雪を吹き飛ばしながら、味方達へと走る。
『お、おい、なあ。あれってよ。あれってまさか』
(幻聴だな。そうに決まってる。どんな確率って話だよ。ゲルトル―ドちゃんのおっぱいでも揉めば目が覚めるだろ。そうに決まってるんだ。おっぱいおっぱいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!)
現実逃避をしながら、ホレイスからゲルトル―ドを受け取る。未だ全く状況が理解していない様子のアンリ達に向かって、懸命に伝えた。
「交渉は決裂しました。かなりまずいです。今すぐに、ここから離れなければいけません。非常に危険です」
「でも、彼らのことは」
アンリの抗議を途中で遮る。
「ウィンさん達が標的になることはないでしょう。ですが、僕達は危険だ。聖堂に元の世界へ戻る手掛かりがあると思っていましたが、それも間違いでした。とにかく速く移動します。僕についてきてください」
「え~、なんで―? ちょっと待ってよお」
走り出そうとした所で、頭上から叫び声がしてくる。見れば、フリーデがかなりの高さから落ちてくる所だった。貴樹は思わず固まり、すぐ側に着地するのをただ眺めているだけになる。
(はあああああああああああ!? 何でもう追いついてるんだよ。俺並みに足が速いってことじゃねえか。くそがああああああああああ!)
アンリ達も抜剣し、突如として振ってきた修道女を囲む。彼女達が戦闘になるのを止めなければならない気持ちと、今すぐにゲルトル―ドだけでも連れて逃げ出したい気持ちが拮抗した。
フリーデの姿をした女は、手を叩いて大げさに喜んでいた。
「たくさんいるね。皆、貴くんの友達なの? ちゃんと挨拶しなきゃ」
「あの、フリーデさん。急にどうしちゃったんですか」
貴樹は最後の抵抗を試みる。本当に、狂人の妄言だという可能性も残されているはずなのだ。むしろ、そういうことに無理矢理持って行きたかった。
「何か問題があるのなら、相談に乗りますよ。ずっと一人で、この絵画世界に残されているのは、さぞ辛かったでしょう。多少おかしくなってしまうのも仕方がない」
心外だと言わんばかりに、女は貴樹の肩を叩いた。
「もう、何でそんなこと言うの? 話してる途中で逃げちゃうしさ。あ、わかった。照れてるんでしょ。私がアメリカに行った時以来だから、二年ぶり? 相変わらず素直じゃないんだから~」
(あ、あああああああああああ)
『う、頭が…』
触られた肩にびっしりと、鳥肌が立つ。もう、逃げることはできない。ごまかすことも無理だ。貴樹は目の前の女性の正体を現実のものとして理解した。
彼があれだけ血相変えて退却してくるほどの脅威として、警戒していたはずなのに、何やら様子がおかしいことに気がつき始めた他の者達。彼らに向かって完璧な笑顔を振りまき、女は胸を張った。
「どうもどうも。うちの貴くんがお世話になってるようで。私は、彼の姉、
回想。
戸水家の両親は、近所では有名なおしどり夫婦だった。おまけに美男美女ときては、その華やかさで話題には事欠かない。それでもあまりやっかみを受けなかったのは、彼らが二人揃っていつもぼんやりとしていて、道端の石に躓いてもおかしくないような天然ぶりだったからだ。話題に上るのは、ほとんどが心配事だった。
彼らはやることをやり、合計三人の子供を得た。長男の貴樹、次女の実織。そして、一番上の、薫である。この長女が、あの両親から生まれてきたとは思えないほど、しっかりした子だと、一週間ほど周りで盛り上がることになった。
「いい? たかくん。よく聞いてね」
「なに、おねえちゃん」
「今の女の人はね、ビッチか、清楚ぶったビッチか、喪女ぶったビッチしかいないんだよ」
「びっちって?」
「とっても悪い女の人を、そう言うの。いろんなことをして、男の人をだめにしようとしてくるから、絶対に近づいちゃいけないよ。たかくん、可愛いから。たくさん寄ってくるだろうけど」
「おねえちゃんも、そうなの?」
「ううん。おねえちゃんと、おかあさん、そしておかあさんのおなかの中にいる、たかくんの妹は、違う。みんなきみのことを大好きだから、たかくんも、だいすきって気持ちをたくさん返してあげないとね」
齢五歳の薫は、艶やかに微笑んだ。
「私達だけを、愛して」
回想おわり。
アンリが、手で、彼とフリーデを示す。
「では、タカキさんと貴方が、姉弟であると?」
「うん」
ゲルトル―ドを、相手に気取られずに下ろした。整理するのに時間がかかりそうだが、今すべきことだけはわかる。フリーデは特大級の地雷だった。どうにかして彼女から離れ、さらにこの世界からもおさらばしなくてはならない。その後で、絵画世界ごと全てを封印することが一番だと、彼の脳は結論付けた。
クリムエルヒルトが、信用していない様子で相手を見る。
「黒教会の長女が、くだらない戯言を言うような者だとは知らなかったわ。貴方と、旦那様には何の血のつながりも見受けられないようだけど」
