頬に違和感を感じたのは、戦闘が終わった直後のことだった。液体が皮膚を伝い、垂れ落ちていく感覚は、一つの事実を示している。
「タカキさん、血が…」
アンリに指摘されて、彼は自らが怪我をしたことを、ようやく自覚した。鋭い痛みもやってくる。久しぶりの感覚だった。全く、歓迎する気にはなれないが。
ロスリック城壁に侵入すること自体は、容易だった。クリムエルヒルトの転移網が一瞬で彼らを運んだ。だがそこで、待ち伏せに遭うことになる。転移した先は中規模の個室になっていたが、ロスリックの騎士達が待機していたのだ。
それで不意をつかれることはなかった。事前にクリムエルヒルトが警告していたからだ。この「道」は本来ロスリック側が使うもので、敵に利用されることも想定されているのだと。
騎士たちとの戦闘で、危ない場面はなかった。今まで戦ってきた雑兵よりも手強いが、今の貴樹達に適う道理はない。ただ敵は追いつめられると、全員自分の武器に雷を付与してきた。これは切れ味が増すというだけではなく、予測しづらい斬撃をも生み出していたのだろう。完璧にかわしたと思ったら、頬をかすめていたようだ。
(これは…どういうことだ? おいノミ、残り火が切れたのか?)
『そうじゃねえ。お前の首から上の防御だけが、普通に戻っちまってる。残り火を大量に消費した代償だ。力が、全体に行きわたらなくなってる』
(ふざけてんじゃねえぞ。じゃあ、首飛ばされたら俺死ぬだろ。戻せ)
『無理だ。穴を埋めようとすれば、また別のどこかが無防備になる』
(それでいいだろ。なんでよりにもよって急所が集まってる場所ががら空きになるんだよ。もっとどうでもいい部分があるだろ。馬鹿か?)
『あのな、それじゃあ訊くが。他にどうしろっていうんだ? 例えば、足の防御をそっちに回したとする。いいか、まともに戦えなくなるぞ。今のお前の武器は足だ。相手の鎧を蹴り砕く力はあっても、足自体に相応の耐久がなければ、一発で肉も骨もぼろぼろになるぞ。胴体の部分だって、一番刃が向かう場所だ。ないがしろにはできない。それなら、一撃でも入れられたら終わる部分を晒した方がましだ。足と頭は離れているから、攻撃への影響も少ない』
(ち、使えねえ)
頬の切り傷は大したものではない。ただ、奇跡で治すこともできない。今の貴樹は一度大きな負傷を負っただけで命はないのだ。以降は頭を最優先で守る戦い方をしなければならないだろう。
攻撃の方にも明らかな衰えを感じていた。たまに、相手を一発で仕留めることができない時がある。前よりも自分が遅くなっている感覚。代わりに敵の動きは速くなっているようにも思える。
意識を失っているゲルトルード以外全員が、貴樹を見ていた。内心の動揺を気取られないように、彼は表情を作る。何も、倒せる敵が倒せなくなったわけではない。今、祭祀場の戦士たちを全員相手することになっても勝つ自信はあった。もう、彼らをなるべく傷つけないようにするという方針は捨て去る必要はあるが。
扉から外に出ると、すぐに魔術が飛んできた。壁の上で杖を持った騎士達が左右に展開している。貴樹たちは一か所に固まらないように散開して、敵の攻撃をかわした。待ち伏せが一度だけとは限らない。早く処理しなければ、結局ロスリック中の騎士達を相手にしなければならなくなるだろう。
あらかた倒し終えると、今自分たちがいる場所がどこなのか、確認を始める。場内ではないことは確かだ。木や草が生えていて、かなり開けた場所になっている。
「庭か」
「その通りです。先代の王が作らせた場所だと言われています」
クリムエルヒルトの言葉で、ここが妖王の庭であることを理解した。おそらくエンマがいると考えられる本城まではかなりの距離があるだろう。ならば、先にここで済ましておくべきことに対処した方がいい。
貴樹は後ろへ振り返った。遠目に、大きな聖堂らしき建物がある。
「あそこへ行こう」
「城とは、反対の方向ですが」
皆の方を向く。ぼやけた視界の中で、ほぼ全員がやや顔をそらしたのに気がついていた。今の自分の両目がどんな状態になっているのかは想像できる。何か覆いでも必要だろうかと考えながら、自分の目的を口にした。
「挨拶しにいかないと。お義父さんに」
聖堂内に入ると、中の異様さがすぐ目に入ってきた。酷い有様だ。床や壁はまったく手入れされていないようで、かつては持ち主の威厳を保っていたであろう装飾もほとんどが剥がれ落ちている。そしてあたりに漂う異臭が、ここをおぞましい場所に変えていた。
貴樹は聖堂の一番奥でうずくまっている異形に、始めから注視していた。もう少し近づこうとしたところで、フリーデが制止してくる。
「様子を見た方がいいのでは?」
「いや、大丈夫ですよ。皆さんは、ここで待っていてください。何かが起きたととしても、僕一人で何とかします」
