視力も完全に回復し、彼女の助けがなくても多少動けるようになった。声も何の不自由もなく出せたはずだが、俺とミレーヌの間に言葉はほとんどない。
「何か、体に異常はありませんか?」
「まあ、なんというか」
「?」
俺は戸惑っていた。もちろん、彼女がミレーヌであることは疑いようもない。面影は確かにある。しかし時間が、あの無邪気な子供の顔を大きく変えていた。贔屓目かもしれないが、肖像画で見た、太陽の長女グウィネヴィアの美貌など目ではない。誇らしいことだ。しかしどう接すればいいのか、つかみかねている部分もあった。
「その、仰々しい喋り方はなんというか、おかしく感じるな」
「私はまだ、ものを知らない子供でしたから。そのせいで、たくさん、迷惑をかけてしまいました」
その眉が申し訳なさげに下がるのを見て、俺は言った。
「そんなことはない。むしろ俺の方が、何もわかっていない駄目な奴だった。お前に、手を上げるようなこともして」
「いえ、それは結局私が原因で…」
互いに譲り合えないのがわかって、また、会話が途切れた。
難しい問題ではあるだろう。しかし、この程度の障害など、これからの積み重ねで乗り越えていけばいいのだ。
一方で、気を引き締めなければならないこともある。俺は彼女のことをもっと理解しようとしながら、どうやってこの部屋から、監視所から逃げるかを考え続けていた。大狼に報いを受けさせるかどうかなど、どうでもいいことだ。ミレーヌと共に、どこか、安全な場所へ。
彼女が、俺にシフィオ―ルスと会わせると言ったのは、完全に体の状態が回復した頃だった。できる限り内心を悟らせるような態度をとらないよう、心がけたつもりだ。あとはいつ、彼女と話し合い、ここを離れる算段を付けるか。
俺は反吐が出る思いをしながら監視者の鎧と兜を着て、彼女から剣を受け取った。せめて、自分がなぜ生きているのか、確かめてからの方がいいだろう。幸い、武器の所持は許可されている。思ったよりも逃亡は上手くいきそうだ。などと、浅はかに考えていた。
この時、ミレーヌの視線に対して何の違和感も感じなかった。それもまた、俺がまだ思い込みの激しい愚かな男だった証拠だろう。彼女の純粋な熱のこもった羨望を、深く、考えてみることもしなかったのだ。
監視所の外に出ると、シフィオ―ルスが待っていた。周りには、監視者達が並んでいる。その中に見憶えのある者は一人もいない。新たに加わった隊員なのだと、疑問も感じずに納得していた。
「よくぞ、戻って来てくれた。ホークウッドよ」
「はい」
俺の感情は冷え切っていた。何の神聖さもない、ただの獣に見えた。。
「…なぜ、俺は生きているんですか」
「鐘が、なったのだ。当代の薪、ロスリック王家が使命を拒否した。君達を含め、歴代の薪の王達が蘇り、緊急措置として、代わりを務めることになったのだ」
激情が深い心の底に沈むほど、長い苦痛を体験したことに初めてありがたさを感じた。自分を抑える必要がない。だが、それでもぶつけたくなる言葉はある。
また、あれを味わうのか。つまり一時的に戻されただけで、哀れな犠牲者には変わりないと。
「それは、想像もつかないような事態になりましたね。わかりました。この身を再び救世のため役立てられることを、光栄に思います」
不意をつけば、こいつらの何人かを殺し、シフィオ―ルスにも多少の傷を負わせることくらいはできる。やはり、このままここにいるのは危険だ。俺は逃亡の決意を固くした。
安堵したような空気が流れた。どこか警戒していた監視者達も、手を剣から離していた。シフィオ―ルスは起き上がると、ミレーヌに向かって頷いてみせる。
「とはいえ、まだ先の話だ。その前に解決しなければならない問題があるが、今は休養が優先だ。彼女との積もる話もあるだろう」
ああ、その通りだ。
俺は内心嘲笑い、部屋へと戻った。
ミレーヌは少し遅れて入ってきた。ファランの大剣を持っている。それから俺の方へと視線を向け、何か含みがあるように、目を泳がせた。
「ああ、予備の剣か。重いだろう。貸してくれ」
彼女は剣を胸に抱いたまま、動かない。
「ミレーヌ?」
「お願いしたいことがあるんですが、許してくれますか?」
「もちろんだ」
その他人行儀な話し方をやめてほしいと、こっちからも頼みたかった。俺がまだ、彼女の変化を受け入れきれていないのも原因だろうが、彼女が遠慮しているのもまた伝わってきて、やりづらい。だから、少しでも紛らわせようと、俺は何でも聞くつもりでいた。
