深い眠りから覚めるような心地で、ほぼ全裸の変態が覚醒する。彼は半身を起こすと、周りの光景に、夢でも見たのかと少しの間勘違いをした。
(どういう?)
自分は、火守女と一緒に部屋の中に居たはずだ。それが、祭祀場の広場にまでいつ間にか移動している。さらには、エルドリッチや、既に倒した記憶のある主教の二人の姿まであった。
そこから視点を変えれば、多くの生徒達が倒れている。それだけではなく、イリ―ナやカルラ、そしてヨルシカまでもが地に伏していた。起きているのは下田と実織だけで、その二人もおそらく敵と思われる者達に殺されようとしている。
(ノミ、説明しろ)
『いや、すまん。おれも意識がなかった。しかしこれは、明らかにやばいんじゃないか』
意識を失う直前の出来事を思い出す。火守女の目の中にいた膿が原因なのはすぐにわかる。あれのせいで、エルドリッチが復活したのだろう。
(そうだ、ひもりんは)
彼女の無事だけが頭の中を占め、貴樹は立ちあがる。目的の姿はすぐに見つかった。大きな剣を携えた男が、おざなりに肩に抱えている。
「おい…」
思わず漏れた声で、全員が彼の存在を知った。エルドリッチが、マクダネルに向かって言う。
「おかしいよ。彼は、しばらく目覚めないんじゃなかったのかい?」
「そのはずでしたが。何重にも術をほどこしました。まさかそれを全て…」
貴樹はそんな会話も気にせずに、ゆっくりと進み始めた。途中で目に入る生徒達の姿、祭祀場の者達の姿、それらを見回しながら。
(ガキ共はどーでもいい。だが、調子に乗りすぎだなこいつら)
「丁度良いな」
ゾリグが、火守女を無造作に落とし、近づいてくる。貴樹の目は地面に転がった火守女の姿を追っていた。
「俺と戦え。お前が本当にマクダネルやロイスを殺したっていうんなら、それなりに楽しめるはずだ。待ってやるから、武器と鎧を付けてこいよ。頑張ったら、命だけは助かるかもな」
貴樹は、ゾリグと視線を合わせゆっくりと言った。
「何を」
言い切る前に、特大剣が彼に激突した。ゾリグが大笑いする。
「時間切れだ。頭の方は、そうでもなかったみたいだな」
しかし、その余裕そうな態度は一変することになる。
ゾリグの剣は、貴樹の頭に到達する前に止められていた。片手だけで。
「何だ、お前は」
刃を握る手に、力が入る。ゾリグは動かそうとしたが、そうすることは叶わない。腕力で言えば、はるかに差があった。卑怯なほどに。
今だよく事実を理解できていないゾリグに、貴樹はもう片方の手を構える。
「許されないことをしたな」
頭を掴んで地面に叩きつける。それだけの作業が、ほぼ一瞬で行われた。祭祀場の石床がへこみ、その中心で崩壊したゾリグの顔が血にまみれている。遅れて、握っていた特大剣が倒れ、鈍い音を響かせた。
(どの分際でひもりんをモノ扱いしてんだ? お? ゴミが。いい加減にしろよ)
自分に向かって疾走してくる気配を、貴樹は既に察知していた。突き出してきた刃をかわし、密着しようとしてくるカークの頭を兜ごと蹴りつける。ごふ、と息の漏れた音と共に、カークの体は崩れ落ちた。首のあたりから、血が流れ出してくる。
倒した相手のことはすぐに忘れ、彼は火守女のもとへと歩き出す。その進路上にいるクリムエルヒルトは、起こったことに処理が追いついていない様子だったが、やがて口を押さえて笑い始めた。
「ウフフフ、死んでしまった。あっさりね、格好悪い」
(いや、どけよ。そこにいるとひもりんが見えないだろうが)
「貴方、凄いのね。ちょっと真面目にしてみようかしら」
クリムエルヒルトは、瞬時にソウルの矢を十本作り出した。そのどれもが、貴樹の記憶にあるものよりも鋭く、大きな矢だ。それらは一つにまとまると、彼に向かって放たれた。その攻撃に対して、彼は何ら危機感を抱かなかった。
指を鳴らしてから、飛んできた矢の塊を殴り飛ばす。半壊した矢は、すぐに消えていった。
「はい、これでおしまい」
だが、それは囮でしかなかった。いつ間にか貴樹の背後に出現した彼女は、青白いソウルで短剣を作り出し、うなじの部分に向かって突き刺そうとしてくる。貴樹は素早く体をひねり、同時に彼女の腹に向かって拳を打ちこんでいた。
どちらが速かったのかは、言うまでもない。
クリムエルヒルトの背中から、貴樹の腕が突き出る。彼女は口から血を吐き出し、彼の体に寄りかかった。その瞳は、なぜか、情熱的に濡れている。
「う…そ…こん、な。こんな、の初めて…」
こぼれた笑みは、今までのような挑発するものではなかった。心からの喜びであふれ、目の前の貴樹を恋人のようにじっとりと凝視していた。血が失われていくというのに、頬は興奮で赤く染まっている。
「素敵…素敵、最高よ、貴方。私は……クリムエルヒルトといいます。絶対に、また、会いましょうね…」
(何いきなり発情してんだ? この女は。いいから死んどけ)
体から腕を抜き、彼女を下に落とす。他のやられた二人と同じように、地面から現れた闇の泥に飲み込まれていった。最後まで貴樹の方を見つめながら。
彼はすぐに倒れている火守女の所へ走った。彼女の脇に手を通し、慎重に抱き上げる。意識はまだ戻っていない。顔を確認すると、ぽっかりと空いた眼窩が髪の間から覗いている。もうあの気色悪い膿がないことを知って、ほっと息をついた。
(そうだ。他の皆は。おい、ホークウッドもいるじゃねえか。まさか死んでないよな。アンドレイと、婆さんまで)
倒れている者達の息があることを確かめ、最後に下田達の方まで戻る。
「先生、」
下田は、すっかり気の抜けた顔をしていた。頬に濡れた跡があるのが、何となく気持ち悪い、と思った。
(そういえばいたな、こいつら)
一応安否を確認する言葉をかけた。だが答えは聞き流す。貴樹の注意は、エルドリッチ本人に向けられていた。その周辺には主教の三人が守るようにして立っている。最大限の警戒を彼に向けていた。
「どうしますか。計画は」
「予想外ではあるが、何とかしないとねぇ。果たしてこの弓が通用するかどうか」
(ほーん。今度は持ってんのか。ま、それでも無様に死ぬだろうけどな。もういいよお前。しつこいんだよ)