何よりも自分自身がそうしたいのだと強い意志をこめて言うと、フリーデは下がった。他の者たちも止めたがっているようだったが、実際に行動に移すことはない。
相手の形がよくわかるまで接近すると、貴樹は呼びかけを始めた。
「いきなり踏み込んできて、すみません。今回僕が伺ったのは、礼を通すためです。この度、貴方の娘を
距離からして、確実に聞こえているはずだった。しかし竜の頭と尻尾を持ったかつての王は、手に抱える肉塊に頬をすり寄せているだけだった。
貴樹は下唇をすぼめてから、もっと大きな声で言った。
「先王オスロエス。受け入れがたい提案なのは分かっています。自分の子ですもんね。どこの出身かもわからない若輩者に託すのは心配でしょう。ですが、安心してください。僕は貴方みたいな屑のような親よりも、はるかに多い愛を彼女へと注ぐ気概でいます」
足元に転がっている小石を蹴り上げる。天井に当たり落ちてきたそれを前へと再び蹴った。オスロエスの手ごと肉塊を貫通し、黒い血が飛び散る。
その時初めて、相手は反応を示した。破壊された肉塊を見て、全身を震わせる。直後で得てきた叫びは、こちらの耳に突き刺さるほどの悲痛と狂気を備えていた。傍らにあった杖を異形の手で取るとゆっくりと立ち上がる。
「それはオセロットじゃないですよ」
(ただのゴミだ)
キヒイイイイイイイと吠えて、オスロエスは飛び上がった。自分の息子の名前を叫びながら、貴樹めがけて降ってくる。そこには見る者と戦慄させるような強い憎悪が滲み出ていた。
(俺が憎いのか)
彼も同じ気持ちだった。オスロエスは、ロスリック王家の異種交配の被害者だとも、竜崇拝の末あのような姿になったとも言われている。彼も火継ぎの狂気の被害者というわけだ。しかし同時に、ゲルトルードの記憶の中では異種交配を行った加害者でもある。
半歩左に体をずらしてから、貴樹は小さく飛び、相手が降ってくるタイミングに合わせて、足をふるった。両者が衝突し、オスロエスの胴体から左足が突き出る。
「僕、子供持ったことないからわからないんですけど」
肉を大きくえぐりながら、足を引き抜く。血を吐きながら、相手は翼をはためかせた。逃げようとしている魂胆を見抜き、すぐさま両翼をもぎ取る。先ほどとは性質の違う、苦痛にまみれた叫びがこだました。
「自分の子を幸せにできない時点で、親に生きる資格なんてないと思うんですよね。彼女、子供のころはさぞ愛らしかったんでしょう。羨ましいなあ。お前じゃなくて、僕が育てれば良かった。そう思いません?」
すでにオスロエスは虫の息だった。それでも貴樹はとどめを刺すことなく、両手足と尻尾を順番に潰していった。薄い呼吸をしている顔を足で無理やり持ち上げると、ゲルトルードの方へと曲げた。
「何か、自分の娘に言い残すことはありますか?」
「…オセ」
足に力を入れて、首を飛ばす。落ちてきたそれを、もう片方の足で踏みつぶした。伝わってくる肉の感触は、ただただ気持ち悪い。もう動かない胴体部分に唾を吐きかけて、貴樹は踵を返した。
(お義父さんの許しももらえたし、あとは本人の合意を取るだけだな)
『容赦ねえな』
(相応の報いだ)
すっきりはしたが、妙な気分が残っていた。今まで何かを憎いと思ったことはある。むしろ、日本にいたことは毎日そんな感情があった。だが、今のこれはそれらとは何かが違う。彼女に関わることとなると、感情のコントロールがやりづらくなるようだ。
もっと余裕があったのなら、聖堂からいける無縁墓地の探索もしたかった。おそらくではあるが、あの場所はかつて薪の王たちの遺体を祭っていた可能性がある。火継ぎを理解する上で、大きな手掛かりが見つかるかもしれない。
城内へと向かう道中、貴樹は時折さりげない気遣いを、周りの者達から受けた。オスロエスの時は例外として、なるべく彼に戦闘をさせないようにする動きがある。
ロスリック城周辺は敵の周辺に備えて、城壁を回っていかなければ中へと侵入できない作りになっている。途中、何度も襲撃を受けた。そのたびに今までとは事情が変わっていることを感じた。絵画世界の時よりも、皆の連携が強固になっている。貴樹を支えるという共通の目的があるからだろうか。新しく加わったフリーデがうまく立ち回っているおかげでもある。そこは意外だった。彼女が集団戦に慣れているとは思っていなかったからだ。
そして、書庫へと続く大橋へとたどり着いた。本城部分へは、大書庫を通る必要がある。
橋を渡りながら、貴樹は怪訝に思っていた。
(竜狩りの鎧が来ねえぞ。つまんね。あいつと戦うの楽しみにしてたのになあ)
『ありがたいと思うべきだろ。今、強敵と戦闘してる時間なんてないんだし』
(わかってねえな。お楽しみは必要だろ)
『楽しみ? お前、今の状況でよくそんなこと考えられるな。他の奴らは真剣だぞ』
(え、じゃあ訊くけど、お前は楽しくないの?)
