おぞましい音が聞こえてきたのは突然だった。それまで思考の渦に沈んでいたホークウッドは、瞬時に我に返る。
立ち上がり、ミレーヌとともに書庫の広場まで出ると、ちょうどアンリとホレイスも飛び出してきたところだった。彼らと視線をかわし、声が聞こえた方へと階段を上がっていく。
予想に反して、そこには誰もいなかった。血痕。それだけが何か不吉なことが起こったのを示していた。
「ここに、タカキさんと画家が入っていくのが見えました」
最後にやってきたのは、フリーデだ。既に鎌を取り出している。ホークウッドはその姿に少し圧倒されながら、疑問を口にした。
「だが、もう誰もいない。一体、何があったっていうんだ?」
アンリが周りを見回す。
「先ほどの叫び声は、あきらかに異常でした。何か、二人にあったことは確かです」
「二人では、ありません」
フリーデは、床に落ちている白い羽のようなものを一瞥した。
「彼女、ゲルトルードもここにいたはずです。彼はそれを追っていた様子でしたから。つまり、三人の姿が、急に消えたということです」
こんな状況を作れる術があるのだろうか。ホークウッドは考える。そして一つだけ可能性があるものを思いついた。もし、一瞬で三人がどこか別の場所へ飛ばされたのなら、あり得るかもしれない。転移の奇跡も存在しているのは確かだ。
そこまで考えた時、あることに気が付いた。
「おい、待て」
ホークウッドはこの場にいる者達一人一人を見た。
「クリムエルヒルトはどこだ?」
ここから離れるべきかどうかは、議論する必要もなかった。全員が捜索に出るべきだと考えていた。しかし、どこへ行くべきかで、意見が分かれることになった。
「先へ、進むべきです。タカキさんを狙った罠なら、相手は転移先に相当の戦力をそろえているはず。玉座に近い場所ならば、王の護衛と合わせて対応できるでしょう。一刻も早く、彼らを助けに行かなければ」
アンリとホレイス、ミレーヌはそういう考えだった。彼らの言いたいことはわかる。ホークウッドとしても、今の貴樹の状態は心配だった。あの状態でも自分たちよりずっと強いとはいえ、数で押されればわからない。
「いや、俺たちが転移した場所まで戻るべきだ。今まで来た場所を探してみるのもいいかもしれない。俺たちだけでこの先へ行くのは不安が残る」
ミレーヌが、疑いの目を向けてくる。
「戻るにしたって、何が起こるのかはわからないでしょ。それに、どうして最初の部屋に戻るってことになるの? 私はアンリの意見に賛成。貴方、何か別のことをしようとしてるでしょ。転移の所にいる可能性が高いのは、何か後ろめたいことをして、逃げようとしてる誰かとか。あの女を、先に見つけたいの?」
「まだ、わかんないだろ。クリムエルヒルトにだって、何か不測のことが起きたのかもしれない。あいつだって戦力になる」
「タカキさん達よりも、優先するんですか?」
アンリが信じられないという目で見てきた。
「そういうことじゃない。ただ、決めつけるのは危険だってことだ。二人があいつを疑う気持ちはわかる。でも、今までの行動で、あいつが何か俺たちの害になるようなことをしてきたか? 俺が見た上では、あいつもタカキに貢献しようと頑張っていたはずだ」
「それでも、過去は変えられません」
アンリとホレイスは、未だ否定的な態度を崩さない。
「貴方や、タカキさんが彼女を信用するのは構いません。ですが、私たちは彼女が人食いの陣営にいた時のことを忘れていません。貴方の意見を尊重はしますが、受け入れるかどうかは自分たちで決めます」
ホークウッド自身も、おかしなことを言っているとわかっていた。しかし、どうにも気になる。先ほど話した時、明らかにクリムエルヒルトはいつもと様子が違っていた。何か、とても大きな問題を抱えているのではないか。自分と同じように。
「新参の身で、口を挟むのは申し訳ないのですが」
フリーデが静かに言った。
「意見を衝突させている間にも、周りの事態は進行しています。まずは書庫全体を詳しく探してみるのはどうですか。それから、どこに行くべきかを決めましょう」
彼女の言うことはもっともだった。ホークウッドは、自分の意見を通そうとしていたことを恥じた。確かに、今ここで議論をしていてもあまり意味はない。それは全員同じ意見だったようで、広い書庫の捜索が始まった。
周辺国において最大級の規模を誇るロスリックの大書庫は、幾重もの層と部屋に分かれている。書物が所狭しと積まれた小部屋もあれば、大規模な広場もある。一応敵の気配はないとはいえ、まだどこかに隠れている可能性はあった。
そして、ホークウッドの意見は無駄に終わる。
