初めは興味もなかった。その女は、彼が鍛錬をしている時、いつも見てきていた。互いに全く関わりがない上に、これからもそうするつもりがなかった彼は、些事として受け止めていた。
それが頭の隅に滲み出すようになったのは、 そうした日々が幾度も重なった時だ。戦いから帰ってきた後も、出迎えの最後列で身を縮めるようにしていた女が、同じ視線を向けてきた時だった。
何も違いがないということに、彼は疑念を感じていた。
槍を下ろし、鍛錬終わりの沈黙。背後の少し離れた窓で、女が去ろうとしている。その姿を、低く通る声で呼び止めた。
「憎いか」
彼が振り返ると同時に、女もまた恐る恐る体を向けてくる所だった。一歩近づくと、まさに声をかけられたのが自分なのだと、彼女は理解したようで、目を見開く。
慌てて膝をつき礼をした女を、冷たく見下ろした。何か含意があるのなら、それを問いただしてやるのも、やぶさかではない。もしまともな考えでないのなら、首を斬ればいい。
「何と、申されましたか?」
「同族を殺す俺を、殺したいか」
「なぜ、そのようなことを訊くのですか?」
「鍛錬を観察するのは、脆弱な部分を見極めるためだろう。長い間、気がつかないままでいるとでも思っていたのか」
女は顔を上げる。血の半分が忌わしい存在に呪われているとわかる。だが、彼はその頬で輝いている鱗を、今すぐに貫き、破壊する気にはならなかった。
「私は、既に火の大王様への忠誠を誓う身。敵を討伐する勇敢な騎士様にどうして、邪な翻意など抱けましょう。貴方様の技には、目を引き付けるものがございます。障りがあるのなら、もう二度といたしません。ここにも、来ません」
言葉は滑らかなれど、後の方になると、女の目は挑むように細まった。その、少しも怯んでいない様子に、彼は意識を改めた。籠に囚われた鳥は、存外、芯があるらしい。
「自惚れるな。お前の存在が、邪魔になることはない。好きにするがいい。だが、妙な考えがあるのなら、捨てておけ。は――――、くだらねえなあ」
女が、ぎょっと、目を合わせてきた。その細い首を掴み、乱暴に持ち上げる。
「どの許しがあって、俺に他人の出来事なんぞ見せてんだ? カスとカスの乳繰り合いなんて興味ねえんだよ。さっさと解放しやがれ」
女の首を潰す。竜の血を満面に浴びた貴樹は、不快そうに唾を吐き捨てた。
「ゴミが」
水が飲みたいと思ったら、目の前が開けていた。
覗きこんでくる、いくつかの顔。
何度も瞬きをして、次第に視界が明瞭になっていく。誰かの手が、労わるように、肩に掛けられているのがわかる。
「目を覚ましたぞ」
「ああ、本当に良かった」
「静かに。まだ無事かどうか、わからないわ」
クリムエルヒルトが、顔を近づけてくる。貴樹の様子を精細に確かめている。
「自分が誰か、私達が誰か、わかりますか?」
貴樹はそれに、欠伸を返した。ふりではなく、本当に長い間眠ったような倦怠感があった。彼女がやや戸惑いながら体を引くと、彼は半身を起した。自分自身を取り囲んでいる者達を、一人一人見渡す。いくらか増えている。
「…ここは?」
彼をじっと見つめていたクリムエルヒルトが、辺りを見回しながら答えた。
「洞窟の中です。貴方が倒れてから、色々とありました」
ごうごうと、空気が鳴っている。吹雪だ。よくよく見てみれば、地面や壁には凍っている部分がある。イルシ―ルのどこかだろうか。
(そんなことより)
「彼女は?」
さらに細かく続きを話そうとした彼女を制して、貴樹は火守女の安否を尋ねた。クリムエルヒルトは少し離れた所で壁に寄りかかっている火守女へ視線を向ける。彼女は寒いのか、体を縮こまらせ、手を擦り合わせている。
無事なようだった。
(ひもりんひもりんひもりんひもりんひもりんひもりん)
どっと、安堵が全身にすみわたる。ついでに危うく絶頂する所だった。動いている火守女を見るのは、久しぶりだ。目を覚まさない可能性だってあった。ほっとするあまり、他の者達の沈んだ様子までには気が及ばない。
「意識が戻ったんだ。大丈夫? どこか」
立ち上がり、彼女に近づこうとした所で、何かがおかしい事に気がついた。
まるで貴樹の声を初めて聞いたかのようにびくついて、彼がいる位置とはわずかにずれた方向へと顔を向ける。か細い声で、話し出した。
「神官さま? ごめんなさい。周りがすごく暗くて…。なにもみえない。今日、わたしはささげられるの?」
自分が倒れた後の話を聞き、貴樹はここがアリアンデル絵画世界の中だと、断定した。
正直、訳のわからないタイミングだ。本来、ゲ―ル爺と会えるのは深みの聖堂だし、彼が自分から何かの目的を持って接触してきたのは予想外だった。それが窮地を救う要因になったのは、感謝すべきだろう。
「どうして、二人が一緒に」
アンリとホレイスは膝を地面に付け、何かの格式に沿った動きで頭を下げる。その敬意のこもった礼は貴樹の自尊心を大いに満足させた。
「まずは、感謝を。貴方は一度、危機に陥った私を助けてくれたどころか、今度はホレイスを、救っていただいた」
「感謝…を」
貴樹は思わず前のめりになった。その勢いに身を引きかけているホレイスへ寄りかからんばかりに近付く。
「声を? 話せるんですか」
ホレイスは何かを話そうとして、アンリに顔を向ける。彼女のはその意を汲んだようで、少し頷いてから、貴樹へ再び礼をした。
