火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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17.祭祀場襲撃

 エルドリッチは玉座から降りると、石の地面に手を当てる。そこから、黒い渦が広がった。煮立った湯のように不規則に泡だってから間もなく、複数の人影が這い出てくる。まるで地獄の使いのごとく。

 細かい装飾が施された法衣を着る、頭を丸めた聖職者の見た目をしている男が三人。

 異様に大きく太い、斬るというより叩き潰すための刃を持つ剣を肩に抱えた騎士。

 着ている鎧の全てに隙間なく棘が生えて、その武器もまた刺々しい男。

 そして、最後の一人はおもむろに手をかざすと、青白い光が一瞬点滅した。

 かふ、とすぐ隣で誰かが息を漏らすのを、下田は聞いた。横を見ると、高原が自身の下腹部あたりにあいた大きな穴を、呆然としながら触ろうとしている。その穴から腸や血液が流れ出すのと同時に、後ろへ倒れ込んだ。

 

「この程度、防げるとばかり。つまらないわね」

 

 黒のローブを着た、赤い髪の女。目ははどこか蛇にも似た光を放っている。挑発的な表情を浮かべ、唇は紫色に毒々しく色づいていた。

 言葉から、魔術による攻撃だとわかった。ただ、いつ貫いたのかまるで見えなかった。

 何してるんだ。治さなきゃ。

 未だに事態を受け入れられていない頭とは別に、体は彼女の治療へと動く。

 

「余計なことを、今殺しても意味はないでしょう」

 

 法衣の男の内の一人が、魔術を放った女に忠告する。それに対して、彼女は舌を出してみせた。

 

「情けなく殺された誰かに、言われたくないわ」

「貴方…」

 

 特大の剣を持った男が、大笑いをする。

 

「ちげえねえな。おい、マクダネル。この中にお前を殺した奴はいるのか。俺はそいつ目当てで来てやったんだ」

「いえ、いませんね。そもそも、一瞬の話でしたから。ロイスの方が良く知っていますよ」

 

 同じく色調の暗い法衣を着た、マクダネルよりも細身で背の高い者が鼻を鳴らした。

 エルドリッチが彼らの前に出ると、大げさなほどに手を横に広げた。

 

「どちらにせよ、アナタ達にはやるべきことがある。カーク、アナタは他の灰達を探しなさい。ロイスをつかせるから。いいね、余計な灰達は一つの例外もなく、できる限り残虐な方法で殺しなさい。例の二人は部屋の一つで倒れている。回収するんだ。五本指の実力を見せてくれよ」

「フン、言われるまでもない」

 

 棘の鎧を着た男が動いた所で、ようやく全員が危機を認識したようだった。

下田は高原の傷を治そうと試みている。血が次々とあふれている。普通ならあっという間に失血死するほどの重傷だが、奇跡の光を当てることで勢いがおさまってきている。もちろん、予断は許されない状態だ。

 それに、このまま治療に専念できる状況が続くとは、とても思えなかった。

 

「皆、固まって。俺と草野の後ろに入るんだ」

 

 カークとロイスが横穴に消えていくのと同時に、国広が指示を出した。訓練や、不死街よりも先の区域で何度もとっていた並び。陣形と言うには少し単純かもしれないが、これでいくつもの戦闘をこなしてきたという自信が、安心感につながっていた。今までは。

 大剣の男と、魔術師、そして三人目の坊主頭が下田達の方へ歩いてくる。彼らは、周りを適当に見回していた。

 

「これが祭祀場か」

「案外、しけた所ね。暗いし、じめじめしてる。絶対に住みたくない。こんな場所にいたらこっちまで性根が暗くなりそう」

「もう少し、敬意を向けたらどうです。仮にも火継ぎの本拠地ですよ。これから無残に崩壊するのだとしても、だからこそ哀れみ、祈りましょう。くだらない使命に囚われている者達を」

 

 実際に戦ってもいないのに、下田は彼らを退けるのが不可能だと瞬時に理解していた。ダークレイスを初めて目にした時よりも、はるかに酷い悪寒が背筋を這い上ってくる。勝てない。そう思い込まされた。

 助けを呼ぶしかない。ヨルシカや、ジ―クバルド達ならば、対抗できるだろう。しかし今の段階で誰も姿を現さないことに対して、不吉な考えばかりが浮かんでくる。外になら、グンダがいるかもしれないが、そこにたどり着くのが限りなく遠い。

 エルドリッチは、いつの間にか広場の中央部へと移動していた。そして下の膿の部分を広げると、篝火を包み込んでいく。その膿の一部が燃え、焼けただれていくのが見えたが、やがて柔らかい火の光は全て黒く埋め尽くされた。

 

「不死身だから、最悪の事態にはならない。なんてことは、思わない方がいいよ」

 

 薄く笑いながら、エルドリッチがこちらに向かって言ってくる。

 その意味を飲み込む前に、悲鳴が聞こえてきた。

 生徒達のいる穴からだ。苦痛の入り混じった叫びと共に、物が壊れる音や誰かが走って逃げだす足音がしている。

 

「ほらほら、ここ」

 

 エルドリッチの指先が、篝火を覆っている膿を差す。その一部から突然何かが飛び出してきた。人の手だ。もがくようにして腕を何度も振っているが、どんどん奥の方へと引きずり込まれていく。

 

「やはり、ここが灰達の復活地点になっているようですね」

 

