おかえりと言えば、疲れた顔を緩めて、ただいまと返してくれる。
学校どうだったとか、宿題やったとか。そんな他愛のない会話をして、沸かしておいたお風呂に入る。温度設定を誤って、少し熱めのお湯に入ることになっても、この時間が大好きだった。
お風呂から上がればいつも、母が料理をする物音や香りがするからだ。それで、今日の献立が何かを推測する。特に自分の好きな物が出るとわかった時には、それだけで一日が素晴らしかったと感じられる。
リビングのテレビを点けて、自分は食卓に座る。出された箸を弄びながら、彼女の背中をわくわくしながら見守る。時折母は視線に気がついたかのように振り返って、目を細めながら微笑んだ。
「わかる?」
「ひき肉がみえた。ハンバーグだ!」
「さあて、どうでしょう」
包丁がサクサクと野菜を切っていく。
「チーズハンバーグ?」
「ぶー」
やがて料理ができる。振り返った母は、湯気の漏れ出す小鍋を食卓の上に置き、蓋を取った。確か自分は、椅子に膝立ちになり、身を乗り出したような気がする。
「ロールキャベツ! やった」
「多めに作ったから。明日の朝も食べようね。お母さん、早番ないから」
「うん」
大好物を、あと数年で食べられなくなると知っていたら、この時無理をしてでも全部食べ切ろうとしていただろうか。無駄な考えだろう。未来の事なんて、誰一人としてわかりようもないのだ。
紡がれていく言葉の意味は、わからない。それでもこれが非常に重要な儀式であることは理解していた。
イリーナが組み立てられた篝火に触れる。火の粉が円状に綺麗に散って、火の勢いが増した。そしてすぐに安定し、彼女はやり切ったように立ち上がる。
これで、祭祀場との転移線がつながった。イリーナの立ち合いがあれば、いつでも行き来することができる。
「ようやくちゃんとしたベッドで寝れるな」
宇部のつぶやきには誰も反応しなかった。楽観的な物言いができる雰囲気ではなかったからだ。ほとんどの人にとって重要なのは、この後に控えていた。
重苦しい視線を浴びながら、グンダが大きな獣の胴体を運ぶ。痛ましいことに、それには首から上がなかった。目を逸らしたくなったが、最後まで見続けることが自分達の義務だった。特に、目の前にいながら何もできなかった自分の。
「アキ」
そんな様子が、外から見ても丸わかりだったのだろう。ちとせが小さく声をかけてきた。腕にさっと触れてきて、下田の考えを否定するように目を合わせてきた。彼女は、涙がこぼれそうになっている。
痛かったんだろうな、とわずかな声でつぶやいた。目尻を拭い、鼻をすする。悲しみにくれている彼女を見て、シフィオールスの最期を知らないのは幸運だと思った。憎悪のこもった殺され方をした顔がどうなるか。下田は、何度か夢に見た。
狼の遺骸が、篝火に放られる。火の勢いが少しだけ弱まった後、毛に燃え移った。肉の焼ける臭いが気分をさらに落ち込ませてくる。全員が黙って、狼血の主のために祈る静寂を作った。
クリムエルヒルト。下田は、もうはっきりとその名を認識した。彼女がどんな思いで動いているにせよ、許されないことをした。報いを受けるべきだという考えに、彼も意義はなかった。
しかし、そのことに対する心情は複雑だった。なぜよりにもよって、先生が一緒にいたのだろう。しかも、シフィオールスを殺す意思を初めから示していた。彼が一体何を考えているのかがわからない。両腕を失ったことで、何かが彼を変えたのか。少なくとも、もはや引けないところまで来てしまっていた。既に二度薪を奪われている。決定的に、先生と自分達は対立したのだ。
すべてが灰になるまで、祈りは続いた。
祭祀場に戻った後は、しばらく休養の期間をとると知らされた。正直自分達の身体に限界が来ているわけではなかったが、精神を休めることもまた重要だ。
自分の部屋に戻ると、ローブを着た女性がベッドに腰かけていた。
「疲れているか?」