『は?』
(俺はずっと楽しいぜ。この世界に来てからずっと)
貴樹は向かう先の扉をいとおしげに眺めた。
(地球なんかより、よっぽどましだ。あれに住んでるゴミに比べれば、オスロエスの方が可愛いとも言える)
『つくづく思うが、お前を理解するのは難しい』
(もっと余裕持てよ)
書庫内にも、敵はいた。頭がろうそくの蝋で固められている術師たちがいた。彼らがどのようにして正気を失ったのかは知らないし興味もないが、彼らにさえ貴樹は楽しみを見出していた。
城壁を巡っていた時ほどは、警戒網が薄いようだった。比較的短い時間で、周囲に危険はほぼなくなった。もとより、ここは書庫だ。本城への重要な侵入口ではあるが、戦闘の雰囲気にはそぐわない。
さっさと駆け抜けようと思った所で、背中にゲルトルードの手が触れた。顔だけ後ろに向けると、彼女は動き出し、きょろきょろと左右を見ている。意識が、完全に戻っているようだった。
「大丈夫かい?」
歓喜で声が震えかけた。何か手を施さなければ、ずっと眠ったままの可能性もあったのだ。彼女は貴樹の方を向くと、不安そうに手をずらした。
「わたし、おかあさまのところにいたのに。だれ? くらくて、こわいよ」
◆
書庫内に、とどまることになった。ゲルトルードの状態が落ち着くまで、休む必要がある。貴樹の意見に、反対する気は起こらなかった。
「くそ…」
ただ待つというだけではもったいないと、書庫内の探索を手分けすることになったのは、自分にとってはありがたかった。さすがにもう、抑えるのが難しくなってきていたからだ。
ホークウッドは近くに誰もいないことを確認して。書棚に体を寄りかからせた。口を両手で抑え、低く咳き込む。収まった後の手を見れば、血の塊がべったりとついていた。
足音が近づいてきたので、慌てて手を拭い、書棚から離れた。
「何か、めぼしいものでも見つかった?」
ミレーヌが数冊の本を持ってきた。どれも年季の入ったものだ。その上表紙に書かれている文字は理解できるものではなかった。古のものだろう。
彼女はパラパラと適当にめくりながら、ホークウッドの隣に座った。
「まるで理解できない。読めないものを置いておく意味なんてあるのかな」
「ここの王家は、歴史を重んじてるんだろうな」
平静を装って答えたつもりだったが、彼女を欺くことはできなかったらしい。発言の途中から、怪訝そうに視線を向けてきた。小さく鼻で呼吸をすると、目を見開く。
「血のにおいがする」
何かごまかしを言う前に、手をつかまれた。無理やり裏返される。薄く血のこびりついた部分を見て、ミレーヌは睨んできた。
「血を吐いたの? 隠してるつもりだったかもしれないけど、貴方の体が限界なくらい、一緒に戦っててすぐにわかった。もう、意地を張るのはやめましょう。皆に、タカキに相談しないと。何か、治す方法を見つけようよ」
言葉の後半からは、表情を心配そうに曇らせて、こちらの身を真摯に案じてきているのが分かった。
「だから、言っただろ。これは、治せるものじゃない。受け入れるべき代償だ」
「でも、それでホークが死んじゃうのは、嫌だよ…。私は、諦めない」
「タカキにだけは、言うな」
ミレーヌが驚く。
「どうして。あの人なら、ちゃんと考えてくれるかもしれないのに」
「それでまた、あいつに何かを背負わせるのか?」
ホークウッドは思い返す。今の貴樹は、正直動いているだけでも奇跡だ。両腕が失われ、視力もほとんどない。信じられないのは、戦闘においては弱くなるどころか、変わらず自分達の中から率先して動いていることだった。動きに無駄がなくなったのか、前よりも強くなっていると錯覚しかねない。脱帽するほかなかった。
「あいつは、もう十分すぎるほどよくやってくれている。これ以上、心配事を増やさせたくねえ。今優先すべきなのは、ゲルトルードだ。それでいい」
「じゃあ、私が何とかする」
「駄目だ」
「私は、ホークが最優先なの!」
「それでも、駄目だ」
ホークウッドは手を彼女の肩に置いた。興奮して立ち上がろうとしていたが、彼の顔が近づくとおとなしくなった。
「もう、いいんだ。頼む、そばにいてくれ。俺にはそれだけでいいんだよ。十分なんだ」
彼女が苦しんでいるのを見るのは、嫌だった。それなら、残された時間をずっと楽しく過ごした方がいい。そんな思いを込めて言うと、彼女は手を握ってきた。また、目に涙をにじませている。からかおうとも思ったが、そういう雰囲気でもない。