「もちろん、ホークウッド様にはまだ休養が必要だとわかっています。気が向いたらでいいので、私と手合わせをしてくれませんか? 少しでも、貴方に追いつければと、研鑽を積んでまいりました」
俺は、頷こうとした体勢のまま固まった。よく、彼女の言っていることの意味が理解できなかったからだ。いや、わかってはいたかもしれない。だがそれを認めるのを、俺は拒否していた。
「どういう、ことだ」
「その棒きれのような体では、一度振っただけで肩が外れるだろう」
彼女は少し声を低くして、素っ気ない口調で言った。俺の真似をしているらしい。
黙っている俺に向かって、笑いかけてくる。
「そう、言ってましたね。それなりに、気にしていたんですよ? でも、もうそんなことは言わせません」
彼女は大剣を片手で振ってみせた。その顔には、少女の名残がある。何か一つできるようになる度に、俺に見せてきた、得意げな表情。だが、それに対して微笑ましい感情を覚えるよりも前に、ふつふつと込み上げてくる何かを感じた。
ファランの大剣は、華奢な女性が扱えるものではない。ミレーヌは確かに体も成長していたが、戦士と言えるほどの筋肉がついているようには到底見えなかった。
見た目にそぐわない力。俺には、心当たりがあった。
嘘だ。そんなはずはない。
認めたくなくても、確かめなければならなかった。
「上を、脱いでくれ」
「はい。…はい? すみません、何と?」
「上着を脱げ」
言われた彼女は何度も瞬きし、左右に視線をさまよわせた。ホークウッドが近づくと、狼狽したように剣を壁に立てかける。
「確かに鎧を着なければいけませんが、あの、もう私は自分で着替えられるので」
少し早口で拒否しようとしている彼女の肩を掴んだ。そして、上着の裾をめくる。
俺は深く目をつぶった後、長く息を吐き出した。
彼女の肌は、打撲痕や浅い切り傷で汚されている。馴染みの深いものだった。俺も、厳しい訓練の時の傷が残っている部分がある。彼女が剣を学んだというのは、本当のことなのだろう。
問題なのは、鳩尾と腹筋の間に醜く広がった、円状の傷跡だった。完全に塞がってはいるが、定期的に痛むであろうことは、俺が身にしみてわかっている。
「私も、誓約を交わしたんです」
わからない。
「だから、ああ、本当に、夢のようで。ずっと、夢見てきました。貴方と一緒に、使命を果たすことを。これ以上の喜びはありません」
なぜ彼女は、こんなに褒めてもらいたい顔をしている?
新たな発見だった。怒りは長く続かない。そのことを、俺は火に捧げられる事で学んだ。そして一度冷めた心は、二度と燃えることがない。そう、思い込んでいた。とんでもない。
俺は再び、激情に支配された。
剣を取り、引き止めるミレーヌを振り払い、再び外に出た。監視所前には相も変わらず、巨狼が座している。その姿を見た途端、目の前が真っ赤に染まっていった。
「約束をたがえたな。シフィオ―ルス」
「何事だ」
俺は剣を抜いた。直後、狼の周りにいた者達も、刃を向けてくる。数は四。正面から挑んでも今の状態では厳しい。だが、俺は冷静ではなくなっていた。
「とぼけるな。彼女を、幸せにしろと、俺は頼んだはずだ。それが、どうして、こんな事になっているんだ!」
「そのような口を―――」
咎めようとした騎士の一人を、シフィオ―ルスは遮った。
「よい。ホークウッドよ、冷静になりなさい。君は、まだ、混乱しているのだ」
「あいつに、狼血を入れたな? よくも、よくも、そんなことを」
剣を持つ手が震える。両足に力を入れると、鈍い痛みが走った。万全ではない。だが、それがどうした。
「よく聞いてくれ。私は、君の願いに背いたつもりはない」
「何だと?」
俺は一瞬だけ、自分の考えが違っているのではないかと冷静になった。それほど、彼女が狼血の誓いを立てたことに受け入れがたいものを感じていたからだ。
「彼女の意志を、我々が否定したことは一度もない。全て、ミレーヌが望んだことなのだ。剣を収めてくれ。こんなことで彼女が悲しむのは見たくない」
振り返れば、追いついてきたミレーヌがこちらを見ている。彼女は未だに理解できていない様子で、ただ途方に暮れたように、佇んでいた。
「ミレーヌ、そうなのか?」
「はい。今なら、貴方のなされた行動の尊さも、理解できます。今度は私も共に、ご一緒させてください。紛れもない、私自身の望みです」