下田は鈍りそうになる頭に、活を入れる。気まずそうに間を作った後、カルラの傍にある丸椅子に腰かけた。
「大丈夫です。えっと、どうかしたんですか?」
「いいや。私はただの使いだ。まだ休まないのなら、篝火の広場に行ってくれ。ヨルシカ様が呼んでいる」
う、と思わず息が詰まった。できれば自分から話しかけに行こうと思っていたのだが、なかなか踏ん張れずにいた。きっと失望されるであろう報告をしなければいけないのは、さすがに今の状態では辛かった。
カルラは枕を一瞥し、下田に顔を近づけてきた。
「無理はしなくていい。都合が悪ければ日を改めるとあの方も言っている」
「い、いえ。行きます。僕も用があるので」
「そうか」
カルラから顔を逸らして、息を吸い込んでから、立ち上がった。彼女の視線を感じながら入り口まで歩く。
「私は、助からないはずだった」
下田は立ち止まる。
「あの傷と出血では、相当な奇跡の技術がなければ助からない。アキヒロ、お前にそんな腕前がないことはわかっている。一体、私に何をした?」
詰問するような口調だったが、声音は優しいままだった。立ち上がる気配を背後に感じても、そのままでいた。カルラの手が、下田の身体を自身の方へと向けさせてくる。
「跡も残っていないんだ。普通、いくら奇跡でも度が過ぎた重傷を処置すれば、治療痕が残る。これは、きっと治療じゃない。再生だ」
あの白い女性に助けられたということは、下田もわかっていた。でも、あの直後彼は意識を失ったので、詳細はまるでわかっていない。カルラの疑問に思う気持ちには応じたい。それでも、答えられないのが現状だった。
視線に耐えきれず俯くと、彼女は肩を震わせながら言ってきた。
「お前は、竜の力を、行使するのか」
意味が分からず顔を上げると、手が背中に回ってきた。抱きしめられたのだと理解した瞬間、潤んだカルラの瞳が目の前で瞬いた。
「すまない。責めているんじゃないんだ。ただ…お礼を言いたかった。不甲斐ないばかりの私を、見捨てて逃げればよかったのに」
下田でも、こういう時何を言うべきかわかっていた。カルラと視線をしっかり合わせて、首を振る。
「そんなことは、できません。カルラさんは、僕の師匠ですから。死なせたくなかったんです」
「こんな私を、師と認めてくれるのか?」
「十分すぎるほどのものをいただきました」
そうか、とだけ言って、彼女はしばらく下田の鼻先を見つめていた。再びきまずくなるくらいの時間が過ぎた時、一度ぽんと彼の肩を叩いてから、体を離した。なぜか、あまり表情は晴れていない。
「よく聞いてくれ。このことは、誰にも話すな」
「え?」
下田は思わず訊き返した。途端、カルラの顔が青くなる。
「まさか、誰かに話したのか?」
「いえ、僕自身もよくわかっていないので、誰にも話してはいません」
その動揺ぶりに困惑しながらも答えた。彼女はそれを聞くと安堵したように溜息を漏らす。
「何か、いけないことなんですか」
尋ねると、さりげなく周囲を気にした。誰かに聞かれることを恐れているようだ。そして、言いづらそうに答えてくる。
「太古、この世界を竜が支配していたことは、習っただろう。我々の先祖は酷く虐げられていた。竜が絶滅した今になっても、恨みが残っている。だから竜の血を引く者や、竜の力を扱える者は、それを秘匿するんだ。余計な厄介事を招き寄せないように」
これを聞いて、真っ先に思ったのがヨルシカの事だった。よくないと思いつつ、彼女の裸体を思い出す。鱗や、臀部から生える尻尾。そして、エルドリッチの発言。竜の血を引く者とは、まさに彼女の事だ。
「いいな、どんなに相手が信用できると思っても、言わないほうがいい。気をつけてくれ」
下田は、何となく違和感を感じた。誰にも、というのは大げさなような気もする。事実、ヨルシカはそんなハンデを負っても、祭祀場をまとめ上げているのだ。ここの者なら、そういった偏見は持たなそうなのに。
カルラは、何か別の事を心配しているような気がした。