それに、第三者が見ているのに、気がついていた。
「ゲルトルードの調子はどうだ?」
ばっとミレーヌがホークウッドと同じ方向を見た。そこには、クリムエルヒルトがにやにやしながら立っていた。
「異常なしよ。断言はできないけどね」
「いつから、そこに」
「貴方が彼のことを最優先なのって、情熱的に言ったところからよ」
ミレーヌが嫌そうに顔をしかめる。
「何しに来たの。私たちに用でも?」
「別に。様子を見に来ただけ。もう行くわ」
つまりは、からかうためだけに来たということだろうか。しかし、ホークウッドは何となく不思議に思った。いつもと、彼女の様子が違う気がしていたからだ。ロスリックに来てから、ずっと何かに気をとられているようだった。
去ろうとしている彼女に向かって、疑問をぶつける。
「お前、大丈夫か?」
足を止めて、クリムエルヒルトは顔だけ振り返ってくる。
「なに?」
「なんでそんなに緊張してんだ? 最近変だぞ」
彼女は鼻を鳴らした。
「意味が分からないわ。私の気を引きたいなら、もっと上手くやることね。それに、人のこと言えないんじゃない。貴方、もうすぐ死ぬんでしょ? 誓約破りの副作用って、そんなに重いのね」
やはり、途中からではなく、始めから自分たちの話を聞いていたらしい。いや、彼女のことだ。絵画世界での話も実は知っていた可能性がある。そう冷静に受け止めたホークウッドとは違い、ミレーヌは勢いよく立ち上がった。
「知ってたの?」
「偶然よ。だって貴方たち結構大きな声で話すものだから。安心して、誰にも言うつもりはないから」
「そういう、ことじゃなくて」
そこから先に続けるのを、ミレーヌは躊躇っているようだった。クリムエルヒルトがまた去ろうとしているのを見て、覚悟が決まったように言う。
「ホークを、助ける方法はない? 貴方は、魔術や呪術に相当詳しい。なにか、解決できる術を知っているんじゃないの」
クリムエルヒルトの目が、子供を相手しているようなものに変わった。
「驚いたわ。嫌われていると思っていたんだけど。助けを求められるとは」
「聞いてたんでしょ。私はホークの命が一番大事なの。そのためなら、何でも利用するつもり」
「生憎だったわね。私は、誓約に干渉できる術なんて知らない。その男の傷は奇跡で治せる性質でもないし。役には立てない」
きっぱりと言い切ると、彼女は今度こそ離れようとした。が、階段を下りていく手前で立ち止まる。
「誓約の問題を解決できるのは、誓約主だけ。私には無理」
その言葉にはからかいの調子は少しも含まれていない。ホークウッドには、それが謝罪にも聞こえた。力が及ばず、申し訳ないと。
「シフィオールスの死骸に許しを請えってか?」
「あの狼じゃなくてもいい。狼血の誓約を扱えれば、誰でも」
それ以上続ける事なく、クリムエルヒルとは階段を下りて行った。彼はミレーヌと顔を合わせる。彼女も、理解をするのに時間がかかっているようだった。狼血の騎士をまとめているのは太古の神狼の血を引く存在だ。シフィオールスのほかに、そんな狼がいるというのだろうか。
少なくとも、ホークウッドは知らない。
もっとクリムエルヒルとに細かく尋ねる必要があるだろうかと考えた時、隣のミレーヌがこちらを見ていることに気がついた。
「どうした?」
彼女は視線をさまよわせ、自分の中の記憶を探っているようだった。
「私、会っているかもしれない。あれは、シフィオールスじゃなかった」
そうして彼女が話し出した事実は、到底信じられないものだった。
◆
貴樹は、子供が好きではなかった。正確には、小学生以下の子供が。彼らには知性が欠損していて、獣のほうがよほど理性的だと考えていた。自分がそのくらいの頃は、今とそう変わらない思考能力を持っていたと思っているので、なおさら嫌だった。
しかし、ゲルトルードをあやしているうちに、彼女に関してだけは、例外になっていた。
「おかあさまは、きてくれないの?」
「そうだね。とりあえず今は、ここで遊んでよう。僕は君のお母さんから、君のことを任されたんだ。タカキと呼んでくれ」
「タ…?」
「そう、僕はタだ。それでいい」
