火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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35.罪の都

 実はリリアーネが罠を仕掛けていて、下田だけ別の場所に飛ばされるなんてことはなかった。彼を最後に全員集まったのが確認されると、固まって移動を開始した。

 地下牢は不気味な場所だった。それでも、不安は最小限に抑えられている。それは、心強い味方が周りにいるからだろう。事実、ジークバルド達はほとんど緊張している様子を見せず、それでいて油断することなく周囲を警戒していた。

 一方で、それでもぬぐい切れない不安があるのは確かだった。もしかしたら。下田は前を行く者達の背中を見る。この中に、いるかもしれない。 

 

「意外なんだけどさ」

 

 ぽつりと、ちとせが言う。その視線の先には高坂が憮然と歩いていた。話しかけられているのに気がつくと、彼は前を向いたまま口だけ動かした。

 

「何だよ」

「あっちの方についていかなくてよかったの? いつも間抜けトリオでつるんでたじゃん」

「あいつらと一緒にすんなよ。いいじゃねえか。気分だ」

「ヨルシカさんにデレデレしなくていいの?」

「だから、一緒にすんな」

 

 下田は少しだけ身を固くした。まるで自分に言われている気がしたからだ。自意識過剰かもしれないが。

 確かに、宇部と丸戸は何か特別な感情をヨルシカに抱いている節があるものの、高坂だけは一歩引いているところがあった。

 

「元々、仲良くもなかったしな」

「学校だと祐馬君とかと一緒にいたもんね。あんたの声が一番でかくてさあ、結構女子達の評判悪かった」

「うるせえ」

 

 なんだか、二人は機嫌が悪いようだった。お互いがそれぞれ気に入らないところがあるらしく、会話を聞いているこちらとしても気にはなった。気まずい空気を避けようと、とりあえず下田は間に入ろうとする。

 

「二人は、高校の前から知り合いだったりするの?」

 

 ちとせは眉をひそめてみせる。

 

「小学校からずっと同じクラス。こいつさ、執念深いんだよね。ず――っと引っ付いてくるんだもん」

「うるせえって」

 

 高坂のやや強くなった口調を気にすることなく、彼女は続ける。

 

「片思いも十年超えると、笑えなくなるよね」

「え」

 

 さらりと当たり前の事のように口にされた。下田は口を開け閉めしながら二人を交互に見る。彼の反応を、ちとせは真面目腐った顔で眺めていた。

 高坂が、溜息をついた。

 

「下田、絶対に誤解してるだろ。主語を省略するな」 

「えっと、つまり?」

 

 答えはなかった。高坂は黙り込み、めんどくさそうに前を向いた。ちとせが可笑しそうに、下田の肩を叩く。

 

「あいつ、朱音のことずっと好きなんだよ。中学の時も同じバスケ部に入ろうとしたんだけど、男女分かれてんのに後で気がついてさ。ばっかだよねー、普通わかるでしょ」

「あ、そうだったんだ」

 

 久慈朱音は、部活の事も楽しそうに話していた。ただ、彼女と高坂が関わっているのは、学校の時でも記憶にない。こちらに来てから、話題に出てきたこともない。断言はできないが、確かに思いが一方通行なのは頷けた。

 

「まさか、あたしのことだと思った? ないない。こいつ表面は取り繕ってるけど、性根はほんとになよっちいからね」

「俺だって、お前みたいな性悪女なんてごめんだっつの」

 

 下田は素直に感心していた。前までは暗かった高坂の様子が、多少和らいでいる。幼いころから知り合っているからこその、絶妙な距離感というべきか。小中と転校を繰り返していた彼にとっては、羨ましい思いもあった。

 

「てかさ、やっぱりそういうことなんだよね」

 

 ちとせが何かを納得した様子で話す。

 

「最近、高坂がじめっとしてるのって、要は寂しいからでしょ。そりゃあ私とアキも通った道だけど、もう腹くくりなよ。悲しんでも、皆が戻ってくるわけじゃないし」

 

 だからこそ、この彼女の言葉を聞いた途端、高坂の雰囲気が一変したのには下田も驚いた。まるでちとせを親の仇かのように睨み付け、彼女の方へと詰め寄った。

 

「何、馬鹿なことを言ってるんだ。他の奴らを忘れろとでもいうのかよ。このまま、現実に戻れたとしても、朱音がいないんじゃどうしようもねえ。もう、終わってんだよ。俺にはわからねえ。お前らが何で、平気でいられんのか」

 

 後半の方の言葉は苦痛交じりのたどたどしい調子だった。ずっと溜めこんできたものを、吐き出しているようだ。

 ちとせは少しも怯まなかった。逆に高坂を睨み返して、さらに声を張り上げる。

 

「あ、そういうこと。酷いね。あんたの中では、もう皆死んでるってこと? だから諦めて、自棄になって全部どうでもよくなってるんだ」

「だって、そうだろ! あんな、あんな姿になって、全員が元に戻るなんて考えがどこから湧くっていうんだ? 無理に決まってるだろ…」

 