篝火の広場までの道のりは、じりじりとした緊張が絶えず彼を悩ませていた。やっと忘れかけてきたヨルシカのあられのない姿が浮かんだせいで、その本人に会うのが余計に気詰まりになった。
深呼吸して、洞穴から出る。覚悟していたものの、ヨルシカの姿はなかった。代わりに、ジークバルトとグンダが、一人の老人に厳しい表情を向けていた。
ジークバルトはこちらに気がつくと、すぐに顔を和らげた。
「おお、シモダか。そこの大扉から、ヨルシカ様の部屋に向かってくれ。仕掛けは止めておいたから、安心して通るといい」
下田は頷き、そっと手足を縛られている老人に目を向けた。ぼろぼろの赤い頭巾を被り、来ている鎧も万全とは言えない。それでも歳に似合わぬ体格と、やけに落ち着いた雰囲気が凄みを持たせていた。
ゲールというの名の老人は、地下墓のさらに下で、突然ヨルシカ達の前に現れたらしい。そして、先生と他数名を逃がした。その後囲まれた時も、抵抗することはなかったそうだ。
彼はずっと、下田を眺めていた。尋問の時も決して開くことのない口が、意味ありげに薄く吊り上がっている。気味が悪いとは思わなかった。その瞳は静かで、全く害意が感じられないからだ。
大扉を両手で押し、やっと空いた隙間へ体を押し込むようにして、中へと入る。会議室へと続く道を歩く。ヨルシカの部屋は、そのさらに奥にある。今まで行ったことはないが、構造の説明を受けたことがあるので、場所はわかっていた。
簡素な部屋への扉の前に立った時、先ほどよりも深く呼吸をした。どくどくと心臓が動いている。一度目をつぶって、気分を落ち着かせた後、思い切って中に入った。
足が、床に縫い付けられたかのように固まる。
「こちらから呼びつける形になってすみません。どうぞ、この椅子に座ってください」
ヨルシカは櫛を置き、穏やかに微笑んだ。普段まとめ上げられている髪が、まっすぐ肩まで下りている。服装もいつもの白いドレスではなく、淡い赤色の寝間着だ。裾から出た細い足が、ベッドの端で小さく折り畳まれていた。
現実味がなさ過ぎて、目に変な圧力がかかっているみたいだった。とにかく言われた通りに、傍の椅子に腰かける。もはやここまで来ると正視するのが恥ずかしいという次元ではない。むしろ勝手に視線が吸い寄せられた。
「気分は、どうですか? 貴方達の方にも、危険が及んだと聞きました。大事ないですか?」
「はい、大丈夫です。大事ありません」
自分の声が一拍遅れて聞こえる。
ヨルシカはきょとんとした。
「シモダさん?」
「なん、何でしょうか」
「私、どこか変な所がありますか? こんな姿でお迎えするのは失礼だと思いますが」
彼は大げさに手を振った。
「いや、そういうことではなく。その、赤、赤が好きなんですか?」
自分は何を言ってるんだろう。いくら何でも動揺が過ぎる。
ずれた質問でも、彼女は怪訝そうにすることもなく自らの寝間着を見下ろした。それから少し気恥ずかし気に笑って、頷いた。
「ええ、そうですね。赤は、炎を連想させます。休む時は、なるべく安心できるような環境を心がけていますから」
「炎が、安心?」
「苦難の時であっても、私達を照らしてくれる力強い存在です」
わずかに表情が陰ったのを、下田は確かに認識した。この人には一度身を挺して守ってもらっている。何か助けになることがあるのなら、進んでやりたいと思った。
彼女は居住まいを正す。その動作で、これから本題に入ることを察した。そしてその様子から、あまり良い方のものではないということも。
「もう少し寄ってください」
言われて、下田は椅子をずらした。顔を戻すと、思わずぎょっとする。ヨルシカの方も、彼に近づいてきていた。膝と膝が触れ合いそうな距離になる。瞳のきらめきが、頭をくらくらさせた。
さらに彼女は、腰を曲げて顔をぐいっと一気に寄せてきた。その長い睫毛がはっきりと見えて、呼吸が止まる。薄い唇が耳元にまで到達して、静かな吐息をかけてくる。
