火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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27.代償と逃走

 嫌な臭いがする。

 地面に投げ出された狼の体はそのままだ。霞のように消えることはなく、祭祀場で再生されることもない。つまり、それで終わりだということだった。

 

「…太陽……」

 

 ほとんど聞き取れない呟きを、クリムエルヒルトは漏らした。その瞬間、彼女の体が、光に覆われる。下田にとっては何度も見てきた色だった。体を癒す、奇跡の光。その密度は今まで見たこともないほどに濃く、その術の完成度の高さが伺い知れる。

 下田の意識はシフィオ―ルスの死骸に向いていて、無意識のうちにカルラの治療を完了させたことを自覚できなかった。カルラは立ち上がると、当然のように、彼の前に立ちふさがる。

 

「なあに?」

 

 傷口を癒し終わったクリムエルヒルトは、カルラを見て首を傾げた。

 

「なぜ」

「そんなに、大きく口を開けちゃって、どうしたの」

 

 カルラの後ろ姿は、酷く打ちのめされているようにも見えた。

 

「なぜ、奇跡を、使っている? お前に、そんなことが」

「カルラ、二つに一つよ」

 

 クリムエルヒルトは、こちらへと一歩進んだ。

 

「もう、目的は果たしたし、上に戻らないといけないの。貴方達は、黙って、そこにいればいいから。戦う必要もないでしょう?」

「そう、だな」

 

 魔女は頷いてから、上の天井に穴を開けようと、魔術を構える。直後、その矛先を、隙を突こうとしていたカルラに向け、情け容赦なく解き放った。彼女の胸にいくつもの穴が空き、その一つ一つが取り返しのつかないものだった。

 大量の血がかかるのにもかかわらず、下田は縋るようにして倒れ行く彼女の体へと飛びついた。自分でも意味のわからない呻き声を発しながら、後先考えずに全力で奇跡を発動させる。自分の治癒の光が、これほど心細く感じたことはなかった。

 

「気持ちが悪い」

 

 クリムエルヒルトの声が、すぐ上から降ってくる。自分もやられるのではないかという心配は、下田の頭にはなかった。もはや全てが吹き飛んでいた。

 

「貴方、この坊やに尽くせば、償えるとでも思っているのね。いない者の影を重ね合わせて、醜いとは、思えないの?」

 

 駄目だ。全然足りない。下田は震える手でヨルシカからもらった聖鈴を取り出した。祈りを込め、三度横に振る。小さい紋章の輪が広がって、カルラの治癒速度がやや早まった。

 大きく息を吸い込む音が、聞こえてきた。

 

「坊や、それを、どこで、手に入れたの…?」

 

 その声に潜む激情に怯みかける。首元に手が伸びてきて、思いっきり引っ張り上げられた。目の前には、全ての感情を消した、ぞっとするような魔女の顔がある。

 

「あぐ、」

「答えなさい。この鈴をどこで手に入れた」

「はな、して」

 

 下田は必死にカルラを見ていた。どんどん彼女の顔から色が失われていくのがわかる。元々ぎりぎりの見立てだったのに、中断してしまえば一気に望みはなくなる。

 なりふり構わず、下田は拙いソウルの矢を作った。それをクリムエルヒルトに向けて発射する。彼自身でさえよけられるような、だらしのない速度だった。それ故に、彼女に避けるまでもないという油断を与えることができたのだろう。

 彼女の手によって、矢が分解されていく。だが、なぜか先端部分だけは最後まで残った。その時初めて、クリムエルヒルトの注意が揺らぐ。ほとんど原形をとどめていないソウルの矢が彼女の手に刺さり、下田は解放された。

 

「そう。話す気がないのなら、貴方を拷問するわ」

 

 だが、一歩も踏み出さない内に、彼女はびくりと下を向いた。信じられないものを何とか飲み込もうとする間が空いた後、苦々しげに舌打ちする。何か、想定外のことが起こったようだった。

 彼女は転がるヨルシカの聖鈴を拾い上げると、あっという前に上の方へと向かっていった。

 残された下田は、辛うじて呼吸するカルラに這い寄る。もう時間はない。治す前に、あまりに多くの血が流れた。彼女の体力が尽きる前に、傷を治しきることはできない。

 

「嫌だ、カルラさん、そんな」 

 

 忍び寄る死を間近に見る経験は、二度としたくないと思っていたものだ。この人には、何の恩も、返せていない。迷惑ばかりかけていたというのに、こんな終わり方で何がいいのだろうか。