 その気持ちは、下田にもよくわかった。一度見た後は、あの祭祀場の横の塔に行って、生徒達の現状を再び確認する気にはなれなかった。

 

「戻るよ」

 

 ちとせはすぐに否定をした。

 

「無理だ」

「あの黒い膿は、特別な炎で消えるんだって。私と下田は、ヨルシカさんにそれを聞いた。だから、前に進むしかない。もうとっくに十分泣いたし、自分とそれ以外を哀れんだ。あとやるべきことは一つだけ。行動するの」

 

 高坂は顔を上げ、それから納得しがたいとでも言いたげに歯を食いしばった。

 

「そんなのに、確証なんかあるのか? 失敗したらどうすんだよ」

「また、別の方法を見つければいいでしょ」

 

 まるで簡単なことのように言った彼女に対して、高坂も言葉を失った。それから、下田の方へと顔を向ける。

 

「お前もか?」

「うん。僕だって、友達を助けたいから」

 

 ちとせと決めたことだ。どんな困難で意志が揺らごうと、根本のこれだけは変えるつもりはない。全員がそろって、日本に戻る。下田も強くそれを望んでいた。

 

「なんだよ、その自信は。どっからでてくんのか、わかんねえ」

 

 高坂は頭を抱えて、下田達から離れていく。集団の後方で、何かを考えるかのように俯いていた。

 

「ね、言ったでしょ」

 

 ちとせがにやりと笑う。

 

「あいつ、女々しいから。うじうじうじうじ悩むの。誰かと同じだね」

「…うん」

 

 下田は、先ほどの話が高坂にだけ向けられたものではないと薄々気がついた。もしかしたら、自分の悩みが様子に出てしまっていて、それを指摘しているのかもしれない。ちとせに話すべきかどうか、少しだけ迷った。

 だが、果たしてそれがいい方向へと転がるのか、判断がつかない。彼女を危険に巻き込む可能性もあるからだ。それに、今ここで話すのには都合が悪かった。

 前方と後方について、周りを確認しているジークバルド達を、一人一人見る。未だ大きさのつかめない不安を紛らわすために、大きく深呼吸をした。その様子をちとせが見ていたが、何も言ってはこなかった。

 何度か交戦が起きたものの、危なげもなく処理された。焼きごての様なものを持ったローブの人らしき何かが問答無用で襲い掛かってくるのは、すぐに倒されるにしても肝が冷える光景だった。薄暗い中で、朽ちかかっている壁を横に歩いていく。どんなお化け屋敷よりも、怖い雰囲気だと思った。作り物ではない、本物。

 階段を使って下の階層に降りるのをしばらく繰り返した後、地下牢内の空気が少し変わった。淀んでいたものが、わずかな風で流されていく。

 

「一息つくとするか」

 

 てっきりこのまま進んでいくかと思ったが、先頭のジークバルドは休息を選択した。とはいえ、疲れている者はいない。疑問に思う各々の様子を見て、彼は意味ありげに笑った。

 

「実は、いくつか特製の酒を持ってきてな。今ここで開けてしまおう。この先、休める所はないぞ。体の調子を万全にしようではないか」

 

 反対する者はいなかった。意外なのは、カルラが真っ先に腰を下ろしたことだ。彼女はどこか疲れている様子だった。気が張っていると、言うべきか。

 下田も、おずおずと従った。正直、休憩に適しているような場所ではなかったが、カルラが焚火を作ると、多少陰鬱な雰囲気が和らいだ。事前にインベントリに入れてきていた敷物を取り出し、その上に座る。

 

「シモダも、どうだ? 温まるぞ」

 

 差しだされた杯には、薄茶色の液体が湯気を立てている。体が冷えているのは自覚していたので、躊躇いを抑えて受け取った。ちとせ達にも配られている。

 両手で杯を持ち、上手そうに酒を飲んでいるジークバルドをさりげなく観察した。

 陽気な人だと思う。下田達にも積極的に話しかけてきて、祭祀場の中では特に親しみやすい相手だ。

 不安が表に出ないようにしながら、渡された酒をすする。香りは甘かった。舌に届くのは甘味とわずかなアルコール。想像していたよりも、はるかに飲みやすい。

 口に入れた後で、自分が未成年だったことを思い出した。だが、この世界では日本の法律など関係ないだろう。そこまで考えて、体のどこにも異常が現れないことを確認した。もしかしたら毒が入っているかもしれないなんて、神経質になり過ぎだろうか。

 周りで座り、各々の形で休みを取っている者達を観察する。

 シーリスとフォドリック。

 彼女とその祖父は、実織達と話をしている。内容は専ら先生のことのようだ。彼と関係が深い実織と新宮は日本にいた時の先生の様子を語っている。

 カルラとジークバルドは、まさに今下田に話しかけてきていた。カルラの教え方が不足ないか、確かめてきている。ジークバルドがこちらを気遣うと、カルラが不平そうに割り込んでくる。二人は、互いに気兼ねがない様子だった。