「旦那様?」
ぐるんっ、と首が貴樹の方へ回る。嬉しそうな表情は陰に潜み、目を細めて彼を見据えてきた。
「ねえ、貴くん。この雌豚は誰かな。また、言い寄られてずるずる流されちゃってるの? 駄目だよ。こういう人ははっきり拒絶してあげないと」
「これは驚き」
怯むことなく、クリムエルヒルトは嘲笑いながら腕を組んだ。
「彼が魅力的なのはわかるけど、まさか嘘までついて、みっともなく距離を縮めようとするほど、貴方が女だとはね。亡者の長でも、そっちが飢えることはあるのかしら」
「ん―、私はいいんだけど。フリーデを悪く言うのは、やめてほしいかなあ。この子の側にいて、舞い上がるのはわかるけど。彼と私は、家族だから。貴方の知らないことも、たくさんあるんだよ」
「正気は、亡者らしく失ってるみたいね」
「私の言ってること、理解してないな。どうせ貴くんと寝ることしか考えてない尻軽なのに、どうしてそんな彼の女みたいに振るまってるの? 本人は、凄く気持ち悪がってると思うよ」
(お前の方がきめーよ)
貴樹にとって、少しの得にもならない争いが始まっていた。せめてゲルトル―ドでこの気持ち悪さを緩和したかったが、今思わせぶりな行動をするのは非常に危険だ。薫の矛先がクリムエルヒルトに向かっているのは、むしろ有難い状況だった。
『お前の姉ちゃん、なんかおかしくね。あそこまでひどかったか?』
(平常運転だろ。あ―不愉快だわ)
フリーデ姿の薫は、値踏みするように他の者も見始めた。アンリやミレーヌにも少しの間何かを観察する。辛うじて、貴樹の影に隠されているゲルトル―ドだけは逃れていた。
「この中で、貴くんを好きって人はどれくらいいるの? 手を挙げてみて。ちゃんとそれぞれ何で彼と一緒にいるのか質問するから。正直に答えて。そもそも、貴くんにこんな破廉恥な格好させて、何をさせたいの? こんな…引き締まった体なんて、汚い欲望の的にされるに決まってるもん。ぜ、絶対、興奮している人いるでしょ。そこも細かく訊くからね。いい? 貴くんの全身を眺めていいのは、この私だけ。……え、なに、ちょっと。限界ってどういうこと。私は大真面目に正しいことを言ってるだけなんだよ。わ、フリーデ、や、無理矢理はだめっ」
自らの体を押さえつけようとして、妙な動きでじたばたした後、彼女の表情は消えていた。いや、正確に言うと、多少の羞恥であまり周りの者の目を見れないようで、不本意だと言いたげに視線を伏せている。
彼女自身の中で整理をする時間が空けられたあと、眉間を揉みながら言ってきた。今までよりも落ち着いた声で。
「カオルが、失礼をしました。彼女は、まだ混乱しているようです。それはきっと、貴方達も同じでしょう。どうしてこのようなことになっているのか、聖堂で詳しく説明します。聞きたい人は、ついてきてください」
服から小さな瓶を取り出す。中身の黄色い粉を、崩れた橋の欠片に振りかけた。直後、生き物のように欠片が動き出し、同時に他の部分のひとりでに修復されていく。一息の間で、吊り橋は元の姿に戻っていた。
フリーデが渡り始める。彼女は一度も振り返ろうとはしなかった。貴樹が歩き出したのをきっかけに、アンリ達も戸惑いながらついていく。
再び聖堂の中に入ると、フリーデは祭壇の横に腰かけた。
「どうぞ、好きな位置で聞いてください」
全員が落ち着くのを確認してから、話し始める。
「とはいえ、私は、あまり必要な情報を必要な分だけまとめて、伝えることに長けているとは言えません。貴方達から、訊きたいことを伺いましょう。それに応える形で、理解をしてもらうのが一番早い」
「じゃあ、まずはなぜ、姉が貴方の中にいるんですか。他の者達とは明らかに違います。姉の体は、どうなってしまったんですか?」
できればミンチにでもなってどこぞの醜い獣にでも貪られていれば良いと思っていたが、一応家族を心配する体をとる。
「そうですね。最初にそのことから、話しておくべきでしょう。私は、長い間、この世界で過ごしていました。何でもないある日、急に自らの体に違和感を感じました。何か異物が、混ざり込んでいるような。そして、ほどなくカオルの声が聞こえたのです。彼女もまた、酷く混乱していて、まるで己の状況を飲み込めていなかった」
「つまり、姉だけが、肉体を伴わずにこの世界へ飛ばされたと?」
「そのことで色々と質問をしてみたのですが、どうやら前後の記憶はほとんどないらしく、目が覚めたら私の中にいたと。結局、彼女の肉体の居場所も、どうすれば私から離れてくれるのかもわからないまま、時が過ぎていきました」
「どれくらい?」
「三十年程です。貴方もわかっていると思いますが、それだけあれば、カオルの、おかしな所にも慣れるのに十分でした」
貴樹は苦笑する裏で、ジアンナの発言と矛盾してはいないことを確認した。薫もウィン達と同じアメリカに住んでいるという点で、共通はしている。それだけで疑問が尽きるわけでもない。