「はい。貴方のおかげで、元に戻るどころか、もう治らないと思っていた喉も。私達は、仕えるべき国を失くしましたが、騎士であることには変わりません。貴方から受けた恩義に報いたいと、私達は望んでいます」
これで、沈黙のホレイスは、もういないわけだ。
「祭祀場へ、戻る気はないんですか。僕についていくということは、火継ぎの使命を捨てるも同然ですよ」
「使命を、二つ背負うことはできません」
傍らの剣の鞘に指をかける。
「どちらかを選び、どちらかを捨てなければならないとしたら、私達は、あの人食いの喉を刃で貫くことを、選択します」
「僕も、エルドリッチには借りを返してもらうつもりです。少なくとも、最後のとどめを、貴方達に譲ることを誓います」
アンリとホレイスは、兜を外した。アンリは微笑みを向け、ホレイスは傷だらけの顔に何らかの表情を作ろうとして、諦めたようだ。ただ瞳を、しっかりとこちらに合わせてくる。
「使命は一つですが、義務は話が別です。貴方の助けとなり、共に障害に対すること。そして、あの子の幸せを、共に模索すること。二つの義務を果たすと、誓います。私達を、貴方の誓約下に入れてください」
彼女の言葉を認めるつもりだった。二人が無事だったことも、こうして共に来てくれることも非常に嬉しかったが。
貴樹は洞窟の奥の方を、一瞥してから、息をついた。
「腕を見てください。ここには、前まで、誓約印が刻まれていました。今は消えています」
アンリもまた、同じ方向を向いてから、痛ましそうに目をつむった。
「彼女が、誓約主です。ですから、今は、誓約を交わすことは難しい。やるべきことはわかっていますが、整理をする時間も必要です。しばらくは、ここに留まりましょう」
入口から、まず十メートルほど真っすぐな通路が続く。それから、明らかに後から掘られたとわかる三つの横穴で、この洞窟は枝分かれしていた。吹雪はしのげるものの、相当奥まで行かなければ、最低限の暖すらとれないらしい。らしい、というのは、貴樹は一切寒さなど感じていなかったからだ。
「もう少し寄った方がいい。かなり体が冷えているみたいだから」
「うん」
「手を伸ばしてみて。あっあっ、そこ」
「ど、どうしたの」
「いや、ほら、手が肌に当たるだろ。俺の首だよ。もっと抱え込むくらいくっついてもいい」
『きも』
クリムエルヒルトが咳払いをした。火守女が怯えたように離れる。貴樹の体は、外から触れると火にかざしているくらい暖かいらしい。彼女の体温を維持するための、合理的な行為を邪魔された貴樹は、渋々クリムエルヒルトへ向き直った。
「説明を、してくれるのか?」
「あちらで」
「ここだ。本人も聞いておくべきだと思う」
「わかりました」
上げかけていた腰を下ろし、魔女は火守女を見据えた。その視線を、以前なら感じることができていただろう。しかし、今の火守女は何もない中空を不安そうに見つめている。
「正気を、失う可能性もありました。精神力などという曖昧なものでは、エルドリッチの膿に逆らうことはできません。彼女にも、後遺症が残ったということでしょう」
火守女の髪に触れかけたが、先に一度怯えられたのを思い出し、腕を引っ込める。
「記憶の退化。今の彼女は、おそらく、人食いに囚われていた時の子供に戻っています。火守女としての力も失われている。非常に不安定な状態です」
「記憶を、戻すには?」
「元凶である膿は、既に取り除かれています。後は時間の経過に任せるか、何かで失った記憶を刺激するしかありません」
「これは、非常に、繊細な問題なんだ。そうなんだろ? 焦る必要はない。彼女との、今の思い出を重ねていけば、自然と良い方向に行くはずだ」
新たに、洞穴に入ってくる足音がした。
「賛成です。が、彼女の側にいるべきではない者がいます」
振り返れば、アンリが先ほどまでとは違う、張り詰めた雰囲気で、クリムエルヒルトを睨みつけていた。向けられている本人は、妖しく微笑む。
「あら。それはもしかしなくても、私の事かしら」
「もう、守り手は抜けたと、既に聞いている。タカキさんの協力をしていることも。だが、それでお前を信じられると思うか? この子のことを考えれば、人食いに与していた魔女をここに置くのは間違っている」
クリムエルヒルトは、指先で杖をなぞる。
「もう一度、私を魔女と呼んでごらんなさい。もう二度と、愛しい弟に会えなくなるわよ」
「お前の喉を潰せば、二度とその名で呼ばれなくなる」
二人は数秒視線を交わした。互いに一筋縄ではいかない因縁があるようだが、今ここで致命的なことを起こそうとする気はないと、貴樹にはわかっていた。
先に動いたのはアンリで、よくわからないであろう状況を黙って聞いている火守女のそばに、腰を下ろす。その目線の高さに顔を合わせて、優しく声をかける。
「私を、覚えていますか。銀髪の子」
アンリの手が触れてきても、火守女は萎縮したりはしなかった。その手を自分の両手で包んで、おもむろに頷く。
「うん、アンリ。あなたがいるなら、ここはまだ聖堂なの?」
「いいえ。もう、誰も怯えなくていいんです。誰も、食べられたりはしません。ここは、あの聖堂からはるか遠く離れた所です」
火守女の背中を労わるように撫でた後、アンリは貴樹へ顔を向けてきた。これから口にしようとする言葉を吟味するように、あるいは自身を戒めるような躊躇いの後、言ってくる。
「この子が、大命を得た時、喜び、安堵する自分がいました。これで、彼女はようやく意義のある生き方ができるのだと。しかし、貴方の行動で、それが間違いだとわかりました。生きてこそです。犠牲になることへ幸福を見出すなど、宗教的な傲慢でしかありません」