 マクダネルの言葉と共に、次々と人の体が現れては膿に飲み込まれていった。下田達は、その光景をただ見ていることしかできない。明らかに、他の生徒達の体だった。

 自分達は、死ねば篝火の下で復活する。それを利用された事実に、恐怖が広がっていく。もし今殺されれば。考えるだけで目の前が暗くなった。

 

「この調子で灰を捕えていこうかぁ。そこにいるのもね」

 

 最後に付け加えられた言葉で、三人がゆっくりと下田達の方を見た。国広と草野が剣を構える。それを、大剣の男が(はや)し立てるように拍手をした。

 

「こいつら、戦う気だぞ。面倒だな」

 

 魔術師の女も欠伸しそうな顔で言う。

 

「わざわざそうしなくてもいいわ。これで十分」

 

 その体の周囲に、ソウルの光球が現れる。その数は七つ。ちょうど下田達の人数と同じだ。

 矢の形に変化すると、一本一本がそれぞれの頭に狙いをつけた。

 先ほどと同じ速度で放たれたら、到底かわせない。下田はとっさに高原ごと自分を魔術の防壁で覆った。続いて久慈が分身し、二人で国広と草野の前に出て、同じく盾を張る。

 女は、それを滑稽そうに眺めていた。

 

「なーにそれ。お粗末ねぇ。そんな薄くて脆い防護で、防げるわけないでしょ。拍子抜けしたわ。さようなら、もう死んでいいわよ。あらら?」

 

 彼女は顎に指先を当てて、周りを見回す。一瞬で、浮かんでいた光球が無くなっていた。既に放ったのかと下田は警戒したが、当人も不思議がっているのを見てその考えを改めた。

 そして、女は魔術の行き先を確認すると、面白そうに笑みを浮かべた。

 

「やだ、私のよ。返して」

 

 新宮が、矢を四本ずつ二回に分けて女の方へと飛ばす。それを軽々と消してから、女は追加の矢を作り出した。しかし、それもすぐに消失し、新宮の側へ現れる。もうたまらないとばかりに、女は腹を抱え始めた。

 

「ねぇ、この子おもしろ―い。私の魔術が盗られてる。どうしたらいい? これじゃあ、もしかしたら負けちゃうかも」

 

 その隙に合わせて新宮が再び矢を放ったが、片手で作り出した小さな防壁に全て防がれてしまった。

 詠唱を奪う。それが新宮の固有能力だと、下田は記憶している。この場面を見れば、その強力さは明らかだ。これなら、魔術等を使う人間に対して大きなアドバンテージを得ることになる。

 女は何度か魔術を展開させ、新宮に奪われるのを繰り返した。次第にその笑みが消えていき、不愉快そうに目を細める。

 

「ん―、違うわね。盗られる、というのは正しい表現じゃない。貴方、私の真似をしているだけね。しかも随分と劣化させて。それは侮辱行為よ。最低だから、本気を出してあげる」

「させない」

 

 新宮の横から、実織が飛び出す。掌から火の玉を作り出した。下田は、目を見張る。グンダとの戦いで見せた時よりも、かなりサイズが大きくなっている。あんなものに当たったら、人間の上半身が一瞬で消し炭になってしまうだろう。

 放たれた火球は敵に向かって飛んでいく。女は、何もしないままその場にとどまっていた。まるで助けが入ると確信しているかのように。

 

「思い切りのいい呪術だ。それだけですが」

 

 坊主頭の男が手に持つ杖を振るい、その先を炎に当てた。あれだけ勢いのあった実織の炎が、一瞬で小さくなり、消えていく。

 

「灰の方々、私はクリムト。エルドリッチ様に仕える深みの主教の一人として、どうかよろしく願います。まずは、呪術の手本をご覧にいれましょうか」

 

 杖を独特な揺れる軌道で動かし、あっという間に巨大な炎を作り出した。実織の、何倍もある。見る目にまで熱が伝わってきて、周りの気温が一気に上昇する。下田は治療する手を止めないようにするのが精一杯だった。

 

「それ、こっちにまで被害がきそうだけど」

「問題はありません。この程度防げないようでは、エルドリッチ様の守り手は務まらないでしょう」

 

 新宮が、手を炎に向けた。 

 クリムトの頭上にあったそれが消失し、彼女の方へと出現する。

 

「生徒達を、解放して」

 

 呪術まで奪えるという事実に、下田もほっと安心した。あれが放たれたら、絶対に無事では済まなかっただろう。

 だが、敵側は余裕の態度を崩してはいなかった。

 

「フフフ、ねえ、無理しない方がいいと思うわ。ほら、もう消えそう」

 

 新宮に疲労が現れているのを、この時初めて気がついた。炎が急速に衰えていき、呆気なく消失してしまう。

 

「凄い能力だと思う。本当よ。術士にとっては天敵に近いのかもね。でも、限界はある。どこまで耐えられるかしら?」

 

 矢を作り出す、新宮がそれを奪う。直後間をおかずに、女はさらに太いソウルの矢を放った。追加して、十数個のソウルの光球をそれぞれ異なる軌道で飛ばす。それで終わることはなく、大きなソウルの塊を下田達の上に作ると、そこからいくつものソウルの矢が降り注いだ。

 

「盾の中に、早く!」

 