俺は地面を見下ろした後、剣を鞘に納める。
自分にも、責任はある。幼い彼女の言葉に従っていれば、こんなことにはならなかった。ずっと、そばにいてやれれば、彼女が、こんな、取りつかれたような目をしなくてもすんだのだ。火に捧げられることを、さも、自分の願望だと錯覚せずにすんだ。
だが、そうだとしても、やはり。
この、獣が悪い。
俺はシフィオ―ルスは睨みつける。
断じて、ミレーヌは、俺の苦しみを理解した上で、同じ道を歩もうとする奴じゃなかった。俺の小さな傷でさえ、まるで自分のことのように辛そうに、治療していた彼女が、戦いへ自分の身を捧げるような思考には決して至らない。
自由意志か。結構なことだ。そうなるように仕向けたのは、お前だろう。
シフィオ―ルスは溜息をついた。
「まだ、納得していないようだな。ふう。これを話すのは気が進まないのだが、仕方がない。君は彼女と深く関わった。知る権利はあるだろう」
間を置いてから、続きを話す。
「初めから、決まっていたことなのだ。彼女は、ソウルの器として非常に優れた素質を持っている。我々とは、その構造も根本的に違う。これは当たり間のことだ。そのために、用意された人材なのだから。君と出会わせたその時から既に、こうなることは決まっていた」
ついにほらを吹きだしたと、思っていた。狼の言葉はあまりに、矛盾をはらんでいるように感じたからだ。
「何を、言っている? ミレーヌは、お前が拾ってきた、ただの、孤児で」
徐々に理解するうちに、俺の思考はまとまらなくなった。
「それは、真実ではない。彼女の目覚めは、予言によって、知らされていた。私は、示された場所へと赴き、棺の中から、見出しただけだ」
「待て。ただ、眠っていただけだと? だが、彼女の状態は」
拾われた来たばかりの少女を思い出し、俺はまだ信じ切れていなかった。しかし、これを訊いた途端、シフィオ―ルスが顔をそらしたのを見て、ぞっとするような思いが背筋を伝った。
「お前らが、やったのか? お前らが、まだ小さかったあいつを」
「違う。正しい認識ではない。彼女は初め、精神が安定していなかった。根拠のない敵意を、我々に向けていて、とても話ができる状態ではなかったのだ。故に、一度、心を折らなければならなかった」
こいつらの罪は二つある。
一つは、まだ右も左もわからなかった彼女を、考える限り最悪の方法で、矯正したということ。 ホークだけ。そう言った彼女の縋るような表情を思い出す。あいつには、監視者の全てが恐ろしく感じていただろう。だが、それでも、俺にはそんな素振りを少しも見せたことがなかった。
もう一つは、そんな彼女を利用し、俺を何の意味もない非道な使命に殉じさせ、さらには彼女もまた、それに巻き込もうとしていること。許されることではない。あんな思いを、ミレーヌにさせるのか? 真実に気づく寸前まで、それが善いことだと信じさせて。
俺は過去感じた事のない、最高の怒りに身を任せた。
「死ぬがいい、薄汚い獣め」
剣を引き抜きながら、狼のもとへと走り出す。控えていた騎士達が、その間に立ちふさがってきた。複数の刃が迫る中、初手で同時に全てを受け止め、次で強引に弾き返す。そのまま跳んだ俺は、自分の中に薪の力の名残があるのを感じ取っていた。
隙があったがあえて殺さず、まずはシフィオ―ルスの首を取ることだけに集中する。あいつに関して警戒すべき、あの剣は監視所の中で祭られたままだ。立ち上がろうとしている狼に向かって、俺は剣を振り下ろした。
殺せる。そう思った時、剣が割り込んできた刃によって止められる。
俺は、瞬きして、金の髪を、呆然と見た。
「どいてくれ、ミレーヌ」
押しのけようとするも、彼女は動かせない。
「お願いです、正気を取り戻してください」
有り得ない力だった。俺に匹敵するどころか、上回っていると言ってもいい。彼女は俺の剣を押し返すと、首を剣の腹で打とうとしてきた。迷いのない、洗練された軌跡。後ろへ飛びのき、それをかわす。
俺には戦う気はまるでなかった。彼女と剣を交わすなど、到底できない。
「ミレーヌ、聞いてくれ。狂っているのはこいつらの方だ。お前の、言っていた事は正しかった。一緒にここから逃げよう。お前となら、この狼を殺して」
「―――ふざけないで」
失望と怒りのこもった目で、俺を睨みつけた。そこで、ようやく理解する。俺とミレーヌの間には、大きな隔たりができてしまっていることに。