貴樹はうんざりしていた。自分の目的上、ゲームでは敵だった者と協力する可能性も考えていた。しかし、この人食らいに関してはもう手遅れだ。あまりに火守女への害が大き過ぎた。
エルドリッチが弓を構えた時、篝火の近くから複数の人が出現した。中には三メートル近くある巨体も含まれている。本来、ここを守るべき者達がようやく戻ってきたのだ。
「間に合わなかったか…?」
ジ―クバルドが倒れている面々を見て、剣を下ろす。その心配を、貴樹は否定した。
「全員、まだ生きてます。断言はできませんが」
「タカキ、貴公が守ってくれたのだな」
他にもグンダやフォドリック、シ―リスなど不死街の方へ行っていた全員がエルドリッチの前に立ちふさがった。イリ―ナがわずかに身を起こして、良かったと呟いている。どうやら彼女が、戦士達の転送を可能にしたようだ。
「人食いよ、この罪は重いぞ。灰の者達、我らが同胞を傷つけた報いを、この場で受けてもらおう」
グンダが唸りながら言うと、エルドリッチは弓を消した。主教達もさらに後ろへと下がり、エルドリッチの方に近付いた。
「頃合いか。最低限の目的は果たした。撤退するよ」
その言葉と共に、主教の三人が膿の中へと飛び込んでいく。
(させるか)
貴樹が追撃を行おうとするが、エルドリッチは俊敏に這って動き、祭祀場の入口へと到達する。瞬きする間に、外へと出ていった。
墓地の間を縫うように逃げ、切り立つ崖の手前で止まると、追跡してくる者達の方を振り向いた。とても追いつめられた者の表情ではない。
「今回も、敗北を認めるとしよう。しかし、アナタ達はすぐにでも知ることになるだろうさ。もはや、ワタシとの間に、戦う理由などないということに。そう、むしろ協力できる関係になれるんだよ」
(は?)
「何を、言っている」
ジ―クバルドが訊くと、エルドリッチは悪戯が成功した時の子供から無邪気さを抜いたような笑みを浮かべた。貴樹を真っすぐ見ている。
「あのコ、今は火守女の彼女を、よく調べてみることだ。フフフ、どうなるか本当に楽しみだねぇ」
そう言って、何の躊躇いもなく深い崖へと身を投げた。誰も止められないほど、、流れるように自然な動きだった。
(一体、何がしたいんだこいつは)
貴樹は崖の縁から、落ちていくエルドリッチの姿を眺める。見えなくなるほど小さくなる前に、突如としてその姿は消えた。口ぶりからして、今回の襲撃を計画していた可能性が高い。逃げる方法も、確保していたということだろう。
取り逃した悔しさよりも、最後の発言の意味を、彼は考えていた。
悪い予感は、その時から既にしていたのかもしれない。
◆
下田は誰かが部屋に入ってきた気配で、目を開けた。視界のぼやけがなくなっていくのに、少しの時間がかかる。重い眠りだった。続けてもう一日寝ていてもいいと思えるほど、体全体が倦怠感に包まれている。
「シモダさん、お休みのところ失礼します。手を、見せてください」
未だに痛みが残っている右手を、イリ―ナに向けて差し出した。彼女はそれを両手で包みこんで、労わるように奇跡を使っていく。自然と息を吐き出していた。前の治療から一日も経っていないが、手の甲の黒ずんだ部分が活性化してきたように思えたからだ。
エルドリッチの膿。それはこの世界の中でさえも異質で、どんなに奇跡の回復を使っても、完全に取り除けるものではないのだという。イリ―ナは、ただ膿が体内へ進行していくのを止めてくれているだけだ。もし、心臓や脳に達したら。そんなことは、考えたくもなかった。ただでさえ、悩みの種は他にもたくさんあるというのに。
「もう少し、早く処置を行っていれば、もっと楽にしてあげられたかもしれません」
昨日も、彼女は同じような言葉を使っていた。役割としての責任感からなのか、元々の性格なのか、少し自分を責め過ぎているような気もする。イリ―ナも深く傷ついていたのだ。今だって、完全には回復していない様子だ。顔色が悪い。
そんなことはないですよ、と下田なら言ったかもしれない。だが、今の彼は黙っているだけだった。人を気遣って発言するというのは彼の得意とする所ではあるものの、そんな余裕すら消え去っていた。
治療されながら、隣を見る。古い木作りのベッドは空になっている。普通なら、そこには草野がいるはずだった。
「これでしばらくは問題ありません。ゆっくり体を休めてください」
イリ―ナは奇跡の光を消すと、立ち上がった。務めを終えて、今にも部屋から出ていってしまうだろう。昨日は一度も言いだせなかったことを、下田は絞り出そうとしていた。
「あの」
彼女は立ち止まり、下田の方を振り返ってきた。
「僕を、皆の所に案内してください。お願い、します」
起きてしまった事と向き合う準備を、しなければならなかった。
祭祀場の裏にある、長く伸びる塔。とても長い間閉鎖していたらしいが、今は一つの用途に使われていた。
「見るのはお勧めしません。貴方の知っている彼らでは、なくなっています」
「そうしなきゃいけないんです。中には、僕の犠牲になった人もいる。見なきゃいけないんだ」
イリ―ナは、悲しそうに顔を伏せた。そう、彼女と同じように下田も自らを責め続けている。もっと前に、自分の固有能力の有用性を理解していたら。エルドリッチが復活した時に、行動できていれば。不毛だとはわかりつつも、こうはならなかった未来を何度も考える。
前までは固く施錠されていた塔への入口は、解放されている。中に入ると、錆臭さと埃の臭いが混ざり合った空気が流れてきた。本当なら。下田は拳を握りしめる。こんな所に、人を収容していいはずがない。
「階段は崩れやすくなっています。気を付けてください」
すぐ目の前にある螺旋階段を上っていく。所々段が欠け、気を抜けば足を滑らせかねない。彼は自分よりも、壁に手をつきながら進んでいるイリ―ナのことが心配になった。目が見えないのに、どうやって上っていけるのだろう。手を貸そうかどうか迷っている間に、一番上に到着していた。
再び、鉄格子のはめられた扉がある。下田はその取っ手の所をしばらく眺めてから、手を伸ばした。ほとんど力を入れなくても、開いていく。