呂律の回らない口に、自分の一物をぶち込みたい衝動がやってきた。声帯や体は成熟しているが、精神がその状態にまるで追いついていない。貴樹はまともに会話をできるようになるまで、三度ほど彼女の泣き声を聞くことになった。興奮したので、良しとはしている。
どうやら、彼女は前よりも幼い頃の記憶で動いているようだった。エルドリッチのところへ行く前、ロスリックで暮らしていた時だろう。口ぶりでは王妃との仲はかなり良好だったらしい。
しかし、彼女が依然として暗闇に慣れていない点には疑問を感じていた。ゲルトルードの伝承と食い違っている。もしかしたら、彼女は王家の別の者である可能性もあった。ゲームでは存在していない、ロスリックの次女。貴樹としては、できればその説が当たっていてほしかった。
とにかく、今の彼女に正確な状況を判断する思考はない。彼は説明を諦めて、自分を王家関係の者だと信じさせることにした。
じっと、ゲルトルードを観察する。今は、何もおかしなところはないようだ。前に見たものは幻だった。そうだとしたら、どんなにいいか。貴樹は油断をしていなかった。もう少し休んだら、すぐにここを出るべきだろう。
彼女のそばにつきながら、書庫を見て回る。数冊手に取って読もうとしたが、文字を理解することはできなかった。タイトルをまじまじと見ていると、静かな声が聞こえてくる。
「魔術書も読むの?」
画家の少女は純粋に不思議がっているようだった。近づいてくると、少し背伸びをして、貴樹の持っている本を覗き込んでくる。
「というより、何かわからないから見てるんだ。ここに書いてある文字が読めるんだね」
「うん。たくさん教えてもらったから」
使えるな、と打算的思考を始める。ここにある本を全て調べれば、深淵に関することもわかるかもしれない。用事を済ませてから、ここに再び滞在するのもいいだろう。
本をしまってから、いつの間にかゲルトルードがいなくなっていることに気がついた。周りを見ると、彼女の姿が戸棚の陰に消えていくのがわかった。彼は追いかけながら、妙に思う。足取りがどこかおかしかったのだ。まるで、何かに吸い寄せられていくような。
大きな物音がするのも構わず、彼は素早く後を追いかけた。今は、彼女を一人にするのは危険だ。ここには、ただ本だけが並んでいるわけではないのだから。
三階に上がり、彼女が立ち止まっているのを見つけた。声をかけながら近づこうとした貴樹は、彼女の視線の先にあるものを認識する。
それはほとんど干からびた死体だった。服装と、残っている長い毛髪でかろうじて女性だとわかる。体格からして、幼い少女のものだ。長い銀髪が床に散って、かすかな光を反射していた。光は体の回りに広がり、何かの形を表していた。
羽だ、と思い当たった瞬間、貴樹はゲルトルードの前に躍り出た。
「見るな!」
彼女は頭を抱えた。その場で膝をつき、甲高い叫び声をあげる。普段の声からは想像もつかない、聞く者をぞっとさせる声色だった。とにかく距離を取らせようと、ゲルトルードの服の裾を咥える。
直後、じゅ、と耳元で音が鳴った。 光が通り過ぎたような気がしたが、あまりに一瞬のことだった。
手があったなら、やってきた耳の強烈な熱さの原因を無意識に確かめていただろう。だが、そんなことをするまでもなく、攻撃を受けたということはわかっていた。床に血がぼとぼとと滴り落ちる。
ゲルトルードはもう苦しんではいなかった。まっすぐ立ち上がり、その場で静止している。背中から薄い光の羽が生えているのを、貴樹の目は確かに捉えていた。
激痛に襲われながらも、彼女に向かって一歩踏み出す。ここで引けば、彼女が二度と手の届かない場所へと言ってしまうような気がしていた。しかしあと少しで触れられるというところで、腰を叩かれる。
「触れちゃだめ」
後をついてきていた画家の少女が、ゲルトルードを見ながら言った。その落ち着きようは、何が起こっているのかを正確に理解しているようだった。
「じゃあ、どうすれば――」
事態はそう長くは待ってくれないことを、すぐに理解した。ゲルトルードの背後から突然淡い光の塊が出現する。それはあっという間に彼女の全身を包み込んだ。貴樹はその光に見覚えがあるような気がした。そして何が起きようとしているのか分かった瞬間、迷いもせずにその光へと飛び込んだ。
「待って」
少女が腰に縋り付いてくるのを感じたが、構わず先へと進む。光が視界一杯に広がると、周りの光景は一気に変化した。
(外?)
