首筋に冷たい何かが当たっている。かすかだが、落ち着かない疼きを感じて、重い瞼を開いた。
(生きてんのか? どこだここは)
自らに意識があることを確認して、貴樹は周りを見回した。そして、自分の体の状態を知ることになる。
(What the fuck!? 俺の両手足がないんですけどおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!)
彼には、首から上と胴体部分しか残っていなかった。首は鉄の輪がはめられ、そこから伸びる鎖がすぐ後ろの壁につながっている。手足の切り口は完全に塞がれており、分解された人形のようなある意味滑稽な姿になっていた。胸を刺されたはずだが、その傷もない。だからといって、安心できるような点はどこにもなかった。
『足までやられたか。用心深い』
(おいノミ。何があった。ここはどこだ)
『知るかよ。お前が目覚めて、ようやくおれも周りを認識できるようになったんだ。その間のことは何もわからん』
事実なのは、自分が負けたということ。
(ひもりんは…)
隣で横になっている彼女を発見して、心の底から安堵した。見た所、どこにも傷はなく、息もしている。
何とかして体を転がし、顎を地面に擦りつけながら近づく。
「ひもりん、俺がわかる?」
少し遅れて、彼女は顔を動かした。
「意識が、戻られたのですね」
「痛い所とか、ない?」
「いえ。何も、問題はありません……」
言葉とは裏腹に、声はいつも以上に弱々しい。顔色もいいとは言えない。明らかに衰弱している様子だった。
「その人、ソウルが不足しているんだよ。貴方が目を覚ますまでの四日間、ずっとここで放置されていたから」
声のした方を確認する。鉄格子の扉の向こう側に、同じような牢屋がある。そこに、紺の修道服を着た女性が座っていた。目深に被っているフードの端から、灰色の髪が流れ落ちている。
「誰だ?」
「お兄さん達と同じく、ここに捕まってる人です」
「ひもりんの、状態について知ってるんだな」
女は薄く笑って、火守女を眺めた。
「皆、自分に足りないものを求めてる。そして得ても、もっと欲しがる。特にその人みたいな存在はね。ただそうあるだけで、魂を消費しているんだ」
「で?」
「フフフ、気が急くのはわかるよ。つまり、定期的にソウルを身に宿していないと、死ぬってこと。もしくは亡者に成り果てるのかな。どちらにせよ、生きていないことは確かだな」
(なるほど)
貴樹は自分のやるべきことを理解した。さらに火守女へと密着し、彼女の耳元で話す。
「俺の中にあるソウルを使ってくれ。取り出すことは、できるんだよね?」
「いえ、しかし…」
女が、小さく声を上げて笑った。
「凄いこと言うなあ、お兄さん。ソウルを分け与えるっていうのは、信頼を示す究極の形だよ。騎士が主に、夫婦が互いに、することだ。もっとその意味を重く考えた方がいいよ」
「何の問題もないな。ひもりん、頼む」
(いちいちうぜえなあの女。どっかに消えてくれ)
意に介することもなく、彼は再度火守女に言った。だが、芳しい反応は返ってこない。彼女にとってみれば恐れ多いどころの話ではないのだろう。未だにそんな距離感なのがもどかしいし、何より今は彼女自身の命がかかっている。
「じゃあ、言い方を変えよう。君が生きてくれないと、俺が困る。お願いだ、俺のソウルを受け取ってくれ」
十秒ほど、火守女は黙っていた。あまりに静かだったので、意識を失っているのかと勘違いしてしまうくらい、完璧に固まっていた。まるで、物事の判断を下すのが初めてであるかのように、たどたどしく頷く。
「では……、手をお出しください。このような姿勢で申し訳ありませんが、体に力が入らないのです」
今度は貴樹が言いあぐねる番だった。
「えっと、それは別に構わないんだけど。手は、ちょっと難しいかな」
「…! 怪我を、なされているのですか?」
ユリアにやられた時のことを、さすがに火守女も気づいていた。例え目は見えなくても、濃厚な血の感触は感じられる。
「いや、たいしたことはないんだけど」
