「イリ―ナという女性は、この祭祀場の中で最も奇跡に長けていると言ってもいい人間です。ですが今は、情緒が不安定になり、不死街の奥で閉じこもっています。いよいよ、彼女の力が必要となる時が近づいてきました。貴方には、彼女を連れ戻しに行って欲しいのです」
ヨルシカの話は、単純な頼みごとだった。
イリ―ナ。もちろん、知っている名だ。
「僕が、ですか」
「力があるとわかった以上、相応の働きはしてもらいますよ」
「その人とはまだ一度も会った事のない僕が、役に立てるかどうか」
「それが、良い方向に作用することもあるのです。貴方は、火守女に対して同情的になっている所が多々見られます。イリ―ナも火守女です。助けたいという気持ちが真なら、彼女もきっと救われることでしょう」
火守女は、誰か一個人を指した言葉ではない。この世界の過去にも、そういった存在は何人もいた。イリ―ナは、自分から望んで火守女になった一例である。
(ひもりんへの気持ちは同情じゃねえけどな)
『じゃあなんだよ』
(愛情です)
『はい』
(それにしても、奇跡か)
貴樹は、思った事をそのまま尋ねた。
「一つ訊きたいんですけど、人の感覚機能を完全に取り戻すことは、奇跡の回復で可能ですか」
ヨルシカはなぜそんな質問をするのか不思議そうに、目を合わせてきた。
「できないことはないですが、少なくとも私では不可能ですね。それこそ、イリ―ナほど熟達した使い手でなければ、逆に悪化させてしまうことにもつながります」
(決まりだな)
貴樹は了承し、不死街へと向かった。
案内ということで、アンリがついてきた。
「魔力防護の施された鎧を着ていないのに、エルドリッチの魔術に対抗できたのは、不思議としか言いようがありませんね」
彼女は貴樹の力がよほど信じられなかったのか、移動している最中にも質問をしてきた。
「原理は、僕にもよくわからないんです。そういうものだとだけ、理解してます」
「貴方は、灰の中でもさらに異質ですね。貴方さえいれば、火継ぎの使命もそう遠からずに果たされるかもしれません」
「大げさですよ」
アンリは貴樹の方を一瞥した後、しばらくの間黙っていた。やがて、息を深く吐くと、苦笑の混じった調子で言った。
「駄目ですね。どうも、上手く訊き出す言葉が見つかりません。私は、こういうことは苦手です」
「それは、どういう?」
「ヨルシカ様から、貴方の力について、探るように言われていました。強すぎる能力は、扱いにも注意を払うべきだと。貴方には失礼なことですが」
「無理もないですよ、自分でも怖いくらいですから」
(ち、もう警戒されてるか。当然だわな。本当は、火継ぎを邪魔するその時まで、ばれないのが一番よかったんだが)
『というか、やっぱり生徒を裏切るだけじゃないよな。お前がしようとしてることは、火継ぎ肯定派の奴ら全員を敵に回すことだ』
(そこは、これからどうにかすんだよ。思うに、全員が火継ぎを望んでいるかと言えば、そうでもない。上手く懐柔して、徐々に味方を増やしていくんだ。何千年も続いている古びた形式に、皆が賛同しているはずがない。システムは常に更新されるべきだ)
『それと、火守女の幸せは両立するのか? 彼女は、使命を第一に考えてるんだろ』
(そこも、何とかするんだよぉ!)