「こちら側に、内通者がいます」
緊張が、別の種類のものに変わった。一瞬何を言われたのかわからず、下田は至近距離で彼女の顔を見返した。その目は真摯だった。到底、信じられないことを口にしたのにも関わらず。
「え、あ、あの、それは、一体」
みっともなく動揺する下田とは対照的に、ヨルシカは冷静に説明をする。さらに声を潜めて。
「エルドリッチに私達の情報を流した者がいる、ということです。その誰かが意図を持って行っているのか、あるいは何かしらの脅しを受けているにしろ、これは非常に由々しき事態です」
彼女は言葉を選んでいるが、要は裏切り者だ。祭祀場の面々を思い浮かべる。どう考えても、あんな人食いに与しようとする者がいるなど考えられなかった。
「待ってください。そんな」
「根拠はあります。中指のカーク。棘を生やした鎧の男を覚えていますね。そして深みの主教の一人、ロイス。彼らは、灰のほとんどを虐殺した。今でもその現場に間に合わなかったことを悔やんでいます。ですが、よくよく考えてみると、おかしいのです。やけに手際が良すぎた。いくつかの部屋に分かれて休んでいた灰達をあんな短い時間で……。事前にどこに誰が、どれだけいるのか。それをわかっていなければ成し得ません」
その男達は、下田の記憶にも強くこびりついていた。特にカークは、国広を殺した相手。言われてみれば、確かに変だった。生徒達も、抵抗をしたはずだ。実力がなくても、それぞれの固有能力は侮れない。
ぞっとした。つまり祭祀場の構造だけではなく、皆の能力にも対策を立てられていたということだ。先生によって倒されたカークの姿を見ても、不測の事態にも対応できる圧倒的な戦力という印象はない。ロイスもそうだ。
一つの根拠だけで、事実が確定するわけではない。しかし、彼の中でも無視できないほど疑念が大きくなっていた。
理解をした様子の下田を見て、ヨルシカは息を吐いた。辛そうに目を伏せ、眉間を揉む。隠しきれない心労が現れていた。
下田には、どうしてもわからなかった。
「こんな大事なことを、どうして僕に話したんですか? すみません、そんなことを言われても、正直どうしたらいいのか」
彼女は弱弱しく笑みを浮かべた。
「気を、悪くしないでくださいね。貴方が一番、そういったことから関わりのない位置にいると思ったのです。一度自分の感情を考えず、全員を疑ってみました。それでも、貴方だけは裏切る想像が浮かばなかった。巻き込んでしまって、ごめんなさい。もはや私一人では、抱えきれませんでした」
下田の手の甲に触れてくる。感謝するように頭を下げてきた。
本当なら、喜ぶ所だろう。信用はされているということなのだから。しかし問題が深刻なせいで、これからどうするべきか、不安な気持ちが勝っていた。
「それで、僕は何をすれば?」
「無駄に気負う必要はありません。できればいつも通り過ごしてくれるのが一番です。ただ、何か不審に思うことがあったら、迷わず報告してください。些細なことでも結構です。もちろん、何もなければそのままで大丈夫です。私の他に、事情を知ってくれている者がいる。そう思うだけで、かなり楽になります」
そして、何かを思いついたように両手を鳴らした。
「何か、伝達の手段を設けるべきですね。音送りの処置がきちんと施されているものにしないと。そうですね、私が貴方に渡した白い鈴はありますか」
不意打ちに、下田は固まった。ヨルシカが不思議そうにするまでたっぷり十秒は黙った後、勢いよく体を曲げ、頭を膝につけた。
「本当に、すみません。その、あの鈴は奪われてしまって。ヨルシカさんがくれたのものなのに。僕、そういうところがほんとに駄目で…」
「シモダさん、落ち着いてください」
見ると、彼女は少しも怒ってはいないようだった。こちらを安心させるように頷くと、彼から離れて、膝立ちになる。枕元の引き出しを開け、装飾の施された鈴を取り出した。