ここで意外にも、火守女はゆっくりとではあるが手を伸ばしてきた。ずれることもなくぴったりと貴樹の肩、腕の根元を触る。あるべき部分がないことに気がつくと、小さく息を吸い込んだ。
「んん、まあ、傷口は塞がってるから」
「他には…」
「大丈夫大丈夫。それくらいだし、ああっ」
思わず変な声が出てしまった。彼女は這いずって、貴樹の下半身の方へ移動してきたのだ。これが彼に異常な興奮をもたらした。
(え…、これ、まさかフェ)
『お前、実は結構余裕あるだろ』
想像した通りになるわけがなく、ただ足の方も触って確認してきただけだった。見事に欠損した箇所を全て当てられてしまったようだ。彼女の感覚は意外に鋭いのかもしれない。
「そんな、そんな……」
こんな反応を見たくなかったからこそ、彼は何とかごまかそうとしていたのだ。火守女は自分の手と手と握り合わせて、苦しそうに胸に当てた。
「灰様の体、私、私を庇われて…。どんな償いをすればよろしいのか」
「違う。これは、君のせいじゃない。俺は全部、納得してるよ。単に実力がなかっただけだ。あの場を無傷で乗り越えるのは、困難だった」
「しかし、私がいなければ、そもそも灰様が他の皆様のもとを離れる必要もありませんでした…。薪として以前に、私にはもう、この命しか差し出せるものはありません。ここの方と何とか話し合って、貴方だけでも救われるように……」
(めっちゃ可愛い。これ泣くのかな。いじらしすぎるんですけど。涙出てきたら、飲んでみたい。じゃなくて)
変態的思考を抑え、貴樹は顔で火守女の額を突いた。
「君が死んだら、俺も死ぬ。納得できないかもしれない。わからないかもしれない。まだ。とにかく、自分を責めることなんて、必要ないんだ。ソウルを受け取ってくれ」
愛の告白ともとれる言葉を吐いて、彼はドキドキしながら答えを待っていた。火守女は、頬を赤らめることも、涙を流すこともなく、ただ自失したように貴樹へ顔を向けているだけだった。
向かいの牢屋の女性も、呆気にとられているようだ。
「私は、何を見せられているんだろう」
(黙れ女。空気を読みやがれ)
火守女はしばらく考える様子を見せてから、ようやく手を動かした。結局飢えには逆らえなかった自分への罪悪感からなのか、少しだけ震えている。
「失礼いたします」
彼女が触れたのは、首だった。ちょうど脈の所に指先を添え、口を動かし始める。
(あ、だめ、勃起する)
『お前も空気読めよ…』
火守女の肌の感触や、温度が伝わってくる。彼女は集中しているようで気がついていないようだが、段々と顔が近づいてきている。色素の薄い唇や、さらにその下のさらされている白い鎖骨のへこみが目に毒だった。貴樹は幸福で失神しかける。抱き枕にしたい衝動にかられた。既に合意は取れているという錯覚に陥る。
彼女を抱き寄せる寸前で、貴樹の体から白い靄のようなものが吹き出てきた。これがソウルだ。真っすぐ火守女の胸の中へ吸い込まれていく。
(なんか、えっちだ)
『まあ変に絶望されるよりは、ましなんだが』
抽出作業はわずかな時間で終わり、火守女は手を離した。
「どう?」
名残惜しい気分で、貴樹が尋ねる。彼女の喉が上下し、息が吐き出されるのを心に焼き付けるように観察した。頬に色が戻っている。
「はい。とても、濃密なソウルでした」
「俺にはわからない感覚だけど、美味しいの?」
彼女は不思議そうに口を開けて、手を下腹部に当てた。
「おいしい…? そうですね、灰様のソウルは、とても暖かいです。今までたくさんの方々のソウルを扱ってきましたが、一番、安らぐ気持ちになれます」
殺し文句だった。
「ふうん。じゃあさ、今すぐ君を抱くけど、いいよね?」
「?」
「ああ、いや、抱きしめるって言う意味じゃなくて。どエロいことするけど、そこは大丈夫だよね。うん、合意はとれたな」
『こいつ理性を失ってやがる』
火守女の貞操の危機である。貴樹にとっては、あまりにも誘惑が大きすぎた。彼はもう、一時の快楽を得る気満々だ。目の前の可愛い生物をどうしてくれようかと、頭が猛回転を始めていた。そして体は本能に従って既に動いている。
しかし、重大な欠陥に気がついた。
(この体じゃ何もできねえええええええええええ!)