 久慈が叫んだと同時に、全員がより固まって防御の姿勢を取った。魔術で作った防護を突きぬけて、いくつかの矢が落ちてくる。下田は目をつぶり、高原の体に覆いかぶさった。背中が抉られる感触に、気を失いそうになる。だがここで耐えなければ、失ってしまう命を考え、歯歯を食いしばって意識を維持する。

 長い攻撃が終わった後、目を開けると、無傷の者は一人もいない。本当に、盾はほとんど機能しなかった。受けてみてわかる、魔術の差。

 

「なるほどねえ、そういうこと」

 

 一番酷かったのは、おそらく魔術のいくつかを無効化しようとしていた新宮だ。ローブが破け、両腕が血まみれになっている。意識がほとんどないのか、その場に座りこんで頭をがっくりと落としていた。

 

「奪えるのは、一度に一つまで。こんなふうにたたみかけてあげれば、対応しきれない。何だか弱い者いじめしてるみたいで、気が滅入るわ」

 

 その話が事実なのは、実織の反応を見てわかった。彼女は何とか立ち上がろうとしているが、足を痛めているようだ。

 

「誰か、外に行って助けを呼ぶんだ…」

 

 比較的軽傷の国広が、背中を向けたまま言う。剣を相手側に向けて、言葉を続けた。

 

「俺が、何とか時間を稼ぐから。このままじゃ絶対に勝てない。祭祀場の人達の力が必要だ」

「おっと、それはよろしくないな」

 

 国広は言われる前に横に飛んでいた。彼のいた場所を、豪快な風切り音をたてて特大の剣が振り下ろされた。刃が叩きつけられた瞬間、その振動が下田にまで伝わってくる。その男の身丈とそう変わらない、出鱈目な大きさの剣だった。

 

「逃げるな。後ろ向きなのは駄目だ。もっと気楽にいこうぜ。このゾリグに殺されてもらえるんだから、喜べ」

「ちくしょう…」

 

 ゾリグの背後から、草野が斬りかかろうとする。が、その直前で彼は後ろにのけぞった。上すれすれに、刃が横切っていく。

 

「お? いい勘してるじゃねえか。俺に潰されるまで、精々楽しませてくれよ」

 

 草野と国広の二人ががりで相手しても、このゾリグという男はつまらなそうにしていた。その光景は、彼らがジ―クバルドに軽くあしらわれていたのを思い出させる。違うのは、相手が本気で自分達を殺そうとしていることだ。二人の振るう剣と同じかそれ以上の速さで、ゾリグは特大剣を扱う。信じられない腕力だった。

 初めに国広が吹き飛ばされて、それから間もなく粘っていたかのように見えた草野も武器を破壊されて、岩のような刃に打たれた。二人は壁に激突し、立ちあがれないほどの痛みでうずくまった。

 

「興醒めだぜ。これが灰か? どこが世界を救う戦士だ。期待したのに、とんだ無駄足だったな」

「そうね。飽きてきたし、さっさと殺しましょ」

 

 下田は、自分でも気がつかないうちに治療をやめていた。抵抗をしようとも思ったが、何もかも無駄になる行動をする意味も感じられなかった。自分達は、まともに戦えてさえいない。ただ一方的に、負けたのだ。これから死に、あの膿の中に飲み込まれるという恐怖を実感できないまま、最後の時を待っていた。

 ゾリグと魔術師の女が近づいてこようとした時、横穴の方から棘の鎧の男とロイスが出てきた。

 

「戻ったかい。うん、ちゃんと回収したね」

 

 貴樹と、火守女が抱えられていた。では、目的とはあの二人のことなのだろうか。両方とも意識はない。実織が、顔を上げた。なぜ、と彼女の口から言葉が漏れる。下田も同じ気持ちだ。なぜ、よりにもよって彼らが。

 ロイス達はエルドリッチの言葉に応えることなく、走って、篝火の方に到達した。それから、棘の男の方が来た道の方を振り返って、吐き捨てる。

 

「あの女共は容赦がない」

 

 直後、芳野がはっと男と同じ方向を向いた。その顔をは今までと一転して光が差したような表情をしていた。

 穴から、ソウルの矢が飛び出す。矛先を向けられた魔術師の女は、初めて防ぐことはせず、億劫そうに横にかわした。それから、突然大声で笑い始めた。

 

「カルラぁ、久しぶりね。会いたかったわ」

 

 三人の女性が、姿を現した。

 それを見て、下田は一気に脱力する。助かったという思いだけで、涙が出てきそうだった。

 清らかな鈴の音が、場違いなほどに響き渡る。下田達の周りに山吹色の光の円が広がり、皆の傷を癒していく。聖鈴を掲げたイリ―ナが、下田の方へと走り寄ってくる。

 

「一番重いのは彼女ですね。よく、持ちこたえてくれました。貴方の頑張りの成果です」

 

 その隣に付き従うカルラが、下田の顔を触ってくる。

 

「大丈夫か」

 

 いつもなら戸惑うばかりだったが、今はただただ安心感の方が強かった。俯き気味に、彼は頷く。

 

「はい」

「そうか、よかった」

 

 最後にヨルシカが手を上にかざし、味方全体を包むような膜を張った。そして下田達の方を見ると、申し訳なさそうに目を伏せる。

 

「気づくのが、遅れました。貴方達と外にいる灰以外は皆、あれに飲み込まれました。完全に、私の油断が故です。情にかられて、あの人食らいを処分するのを怠ってしまった。ですが、もうこれ以上の狼藉は許しません。あれを滅ぼし、灰の方達を救い出しましょう」