「では、こちらを使ってください。強く振っても、音は出ません。横に三回、縦に四回振ってください。その瞬間、私の持っている触媒と連絡ができるようになっています。報告だけではなくて、何か緊急の助けがいる時にもぜひ使ってくださいね」
託されて、思わず見返した。
「いいんですか?」
「むしろ、貴方が無事で安心しました。誰かの命に比べたら、触媒の一つや二つ、天秤にもかける必要はありません。ですが、それも失くしてしまったらもう、代わりはあげられませんよ。大切に扱ってください」
少し悪戯っぽく目を細めた。
下田は、はっきりと頷いてみせる。
「はい、わかりました」
ヨルシカは、下田の手に収まった鈴を一瞥してから、立ち上がった。ベッドの端に寄った皺を直すと、彼へと振り返ってくる。
「話は終わりになります。今日はゆっくり体を休めてください。再び薪を求める旅を、しなければいけませんから」
下田は椅子から離れ、鈴を懐にそっとしまう。彼女に会釈してから、出口へと歩き始めた。今は衝撃と不安で、現実味があまりしない。でも、あとから嫌でも認識することになるだろう。何とか彼女と協力して、危機的状況を脱しなければならない。
「待ってください。一つ、訊き忘れていました」
ヨルシカは離れた所から、申し訳なさそうに言ってきた。
「奪われたと言っていましたが、一体誰に?」
「えっと、赤毛の、クリムエルヒルトです。あの人は鈴をかなり気にしていました」
「そうですか。ありがとうございます」
彼は、わずかにヨルシカへ違和感を持った。お礼を言った時の笑みが、いつもと違うような気がする。どこか、鳥肌の立つような艶が含まれていた。それでいよいよ顔が真っ赤になりそうで、急いで退散した。彼女は優しいし安心できる面もあるが、一緒にいると心臓に悪い。
正直、この魔術はあまり好きではなかった。集中していると、次第に本当に自分の存在が消えていくような感覚に陥るからだ。
「もういい。解いてくれ」
下田は、自らを覆う膜を剥した。実際にはそんなものはないのだが、感覚的にはそう表現するのが一番近い。現れた彼を見て、ちとせが拍手をした。
「全然わかんなかった。マジで透明になるんだね」
カルラも満足気だ。
「問題なく術が発動している。筋がいい。これはクセがあるんだがな。お前の才能に合っているらしい」
見えない体。
名称通り、自らの身体を不可視化させる魔術だ。ただ、気配や音までは消せない。それらには音送りというまた別の魔術で対応できるのだが、まだ併用できる段階には至っていない。それでも、下田はほぼ一発で、見えない体を発動させることに成功していた。
「本当に凄いね。これ、すごく難しいのに」
うっすらと霞がかった女子生徒が、下田に目を向けてくる。長い黒髪で辛うじて新宮だと判別ができた。見えない体を中途半端に成功させてしまうと、彼女のような状態になる。
下田は、曖昧に笑って新宮が術を解くのを眺めていた。褒められること自体は嬉しい。今までずっと感じていた無力感が、薄まっていく。ただ、なぜ自分がこんな簡単に術を成功させたのか、正直不可解だった。まるで、自分の力ではないような気がする。
次は、基礎的な修練に移った。ソウルの光球を、複数同時に浮かせる。彼は、三つまでなら問題なく維持できるようになっていた。今は四つ目を作り出すことが課題だ。
「指の数、という魔術的法則がある。体の機能を超えた空間把握は、困難を極めるということだ。五つと、十。光球の操れる数には、その二つの大きな壁がある」
カルラの視線の先で、新宮が九つのソウルの光球を動かしていた。下田が見るたびに成長をしていた彼女だったが、十個目を作り出すところでかなり苦戦をしているようだ。彼にはいまだ理解しえない、難しさがあるのだろう。
そうして出発前の修練は終わり、下田は準備をしに部屋へと戻った。いくつかの必需品をインベントリにしまい、外へと出る。