城壁の上のようだ。先ほどの光は、クリムエルヒㇽトが転移の軌跡を使うときのものと酷似していた。つまり自分たちは誰かによって書庫から移動させられたらしい。
長い城壁の道の先には大きな塔があった。ロスリック城を遠くから眺めていた時に見えいていた、三つの塔のうちの一つ。
「王家の庭を踏み荒らす者達よ」
視力の問題か、貴樹は囲まれていることに遅れて気が付いた。ロスリックの騎士や術士が並んでいる中、明らかに実力の桁が違う者たちが紛れている。
こちらに向かって宣告をしているのはゴットヒルトだ。その周囲に覚えのある者たちがいる。仮面の男に茸の被り物をした術士。そして刺々しい鎧の男。レオナール、ヘイゼル、カーク。いづれも、貴樹が一度殺した者達だ。
「ここが貴様らの死に場所となるだろう」
片耳に激痛が走っている。感触的に、ほとんど欠損してしまっているのだろう。深く抉られたのか、音が全く拾えない。
「下がってて」
倒れているゲルトルードのそばへ、画家の少女を移動させる。普段は感情の起伏が薄い彼女も、青い顔をして貴樹を見返してきていた。彼ら以外の仲間達は誰もいない。この場を切り抜けるためには、貴樹の力だけで全員を相手する必要がある。
(五本指も、協力してんのか。思いもしなかったな)
自然と笑みがわいてくる。どうやら自分たちは敵の罠にはまったらしいが、そんなことはどうでもよかった。邪魔な者たちが目の前で勢ぞろいしているのだから、むしろ好都合だと彼は考えていた。
レオナールとカーク、そしてゴットヒルトを前にして、騎士達が迫ってくる。もちろん、彼らだけに注意を取られてはいけない。後方では術士達がすでに魔術を発動させていた。
ソウルの弾の数は、優に三十を超えていた。これは相手の数にしては少ない。一人二、三個しか作り出していない計算になる。しかし、量より質をとったようだ。大きさ、鋭さ、そして速度が並の術よりも数段階上がっている。
しかもそのほとんどは貴樹を狙っていなかった。彼はすぐさま後ろへ下がり、二人を狙う魔術を足で蹴り落とした。その中でそれた数発が、体に当たる。完全に潰れている右目の死角に入られると、非常に対応が難しくなる。
さらにその隙を狙って、前衛達が突っ込んできた。貴樹は息を短く吸い、騎士たちの攻撃をいなしていく。足技を習っていたのは比較的短い時期だったが、残り火の力のおかげで形にはなっていた。。
足に一際大きな衝撃がぶつかった。レオナールとカークが二人がかりで止めてきている。貴樹は冷静に、もう一段階全力を出すことにした。
カークの盾を、生えている棘ごと蹴る。直後に宙返り、後ろに迫っていたロスリック騎士の頭を踏み潰した。鎧を足場にして、数体を巻き込みながら城壁外へと吹き飛ばす。
直後、貴樹もまた大きなソウルの塊によって体ごと飛ばされていた。思わず舌打ちをする。まるで術の接近に気づけなかった。片耳が聞こえなくなっているせいだ。音の死角にも、気を配らなければならない。
ヘイゼルの魔術が、ゲルトルードの首に向けられている。貴樹は全力で地面を蹴り、彼女の前に飛び出した。
レオナールの手元が青白く光る。ぞわりと予感が走り、貴樹はほとんど無意識に身を後ろへよじっていた。あごの先を、ソウルの剣が横切っていく。ファランの速剣。レオナールが使えるということを憶えておいてよかったと、心のそこから思う。
その対応をしたせいで、結局ヘイゼㇽの攻撃は体で受けざる負えなくなった。レオナールの追撃をいなしながら、横やりを入れてくる騎士へとカウンターを入れる。
(八割切った)
多少、まずい状況であることを認めざる負えなかった。意識がやや混濁し始めてきている。出血のせいだろう。あまり長期戦になると、こちらが不利になっていくのは明らかだった。