『この人色々ガバガバ…』
人気のない不死街を進み、深く切り立った川の上にかかる橋を渡っていく。ここはシ―リスも倒していた下男亡者が何体も配置されていた場所だったが、既に掃討が終わっていたので、スムーズに進むことができた。
その先は、高い塔がそびえている。中にあるリフトで下に向かえば、次のエリアに着くことになる。今回用があるのは、塔の手前にあるさびれた家屋だった。
悪魔にも、獣にも見える兜をした男が、その家の前の大岩に座っている。
「懲りずにまたやってきたか。あの女がよほど貴重のようだな」
「イーゴン。彼女を閉じ込めて、良いことなど一つもありません。それに貴方自身も、必要な戦力です。戻ることはできませんか」
アンリの頼みに、イーゴンは鼻で笑った。
「あいつ次第だな。その鉄格子から覗いてみるといい。相も変わらず、情けなく苦しんでいる。不本意な事だが、自害しないように見張っていなければならない」
「なら、直接手を差し伸べればいいでしょう」
「これはあいつが選んだことだろう? 火守女になることがどういうことか、理解したつもりになっていたのが悪い」
(イーゴンとイリ―ナ、か)
二人は、同じ国の出身である。カリム。太陽を信仰している国。この二人の結末に、やりきれない思いを抱いた経験がある。安易に割り込むべきではないのかもしれないが、目的のために、貴樹は行動した。
「その中に、イリ―ナさんがいるんですね」
今気付いたとでも言いたげに、わざとらしくイーゴンは彼の方を向いた。
「お前は、誰だ。暗月はいつからこんな変質者を入れるようになったんだ?」
「彼は灰の一人です。それに、まだ所属は決まっていません」
「ほう。なるほど、新参者をよこしたのか。それで、あいつが元に戻るとは思えないがな」
貴樹は鉄の扉を押した。予想通り、鍵がかかっている。
「無駄だぞ。あの女が閉めたんだ。まずはそこから声を張り上げて、入れてもらうように頼む所から始めないとな」
イーゴンの嘲るような声を無視し、拳を握って振りかぶった。
(ノミ)
『どうぞ』
ただの真っすぐな殴打で、補強された扉を破壊した。イーゴンが武器を取って立ちあがったが、その時には地下へと続いている階段を下り始めていた。
『無理矢理だな』
(本来は別のル―トがあったんだが、ま、別にどうだっていいよね)
地下は、石造りの床のあちこちにカビが生え、光もほとんどない牢獄同然の場所だった。その奥の壁に寄りかかるように、一人の女性が座っていた。扉の破壊された音で身を起こしたものの、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
貴樹の立っている方向に顔を向けてはいるが、瞳の焦点はほとんど合っていなかった。
「誰、ですか…?」
イーゴンではないと、判断はついているらしい。薄汚れた修道衣を身にまとい、フードを目深にかぶっている様子は、敬虔深い信徒そのものだった。
「貴方を助けるように言われて来ました。イリ―ナさん、祭祀場に戻りましょう」
彼女はそれを聞くと苦しそうに口を歪め、頭を床に擦れるほど下げた。
「申し訳、ありません。責務を果たすべきなのはわかっています。でも、虫が。たくさんの虫が暗闇から這い出てくるのです。私を苛もうとしてくるのです。名も知れぬ方、どうか私に触れてくれませんか。きっと今よりはましになるかと思います」
彼は、そこで迷うような愚行は犯さなかった。イリ―ナに近付き、脇の下に手を入れて抱え上げる。不安になるほどの軽さだった。
「首に、つかまってください。そうすると安定します」
イリ―ナは、可哀そうなくらい動揺している。
「その、ここまでしてもらうのは。ただ触れてくれればそれで」
「どうですか。落ち着きました?」
背中を慎重にさすっていると、彼女はおずおずと首に手を回してきた。そして、少し驚いたように言ってくる。
「服を、着ていませんね」
「話すと長いんですが。事情があって」
