丸戸は、一歩下がった所で悔しそうに頬をひきつらせていた。
「お前らから見て右手にある小道を進んでいくと、結晶トカゲという少し強めのモブ敵がいる。危険かもしれないが、そいつの落とすアイテムはかなり貴重だ。この先を考えても、挑戦する意義があると思ってる。賛成の奴は、手を挙げろ」
全員が、周りの顔色を伺いながら挙げた。この空気で反対票を入れるのは困難だ。
しばらく協議した結果、トカゲは囮役が引きつけ、上手く小道に落とし、大人数で一斉にタコ殴りするというハメ技に近い案に決まった。囮役は意外にも宇部が引き受けた。一番危険な役だが、これで宇部に対するクラスの悪感情がわずかに弱まったのも確かだった。
しかし、立てた作戦は全くの無意味に終わった。
「何だ、これはよ。拍子抜けだな」
宇部が側にある岸壁に剣を突き立てる。きょとんとしていた丸戸を引き寄せ、襟元を締めあげた。
「どういうことだ。ここに、トカゲがいるんじゃなかったのか。そう言ったよな、丸戸ぉ」
「し、しし知らない! 確かにそうだったんだ。俺は三回戦った。う、宇部だってそうだろ」
「俺は寄り道なんかしねえからな。すぐボスの方へ行ったんだよ。くそが、余計な緊張だったぜ。てめえ、次間違った情報教えたら思い知らせてやるからな」
「そんな」
貴樹は、結晶トカゲがいるはずの場所で、細かく観察していた。
(丸戸の言ったことは事実だ。配置された敵は、常に移動している? そもそも、こうして実際にこの世界を体感している時点で、ゲ―ムそのままだと思うのは危険かもな)
相違点は他にもいくつかあった。
まず、このエリアには落ちているアイテムが一つもないこと。ゲームならレベルアップや買い物に必要な「ソウル」がいくつか配置されているのだが、確認できたものはなかった。
さらに、スタート地点からまっすぐ進み、崖の側に出てすぐ置かれている、篝火がない。篝火とは、一度でも触れれば死亡した時の復活地点になるし、生命力の全快や別の場所にある篝火への転送など、拠点になり得る大切なシステムだ。それがないとなると、先へ進むにあたって重大な障害となる。
(篝火なしの、徒手で持たざる者縛りとか、俺でもしたことないわ。何だこの無理ゲー)
暗雲たる気持ちになりながら、何か落ちているものはないかと岩の間の隙間を探る。貴樹としては、消費型の攻撃アイテムが欲しかった。ペナルティの基準はまだ曖昧だが、装備しないものなら平気かもしれないからだ。火炎瓶や出血効果を狙えるククリナイフなどは、プレイ時によく愛用していた。
(ん? これは)
指先が、暖かい何かに触れた。感触からいって、木の枝のようだ。少しずつずらして取りだすと、それが何なのか彼にはよく理解できた。
(これは、残り火じゃねえか)
小さな木の枝に、ささやかな火が燻っている。火の部分に掌を当てても、全く熱くなかった。この残り火というアイテムは、使用者の生命力を一時的に増加させる効果を持っている。その量は一・五倍ほど。彼が何度もお世話になった、ダークソウルにおける重要アイテムである。
貴樹は周りを伺い、誰もこちらを見ていなことを確認した。
(いいぞいいぞ、ここにきてようやくツキが回ってきやがった。早速使用だ。少しは安全になるだろ)
何度も見た事のある残り火使用の際のモーションを真似て、それを胸に押し付ける。何の抵抗もなく、体内へ残り火が入り込んでいった。
(おお、おおおお、微妙に温い)
やがて、その柔らかい熱も消えた。胸を高鳴らせて十秒待った。
何も起きない。
新宮が、側に近付いてきた。
「移動するって、宇部君達が言ってます。先生? どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと動く気配があったから」
「まだ、何かがいるかもしれませんね。早く行きましょう?」
「そうだな」
(おい、どういうことだ。何一つ変わった実感がないんだが。まさか別のアイテムだった? それにしたって何も起きてね―じゃねえか。ふざけんな。俺の期待を返しやがれ!)
このエリアに残る障害は、ボスを残すのみとなった。