「貴方もなの? 貴方も、おかしくなってしまったのね。ほかの同胞と同じように。奴らは皆、目覚めた途端にここから出ていった。何かに取りつかれたみたいに」
あいつらは、本当に、深淵狩り以外何も考えられなくなった狂人だ。だが、俺には、そんなことはどうでもいい。
「俺は、違うんだ」
「既に反逆の意志を見せておいて、よく言うわ。今さら、」
彼女は歯を食いしばる。
「今さら、何を言っているの? 火が継がれなければ、世界が、終わるのよ。貴方も、そう言って、使命を全うしたはず。誰も、貴方の破滅願望についていこうとする人なんて、いないわ」
俺は頭を抱えそうになった。どうして、わかってくれないんだ。
「こいつらは、お前を道具としか考えていないんだぞ! いいか、火継ぎは、ただの延命処置でしかない。気づいているんだろ? 火は代を経るごとに弱まっている。どうせそのうち、全てが終わるんだ。だから、俺はせめてその時まで」
これ以上、続けることができなかった。彼女は、俺を得体の知らないものであるかのように、蔑視していた。彼女のそんな視線を浴びるのは、耐えるられることではない。
何もかも無駄。火の中で嗤っていた、かの者の声が、聞こえてくる。来るべき時まで、ただ時間を稼ぐだけ。俺達は、その程度の存在。
「そこを、どけ」
俺は悲壮な決意を固めた。虚しい思い込みもしていた。シフィオ―ルスさえ、殺すことができれば、きっとこいつは解放される。正しい考え方に、戻ってくれる。そのためには、彼女に刃を向けることもいとわない。
答えないミレーヌに向かって、俺は疾走する。本気だった。本気の力で、彼女と剣を打ち合い、そして、ほどなく負けた。
剣を手から弾き飛ばされた俺は、彼女に向かって醜い命乞いをした。地に頭をつけ、泣きついた。俺もこいつと同じくらい、自分自身に失望していた。彼女からは、多くのものを受け取った。だが、反対に、俺の方は何もできていない。無力さは変わらなかった。
狼血の誓いを解き、雑務など自分のできることは何でもやるという条件で、命だけは見逃された。もう、あいつの中の俺は、無様な男に成り果てている。初めは戻ってくれるかもしれないと、期待していた眼差しは、時を経て、向けてくれることはなくなった。
諦めはしない。
あいつが、俺の一番大事な人が、無意味に死んで、永遠の苦しみに囚われることは断じて認めはしない。それを防ぐことが、蘇った俺の使命だ。生きる理由の、全てだ。
狼血の騎士達が祭祀場に合流するのは、それから少し後のことになる。
妙な気分だ。
右からの一閃、弾かれた勢いで軌道を変え、今度は上から振り下ろす。一度距離を取り、狼血特有の脚力で一気に詰める。
思わず笑いたくなったのは、きっと懐かしさからだ。俺の好んだ型とも言えない流れを含む攻撃を、彼女が使ってくるのは、表現しがたい感慨があった。そしてそれを全て防がれた時の、ミレーヌの驚くまいとこらえている表情は、なかなか味わい深かった。ずっと見ていたいほどだ。
だが、気を抜けば、すぐに。
ミレーヌの剣撃が、俺の刃にまともに入った。元から消耗していたのもあり、中ほどから折れてしまう。自分が誓いを交わしていた頃は考えもしなかったが、狼血の剣技を相手にした時最も厄介なのは、敵の武器を非常に効率よく損耗させる弛まない連撃にある。化け物どもと日々戦う者達の技は、実は同じ剣で戦う奴らにこそ本領を発揮するというわけだ。
もちろん、そんなことは想定内だった。予備なら、いくらでもそこらに転がっているのだ。
タカキが一瞬で仕留め、使われることがなかった同胞の武器を、離れながら拾う。彼女は追撃してきたが、俺もまたそこへと向かって強く踏み込んだ。
相手の刃の力を、正面から受けてはいけない。こいつの腕力は、もはや全ての加護を失った俺よりもずっと上だ。だから、剛ではなく柔の技を、ひたすら磨いてきた。
二、三度防がれた後、ミレーヌの足が動いた。蹴りをを籠手で受け止めると、彼女は勢いのまま体を回転させ、遠心力の加わった剣を滑らせる。顎を即座に引き、かすめた一閃の残像が目端に残る。俺は真上へ飛び、彼女の背後に回った。
体勢が崩れているのにも関わらず、限りなく早く振り向いて、肩を狙った攻撃を弾いてきた。もう片方に持った短剣を、突き刺そうとしてくる。鮮やかな反撃を、俺は横っ跳びに避けて、持っていた同じ趣向の短剣を投げつけた。彼女は首を動かし、兜で怪我を防いだ。