 イリーナは、焚火の傍で目をつぶっている。眠っているのではなく、何かを唱えているようだった。彼女の横で、同じくグンダが火に当たっていた、

 こうして改めて見てみると、誰かがエルドリッチに情報を流しているとはとても思えない。ただ、この中で強いて疑うのならば。下田は、集団から一番離れた所で見張りをしている、大槌を持った男を一瞥した。

 イーゴン。太陽の戦士の一人。イリーナとともに祭祀場に戻ってきてから、彼が何かを話すのを、一度も聞いたことがない。厳つい鎧姿も相まって、近づきがたい様相をしていた。何を考えているかもわからない彼が、今のところ怪しいというべきか。

 

「何か、気になることでもあるのか?」

 

 カルラに指摘され、なるべく平静を装った。

 

「その、あそこにいる人の事を、まだよく知らないなって」

「ああ、イーゴンか」

 

 カルラは微妙な顔をした。

 

「あまり気にしないほうがいいぞ。あの男は気難しい。話しても、楽しい男でもないしな」

「だが、誉れ高き太陽の戦士の一員だ」

 

 やや顔を赤くしたジークバルドの声に、カルラは呆れたように息をついた。一方でその顔は緩んでいる、どこか楽しげだ。

 

「そうか? 奴が信心深い所など、想像できない」

「信仰の仕方にも種類がある。神官やらは精神的高潔さを敬う傾向にあるが、我々戦士は武をもって崇める。イーゴンも、かの四騎士を蔑ろには絶対にしまい。そういうものだ」

 

 ちとせが、小さく手を挙げた。

 

「四騎士って何ですか?」 

 

 求めていた質問だったのだろう。ジークバルドは満面の笑みを浮かべた。杯を音を立てながら地面に置くと、しっかりと座り直した。大きく咳払いをして、高揚した口調で説明を始める。

 

「かの大王、グウィン様直属の騎士だ。まだ竜との戦争が続いていたころから、類まれな武功を上げた者達。アルトリウス、キアラン、オーンスタイン、ゴー。彼らの戦いはまさに神話の領域であったとされている。戦士ならば、誰もが憧れる」

「へえ…」

 

 素直に感心しているちとせに合わせて、下田も驚いた。内心では、微妙な気持ちだ。この世界における偉人の話は興味深い。だが、竜関係の話とあっては、色々と考えるものがあった。竜を殺した者達が讃えられている。遺恨は根深いということだ。

 下田も、疑問に思ったことを口にした。

 

「それで、今はもう、その人たちはいないんですよね」

「ああ。何千年も前の話だ。最後の大戦で散ったとも、長き眠りについて目覚めの時を待っているとも言われている。私としては、少しでもいいからその御姿を拝見したいものだ」

 

 宗教の様なものだろうか。下田は、自分達との感覚の違いを認めた。普通、そんな昔に生きていた人々のことを、深く考えたりはしない。実在するかどうかもわからない、所謂神様みたいな存在だ。

 

「だから、構わなくていいって言ってるじゃないですか!」

 

 突然そんな叫び声が聞こえて、下田達は全員その方向へと振り返った。

 狼狽えるグンダに向かって、新宮が睨みつけている。はっきりと怒りをにじませているその表情は、彼女の性格から考えて非常に珍しいものだった。実織も、困惑した様子でそれを眺めている。

 周りの注目に気がつき、新宮はグンダから視線を切った。

 

「済まぬ。何か不快にさせたのなら」

「やめてください。そういうところです」

 

 そう吐き捨てて、焚火から離れていく。彼女の後を実織がついていった。その言い争いの間に挟まれていたイリーナは、グンダに気遣うような視線を向けた。

 何があったのかはわからない。ただ、新宮は初めからグンダとの折り合いが悪いように感じた。当たり前と言えば当たり前だ。下田も、あの巨体を前にすると身がすくむ。何せ、一度殺されているのだから。悪い者ではないのは、もうわかっているのだが。

 結局最後はすっきりしない気分で、休息は終わった。今まで歩いてきた時と変わらない隊列で、地下牢を進む。

 間もなく、かなり開けた場所に出た。上下に広い空洞のようで、一番下は沼地になっている。決して心地よいとは言えない臭いが、あたりに充満していた。

 

「ここからが、罪の都だ」

 

 イルシールにほぼ隣接している、巨人ヨームが治める国。治めていたと言ったほうが正しい。ここの住民はほとんどが死に絶え、正気を失った神官や化け物しかいないという。

 中央にある党の部分に向かって、まずは崖を降りていくところから始まった。比較的軽いローブ姿の下田でもかなりの苦労をするのに、鎧を着たジークバルドやグンダ達はなんて事のないようにこなしていく。

 やっとの思いで下まで辿り着けば、今度は石造りの悪魔が襲ってきた。ガーゴイルだ。飛び回り、高所から炎を吐いてくる厄介な敵だったが、これもすぐに処理された。はっきり言って、この十倍の数が襲ってきたとしても、ジークバルド達が負けるとは思えなかった。

 決して難しくはない戦いの中で、生徒達も自分の仕事をしようとした。新宮や実織は敵の動きをうまく妨害していたし、ちとせは同時に出せるロープが四本に増え、ガーゴイルの手足の機能を完全に奪っていた。