 奇跡の光が弱まりつつある自分の手に、いつの前にか女性の白い手が寄り添っている事に気がつく。その腕をたどり、少し上を見ると、人の道を外れた美しい顔が視界一杯に広がった。

 その目は、問うように、下田へ向けられている。

 彼はもちろん、即座に頷いた。得体が知れなくても、理解できていないとしても、何か方法があるのなら、それにすがるしかない。

 女性は切なそうに眉尻を下げ、小さく口を動かした。直後、まばゆい閃光が、下田の手から広がっていく。その激しくも優しい光に、下田は言いようのない安心感を覚えていた。

 

 

 

 

      ◆

 

 

 最後に残った大剣を、拾い上げる。

 もちろん、その行動の代償はそれなりに高くついた。炎の刀身が左肩に食い込んでくる。腕の根元ごと斬り落とされる前に、何とかホークウッドは横へと逃れた。そんなとっさの、苦しい回避へ、ミレーヌは何なくついてくる。 

 初めからわかっていたことだ。ホークウッドは傷の痛みで朦朧となっている頭で自嘲した。勇んでみた所で、開いた実力を埋められるはずもない。あらゆる準備も付け焼刃でしかなかった。

 一撃を耐え抜いた剣は、反撃に転じようとした時点で、既に崩壊していた。苦し紛れに投げつけたそれを、彼女は何なく弾く。

 一歩下がろうとしたホークウッドは、首に刃を突きつけられ、苦笑した。時間を引き延ばすのも、限界がある。内心では、じりじりと焦りが大きくなってきていた。他の者達が落ちて行った穴を一瞥するも、誰の気配もない。

 表面上、潔く降伏した彼を見て、ミレーヌは渋面を作った。

 

「舐めているのは、どっちよ。手を抜いているのは、貴方の方じゃない」

「なんだって?」

 

 彼女の持つ剣が少し震える。

 

「前の、あの時の方が、ずっと強かった。ふざないで。これは遊びじゃないのよ」

「ああ。俺は本気だ」

「どこが…」

 

 自分の当たり前が、相手にはわからない時もある。ホークウッドは、知らなかったのかと言わんばかりに、あっけらかんと口を動かした。

 

「大事な女を傷つけられるわけねえだろ」

 

 言い切ると同時に、彼は懐に手をやった。相手の剣は動いていない。数瞬の中で、彼はさらに苦笑を深める。言葉の一つで揺れるような心を、まだミレーヌは持っているということだ。そもそも、彼の武器を破壊した直後にその首を飛ばせば済む話だったのだ。

 取り出したのは、事前にクリムエルヒルトから貰った短い杖。これには彼女の簡素な魔術が一つだけ込められており、ひとたび振るだけで発動する。その軌道はごく単純で、威力も抑えてある分、速度が増大している。ほとんどの者には捕捉できない、こけおどしのようなもの。

 放たれたソウルの弾がミレーヌの手に当たり、大剣を弾き飛ばした。ほぼ同時にホークウッドは反対の手にも蹴りを入れ、短剣も落とさせた。これで、相手も自分も丸腰だ。

 落ち着いて話を。そう言おうとした所で、彼女が懐へと飛び込んできた。思わずその体を抱きとめる。突然の奇妙な行動の答えを、腹を貫く金属の感触で理解する。

 

「嘘をつく所は、変わってない」

 

 彼女の重さに押される形で、ホークウッドはその場に崩れ落ちた。顔をやっとの思いで動かして、体に突き刺さる大剣を見た。己の死の感触を確かめるように、ミレーヌが握っている柄へ、手を合わせる。

 

「なんで、だ」

 

 一瞬前まで、彼女は何の武器も持っていないはずだった。左を見る。狼血の大剣が、確かに地面に転がっている。決して幻ではない。もう一本をどこに隠し持っていたというのか。それを、いつ、構えたのか。限りない一瞬の間に。

 彼の疑問が伝わったのか、ミレーヌは少しだけ表情を緩めた。どこか諦めた様子だった。

 

「別に。たいしたことじゃない。ただ、インベントリから、取り出しただけよ」

 

 訳がわからない。そしてもう限界だ。

 ホークウッドは息を吐き出しながら、後ろへ倒れた。その動きに、ぴったりと、ミレーヌがついてくる。剣をしっかりと握りながら、彼の胸へ顔を落とした。血がたくさん髪に付いてしまっているが、あまり気にしていないようだ。