その先は広い通路になっていて、一番奥に、厳重に鍵が閉められた部屋が存在した。入口の扉の横にいくつかある格子窓から、中の様子を覗くことができる。彼は格子の縁を掴むと、崩れ落ちそうになる足をどうにかして支えた。
中には、生徒達の体が並べられていた。全員、一度殺されエルドリッチの中に呑み込まれた者達だ。一つの例外なくおぞましい膿が全身を侵食し、一部表皮が肥大してとても人間とは思えないような外見になっている者もいる。中にはしきりに唸り声を上げたり、顔中を掻きむしって傷だらけになっている様子も見受けられた。精神を正常に保っているのは誰一人としていない。下田と同じ隊にいた、国広や草野、久慈、芳野も。
右手だけ膿に覆われた下田でさえ、かなりの苦痛を感じているのだ。体全てをまるごと覆われてしまえば、正気でいられるわけがない。あそこまで深く浸食されてしまうと、奇跡で元に戻すことすら叶わない。問題を難しくしているのは、たとえ彼らが死亡し、篝火で復活したとしても、精神的な傷が治る保証がないことだった。それにあの膿は宿主を害そうとすると攻撃してくる。下手な手出しはかえって逆効果になるだろう。
残ったのは、外で鍛錬をしていた男子三人、下田と高原に、実織、そしてエルドリッチが篝火から離れた後に殺された新宮だけだった。クラスの生徒のおよそ八割が、一度に倒れてしまった事になる。回復する見込みもない。
「貴方のせいでは、決してありません。あの時は、皆ができる限りのことしたんです」
イリ―ナの慰めも、意識を流れていく。胸を酷く抉られたような感覚がずっと続いていて、頭の中では何かをしようという意思が表れてはすぐに消えていく。何をしたらいいのか、本当にわからなかった。現実に戻る云々どころの話ではなくなってしまった。とりあえず今は、何も考えたくない。
彼女に短く一人で戻ることを告げ、下田は塔から離れた。受け止めたくない現実から逃げるように。
祭祀場に戻り、自分の部屋に戻ろうとした所で、気まずい相手と出会った。篝火の側に高原が立ち、彼の方を見てきている。
「下田」
体調が幾分良くなっている様子に安堵を覚えたが、それ以上に申し訳なさが先立ち、どう会話すればいいのかわからなくなった。高原の目をまともに見ることもできず、進む足はさらに早くなる。もう一度長く眠れば、全て夢になってくれるかもしれないと淡い期待を抱いていた。
「ちとせ、なんだここにいたのかよ。探したぜ」
宇部が階段の上から下りてくる。彼女のすぐそばにまで近寄ると、馴れ馴れしく腕を掴んだ。
「話の途中だったじゃねえか。照れてんのか? よく考えてみろよ、お前を守ってやれるのは俺しかいないんだ。わかるだろ。今なら、前みたいな仲に戻ることも許してやる。いくらお前でも、ものを考える力くらいはあるだろ」
彼と高原が、過去に付き合っていたという話は有名だった。その結末が、なかなか派手であったことも。噂が流れ始めてわずか一週間後に、宇部が彼女に暴力を振るった。それで一気に冷めて彼女からふったらしい。
無意識に足を止めていた。確かに、宇部はかなり実力がある。単純でいながら強力な固有能力を持ち、もし襲撃の時にいたら、状況は変わっていたかもしれなかった。
不意に、おかしなことに気がついた。なぜ、宇部と高原の事件のことははっきりと覚えているのだろう。学校の思い出はほとんど消えてしまっているのに。
高原は面倒臭そうに下田の方から顔を動かし、手を宇部に向けた。そして思いっきり彼の頬を平手打ちした。
「ふざけんな。こんな状況になって、出てくるのがそれ? 頭おかしいんじゃないのあんた。マジで気持ち悪いから。消えて」
宇部の表情が、怒りで歪む。その拳に力が入ったのを、下田はぞっとしながら見た。今の彼の力で殴られたら、誰だって無事ですまないだろう。傷つけることへの躊躇いが、今の宇部にはあるとは思えなかった。なんとかして止めようと、彼らの間に入り込もうとする。
しかし、その前に高原がロープを二本出現させた。近距離で放たれたそれらは相手にかわす暇すら与えずに、両手足を縛りつけた。バランスを崩した宇部は、なすすべなく倒れ込んだ。
「しばらく寝てろ。そーね、気が向いたら解除してあげるから」
宇部が罵倒の言葉を叫ぶ。高原は耳を塞ぎながら、歩き始める。下田の前に立つと、彼の後ろの方を指で指し示した。
「話、あるから。あたしの部屋で」
変に抑揚を押さえた声。だがその目は間違いなく怒っていた。
「あ、いや、で、でも」
「なら、あんたの部屋でいいよ。決まり。さっさと行こう」
逆らう気も起きなくなって、半ば彼女に引っ張られるように、部屋へと戻ることになった。
下田の部屋に着くと、すぐに彼女はベッドに座りこんだ。腕組みをして、彼の方をどこか責めるような目つきで睨んでくる。
「何で床に座ろうとしてんの」
「な、なんとなく」
「あんたもここに腰かければいいでしょ」
「うん…」
高原から少し離れた位置で、ベッドに座った。
それからしばらく、彼女は何も話さなかった。しかし視線だけは依然として向いてきているので、居心地が非常に悪い。やっぱりと、下田は思った。隊の中で下田が生き残ってしまったのを、責めているのだろうか。もっといい方法があるはずだと。それは、もっともなことだ。自分でもそう思っているくらいだから。
いっそうやるせなくなって、口はさらに重くなっていく。俯いている彼を眺めた後、高原は急に言ってきた。
「それで?」
「え?」
「理由を、教えてほしいんだけど」
「何、が?」
彼女は髪の先を指でくるくる回している。
「あたしをずっと避けてたよね。それをどうしてかって訊いてんの」
「えっと…」
言い出せずにいると、彼女は溜息を吐いた。
「まさかさ、あんた自分が悪いみたいに思ってんの? そんなわけないじゃん。他の人から、話を聞いた。むしろ、あんたがいなかったらもっとやばいことになってたんじゃないの?」
自分は頑張った。できることはした。下田も一応、そうは思っている。しかし、その結果、草野達が取り返しのつかない、深刻な状態に陥ってしまった。高原の友達の二人まで。後悔だけは、どうしても拭うことができないでいた。