 中でも、高坂の動きには注目をした。彼は三本の槍を背負っていた。そのうちの、中くらいの長さの槍を手に取ると、空から飛んでくる一匹に対して投げる。かなり勢いがついていたが、ガーゴイルはこともなげに避ける。

 高坂の力が発揮されるのは、ここからだった。空を貫いていた槍が急旋回すると、飛んでいる相手の石の身体に突き刺さる。そのまま止まらずに、高坂の手へとぴったり収まった。

 自分の投げた物を、自由に操作できる。高坂は、そういう固有能力を持っているようだった。槍を主に使っているのは、本人の好みなのだろう。前に適当な石を操っていたのを見たことがある。

 いったん戦闘が終わり、移動し始めると、高坂が近寄ってきた。

 

「ちょっといいか」

 

 先ほどまでの悩んでいる様子とは変わり、何かが吹っ切れたような顔をしていた。

 

「新宮と実織も、聞いてくれ」

 

 少し離れた所で歩いていた彼女達も、近寄ってきた。

 先ほどの話の続きだろうかと思っていると、いきなり彼は頭を下げた。

 

「俺が自分のことばっかり考えてたせいで、もっと早くに言うべきことを言えてなかった。エルドリッチが祭祀場に現れた時、助けにも行かなかったことを、謝りたい。言い訳をするつもりはない。俺は、ただ怖かっただけだ。我が身可愛さに好きな女も見捨てた。お前らには、恨まれても仕方がないと思ってる」

 

 長くはない戦闘の間に、高坂は様々なことを見つめ直したようだった。沈んだ負の感情はもう消えていて、ただ真摯に言葉をつないだ。

 

「自暴自棄になって、諦めるのは簡単なことだけど、高原に言われてわかった。上手くいくって信じないと、何もかも始まらねえ。邪魔になるかもしれねえけど、皆に協力させてくれ」

 

 もう一度深く、頭を下げる。

 立ち止まるわけにもいかないので、進みながら妙な間が空く。ジークバルド達は何も言ってはこなかった、これが生徒達だけで話すべきことだと、わかってくれているのだろう。

 

「とりあえずさ、」

 

 新宮が手を挙げる。

 

「高坂君の好きな人って誰?」

 

 ちとせが代わりにさっと答える。

 

「朱音。こいつ十年以上片思いしてんの。しかもこいつ中学の時―――」

 

 あとは先ほど下田にも話したことが繰り返された。真面目に謝っていた高坂は、微妙な表情になる。下田は少しだけ笑った。高坂が思っていたよりも物事を真剣に捉えていたのと、新宮たちの気遣いは見ていて悪くない気分だった。

 それからも何度か急な崖を降りることが続いて、何かと戦うよりも、移動の時間が多くを占めるようになった。加えて毒沼の臭気とこもった雰囲気が、体力の消耗を促進させる。下田には、ここがかつて都だったとは到底信じられない。それくらい、生の気配というものがなかった。

 やがて崖の間隔が狭くなり、襲ってくる敵の数もまばらになってくると、ようやく大きな建物の中に入ることができた。

 とはいえ、中も雰囲気は変わらなかった。設備はほとんどぼろぼろで、今も使われている蹴咳はない。壁際には金メッキの食器や置物が山のように積み重ねられていた。捨てられた場所。下田は、そんな印象を強く抱いた。

 敵の種類も変わる。白い法衣を纏った、神官達が対話の意思すら見せずに向かってきた。全員が、下田の二倍近くの身長なので、より不気味さが増す。ここで初めて、怪我人が出た。相手の使ってきた呪術の炎が、下田の左手を掠めたのだ。

 彼は焦りを何とか抑え込んだ。もっと酷い怪我をしたこともある、その時は何もできずに殺されたが、今回は奇跡を発動させることに成功した。火傷の部分へ光が到達し、痛みを和らげていく。

 とりあえず気持ちを落ち着けようと深呼吸をした瞬間、さらなる痛みが襲ってきた。今までの火傷とは種類の違う、手の芯にまで響くような不快な痛みだった。彼はたまらずその場に崩れ落ちた。

 異変に気付いたイリーナが、即座に駆け寄ってくる。彼女は、下田の手で蠢いている膿を認識すると、息を飲んだ。

 彼女の行動は素早かった。白い光の塊を作り出すと、下田の手を包み込ませた。放つ回復。さらにその上に、直接奇跡を施していく。

 

「すみません、急に…」

 

 痛みが和らいだことで声を出せるようになった。自分だけが足を引っ張っているという情けなさで、謝ることしかできない。

 

「いいえ、貴方のせいではありません。浸食の活性化頻度が、高まっています。これからも、何か異常があったら、すぐに言ってください。私も、できる限り貴方の傍にいるようにします。こちらこそ、申し訳ありません…。何か、もっと……。楽になるような方法を…」

 

 気を遣われているのがわかり、尚更やるせなくなった。イリーナは、治療役の要だ。元々重い彼女の負担をさらに増やすわけにはいかない。そこまでしなくていいと言おうとした時、彼女の身体が倒れかかってきた。