 彼女の吐息が、胸を通して伝わる。ホークウッドに刺さる剣から、力が抜けたように彼女の手が離れて、肩を叩いてきた。苛烈な今までの動きとは程遠い、弱々しい拳だった。

 

「憧れて、いたのに。貴方のようになりたいと、ずっと、思ってきたのに」

 

 まるで全ての重荷が外れたかのように、ミレーヌの声は幼くなっていた。

 自分にそれだけの価値はないと思っている彼は、その言葉を死出の手向けとして受け取っている。だが、一つだけ、否定しなくてはならないことがあった。

 

「あれは、嘘、じゃねえ」

 

 自分の中で、決して変わらないもの。

 

「お前は、俺の救いだった。くそったれな使命なんかよりも、ずっと大事だった」

「もう、いいの」

 

 疲れたように、彼女は漏らした。ずるずると顔を上げて、軋むような微笑みをする。また、いつの間にか短剣を握っていて、その刃を自らの首に当てている。

 早く、早く、早く。ホークウッドは、手遅れになりかけている状況の中、ただひたすら待ち望んでいた。

 

「貴方のソウルを吸収したら、すぐに、私も同じ場所に行くから。それで、いいでしょう? 一緒に薪として、世界を救うの。こうするしか、ないの」

 

 出血で意識を失いつつある。今ここで自分が死ぬことよりも、その後、彼女が自分の後を追う事の方が嫌だった。一緒かどうかなど、意味はない。あの、燃やされる苦しみの中では、他人を認識する余裕などない。永遠に、孤独の苦痛が続くのだ。

 下に行った、仲間ともいえる者達へ文句を吐きかけた所で、ようやくホークウッドは、開いた穴から出てきた人物と目が合った。出てきたのが一人だけなのは計画外だが、彼女はやり遂げたようだ。

 ならば自分も、役に立とう。

 

「それも、いいかもしれねえな」

 

 ホークウッドはミレーヌ以外を完全に捨てきった目をして、彼女の頬に辛うじて手で触れた。

 その意識を完全にこちらだけに向けるため、言葉をつないでいく。

 

「お前と一緒なら、悪くねえ」

 

 それはほとんど本心だった。両者とも無事に生きているという大前提以外は。ミレーヌも、その瞳に疑いを浮かべずに、そっと、目を閉じる。おそらく、自分の血で染まるであろう彼の顔を見たくはないのだろう。だからこそ、ホークウッドは微妙な気分になっていた。

 恨まれるのなら、それでもかまわない。

 ミレーヌの首に、魔女の手が触れる。反応は一瞬だけだった。体を痙攣させ、目を大きく開いた後、その瞼の重さに耐えられないかのように、目が閉じていく。彼女の全体重を預けられ、たまらず血を吐いた。

 

「遅すぎないか…。 死ぬ、ところだったんだぞ」

「抜くから。歯でも食いしばりなさい」

 

 何か皮肉めいた返事を返す前に、腹に刺さった大剣が引き抜かれた。内臓を滅茶苦茶にかき乱されるような激痛が襲い、そして瞬時に和らいでいく。おぼつかない視界では、クリムエルヒルトが、奇跡で急速に彼の傷を塞いでいくのが映る。

 彼は立ち上がると、重心を安定させてから、長く溜息をついた。それから、倒れるミレーヌを少し不安そうに見る。

 

「大丈夫なんだろうな?」

 

 それは、ミレーヌへの心配だけではなかった。クリムエルヒルトの方も、亡者のような顔色をしていた。片腕も、なくなってしまっている。なぜ、彼女がそんなに損耗しているのか。貴樹と一緒なら、問題はなかったはず。

 

「一度しか言わないから、よく聞いて。その子を担いだら、私に触れて。地底湖へ移動するわ。貴方は、そこへ着いたら、何が何でも、戦って、二人を守って、逃げてほしいの。いい? 私は、もう限界だから。戦力になるのは、貴方しかいない。二人は、何としてでも」

 

 苦しそうに言うのを、ホークウッドはミレーヌを抱きかかえながら聞いていた。

 

「それは、どういう?」

 

 聞き間違いだと思ったので、疑問を表した。彼女の言葉には、貴樹の力がまるで考慮されていないのだ。それどころか、彼をあたかも…

 

「タカキは、一緒じゃねえのか」

 