 

 その言葉には、光が宿っているような気がした。

 彼女らの後に続いて、赤みがかっている肌の巨男と、老婆の侍女も円の中に入ってきた。

 

「どうなってやがるんだ。まさかこんな事に巻き込まれるとは思ってもいなかった」

 

 侍女の方は何度か会ったことがある。男の方も、一度だけ草野と国広の武器を研いで

もらうために会ったと話に聞いていた。アンドレイという名の、鍛冶職人だ。

 

「ええ、確かに異常事態です。どうか、ここから離れないようお願いします」

 

 それからヨルシカはその美しい顔に怒気を孕ませて、エルドリッチ達を見据える。

 

「マクダネル、クリムト、ロイス。それに神食らいの守り手達と五本指の一人ですか。本気で、ここを落とすつもりなのですね」

「それだけじゃないよ。ワタシは、彼に興味があるんだ。できることなら、こちらの戦力として加えたい」

 

 貴樹の顔を、エルドリッチの指が撫でる。

 

「ふうん、これが、噂の灰ね」

 

 魔術師の女が彼に近付くと、全身を舐め回すように眺めた。

 

「いい体してるじゃない。それに、顔も好み。エルドリッチ様、これは私に任せてください。ちゃんと洗脳して、仕上げますからね」

「それを、許すと思いますか」

 

 ヨルシカが、続けて四本のソウルを放った。それらは途中で弾けて、鋭い針のような形状に成り、一斉に女に向かって収束していく。ゾリグが横から飛び出してきて、半分を叩き落とし、残ったもう半分はクリムトが半透明の盾で吸収した。

 

「さてさて。このまま続けてもいいんだが、まだ一人、隠れている誰かがいるねぇ。早く出てくるといいよ」

 

 エルドリッチの指先から放たれた紫の光弾が、脇の石階段を上った先にある岩陰へと向かう。それと同時に、そこから人影が飛び出して、下田達の方に駆けてきた。

 

「くそ、ばれていやがった」

 

 不死街の森で、ミレーヌ達といざこざを起こした男だ。彼は錆びた長剣と盾を構えながらイリ―ナの奇跡の円の中に入り込むと、一息つく。

 

「ホークウッド、貴方いつから」

 

 ヨルシカの質問にも、億劫そうに答える。

 

「あの人食らいが復活するより前からだ。こんなことになるなら、もっと早く逃げておけばっよかった」

 

 つまり、下田達が危機に陥っていたのにもかかわらず、陰でずっと見ていたのだ。その時点で、何となくホークウッドとは上手くやれそうにないと感じた。かつてはミレーヌ達と共に活動していたらしいが、何かしらの衝突があったのだろうか。確かに性格的にも合いそうにはない。

 

「他の奴らはどうしたんだ。ちっとも助けに来る気配がないようだが」

「ほとんどが別件です。危機を知らせることはできましたが、あの篝火が占拠されていては戻って来られません。この場の私達で乗り越えなければなりません。貴方も、協力してください」

「協力、だって…?」

 

 ホークウッドは地面に唾を吐くような動作をした。

 

「どいつもこいつも反吐が出る。俺は、お前達とは違う。命を大事にする。勝手にしろ」

 

 信じられなかった。こんな状況だというのに、どうして拒絶するのだろう。彼の侮蔑の眼差しはエルドリッチ側だけではなく、下田達の方にも向けられていた。

 

「どちらの味方ですか? ホークウッド」

 

 ヨルシカの問いは静かだった。だが、それで何かを察したのか、途端に彼は卑屈そうな表情になり、肩をすくめた。

 

「ああ、わかってるよ。俺は死にたくない。だから、手を貸せと言われたらそうするしかない。何をすればいい? この期待外れな灰共の尻拭いをすればいいのか」

 

 答えようとした時、ヨルシカは何かに気がついたかのように一歩下がった。その視線の先は、杖を掲げたマクダネルの方を向いている。

 

「ヨルシカ。アナタにはここで死んでもらえると嬉しい。邪魔な火継ぎ肯定派の終わりは近いよ」

 

 その杖から、黒い霧が噴き出していく。ダークレイスが使っていたものと似ていたが、その危険性は明らかに段違いに感じた。

 

「いけません。皆もっと近くに寄ってください!」

 

 ぐいっと、ローブの襟が引っ張られる。そのままの勢いでヨルシカの体にぶつかってしまい、下田は謝りかけた。しかし、彼女の緊迫した顔を見てそれを思いとどまる。草野と国広も何とか立ち上がり、ヨルシカの張った膜内へと入りこんだ。

 霧はすぐに周りを侵食していき、エルドリッチ達の姿も見えなくなる。イリ―ナの光る円だけが視界を確保し、まるで暗闇の中に取り残された状態になった。

 

「呪死の結界です。触れてはなりません。主教の三人だけは、早めに倒してしまいたかった」

 

 下田は、自分の隊の全員の安全を確認した。男子二人はイリ―ナのおかげか、元気を取り戻している。久慈と芳野は無傷だ。唯一重傷の折った高原は、今は落ち着いた様子で寝ている。見るのも躊躇われるほどの傷の部分は、ほとんど皮が塞がりつつあった。実織と新宮も、立ち上がれるほどには回復していた。

 しかし、決していい状況とは言えない。それはヨルシカ達も十分に理解しているようだ。

 