精神だけがここに連れて来られ、しかもフリーデと融合している。薫だけがそんな特殊な境遇に陥っているのは、偶然なのだろうか。
今は別の問題から片付けることにした。
「他にも、不思議に思った事があります。フリーデさん自身に訊きたいんですが、教父アリアンデルは一体どうしたんですか? 一緒にいるものだと、思い込んでいたもので」
その名を知っていることに、彼女はあまり驚いていないようだった。何かを確認が取れたように、納得した表情を見せる。
「カオルの言っていた通りですね。貴方は、それなりの事情が、理解できている。確かに、教父様はかつて私と共にいました。ですが、それは昔のことです。今はいません。死んでいますから」
貴樹はここで大きな違和感を感じた。フリーデはこの絵画世界の存続を望んでいた。それはアリアンデルのためだ。彼がいないのならば、なぜ、彼女はここで過ごしているのだろう。使命はないはずなのに。
「わかりました。では、最後に。僕達は、この世界からの脱出が目的です。何か、役立つようなことを知っていますか」
フリーデは貴樹を見てから、他の者達一人一人と顔を合わせた。
「自分から望んで、この世界に入ってきたわけではないのですね。誰が、貴方達を導いたのですか」
「おそらく、ゲ―ルだと思います」
今度も、予想通りと言った感じだ。
「そうですか。考えられるのは、彼しかいませんね」
ちらりと、二階部分へ続く階段を見やった。
「行き来ができるのは、この絵画世界の欠片を持っていた彼だけでした。しかし、貴方達と一緒に来なかったことを考えると、もうここへは戻るつもりがないかもしれません。私にはこの世界から出る方法など何も思いつきませんが、ゲ―ルに頼んで貴方達を呼び寄せた者なら、心当たりがあります」
(ああ、そういうことか)
アリアンデル絵画世界で、やりたいことは二つあった。まずは心情的に一番会いたい、フリーデを探すこと。そして、貴樹の最終目標に対して大きな役割を果たす可能性のある、少女と話すことだ。
「会うことは、できますか」
「二階の個室にいます。私に許可を求める必要はありません。ですが、その前に」
動きかけていた足が、止まった。見れば、フリーデはこの時初めて、感情らしきものを顔で表していた。それが何なのかは細かくわからなかったものの、誰かを慮っているような必死さが視線に出ている。
「カオルと、話をしてくれませんか。彼女は……、貴方の事をいつも楽しげに話していました。同じくらい、心配もしていました。もう落ち着いているようですから、どうか、お願いします」
(ん―、俺はフリーデの方が心配だけどな)
彼女は、貴樹の背後を見る。それだけで察した彼は、アンリ達に拠点へ戻るよう促した。家族の会話をしたいのだと言えば、従ってはくれる。貴樹もそれなりの話をするつもりなので、彼女らに聞かれることは避けたかった。
全員が出て行ったのを確認すると、フリーデはこちらに近づいてきた。
「肩に、触れてください。私達二人と同時に、話ができます」
貴樹は頷いて、腕を彼女の肩に置いた。それだけでは特段、何かが変わったという実感もない。だが、すぐに聞こえてきた声で、触れていることが重要な条件だということは理解した。
『お、聞こえてるみたいだね。貴くん、会いたかったよお』
「口を挟むのはこれっきりですが、慎みも持ってください」
『わかったから。フリーデって、いつもこうなの。細かいったら』
腕の切り口を、彼女の頬に触れさせる。突然の行動に目を瞬かせているフリーデを労わるように眺めた。
「何か、体に異常は? ヴィルヘルムさんの言っていた通りでした。貴方には、汚らわしい悪魔が混ざってしまっている。さぞ、苦しいことでしょう。その苦痛は、僕にもわかります。取り除くために、できることなら何でもします」
『それって、私のこと? お姉ちゃんをぞんざいにしてはいけません。うちの弟くんは、思い込みの激しいとこあるからなあ』
「黙れ」
フリーデが目を見開く。もう、取り繕うことはしないつもりだった。フリーデにあまり見られたくはなかったが、余裕がないというのが現状だ。それくらい、貴樹は怒っていた。
彼女から顔をそらし、低い声で言う。
「おい、ババア…。よくもフリーデさんを汚してくれたな。肉体がないなら、精神の方もちゃんと消えとけよ。他人の体に入り込むなんて、とんだアバズレだな。いいですか、フリーデさん。この女は、かならず俺が処理しますから。安心してください。心に巣食うゴミを排除し、元の正常な状態を取り戻すんです。不安に思うことはない」
『あ、また暴言吐いてる。もお、そういうのは家族の前だけにしなさいっ。お姉ちゃん恥ずかしいでしょ。ほんとシスコンなんだから』
(……)
彼は盛大な徒労を感じた。まるで手応えがない。