「ていうか、下田が悪いっていうんなら、あたしはもっと悪い。一番最初に倒れて。もしちゃんと対応できていれば、祐馬君と草野の手助けをできたかもしれない。責められるべきなのは、あたしの方」
「そんなことは、」
下田は彼女の方を向くと、言葉を詰まらせた。自分の膝を抱え込み、高原は顔を腕で隠している。鼻をすする音が、小さく聞こえた。
「ちょっと意地悪だった。これじゃ嫌な女みたい」
くぐもった声で、彼女は続ける。
「でもさ、やっぱり、寂しいよ…。恵美も、朱音も、男子二人もさ、友達だったじゃん。それで、下田とまで気まずくなっちゃったら、あたし、どうしていいかわかんなくなる。ちょっと前まで、わけわかんない状況だけどこれもいいかなって思い始めてたのに、なんで、こうなっちゃったんだろ…。もうやだよ。帰りたい。普通の生活に、戻りたい……」
彼女を慰める言葉は、見つからなかった。誰かが泣いている場面は、下田にとって一番苦手とするものだった。同時に、深く反省もする。彼女が目を覚ました時にも、罪悪感から立ち会うことができなかった。自分の感情を整理することだけを考えていて、同じくらい不安になっている人のことを思いやれなかった。
何となく伸ばした手を、高原が掴んでくる。黒い部分を労わるように指で撫でると、
「ごめん、少し…」
腕を手繰り寄せ、下田の首に抱きついてきた。肩に顔をすりつけて、嗚咽を漏らす。不思議と、彼はそれを当たり前のように受け入れていた。変に意識するというより、安心感の方が勝っている。沈んでいた気持ちが、和らいでいくのがわかった。
体感では十分ほど、二人は互いの悲しみを共有した。目を拭ってから離れると、彼女は自身の涙で濡れた下田の襟部分を手でこすった。
「汚しちゃった」
「渇くから、いいよ」
高原は、憑きものが落ちたような顔をして、天井を見上げる。
「もう、弱音は十分吐いた。あたしは絶対諦めない。皆を元に戻す方法があるって、信じてる。探し当ててみせる」
「うん、僕もそう思うよ」
「一緒に協力して、頑張ろう。きっとこの世界のどこかに、答えはあるかもしれないし。下田も…」
言葉を止めた彼女を、下田は不思議そうに見た。
「どうしたの?」
「あのさ、私達は友達だよね」
正面から言われて、彼は少ししてから頷いた。
「何、その間は」
声を低くして言われて、下田は誤解を解くように慌てて手を振った。
「その、僕はそう思ってるんだけど、本当にいいのかなって」
彼女は笑って、頭を指で突いてくる。
「考え過ぎなんだよ。あれだけ一緒に頑張ってきて、互いの事情も知ってるし、どう考えても友達でしょ。まあ少し違う言い方するなら、戦友みたいな? 思うんだけど、そろそろ名前で呼び合ってもいい段階だと思うんだよね」
「あ、うん。そう、なのかも」
「じゃあ、今度から私はちとせって呼んでね。親戚とかはちーちゃんって言ってきてるけど、ちょっと子供くさいし。そっちは何て呼んだらいいの? アキヒロっていうのは長いから、アキでいい? 女の子にも似合う名前だし、ちょうどいいじゃん」
「僕は、男なんだけど…」
「あはは」
彼女は大きく伸びをして、ベッドから立ち上がった。その姿には、もう暗く沈んだ所はない。下田もまた、前向きに物事を考えることができるようになっていた。結局、一人で抱え込むのが一番駄目なのだろう。彼女の芯の強さも改めて感じた機会だった。
コンコンと、扉が鳴った。誰かが来たようだ。高原が扉を引いて開けると、ヨルシカが立っていた。
「失礼しますね。急で悪いのですが、篝火の周りに集合してください。大事な話があります」
いつもと変わらない様子には見えるが、彼女が一番消耗しているはずだった。自分を守ってくれた時のこと、半身を失った痛ましい姿が頭に浮かんだ。移動している間、下田は心配になってヨルシカに尋ねた。
「大丈夫ですか? まだ、休んでいた方が」
「気遣ってくださるのは、嬉しいですよ。でも、体力は問題ありません。万全とはいえませんが、立って歩くくらいはできますから。それよりも」
立ち止まると、下田の手を取ってくる。今度は、彼もどぎまぎした。仕方なかったかもしれないが、その裸を一度見てしまっている身としては、落ち着かない。あの、白い尻尾も未だ強烈に頭の中に残っている。
「イリ―ナの処置はさすがとしか言いようがありません。ですが、私がしっかりしていれば、もっと被害は少なくできました。本当に、申し訳ありません」
ヨルシカが頭を下げようとすると、高原がそれを遮った。
「悪いのは、全部襲撃してきた奴らです。それに、私達、決めたんですよ。皆を元に戻す方法を、諦めずに探すって。できれば、ヨルシカさん達も協力してくれるとありがたいんですけど」
「それは、もちろんです。私にとっても灰の皆様は大切な存在。……実は一つだけ、彼らを治す方法があるかもしれません」
「本当ですか?」
ヨルシカは詰め寄ってきた二人に向かって曖昧に頷いた。
「最初の火が持つ強力な浄化の力が、あの膿に対して効果を発揮するかもしれません。確証は、ないのですが」
「最初の火?」
前にも訊いたことがある言葉だ。確か、一番最初の説明でルドレスが言っていた。
「この世界の全てを照らす光です。深淵の闇を退ける、我々にとってなくてはならないもの。伝承によれば、薪を全て集め、篝火に捧げれば、最初の火への道が開けるとされています。あの聖なる炎があれば、彼らを正常に戻すことができると思います」
それは、下田達に課せられた使命とやらにも一致する。つまり、生徒達を助けることは、現実へと戻ることにもつながるのだ。下田は、自分の中の意志が一つに固まったのを感じた。今までは、勝手に押しつけられた使命には拒絶も大きかったが、それが草野達を助けることになるなら話は別だ。
「でも、私達は、勝てるのかな…」
高原が心配そうに言う。