「お気になさらず。…ああ、不思議です。あれだけいた虫が消えていきました。貴方の側にいると、なぜかとても安らいだ気持ちになれます」
「じゃあ、とりあえずこのまま祭祀場に運んでもいいですか?」
「はい、できれば…」
彼女の容態が落ち着いたのを知って、ほっとする思いだった。
『いつもと違うな。ここで下半身に直結するのがお前だろ』
(うーん。これがひもりんだったら、そうなるんだけど。俺の中で、真にこの人を助けるべき奴が決まっているというか。何か変な罪悪感があるんだよ)
『それって』
階段を上がり、外に出る。アンリがすぐに駆け寄ってきた。
「落ち着いたみたいです」
「よかった。誰が治そうとしてもできなかったのに。やはり、貴方はどこか私達とは違う存在なんですね」
イリ―ナが、手を探るように伸ばしてアンリの肩に触れる。
「お久しぶりです。ご迷惑をかけてしまって」
「貴方が元気な姿で帰ってくるのを、皆が望んでいます」
「ふん。ようやく俺も祭祀場に戻れるというわけだな」
岩から、イーゴンが立ち上がる。貴樹達の方を見もせずに、歩いて行こうとした。
「待ってください」
イリ―ナの声で、億劫そうに立ち止まった。
「貴方にも、大きな負担を強いてしまいました。本当に、申し訳ありません」
「全くだな。自覚しているのなら、もう二度と惨めな姿を晒さないことだ。義務とはいえ、俺にだって我慢の限界があるからな」
「…はい。感謝いたします、騎士様」
「ち…」
小さく舌打ちをしてから、今度は貴樹に向かって言ってくる。
「灰。その女に構うのはやめておけ。どれだけ無駄な時間になるか、いずれわかるようになる。共にいて、何の感慨も抱かないつまらない女だ。ククク…」
「その言葉で、本当にいいんですね?」
「…何だと?」
貴樹は、視線をそらさずにイーゴンを見た。
「それは、貴方の本心かと訊いているんです」
イーゴンは不快そうに吐き捨てる。
「口には気をつけろ。貴様に、俺を押し量る資格はない。何もかもを知っているような態度をとるのはやめろ。気に障る」
「なら、イリ―ナさんは僕が庇護してもいいんですね?」
「勝手にしろ。俺に許可を求める意味があるのか? これ以上、くだらない会話には付き合わない。精々、その吐き気がするような偽善で己の心を満たすといい」
去っていくイーゴンの姿を、イリ―ナがじっと見つめている。静かで、何の感情の揺れもない。貴樹が眺めているのに気がつくと、そのどこか澄んだ表情も消えた。控え目な笑みを浮かべる。
「私達も、戻りましょう」
祭祀場に着くと、イリ―ナはゆっくりと貴樹の腕から降りた。
「歩けます?」
「そこまで心配していただかなくてもいいんですよ。見えなくたって、ここの構造は手に取るようにわかります。お優しい方、貴方はまるで、英雄のようですね」
「僕が?」
「失礼ながら、少しだけ、移動中に貴方の器を見せてもらいました。きっと、大業を成されるに違いないでしょう。それだけの可能性があるように思えます」
(ひもりんと言っていることが違うな)
『今は残り火状態だからだろ。力が充満している』
これで、火守女に視覚を取り戻させるための手段は得た。あとは、瞳を取りに行くだけだ。もちろん、次の行動はすぐに起こすつもりだ。彼女の幸せ以上に優先すべきことなどない。
「アンリさん、僕は不死街に戻ります。少し、用事があるので。生徒達が僕を探しているようだったら、教えてあげてください」
「はい? いえ、しかし」
篝火に手をかざそうとすると、音もなくヨルシカが横にいた。
「お待ちください。残念ながら、許可を出すことはできません。今は、攻勢に出るための大切な準備期間。いくら実力があるといえど、単独行動は控えてくれませんか」
彼女は貴樹を案ずるような口調で言う。が、実際はどうかわからない。単に彼が勝手な行動をする状況を許すわけにもいかないのだろう。敵陣営に寝返る、とまではいかないのにしても、万が一だ。どんな強者でも、一人では不覚を取る可能性もある。