「あ? 殺すぞクソアマ。誇大妄想しやがって。自分がどれだけ罪深いことをしたか、わかってんのか? ただでは死なせねえぞ。最大限の苦しみを味わせながら、ゆっくりと消滅させてやる」
『はあ、はあ、やめてよぅ……。そんなに私の性癖を射抜くのは反則だよ。焦らすのが好きって、やっぱりばれてたんだ。恥ずかしいなあ。でも、私も貴くんのオナニー見たことあるし、これでおあいこだね』
(うああああああああああああああああっ! やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお)
中学二年の夏、貴樹は実の姉に自慰行為を目撃された。普通なら、多少の気まずさと共に、なかったことにされる展開だろう。だが、薫は違った。彼女は居合わせた直後、すぐさま携帯で彼のあられもない姿を撮影したのだ。
その後、その写真をネタに脅される、ということはなかった。だが、巧妙にちらつかせてはきた。やや疎遠よりになっていた姉弟仲が、無理やり修正されることになる。数々の要求を、貴樹は呑みこまざる負えなかったのだ。そして高校を卒業するまで、彼は姉とお風呂を共にするという義務によって、精神が摩耗した。
妹の実織のように、わかりやすく挑発に乗ってくることもない。さらには、全ての奇行を、彼のためになると本気で思い込んでいるのが、始末におえない。貴樹は学生の身分から既に、周りの人間を見限っていたが、彼女だけは違った。そもそも人間とは別の何かだと思っている。
なんやかんやで薫が仕事の関係でアメリカに移住することになり、それからの二年間は貴樹にとってましな方になったのだが。今ここで、仮にも彼の大好きな世界で、最悪な再会をすることになった。フリーデが立ち合うという、何とも言えない虚しさで。
「調子に、乗ってんのも今のうちだからな。既に三つほど、お前を排除する方法を考えてる。物事には必ず原理があるからな。それを逆にたどってやればいい。震えやがれ」
『あはは』
ぶち、と貴樹は脳の血管が切れたのを感じた。
「大丈夫か? お? そんな余裕ぶっこいて、後で命乞いしても聞いてやらねえぞ」
『だってえ。本気なら、なんで、顔を見て話さないの? 変な所見ててさ、それじゃあ、全然本気に見えないよ。それで照れ隠しのつもりなの? か―わいっ』
「ぶっ殺」
しかしフリーデと目を合わせた瞬間、敵意は萎えていく。思いっきり、歯がみをした。薫は、強力な防護を得ているも同然なのだ。貴樹がいくら姉を殺したい衝動にかられても、まさかフリーデの体ごとやるわけにもいかない。それに、面と向かって罵倒すれば、その言葉はフリーデにも向けてしまったような罪悪感にかられるので、やりづらいことこの上なかった。
『ふふふ、耐えてる耐えてる。いいなあ、この感じ。久し振り。だいすき、愛してるよ』
(ぐうううううううううう、おげえええええええええええ)
今まで少々圧倒されていた様子の、フリーデが、ここでようやく声を出した。
「想像と、違いました。こう、普通に仲の良い家族を思い描いていました」
『うん? 仲良しじゃん』
「貴方の主観による部分が大きかったということですね。まあいいでしょう。ところで、カオルの弟様のことは、名前で呼んでもよろしいですか」
貴樹は一転してにこにこと頷いた。
「ええ、もちろん。僕もフリーデと呼ぶのを許していただけたら」
その笑顔を、呆れたように見つめてくる。もしや惚れられたのかと思ったが、どうやら変わり身の早さに驚いているようだった。
『ほら、言った通りでしょ。私よりも演技の才能あるって』
「黙れって、さっきも言ったよな売女」
フリーデが、溜息をつく。
「二人共、落ち着いてください。話が進みません。それと、タカキ。貴方の提案は、必要のないことです。カオルは確かに、鬱陶しい時もありますが、消えてほしくはありません。いいですか、仮にも家族ならば、そんなことを言ってはいけないと思います」
「でも、フリーデさんの方が圧倒的に大事ですよ!」
「…ならば、私からもお願いです。これはあくまで、彼女と私の問題ですから。どうするのかは、私たちで決めます」
『ひゅ―っ、さすがフリーデ。わかってくれてるね』
「おい、なんだその感謝の仕方は。馴れ馴れしいぞ。五体投地でもして、泣き叫べよ」
『へへ―、フリーデ様~』
「……貴方達を理解するのは、まだ少し時間がかかりそうですね」
話が一区切りついたようなので、貴樹は二階へ向かう気満々だった。あまり楽しい会話とは言えなかった。薫が、それなりにフリーデから認められているのが、不快で仕方がない。まさに、自分の好きな物が汚されている気分だった。
だが、薫はまだ話があるようだった。
『待って。貴くん。そういえば、みおちゃんはどうしたの? 一緒じゃないの?』
一瞬、本気で、誰のことかわからなかった。やがてぼんやりと、自分に妹がいたことを思い出し、面倒そうに答える。
「途中で別れた。あっちはあっちで安全だろ」
『どーいうこと?』