「随分と楽しい状況だな、え? 足手まといが八人、頼れる前衛もいない」

「黙った方がいい。徒に周りを煽りたてるな」

「八人の中には、俺も含まれてるんだ。もっと気遣ってくれ」

 

 付き合いきれないと、カルラは溜息をつき、下田達を見回した。

 

「まだ、余力はあるか」

 

 全員がそれぞれの顔を伺う。イリ―ナのおかげで、高原以外はかなりましな状態になった。しかし、エルドリッチ陣営の者達に歯が立たないという事実は依然として残っている。彼女たちが来なければ、何かも終わっていた。下田も言葉が出ない。

 そんな感情を理解しているようで、カルラは自然に頭に手を置いてきた。

 

「気にすることはない。いずれ追い付く。まだ、相応の経験を積む段階にあるというだけだ」

 

 度々、修練の最中でも疑問に思うことがあったが、彼女の自分に対する妙な優しさは何なのだろうか。そうやって慰めてきている時の彼女の瞳は、どこか遠くへ向けられている。

 

「無闇に灰の方達を面に立たせるわけにはいきません。これ以上、エルドリッチに取り込まれる数が増えてしまうのは、避けたい事態です」

 

 イリ―ナが奇跡の円を消すと、高原の方へと寄った。お腹の傷をみると、表情をさらに引き締める。

 

「ちとせは、大丈夫ですか」

 

 久慈の不安そうな問いに、しっかりとした答えを返す。

 

「大丈夫ですよ。山は越えました。傷が残らないようにするのは、難しいかもしれません」

「治ってくれるなら、しょうがないと思います」

 自分達の状態は一旦落ち着いた。もちろん、いつまでも敵が攻めてこない保証はない。エルドリッチ達の打倒は、状況を動かすために絶対に満たさなければならない条件だ。それに加えて、飲み込まれてしまった生徒達も救出しなければならない。

 

「あの邪悪な膿を切り開くことは可能です。奇跡を使えば」

 

 イリ―ナの言葉に、ヨルシカが続ける。

 

「霧の中を、この結界に入ってさえいれば移動することはできます。エルドリッチの元へと到達すること自体は難しくありません。問題は、相手がそれをさせるはずがないことです。イリ―ナの奇跡で膿を退け、灰達を救出する時間も稼ぐ必要があります」

 そこが、最も難しい点だった。相手の注意を引きつけてくれる、強力な前衛の存在が欠けている。草野と国広でも、ゾリグ一人にまるでかなわない状況だ。ホークウッドもそんな大きな存在になれるとは思えない。

 必要なのは、時間。生徒達や貴樹、火守女を救い出すための隙を作らなければならない。何か手はないかと考えた時、下田はようやくひらめいた。

 

「なにか、思いついたんだね」

 

 国広がその様子に気がつき、言ってくる。そして全員が下田の方を見た。

 

「う、うん。そう、なんだけど」

 

 話しだすのには少し戸惑いがあった。それに、今までそのことを忘れていた自分を、責めたい気持ちで一杯になっていた。もっと早く実行していれば、こんな事態になるのを防げていたかもしれないのに。

 下田は、できるだけ固有能力のことをよく知らないヨルシカ達にもわかるように、説明をした。自分の、篝火に触れている間は時間が止まるという能力。そしてそれは、エルドリッチの膿に包まれてしまった今でも通用するのではないかということ。

 

「お前、そんな力持ってたのかよ」

 

 草野が一番に信じられないという顔をした。下田は納得できない思いで実織と新宮に顔を向ける。彼女達も、まるで初めて聞いたかのように驚いていた。おかしい。三人には、前に教えたことがあるはず。

 それを訊く前に、ヨルシカが確認を入れてきた。

 

「敵側だけではなく、私達も止まってしまうのですね。灰は、常識を超えた力を持っていると聞きます。疑うことはしません。ですが、貴方一人が行動できても、他の灰達を救うのは難しいのではありませんか」

「あ、た、確かに」

 

 案を取り下げかけて、下田は思いとどまった。

 

「でも僕達の能力は、ソウルを消費することで強化できるんです。僕の場合、周りが止まっている中動けるのが僕だけじゃなく、僕に触れている人も含まれるようになります」

「なるほど。そんな仕組みがあったのか。それならば希望は見えるが。一体どれほどのソウルが必要になるんだ?」

 

 下田は絶望した。今持っているソウルでは到底強化には足りていないのだ。

 

「かなりの量が、必要です。僕の分じゃ…」

「俺達の分を、足しても?」

 

 国広の考えも、助けにはならない。八千以上のソウルが必要だと答えると、草野、国広、久慈、芳野、高原の残っているソウルを全部足しても届かない事実だけが重くのしかかった。

 

「私のソウルも、使えないのか?」

 

 カルラの言葉で、下田は顔を上げた。

 

「イリ―ナ。貴公の力でソウルの受け渡しができるはずだろう。火守女は、扱いに長けていると聞く」

「ええ。できますよ。ですが…。いえ、非常時です。私のソウルも使ってください」

 

 ヨルシカも、膜の維持に気を配りながらこっちを見てきた。

 

「貴方に託します。私達も、灰ほどではないにせよ、ソウルを蓄えることはできますから。この場を乗り切るために、力を合わせましょう」

 