だが、貴樹には多少の危険を冒してでも向かう理由が既に出来上がっていた。
「それでも、行かなくてはいけないんです」
「その意志は汲んであげたいのですが。火守女に転送の指示は出せません。納得していただけませんか」
貴樹はそっと篝火に触れる。わずかながら、その火が揺らめいた。
「いえ。そもそも、貴方達に伺いを立てる必要はないんですよ。もしかしたら長い時間がかかってしまうと思いますが、まあ、探さないでください」
「何を―――」
ヨルシカが尋ねかける。その直後、彼の姿は消え去った。
不死街に出現した貴樹は、成功を知ってひとまず安心した。追手が来るかもしれないので、すぐに移動を開始する。
(本当にできたな)
『だから言っただろ』
(ボルドのカスみたいなソウルで、よくこんな力を得られたもんだ)
ボスクラスのソウルを吸収することで、あらたな能力を扱えるようになる。ノミによれば、ボルドを倒した瞬間、そのような内容が急に事実として認識できるようになったらしい。
おかげで、火守女なしでも篝火間を自由に移動できるようになった。これからこの世界を踏破していく上で、かなり重宝するだろう。
(つまり、他のボスを倒していく楽しみも増えたわけだ)
『どんな力を得られるかは不明だがな。エルドリッチのソウルを逃がしたのはもったいなかった』
(ヨルシカがとどめをさしたからなあ。あんな奴のソウルなんて欲しくもないけど)
彼の目指す深みの聖堂は、まだ先だ。おそらくそこで待ちかまえているであろうボスの存在も気にはせずに、幾分楽観的な気分で不死街を走り抜けていった。
◆
身の丈に迫るほどの槍を、彼は軽々と振り回していた。少しも先がぶれることなく、体と水平になったところで止め、再び頭上まで振り上げる。一連の動作は、機械的に行われているように見えたが、ひとつの作品のように、精巧さの中で惹きつけてくる何かがあった。
「また、見ておられるのですか」
側に仕えていた侍女が、同じく彼を見つめる。その瞳には呆れるような光が宿っていた。
「よく飽きないものだわ」
こぼれた言葉に、侍女も頷く。
「ああいった人達の行動を、理解する必要はありません。己を磨き上げることしか考えられないのです。あまり見ていると、相手も迷惑でしょう」
彼女は、なぜあんなものに興味を示すのかという思いも込めて、言ってくる。そうして初めて、敷布の上で組んでいた足が痺れているのに気がついた。どれほどの間、あの光景に魅入ってしまったのだろう。
「そうね。ただ、目に入ってしまうだけ。これ以上眺めていても意味はない」
「あちらの椅子にお座りください。まだ縫物が残っています」
「もちろん、貴方も手伝ってくれるのよね?」
「言わせていただくと、奥様の腕には未だ不安がありますから」
軽い足取りで歩いていく侍女に続こうとした所で、ふと、彼の方を振り返った。
槍を振る手を止めている。少しの疲労の色もない顔が動いて、目が合った。
すぐに目線をそらす。何だか悪いことをしてしまったようで 胸の内が締められているような感覚に陥った。
いや、違う。これは、本当に、自分の胸だろうか。自分の抱いた感情なのだろうか。
「ちょっと、下田! あぶな」
高原の声で、びくりと頭が動いた。いつの間にか閉じていた目を開けると、光球が迫ってきている。手で防ぐ間もなく、顔にまともに食らってしまった。衝撃が伝わり、のけぞってそのまま背中から倒れる。
「うわ、ねえ、大丈夫?」
下田は半身を起こすと、自らの顔を触った。それほど大きくもなく、速度も抑えたものだったために、痛みは残らない。ただ、頭の芯が定まらないような感覚は続いていた。
立ち上がった彼を確認して、高原は息を吐いた。
「鈍くさいにもほどがある。今の、反応できない速さだった?」
「ううん、ごめん。ぼんやりしてたみたい。とりあえずあの人に謝らないと」
「は? 誰に」
「気が散ったと思うから、あれだけ頑張ってたみたい、だ、し…?」
自分の言っていることがわからなくなって、口が止まった。一体、誰のことだ?