「そうですね。厳しい道のりであることは確かです。エルドリッチは、予想もしていなかった武器を持っていました。あの弓は、本来あのような存在が扱っていいものではありまぜん。私でも、あれから放たれる矢に正面から対策するのは不可能です。同じく他の薪の王も、劣らず強者ばかりです。壁は、大きいかもしれません。ですが」
ヨルシカは、下田の方を見てきた。彼も答えるように、大きく頷く。今回の襲撃は、奪われたものばかりではない。こちらには、まだ、とても大きな戦力があることを知ったのだ。高原も、話だけは既に訊いているだろう。
「タカキ。あの方なら、私達が敵わない相手でも、容易く退けるでしょう。それほどに、その力は群を抜いています。彼の助力があれば、目的を達成することも難しくない」
「そんなに、先生は凄いんですか」
下田は、まだ納得が言っていない様子の高原に向かって、いかに彼が活躍したかを移動中に話した。その口調にはいくらか興奮も混ざっている。彼が瞬く間に下田達では歯が立たなかった三人を倒した時は、大きく心が動かされた。あの時の、今までにないほど怒りに満ちた顔。
やられていた生徒達のために感情を乱している姿には、純粋な敬意を覚えた。誰だって、あれは格好良いと強烈に思うだろう。
なぜ、力を今まで隠していたのか、詳しいことはわからない。ただ、決して自分達を騙そうとしていたわけではないのは確かだ。もし最初からあの強さだったならば、グンダと戦った時にもっと抵抗していたはずだった。その時は彼も自分の力に気がついていなかったかもしれない。
希望はまだある。下田はそう、固く信じていた。
広場に近付くと、誰かの叫び声が聞こえる。地面に転がっているその男の周りには、何事かと祭祀場の者達が集まっていた。
「あいつのことすっかり忘れてた」
高原が少しも反省していない顔で、そう言った。
ヨルシカの大事な話というのは、誓約に関するものだった。
「事情が、変わりました。エルドリッチの卑劣な奇襲により、多くの灰が戦いに参加できなくなりました。前は三つの主のうち、どれかと誓約を交わしてもらうという話でしたが、やむを得ません。残った貴方達八人は、皆暗月の剣に所属してもらいます。そうすればより、私が灰の方達を支え、時には守ることが容易になります。さあ、誓いを示してください」
元より、不満はなかった。術を扱う者は全員、暗月と誓約するつもりだったし、宇部、丸戸、高坂の三人もそのようだった。
一人一人がヨルシカの前に膝をついて、彼女の手に口づけをする。緊張はしたものの、これは真面目な儀式だと言い聞かせて、粗相のないように気をつけた。ヨルシカは下田が誓いを口にした時だけ、彼と目を合わせ、少しだけ笑った。元気づけてくれているようだ。腕にある誓約印が光り、ヨルシカのもとに集まっていく。
だが、ただ一人だけ、少し離れた所で立ったままの男がいた。
「なにか、不都合でもありますか? もちろん、貴方も灰の一人。その強さなら私の庇護は必要ないでしょう。それでも、誓約をお願いします」
下田もまた、不可解なまま貴樹を見た。彼はどこか落ち着かなげにも思える。端の方で静かに立っている火守女を一瞥して、その口を開いた。
「すみません。誓約をしたくないわけではないんですが。その前に、本題に入ってください。それからでも、遅くはないはずです」
「本題、ですか」
ヨルシカは全員を見回し、最後に火守女に視線を置いた。
「この祭祀場は周りは深い谷で覆われ、敵の襲撃を受ける恐れがない貴重な拠点でした。それにも関わらず、エルドリッチ達の侵入を許してしまった。原因は、既に訊いています。火守女である彼女が、その一端を担っていると」
生徒達も皆、火守女を見た。その中には責めるようなものも含まれている。彼女には、唯一の出入り口である篝火での転送を操作できる力がある。まさか、それを悪用したということなのだろうか。だが、そうする動機があるとは思えない。
貴樹が否定するように首を振った。
「その言い方は、違うと思います。あれは誰にも予想できないことだった。彼女の頭冠の中に、エルドリッチの分身が隠れていたなんて。わかるわけがない」
「ルドレス、そのような事実は把握していましたか」
呼ばれた小男は、目をつむった。
「彼女のことを、火守女になる前から知っているが、そんなようなものはどこにもなかった。私は、タカキの意見に同意するよ。これは敵の計略が成功しただけのことだ。彼女の意志が、介入する余地はない」
議論されている本人は、黙ったまま話を聞いていた。少し顔を俯かせて、ひたすら申し訳なさそうにしている。あるいは、自分が話の中心になっていることに、ただただ困惑しているという様子だった。
「では、もう一つ。エルドリッチが逃走間際に言ったことです。何か、自分の中で異常があるかどうか、わかりますか?」
火守女は、自らが質問されていることをゆっくりと飲み込んでから、否定した。
「いつもと変わりはありません」
「体調は? 違和感はありますか」
「務めに支障が出ることはないと思います」
「そうですか。どちらにしろ、あの人食いの言葉に真実があると思うのは愚かなことです。しかし、念を入れる必要はあるでしょう。イリ―ナ、彼女の器を調べて」
脇に控えていたイリ―ナが、火守女に近付く。失礼します、と一言述べてから、相手に向かって手をかざした。下田も初めの方で火守女に器を測ってもらった経験があるためか、今の光景は妙に感じられる。こっそり貴樹を伺うと、一心に火守女だけを見ている様子だった。
イリ―ナは手を下ろすと、一歩後ろによろめいた。
「こんな、ことが。私には信じられません。ありえません。あっていいはずが」
これまでにないほど、動揺している。腰が抜けて座りこみそうになる所を、ヨルシカが支えた。
「一体、どうしたのです。何が見えたのですか?」
質問にもしばらく答えずに、彼女は自らの感情を落ち着ける時間を作っていた。やがてヨルシカから離れると、しっかりと立ちあがった。胸を押さえ、火守女を見るその瞳には、なぜか、畏敬の念が込められている。
「大きな、輝きを見ました。あふれんばかりのソウル。あれは間違いなく、王の薪です。私達が求めてやまないものが、彼女に宿っています」