 ソウルの受け渡しは、迅速に行われた。イリ―ナが一心に祈るような動作をし、全員の体から白い霧状のものが出てくる。それらは一つに集まると、下田の体の中に入っていった。安心するような温もりが、ほんの少しだけ湧いてくる。

 インベントリの欄を見て、およそ九千ものソウルが溜まっていることを確認した。イリ―ナ、カルラ、ヨルシカの分け与えてくれた分が、どれだけ大きいかを物語っている。

 固有能力の説明の横にある、強化の文字を二度押し、ソウルの消費の承諾をして、彼は自信の能力強化を完了させた。不安はある。しかし、成功してくれなければ困るのだ。

 下田とアンドレイ、侍女の周りに、他の皆が囲むようにして立つ。高原は、アンドレイに背負われていた。

 

「このまま、エルドリッチの元まで進みます。常に気を張っていてください」

 

 国広、草野、久慈、芳野。それぞれが、下田の顔を見て、何も言わずに前を向いた。その表情は張り詰めていたものの、恐怖は薄かった。皆凄い、と、下田は心の中で称賛する。自分だったら、耐えられないだろう。だからこそ、彼らと同じ隊になれてよかったと思えた。

 周りは黒い霧のせいで、ほとんど視界が効かない。反対に、相手にしたらただヨルシカの張っている防壁の方を狙えばいいだけだ。と、普通なら考えるかもしれない。

 

「一人、カルラさんの方に向かってきます。あと、矢が上から」

 

 霧から、カークが飛び出してくる。事前に知らされていたカルラは、当時にソウルの玉を放って牽制した。彼は後退し、再び闇に紛れる。直後にソウルの矢が降ってきたが、それもヨルシカによって撃ち落とされた。

 

「エルドリッチの方向はあっちです。近づいてきてます」

 

 こんな状況で一番効力を発揮するのが、芳野の能力だ。たとえ視界がふさがれていようと、彼女の感覚は全てを把握することができる。

 

「読まれちゃってるわ。へえ、まだまだ楽しめそうね」

「関係ないな。無理やり押しきればいいだけの話だ」

 

 芳野が、はっとして男子達の方へ叫んだ。

 

「そっちにあいつが来る。よけて!」

 

 ゾリグの特大剣が、振り下ろされる。草野と国広が左右に分かれてかわし、その刃は空を切った。かに、思えた。

 

「ちく、しょう」

 

 草野がふらつく。彼は腕を押さえて。膝をついた。手から上腕の部分ひしゃげ、関節からあり得ない方向に曲がっている。下田は今すぐにでも走り出して彼を治療しようと動きかけた。しかし、草野本人が、無事な方の手を伸ばし、拒絶するように振った。

 

「行け」

「何を、」

「彰浩、お前が辿り着きさえすればいいんだ。誰か、こいつらを足止めしなくちゃいけねえ。大丈夫さ。だってお前が後で助けてくれるんだろ」

 

 納得しかねて言い返そうとするも、カルラに止められる。彼女は黙って首を振った。

 

「走るしかない」

 

 優先すべきことは何なのか、下田は今一度考える必要があった。考えて、理解し、踵を返した。何度も振り返りたくてたまらない瞬間があったが、足は進み続ける。何かが潰される音が聞こえたような気がした。それでも、唇を噛みしめながら走った。

 

「もう、近い。すぐそこ。待って。一人反応が消えた。気をつけ―――」 

 

 警告しようとした芳野の声が、突然途切れる。彼女が走っていたはずの斜め後ろを見ると、魔術師の赤毛の女がいた。

 

「この子ね。なかなか便利な力を持っているじゃない」

 

 芳野は口を震わせるだけで、何も答えない。いや、答えらないと言った方が正しい。女の放ったソウルの矢で、首に大穴を開けられていた。魂を吸い取られているかのように、あっとう間に顔から生気がなくなっていく。

 

「恵美!」

 

 久慈が叫んで、女に向かって突っ込んでいく。しかし、横に浮かんでいた青白い光球が彼女の間近で炸裂し、血が辺りに飛び散った。

 

「迫られるのは、男がいいわ」

「クリムエルヒルト…」

 

 カルラの声に、妖しく唇を舐める。

 

「貴方、お師様の真似でもしているつもり? 虚しいわね、すぐに一緒の所へ送ってあげる」

 

 倒れた久慈の体が、跡形もなく霧散した。カルラの方へと完全に注意が向かっている魔術師へ、分身ではない本物の久慈が飛びついた。

 

「あら、あれは偽物だったの」

「草野と同じことするなんて、思ってもなかったけど。行って! カルラさんは、下田を守ってください。下田、ちとせを」

 

 最後まで聞こうとする彼を、カルラが無理やり引っ張る。わかってはいるが、悔しくてたまらなかった。絶対に救い出すと、心に決める。

 少し前を走っていた国広が、突進してきたカークの一撃を受け止める。鎧にびっしりと生えている棘が頬をかすめ、血の筋を作った。

 

「物足りないんだ。弱者をいくら殺してもな。お前は、満足させてくれるのか」

 

 国広は、下田の方へと視線を合わせてきた。彼は、何かを伝えたがっているようにも見える。だが、その言葉は出ないまま目で先へ行けと合図をしてきた。

 下田は走るしかなかった。

 

「誰か、」

 

 自分の隊の仲間たちの、助けとなってくれる存在を欲した。だが、ヨルシカは防壁を張り続けていることに集中し、イリ―ナはエルドリッチの膿を切り開くのに必要だ。カルラとホークウッドも、視界外から飛んでくる呪術の炎の対策に追われている。実織と新宮は、下田に向かう攻撃を止めてくれている。