ここで再び、己の惨状について意識が回ってきた。途端に興奮は収まっていく。そもそも、なぜ自分は生きているのか。あの時、ユリアは完全に殺す気だったはずだ。どうして今こうなっているのか、状況の把握がまず先だった。一番初めにやっておけという話である。
周りを見る。壁、床、天井、どれもが古びている。苔の生えている所もあって、衛生的とは言えない。こんな所に火守女を長く居させるわけにはいかなかった。
そもそも、自分達は今、どこにいるのだろうか。
「そこの女」
「フフ、面白いものが見れた。お兄さんは凄く変わってる。そんなものに、親愛の情を向けられるなんて」
(殺されてえのかこいつは…)
火守女が侮辱された怒りをこらえ、情報収集に努める。
「ここがどこか、知ってるか?」
「牢獄だよ。……冗談。そっか、お兄さん達は運ばれてきた記憶がないんだね。ここは王都の地下にある場所。広大な牢だけど、捕まっているのは私達だけみたい」
「王都?」
何だか嫌な言葉のような気がした。
「わからない? 周りの空気、冷たいでしょ。地上に出れば白銀の大地と美麗な都市群が広がっている。イルシ―ルの端あたりだね。上手くたどって行けば、罪の都も近いかな」
「嘘をつくのは賢い選択じゃない」
「本当だけど。今お兄さんを騙す必要がどこにあるの?」
貴樹は、やっとの思いで、動揺を表に出すことを抑えた。
(おかしいだろおおおおおおおおおおおおおおお! 何で不死街からエリア二、三個ふっ飛ばしてんだよ。じゃ、ここイルシ―ルの地下牢か。どう考えても数日で着ける距離じゃねえぞ。それに、結界はどう通ったんだ。色々おかしいんだが)
イルシ―ルは、領土全体が不可視の結界で覆われている。法王の許可が下された者以外は通り抜けられない。さらに、貴樹が全速力で走っても、不死街から生贄の道を通り抜け、清拭の小教会に着くまで一週間近くを要したことを考えると、明らかに不自然な速度だ。ユリア達は何らかの移動手段を持っている可能性がある。
「でも、自分がどこにいるかなんて、お兄さん達にとってはどうでもいいと思うよ」
女性は鉄格子に寄りかかり、淡々と言う。
「どうせもうすぐ、二人共死ぬから」
暗闇から、静かな足音が近づいてくる。壁に付いているかすかな灯りのもとに、ユリアが姿を現した。今度は仮面を外していた。頬と提げている刀には血が滴っている。
「誰を斬ったの?」
「…看守共だ。それよりも、反省はできたのか。相変わらずお前の行動原理はよくわからない」
「そちらも大概では」
ユリアは女性の居る牢を開けた。初めから、鍵などかかっていなかったかのように。
「どうしてこの人をすぐに殺さなかったの?」
「利用できる余地があるだろうと、考えた。この男の出鱈目な力の源が知りたい。そして、火守女が薪を有している理由もだ」
「そんなことを言って。本当はとても優しい人ですものね。姉さんは」
「お前から見て、どうだった」
牢から出ると、女性はフードを脱いだ。中から、ユリアと同じ色の瞳が現れる。右目の尻に、黒子が二つ、並んでいた。貴樹達の方を冷ややかに見下ろしてくる。
「面白いのは認めるよ。でも、期待外れかな。もう取り出すんでしょう? 巡礼者達が、待ちきれないみたいだもの」
言いきると同時に、彼女の後ろに二体の辛うじて人間と呼べそうな代物が現れた。ぼろきれから覗く手足は朽ちかけで見るに堪えないが、身の丈に迫りそうな甲羅を背負うくらいの力はあるらしい。ヨエルと全く同じ姿だった。
貴樹は、非常によろしくない事態の流れを感じ取っていた。
(もしかしてこれは詰んでいるのでは…?)
四肢を切断され、攻撃することはおろか立つことすらままならない。火守女も戦闘能力は皆無に等しい。状況を打開する術がまるで浮かんでこなかった。
『お前が調子こいたからだよ。はあ―、ここで終わりか。まだ何も始まっていなかった気がする』
(んんん、慌てるな。おいノミ、ほら、出せよ)
『何を』
(力だよ。ピンチの時はお決まりだろうが。クールタイムとか、本当は嘘なんだろ。さっさとよこしやがれ)
『おお、あと三日後にな』
(…)
『…』
(だから、今冗談を言っている暇はねえんだよおおおおおおおおおおお! 三日どころかあと数分の命だろうがあああああああああああああ!)