 突然の事で、受け止めきれなかった。全員の見ている前で、イリーナは地面に転がる。

 

「イリーナ!」

 

 ジークバルドが血相を変えて駆け寄った。下田もすぐに彼女の状態を確認する。額に汗をかき、目を閉じて、明らかに苦しんでいた。先ほどまでの戦闘で、何か怪我を負ったのだろうか。探してみても傷は何もない。

 とにかく奇跡の光を当てようとしたところで、大きな手が割り込んできた。

 

「無駄なことをするな」

 

 見上げれば、獅子兜の威容。イーゴンは、呻いているイリーナを冷たく見下ろした。

 

「奇跡なんぞ効きはしない。ただの、精神的な発作だ。この女の未熟さが招いた」

 

 どうしてそんなことを言うのかと、下田は反論しようとした。しかし、周りのジークバルド達が黙っているのを見て、その事実が正しいことを確認する。

 見れば、イリーナは片手で目を覆っている。そしてもう一方の手で、まとわりついてくる何かを払うように振っていた。

 

「どけ」

 

 太い腕が、下田を無理やり押しのける。イーゴンはイリーナの修道服をつかむと、その体ごと持ち上げた。イリーナはやんわりと抵抗するが、空中でもがく以上のことはできない。

 

「あの火守女が、薪になるとわかった時、お前は言った。一人で勤めを果たすと。それが、この体たらくか。亡者どもに与えてやれば、まだ少しは役に立つだろうな」

「そん…な、ことは……」

「使命を果たせないなら死ね。カリムの恥晒しが」

 

 彼女の首を絞めようとする手を、グンダがつかんだ。

 

「イーゴン、抑えるがいい。弱る女性を痛めつけることが、貴様の矜持か?」

 

 舌打ちをして、イーゴンは彼女を放した。大槌を抱え直し、一行から離れていく。

 

「どこへ行く気だ」

「その女が回復するのをここで待つつもりはない」

 

 建物の外へと出ていく。

 下田は、不安になってジークバルドに尋ねた。

 

「あの、追わなくて大丈夫なんですか」

「単独で巨人ヨームに挑むほど、彼は自惚れてはいない。今は、一人にさせるべきだろう」

 

 下田は少しだけ、イーゴンという男がわかったような気がした。彼は常に、何かに怒っている。それも燃え上がるような激情ではない。長い間積み重なったものが淡々とくべられているような、静かな炎がその奥底にある。

 目標は目の前というところで、イリーナの状態が落ち着くのを待つことになった。下田達がインベントリから毛布を取り出し、彼女の下に敷く。汗も出ているので、濡れたタオルも数枚必要だった。

 看ているちとせ達の様子を見てから、下田はカルラに向き直った。

 

「イリーナさんは、一体どうしたんですか?」

「奴の言っていた通り、精神的な、ものだ」

 

 それから、カルラは少し迷った後、話を続けた。

 

「彼女が、火守女になる時何をしたか。聞いているか?」

「いえ…」

「自分で両の目を潰したんだ。それも奇跡を使って。二度と再生できないように」

 

 イリーナが盲目であることはすぐにわかる。しかし、目自体に何の外傷もないのは不思議に思っていた。つまり術で内部から施したということなのか。

 

「火守女には、あるものが必要とされる。終わることのない、闇に耐え得る精神だ。闇は深淵を産み、深淵は闇を産む。その恐怖は尋常なものではない。イリーナは、そういったものを受け入れるには少し、優しすぎた」

 

 その時、カルラが彼の左手を一瞥したのに、気がついた。下田は思い出す。自分の腕の膿を処置する度、イリーナが消耗していたのを。もしかしたら、この膿も、彼女の精神に影響を与えていたのかもしれない。だとしたら。

 

「僕の、これを治したから、今イリーナさんは苦しんでいるんですか?」

 

 カルラは目を見開く。

 

「そんなことはない。どうしてそんな考えになる」

 

 言葉とは裏腹に、彼女は目を合わせてこなかった。自分にも責任の一端があると知った下田は、イリーナの方に向かおうと心に決める。

 

「待て、何をする気だ」

「無駄なことは、ないと思うんです。少しでも苦痛が和らぐのなら、やってみる価値はあります」

 

 タオルを替えているちとせの横に座り、下田は奇跡を発動させた。どこにすべきか逡巡したのち、光を閉じられている両目に当てる。強くなり過ぎないように気を付けた。彼女を苛む、闇を紛らわす程度でいい。

 ほとんど藁にも縋る気持ちだったが、イリーナの呼吸が落ち着いたのを見て安心した。傷を治すのが奇跡の本分とはいえ、やはり心にも多少作用はするようだ。これをずっと続ければ。下田はさっと額をぬぐった。彼女の回復も、早まるだろう。

 

「…モダ、さん。すみま…せん……」

「こういう時こそ、力にならせてください。イリーナさんには、助けられていますから。他に何か、僕にできることはありますか」

 