それから、クリムエルヒルトへ、目を向けた。
「信用はしない。それでも、目的は一致していると考えていいんだな? お前は、この子に害を加えないと、約束できるか?」
クリムエルヒルトは、肩をすくめた。杖を懐にしまい、曖昧な笑みを浮かべた。
「約束はできないわ。だって、貴方と私との間にそんなものが成立すると思う?」
「クリム」
舐めるように火守女を観察していた貴樹が、首を鳴らした。
「真面目に答えてくれ」
「…誓約を交わしたもの。裏切るつもりはないわ。貴方と違って、私はもう火守女の灰だから」
そう言って、くたびれたように立ち上がった。
「どこへ行く?」
「邪魔なんでしょう? 入口の方を回ってくるわ。吹雪に混ざって、獣の声が聞こえたから」
クリムエルヒルトの姿が見えなくなるまで、アンリは油断なく睨みつけていた。彼女の、敵の表情は新鮮に感じる。貴樹の視線に気がつくと、申し訳なさげに眉尻を下げた。
「見苦しい所を」
「気持ちはわかりますよ。でも、彼女は彼女で働いてくれています。もし、何か問題があったとしても、僕が責任をとります」
(寝返りは癖になるって言うしな。それまでは、利用してやるよ)
「やさしい人だよ」
冷たい打算をしていると、火守女がつぶやいた。二人の視線を浴び、その促すような沈黙に、おずおずと続ける。
「わたし、その、ごめんなさい」
「いや、いいんだ」
貴樹は、胸を押さえた、前かがみになり、何かに耐えるように息を吐き出す。
(ふぅ――、ふぅ――)
じとりとした視線を、彼女へ向ける。控え目な姿勢は変わっていない。それでも外見は大人の女性であるのに、拙い言葉の運びが、ちぐはぐな幼さを演出し、新たな魅力を得ていた。ひたすらに途方に暮れている様子も、多分に、貴樹の欲情を誘う。
(バックで犯したい)
『童貞が何言ってんだ』
心を落ち着けてから、彼は火守女と向き直った。
「何か、体に異常はないかい」
「大丈夫。でも」
「うん?」
「あなた達は、私のことを、知っているのに。私は、わからない。聖堂から、助けてくれたんでしょ。なのに…」
返答を、少し考える。まずは、彼女の微妙な認識違いを丁寧に正す必要があるだろう。
『どうすんだ?』
(彼女は、今、不安で仕方がないだろう。説明は慎重にやらないといけない。下手に動揺させたら、可哀想だ)
貴樹は、火守女の隣で、洞窟の壁に寄りかかった。頭の中で言うべきことをまとめてから、なるべく噛み砕いて話す。
「それは、正しくないんだ。よく聞いてくれ。君が思っているよりも、多くの時間が過ぎた。今ここでこうしている理由を君がわからないのは、記憶がごっそり失われてしまったせいなんだ」
「きおく?」
「そう。君は成長して、大人になっている。視力がなくなった原因も、覚えているかい?」
「ううん」
(エルドリッチに囚われている間、目を奪われたんじゃないのか? いや、単に今の彼女の記憶が、それが起こる前ってだけだな)
「実は、君にはとても大きな危険が迫っていて、その状況を強いていた場所から、僕達と一緒に抜け出してきたんだ。僕は、貴樹。今まで君と一緒に旅をしてきた」
「どうして、わたしはそのことを忘れちゃったの?」
「事故があった。不幸な事故が。そのせいだ。でも、大丈夫さ。必ず全部、元に戻るよ」
彼女は、まだどこか腑に落ちていない点があるようだった。
「どうして、わたしを助けてくれたの? わたしなんて、生きててもしょうがないよ」
「そんなことは…」
思わず強く否定しそうになって、貴樹は抑えた。この自らを卑下する態度は染みついているままなのか。思っているよりも深く、それは彼女の根底にあるようだった。
(慎重に、慎重にだ。ありのままを。正直に話すんだ。その方がいい)
声の調子を落として、続ける。
「どう、話したらいいかな。僕には、そうするだけの価値を、君が持っていると思っている。こんなこと言っても、今は困るだけだろうけど。君は僕の、恋人だったんだ。お互い結婚を約束する関係だった」
『この人……』
正直とは何だったのか。
それまで静かに聞いていたアンリが、唖然として彼を見た。その視線から隠すように顔を俯かせ、貴樹はほくそ笑んだ。
(千載一遇の好機…! もうさぁ~、そういうことでよくね? ぶっちゃけ、記憶なんて戻らなくていいだろ)
実際に好意がなくても、かつてはあったのだと思いこますことはできる。そして、それがいつか本物に変わっていくと、貴樹は信じていた。相手の抵抗が弱いとわかりきった上で、洗脳同然の行為に及ぼうとしているゴミがここにいる。
「こいびとって、何?」
「お互いを、深く愛し合っている二人のことをそう言うんだよ。いや、気にしないでくれ。今は違うんだ。気にしないで」
『白々しいなこいつ』
彼女は首を傾げた。
「あいし…?」
「お互いを大事に思い合うことだよ」
「だいじって?」
貴樹は笑みを消した。まじまじと、目の前の火守女を観察した。
囚われていた頃の彼女は、まだ幼い子供だった。それでも普通なら、理解できるような言葉を用いたつもりだ。信じられないことだが、彼女は愛だとか、そういう本能に基づくものを、まるで知らないようだった。
(これは、エルドリッチの、せいじゃない)
わからないのは、与えられたことがないからだ。彼女が生まれてきた時から、与えるべきものを、与えていない奴らのせい。