『無理だっつってんだろおおおおおおおおお! 現実逃避してる間があったら助かる方法を考えろよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお! 何でこんな奴に拾われちゃったんだろおおおおおおおおおおおおおおおっ!』
脳内で醜い言い合いが行われている中、彼の牢屋も開けられる。
「お兄さん、自分がこれからどうなるか、わかる?」
首の鉄輪が外される。
「ソウルは、一体どこに宿るのか。興味深い問題だよね。心臓か、脳か。全ての臓器に等しく宿るという考えもあるし、精神そのものがソウルの本質だという説も頷けなくはない。お兄さんのソウルは、特に謎なんだよ。とても大きな可能性を秘めている。だからそれを、これからあらゆる手を使って取り出さないといけないの」
彼の体を有用な道具であるかのように撫でてくる。ユリアとは違い、彼女は表情豊かに語る。ただし、それはあまり正常な働きをしていないように思えた。とても楽しそうなのに、見ているとどこか粘つく悪寒が背中から這い上がってくる。
「お待ちください」
火守女が膝を擦りながら寄ってくる。
(ひもりん)
彼女からの言葉に、女性やユリアは顔すら動かさない。
「この方を、殺すことだけはやめていただけませんか。貴方達にとっても必要な薪は、私の中にあります。代わりに、なると思います。ですから、この方だけは」
「まだ、生きていたの?」
ユリアが刀を上げた。その先が火守女の胸に向けられる。
「姉さん、それはここで殺しても大丈夫だよ。というより、少しも視界に入れたくないから、早く殺して。首だけあればいい」
全身の力を総動員して、貴樹は跳ねた。刀が彼女の胸を
初めは、腹が湿っていく感触しかなかった。それが全部血液だとは信じられないほど、下半身もすぐに覆っていく。やがて強烈な熱が底からやってきて、呼吸が困難になった。
「せっかく私が手足の切り傷を全部治したのに。今度は別の所か」
女性が裂かれた腹に手を当てる。何かの文言を口でとなえると、奇跡の光が灯った。
(ああああああああああああああああああ死ぬウウウウウウウウウウうううううううううううううううううううう! 内臓が、ほら、出てるもおおおおおおおおおおおん! てかクソいてええええええええええええええええええええええ)
「灰様、大丈夫ですか! ああ、また、私を…」
しばらく残り火状態でいた彼は、痛みに対する耐性ができていなかった。お腹の中身がこぼれ出している非常にグロテスクな光景も相まって、危うく意識を失いかける。しかし、火守女の悲痛そうな声を聞いて、その寸前で踏みとどまった。
「あ…ぐ……ゅ……」
「はい落ち着いて。止血はしたよ。まあしばらく起き上がれないだろうけど、別に不都合はないね」
いつもの貴樹なら、ここで諦めていた。彼は自分の命をとても大事に思っている。しかし、それと長く続く苦痛は釣り合わない。抗って苦しい思いをするくらいなら、むしろ自分から命を絶つ。そういう、諦めの良い考え方をしていた。
(駄目だ、ひもりんがいる。ひもりんがいるんだ)
自分が死んだら、火守女も殺される。それだけは、彼にとって、承服できなかった。
だから、生き残るために道を探す。
「お、俺、は、ユリアさんを、嫌いになりたくは、ないんです」
息を吸って、吐くだけでも精一杯だった。何とか、言葉を絞り出していく。
「喋ると、苦しくなるよ」
刀を再び構えている、ユリアだけを見た。 相手にもしていないという雰囲気だったが、何かを感じ取ったかのように、貴樹の方を向く。
「でも、それだけは許さない。もし、彼女を傷つけたら、貴方は、報いを受けることになる。考えられる最大限の苦しみを、味わってもらう。武器を下ろしてください」
声を出さずに、女性が笑う。
「可笑しい。どの口で言っているんだろう。お兄さんも死ぬんだよ」
「そろそろ、鬱陶しくなって、きたな。姉さんみたく静かにしたらどうだ、リリア―ネ」
彼女達二人は、同時に彼を睨んできた。貴樹は呼吸を整え、蝕んでくる痛みから意識を逸らした。何もかもを知っているという表情を作り、堂々とした態度を保った。
「お兄さんは、私と会ったことがあるのかな」
「お前は知らないだろうな。俺だけが知っている。色々なことを」
「名前、誰から聞いたの?」
「元からわかってたよ」
黒教会の三女、リリア―ネ。作品中一度もはっきりと姿を見せなかった存在。アイテムテキストの上でしか、触れられていない。
貴樹が唯一優位を取れる可能性があるもの。それは知識だ。とにかく、自分はまだ生かしておく価値があるのだと、示さなければならない。彼女達が興味を示しそうな情報を握っていると思わせ、少しでも時間を稼ぐ。残り火が復活するまで持ちこたえるのは困難だろうが、延命すればするほど、可能性は開けてくる。
ユリアは刀を鞘におさめた。そのまま無言で近づいてくると、首をわしづかみにしてきた。