厄介なのは、相手側が貴樹との戦い方を学び始めている点だ。決してレオナール達は深追いをしてこない。追撃の最後は必ず遠くの術士達が入れてくる。彼としてもまずは先にそちらを処理したいところだが、ゲルトルードと画家のそばを離れるわけにはいかない。
前衛の数も侮れない。着実に減らしてはいる。しかし、さまざまな制限の中で、向かってくる全ての攻撃をかわすのは無理があった。攻めきれずに、徐々に耐久値が減らされていく。
そして、綻びは突然やってきた。一瞬頭の中が酷く揺らされているような感覚がして、自分の体勢が崩れたのが分かった。血が、足りなくなってきている。その隙を見逃すほど、相手も無能ではなかった。
レオナールが貴樹の脇を通り抜けると、画家の少女へと疾走する。その後を追おうとするが、カークと騎士たちに阻まれた。そしてさらに、多くの魔術がゲルトルードへと向かっているのもわかった。
彼自身も意識を切り替え、邪魔をしてくる者達から離れようとする。防御をおざなりにしてでも。後ろへと下がった。
向かう中で、選択を迫られていることを理解する。二人のうちどちらかを助ければ、もう片方には間に合わなくなる。片方を生かし、片方を殺す。もちろん、どちらを選ぶのかは貴樹の中で初めから決まっていた。
それでも彼は、選ぶことをしない。三つ目の選択肢があるからだ。
地面に転がっている剣を、レオナールに向かって蹴り出す。その結果がどうなるか見ることもせず、彼は中途半端な姿勢のままゲルトルードの前へ飛び込んだ。ソウルの塊が、全身に衝突する。
鼻の折れる音が、はっきりと頭の中で響いてきた。何の防護もない顔に当たったのは一つの塊だけだったようだが、それでも金属バッドで殴られたような衝撃がやってきた。
めまいを覚えながらも、貴樹は倒れなかった。朦朧とした意識のまま、自らを鼓舞するかのように吠えて、再び少女を切ろうとしていたレオナールへ突っ込む。
相手はそれを見切っていたようで、振り向きざまに斬撃を放ってくる。彼はとっさにしゃがんだものの、間に合わない。額の上を刃が滑り、目の上に血が流れ落ちてきた。
貴樹はひるまずに、レオナールの体を蹴りこむ。まともに当たったわけではないが、下がらせることには成功した。
荒くなっている、自分の呼吸が聞こえる。額の切り傷からの血も止まらない。拭う手すらないので、左目の視界はほとんど真っ赤に染まっていた。
『…五割』
ノミの声が二重になっている。明らかに良くない兆候であることは自覚していた。すべての感覚が鈍くなっている。このままでは失神するまでそう長くないだろう。
貴樹の思考は、不思議とはっきりしていた。顔を覆っている痛みを客観視する。死ぬほどの傷ではない。放っておかなければ。
ゴットヒルトが何かを言っている。大方、勝敗は喫したとでも思っているのだろう。その通りだ、と貴樹も心の中で同意をした。
城壁の端にかかっている、松明を足で持ち上げる。器用に顔を近づけると、彼は自分の傷跡に炎を押し当てた。暴れまわる激痛の中、彼は一言も発しない。ただ己の中に生まれつつある感覚を掴もうと集中していた。
傷口が焼けただれ、血が止まる。片耳と額。その二つの部分に大きな火傷ができてしまった自分の顔がどうなっているのか、想像したくもなかった。
(たくよお、何でこう、上手くいかねえんだ? 俺は、彼女と幸せになれればそれでいいんだよ。出会って、お互いに一目惚れして、完結でいいじゃねえか。フィクションじゃねえんだから、こんな紆余曲折なんていいんだよ。……やってやる。くそが)
彼の行動の異様さに、何かを警戒して動いていなかった相手が、再び攻撃を始める。左右に前衛が展開を始めた。死角のほうへとより多くの数が回っている。かといって、見える方の注意を蔑ろにしていいわけでもない。
無事な方の耳が、術士達の囁きを拾った。本当は最初から聞こえていたのだが、意味が分からかなかったので、気にしないようにしていた。しかし、今はもう、なんとなくわかる。放ってくる術の種類と紡がれる言葉は連動しているのだ。