 がっと、腕を掴まれる。見れば、彼女は必死の形相で、何かを唱えた。

 つまり、質問すら許されないらしい。法王の居城でも経験した、周りが光で塗りつぶされ、自身の体が捻じれていくような感覚に侵される。ホークウッドは、その最中に聞いた、彼女の僅かな返答を、信じられない思いで受け止めた。

 

「彼とあの子が、殺される」

 

 

 

 

    ◆

 

 

 首を大きく振って、火守女を前方へと放り投げる。直前までは予定もしていなかった行動だ。彼女をあまり自分から離しておきたくはないが、肉片や血で汚さないためには、やむを得ない。

 地下墓のさらに下には、広大な空間がある。周りの温度が急激に上昇し、浅い湖がほぼ全ての地表を覆っている。祭祀場から来た者達の内、今回の目的にほぼ無関係、つまり邪魔な者達を隔離しておくための場所だった。

 素直に落ちて行きながら、貴樹は眼下の巨大な芋虫じみた生物を見た。その対処に、ジ―クバルド達が手こずっている様子も。その怪物は図体に比して生命力が有り余っている上、意外にも俊敏な動きをする。

 だが、下に落ちた者達全員にかかれば、それほど苦戦する相手でもなかった。だというのに、貴樹の予想以上に長引いているのは、それに対応しているのが、ジ―クバルドとグンダしかいないからだ。他は全て、もう一つの脅威にかかりきりだった。

 

(老王が、何でここまで出てきてるんだ? バリスタを無理矢理破壊したからまずかったのか)

 

 デーモンの老王は、炎の陣を張って、容易に相手を近づけさせない。戦士達は、慎重に、その守りを削ることに専念しているようだ。そのためか、幸いに、アンリとホレイスもまた特に傷付いている様子もない。

 貴樹は一息つくと、左脚を後ろに曲げ、右脚をさらに突き出し、体全体を針のように固めた。加算されていく運動力が、彼を凶器に変えていく。あまり精密な計算をしないままだったが、ちょうど巨大芋虫の胴体に足の先が当たった。

 人の身なら金属に匹敵する外殻の固さで、体がはじけ飛んでいる所だろう。もちろん、貴樹の体はいとも簡単に生物の肉を潰し、衝撃をもって押し裂きながら、湖の地面まで着地した。

 ほとんど真ん中から二つに裂かれた怪物は、のたうちまわってから徐々に動かなくなっていく。貴樹は閉口しながら埋まった肉の塊から抜け出し、落ちてくる火守女を衝撃をほとんど吸収するように、上手く全身で受け止めた。

 汚れた足や膝などをばしゃばしゃと湖で洗いながら、デーモンの老王へと進む。途中、ジ―クバルドと目が合ったが、特に何も言ってはこない。貴樹としては助かる思いだった。もし、火守女をどうこうするつもりなら、今の体の状態だと、手加減が難しかったからだ。

 

「貴方は、」

 

 ヨルシカが、こちらを振り向いて驚いた様子になる。何やら身構えているが、それも彼は無視をした。

 飛んできた火球をいなしたアンリに向かって、貴樹は近付いた。彼女とホレイスはかなり疲労しているようだ。デーモンの攻撃を一番前で対応しているのだから、当然とも言える。どちらかといえば、一見比較的平静に近いホレイスの方が、深刻だ。

 

「少しの間で、いいんです」

 

 アンリが貴樹へ向いたと同時に、彼は狙ってきたデーモンの槌を蹴り返した。唸りながら、相手は一歩下がっていく。

 あまり良くわかっていない様子の彼女へ向かって、火守女を優しく近づけた。

 

「彼女を、お願いします。あれを片付けるまで」

 

 少しだけ戸惑っていたものの、火守女の体をしっかりと受け取った。貴樹をそれを確認した後、デーモンに向かって歩き始める。アンリなら、いきなり殺すようなことはしない。さすがに火守女を抱えたままでは、かなりやりづらかった。

 

『珍しいな。お前が、火守女を誰かに託すなんて』

(アンリちゃんくらいだろ。俺よりも、ひもりんの事情を知ってる。あの時、ひもりんが薪として捧げられなければならないと言われた時、もし、俺が何も言わなかったら。何か反論をしていたのは、多分、彼女だ)

『エルドリッチの子、か』

(ちゃんと、話は聞かないとな)

 

 デーモンの老王の顔を、踵で潰す。さらに、四肢と、鈍重そうな胴体を念入りに破壊した。死にかけとはいえ、急所をいくつか潰したくらいで止まる相手ではない。体外へと漏れ出る炎の気配が完全になくなるまで、一方的な蹂躙は続いた。

 ただの亡骸になった老王が、霞へと変わり始める。むき出しになったソウルが全て、貴樹の体へと吸い込まれていった。

 

『まあまあの量だな』

(で、何か新しい力は?)