「貴様、何者だ。やはり、ただの灰ではないな」
「話を、聞きたいのなら、離して、ください。苦しいですよ」
床に叩きつけられる。傷が揺らされて、目の前が暗くなりかけた。唇の端を噛み、顔だけは上げる。火守女を一瞥した。思考に、全ての余力を注ぐ。
「俺の方だって、いまいち貴方達の目的がわからない。亡者の国を興すのか、はたまた最初の火を奪い、自分達を虐げてきた者達に復讐をするのか。まあ、どちらも正しいという可能性もある。貴方達が力を求めていることに変わりはない。カアスの遺志を継ぎ、何かを成そうというつもりなら、俺を殺すのは悪手です。当然、火守女を害することも。それを確認した瞬間、俺は舌を噛み切る。奇跡を施そうとしても無駄ですよ。こういう時のために、命を絶つ手段は複数用意されている。慎重に行動するように」
カアスという名前に、一番大きな反応を示したのは観察できた。今この瞬間から、ユリアとリリア―ネの注意は全て貴樹に向けられたことも。ここまでは、狙い通りだ。
リリア―ネはもう、笑ってはいなかった。
「少し、興味深くなってきたね。姉さま、この人達を殺すのは、もう少し待ってみたほうがいいかもしれない」
「こちらを出し抜こうとしているんだ。この男は、これでいて食わせ者だ。出まかせを並べ立てているにすぎない」
「なら、どうして、カアス様を知っているの? 彼は確実に関係しているよ。裏切りを償わせる、いい機会が巡ってきたと考えればいい。あの女の居場所を聞き出せる。まだ殺すのは早いと思う」
リリア―ネと目を合わせるユリアの様子に、引っかかるものを感じた。その顔は、かすかに怯えているような気がする。
とりあえず彼女達の判断に波を立たせたのは事実だった。貴樹は光明が見えたを言わんばかりに、彼女らに気づかれないように笑みをこぼした。
(すまん、カアスって誰?)
『お前ってほんと、お前だな』
どうやら追いつめられたままなのは、変わらないらしい。
『明らかにいける流れだったじゃん。なのにどうして本人がこうなんだ』
(やっべ。この先どうしよ)
『何も考えてねえのか…』
貴樹は別に、ダークソウルシリーズの全てを知っているわけではない。彼は最新作のⅢしかやっていないのだ。当然、ⅠとⅡもやる予定ではいたが、その前にこの世界へと来てしまった。火を見出したグウィンや、その一族のことは考察サイトなどでおぼろげながら知ってはいるものの、他の細かいことはこれから理解していくつもりだった。カアスの名も、ゲームにおけるユリアとの会話で知ったにすぎない。つまりは、見切り発車も甚だしいということである。
(考えろ、考えろ、考えろ)
今の会話で、情報の端々はたくさん出てきたような気がする。確かなのは、カアスという者は今生きていないか、彼女達と会える状態にはないこと。そして、おそらくではあるが、その元凶である何者かが、ロンドール勢に大きな恨みを買っているということ。
(女、女…。フリーデのことか? 彼女の場所なら、確かに知ってはいる。だが、言ったところでどうなる。こいつらは、絵画世界のことをちゃんと理解しているのか? 信じてもらえるのか? ゲ―ルが見つからない以上、行き方もわからない。価値のある情報にはならねえ)
「じゃあ、お兄さん。いろいろと質問に答えてもらうから」
「そうするには、条件が色々とある」
(とにかく時間を稼がねえと)
リリア―ネは、口元を緩めた。
「ん―、ちょっと、鈍いね」
胸に、短剣が突き立てられた。ほとんど抵抗もなく肋骨の隙間を抉り、どくどくと血が漏れ出してくる。とっさのことで最初は何も感じなかったが、やがて息が詰まるような激痛がやってきた。
短剣を引き抜き、リリア―ネは奇跡を使う。その治癒速度は、先ほどよりもはるかに遅かった。痛みが、より長く続くための遅延。
「ごめんね。上手く話せないと思うけど、頑張って。こっちの質問に対する答え以外に、余計なことを言ったら、今度は左胸だよ。大丈夫。死なない程度には治し続けてあげる。痛いのが嫌だったら、素直になって」
(このサイコ女あああああああああああああああああ! いだあああああああああああああああああっ、くそくそくそくそくそくそおおおおおおおおお)
『拷問か。えげつな』
(呑気にしてねえでお前もここを乗り切る方法を考えろやあああああああ)
既に対等に交渉できる段階ではなかった。
「最初ね。お兄さんは、あの場にいたの? 全部、見ていたの?」
「は? なんの、こと」
「はあ。一つ目から、つまづくのか」
左胸を三度、深くまで刺される。貴樹は転げ回ろうとしたが、ユリアに押さえつけられた。行き場のない苦痛が体内で暴れ回る。火守女は口を押さえて震えている。
「はい、もう一度。カアス様の最期を知っているね。あの女と一緒にいたんでしょ?」
(え……知らないんですけど。でもこれ、答えないと駄目なやつだよな。ん? ひょっとしてまずい? 終わってない?)