 

「もっと、前を走ってください。篝火が」

 

 イリ―ナの言葉で、ついにエルドリッチの姿が見えてきた。主教の三人の姿は、いない。まさに絶好の機会だった。

 下田は身を低くして、脇目もふらずに前へと進んだ。顔のすぐ側を、呪術の炎や矢が通り過ぎていく。後ろを追ってくる足音が、誰のものなのか確認する余裕もない。多くの生徒達が飲み込まれている膿の中で、炎が漏れ出している部分を発見した。篝火の、炎だ。

 

「おや、何をするつもりかな。ただ突っ込んでくるばかりでは」

「皆、僕の体に触れてください!」

 

 エルドリッチが何か行動を仕掛ける前に、下田は飛び込んだ。気持ちの悪い感触の膿を踏みつけ、炎の部分へと指先が触れる。同時に、自分の肩に触れてくる誰かの手の存在も感じた。

 瞬間、耳の中であふれていた喧騒が、嘘のように消失した。不意に取り残されたような気がして、下田は後ろを見る。

 

「これは」

「本当に、止まっていますね」

 

 カルラとイリ―ナが、停止した周りの状況を興味深そうに見回している。彼の指示に反応することができたのは、この二人だけのようだった。他は全員、人形のように固まってしまっている。

 かと思えば、急に人の気配を新たに感じ、下田はエルドリッチの体のすぐ横を見た。白い、一度見たら忘れられないほどの美しさを持った女性がいる。手首や頬のあたりが鱗のようなもので覆われていて、顔のパーツも整ってはいながら、どこか人間とはかけ離れた雰囲気が伝わってくる。その印象は、誰かに似ていた。下田はすぐに思い出す。 そうだ、ヨルシカを初めて見た時と同じだ。

 彼女は下田を見ると、笑っているような悲しんでいるようなどちらともとれる微妙な表情を浮かべた。一歩足を踏み出そうとしているものの、そうすることが許されていない。そんなことを感じさせる佇まいだ。

 

「そこに、何かあるのか?」

 

 肩に触れているカルラが尋ねてくる。下田は彼女の方を向いた後、女性のいる方向を指差そうとして、もう一度見た。しかし、もうそこには誰にもいない。

 

「灰の方たちを、救い出します。シモダさん、その炎に触れ続けてください」

 

 本来の目的を果たすべく、下田はもうそのことを気にするのはやめた。篝火の方へさらに近づき、両手で炎を包み込む。仄かな温もりが体の中にまで浸透してくる。

 イリ―ナが、持っている聖鈴を二度鳴らし、先ほどと同じくらいの大きさの奇跡の円を作り出す。発せられる光にエルドリッチの膿は大きな反応を示した。奇跡を嫌悪しているようで、円から逃れようと移動していく。

 生徒達を取り出すのは、かなりの時間がかかった。膿をイリ―ナの奇跡で取り除き、一人一人カルラが引っ張り出す。その繰り返しだ。唯一の男手である下田も協力したかったが、篝火から離れるわけにはいかなかった。

 彼らは全員、意識を失っていた。全身に膿がこびりついていて、それを取る作業も必要だった。中には、草野や、芳野、久慈、国広が含まれているのを確認して、胸が痛くなる。結局間に合わなかった。目を覚ましたら、ちゃんと謝らなければならないだろう。

 全ての生徒達を外に出し、カルラは大きく息を吐いた。

 

「不謹慎かもしれないが、こんなに肉体を使ったのは久し振りだ。腕が上がらない」

 

 彼女もまた下田に触れ続けなければならなかったので、行動をかなり制限された中の作業だった。

 

「しばらく、私達には休息が必要かもしれませんね。これほどの被害から立ち直るには」

「あ、ああ。確かに」

 

 ぎこちなく頷いた後、カルラは主教達を睨みつけた。

 

「まだ、仕事が残っている。今のうちに奴らを片付けなければ。まずは、主教の杖を破壊する。それで、霧が晴れていくはずだ」

 

 彼女の魔術で、次々と主教の持つ杖が壊されていった。その光景で、下田は自分の能力がいかに強力かを実感する。本当に、一方的になった。相手は何の抵抗もできない。祭祀場を守るという点においては、この能力は非常に役立つのだ。

 カルラの予想通り、辺りに立ち込めていた呪死の霧が薄くなっていく。視界が開けると、全ての敵の位置がわかった。ゾリグとカーク、そしてクリムエルヒルトという魔術師の女は、こちらに向かおうする状態で止まっていた。

 

「よし、あとは奴らを」

 

 その時、下田の手の近くにいた膿が、急に動いた。それは表面に棘をいくつも生やして、彼の手の甲に突き刺した。そして、中に入り込もうとしてくる。

 突然のことで、思わず手を炎をから離してしまった。なぜ、膿が動いたのか。自分と彼女達以外は、時間が止まっていたはずだ。手に感じる異物感や不快感が、一瞬自分のしてしまった行動の意味を理解させることを遅れさせた。

 

「おや、一体どういうことだい」

 

 下田は地面にうずくまる。早く炎へ戻らなければならないのに、なぜか自分の体が意志の通りに動いてくれない。手の激痛のせいで、意識が遠のきかけていた。

 