攻防に区切りがつき、俺は空になった手をほぐして大剣の柄に沿える。
「危なかった所だ。こんなのは、片手で振り回すもんじゃねえよな」
彼女は息を吐き出し、俺を見る目を細くする。そこには、警戒と、隠しきれていない疑問が、容易に読み取れる。素直だな。俺は、何となく嬉しくなった。前とは違うようだ。最高の気分ではないが、苦しくもない。彼女と戦うのに、抵抗は感じなくなっていた。そこに意味が、あるからだろう。
「何を、笑っているの?」
顔に出てしまっていたらしい。この場では失礼に当たることだ。
「すまねえな。ようやく望みが果たせるかと思うと、感無量なんだ」
望み、の部分を聞いた時だけ、彼女の顔に何かがよぎった。俺の洞察が間違っていなければ、それは、恐れだ。怯え、とも言える。
「滅亡を望む者同士徒党を組んで、一生懸命ね」
「そうだな。今頃、あの糞狼の首を取ってくれているだろう。俺はあれの遺体を拝みたくてしょうがねえよ」
本物の憎しみを込めて言うと、彼女の様子にわずかな乱れも無くなった。それでいい、それでこそだ。
「…ほざけ。そんなこと、させはしない。先に首だけになっているのは、貴方よ」
「ほざいてんのは、お前だろ」
もはや対等の相手として、刃を交えたからこそ、余計に歯がゆい。
「こんなものなのか? まさか、今の不死隊の隊長が、この程度だとは思いもしなかった。何、加減してんだお前。倒すべき相手を前にして、それはねえだろ」
「黙り、なさい。偉そうに言わないで」
彼女は剣を上に掲げる。何かに祈っているようにも見えた。転がっている同胞の死体が、血の色に燃えていく。あふれ出した炎は全て、ミレーヌへと収束し始めた。やはり、火に愛されているのは彼女の方らしい。
「私は、今まで共に戦ってきた、全ての同胞の思いを、無駄にはしない。貴方を殺し、薪を得る」
刃の輝きが増し、彼女の体全体が燃えている幻影を見た。俺はその姿に一瞬見惚れ、深く心を動かされた。ミレーヌ、お前は優しいままだ。その優しさ故に、戻れない所まで来てしまったんだ。
だが、負けるわけにはいかない。お前だけには。
俺は勝手な奴だ。お前の望みよりもはるかに、お前自身が大事だ。
彼女は足を一歩前に出した。と思えば、鮮やかな炎の軌跡を描きながら、先ほどとは段違いの速さで、突っ込んでくる。俺は大剣を構え、決着をつけるべく、薪の王を見据えた。
◆
「困ったものね。本当に退屈させてくれないわ」
ねえ? と魔女は下田達を見回した。追いつめられているのは彼女のはずなのに、それを楽しんでさえいるようだ。
下田は、状況を理解しようとするだけで、精一杯だった。この女性のことは忘れもしない。祭祀場を襲撃して、久慈や芳野を殺した。仇だ。
そんな者がなぜ、先生と一緒にいるのか。一番考えられない組み合わせだった。しかも、それなりに親しかったようにも見える。まさか、先生の腕が無くなってしまっていることと、関係があるのではないのか。彼は、脅されて、やむを得ず協力している可能性もある。
「なぜ、お前が奴と」
カルラが、尋ねる。彼女の方が下田よりも信じられない思いでいるようだ。
「聞こえなかったの? エルドリッチとの誓約を解いたって」
「ありえない」
「あら、そんなに不思議? じゃあ、証拠を見せてあげる」
彼女はソウルの短剣を作り出すと、おもむろにローブの前を切り開いた。現れたのは、普通の肌だ。下田は目をそらすべきか悩んだが、そんな場合ではないと思い直した。何かがあるのかと身構えたものの、彼女の体は至って正常だ。
「クリムエルヒルト…」
「私は、貴方と違うのよ、カルラ。もう決めたことなの。わかった?」
彼女は、手に持つ炎を空に放った。渦巻きながら、それは一回り大きくなり、地下墓の空間を赤く照らす。
「任せると言われたからには、私の判断で動くわ。目的は無駄にでかい獣を殺すことだけど、邪魔したら、全員、殺すから」
言い終えた直後、彼女の炎は消える。そして、下田達の近くに現れた。下田はとっさに逃げようとするが、炎が一向に動かないのを見て、やっと気がつく。
「そんなことはさせない。貴方には、償いをさせてもらう」
新宮が炎を霧散させる。
それを見て、クリムエルヒルトはつまらなそうに溜息をついた。
「呆れた。前から少しも、成長していないのね」
魔女へと向かって、ソウルの矢がいくつも飛んでいく。その中には、実織が投げた炎の球も含まれていた。相手の力量は、既に嫌というほど知っている。攻撃の隙を与えるのは、一番避けるべきことだ。