『何も起きねえな』

(ち、使えない)

 

 ボルドを倒した時に得た、篝火間の移動能力。それに匹敵するものを期待していたのだが、空振りに終わったらしい。質や量が、必ずしも関係しているとは限らないようだ。

 貴樹は、周りを囲まれ始めている事に気がついていた。突然手助けをしてきた彼に、驚くことはあっても、結局、目的は食い違っている。これ以上何も起きないのなら、ホークウッド達との合流も視野に入れた方がいいだろう。

 小走りで、火守女の所へと向かう。期待通り、アンリは彼女を他の者達に引き渡すことも、自分で人質に取ろうともせずにいた。だが、それは、たんにアンリの意識がほとんど相方へと向かっていたせいかもしれない。

 

「ホレイス?」  

 

 目以外全てを覆う兜を見に付けた、寡黙な戦士は、限界を迎えようとしていた。アンリの呼び声にも答えず、うずくまり、全身を痙攣させる。その異常な様子に、彼女は慌てて駆け寄った。

 

「駄目だ!」

 

 アンリの体を、貴樹は足で無理矢理押しやった。後ろへたたらを踏んだ彼女は、信じられないと言わんばかりに、彼を見つめる。

 

「何を、」

 

 疑問の言葉は途中で途切れた。その瞬間から、周りの者達の注意も、貴樹から逸らされる。視線を一身に集めたホレイスは、胸を掻きむしりながら、上を向いた。苦しげな声が漏れ、変化はあっという間に起こる。

 ホレイスの肩から、黒い膿が湧きだしてくる。みるみるうちに上半身全てを覆うと、急激に膨張し、先端の部分が裂けて、大雑把な口を形作る。肥大しきった胴体に似合わない貧相な両腕が飛び出し、醜い産声を上げた。

 

「ホレイス、正気に」

 

 戻って、と続きは唇の形だけになる。アンリは、下唇を血が出るほどに噛みしめた。目の前の光景から顔をそらさないよう、必死に耐えているように見える。

 かの騎士、ホレイスは寡黙な者として、貴樹と出会った。しかし、その言葉を発しない態度は、彼本来の性格というよりは、狂気の寸前で踏みとどまっているが故の、危うい均衡の上に置かれた苦しみの証左だった。エルドリッチのもとで囚われていた時に、埋め込まれたのだろう。化物の膿を抱えてもなお、今まで進んで来られたのは、アンリとの絆のためか。

 ヨルシカ達が、一斉に、ホレイスへ向けて攻撃を構える。膿に呑まれたものは、例外なく破壊の化身となる。もはや、手遅れということだった。

 そんな彼らの前に、アンリが進み出る。

 

「待ってください。どうか、私に」

 

 彼女は自分の手で決着をつけることにしたようだった。何かを固く決心した目で、化物を見つめる。そこには、動揺は一見ないように思われる。振り払ったというより、そういったもろもろの感情は全て、脇に押しやっているという感じがした。

 無論、そんなことをさせる貴樹ではない。

 アンリの肩を優しく掴むと、後ろに下がらせる。

 

「何を」

「まだ、諦めちゃいけない。僕に任せてください」

 

 貴樹は異形と化したホレイスへ歩き始める。

 思えば、やはり、この地底湖へ落としてしまったのが一因だった。かなりの申し訳なさを感じつつも、これで良かった面もある。放っておけばどの道、いつか決壊していただろう。その時が来るまで、ずっと見張るわけにもいかないのだ。

 膿の怪物が、貴樹を食らわんと飛びかかってくる。紙一重でかわし、その流動する胴体へと、手を突っ込んだ。既に何度も行っていることだったので、絶対に成功するという確信があった。

 彼の突き入れた手から、鮮やかな炎が広がっていく。膿は暴れることを辞め、明らかに激しい苦しみを訴える鳴き声を発した。その炎が全体を覆う時には、膿の収縮が始まっていた。見る見るうちに焼け落ちていき、人らしい形を保ったホレイスだけが無事に残された。

 最初はただ見ているだけだったアンリは、はっとしてその倒れゆく体を支えた。確かめるようにしてホレイスの顔を何度も触り、徐々に表情を綻ばせる。

 