ウィン達に対してと同じように、多少ぼかして、これまでの経緯を説明した。貴樹の行動の根底にある、ゲルトル―ドの存在は特に言及を避ける。
『そうなんだ、でも、祭祀場って、ダークソウルの拠点でしょ。貴くんなら、絶対に離れたくないと思うはずだけど』
「考え方の違いってやつだよ。俺だって進んでこうなったわけじゃない」
『ふ―ん』
姉が、自分の頭の隅々まで見通しているような錯覚に陥る。その言葉の端々に、薄い笑いが張り付いているように思えた。
『それってさあ、あの盲目の子と関係あるんだね』
(落ち着け。冷静になれ。平常心だ。気取られるな)
しっかりと、薫はゲルトル―ドのことも認識していた。こと貴樹の女性関係に対して、勘が外れたことは全くない。
「どういうことだ。彼女は一緒についてきてくれた仲間の一人だ。お前が何を言いたいのか、さっぱりわからん」
『あは、当たりなんだ。わっかりやすい。へえ、気になるなあ。あの女が、貴くんにとって、どういう存在なのか。じっくりと、話をしてみたい』
「好きにしろよ」
この女には、絶対に近づかせないと心に決めた。後で、アンリ達と上手く口裏を合わせる必要があるだろう。
脅威の再認識をして、彼は階段を上りはじめた。本来は、二階へ続く道は閉ざされているのだが、どうやらフリーデは、例の少女を監禁しているわけではないらしい。その見張りをしていたヴィルヘルムが比較的自由に動いていた理由も、これでわかった。フリーデの口ぶりからして、互いの行動を常に把握しているわけではないが、対立もしていない関係というわけだ。
二階には三つの部屋があった。目的の者がいる場所は、すぐにわかる。階段から一番遠い位置にある部屋の前に、絵画がたくさん積まれていた。その扉へ向かい、少しの間を置いてから、押し開く。
『もう、喋ってもいいのか』
(おう。ちゃんと黙ってたな)
『おれとしても、お前の姉ちゃんとはあんま関わりたくねえからな』
中もまた、作品の残骸がいたるところに置かれていた。その全てがはっきりとしたものを描いていない。黒い円が無数に並んでいたり、一面の黒の中に、小さな赤が紛れこんでいるといった、抽象的なものだ。
染料の鼻をつくような臭いが、必死に読んでいたダークソウルの資料集を思い出させる。火守女、もといゲルトル―ドのページは、何度利用したかわからない。ファンアートよりも耽美さにあふれ出ていて、妄想も捗ったものだ。
(二、三回買い換える羽目になったけどな)
『そりゃあお前、鼻を擦りつけてはあはあ言ってたら、よれよれにもなるだろ。おれの見た記憶の中で、一番しょうもないやつだったわ…』
良い気分になっていると、部屋の奥、広いテーブルの上から、誰かが見てきていることに気がついた。
貴樹は何度目かになる、手の届かないと思っていた有名人に会えたような高揚感を覚えた。相手は、腰まで届く長い白髪が特徴的な、少女だ。イアンよりも年上だろうが、子供であることには変わりない。
「貴方は誰?」
見知らぬほぼ全裸の男が入ってきても、あまり警戒している様子はない。ただ不思議そうに、少女は尋ねた。
「僕は貴樹。フリーデの話によると、君がゲ―ルに頼んで、僕達をこの世界へ連れてこさせたらしいんだけど」
「そう」
肯定も否定もせず、絵画描きの少女は何も続けようとはしなかった。こちらを向いていても、手はキャンパスに向かって動いている。考えごとをしているような曖昧な視線が、貴樹の全身をなぞった。
「お爺ちゃんは、貴方の方を連れて来たんだ」
言い方に、引っかかりを感じる。どこか諦めるような調子が含まれていた。まるで失望されているようで、気分は良くない。
「あの人が通したってことは、わたしを殺しにきたの?」
淡々と、言ってくる。
(あ? んだこいつ)
「えっと、どうやら大きな誤解があるみたいだね。僕は、頼みがあってここに来たんだ。君が、僕達をここへ呼び寄せたんだろ。なら、帰り方も教えてほしい。あっちで、まだまだやることがたくさんあるんだ」
絵描きは答えずに、じっと彼を観察していた。今度は真っすぐと自分に向けられていて、体の内部まで透かされている気がした。
「貴方の、名前を教えてほしい」
「貴樹だけど」
「本当に?」
「ああ」
はっきりとした疑いを向けられ、本来の絵描きの少女との差異を強く感じた。彼女は、誰かに負の方向の感情を向けるような者ではなかった。貴樹自身、なぜ警戒されているのかもわからない。
(もしかして、俺の上半身に興奮してんのか? それで緊張してると。 乳首も規制なしだからなあ)
『何言ってんの』
絵描きはしばらく思考にふけっていた。そして何かに気がついたのか、わずかに表情を動かした。それは驚愕といってもいい顔だ。まさか、自分の乳首に黒子でも見つかったのかと首を曲げて確認した。いつも通りだったので、よくわからないまま顔を上げると、絵描きの少女は涙を流していた。
(ええ……、どういうこと?)