「どうしたのですか? これは…」

 

 ヨルシカがすぐ側にまで走り寄ってくるのがわかった。黒い膿に覆われている右手を息をのんで見つめている。そんなことよりも。下田は叫びたかった。もう、時間は停止していない。早くしないと、また。

 エルドリッチが、下田をじっと見下ろしてくる。

 

「どうやら、まだ面白い力を持っている灰がいるようだ。まさか灰が全て盗られるとは。なるほど、切り札は最後まで取っておくということかな。では、ワタシも負けてはいられないねぇ」

 

 霧が晴れ、姿を完全に現したエルドリッチは、前とは違っていた。姿が変わっているわけではない。片手に、大きな弓を持っていた。ただし、矢はない。

 

「あれは、そんな」

 

 一番に感情を表していたのは、ヨルシカだった。色濃い絶望。カルラとイリ―ナもまた、その弓を見て固まっていた。

 

「これでまとめて、消えてもらえれば嬉しいよ」

 

 弓を構え、糸を引いていく。すると、光の矢が出現した。その神聖な見た目は、つがえている当人のおぞましさとは正反対だ。下田は朦朧としている中で、ただそれが放たれるのを待っていることしかできなかった。

 光が走り、衝撃が全身に伝わってきた。

 自分がまだ生きている事に気がついて、目を開けた。誰かの体が密着している。やっとの思いで顔を上げると、ヨルシカの顔がすぐ目の前にあった。

 

「怪我は、ありませんか?」

 

 どうやら自分は守られたようだ。おぼろげながらに理解し、濃い血の臭いと感触を、すぐに感じた。

 

「え…」

 

 視界がはっきりしてくると、下田は頭が真っ白になっていくのを自覚した。自分に覆いかぶさっているヨルシカの体は、半分しかない。左半身がもぎ取られたようになくなっていた。

 

「ヨルシカ、さん」

 

 ずるずると彼の肩の上を、ヨルシカの体が滑り、地面に落ちていく。肉のたてる音が、やけに耳の中で残り続けた。

 

「フフフ、酷い光景ね」

 

 イリ―ナとカルラも余波を受けたのか、倒れている。彼女達も体から血を流していて、到底戦いを続ける状態にはなかった。

 エルドリッチはヨルシカの残骸をみると、薄く笑ってつぶやいた。

 

「恐ろしい血筋だねぇ」

 

 その言葉と同時に、彼女の体がピクリと動いた。赤黒い肉が見えてしまっている断面に、変化が訪れる。辺りに散らばっているその左半身を形作っていた肉片がひとりでに動き、元の場所へと戻っていく。下田もようやくわかった。今まさに、彼女は自身の体を再生しているのだ。

 その、グロテスクでありながら美しさも感じられる光景が終わると、長い間呼吸していなかったかのように、荒くヨルシカは息を吐き出した。

 彼女が復活したこと自体にも驚きがあったが、それよりもさらに目を引きつけるものを、下田は一番近くで見ていた。

 純白の装飾が丁寧に施されていたドレスが無残に破壊され、彼女の体から布切れ同然になった状態で落ちていく。そうして、彼女はほとんど裸の姿で立ち上がろうとしている。本当は目をそらすべきなのに、彼はヨルシカの臀部から生えている、尻尾に釘付けになっていた。

 

「忌わしい竜の血。皮肉だねぇ、姿は本当に、母親に似ているよ」

 

 ヨルシカは何も言わない。だが、その時下田は確かに見た。一瞬だけ、彼女の表情が深い憎悪に歪むのを。それは、普段の聖女然としたものからはかけ離れている。

 彼女は腰を上げようとした所で、バランスを崩した。下田がそれを受け止める。吸いつく肌の感触が、なんとも言えない感慨を彼に与えた。ヨルシカは目をつむり、乱れた呼吸で額を押さえている。

 

「大丈夫ですか」

 

 返事をする余裕さえないようだ。ぐったりと下田に全体重を預ける形になっている。

 

「当然だ。消耗もするだろうさ。さて、もういいだろう。残っている灰と邪魔な者達を殺しなさい」

 

 下田はローブの裾を引かれ、実織が縋りつくような表情ですぐ側にいるのを確認した。ホークウッドがゾリグの剣で吹き飛ばされ、最後に残ったまともな戦力である新宮が、実織と自分を守ろうとして、クリムエルヒルトに倒される。

 

「下田…」

 

 実織は、戦意を消失していた。自分も、多分そうだろう。たった二人で何ができるというのだ。頼れる人達も、皆、周りで倒れている。

 

「助けて、誰か助けて…」

 

 下田の肩に顔を押し付け、彼女は震えていた。どちらかといえば、誰かに頼られることが多かった人だ。でも、実はそれほど強い人間ではないことを、下田はわかり始めていた。彼女の恐怖を少しでも紛らわすために、ヨルシカを支えているのとは反対の手で、頭を撫でる。

 もちろん、自分も怖くてたまらなかった。敵がこちらに近づいてくるのがわかる。命を奪うのに、何の躊躇もない相手だ。気がつけば、頬を涙が流れていた。

 

「哀れな姿。最高に、そそるわ。大丈夫よ、ちゃんと上手く殺してあげるから」

 

 クリムエルヒルトの腕が上がる。

 母さん、と呟いて、下田は目をつぶった。

 そして。

 

「んが」

 

 妙に間の抜けた声が、聞こえてきた。

 

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