 沈黙が長く続いた。奇跡に集中しながら、ゆっくりと待つ。ジークバルド達は離れた所で、見張りをしてくれていた。敵地ともいえる場所で、静かな時間が流れていた。

 イリーナの口が、わずかに動く。

 

「手を、握ってくれませんか……? それで少しは…楽になると、思います……」

「もちろんです」

 

 下田は膿のない右手で、彼女が伸ばしてきた手を握った。震えているのがわかる。優しくずらして、奇跡の光の範囲に入るようにした。彼女は深く呼吸をする。その苦しみを少しでも和らげるように、全力を尽くしたいと思った。

 しばらく続けていると、今度は別の問題が出てきた。

 頭の芯が痛んでくる。額を伝う汗をぬぐう余裕すらなくなってきていた。光が時折明滅した。術の発動が不安定になっている証拠だ。

 それほど時間が経っていないというのに、気力が限界に迫っている。自分自身の能力の低さに驚いた。初めから、術を持続できる力はほとんど成長していない。このままでは間もなく奇跡が保てなくなるだろう。休憩は、十分とっていたはずなのに。

 思わず弱音が漏れそうになったところで、横から手が添えられた。そして下田のものよりも輝きの強い光が広がっていく。

 見れば、新宮が傍に座っていた。

 

「私も手伝うよ」

「ごめん。ありがとう」

 

 彼女は、魔術も奇跡も彼よりはるかに高い技術を持っていた。頼りになるし、こういう時は本当に助かるのだが、下田は少しだけ悔しかった。

 それからは、交代でイリーナを看た。休んでいる間も、彼女の様子に注意を払う必要があった。苦しみ方には波があるようで、酷い時には体が勝手に動いて、奇跡の範囲から外れてしまうこともあった。

 そして状態が少し回復すると、イリーナは涙を流して何度もこちらに謝ってくる。

 

「すみません…」

 

 うわごとのように繰り返されるそれを、聞く方もやるせなかった。そんなことはないと否定すると、もっと辛そうに表情を歪めて、嗚咽を漏らした。

 

「私は……貴方達に…。許してください…。ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 その懺悔に下田は妙なものを感じた。細かくは説明できないが、彼女は夢想の世界に居るようだった。どこか別の誰かに謝っているような。

 新宮はイリーナの涙をぬぐった。

 

「大丈夫ですよ。ちゃんとわかってます。安心して眠ってください」

 

 慰めている彼女もまた涙目になっているのを見て、下田は自分の仕事に集中しようと気持ちを切り替えた。弱っているイリーナの姿は、病院にいた母の事を思い出させた。

 

 

 

 

 イリーナが回復したのは、それから二日たった頃だった。途中多く休める時間はあったものの、これほど長く奇跡を断続的に使うのは初めてだったので、後半の方はあまり覚えていない。ただ同じく疲労した様子の新宮と一緒に、抱きしめられたことは覚えている。

 さらにもう一日で全員の体調が整った後、巨人ヨームがいるという玉座へと向かうことになった。巨人とだけ訊くと、何やら無謀な戦いの様な気もする。もしかしたら、自分も頑張らなければならなくなるかもしれないと、杖を抱え直した。

 

「そんなに気張る必要はないぞ」

 

 カルラが言ってくる。彼女は前を見ていた。正確には一番先を行くジークバルドを。

 

「私たちが全員戦う必要はない。そして、すぐに終わるだろう」

 

 玉座の間は、案外近かった。中に入ると今までよりも装飾の濃い空間が広がる。その一番奥で、天井に届きそうなほどの体躯の男が佇んでいた。グンダよりもはるかに身長が高い。下田の身体の何倍もありそうな大きさの鉈を持ち、こちらを見てきた。

 その威圧感で、腰を抜かしそうになった。初めて、グンダと相対した時よりも、嫌な感じが全身を駆け巡る。逃げても、何をしても、あっという間に殺されそうな気しかしなかった。

 巨人は、突然大きな唸り声をあげる。とても正気を保っているとは言えない声だった。体の奥底まで揺れているようで、下田は一歩後ずさる。

 一方で、ジークバルドとグンダは前に歩いていった。ヨームが床を踏み鳴らし、迫ってくる。ジークバルトが剣を抜いた。いつも使っているものとは違う。ぼろぼろの布切れが柄に巻かれていて、刃も傷だらけだ。

 ヨームが鉈を振り下ろす。二人は違う方向へと飛びのいた。グンダは巨人のすぐそばをかいくぐり、玉座の方へと疾走した。

 戦うのは、二人だけなのか。彼ら以外誰も動かないのを見て、不安になった。あの二人は確かに強いが、あんな怪物に勝てるのだろうか。

 そんな疑問は、すぐに杞憂に終わることになる。ヨームの攻撃をかわしながら、ジークバルドが構えに入っていた。剣先を相手に向け、自分の顔の右上に掲げている。まるで何かを打ち出すようなしぐさだった。

 そして反対側で、グンダも剣を引き抜いた。玉座に突き刺さっていたものだ。見た目は、ジークバルドの持っているものと全く同じだった。

 二人は同時に、剣から何かを打ち出す。それは、風の塊のようだった。渦を巻きながら、目に見えるほどの激しさで、ヨームに向かっていく。意志を持った嵐。下田は、そんな印象を抱いた。