『墓穴を掘りましたね』
知らないと言えば拷問は続き、適当な答えを言ってもすぐに見抜かれ、さらに酷い仕打ちを受けることになる。
リリア―ネが、顔を下ろしてくる。髪が頬にかかる。短剣を持った手が、振るわれる。
「答えてくれないと、わからないよ」
ちょうど鳩尾の部分を、刃先でかき乱される。貴樹はみっともなく叫んだ。今まで体験した事のない痛みだった。臓物をぐちゃぐちゃにされても、奇跡で治ってしまうのだから、始末に負えない。中途半端にものを知っているような素振りをしたせいで、状況はさらに酷くなってしまった。
「あの女は今どこにいるの?」
思考すらまとまらない。ただ、リリア―ネの燃えるような視線だけを認識していた。彼女は、こちらを傷つけることに躊躇うどころか、嬉々として行っているようだ。次第に、彼女の呼吸が荒くなってきていた。ユリアもまた、火守女の制止する声を聞き流し、目を細めて貴樹を見下ろしている。
それ故に、この場に別の誰かが到着したのを、誰も気がつかなかった。
「あらあら、随分と盛り上がっているわね」
直後、ユリアとリリア―ネは瞬時に牢屋から脱出していた。彼女達のいた場所に、ソウルの矢が何本も撃ち込まれる。巧妙に貴樹と火守女を避けていた。
いつ間にか、貴樹のすぐ側に女性の手が生えていた。黒い染みのようなものが床に広がり、そこから全身が這い出て来る。鮮やかな赤毛が、この暗い地下牢の中で浮かぶように揺れた。
「約束とは、叶うものですね」
「お前」
彼も辛うじて、その女性を憶えていた。
「だって、また会いましょうと、私は言いましたもの」
クリムエルヒルトが、夢見る顔で言った。
彼女のことは、よく知らない。会話イベントもなく、ただ、闇霊というプレイヤーの世界に侵入してくる敵として戦うか、逆にボス戦前のサポートキャラクターとして召喚できる存在でしかない。祭祀場を襲撃してきた時も、ただの敵として処理した。だから、今こうして彼女が現れたことが、自分にとって良い意味なのかどうか、判断がつかなかった。
「貴方という人は、本当に、私を誘惑するのが上手いですね…」
クリムエルヒルトが貴樹の体、正確には下半身の一部を見た瞬間、どろりと表情が溶けた。下唇をゆっくりと舐め、指で彼の腹筋をつつとなぞる。
「できれば今すぐにでも、応えてあげたいんですよ? でも、この場所は、全くふさわしくありませんからね。愛し合うのは、ふかふかのベッドの上でないといけません」
(こいつ、何を言ってんのかさっぱりだぞ)
『絵に描いたようなメンへラ女だな』
リリア―ネが、無言で短剣を投げた。クリムエルヒルトは造作もなくその柄を掴む。血がこびりつき、滴っている部分を、紫じみた舌で味わうように撫でる。その光景を見て、貴樹は背中が粟立つのを感じた。火守女以外、ここにはまともな女性がいない。
「結晶。何の用だ。我々の邪魔をするな」
クリムエルヒルトは、鼻を押さえる。
「全く、酷い場所ね。暗く、汚れていて、性根ばかりか体まで腐った人達が徘徊してる。ねえ、特に貴方達よ。くさい、くさい。人間ぶった皮の下から、亡者のおぞましい臭いがしてくるわ。生きていて、楽しい?」
「何のつもりかは、知らないけど」
リリア―ネはどこから出したのか、短剣を持っていた。ユリアも刀を構え、臨戦態勢に入っている。
「先に死にたいのなら、そう言ってくれればいいのに」
リリア―ネの脇にいた巡礼者二人が、クリムエルヒルトに向かって飛びついていく。目的の体に到達する前に、二つの頭が弾けた。巡礼者達の体内から、ソウルの光球が飛び出してくる。それらはクリムエルヒルトの杖に吸収された。
「汚物が近づくのを許すと思って?」
だが、倒れた亡骸が、黒く発火する。できた黒蛇は意志を持って、彼女へと向かっていった。舌打ちをしてから、掌で火球を作ると、彼女はそれをぶつける。赤色と黒色の炎が混じり合い、互いを支配しようと争い始めた。そして最後には、彼女の出した炎が残った。
「話し合いをしましょう」
クリムエルヒルトは、貴樹の体を抱えた。開いた傷口に、奇跡の光が入っていく。それを見て、ユリアが驚いたようにこぼした。
「前は、使えなかったはずだが」
「女は、日々成長していかなければならないの。貴方に言っても、無駄だろうけど」
「それで、結晶さん。私達は一体何を話し合えばいいの?」
リリア―ネの問いに、彼女は貴樹へ愛おしそうに頬ずりしてから、答えた。
(気持ち悪っ)
「語り部ちゃんはせっかちさんね。私は、彼と、薪を回収するように命令されてここへ来たの。そういう、約束だったでしょ? なのに、ねえ、どうして、こんなことになっているのかしら」
彼女の周囲に光球が浮かぶ。それらは周囲に飛び散り、天井や壁を破壊した。
「余計な損傷は与えないようにと、エルドリッチ様から何度も、言い含められていたでしょう? この二人は、貴方達だけの物ではないのよ。黒教会の方達は、もう裏切るつもりというわけ?」
「初めから、そちらの同盟に与した憶えはないよ。今、貴方を殺せば尋問を再開できるんだ。それだけでしかない」
「そう。じゃあ私は、ちゃんと逃げないといけないわね」
貴樹は、事態が進行をしていくのを眺めるしかなかった。下手に口を挟めば、命取りになりかねないからだ。
(どっちの方が、ましなんだ?)