(ロスリック)
祭議長エンマの、発言。火守女をエルドリッチに引き渡したこと。その事実だけを鑑みても、彼らは、ロスリック王家の長女であるはずの彼女に、まるで情を注いでいないは明らかだった。人食いよりも、優先すべき目標があるのを、貴樹は理解した。
(あいつら、根絶やしにしてやる)
かすかな雰囲気の変化を感じ取ったのか、火守女が落ち着かなげに身じろぎした。
「あの、わからないことばっかりで。たくさん訊いてごめんなさい」
内の激情をおくびにも出さず、彼は首を振った。
「謝ることじゃない。不安なのは当たり前だよ。落ち着いて、ゆっくり考えていけばいい。その支えはもちろんするし、君の安全は僕が保障する」
(さっさとこの絵画世界でやりたいことやって、脱出すんぞ。ひもりんの実家へ挨拶しに行かねえとなぁ……)
そう考えて、ひもりんという言葉に違和感を覚えた。今の彼女は、もはや火守女ではない。そう呼ぶのは、違うような気がする。そもそも、彼女には本来の名前があるはずだ。それを呼ぶ、いい機会なのではないだろうか。
「あ―、変な話だけど、君のことを、何て呼んだらいいかな。僕としては、できれば、ゲルトル―ドと、呼ぶのを許してくれると嬉しい」
彼女は沈黙の間を置いた。その様子をドキドキしながら見守る。先ほどの言葉をつっかえずに言えてよかったと考えながら。
少しの逡巡があった後、ゆっくりと頷いた。
「うん、あなたがそう望むのなら」
「よっ……! ありがとう、嬉しいよ」
(しゃあああああああああ)
素直に喜んでいる貴樹に対して、彼女はまた小さく首を傾けた。
◆
小石が飛んでくる。彼女の本気なら無視はできない凶器になっただろうが、そうはならないとホークウッドは確信していた。頬に当たるのをそのままにする。した事を考えれば、多少の痛みは仕方がないと思っていた。
物を投げるのにもくたびれてきたのか、ミレーヌは遠くに座って彼を睨みつけてくるだけになった。
「満足したか」
大した馬鹿力だ。彼は脇腹や、頬を軽く撫でる。武器をあらかじめ取っておいてよかった。そうでなければ、最初一緒に抑えてくれていたアンリやホレイスに危害が及ぶ所だった。
声をかけた直後、額に石がぶつかってきた。まだ余っていたらしい。
「大当たりだ」
「なんで、一緒に死んでくれなかったの」
久しぶりの声に、彼女がようやく会話の意志を示したと、解釈した。なんて馬鹿なことを訊くんだと言わんばかりに、ホークウッドは肩をすくめた。
「そりゃあ、死にたくないからだ」
ミレーヌは鼻で笑う。
「火継ぎがなされなかったら、世界は深遠で覆われる。皆死ぬわ」
「まあな。でも、そうなるまで、まだ時間はある。それで十分だ」
「結局死ぬじゃない」
「いや? 全然違うだろ」
勢いよく、ミレーヌが立ちあがった。肩を怒らせて大きく歩み寄ってくる。また蹴るのかと若干身構えたものの、彼女はただ見下ろしてくるだけだ。歯を食いしばり、彼の何かを責めるような、眼差しをする。
「はっきり言ったらどうなの?」
「なんだ?」
本気でわからなかった。それよりも生きて彼女と、一応は安全と言える場所まで来れたことの実感が今さらやって来ていて、感慨深いものを整理するので手一杯だった。
彼女は深く息を吐き出した。憂いのこもった溜息だった。ホークウッドを見る目が、左右にそれる。
「恨んで、いるんでしょう。私を苦しめたいから、生き延びさせたの? 憎いなら憎いって、そう、はっきり言ってよ」
ホークウッドは瞬きを忘れた。
「おい、おい待てよ。意味がわからない。お前、何言ってるんだ」
「私が、いたから、貴方は使命を捨て切れずに、火へ捧げられた。地獄の苦しみだったんでしょう。誰だって、大嫌いになるわ」
「だから…」
彼女の思い違いを正そうと、ホークウッドはその手を掴んだ。が、すぐに振り払われる。二三歩後ずさって、ミレーヌは彼から逃れようとした。
「誰だ?」
さらに追いかけて、壁際まで彼女を追う。なけなしの拳が飛んできたが、腕で払って、彼女の肩を掴んだ。さらに暴れようとしたので、押さえつけて、諸共地面に崩れ落ちる。
「はなして!」
子供の癇癪のようなそれを相手に、体を上へ下へ入れ替わりながら、何とか声をかける。彼女の頬を叩き、しっかりと言い聞かせる。
「誰だ? 妄言を吹き込んだのは。聞け! そんな嘘を真実みたいにお前を信じさせたのはどこのどいつだ。シフィオ―ルスか?」
沈黙が答えだった。
あの糞狼。くたばってからも苛々させてくれる。ホークウッドはできるだけはっきりと、大きな声で、彼女を目を合わせて言った。
「俺が……、こんな事をしたのは、憎しみのためか? 薪の王となっている間、他の奴らのように狂わなかったのは、誰のおかげだと思ってる」
頭で何度も彼の胸を叩いていた彼女の動きが、やっと止まった。涙で濡れた瞳が、ホークウッドの真摯な表情を映した。
「お前だ。何よりもお前の存在が、俺の救いだ。だから、お前が監視者になった時、怒りで我を忘れた。どんな手を使ってでも、俺と同じ苦しみを背負わせないと心に決めた。どうして、一緒に死ななかったかって? 生きたお前と過ごせる時間の方が、どんなに少なくても、ましだからに決まってるだろ!」
彼女の頬に透明な筋が伝っていく。その綺麗な光景が急に歪んだ。目から、熱い何かが流れ出てくる。畜生、何で俺は急に、涙もろくなってるんだ。自分でもわかっていた。これは未練だ。どうにもならない、悔しさだ。