 体に炸裂すると、巨人は明らかに苦しみと取れる声で、叫んだ。鉈を下ろし、その場で膝をついた。

 

「まだだ。下がっていろ」

 

 カルラの警告が正しかったことを、すぐに知る。

 ヨームはすぐに立ち上がり、鉈を構えた。それだけではなく、全身が赤く燃え始めた。見た目以上に、そのうちにある何かが変わったのだと、下田も理解する。

 

「グンダとジークバルドを守れ」

 

 それからの攻防は、参加をしなかった下田から見ても、圧巻としか言いようがなかった。相手の注意を反らすため、カルラとシーリスが魔術を使う。彼女たちに攻撃がいかないよう、イーゴンとフォドリックが巨人の動きを妨害していた。

 その強さよりも、あんなに大きい相手へ立ち向かう精神が、信じられなかった。下田も含めた生徒たちは、動くことすらできないというのに。

 やがて再び嵐が放たれて、受けたヨームはその場に倒れた。今度は、もう二度と立ち上がる気配はない。誰一人として大きな怪我を負うこともなく、薪の一つが手に入った瞬間だった。

 終えた戦士たちがこちらに戻ってくるが、ジークバルドだけは残っていた。

 

「移動します。篝火を灯さなければ」

 

 イリーナがそう言ったのに対して、下田は疑問を返した。

 

「ジークバルトさんは…」

「一人にしてやれ」

 

 カルラが首を振る。ヨームの死体のそばにいる彼を一瞥した。

 

「かつて、彼とヨームは友だった。お別れをさせてやるんだ」

 

 そこには、下田の知らない領域の事情があった。知りたくはあるが、不用意に踏み込む話でもない。ただ、いつも明るいジークバルドの意外な一面を見たのは確かだった。薪を得るということはその所持者を殺すこと。初めから友を殺さなければいけないことを、覚悟していたのだろうか。

 もはや敵のいない広間で、イリーナの儀式が始まる。内容はファランの城壁でしたものと変わらなかった。祭祀場へとつなぐ道を作る。今回の旅も色々あったが、下田は多少の慣れを感じていた。

 儀式が終わった直後、自分の身体から微かな音が聞こえてきた。鈴の音だ。不思議に思って白い鈴を取り出してみると、それはひとりでに揺れていた。手に取ると、いきなり耳元で声がしてくる。

 

『周りに誰かいるのなら、移動をしてください。一人になるよう、お願いします』

 

 下田は慌てて周囲を見たが、この声が聞こえている者はいないようだった。これが、音送りという魔術の効果なのだろう。重要な話をする時に有用というわけだ。

 作られたばかりの篝火から祭祀場へと戻った彼は、すぐさま自分の部屋に向かった。その行動の早さに、ちとせが疑いの目を向けていたが、弁明をする余裕はない。ヨルシカとの話は、それだけ重いのだ。

 

「一人になりました。大丈夫です」

 

 鈴から、わずかに呼吸が聞こえる。乱れているというほどでもないが、明らかに疲労のこもったものだった。

 

『そうですね、まずはシモダさんの方に訊きましょうか。巨人ヨームの薪は手に入れられましたか?』

「はい。正直、僕はもっと苦労するかと思ったんですが。ジークさん達があっという間に」

『彼らは、入念な準備をしていました。つつがなく成功して、良かったです。それで…、他に何か、ありましたか?』

 

 詳しく説明されずとも、何を訊かれているのかはわかった。道中の全員の様子を思い返しながら、なるべく憶測が混ざらないように話す。

 

「この人が怪しいだとか、そういうのはまだわかりません。でも、イリーナさんが倒れました。その時に、えっと、イーゴンさんがちょっと行き過ぎた行動をして…」

『カリムにおいては、聖職者にかならず定められた騎士が一人就くという決まりがあります。イーゴンは、その自らの責務にのっとって、イリーナにもしかるべき行いを求めているのでしょう。それで、何もかもが許されるというわけではありませんが。彼らの事については、私も踏み込みあぐねています』

 

 祭祀場の者達同士でさえも、理解の及ばないところがあるのは確かだった。聞いた話限りでは、彼らの出身はばらばらだ。同じ目的の下に集まっているとしても、互いに遠慮は必ずあるのだろう。

 

「ヨルシカさんの方は、どうでしたか。法王の城に少数で行って。大丈夫、だったんですか?」

『こちらも目的は達成しました。ただサリヴァーンを追い込みはしたものの、最後の最後で逃げられてしまいました。ですがもう、彼に王としての価値はありません。イルシールの制圧は完了したと言ってもいいでしょう』

 

 下田には、そのサリヴァーンという名の法王も、イルシールという国がどれだけ難攻であるかもわからないが、それでもヨルシカが自らの能力をいかんなく発揮したということはわかった。

 

「そちらも、異常はあったんですか? 例えばその、仲間内になにか」

『いえ、特には。皆それぞれ私を全力で支えてくれました。正直、謎は深まるばかりです。人食いに通じている者がいるとはとても、思えません』

 