彼は思わず足を止めた。壁に寄りかかるようにして、宇部が立っていたからだ。こちらを見てくる目に、嫌なものを感じた。
「お前、あの人と何を話した?」
「えっ…?」
宇部の目が、細められる。
「ヨルシカのことだ。ん? 最近調子に乗ってるだろ。足手まといの癖に、目をかけられているとでも思ってんのか。部屋に、呼ばれたんだろ? 何を話した。言え」
いつもの、からかってくるような笑みは鳴りを潜めていた。憎しみさえこもる表情で、ずんずんと下田へ歩み寄ってくる。
何を話したのかと訊かれても、答えるわけにはいかなかった。内通者の件は、ヨルシカにも固く口留めされているのだ。いくら同じ生徒でも、伝えられない。
黙っていると、宇部は舌打ちしてから下田の胸元をつかんだ。いとも簡単に体を持ち上げられる。苦しくて息を吸い込もうとすると、壁に押し付けられた。
「女どもに媚び売って、さぞ楽しいだろうな。だがな、真実を言ってやる。ヨルシカは、お前なんかどうだっていいんだ。優しくしてるのも哀れみさ。どうしようもなく愚図のお前を哀れんでるんだ。いいから、教えろよ。何を話したんだ?」
「宇部」
拳が腹に食い込み、息ができなくなってきたところで、突然声がかかった、宇部の力が緩んで、下田は床に尻もちをついた。何度か浅く呼吸をする。
立っていたのは、槍を携えた高坂だった。
「何してるんだ。ヨルシカが呼んでるぞ。話があるってよ」
「ああ、わりい。ちょっと話をしてたところなんだ。すぐ行く」
宇部は最後にきつく睨みつけてきてから、高坂の横を通り、篝火の広場へと向かっていった。あとに残された下田は、深呼吸をしながら立ち上がる。それから、気まずそうに高坂へ顔を向けた。
「災難だな。あんな屑に目をつけられるなんて」
「うん。ありがとう」
高坂は興味なさげに踵を返した。
「宇部とはもう関わらないほうがいい。気を付けろよ」
去っていく背中を見て、下田は考える。
高坂
篝火から、ファランの城塞へ移動し、そこでヨルシカからこの先の道中について説明を受けた。まず、カーサスの地下墓を抜けて、イルシールという国に入る。れっきとした敵地であり、その国の王、サリヴァーンとは深い対立関係にあるそうだ。
ヨルシカは説明をしながら、懐から小さな人形を取り出した。銀色の騎士が彫られていて、一見何もおかしな所はない。
「イルシールの国全体には、結界が張られています。侵入者を妨げるためのものです。この人形を持つ者しか入ることは叶いません。しかし全員分はないのです。そこで、私達を少人数の部隊と他の集団の二つに分けることにします。部隊の方は人形を持ち、正面から入国。その時点で位置と人数は知られますから、その後迅速に王城まで到達し、サリヴァーンを討ちます。残りの者達は別の道で結界を潜り抜け、地下牢へと入ります。そこから巨人ヨームの住む都へと向かってもらうことになるでしょう」
人形の数は、四つだった。ヨルシカはユリア、そして宇部と丸戸を指名し、サリヴァーン討伐の部隊を結成した。満足気な宇部を尻目に、下田は少しだけ不思議に思っていた。
狼血の騎士たちが全ていなくなった今、祭祀場の戦力は多いとは言えない、それをさらに分割して、片方をかなり危険であろう任務につかせるというのは、リスクが大きい気がした。止めようとする者もいない。皆、それほどヨルシカの力を信用しているということだろうか。
ヨルシカは、下田に向かって一度だけ何気なく目配せをした。わかっているつもりだ。調査の都合上、自分と彼女は同じ所に固まらないほうがいい。
つまり。下田は気づいた。ヨルシカは同行させると決めた、ユリアを疑っているということなのか。確かに最近ずっと姿を現してはいなかった。彼からしても、静かでどことなく話しかけづらい女性としかわかっていない。
怜悧なユリアの顔がこちらに向けられそうになって、慌てて平静を装った。普段通りでいいと言われている。あからさまな態度を表に出さないように努めなければ。