「下田さあ、ちゃんと寝てんの?」
高原は、病人でも見るような顔になっている。
「それなりには」
「あんた最近ずっとそんな調子じゃん。目の方も、それ、隈できてるよ」
「ごめん…」
「責めてるわけじゃなくて。一応、ほら、同じグループとして、ね?」
「気をつける」
相手の加減した魔術を、同じく魔術で作り上げた盾で防御する。そんな単純なこともおろそかになるほど、彼には精神的疲労が溜まっていた。
母の手術日はとっくに過ぎている。結果がどうなったのか、心配で仕方がなかった。重大な局面で自分がそこにいられないもどかしさ。それが収まるどころが強くなってきている。
加えて、亡者の夢をよく見るようになった。不死街での掃討では、初めほとんど拒否反応が出ることはなかったのに、後になってから、あの萎びた体が四散する光景が何度もフラッシュバックするようになったのだ。おかげで眠れない日が続いている。
揺れる意識を何とか奮い立たせて、各々の専門の鍛錬は乗り切った。
自分の頬を叩いて、外にいる草野達を合流しに向かう。
「わっ」
「ひ」
いきなり背中を押されて、下田は情けない悲鳴を上げた。振り返ると、笑いをこらえている様子の芳野と久慈がいる。
「な、なにするの」
「下田が、期待に応えてくれるのがいけないんだよ。良いリアクションだね」
「ていうか、途中ちとせにやられてたけど、大丈夫? いじめるなんて最低な女だよね―」
「私のせいじゃないし」
この三人の賑やかさで、幾分無理矢理ではあるが、目覚ましにはなった気がした。学校で彼女達と話したことはほとんどなかったのにも関わらず、こうして元気づけようとしてくれるのはありがたい。ただからかいたいだけかもしれないが。
さっきの光景は一体何だったんだろうか。
白昼夢にしては、やけにはっきりしていた。確かに言えるのは、あれは自分が経験したことではない。誰か、別の人の中に入り込んでいるような感覚だった。では、なぜ? 自分がそんなものを見る理屈が、どこにあるのだというのだろうか。
うんうん考え込んでいると、前から歩いてきていた女性にぶつかってしまった。
「す、すいません」
慌てて手を差し伸べると、彼女は何かを探すような間をおいた後、ゆっくりと握ってきた。初めて見る人だ。教会でずっと祈りでも捧げていそうな格好で、何となく見ているだけでも落ち着く雰囲気がある。
「こちらこそ。よく前を確認していなかったものですから。あら…?」
ぐっと、女性は顔を近づけてきた。突然の行動にどぎまぎした下田は、やがて別の意味で気まずさを覚えた。フードから出てきた彼女の目は下田をとらえてはおらず、わずかに白濁している。
彼の感情に気がついたかのように、彼女は薄く笑った。
「お見苦しいものを見せてしまいましたね」
「あの」
「火守女である以上、視覚を失うことは必然です。お気になさらず」
その言葉に、引っかかりを感じた。あの、銀髪の女性と同一人物とは思えない。火守女というのは固有の名前ではなく、役柄の意味合いを持っているということだろうか。
「貴方の器に、何かがよぎった気がしたのですが。思い違いでしたか。灰の方々、初めてお目にかかります。奇跡使いの指導を任ぜられました。イリ―ナと申します」
どこかで聞いた名だった。確か、カルラが奇跡の専門者の不在について言っていたような気がする。目の前の女性がそうなのか。
「どうやら、貴方も奇跡を修めているようですね。至らない所もあるとは思いますが、よろしくお願いいたします」
下田のような奇跡に適性を持つ者も、今までは魔術を磨いていくしかなかった。しかし、彼女が来たということは、ようやく重要な治癒の力も鍛えることができるのだ。