だが、それら全ての術は、彼女の目の前で消えた。崩れた、と言った方が正しいかもしれない。形自体が保てずに、自壊したのだ。
ちとせが続けて、出現させたロープを投げるも、クリムエルヒルトの作った細い矢に射抜かれて、呆気なく地面に落ちる。体に巻きつくまでは、従来のものと変わらない。
新宮が大きなソウルの塊を作り出し、大砲のように打ちだす。魔女へと届く前に多数の針になって散らばり、相手を全方位から射抜いた。
言葉に、惑わされてはいけない。前とは違うのだ。自分達は、戦えるようになっている。新宮の技を見て元気づけられた下田だったが、クリムエルヒルトが涼しい顔で立っているのを見て、唖然となった。
「相も変わらず、中身のないお粗末な術だこと。よほど教えた人が悪かったのねえ」
彼女の手と、口がわずかに動いたことだけは見えていた。しかし、なぜ避ける隙もないほどの猛攻を受けて、無傷でいるのか。
実織が一歩踏み出そうとした所で、カルラがそれを止めた。
「待て。接近することだけは、一番避けなければならないんだ」
何もないはずの空間に目を向けて、警戒を促す。
「奴の魔術は、二種に分かれている。我々が目にしてきたものは、ほんの一部でしない。いいか、感覚を研ぎ澄ませ。奴は待ちの戦術を最も得意としている。なぜならば、不可視の魔術をそこらじゅうに張り巡らせられるからだ」
実織のわずか半歩先に、刺々しいソウルの固まりが現れた。もう少し彼女が進んでいれば、直撃していたのだろう。久慈の分身がやられた時も、似たような術を使っていた記憶がある。下田もようやく、この場所の危険性に気がついた。クリムエルヒルト達は、ずっと地下墓で待ち伏せをしていたのだ。自分達を落とした穴のように、仕掛けはまだ、残されているかもしれない。
カルラは、不安げになった下田達に頷いてくる。
「大丈夫だ。私ならばそれに対応ができる。お前達は、援護に回ってくれ」
杖を構えた彼女を見て、クリムエルヒルトは嘲笑した。
「へえ、本気なの? 今まで一度も、私に敵わなかった貴方が、やるって? 私がお師様を殺した時も、何もできなかったくせに」
「ああ、そうだな。お前とは対等だと思えたことは一度もない。だが」
カルラは、余裕の笑みを浮かべた。
「お前は忘れているぞ」
青い光が、魔女と重なる。瞬間、その左腕が飛んでいた。少しだけよろめいた後、即座に横の壁際へと後退する。
光を放つ月光の大剣を咥えたシフィオ―ルスが、唸り声を上げた。
「容赦はしない。ミレーヌと、一刻も早く合流しなければならない」
狼が武器を持つという、滑稽にも思えるかもしれない光景は、この場では、とても頼もしく映った。大剣の神秘さにも、理由があるのだろう。
クリムエルヒルトは欠けた腕に向けて奇跡を施す。元通りにするのではなく、ただ傷口を塞ぐだけの簡素なものだった。それから、不気味に微笑む。
次の瞬間、シフィオ―ルスの周囲を何十本もの矢が囲んでいた。彼女は、この瞬間をねらっていたらしい。下田が声を上げる間もなく、一斉に狼へと収束していく。予想される惨劇に思わず目をつぶったが、その前にカルラと新宮が動いていた。
片方が術を消し、片方が同じソウルの矢をぶつけて相殺させる。そしてこぼれた分は、月光の刃によって断ち切られた。
「殺す優先順位を、考えなきゃね」
次の狙いへと、魔女は目を向けた。走りながら、ソウルの塊を異なる軌道で打ち出す。全て、新宮へと向かっている。構えた彼女の前に、カルラが躍り出る。ほとんどの塊を同じものをぶつけて散らし、残った一つは狭く厚い障壁で防いだ。
さらに何かを唱えようとしたクリムエルヒルトは、直前でその場から飛びのいた。読んではいたようだが、シフィオ―ルスの剣撃を完全にかわすことはできなかったらしい。ローブの一部が裂けて、そこから血が流れ出ていた。
彼女の余裕ある笑みの質が、変わった。少しだけ息を切らしている。たとえどんなに強大な術士であっても、際限なく行使できるわけではない。下田から見ても確実に、こちらが有利である状況は変わらなかった。
「参ったわね」
だが、彼女には不安や恐れが全く見られない。過ぎた悪戯をした子供を相手にするかのように、薄く笑う。手をゆっくりと顔の上の方まで持っていくと、髪をかき上げた。ただそれだけの動作で、纏う空気が一変したような気がする。