ミレーヌの呼吸が落ち着いた。気まずそうに横を向いて、小さく口を動かす。
「私は、怖いの。深淵の一部、ほんの一部だけでもあれだけ凶悪なのに。もし、火継ぎが行われなかったら」
「そうだ。俺だって嫌だ。でも、何よりも俺は、自分の感情を優先した。そういう意味なら、お前の方が、俺を憎むべきなのかもしれない。でも、いいか」
頭の隅で、やめておけと声がする。止まらない。このまま話を続けてしまえば、きっと、最後まで自分は言うだろう。
「深淵を止める術を見つけると、タカキが言っていた。火継ぎとは、別の方法でだ」
彼女がまたこちらを向く。
「そんなの無理」
「無謀だな。だが、俺はそんなのどうでもいいと思ってる。関係がないからだ。どっちにしろ」
喉が詰まったような感触がした。最後の最後で、残っていた自制心が働いたようだ。感情の勢いというのは恐ろしい。その時が来るまで、こいつだけには、話すまいと決めていたのに。
だが、もう遅すぎた。
「なに?」
ミレーヌは、聞き逃さなかった。隠し続けていた秘密の香りが混ざった、言葉の端々を。
「なんなの。どっちにしろって。なんなのよ。言って。ホークウッド。言いなさい!」
彼女に揺さぶられるままになっていた彼の顔は次第に苦汁に満ちていった。どうにかして追及を逃れる道はないかと鈍くなった頭で考えるが、彼女の視線にはこれ以上耐えられそうになかった。
不運なことに、話そうとする前に、彼女の直感が正解を導き出したらしい。腹の方に、ぴたりと目を止める。
「上を脱いで」
「いや、俺は、くそ。ミレーヌ、頼む」
彼女の手は素早く肌着をめくり上げてきた。それを止めようとする力が全く入らないのを感じて、ホークウッドは悟る。結局自分は、彼女に知ってもらいたかったのだ。そんな卑怯な気持ちがあったのだ。
大きく息を呑む気配がした。
ゆっくりとホークウッドの下から抜け出し、視線は変えないまま、口を押さえる。ミレーヌに見られたと自覚した彼は、笑みを何とか作ろうと努力した。
「まあ、俺とお前の違う所は」
語尾が震える。
「狼血の誓約から、どう解放されたかだ。俺は奴が生きている間に、無理な形で誓約を棄てた。当然、定められた代償が降りかかるってわけだ」
そうして、あまり見ないようにしてきた惨状を、上から眺める。狼血を入れられた部分がどす黒く変色し、腹部のほぼ全てに広がっていた。不義者の腐り。呪いとも言えるそれは、体の機能を確実に奪っていた。発作のように激痛がやってくることもある。血を、何度も吐いた。
「別にたいしたことはない。ちょっとした呪いみたいなもんだ。今すぐ死ぬってわけじゃない。大丈夫だ」
ミレーヌの視線に、揺れることがないようにしながら、応える。今度は彼が、離れていく番だった。しかし、すぐに彼女の手が伸びて、腕を掴んでくる。
「嘘つき」
うそつき、ともう一度ミレーヌは口にした。ぼろぼろと涙がこぼれ出てくる。唇を噛みしめ、こらえるように眉間に皺を寄せて、首を左右に振った。そんな表情から目を背けた直後、彼女の姿が視界一杯に広がった。
重くなった、とホークウッドは妙な感動を覚えた。どうしたらいいものか固まっているうちに、首に手が回ってきて、彼女のすすり泣きが耳元で聞こえた。
「本当は? ねえ、あとどれくらい、生きていられるの? ホーク、答えて」
「…わからねえ。だが、どんどんこの腐れは広がってる。そんなに、長くないかもしれない」
正直に答えると、彼女は嗚咽を漏らしながら、少しの間黙っていた。彼の肩に顎を擦りつけ、手を腰の位置まで下ろしてきた。この温もりを。彼は痛烈に思った。この温もりをずっと、味わっていたい。
こみあげる何かを紛らわせようとホークウッドは声を出そうとした。だが、その前に、控え目な調子で、穴の入口から誰かが現れた。
「盛り上がってる所悪いけど。これ以上黙ってるとしばらく用事も済ませられないようだから、失礼するわ」
大げさな動作でミレーヌは姿勢を戻し、目元を乱暴に拭った。ホークウッドからつかず離れずの距離まで下がり、それでも手は彼の体に触れたまま。そんな様子を、クリムエルヒルトは、真面目くさった顔で眺めていた。
「やるわね。あんなに手がつけられない状態だったのに、よくそこまでたらしこめたものだわ」
「黙れ」
ミレ―ヌの剣呑な目つきを意に介することもなく、そのまま中へと入り込んできた。
「簡単な用事よ。二人に見せておくべきものがある」
手を上向けて、横の何もない空間にかざす。途端、苦痛と未練にまみれた、大狼の頭が出現した。舌がだらりと歯の間から垂れ下がり、目は白濁しているが、明らかにシフィオ―ルスだとわかる。
放られたそれは、ミレーヌのすぐ前まで転がった。
「おい…」
「証明が必要だと思って。大変だったわ。私一人で始末する羽目になった」
少なくない憎しみを抱いていた彼にとっても、その遺骸は見てて気分の良いものではなかった。今の、不安定なミレーヌに見せていいものかどうかは、疑問が残る。
「それだけよ。どうするかは、ま、好きになさい」
クリムエルヒルトは背を向け、足早に外へと出ていった。色々と訊きたいことがあったが、追いかけるわけにはいかない。ミレーヌへ目を戻せば、静かにシフィオ―ルスの首級を持ち上げる所だった。
「シフ様。最後は、とても、苦しんだのね」