「今から、鍛錬をつけてくれるんですか?」
「いいえ。これから、外に向かわれるのでしょう?」
「じゃあ、明日から」
彼女は申し訳なさそうに首を振る。
「そうもいかないのです。しばらく、貴方達は祭祀場に戻って来られないでしょうから」
どこか、気の毒そうな様子でそんなことを言った。
「それは、どういう意味で」
「これからわかると思います。健闘を祈りますよ」
一緒にいた高原達にも頭を下げ、イリ―ナは歩いていった。
高原が、首を傾げてその背中を見送っている。
「何があるんだろ」
外へ向かう途中、広場で異様な物をみた。
人なのか、そうでないのか定かではない見た目をしている。上半身は綺麗な人の姿をしているのに、下半身は気持ちの悪い黒々とした塊に飲まれていた。その姿を前に先に行っていた女子達も大勢眺めていた。
その中心にいたヨルシカの説明によれば、薪の王の一人であるらしい。下田はそれを聞いた時、少しだけ気が楽になるのを感じていた。つまり、目標の一つが既に片付いたことになるわけだ。あと三つか四つ薪を集めれば、使命とやらを果たし、現実に帰ることができる。自分の知らない所で、いつ間にかか全て集まっていればいいなとひそかに願った。
外に出ると、既に男子達の集団が集められていた。その中で草野と国広を見つけ、近づいていく。
「なあ、見たか」
いきなり、草野が尋ねてくる。
「玉座にあるもののこと?」
「どうやら、ロスリックの城壁に向かった奴らが遭遇したらしい。宇部達がさも自分で倒したかのように話してたけど、どこまで本当のことやら」
「目的が達成されるなら、何でもいいよ」
「しかもそれのことで、ジ―クがありえないことを言ってたんだよ」
「何?」
正直、ほとんど興味はなかったが、草野の楽しそうな様子につられて訊いた。
ジ―クバルドがいる所では先生と呼んでいる一方で、こうした会話では親しそうに呼んでいる。草野の距離を縮めようとする積極性が表れていて、悪いことはではないのだ。しかし、下田はどこか気に入らなかった。どうせ日本に帰るのに、わざわざ仲良くする必要があるのだろうか。勝手に戦えと言ってきている人達なんかと。
「あれを倒す上で一番貢献したのが、タカセンらしいんだ」
「…戸水先生が?」
「ボッコボコにしたらしい」
失礼かもしれないが、どうにも信じがたい。仮にもこの世界で戦うための力を与えられた下田達とは違って、貴樹には何の能力も持ち合わせていない。柔道や空手の有段者だということは聞いたことがあるものの、それだけであの化物をどうにかできるとは思えなかった。
「おかしいね」
「ああ。あの人、たまに冗談言うからな。話半分に聞いておいた方が良いだろ」
「なるほど。困った男だなそいつは」
ジ―クバルド本人が、草野の肩を叩いた。
「いやあ、本当に。彰浩、お前の発言には重みがねえ」
「え…」
すぐさまごまかした草野は、取り繕うようにジ―クバルドに顔を向けた。
「で、今日も模擬戦ですかね」
「いや。残念ながら貴公達の担当はもう私ではない。言うのを忘れていたが、定期的に指導者を変えた方がいいという結論になってな」
目に見えて、草野の表情が明るくなった。
「じゃあ、次は誰になるんすか。まさか、待望のアンリ」
静かな声が、二人の間に割って入った。
「さっさとしてくれるかしら。時間が惜しいわ」
下田達の前にやってきたのは、特徴的な兜で顔のよく見えない高身長の女性、ミレーヌだった。
「げっ」
「何か?」
「い、いえいえ」
「ジ―ク。貴方の指示を待っている灰達もいるわ。行ってあげたら?」
「おお、そうだな。では皆、達者でな」