「うそ。信じられない。ああ、ホレイス…」

 

 貴樹は、非常に満足そうに、頷いた。

 アンリとホレイスは、報われない運命をたどる。どれだけ分岐を探しても、必ずホレイスが死ぬのだ。その悲劇をアンリが乗り越えたとしても、エルドリッチを殺した後、後を追うようにして、息絶える。非常に納得のいっていなかった二人の物語を、変えることができたのは嬉しかった。誰でもない、この自分が、この手でそうできたのが。

 

『おい。救うのは結構だが、残り火の数も気にしろよ』

(いいじゃねえかよ。あと十個以上もあんだろ。本当に便利だなあ。思ったんだが、この残り火をエルドリッチにぶち込んでやれば、簡単に滅ぼせそうだ)

 

 ふと、喉の奥でむずむずとしたものを感じ、彼は礼儀正しく口を手で覆った。違和感を紛らわせるために、軽く何度か咳をする。

 

(まあ、これでやるべきことは終わったんだ。さっさとひもりん抱えて上に戻るか。ん?)

 

 何かがおかしいことに気がつき、もやもやとした何かを取り払うように思考する。デーモンは既に倒されているし、ホレイスも気を失ってはいるが無事だ。アンリが何かを言いたげにこちらへ近づいてきているのもわかる。では、この変な違和感は一体何なのだろう。

 ごほごほと、また咳をした。

 咳。

 何の変哲もない当たり前の行為だ。肺に入った細菌を外へ吐き出すためとも言えるし、他人にそれをばらまく行為だとも言える。だが、よく考えてみれば、彼はこの世界に来てから一度たりとも、咳やくしゃみをしたことがなかった。

 アンリが、大げさなほどに目を見開いた。

 赤い血が、彼の掌にべっとりとくっついている。ちょうど咳をした時、口に当てた部分だ。妙に暖かい。

 

(…あ?)

 

 思わず一歩下がろうとして、大きな壁にぶつかった。やけに水気のある壁だ。自分の近くにそんなものがあっただろうかと、捻じれていく頭の中で考えた。

 

『タカキ、おいタカキ! 起きろ! 畜生、まずい』

 

 壁ではなかった。彼は倒れていた。

 両足を辛うじて動かし、水面を波立たせる。眼前の水が、赤色に染まっていく。口からだけではなく、どうやら目からも流血しているようだ。血の色素が滲んでいく様子がまるで、広がっていく炎のように見えた。

 

 

 

 

  ◆

  

 

 ホークウッドは再び視界が明瞭になった時、理解に苦しむような顔をした。直前に言われた、クリムエルヒルトの言葉を飲み込む途中で、その光景を目にすることになった。

 手の持った短剣を、投げつける。今まさにアンリの頭を叩き潰そうとしていた男は、器用に大剣の腹で受け止め、悔しそうな顔をしながら、下がっていく。

 

「おい、また余計なのが湧いたぞ。死――ぐあああああ!」

 

 確か、灰の一人だ。貴樹に次いで体格が良く、その傲慢さを隠そうともしない。ウベと呼ばれている男は、既に炎に包まれていた。やったのはクリムエルヒルトだ。

 しかし、彼女は直後、ホークウッドに向かって倒れてきた。片手で抱きとめると、苦しそうに目を閉じて、息を荒げている。明らかな気力切れだった。限界だというのは本当だったらしい。

 ミレーヌと彼女を何とか抱えながら、倒れている貴樹に近付いた。目立った外傷はないが、彼もまた、意識を失っている。どういうことだ。ホークウッドは途方に暮れた。何で、また肝心な時に、あんたを頼れないんだ。

 こんな、糞みたいな状況で。

 

「一体、どういうことですか。アンリ」

 

 ヨルシカ達が、貴樹や火守女を狙うのは理解できる。しかし、彼女らの前に、アンリとホレイスが立ち塞がっているのは、普通ではなかった。少なくとも、ホークウッドには混乱しか招き寄せない。 

 二人は、既にかなりの傷を負っている。アンリは兜が取れ、額から血を流していた。ホレイスの鎧の一部には穴が空き、血にまみれた傷が露わになっている。

 

「使命を、忘れたのですか」

 

 悲しそうなヨルシカの声に、ホークウッドは肝を冷やす。どう贔屓目に見ても、彼はこの場にいる戦士達よりも力量があるとは言えない。特に、ヨルシカに対しては、どれだけ気持ちを奮い立たせようが、相対できる自信がなかった。