ホークウッドは何も言えず、己の義務であるかのように、遺骸を目に捉え続けた。誓約はもうないとはいえ、古代より続く崇拝の対象がこんな冒涜的にさらされているのは、さすがに忍びなかった。殺したいとは思っていたが、もはや何も残っていない骸まで侮辱する気にはなれない。
だが、それは彼だけの話だった。
両手で丁寧に持っていた頭を、ミレーヌは無造作に落とした。それから足で、反対側の壁へぶつかるまで蹴り出した。転がったそれの側に再び座ると、拳を振り上げた。彼女の膂力で、大狼の目が潰される。
「よくも、」
後には、彼女自身にしかわからない小さな呪詛だけが漏れ出る。爪で毛を裂き、両の拳で頭を陥没させていく。狼血が頬に飛び散っても、少しも気にしていないようだった。そこには、ホークウッド以上の憎悪が滲み出ている。
「似合いの、最後よ、お前なんか、お前なんかお前なんかお前なんか」
見ていることに耐えられなくなって、ホークウッドは彼女の腕を押さえた。内心は、彼女の側にずっといてやれなかった自分を、ひたすら責めていた。
「ミレーヌ。もう十分だ。やめてくれ」
ぱっと振り向いた彼女は、さっきよりも強い勢いで、抱きついてくる。その勢いに押されて、尻餅をついた。クリムエルヒルトがいなくなったせいか、再び彼女は子供のように泣き始めた。
「辛かった、苦しかったの…」
「ああ」
彼女の頭に手を置く。
「狼の血を、入れられた時、とてもいたくて……、何度も、あなたの名前を呼んだ。でも、あなたは来てくれなかった。さびしくて、たまらなかった。なんで、たすけにきてくれないだろうって、すごく、かなしかったの」
「ああ、わかってる。俺もお前に会えなくて、辛かった。一緒にいてやれなかった俺を、許してくれ」
「ちがうよ、ちがう。あなたの方が、よっぽど。わたし、そっ、それなのに、ひどい態度、ずっと、」
頭を撫でながら、ホークウッドは笑った。
「今ここで、こうしてる。それ以上の幸せなんてねえよ。気にすんな」
「ほーく……」
「泣き虫なのは、ちっとも治ってねえな。背だけは、俺よりもでっかくなっちまって。剣に、近づけさせたくもなかったってのに。今は軽々とふるうようになってやがる。望んでいた形じゃなかったが、お前は立派になったと思うよ。俺の誇りだ」
背中を、一定の間隔で叩き、泣きじゃくる彼女を落ち着かせる。そうして、言葉のない柔らかな時間が過ぎていく。望んでいた時間だ。自分は今、満足している。そう、彼は考えた。後悔なんてないと。
散々ホークウッドの肩を濡らした後、ミレーヌはようやく体を離した。鼻をすすり、顔を真っ赤にして、ぼうっと前を見ている。その視線を受けている彼は、何となく面映ゆい感じがした。
「でも、なんだ。髪は、切っちまったんだな。今も似合ってると思うが、もったいないな。綺麗だったのに」
「長い方が好き?」
「あ―、というか、せっかく伸ばしてたからな」
「また伸ばす」
「そうか」
「だから、」
彼女の表情が歪んだ。
「だから、ずっと見ててよ。伸ばしてる間も、その後も、ずっと。勝手に、もう、私の前からいなくならないで」
「ああ、約束する」
言ってから、きりきりと、胸が締め付けられた。
結局、自分は。
俯いて、彼女は嗚咽を漏らした。彼の腹を指先だけで、触れてくる。
「やだよ。ホーク、お願いだから、死なないで。死なないでよぉ…」
彼女の髪を梳いてやりながら、ホークウッドは笑顔を作ろうとした。そしてそれは引きつり、鼻頭を押さえて、呻いた。結局自分は、こいつに何も、約束はできないのだと、残酷な現実を受け入れるよう、努力した。
「ごめんな」
◆
(尻か胸か?)
『うーん……、胸だろ』
(ぶっぶ~~、正解は、ゲルトル―ドちゃんの脇でしたアアアアアああああああああああああああああもう無理いいいいいいいいいいいいいいいい突っ込みたいよおおおおおおおおおおおおおっ!)
『なるほど』
見た目は同じでも、前までの彼女ではない。それがまた違った魅力をここまで感じさせるとは予想していなかった。簡単に言えば段々と勃起を隠すのが困難になってきた。
ゲルトル―ドの肩が、当たってくる。彼女は寒そうにしていたので、暖は必要だった。そんな言い訳を最大限に利用して、彼はその全身をすぐ側で視姦していた。
「名前を?」
「そうだ。僕達は、互いを親しみを込めて、呼び合っていたんだ。君から、こう、あまりよそよそしく呼ばれるのは嫌だし、ほら、やってみてごらん」
滑るように嘘をつき、貴樹は満面の笑みを向けた。二人の様子を見ているアンリは、ずっと苦笑している。
ゲルトル―ドは口元を小さく開け閉めする。その唇の動きを、彼に入念に観察されていた。一度躊躇うかのように下唇に力を入れた後、ぼそぼそと声を出した。
「タカキ…さま」
「んっ、く、そう、だね。初めはそこからにしておくかな」
ついに灰呼ばわりから脱することができた貴樹は、達成感で、悦楽が背中を駆け巡るのを感じた。アンリ達の目がなければ、この場で海老ぞりになって、打ち上げられた海洋生物のように体を気持ち悪く振動させている所だ。
(んああああああああああああ)
『正直な話よお、お前、いつかは彼女とあれこれやりたいんだろ。精神がもつのか? 裸見ただけで失神しそうなんだが』
(やめっ、ばかおめえ、今そんなこと言ったら想像しちゃうだろおおおおおおおおおおおおおお、ん? そう考えると、邪魔なやつが一匹いるな。ノミ、お前に見られていると思うと、立つものも立たなくなる)
『おれだって、見たくねえよ。でも視界を塞いでも音はなあ。塞ぐ手がねえし』