小さな手が初めて絵筆から離れ、自らの頬に触れる。自分でも意識していない内の涙だったらしい。拭いとった滴をまじまじと見てから、それをキャンパスに擦りつけた。塗られていた白い絵の具が、薄く滲んでいく。
「お母さんの言ってたこと、やっとわかったよ」
つぶやいてから、テーブルを下りる。貴樹の元まで歩いてくると、見上げてきた。何かのつっかえが取れたような、清々しい表情をしている。
「頼みというのは、この世界から出るということで、いいんだね?」
「そうだけど」
(なんなん。情緒不安定の子供とか、一番のお荷物なんだが。大丈夫か、この先)
絵描きは貴樹の腰に巻いてある布を一瞥する。
「お爺ちゃんから、何か預かってない?」
「いや。僕は、その時意識を失っていたから。他の、僕の仲間が、何かもっているかもしれない」
「仲間?」
どういうわけか、彼女はその言葉に強く反応を示した。
「貴方が一人で、来たわけではないと?」
「まあ。僕合わせて七名だよ」
「多い…」
考えごとをしている時、彼女の手は空をかいていた。指の動きで、何となくわかる。筆を握っているのだ。何を描いているのかはわからない。動いている手が止まり、目を開けると、再び貴樹に訊いてきた。
「貴方達の中に、守護者はいる?」
訊きなれない言葉を耳にして、貴樹は答えに詰まった。ああ、とその雰囲気を察したのか、絵描きは続ける。
「つまり、火守女のこと。その存在が、貴方の望みに大きく関わってくる」
肯定すると、続く話は全員にしたいと要求してきた。貴樹の仲間とやらに会ってみたいのだという。彼は承諾し、聖堂の外に舞っていたアンリ達を連れてきた。その際、フリーデの視線が、ゲルトル―ドに集中していた。
待っている間、絵描きはまた何かの絵を描いていたらしい。貴樹達が入ってくると、手を止め、テーブルから下りた。
「なぜ、こんな所に子供が」
アンリの疑問の声をよそに、少女は歩く。視線と足を進める方向は一点へ向けられている。そのままクリムエルヒルトの所に着くと、両手を目一杯に広げた。そのよくわからない行動に、魔女は一歩後ずさる。しかし、完全に離れる前に、絵描きは彼女に勢いよく抱きついた。
「二人は、知り合いで?」
貴樹がそう尋ねると、クリムエルヒルトの耳に口を寄せていた少女は小さく首を振った。その直後にゆっくりと離れ、彼女の顔にじっと目を注ぐ。挙動がおかしいのは、クリムエルヒルトも同じだった。絵描きの視線から逃れるように、貴樹に顔を向けてくる。
「いいえ。私は知りません。何というか、変わった子ですね」
(はい嘘。触れてほしくはないんだな。今は放っておく)
絵描きは、クリムエルヒルトの胸を指さした。
「懐かしいにおいがする。何か持っているのなら、それを見せて」
「確かに、杖は持っているけど。貴方に見せてどうするの?」
「奪った物は、人目にさらしたくないのもわかるよ」
クリムエルヒルトは、少女を睨みつけようとした。しかし、途中で目は逸らされ、自身を注目している周りの者達をなぞる。促されているのだと、理解したようだ。大きく息を吐き出し、懐から何かを取り出した。
白い、鈴だ。上品な装飾が取り付けられている。取り出す時の揺れで、かすかに音が鳴った。その瞬間、白い光が舞ったような錯覚がした。
絵描きがそっと手を伸ばす、その鈴に触れようとした所で、クリムエルヒルトが弾けたように引っ込めた。鈴を胸に抱き。だれにも渡さないと言わんばかりに身を縮こまらせる。普段の彼女らしくない、子供のような仕草だった。
「ごめんね。多分、わたしよりも、貴方が持つべきだとは思う。でも、少しだけでもいいから。一度だけ、触らせてくれる?」
いくらか逡巡の時間を置いた後、鈴を少女に手渡した。彼女は指先で鈴をつつき、澄んだ音を、目をつぶりながら聞く。十秒も経たないうちに満足したようで、クリムエルヒルトに返した。
「前までなら、絵画世界を出る方法はあった。それを使って、お爺ちゃんが貴方達を迎えに行ったの。でも、最後の一つだった。それも、片道分。今は新たな道を作らなければいけない」
つまり、作品を。
彼女はそう結んだ。ゲ―ルがアリアンデル絵画世界を描いた紙片で、貴樹達を送り込んだように、今度はあっちの世界の情景を絵画として描くのだという。その完成のためには、膨大なソウルが必要だ。その収集を貴樹達に頼みたいらしい。