ジ―クバルドが去っていくと、重い沈黙が流れた。ミレーヌは一人一人をじろりと見つめた後、無造作に背中を向ける。
「ついてきなさい。不死街の外れにまで行くから、少し歩くことになる」
「あの、あたし達は何をするんでしょうか」
高原が丁寧に尋ねたが、ミレーヌはにべもない。
「質問はしないで。到着するまで無駄な会話は禁止よ」
「はい、了解しました」
そのまま下がってきた彼女は、他の女子二人に小声で、こわ、と呟いていた。
「なあ、あれ、国広よりもでかくね」
「うん。多分あの人先生くらいはあるよ。凄いね、モデルみたいだ」
ミレーヌが振り向くと、草野と国広はおとなしく口を閉じた。
針のような人だ、と下田は直感的に思った。ジ―クバルドもあれでいて、前衛二人が一度もまともに勝たせてもらっていない。彼女も、自分達とは隔絶した技術を持っているのだろう。素人目で見ても、付け込める隙はどこにもなさそうだ。
祭祀場に戻り、火守女に転送させてもらって、不死街に着いた。
小屋から出た瞬間、下田は遠くの方で人が動いているような気がした。だが、もう一度見てみると、もうどこにもいない。錯覚だったのだろうか。
ミレーヌはすぐそばの橋から横にそれ、森林の方向へと歩いて行く。正直、下田は軽く走らないと追いつけない。それほど、彼女はすいすいと進んでいく。
感覚で、数キロほど歩いた頃。周りはすっかり緑に覆われ、うっそうと茂った植物たちが、澄んだ空気を作り上げていた。そこまできてようやく、どこか噛み合わないような違和感の正体に気がついた。動物の気配が、ほとんど感じられないのだ。小さな虫くらいはいてもよさそうなのに、動くものはない。
息の詰まる静寂の中、木々の間隔が不自然に広くなった場所に出た。そこの一帯だけ、草が踏み慣らされている。
「ただいま戻りました」
ミレーヌの雰囲気が和らいだ。彼女の呼びかけと同時に、寝そべっていた大きな狼がのそりと動き出す。
「よくぞ来た。灰人よ。ここらは狼血の騎士が訓練のために使っている場所だ。このシフィオ―ルス、心から歓迎しよう」
狼が近づいてくるのを見て、下田は後ずさっていた。何しろ四足で立っている状態でも、彼の背丈を優に超えている。害意はなくとも、迫力を感じるのは仕方のないことだった。
一方で、女子三人は興奮したように寄っていく。
「すげ―、おっきい」
「あれだよあれ。ジブリみたい」
「すごいふさふさだよ」
芳野が前足を触った所で、ミレーヌが言った。
「やめなさい」
「いいのだ。親しみをもって接してくれるのは悪い気分ではない。それにミレーヌ、いいかげんその兜を取ったらどうだ。ここまできたらもういいだろう。無駄に人を怯えさせるな」
「はい。そうおっしゃるのなら」
周囲に広がって傘のようになっている縁の部分に手を賭け、ミレーヌは兜を脱いだ。中でまとまっていた黄金色の髪が流れ出し、背に薄くかかる。あんぐりと口を開け、草野はその顔を眺めていた。
「お、お姉さん…!」
その行動原理は全く持って理解できないが、彼は抱きつかんばかりの勢いで彼女に走り寄っていく。腕が彼女の肩に接する直前で、素早い蹴りが草野の脇腹を直撃した。彼の体は近くの木にぶつかり、そのまま地面にへたり込む。
「ミレーヌ、何をしている」
「この場合は、あちらの方が悪いでしょう。…貴方、今度同じことしたら手加減はしないから」
「ひひっ、これはこれでいいかも」
草野は、ぼうっと宙を見ていた。この状態は、前にインフルエンザで一週間学校の女子に会えなかった時にも見たことがある。一体、どれだけ欲求不満なのだろうか。高原達も、汚物を見るかのような視線を彼に向けていた。