(消えればいいだろ)
『それだと、力も失うだろ』
(力は残して、お前だけどっか行けばいいじゃねえか)
『いやいや、ご冗談を』
(は? 真面目に言ってるんだが)
『え?』
貴樹は 大きな欠伸をした。
(はっきりさせとこうぜ。てめえ、話すべきことを、隠してないよな? 今まで面倒だったからなあなあで済ませてきたが、わかるだろ。残り火を使うのに、クールダウン以上のリスクがあるなんて、聞いてなかったんだがなあ)
『待ってくれ。それは、実際に起こるまで、おれも知らなかったぞ』
(残り火の精なのにか)
『おれもその自信がなくなってきた。なにせ、この力のことをほとんど知らねえ。自分の存在について、疑問は尽きない』
(記憶がないって言ってたな)
『お前といればそのうちとは思ってたが、思い出す気配すらねえ。ただ言えることは、この力を無闇に消費するのはヤバいってことだ。これから、もっと考えて使わねえと』
(ふーん)
『…信用が、ないようだな』
(いや、信じるも何も)
『ああ、そうだな。お前は元から、誰も信用していない。自分自身だけだ。一応、お前の人生をさらっと見てきた立場として、疑問があるんだが。お前、それで生きていけるのか。誰も信じねえってことは、誰の側にいても安らぐことがないんだ。嫌になんないのか』
貴樹は内心、この下僕を冷笑した。ま、こいつもか。所詮は道具に過ぎなかった。思考の回転が鈍くて、対等とはとても思えない。
(馬鹿か? お前はきっと他の人類共と、俺が同じ思考回路を持って行動しているとでも勘違いしてるみたいだが、間違いだ。奴らは、飼われてる豚と変わんねえんだよ。豚といて、楽しい奴なんかいないだろ。なあ、わかるか? 俺だけが、選ばれた人間なんだ。この世界に来れたことが何よりの証拠だ)
『あのガキ共のことは?』
(やれやれ、あいつらはな、言ってみれば俺の添え物なんだよ。そもそも、同じ人間と考えるのすらアホらしい。家畜だろ、家畜。そのうち適当に進んで、適当に死ぬだろ)
ノミは察した。この男、戸水貴樹は、歪な成長を経ていた。思春期に陥る、自らへの全能感を失わないまま、大人になったらしい。しかもそれでいて外面を繕うのが上手く、周りから少なくない憧憬や称賛を得てきたのだろう。始末に負えない。
(信用は誰もしないが、信頼してるのは、いる。俺は、彼女がいるだけで、誰よりも幸福な男だ)
『それが一番、謎なんだがな』
(は? 殺すぞ)
にこにことゲルトル―ドを眺めていると、既に全員がこの場に集まっている事に気がついた。最後に来たホークウッドとミレーヌは、前までとは見違えるほどに落ち着いている。話し合いは、いい結果に収まったのだろうか。
ただ、二人の距離感が明らかに縮まっているのを見て、貴樹は内心舌打ちをした。
(はあ、つまんな。ホークさんの一方的な片思いだと思ってのによ~、なにちゃっかり幸せになってんだ? 惨めなままが一番、似合ってんのに)
『手を貸したのは、お前だろ』
(俺はまだゲルトル―ドちゃんとまともに手すら繋げてないんだぞ。はああ―――、むかつくわ)
『結局嫉妬じゃねえか』
ゲルトル―ドの銀髪を凝視して、ささくれだった心を慰めていると、クリムエルヒルトが、両手で何かを差し出してきた。
「正面の穴の奥で、こんなものが」
長い骨が数本、そして、何かの生物の頭蓋骨。地面に落とされて、それらは空虚な音をたてた。全員の視線が、その特徴をとらえようと集まる。かなりぼろぼろで、長い時間が経っていることは確かだった。
「ここに住んでいた、何かです。頭の形からわかるように、鳥に類するものでしょうか」
長いくちばし、そして自分達とは明らかに違う奇妙な骨格。
「にしては、頭が大きいな。これが空を飛ぶには、相当体や翼が大きくないと厳しい。他の骨と比べてみても、不釣り合いな感じがする」
「では?」
貴樹は考え込むふりをした。骨をひと目見た時から答えはわかっていたが、こうしていた方が格好がつくと判断している。だが肝心のゲルトル―ドには見えていないので、よく考えたら無駄な行為だった。
「二足か、四足か。とにかく歩くものだ。もしかしたら、僕達とほとんど変わらない体をしていたのかもしれない」
アンリが、一瞬だけ、洞窟の入り口を見やった。
「この世界の、住人ということでしょうか」
「可能性は高いですね」
(鴉人がなんで、こんなとこで死んでたんだ? 一体だけで。はぐれたのか)
しかし、その考えは観察によって否定された。今度は体の方と考えられる骨を近くで見た所、細い傷がいくつかあるのがわかった。細く鋭いそれは、牙や、爪でつけられたものではない。
「少なくとも、武器を扱う程度の知能を持つ、生き物がいることは確かです。亡者の線ももちろん、考えられますが。気を抜かないようにしましょう」
貴樹はそこで言葉を切ると、周りの者達を見た。皆、自分が目を覚ました時よりも、様々な疲れはとれているようだ。
「吹雪が止むまでは、ここにいましょう。収まったら、全員で、周りを捜索します。元の世界に戻る手がかりを、見つけなければ」
本当は、ゲルトル―ドを連れて行くのは最善とは言い難いかもしれない。外は未知の危険があり、ここは、一見安全なように思える。しかし、確証はないのだ。この洞窟を今ほどの広さにしたのは、骨となった鴉人ではない。ここへ彼女を残していくよりは、ましだろう。
「いいか? 少し話をしたい」