差し当たっては地下墓の攻略が先だったが、これは拍子抜けするほどすぐに終わった。前に下田達を襲った仕掛けや敵は影もなく、ただ決められた道を通って進んでいくだけで、イルシールへと出る登り階段に辿り着いた。
上がっている途中から、すでに外気を肌で感じられるようになる。ローブを着込んでも寒さが体の芯まで伝わってくる。
実際に外に出てみると、寒さとは打って変わって驚きの方が勝った。深い谷、雪の積もる地面、そして遠目に見える白い城。地下墓を歩いた時間は、それほど多くはなかった。なのに、ここまで環境が変わるとは。
「見えますか?」
日本では絶対に目にすることのない風景に見とれていると、いきなり傍でヨルシカの声がした。びっくりして彼女の方を見る。ただ下田に話しかけているというより、全員に向かって話しているようだった。
指差す先にはそびえたつ城がある。よく見てみると、うっすらと靄のようなものがかかっていた。
「あれが結界です。私とユリア、ウベさんにマルドさんはあそこへ直接向かいます。残りの方々はここで待っていてください。この場所を待ち合わせにしていますから。では、お互いに幸福を願っています」
それだけ言うと、四人は王城へと続く大橋に向かって下りて行った。本当に正面から向かうつもりらしい。
一方で自分たちはどうしたらいいのか、下田には理解しきれていない部分があった。事前に教えられた情報だと、イルシールの地下牢も結界内にあるのだ。鍵となる人形を持たずに、どうやって辿り着けばいいのだろう。
そんな疑問を打ち消すように、カルラがやや呆れた調子でつぶやいた。
「もう来ているな」
発言の真意を問おうとしたところで、突然目の前に誰かが出現した。
「わっ!」
見えない体だ、と頭で理解しても、叫び声が無意識のうちに出ていた。下田は飛び上がり、二、三歩後ろへとたたらを踏んだ。さらに雪の地面で足が滑り、そのまま背中から転びかける。バランスを崩した彼の身体を、ジークバルトがしっかりと捕まえた。
「大丈夫か?」
「は、はい。すみません…」
体勢を整えると、自分を驚かしてきた女性は会心の笑みを浮かべていた。
「フフ、やった。当たりだ。君が一番、良い反応を返してくれると思ったんだよ」
修道服のフードを脱いで、彼女は素顔をさらした。ややくすんだ白髪に、目元の特徴的な黒子。自分たちと同じ歳にも見えるし、一回り年上にも思えた。今の表情は、まるで悪戯好きな子供だ。
背中の袋を抱え直して、相手は下田に歩み寄ってきた。
「ごめんね。お手本みたいな驚き方だったから面白かったけど。怪我はない?」
「いえ、大丈夫です」
「もっと改善が必要かな?」
「どう、なんでしょう」
どうして仕掛けた本人に尋ねるのだろう。相手の態度に面食らっていると、カルラが下田の前に出てきた。
「久しぶりだな。リリアーネ」
そこで初めて下田も気がついた。カルラやジークバルト達は、明らかに警戒をしている。ヨルシカの話と照らし合わせれば、このリリアーネという女性が案内人ということだろうが、どうやら純粋な味方というわけではなさそうだ。
リリアーネは、感情の読み取れない笑みで頷いた。
「そうだね。姉さんは元気にしてる?」
「ここで、待ち伏せていたんだろう。見ての通りだ。それに、こまめに会っているんだから、必要のない質問だと思うが」
「ふーん、そういう考え方もあるのか」
未だに事情が呑み込めていない下田達に向かって、ジークバルトが言う。
「彼女は、ユリアの妹だ」
予想外の情報に、下田はまじまじとリリアーネを見た。言われてみれば、面影が重ならなくもない気がする。だが持っている雰囲気が違い過ぎて、とても血のつながっている間柄には見えなかった。
「正解だよ。私と姉さんは、誓約上での義姉妹だから。私の方が、ちゃんと可愛げがあるでしょ?」
自分の内心を読み取られて、答えに詰まった。本当に、義理だとしてもユリアとつながりがるとは思えない。二人が会話をする場面を想像するのは困難だった。