美しさはそれだけで、ある種の壁を失くさせることもある。兜をしていた時ほど怖がっていない自分に気がついて、下田は自らを戒めた。この人達は、自分の家族でも、仲間でもない。違う世界の人間だ。この、慣れ合いに近い空気に呑まれてはいけない。
ミレーヌの瞳が、そんな彼の感情を見抜いたかのように向けられる。そこで初めて、彼女はふっと笑った。己の何もかもを見通されたような気がして、下田は俯く。
シフィオ―ルスが久慈の頬をぺろりと舐めて驚かせた後、言った。
「さて、無事初めの戦闘もこなし、少々勝手もわかってきた頃だろう。鍛錬も、次の段階に進めていかねばなるまい。お前達にはこれから――」
「失礼を」
ミレーヌが話を遮った。彼女は下田達の背後の方を睨みつけて、声を上げた。
「出てきなさい。ずっと私達の後を尾けていたのはわかっている」
草をかき分ける音がして、下田も驚いて振り返った。誰かが後ろにいたことなど、少しも考えにのぼらなかった。
姿を現したのは、くたびれた様子の男だった。ろくに洗っていなさそうな鎧を見に付け、傷のついた剣と盾を携えている。口周りの無精髭のせいで老けているように見えるが、顔に目立った皺はなく、あるい程度若いことは予想できた。
見憶えのある男だ。ルドレスより説明を受けることになった列席場まで、案内を務めていた。その時はやけに卑屈そうに構えていたのが印象に残っている。
「武器を、下ろせ」
ミレーヌに命令されて、男は剣を鞘に納めた。
「そう警戒するなよ。これは、自衛のためだ。絶対に安全と言える場所なんてないだろ」
「黙りなさい。何を企んででいるの?」
彼女の表情は、再び固く引き締められていた。むしろ、最初の時よりも固い。男に対する明確な拒絶の意志が表れている。
男は肩をすくめた。
「大げさな。ただの見物だ。世界を救ってくれる灰とやらが一体どれほどのものか、確かめることくらい許してほしいものだな」
「どの口が言っている。貴方は、ここへ来る資格すらないということを理解しているの? この、恥知らずの裏切り者…」
「なぜ、お前の許可を得なくてはならないんだ? まさかこんなしけた場所に俺が喜んでやって来ているととでも思っているのか?」
「やめろ、二人共」
シフィオ―ルスが動き、ミレーヌの前に出る。そして、男に向かって低いうなり声を上
げた。
「我々を侮辱しないことだ、ホークウッド。ここは我ら狼血の騎士が己を磨く場所。血を拒否したお前が、近づいていい場所ではない。我々の忍耐を試すのはよせ」
威嚇ともとれる言葉に臆するどころか、ホークウッドは急に苦々しく顔を歪めて、吐き捨てるように言った。
「…お前と、話しているわけじゃない。俺の視界から消えろ、くそったれのけだものめ」
「貴様…」
ミレーヌが耐えきれずに一歩踏み出した所で、再び無理矢理笑っているような表情に戻った。
「おいおい、味方同士だろ? やめてくれよ」
じりじりとホークウッドは後ずさりし、両手を上げながら木々の間に入っていく。どこか哀れみさえ感じられるその様子に、ミレーヌも毒気を抜かれたのか、抜いていた剣を収めた。
「もし、また私の前に姿を現したら、殺すわ」
「難しい頼みだな。お前の行動を予測して、鉢合わせしないようにする努力が必要になる」
「その脂にまみれた舌を斬り落とされたくなかったら、今すぐに消えなさい」
間に挟まれている下田は、胃が痛くなり始めていた。静かに憤っている彼女に逆らおうという気はまるでなくなる。女の人をこれだけ怖いと思ったのは初めてかもしれなかった。自分達は蚊帳の外だが、早く終わってほしいと願っている。
ホークウッドはこちらの視界から消えるまで、ミレーヌを真っすぐ見つめていた。その視線だけは、並々ならぬ力がこもっているように思えた。