ある意味、祭祀場の者達よりも、生徒達の方がその事実を受け入れるのに抵抗はなかった。つまり、五つある薪のうち、一つがすぐ側で見つかったということだ。これは幸先のいいスタートに違いなかった。
だが、下田達以外には信じがたい事実ではあったらしい。
「本気で、言っているのか? 火守女が薪の王だということなんだぞ。冗談でも趣味が悪すぎる。見間違いということはないのか」
カルラが訊くと、イリ―ナは強く首を振った。
「いいえ。あれは確信を持って、薪だと言えます。そうとしか思えません」
「だが、そもそもの話、彼女に薪としての資格があるとは思えない。論じるまでもないことだ。火を継ぐための薪には、相応の格が求められる。王としての格だ。それを、火に仕えるはずの者が持っているとでも? ありえるわけがない」
「いや、カルラ。それは違う」
口を出してきたのは、ルドレスだった。彼はぼろ布に包まれている両手を組み合わせ、火守女を見下ろしながら続ける。
「まさか、話す機会が来るとは思っていなかった。これは、おそらく私しか知らないことだろう。彼女は、火守女になる前、エルドリッチに囚われていた。それは既にわかっていると思う。だが、そのさらに前のことは、誰にも話してこなかった」
言葉を切り、言いたくない事実を吐き出すように、口を動かした。
「彼女は、ロスリック家の長女であり、双王子の妹だ。血に関して言えば、薪を持つのに適している。王族の血が流れているのだ」
反応は、劇的だった。その場にいた戦士達はほとんどが火守女から離れるように動き、隠しきれない嫌悪の眼差しを向けた。ロスリック。下田も何度か聞いた名だ。その家の王子が火継ぎを拒んだせいで、過去の薪の王が復活し、自分達が呼ばれるきっかけにもなったと。
ヨルシカが、信じられないように言う。
「彼女が、あの? 天使ゲルトル―ドですか? まさか、本当に…」
天使は、自分達の世界では聖なるものとして扱われている。しかし、ここでは違うようだ。
「確か幼少時に死んだと言われていましたが」
「往々にして、伝承は事実と異なる。何より、あの銀髪は王子ロスリックと瓜二つだ。そして薪を所有できていることが全てを物語っている」
静寂が、辺りを包み込んだ。全員を注目を受けている火守女は、言われたこと一つ一つを理解するのに精一杯のようだった。
「そいつを、殺せ」
獣の姿を模した兜を被った男が、低く呟いた。ほとんど見た事のない者だ。名はイーゴン。ジ―クバルドやグンダ、イリ―ナと同じ太陽の戦士に属している。
「今回の件もそうだが、疑われてもおかしくない点が多々ある。あのおぞましい天使の娘だというのなら、尚更だ。我々にとって害が大きい」
ヨルシカがその言葉を遮った。
「言い方を考えてください。この事実は、予想もしていないことではありましたが、むしろよかったかもしれません。エルドリッチがなぜ己の薪を彼女に移したのかはわかりませんが、対処するのは早い方がいいでしょう。イリ―ナ、貴方一人で、火守女の務めを行うことはできますか」
「未熟な私が、全てをつつがなくできると断言できるわけではありません。ですが、そうあれと求められたのならば、全霊で応えてみせます。彼女の分も、補う覚悟はあります」
「その言葉を、信じましょう。では、決断を貴方達にお願いしたいと思います。今回の襲撃でもわかった通り、どんな強固な守りであろうと崩される可能性は残っています。おそらく、エルドリッチは薪を奪おうと何度も狙ってくるでしょう。その懸念を払うために、できる限り早く、彼女を篝火に捧げる必要があります。私としては、明日にも儀式を行いたい。異論がなければ―――」
「ちょっと、待ってくださいよ」
その声は、未だ衝撃から立ち直れていないかのように、震えていた。
貴樹が篝火の側にまで歩いていく。それから全員をぐるりと見回すと、肩をすくめてみせた。
「皆、奴の思惑に踊らされているだけです。だから、こんなわけがわからない話の流れになっている」
「そんなことはありません。ことは単純です」
「悪いんですが、さっきのカルラさんの言葉を借りるなら、冗談にもなっていない。どうして、どうして彼女が犠牲になる必要があるんですか」
「薪は、器から取り出し、捧げなければいけません」
「僕が言いたいのは、そういうことじゃなくて、何というか」
ここにきて下田も、彼の様子がおかしい事に気がついた。ただ、目の前の事実を否定しようと躍起になっているようにも思える。
ヨルシカが溜息をついて、貴樹を見据えた。
「貴方の気持ちは尊いものです。しかし、使命を果たすことが、貴方達の願いにもつながるのですよ。元いた場所に戻りたいという、当たり前の願いが」
「わかっていますが、その、なぜ明日でなければいけないんですか。あまりにも」
「用心のためです。薪が捧げられないままということは、敵に奪う隙を与えるということです。こういう行動は、迅速さが大事なのです。それによってあらゆる危険が軽減される」
貴樹は、呆然と固まっていた。何か反論が出るのを期待するように周りをきょろきょろした。誰も発言する気がないのを理解したのか、ふっと無表情になり、踵を返す。
「すみません。自分の部屋に戻ります。考えたいことができたので」
彼は誰かが声をかける隙を作ることなく、広場から出ていった。意外だったのは、その後すぐに火守女が動いたことだった。
「どうするつもりですか?」
「私から、話をしてみます。言っていなかったお礼もしなくてはいけませんから」
貴樹の、火守女に対する特別な感情は周知の事実だった。積極的に彼女といたがり、誰にもわかるほど表す表情が活き活きとしていた。それだけに、判明した事実は小さくない動揺を彼に与えたのだろう。受け入れ、自分の中で納得できるようになるためにはそれなりの時間がかかるはずだ。
下田はこの時、貴樹が自分達と同じくらい、現実に戻りたい気持ちがあると思っていた。この板挟みにも、ちゃんと正しい決断をしてくれると。
気の毒なほど、的外れな考えだ。
◆
(くそ、くそくそくそくそくそ。ありえねえ。ふっざけんなあああああああああ!)