 だからこそ、どれくらいかはわからないが、彼女達を相手に貴樹と火守女を守っていた二人を、信じることにした。

 アンリは、剣を支えにして、立ち上がる。

 

「彼には、私と、ホレイスを両方救っていただいた。その恩を、踏みにじることはできません。そして、」

 

 ふっと、力が抜けたように微笑んだ。

 

「私は、私とホレイスは、使命などよりも、悲願を優先します。この方と共に行けば、ずっと容易に叶えられる願いのため。貴方達と(たもと)を分かちましょう。今までのこと、感謝します」

「そうですか」

 

 直後、彼女の背後に、ずんぐりとした男が現れる。あまりに突然の出現だったために、ホークウッドは警告できずにいた。しかし、その心配は杞憂に終わる。

 アンリとホレイスはほぼ同時に、小太りの男に向かって刃を走らせた。まるで、そこに現れるのがわかっていたかのような動きだ。二つの剣は男の首と下腹部を貫き、決定的な致命傷を追わせる。マルド、という名の彼は、何かを言う間もないまま、ソウルになって消えて行く。

 ホレイスが、こちらに気がつくと、無言で歩き、クリムエルヒルトを抱える。相変わらず得体の知れない男だったが、前とは格段に違う何かを感じた。

 

「どう、しますか?」

 

 アンリが前を向いたまま尋ねてくる。

 

「もう、灰を二人もやった。対立は決定的だ。くそ、こういう時のために、タカキがいたんだがな」

 

 そこで彼女は横眼だけ向いてきて、表情を沈ませる。

 

「彼は、私達のせいで、いえ、今は、ここから離れることが最優先ですね。私が、ヨルシカ様の包囲を引きつけます。貴方とホレイスで、反対側を突破してください」

「いえ、駄目、よ」

 

 弱々しい声が、アンリの自己犠牲を否定した。ホレイスの肩から、疲労したクリムエルヒルトの顔が起き上がる。ぐっと震えながら腕を突き出して、自分の足で湖面に降り立った。重心が定まっていないのか、かすかにふらふらと、体が揺れている。 

 ホークウッドはその体を支えようとして、彼女の雰囲気の変化に、驚いた。周辺の温度が増しているような気がする。陽炎のように、その赤い髪が視界の中で歪んでいる。

 

「残るなら、私が最善。いざとなれば、いくらでも、逃げる手段はあるわ」

 

 それが嘘だと、即座にわかった。彼女が言っているのは、あの、ロスリックも使う移動の奇跡だろう。そんな術を使う余裕が、残っているとは思えなかった。

 

「死ぬ気か、お前。立っているのもやっとなんだろう」

「貴方は、旦那様と、火守女を守ればそれでいいの。それに、狼血の彼女も大事なんでしょう?」

 

 黙ったままの彼に、クリムエルヒルトはこれで十分だと、背を向けた。火の塊を二つ形作り、囮になる準備を完了させようとしている。だが、ホークウッドがその肩をつかんで引っ張った途端、火は危うげに揺れた。

 

「無理だ。大の恩人を捨て駒にしたら、俺は自分を許せねえ」

 

 その時ようやく、彼女はまともに顔を合わせてきた。こんなときに何を言うんだという表情だった。

 

「全員で、逃げるぞ」

 

 無理よそんなの、と彼女は声に出さず口の形だけで言った。ホークウッドの発言に呆れたように目を細め、そのまま流れるように意識を失った。倒れるクリムエルヒルトを体で支える。やっぱり、限界だったんじゃないか。

 

「どうか、賢明な判断を。貴方達は、優秀な戦士です。火継ぎの使命の重みを、理解しているはずです」

 

 未だ躊躇っている様子のヨルシカに、ホークウッドは嘲笑を浴びせた。ほとんどやけっぱちの思いだった。どうにでもなれだ。

 

「お優しいこったな。竜の血が混ざると、慈悲深くなるのか?」

 

 息の詰まるような静寂が突き刺さってきた。

 ヨルシカは、こちらを案じる顔のまま、固まっている。

 祭祀場にいる者達が全員理解している上で、触れてはならない領域の話だった。彼女に対する最大限の侮辱だ。

 

「走れ!」

 

 大声で叫び、全力で走り始める。彼に続いて、ホレイスとアンリも、ヨルシカから背を向けた。包囲の中で一番薄い部分へと向かう。それは、最年少の戦士である、シ―リスがいる場所だった。