『クリムエルヒルトは、お前を殺すつもりはないみたいだぞ。明らかだろ』
(それもそうなんだが。この女、地雷臭しかしないんだよ)
『どっちもどっちだろ』
最初に動いたのは、ユリアだ。滑るような踏み込みで、クリムエルヒルトへと接近していく。ユリアの突き刺さるような視線で、貴樹は直感的に理解した。どうあっても、自分を殺すつもりらしい。ソウルの矢が何本放たれようとも、刀一本で対応してみせる。怖いのは、闇朧ではないスペアの刀でさえ、魔術を斬り払える程度の耐久力があるということだ。刃こぼれする気配すらない。
クリムエルヒルトは、余裕の笑みを崩さずに、手元に炎の固まりを作った。間近で火の粉が飛んでも、不思議と貴樹は熱を感じない。ただユリアの全身が止まったのを見て、触れればろくなことにならないのは明らかだった。
ユリアは刀を構えたまま、ソウルの光球を放つ。それを片手をかざすだけで、魔女はかき消してしまう。
(これだ。何度か見たことあるが、一体どういう仕組みで、そうなるのかわからん。見えないソウルでもぶつけて相殺してんのか? これのおかげで、術戦がより高度化されてる)
一歩下がり、ユリアの刀がぎりぎり届かない所で、維持し続けていた炎を投げた。この呪術は見憶えがある。目標地点に着弾した後、周囲に火をまき散らす型のものだ。しかし、クリムエルヒルトとほぼ同じ視点にいる貴樹には、これが陽動だとすぐにわかった。本命は、魔術を消した左手から静かにユリアの背後へ回っている、光球だった。
ユリアに警告するかどうか迷ったものの、すぐにその必要はなくなった。
呪術の炎も、ソウルの光球も全て、一瞬で消滅する。クリムエルヒルトは動揺することもなく、続けて何かを唱えようとした。だが、出てくるのは詰まっているような呼吸音だけ。そこで初めて、彼女はリリア―ネの方へと視線を向けた。
(やっば)
リリア―ネは、いつの間にか杖を取り出し、足下に紫色の魔法陣を作っている。そしてその陣は、クリムエルヒルトの体にも現れていた。
沈黙の禁則。効果範囲内の者の呪術、奇跡、魔術を封印する。発動にかかる時間のわりに、有効時間は短い。だが、姉妹二人にとっては十分すぎる隙だった。
危険を察知して貴樹を横に放り捨てた直後、魔女の両腕が斬られた。ユリアが完全に筋繊維の一本まで断ち斬った一方で、リリア―ネは短剣を手首に刺し、そのまま捻じり回して動脈を滅茶苦茶にする。クリムエルヒルトは壁に背中を当て、ずるずると地面に座りこんだ。
『終わったんですが』
(ぎゃあああああああああああああ何負けてんだあああああああ!)