「もう一つ必要なのが、そのソウルの器を把握し、扱いに長けていて、わたしの作業に問題なくついていける補助的な存在。わたしにはない技能を持っている人。火守女と、そっちでは呼ばれているね」
「すみません、今は、私達の中にその役割を担える者はいません」
アンリが答える。ゲルトル―ドがかつてそうだったが、記憶の喪失のせいで全うできる状態ではないことを説明した。絵描きはたいして失望もしていない様子で頷く。
「じゃあ、その子の回復も優先だね。そんなに焦ることはないよ」
「ありがとうございます」
場がまとまりかけた所で、貴樹は皆が見過ごしていることを指摘しようと、前に出た。もちろんゲルトル―ドのことは大事だが、もし記憶が戻ったとしても、火守女という枠には入れたくなかった。ただ一人の女性として、扱いたいのだ。
「待つ必要は、ないと思います」
はっきりと言ってから、腕で横のクリムエルヒルトを示す。
「火守女なら、もう一人いますから。彼女が、そうです」
一部の者達は驚いているようだった。ただ、絵描きや当の本人は、まるで貴樹がそう発言してくるのを予期していたかのように、落ち着いている。
「本当なのか?」
尋ねてくるホレイスにも、説明をする。
「クリムは、少なくともソウルの器を視認できます。火守女の灰の誓約下に入る時も、何か、特別な思いを抱いている様子でした」
クリムエルヒルトは、挑戦的に微笑んだ。
「否定は、できませんね。確かに、私はかつて、そういった責務を担っていた時期があります。旦那様には早々に見抜かれていたようですが」
へえ、とホレイスは彼女を眺めた。
「何か、言いたいことでもあるの?」
「意外でよ。だって今、お前は目が見えているんだろ。瞳の動きにおかしな所もない。一度潰した後、治したってことか?」
「そういうことになるわね」
「それが、おそらく問題になるだろうね」
絵描きの少女は言いきって、再び、彼女と視線を合わせる。
「完全な火守女ではないってこと。タカキは代用できると考えたようだけど、彼女一人だけでは、不十分だと思うよ。結局、そっちの子の力も必要になる」
クリムエルヒルトがこめかみに指を当てる。
「私が今ここで、両目を潰せば解決するんじゃない?」
「そんな簡単なものではないって、貴方もよくわかっているはず。それに、失礼かもしれないけど、きっと、もう貴方は闇には勝てない」
彼女の笑みが消えた。その目が一瞬、遠くへと飛ぶ。その中には、確実に、恐れが含まれていた。
「火守女のことについては、努力することとして。もう一つの、膨大なソウルっていうのは、どれだけ必要になるのかな?」
貴樹は妥協した。記憶を戻すという名目で、ゲルトル―ドと一緒に過ごせるのを見越したからだ。
「それなりに大きなキャンパスを使うことになりそうだから、相当だね。今、この世界で動いている、ほとんどの生物から回収しないと間に合わないと思う」
えらく時間がかかることになりそうだった。
「僕達も、含まれると?」
「ううん、そこまで余裕がないわけじゃない。特にタカキのソウルは、作品と相性が悪い。主張は大事なんだけど、強すぎれば他の色を殺してしまう」
「回収の方は、僕がやっても?」
「それは問題ないよ」
絵画世界の生物というと、まず思いつくのが狼だ。群れで行動していることが多いし、統率しているリーダーなどは特に、旨みがあるだろう。数なら、鴉人もそれなりだ。鴉村に行けば、狩り放題。他にも、鹿の角を模した兜を被った騎士亡者や、木に擬態している化物もいる。それらが全て束になってかかって来ようとも、対応するのは簡単だ。そして、残った絞りかすのようなものだが、八匹の地球人もいる。
(う~ん)
未だに邪魔だとは感じていた。だが、仲間達に不審に思われないような消し方が思い浮かばない。何か一つ、きっかけが足りない気がしていた。
ともあれ、当面はソウル集めと、ゲルトル―ドの記憶を取り戻すことを目的に行動すべきだろう。その二つを同時に達成できる案を、貴樹は思いついていた。元より、ずっと、彼女としてみたいことだったのだ。
絵描きの部屋から出た後、アンリと手をつないでいるゲルトル―ドの横に並んだ。
「訊いても良いかい?」