カルラが腕を組んだまま、確かめるように言う。
「それで? 地下牢まで案内してくれるんだな」
「もちろん。頼まれたからね」
「不可解なのは、」
不信感の残る口調で、カルラは続ける。
「一度はこちらと袂を分かったお前が、ヨルシカ様の許しを得られたことだ。どういう、取引をしたんだ? 何か手土産でも持ってきたのか?」
まるで、望んでいた質問であるかのように、リリアーネは深く微笑んだ。その笑みが自分達に向けられていると、下田は感じた。妙に得意げになって、彼女は袋から何かを取り出す。細長い形状のそれがなんであるかわかった時、背筋が凍りついた。
人間の両腕だ。筋肉のしっかりついた、男性のものであることがわかる。
「祭祀場に反逆した、灰の欠片だよ。私だけで保存しておくには不安が残るし、貴方達に譲ることにしたんだ」
嫌な感覚だけが先に来て、後から事実を理解するというのは、最近では珍しくなかった。リリアーネが持っているのは、どう考えても、先生の腕だ。
「勘違いしないでね。私がやったわけじゃない。貴方達と戦った後、あの男は法王に捕まったんだ。そこで、色々されたんじゃないかな。私が手に入れたのは、些細な偶然ってとこ」
カルラたちが警戒している理由が、少しだけわかった気がする。この人は、あまり信用してはいけないタイプだ。言葉の一つ一つがどこかひっかかる。
先生は、こちら側を恨んでいるんだろうか。下田は気になった。きっと酷い拷問をされたに違いない。だから、シフィオールスも殺した。生徒達を殺したクリムエルヒルトと協力して。
もやもやとした気分が晴れないまま、リリアーネの後についていくことになった。崖の端にまで着くと、彼女は立ち止まる。その場で何やら呪文めいた言葉を発すると、その足元に変化が生じた。
黒い円が、二人分ほどの大きさに広がる。淵がわずかに波打っていて、中は暗闇で包まれている。彼女はそれを指差した。
「これに入って。地下牢の奥につながってる。大丈夫、私も何度も利用してるから。安全だよ」
その、見るからに禍々しいものに一番ためらいを見せたのは、イリーナだった。だが、
他のみんなが渋々入っていくのを見て、恐る恐る続いていく。順番は、なぜかリリアーネが指定していた。
「うえ、ほんとやだ…」
ちとせが目と鼻を抑えながら、飛び込んだ。そして、残るのは下田とリリアーネの二人だけになる。彼女はじっと見てくるばかりで、動こうとはしない。自分の番だと思った下田は、思い切って一歩足を踏み出した。
素早く左腕をつかまれる。ぎょっとして振り返ると、思いのほか近くにリリアーネの顔があった。目が、大きめに開かれている。
「やっぱり君、おかしいな。ちょっと左腕を見せくれない?」
理由を聞くとか、ましてや逆らう気にはなれなかった。彼女の瞳は無機質なのに、溢れんばかりの興味が灯っている。はっきり言って不気味だった。
ローブの袖をめくり、腕を彼女にさらす。何を見たいのかは薄々感づいていた。
「へええ、これは」
肌の、黒ずんだ部分を舐め回すように観察してくる。
「君さ、よく正気を保ってられるね。エルドリッチに目を付けられたのか。わからないなあ。どうしてこんな普通の…」
声音が、変わっていた。低く平坦なものに。独り言のようだったが、視線を合わせたまま言われると圧迫感があった。
何も言えずに固まっていると、リリアーネは我に返ったようで、下田の腕を離した。
「まいっか。とりあえず入っちゃっていいよ。私は、姉さんの方に行くからさ。また、会えるといいね。シモダ」
結局何の説明もせずに、彼女は去っていった。一人取り残された下田は、急に心細くなってきた。ここに残っても何もいいことはなさそうなので、転移の穴へと飛び込んだ。名字を教えたはずがないのに、なぜ知っているのだろう。何となくもう関わりたくないような、彼にしては珍しい気分になっていた。