ホークウッドが解散しそうな雰囲気の中、声を上げた。その目は真っすぐ貴樹を向いている。
「皆には、本当に感謝してる。アンリとホレイスがいなければ、俺達は今ここで、こうしていなかっただろう。タカキ、あんたにはどう返したらわからないほどの、借りができた」
(そうだな。もっと褒めろ)
「俺は、これからもあんたについていって、その目的を助けるつもりだ。彼女も、火守女も守ると誓おう」
「ゲルトル―ド」
貴樹は彼女を、欠落した腕で示した。
「彼女には、名前があります。これからも、そう呼んでください」
当たり前のことを初めて理解できたような顔をして、ホークウッドは頷いた。
「そこの、あ―、ゲルトル―ドも守るぜ」
彼は、横にいるミレーヌの肩を叩いた。彼女は一度、彼と目を合わせてから、一歩前へと進み出る。
「私は、彼に従うわ。彼と再び、こうして会わせてくれたことに、感謝を。一度、貴方に刃を向けた身だけれど、信用回復の努めは惜しまないつもりよ」
言い終わった直後、クリムエルヒルトがからかうように笑った。ぎょろりと、ミレーヌの視線がそこへ向かう。
「なに?」
「いえ、ごめんなさい。少し…。ねえ、お嬢さん。その話し方、面白いわね。もしかして、フフ、私を真似てるの?」
かちゃりと、ミレーヌが鞘に触れた。
「意味のわからないことを言って、場を乱すのはやめたらどう?」
「本気にしないでよ。ほんの冗談じゃない。でも、私思うの。貴方、外見はともかく、何というか、そんな言葉づかいは似合わないわ。子供が、無理して大人の言葉を使ってるみたいで、こっちまで恥ずかしくなる。私が聞いた、貴方の素の声は、もっと可愛かったのに」
「おいおい二人共、やめてくれ」
動こうとしたミレーヌを、ホークウッドが腕で止める。それから、クリムエルヒルトを見やった。
「あんたにも、言いたいことがあったんだ」
「そう?」
彼は静かな足取りで魔女の側まで近付くと、膝をついた。その前まで不敵に笑っていた彼女が、怪訝そうに眉をひそめる。さらに彼は頭を深々と地面に擦りつけ、くぐもった声で述べた。
「本来、俺がやるべきことだった。やらなきゃいけないことだった。それを、あんた一人にさせて、申し訳ない。腕を一本失ったってのに、俺の手助けまでしてくれた」
はあ、と彼女は溜息をつく。
「もう、治ったわよ」
「それでもだ。あんたのしてくれたことは忘れない。でかい恩だ。報いるために、できる限りのことをするつもりだ。あんたの望みの手助けもさせてくれ」
「そんなことを言っていいの?」
ホークが顔を上げると、彼女は悪戯っぽく笑った。
「言葉は、取り消せないわよ。それに、もっと周りをよく見てみることね。そんなことをして、あまり得なんてないと思うけど」
ミレーヌが、二人を交互に睨みつけていた。場の空気は良いとは言えない。アンリとホレイスも、翻意を促すように、ホークウッドを見ていた。
だが、彼は不思議そうに瞬きをした。
「どういうことだ? これは、俺とあんたのことだ。他に関係ある奴なんているのか?」
「あのね、貴方、鈍いの? 第一、そんなことを言って、貴方の仲間は喜ばないし、私も、もしそうなったら最大限利用させてもらうつもりよ。よく考えなさい」
「ん? あんたも仲間だろ。そうじゃないのか?」
クリムエルヒルトは笑みを消した。その顔を少し眺めてから、ホークウッドはようやく場の雰囲気を理解したようだ。周りを見回して、声を大きくする。
「こいつは、そりゃあ、一時期は敵側にいた奴だ。俺だってこいつに捕まって、法王の城まで連れて来られた。でも、その城から脱出させてくれたのも彼女だ。火守女の灰の誓約も交わしているし、何より、ここに来る前、こいつは俺達の命を守ろうとした。事情によっては、信じるのは難しいかもしれない。でも、悪い奴じゃねえんだ。俺が保障する」
(望みを成就させると、性根が変わるものなんだな)
『お前より、ヒ―ロ―に向いてるぜ』
(はっ)
ホークウッドは賛同する気配がないのも気にすることなく、再び彼女に向き直った。
「貴方って、愚かだわ」
「あ? それなら、俺も言いたいことがあるぞ」
段々と、彼女は押され気味になりつつあった。ホークウッドが一歩詰め寄ると、彼女は身を引いた。
「地底湖で、あんた、自分を犠牲にしようとしただろ。あれはよくねえ。誰も幸せにならないんだ。もう、そういうことはやめてくれ。せめて、恩を返しきるまで生きててもらわないと困る」
二人は数秒、視線を合わせていた。先にそれを切ったのは、クリムエルヒルトの方だ。無言のまま立ち上がると、鼻で笑いながら頷いた。
「くだらない。迷惑なだけよ、わかる? 誰かの不興なんて、これ以上買いたくないの」
「誰のだよ」
「もういい。これ以上は無駄。旦那様、私、奥に戻ります。出発する時に声をかけてくれれば結構ですから」
貴樹に断って、彼女は去っていった。その姿が消えると同時に、ミレーヌがホークウッドの腕をつねった。彼は、本当に理解ができていない様子だった。いなくなった方を一瞥してから、首を傾げてその場に座る。
(うーん、これは、風向きが変わったかな?)
『あん?』
(そろそろ潮時だと思ってたんだ。クリムだけ浮いてたからな。裏切る可能性もあるし、事故で死んでもらうことも考えてたんだが。これは、面白くなった)
『お、楽しそうだな』
(そりゃあな)
貴樹は周りの人々を一人一人、妙に高揚した気分で眺めた。
(これが、仲間ってことなんだろ)