集団で一人を囲むとき、気をつけねばならないことは何か。それはおそらく、味方同士で切りあわないようにすることだろう。幾重もの刃が入り乱れる中では、お互いの位置関係を把握し、役割を綿密に分担する必要がある。
見えている方の目が、迫る斬撃をとらえる。持っている手を蹴って、剣を上へと飛ばした。すぐさま二撃目で、騎士の頭を蹴り潰した。
一体を殺す時間があれば、もう一方の集団が死角へ回りきることができる。貴樹はすぐさま振り返り、レオナールの速剣を弾いた。その勢いのまま飛び上がり、降ってきた騎士の剣を足の指で捕まえた。
体をひねり、無理矢理真下の騎士の首へと突き刺す。その瞬間、他の者達の緊張が少し緩むのがわかった。
完璧なタイミングで、ろくに逃げられない上空にいる貴樹の首元にソウルの矢が到達しようとしていた。音も、視界からも外れたその一本は、確実に彼への致命傷になる。
だが、貴樹は倒れた騎士の方に降り立つと、その矢に向かって正確に足を当てた。軌道を直角にずらされた魔術は、騎士の一人に直撃して砕ける。
決まるはずだった一撃が失敗に終わっても、彼らは隙を作らなかった。かわす隙間などない密集した陣形を作り、貴樹を八つ裂きにしようとする。
直後には半分の数が倒されていた。
貴樹は、全ての攻撃をかわし、あるいは足で横にいなしていた。見える方からくる攻撃も、見えない方からくる攻撃も、等しく。これまでとは格段に違う動きで、相手の集団を圧倒していた。
術士達の魔術が光る。彼は死体を盾にして受け、そのうちの何本かを打ち返し、さらに前衛を削った。ゲルトルードと少女を狙ったものは、さらに彼が蹴り飛ばした魔術によって相殺された。
その動きは、到底視力と聴力が半分以下になった男のできるものではなかった。
彼の黒く塗りつぶされた右側の視界は、蘇ったわけではない。しかし、もはや暗闇だけではなくなっていた。
最初に見えたのは、線だ。さまざまな色の線が、無造作にそれぞれの軌道をなぞっていた。それが、意味ある動きをしているのだとわかったとき、彼にはもう視界の問題などなくなっていた。
突撃してきたカークの首に両足をかけ、きれいに折る。そのまま首を根元ごと捻じりとると、砲弾としてレオナールにぶつける。体制が崩れた隙に左側面へ回り、ファランの速剣をしゃがんでかわし、相手の胴体を鎧ごと砕いた。
前衛がほとんど死んだことに、ヘイゼルはまだ飲みこめていないようだ。次の魔術を発動させる前に、貴樹の踵落としが脳天に突き刺さっていた。
魔術の流れが膨れ上がっているのを、背中で感じる。彼は術士達の集団に突っ込みながら、降り注ぐ矢の雨を避けた。青白い光と飛び散るおびただしい血がお互いに主張し合い、その場を非現実じみた舞台に変えていた。
殺し切った貴樹は迫る二本の刃を、足の指で受け止めた。
「お前、一体。お前は、何なんだ」
ゴットヒルトは貴樹の変化に危険を感じて下がっていた。だから最後まで生き残ることができたのだろう。それは貴樹にとっても好都合だった。
「こう、悟りに入ったというか。見えないものが見えるようになると、楽ですね。感謝します。ところで、エンマ祭儀長はどちらにいますか」
二刀を貴樹の足から引き抜き、後ろへ素早く下がる。構えながら、少しも衰えていない戦意のこもった声で答えてきた。
「黒の手として、王家を荒らす者は一人残らず生かさん」
貴樹は、ゴットヒルトの頭を即座に潰した。尋問したところで、無駄になるのはわかりきっていた。忠誠を誓っているというのは、そういうことだろう。まだじたばたと四肢を痙攣させているその死体を城壁外へと捨てた。無残に獣にでも食い荒らされればいいと願いながら。
「別にいいですよ。自分で探しますから」
貴樹は深呼吸をしてから、言葉を失っている画家の少女のもとへ歩いて行った。意識の混濁は、既におさまっていた。