 下田も同感だった。今回、得られたことはほとんどない。もちろん薪の一つが手に入ったのは大きな前進だ。しかし、これからその内通者がいつ行動を起こすかを心配しながら、先へ進んでいくというのは危険が大きすぎる気もする。

 

『一度、会って話しましょう。どうするべきか、共に考えなければ』

「そうですね。僕も、なるべくヨルシカさんの負担を減らせるように、頑張ります」

 

 心の底からそう思い、言い切った。鈴の向こうは少しの間静まり返り、やがてわずかな笑い声が漏れ出してきた。

 下田は心配になり、おずおずと尋ねる。

 

「えっと、何かおかしなこと言いました…?」

『いえ、すみません。何もおかしくはありませんよ。ただ、やはり誰かと共有するのは大事ですね。貴方のおかげで、こちらもだいぶ楽をしています』

 

 素直な感謝に、言葉が詰まる。

 それからしばらく沈黙が続き、もしやもう接続が切れているのかと思い始めた。その時、あ、とヨルシカは何かを思いついたように声を出した。

 

「最後に訊きたいことがあります。それなりに、個人的な質問になりますが」

 

 後半の方は、やや尻すぼみになった。何だろうと思い、下田はすぐに答える。

 

「大丈夫ですよ。どうぞ」

『では…』

 

 深く呼吸するのが聞こえた後、言葉を発した。

 

『エルドリッチが祭祀場を襲った時、私は大きな怪我を負いました。その時、記憶している限りにおいてですが、貴方は、私の身体を見ましたね? あれを見てどう、思いましたか?』

 

 彼女にしては珍しく、所々つまらせながら訪ねてきた。この質問をするのに、かなりの勇気がいることはうかがえる。

 だがそれ以上に、下田の動揺も大きかった。まさか、本人からそのことを言われるとは思いもしなかった。一度頭が真っ白になった後、とにかく何かを答えなければという思いだけが頭に浮かぶ。

 

「あ、あれっていうのは、えっと、つまり」

『私が……竜の血を引いているということは知っていますね。その特徴が、表われている部分です』

 

 つまり、尻尾だ。あの白く細い形状を思い返す。ヨルシカの気まずそうな息遣いが伝わってきた。

 どう答えるのが、正解なのだろう。回りきらない頭で必死に考える。ヨルシカは、おそらく裸を見られたという羞恥の意味で訊いてきているわけではない。だから、正直に、心の中で思ったことをそのまま答えても問題はないはずだ。

 唾を飲み込んでから、思い切って下田は言った。

 

「綺麗でした。僕は、ああいうのを見るのは初めてでしたが、その、ヨルシカさんにとてもよく似合っているなって、そう、思いました」

『綺麗…ですか? 貴方はあの姿を見て、嫌悪を感じないのですか』

 

 信じられないという口調だった。その伝わってくる考えに少し悲しいものを感じて、彼はなるべくはっきりと言葉を返した。

 

「少しも、感じませんでした。それは多分、ヨルシカさん自身のことを知っていたからだと思います。偏見なんかでその人の性質を決めるのは、良くないことですから」

 

 今度こそ、長い沈黙が永遠に続くかと思われた。時間が空いてくると、下田は自分の発言に何か失礼はなかったかと考え始める。もしかしたら、軽蔑されたかもしれない。そんな恐れまで抱き始めた時、ヨルシカの声が戻った。

 

『そんなことを…、言ってくれたのはあなたが初めてです。ありがとうございます』

 

 何かを抑えつけるように、語尾が震えていた。やはり彼女も、血のせいで差別を受けた過去があるんだろうか。今の地位につくのだって、きっと並々ならぬ苦労があったんだろう。

 

『こんな質問をして、困らせてしまったでしょうね。この話は、忘れてください。……とりあえず、私がそちらに戻ったら、前と同じ場所で話し合いましょう。次の目的地、ロスリック城についても伝えたいことがあります。集まる時は鈴で知らせるので、よろしくお願いしますね』

「はい」

 

 これで話が終わったと、下田は鈴を置こうとした。

 

『シモダさん』

 

 まだあるのかと慌てて持ち直す。勢いよく鈴に耳を近づけたものだから、彼女の声が、より身近で聞こえてきた。

 

『貴方とのお話は、励みになっています。直接会えるのを楽しみにしていますね。とても』

 

 こちらが何かを返す前に、向こうから何も音がしなくなった。鈴をベッドの上に置いた下田は、頭を抱えると、床に転がる。首筋がそわそわしているような感覚で落ち着かなかった。今誰かが入ってきたらとても困るだろう。真っ赤になっている耳や頬を見られて、何を思われるのかもわからない。

 余韻がやっと収まってきたころ、彼は別の心配に囚われた。こうして、薪を集めていくということは、最後には避けられない戦いがやってくるだろう。つまり、先生を相手にしなければならないのだ。 

 そうなった時、自分は何を考え、相手に何を言えばいいのか。終わりのない思考をしながら、天井を見つめていた。

 

 

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