斬られた本人は、恍惚として目を閉じている。
「酷いわ。もう少し加減を考えてくれてもよかったじゃない。近接で貴方達二人に勝てるわけないのに」
何も答えずに、リリア―ネが短剣を彼女の首に突き立てる。その光景で、貴樹は今度こそ望みが断たれたと思った。ここでクリムエルヒルトが勝たなければならなかったのだ。利用するための道具としてではあるが、彼女に生きてほしいと願っていた。
「そんな顔をしないで。勝敗なんてとっくに決まっていたんですから」
平然と、クリムエルヒルトは口を動かした。喉は斬り裂かれているはず。傷から出てくる黒い血液が、突然蠢き始めた。よく見てみれば、血などではない。黒い膿は意志を持つかのようにあふれ出し、彼女自身と、貴樹、火守女を覆ってきた。
リリア―ネとユリアはその膿に触れないよう、牢の外まで下がる。
「全く。守り手は皆、そうなのかな。結晶さんも、私達をとやかく言う資格はないね」
顔の半分が膿色になり、青白い頬で、クリムエルヒルトは艶然と唇を吊り上げた。快楽で濡れた目を、いっぱいに開いていく。
「死に最も近づく時が、一番気持ちいいの。楽しい時間をありがとう」
貴樹は己にまとわりつく膿をどうにかして剥がそうともがいているうちに、急に視界が遠ざかっていくのを感じた。光景が四角の枠にはめられて、それ以外の周りは暗闇だ。まるで一人で映画を見ているような心地だった。
そして、一瞬で白い閃光がそれら全てを埋め尽くし、
気が付いた時には、上品な雰囲気の飾り付けがなされた天井が映っていた。
(なんだ、どういうことだ?)
実感を持てずに体を動かそうとすると、背中に柔らかい感触があった。首を回し、左右を見ると、どうやら自分は大きなベッドに寝かされているらしい。四隅の柱から全体を囲むように淡い灰色のカーテンが掛けられていて、この部屋が地下牢にある一室ではないことは確かだった。
擦るような金属音で、自分の体とベッドが鎖でつながれているのがわかった。四肢があった所全てに、鉄輪がはめられている。
「お目覚めですか?」
ベッドのすぐ横の床にクリムエルヒルトが座っていた。膿の欠片もなく、喉の傷も無くなっている一方で、両腕は欠損していた。
「戸惑っているんでしょう。大丈夫。心配はありませんよ。ここは、法王の城内です。あの雌亡者共が追いかけてくることもない。貴方を害する者は誰もいません」
どうやって、と問おうとしたが、貴樹はその前にこの女性の能力を思い出した。能力というよりは、奇跡という方が正しい。イルシ―ルの地下牢から、ここまで瞬間移動したということだろう。ロスリックの王子も使える奇跡だ。ただ、無条件で移動できる距離ではないはず。初めからこうするつもりで準備をしてから、ユリア達の前に姿を現したのだろう。
クリムエルヒルトは枕元に腰を下ろした。
「少しだけ、お待ちください。正直、今すぐにでも、という思いはあります。ですが、フフ、両手がないと不便ですから。別室で治してきますね」
言い方に、不穏なものを感じた。言葉以上に彼女の表情が物語っている。貴樹に付いている鉄輪を確認するその視線は、獲物に対するそれである。額には汗が浮かび、今までどこか具合の悪そうだった肌色は、じんわりと赤らんできている。
貴樹はあえてそこに意識を向けないようにした。何よりも、尋ねるべきことがある。
「火守女は、どこに?」
「安心してください。無事ですよ」
彼の顔に目を落としながら答えてくる。
(信じられるわけねえだろ)
「この部屋の近くにいるんですか。彼女には絶対に手出しを…」
ふっと、力が抜けたようにクリムエルヒルトが落ちてくる。貴樹は辛うじて首を動かすことしかできなかった。そんなとっさの反応にも、彼女はついてくる。その目は、悪戯を楽しむように笑っていた。
紫がかった唇が、貴樹の唇と合わさる。呆気にとられている間に、彼女は舌を伸ばして、前歯の裏側を舐めてきた。かすかな鼻息が頬にかかる。首筋に悪寒が走った直後には、彼女は再び顔を上げていた。自身の舌を、見せつけるように口の中へとしまっていく。
「他の女のことなんて、おっしゃらないで……」
(ほぎゃあああああああああああああああああああ! 俺のファーストキスがあああああああああああああああ汚ねええええええええええええええええええええ! この女アアアアアアアアアア絶対にその口むしりとってやらあああああああああ!)
『二十余年、とっておいたのにな(笑)』
発疹が首から胸にかけてできる。唾を吐き捨てたい気分だったが、彼女を下手に刺激することは良くない。必死にただただ驚いているという様子を作った。
クリムエルヒルトは少女のように明るく笑った後、立ち上がった。
「ほんの戯れです。戻ってきた時に……続きをいたしましょう」
部屋から出ていくその瞬間まで、彼女は貴樹から目をそらさなかった。
一人になってからしばらく、気を静める時間が必要だった。命の危険は何とか回避できたとはいえ、別の危険が迫っていた。