部屋に戻るとは言ったものの、本当にそうしたいかは自分でもわからなかった。
(なんだこの展開は。舐めてんのか。くそが、あのくそったれの、変態の化物め。やりやがったな。冒涜だ。ダークソウルに対する全てに謝れ。あああああああああああああああ)
『お、落ち着けよ』
(完全に想定外だ。こんなの、誰が予想できる? 薪が、そんなほいほい人に与えられるものであってたまるか。全くもってふざけてやがる)
薪というのは、その所有者の体と等号で結ばれる。つまり、薪を捧げるためにはその人を殺さなければいけない。それぞれの薪の王とは、何度も戦ってきた思い出はあるものの、そうすることには何の躊躇いもなかった。しかし、火守女がその対象となると、事情は大いに変わってくる。
(落ち着けって言うけどな。わかるか? これで俺の計画は全て台無しだ。ひもりんと楽しく過ごすために、ひもりんを犠牲にしてどうすんだよ。アホかあああああああああもうどうすればいいのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!)
『お、おれもわかんねえけどさ。なんか、後ろから追って来てる奴がいんぞ』
(あ? 今の俺はどうすっかわかんねえぞ。どいつが知らねえが、邪魔――)
振り向いた彼は、即座に落ち着きを取り繕った。火守女が少し息をきらして、走り寄ってくる。
「申し訳ありません。引き止めてしまって」
そのいじらしい姿が、貴樹の胸を締め付けてくる。
「こっちこそ、冷静になれなくて。あの、大丈夫?」
「はい?」
「こんなことになっちゃってさ。誰だって、普通には受け止めきれないと思うよ」
火守女は考えるような間を作ってから、素直に頷いた。
「そう、ですね。確かに今でも信じ難いです。私に、薪が宿っているとは」
「大丈夫。俺が何とかするから。ひもりんは心配しなくていいよ」
「ありがとうございます。実は、今ここにいるのは、ちゃんとお礼を言いたかったからなんです」
「お礼?」
貴樹は、段々と気づき始めていた。自分と火守女の会話は微妙に噛み合っていない。それどころか、感情の行き違いも大きいということに。
「貴方が、襲撃してきた者達から私を助けてくれたことは伺っています。不謹慎かもしれませんが、そのおかげで、このような栄誉を賜ることができました。この御恩は絶対に忘れません」
言葉が、しばらく出て来なかった。嫌な事実を目の前に突きつけられ、彼は口元が引きつっていくのを押さえられない。
「い、いや、ひもりん? 死んじゃうんだよ? 薪としての使命を全うすることは、自分の命を犠牲にすることなんだ」
「はい、存じています。私のような者が、火継ぎのための重要な役割を担う。分不相応なのではないかと、恐ろしく感じていますが、それでもこれほどの喜びはありません。最期まで、つつがなく果たせれば幸いです」
彼女は、貴樹にとって信じられないことに、笑っていた。あけっぴろげではないにしても口角を控え目に上げて、心からの喜びを表しているのがわかる。初めてだった。初めて見る笑顔が、こんな場面だとは、予想もしていなかった。
(…)
『おい、タカキ』
お互い様だった、ということだろう。火守女が、貴樹の気持ちを全く理解していなかったように、彼も彼女の精神性を、ちゃんとわかっていなかった。二人の関係は、初めて出会った時から、少しも変わってはいない。
貴樹は歯を食いしばりながら、己の迂闊さを反省した。
(ノミ、お前の言う通りだな。確かに、難しい。大事な人と向き合い、理解して、幸せに過ごす。そのために、今までの甘すぎた俺を変えなくちゃいけない。人の思考、精神はほとんど周りの環境で決まる。そもそも、彼女自身のことを思いやる奴が一人もいないような、こんな糞みたいな環境に置いておく方が間違いだったんだ)
『…お前、何をするつもりだ』
彼の手が、火守女の肩に置かれる。不思議そうに、彼女は顔を貴樹の方に向けた。
「いいか、聞いてくれ。死ぬことが幸せなんてあってはいけないんだ。そんな馬鹿げた考えは、俺が否定する。どんな奴がどんな事を思っていようが関係ない。本当の幸せは、もっと違うことなんだ」
火守女はまた、よくわからない、という顔をする。
貴樹は既に決意が固めていた。何を優先するべきか。それがどれほど無謀であっても、やめるつもりはない。
その夜。ある部屋の扉を、静かに叩く者がいた。
ぴったり二回、まるで周りに音が漏れるのを防ぐかのように、慎重な手つきだった。ノックから少しの間が空いて、扉がゆっくりと開かれる。出てきたのは、瞼の重そうな火守女だ。彼女は相手を確認すると、乱れている髪を整えたりして、失礼がないようにした。いつも黒衣の上に纏っている掛け布を外し、略装になっている彼女もまた格別だ。
と、貴樹は思う。
「何か、御用でしょうか」
「遅くにごめん。寝てたんだよね」
「大丈夫です。休息は、十分に取れています。大事な明日の儀式の前に、体調を崩してはいけませんから」
「ん、まあ、そうだろうね」
彼は複雑な心境で相槌を打った。それからすぐに真面目な顔になって、火守女に言う。
「これから、不死街に用事があるんだけど。転送してくれないかな? 急で悪いのは十分わかってる」
「わかりました。灰の方の頼みならば、断る理由はございません。帰りはいつごろになりますか。それまで、篝火の側で待機しておりますので」
「う―ん、特に決めていないかな。ていうより、もう、そんな必要もないと思う」