「貴方達、それなりに苦しむことになるけど、許してくれる?」
じゅうううと、何かが焼ける臭いがした。赤い糸。薄く発光したそれが、魔女の手から伸びている。その伸びている先へと振り返れば、新宮が首を抑えて地面をのたうちまわっていた。顔を大きく歪め、巻きついたものを取ろうとしているが、触れた指までもが焦げて、炭化しかけている。炎の首輪。
実織が、数瞬遅れて呟いた。
「さ、な…」
「全員、その場から離れろ!」
反応しきれなかった下田は、カルラに無理やり押されて、横の壁へと激突する。頭が揺れる。痛みに歯を食いしばっていると、先ほどまでいた場所から、炎が噴き上がっているのが見えた。
女の、甲高い叫びが上がる。炎の柱の中で、実織が倒れていた。その姿を直視しようとして、下田は吐き気に襲われる。焼死した人の体を見るのは、これが初めてだった。口を押さえて下を向こうとすると、カルラに首を掴まれ、立たされた。
「敵から、目をそらすな」
二人の女子の体が、消えていく。ああ、そうだ。祭祀場へと戻されるんだ。下田が、実織と新宮が本当に死んだわけではないことに遅れて気がつくが、それが本当に幸運なことなのかはわからなかった。
「いつだ、いつの間に、仕掛けていた」
カルラが動揺している様子で言うのを見て、自分達の状況を知る。優位に立っているというのは、下田の認識不足だった。
「貴方、まさか…」
クリムエルヒルトは、言葉の途中でくすくすと笑う。
「少し不可視化を強めれば知覚できなくなるくせに、対応できるとかなんだとか、大口を叩いていたの? 今消えた二人、まるで警戒がなっていなかった。貴方の事信じていたんでしょうねえ。可哀想に」
「く…」
カルラが動こうとした所で、魔女はおもむろに地面を指さした。
「確か、下に七つ、中空に五つ、上に八つね」
「何を、言っている?」
「仕掛けた呪術の数。まだわかっていないようだけど、私達は待ち伏せをしていたのよ。万全の準備を整えているのは当然でしょう。始まってからすぐに、戦う場所を変えるか、そもそもほかの戦士達と一緒に落ちるべきだった。半端な戦力を連れてきた結果がこれ」
「ありえない。二十の術を同時展開など、できはしない」
「嘘だと思うなら、それでいいんじゃない?」
もうすでに彼女の呪術の威力知っている者にとっては、犯すべきではない危険だった。この場所は、さほど狭いというわけでもないが、さきほどの術を考えれば、仕掛けたうちの半分でも発動してしまえば、一帯が全て炎に包まれるだろう。
固まりかけた下田の思考を破ったのは、淡い緑の閃光だった。月光の斬光がクリムエルヒルトへと真っすぐ飛び、その胴体を捉えようとしている。彼女は笑みを消して、上に飛んだ。が、少し間に会わず、足の先が切断される。
「惑わされるな。魔女の言葉だ」
シフィオ―ルスは体勢を崩しているクリムエル昼に向かって追撃の手を加えようとした。しかし、その直後、彼の周囲に火球が出現する。炎の気配を敏感に察知し、大狼は、滑らかな動きで月光の大剣をぐるりと回転させた。切り裂かれた呪術が全て、消滅していく。
魔女の手から伸びる炎の鞭も、身をひるがえしてかわし、伸びきったそれを細かく寸断した。獣とは思えないほど、剣を器用に扱っている。
「道は、私が斬り開こう。奴に考える隙を与えるな。仕掛けの維持だけでも、かなり精神を消耗しているはずだ」
カルラがさらに追撃を加える。その魔術を簡単に打ち消すことはできないようで、クリムエルヒルトはさらに奥へと追いやられた。こうした動きが誘導である可能性も、カルラとシフィオ―ルスは理解しているようだ。片方が出現する呪術に対応し、もう片方が相手を抑えにかかる。今まで彼らが互いに言葉を交わしている場面にはおぼえがなかったが、それでも信頼を預け合っているのがわかる連携だった。
ソウルの矢が魔女の頬を裂き、月光の斬撃がさらにその髪の先を断ち切る。徐々に彼女が追いつめられているのは、下田にもわかった。わかっているはずなのに、なぜか、胸騒ぎは収まってくれない。
クリムエルヒルトが、わずかに指を動かすのを、確かに見ていた。だが、それが何を意味するのが、下田にはとっさの判断がつかない。そして、完全に彼らの戦いを眺めるだけになっていたのが、油断というほどにはないにせよ、気の緩みを促していた。