 とにかく地下墓まで戻ることができれば、望みはある。まだ作動していない仕掛けがたくさん残っているのだ。利用すれば、振り切ることができるかもしれない。

 狙われているのを理解したらしいシ―リスは、刺突剣を構え、正確にホークウッドの首へ突きを放ってきた。迷いのない一撃ではある、しかし、受け流し、反撃を入れるだけの隙があった。

 横からの異常な圧力を感じ、とっさにシ―リスの背後に回った。そのまま彼女を蹴りつけると、フォドリックは寸前でこともなげに刃を止め、彼女の体をつかむ。値踏みするような視線が、ホークウッドの上下を往復した。

 

「機敏に動く。前までとは、見違えたの」

「おい、お前もタカキに恩があるんだろ。通してくれ」

 

 フォドリックは首を鳴らした。

 

「貴様を許す道理にはならない。シ―リスを狙った事、後悔することだ」

 

 殺すしかない。ホークウッドは頭の中で響き渡る警告を全て無視した。ヨルシカ、グンダ、そしてフォドリック。どうあがいても勝てないと断言できる内の一人だ。だが、ミレーヌのことを思えば、恐れは和らいだ。

 目の前の老人が、視界から消える。左の側面に回られたことを数瞬遅れて理解し、辛うじて剣で攻撃を受け止めた。が、無事では済まない。

 刃が、ホークウッドの側頭部に一瞬だけ食い込んだ。あまりの衝撃で、自らの剣を無理やり押し込まされていた。爺の腕力じゃねえと毒つく間に、二撃目が上から降ってくる。回避に転じようとした所で、右から何かがぶつかってきた。

 湖面を滑りながら、壁近くにまで転がる。飛んできたものの正体は、ホレイスとアンリだった。折り重なって倒れる彼らを、ヨルシカが平然と見ている。

 包囲は、抜け出せた。しかし、到底これ以上逃げられる状態ではない。結局気合いだけでは無謀を乗り越えることはできなかった。

 祭祀場の戦士達が近づいてくる。呻きながら、ホークウッドは近くに転がるミレーヌの顔へ、手を伸ばした。まだ、諦めるわけにはいかない。

 今にも剣を振るおうとしていたジ―クバルドが、ふと、上を見た。疑念が確信に変わったように、大きく警告を発する。

 

「何かが降ってくるぞ!」

 

 それは、ミレーヌのすぐ側に、着地した。

 大柄な、老人だ。ぼろぼろの鎧に、赤い頭巾。盾と剣も、万全の状態とは程遠い。やや腰が曲がった立ち方で、その様子は実際の体格にしては矮小な印象を受けた。まるで見た事のない戦士だった。

 

「何者ですか」

 

 頭巾の老人は、ホークウッド達の方に白い髭面を向けてくる。その深い眼光が、少しだけ思案するように揺れた。

 

「…多いな」

 

 懐から、一片の紙を取り出す。よく見えなかったが、何かの絵が描かれているようだった。誰もその行動の意味を理解する間もなく、彼はミレーヌにその紙片をあてがった。途端、驚くべきことに、彼女の体が動いた。その小さな紙に無理やり押し込められるような形で、吸い込まれていくのだ。

 

「ミレーヌ!」

 

 既に彼女の姿はない。そして老人は、貴樹と火守女にも同じことをしていた。一見ただの紙片でしかないものに、二人が飲み込まれる。

 ホークウッドはまるで事態を理解できていなかったが、彼女達と離れることだけは絶対にあってはならないとわかっていた。力を振り絞り、老人の方へと向かっていく。

 既に、老人は止めようとしているジ―クバルドとグンダから離れていた。方向的にちょうど、ホークウッドと正面から相対する形になる。

 

「返せよ」

「誤解するな。お前達の敵ではない」

 

 振り出された拳が、いなされ、紙片に当てられる。その瞬間、体全体に強烈な引力を感じた。抗ってどうにかなる次元の力ではないと、すぐに悟った。紙片の中にある絵の一部が、どんどん大きくなる。芯に響くほどの寒さを、一瞬だけ感じる。

 老人は、小さく頭を下げた。

 

「哀れな者達を、どうか」

 

 音が、次第に遠くなっていく。この感覚は、クリムエルヒルトの奇跡にも似ていた。両肩を、誰かにつかまれる。どうにかして引っ張ろうとしているようだが、無駄な試みだった。一緒に、紙の中へと取り込まれていく。

 こうして七名の者達が、この世界から剥離した。

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