彼の言葉に、火守女が疑問に思う様子はなかった。立場が上の者に対して、疑う選択肢すらない。その相手の言っていることは絶対だと、無条件に信じているのだ。貴樹は、今の彼女を作り上げた何かが憎らしくてたまらなかった。だが、その感情を表に出すことはない。
二人は歩いて、篝火の広場にまで来た。彼が周囲を細かく確認し、ほとんど人気がないことを確認する。静かな夜だった。
「こんな夜分に、用でもあるのかな?」
ただ一人、石の玉座に座っている男を除けば、だが。
貴樹はルドレスに向かって、自然に笑いかけた。
「ちょっと、個人的な用ができてしまって。何と言いますか…、僕にとっては、一番優先するべきことですね」
ルドレスは彼と火守女を交互に見てから、どこか諦めたように、宙を仰いだ。
「時間の問題だったな。嫌味に聞こえるかもしれないが、私は、君を尊敬する。たとえそれが悪だと断ぜられようとも、きっと、誰かにとっての幸福たりえるのだろう」
「何のことか、わかりません」
「どれだけ厳しい選択か理解しているのなら、何も言うことはないよ」
当然、ばれていることは承知の上だ。あれだけ皆の前で露骨に発言すれば、その後どういう行動に出るのかは、誰にでもわかる。だからこそ、貴樹は頭の中で、今の静寂に対する警戒音が鳴り響いていた。
『タカキ』
(わかってるよ。力を解放しろ。ちなみに、耐久値はどれくらいだ)
『残り二十九%だ』
(そうか。ま、やれるだろ)
後悔は既に消え去っていた。むしろ清々しい。もともと、この世界にずっと来たかった理由は、一つしかないのだ。
篝の側にまで行くと、転送の準備をしようとする火守女を遮った。
「ひもりん。頼みがあるんだけさ。俺の体に、つかまってくれないか」
「あの、」
「えっと、そうだな。こうして腕を上げて、首に回してくれれば、それで」
そのまま彼は、火守女を抱き上げる。
(やばやばやばやばやば、うわ、うわ―、死にそう。最高だなあほんとに)
高揚感に包まれる一方で、彼女の体の軽さを感じ、鼓動は落ち着いていった。こうして抱いていると、彼女は紛れもなくか弱い存在だと思わされる。自分の価値を知ることもなく、世界のためとかいうふざけた理由で命を落とすような。
『もう一度訊くぜ。考え直す気はないんだな』
(これが、俺の生きがいだ。邪魔する奴は、全部ぶっとばしてやるよ)
『一蓮托生だ。どこまでも、ついていくぜ』
(正直きもいです)
『ええ……』
火守女は、もちろん当惑している。
「灰様、一体何を」
「俺の名前は、タカキって言うんだ。今度からはそう呼んでくれると嬉しい。凄く。それから、不死街に移動したら、すぐ上に飛ぶから。しっかりつかまってて」
貴樹は右手を篝火にかざした。彼女が何か言葉を発する前に、二人の姿は祭祀場から消えた。
視界が一瞬暗くなり、明けると同時に両足に力を入れていた。
(うおっ)
勢いよく跳ねると、すぐに小屋の天井が背中に当たる。それでも力は殺されず、屋根を突き破って、外に飛び出していた。現れた瞬間の彼がいた所では、魔術や、妙なロープが放たれていた。もしすぐに行動しなければ、拘束されていただろう。
(はいはい。やっぱりそういうことね。準備しといて良かった)
砕けた木の欠片が火守女の頭についているのを払うと、ふたたび追撃の青白い輪のようなものが向かってきた。屋根に着地するとすぐに前方へ跳躍し、篝火のある小屋から少し離れた地面に降りた。
振り向くと、小屋の中で待ち伏せしていた大勢が出てくる所だった。
「何をしようとしているのか、自分でわかっていますか?」
ヨルシカは残念そうな顔をしていた。
「別に。少し散歩にでも出かけようと」
「ならば、火守女を置いていくがいい。彼女を連れていく理由はどこにもないはずだ」
ジ―クバルドが、重大な間違いを犯そうとしている者を諌めるように言った。こちらに向けられてはいないものの、剣が抜かれている。
「先生、冗談ですよね。早く、戻って来てください」
高原や、下田、実織、新宮。あと、貴樹の眼中にもない男子三人。生徒達だけではなく、ほとんどの祭祀場の戦士たちが、彼と相対していた。その中のシ―リスが、未だ事態を受け入れられていない様子で、言ってくる。
「タカキさん、あの言葉は、こういう意味だったんですか。自分のことを、これからの行動で判断してほしいと。いいえ、認めません。貴方は、こんな事をする人ではないはずです。考え直して」
グンダも、真摯に言葉を紡いだ。
「タカキ。我輩は、お前と約束をした。灰の者達を守ると。それを、破りたくはないのだ。どうか、思いとどまってくれ」
「そういえば、僕だけまだでしたね」
グンダの言葉を流し、彼は自分の腕を見た。そこには誓約印が刻まれており、鈍く光を放っている。
「最初は、太陽の戦士と誓約を交わしたかったんですよ。でも、よく考えれば、僕が忠誠を尽くすべき人は既に決まっていた」
彼は火守女の手を取った。多くの者が見ている前で堂々と膝をつき、その掌に接吻をする。
「僕はこの人の幸せのために、真の幸福のために、身を捧げます。彼女の命を脅かす者は
腕の印から放たれた光が、火守女の中に入っていく。それは、彼以外の全員が言葉すら出ない瞬間であるとともに、何かが決定的に分け隔てられてしまった瞬間でもあった。
『そういえばよ、名前はどうすんだ』
(ん?)
『他の誓約はどれも暗月の剣とか、名前がついてんだろ』
(おお、確かに。決めないとな)
祭祀場の者達、今はもう、対立する関係になってしまった者達に向かって、貴樹は言う。初めからこうすればよかったと、なかば開き直る心情になりながら。
「火守女の灰。僕はその一員として、ここに新たな誓約を結びます」
宣戦布告をした。