ちとせの顔の周りに、一本のソウルの矢が現れる。真っすぐ首を狙っていた。ちとせの反応は決して悪くはなかったのだ。ただ、その矢の威力が彼女の防御をはるかに上回っていたというだけで、決着はついた。
下田は、動きだそうとする構えのまま、固まった。頭と胴体が分離したちとせの姿を眺めることしかできない。それぞれの部分がほぼ同時に地面に転がった。
まだ魔術の仕掛けが残されている可能性を、考えてもいなかった。その思いはカルラも同じだったようで、わずかであってもこちらに注意を向けてしまう。瞬間、魔女の口元が嬉しそうに歪んだ。
即座に放たれた四つの火球の内、三つは辛うじて対応した。しかし、間に合わなかった最後の一つが、カルラの腕に当たる。彼女は一瞬顔を歪めたが、それでも自分の体より、相手へ牽制を入れることを優先した。
その効果はすぐに現れる。今度は逆に、クリムエルヒルトの方が隙を晒すことになった。シフィオ―ルスが電光のように懐へと駆け、魔女の胸を刺し貫く。やや長引きかけていた攻防が、一つのきっかけだけで終わった。
「カルラさん!」
消えていくちとせの死体に足が止まりかけたが、下田は何とか振り払い、カルラへ奇跡を放った。未だ治癒の光を体外で維持することには慣れていなく、それはあくまで応急処置のさらに前段階としてしか機能しない。
「選択を誤った。卑劣な行いをした報いだ」
シフィオ―ルスは、さらに奥まで剣を差しこんだ。クリムエルヒルトはその刃に寄りかかる姿勢になって、血を吐く。既に流れ出した血液は尋常ではなく、彼女の顔の蒼白さが、致命傷を負ったという確実な証拠になっている。
カルラの方は、下田が放たった奇跡に触れるとすぐに、地面へ倒れた。慌てて駆け寄るも、手と腕の酷い火傷に、動揺しないよう心がけなければならなかった。
下田達と、この世界の者達では、怪我の重みが全く違う。カルラは不死ではないのだ。一度死んでしまえば、それまで。絶対に治さねばならないという重圧で手が震えた。
「落ち着け…。大まかに、傷口を塞ぐだけでいい。今はそれで十分だ」
「はい……」
確かに、塞ぐだけなら、下田でも容易だった。手足をつなぎ合わせるよりはずっと簡単だ。千切れた神経を元に戻すのは、イリ―ナでさえ失敗することがあると彼女自身が言っていた。カルラの傷は、そこまでではない。それでも、最大限集中して、奇跡を施す。もう戦闘は終わったのだと、思いながら。
「フフ」
長く、クリムエルヒルトは息をついた。顔だけをゆっくりと動かすと、シフィオ―ルスを侮蔑の表情で見据えた。
「卑劣? 貴方が、私に、そう言うのね」
月光の大剣を引き抜こうとするシフィオ―ルスの動きが止まった。なぜなら、もうその必要がなくなったからだ。刃に腹を貫かれていたはずの魔女の姿が一瞬にして消えていた。何かの危険を感じ取ったらしい狼は、すぐに後ろへ離れようとした。
「駄目―――」
外側から全ての動きが見えていた下田は、今度こそ声を出すことができた。だが、それだけだ。あまりにも遅すぎた。
シフィオ―ルスの腹から、赤い手が突き出てきた。薄い炎の膜でおおわれているようだったが、その色は普通の呪術の炎よりも、はるかに濃い血のような赤色をしている。狼の口から剣が落ちる。いつの間にか背後にいたクリムエルヒルトは、相手の長い耳にそっと口を寄せた。
「ぐうう……」
「私ねえ、貴方の一族のこと、ずうううっと嫌いだったの。深淵渡りに付いて回ることしかできない愚かな獣。ちゃんと全部の内臓を焼いてあげるから、たくさん苦しんでね」
シフィオ―ルスの体が炎に包まれた。じたばたと体を揺らすが、魔女の力で抑えられる程度のものでしかない。
がっと、腕を掴まれて、下田は我に返った。カルラが、必死の形相で見てきている。
「治してくれ。早く、もう少しで動けるんだ。早く!」
一心不乱に指示に従った。無理やり周りのことを自分から締め出して、ただ奇跡を使うことだけに全神経を使おうとした。
「結晶、の娘。お前は、そう、か…、ア」
息も絶え絶えのシフィオ―ルスの言葉が、途中で途切れた。はっとしてその方を見ると、クリムエルヒルトに何本ものソウルの針で八つ裂きにされている所だった。下田は言葉もなく、その光景を前にして何もかもが真っ白になった。
魔女は最後に炎の短剣を作り出すと、狼の首へ斬り入れる。肉が焦げるような音を立てながら、まるで食材を分けるかのようにその首を断ち切って、頭だけになったシフィオ―ルスに唾を吐いていた。汚らわしいと言わんばかりに。