肩に触れる。それだけで、実の姉と再会したという事実を遠くに追いやることができた。彼女の耳に近づき、はっきりと声に出す。
「旅を、したことはある?」
「たび、って?」
「自分の知らない国、知らない場所に行って、知らないことを体験する。僕と君は、二人でそれをたくさんしようって、約束していたんだ。今がいい機会だと思う。この世界を見て回るんだ」
彼女はその言葉を呑みこむように間を置いてから、火守女の頭冠に触った。最近の、彼女の癖だ。視界が暗く塗りつぶされているということに、慣れていないのだろう。紛らわすために、あるいは感覚の有無を確かめるために、一見意味のないことをしている。
階段を降り切った所で、ゲルトル―ドは口を開こうとした。その返答をわくわくして待っていた貴樹の気持ちは、邪魔をされることになる。
「駄目だよ。貴くんは、ここで過ごすんだから」
フリーデが腰に手を当てて、こちらの進路を遮るように立っている。その表情の緩み方で、今は薫の方が主導権を握っているのだと確定できる。
「まず、今日はずっと一緒に寝てもらうからね。話したいことたくさんあるし。それと、三十二年間のブランクが空いちゃったけど、日課もちゃんとするよ。髪とか、髭は伸びてないようだけど、陰」
「姉さん。僕だって積もる話はあるよ。でも、それは後だ。今はやることがある。終わってからなら、いくらでも付き合うよ」
(こいつほんま…)
踵で顔面をぐしゃぐしゃにしたかったが、相手はフリーデの姿なのでやめる。ゲルトル―ドの前で中高の地雷エピソードをつまびらかにしたくはない。
えー、と薫は頬を膨らませた。静粛な修道女と子供のような振る舞いの組み合わせはなかなかに新鮮で、フリーデの新たな可能性を予感させる。だが中身があれなので何もかもが台無しだった。
「じゃあ、お友達も一緒にここを使ってくれてもいいよ。フリーデの許可も取ってるし。……うん、今取った。ね?」
ほら、とばかりに両手を広げる。貴樹にはわかっていた。相手の関心はほぼ、ゲルトル―ドに注がれている。時折その目がぬちゃりと、彼女へまとわりつくのがわかった。姉がこういう粘着質な視線を向ける時は、ろくなことがない。
「遠慮しとく。本当にフリーデさんが歓迎してるのか、わからないからね。じゃ、そういうことで」
大事な人と、この薄気味の悪い女を同じ空間に居させるわけにはいかない。話をさっさと切り上げて、もっと話した方がいいのではないかと言いたげな他の者の先導をする。
「何かしたいことがあるなら、お姉ちゃんも手伝うよ」
「いいや。必要ないけど」
「…その人と、関係あるんでしょ」
薫はゲルトル―ドを指さした。
(うぜえ)
貴樹は振り返り。堂々と、ゲルトル―ドに寄り添った。
「あるね。これは、二人でやりたい事だから、大丈夫」
「はあ、ねえ貴くん」
聞き分けのない子供を相手にするような態度で、溜息をつく。フリーデの顔ではあるものの。眉のひそめ方、口の動きが記憶の姉と酷似している。非常に悪感情を煽りたててくるものだった。
「皆の前だと、優しくなりたいのもわかるよ。でもさ、同情はあまりしない方がいい。どっちのためにも、ならないから」
冷たく言い切った。妙に実感のこもった調子だ。
「同情」
貴樹も同じように、無機質に繰り返す。その言葉も、何度か聞いた。なぜ、誰も一目見ただけでは、彼自身の本当の感情を理解しないのだろう。視力のない彼女と、五体満足ではないものの俊敏に動けている彼を見て、外面だけで、関係の性質を断定するのだ。
しかもそれを、自分を理解していると思い込んでいる女に言われるのは、尚更不愉快だった。
「何人かいたよ。そうやって、余計な勘違いをしてきたのが。姉さん、納得がいかないのなら、これから理解すればいい。いいか、俺は」
腰を曲げ、ゲルトル―ドに顔を近づける。勢いのままに、彼女の頬に唇を押し当てた。
「この人を愛しているんだ」
相手の反応を確かめはしなかった。ふわふわしている体を持て余しながら、踵を返す。足運びがやや慌ただしくなりかけたが、アンリ達もついてきているのはわかった。一度も振り返ることはなく、聖堂から出た。
◆
「許せない…」
『カオル』
「あいつ、よくも、よくも……」
姉は指を噛む。どろどろとした目をして。