かなり奥へ進んだ所で、誰かの話し声が聞こえた。近づけば近づくほど、その声の特徴がわかっていった。明らかにクリムエルヒルトの声だ。かなり、怒りを露わにしているようで、自分たちは聞こえた方へと向かっていくだけで、すぐに彼女を発見することができた。
激しい戦闘があったようだ。広場は、所々が破壊されていた。誰かに向かって話している彼女の傍に、大柄なローブ姿の術士らしき者が倒れている。
死体から離れた所で、若い男が口を押えながらうずくまっていた。クリムエルヒルトが話しているのは、彼のようだ。
ホークウッドは、その男がここにいるのは明らかにおかしいと思った。対して関わりはなかったが、顔は覚えている。確か、名前はシモダと言ったはずだ。なぜ、彼とクリムエルヒルトが一緒にいるのか。
このまま立ち止まっているわけにもいかず、一行は広場の中へと足を踏み入れた。
◆
自分は確か、皆と城壁の外まで来ていたはずだった。
最後の薪を所有するロスリック。前回の遠征から十分休みを取った上で、ロスリック城への侵入が開始された。
一番驚いたのは、白い悪魔のような怪物に運ばれて、空を飛ぶ羽目になったことだ。命綱も何もない状況で、落ちたらどうなるか考えながらの道中は、お世辞にも快適とは言えなかった。
城壁内に着いた後、しばらく待機の時間があった。全員が一度に移動できるわけではないのだ。下田は一番先の集団に入っていて、カルラと共に周囲の安全を確認して回っていた。
異変が起きたのは、その時だ。突然、何かに引っ張られる感触がしたかと思えば、一気に周りの景色が変わっていた。外にいたはずなのに、どこかの部屋の中に立っている自分を、しばらく目の前の鏡で呆然と眺めていた。
周りを見ても、誰もいない。声を上げかけたが、寸前でこらえた。埃のたまっている書棚を漫然と見ていくうちに、訳のわからない恐怖が込み上げてきた。少なくとも、こんな場所は知らない。一瞬、日本に戻ったのかと錯覚をした。しかし、本の表題が見たこともない文字で書かれているのがわかり、そんな幻想も破られた。
そのまま、しばらく固まっていた。やがて、ここで待っていても何の助けも来ないと理解した彼は、恐る恐る出口の扉を開ける。
下田は少しの間だけ、恐怖を忘れた。外は吹き抜けの広場になっており、中央を跨ぐ大階段の先には、沢山の本棚が並んでいた。
素直にすごいと思った。これほどの規模の図書館は、今まで見たことがない。一体何千、何万冊あるのだろう。
静かな雰囲気に背中を押されて進もうとした時、前に小さな何かが落ちてきた。それは黒い頭巾をかぶった小人のようで、手に持っている短剣を構えると、下田に向かって笑い声を浴びせてくる。
それが明らかに良くないものであるのは、彼にも理解できた。一歩思わず後ずさったところで、小人は飛びかかってくる。
下田はすぐに背を向けて逃げ出した。今はとにかく、脅威から離れることしか頭にはなかった。階段へ向かい、二階に上がろうとした。
しかし、さらにその行く手を、もう一匹が阻んでくる。前後を挟まれた彼は、おぼつかない手で杖を取り出した。周囲に三つのソウルの矢を出現させ、一本を残して相手に射出する。が、二匹とも横に飛びのいて、かわされてしまった。
「わ、わ」
正面の小人が迫ってくる。その短剣の刃を、かろうじてソウルの矢で相殺した。しかし魔術がはじけた衝撃と恐怖で、尻餅をつく。まだ、少しも状況を呑み込めていないまま、彼は迫る刃をなすすべなく見ていた。
二匹の敵は、ほぼ同時に床へ落ちる。彼が瞬きをする間に、どちらの頭も吹き飛ばされていた。青白い光の線と共に。
初め、何が起きたのかわからなかった。転がる二つの死骸を交互に見てから、答えを求めるように周囲を忙しなく見回す。
笑い声が聞こえてきたのは、その時だった。
「まるで、戦場に迷い込んだ子供ね」
階段の上から、女性が下りてくる。下田の前まで来ると、死骸を魔術で遠くへとどかした。赤い髪、からかうような口調、冷たい瞳。忘れもしない。
慌てて、彼女から離れようとした。が、腰が抜けてしまっているせいで、立ち上がることができない。
「落ち着けば?」
「クリム、エルヒルト」
「自己紹介する手間が省けて助かるわ。ほら、掴みなさい。こんなところで座ってちゃ、すぐに服が汚れるわよ」
伸ばされた手を、数舜迷ってから、掴んだ。思いのほか強い力で引っ張られ、下田は立ち上がる。直後、首に刃が押し当てられていることに気が付き、血の気が引いた。
「なぜ、信用もしていない相手の手を取るの? 今まで殺されなかったのが不思議なくらい。あ、不死だったわね。一度や二度死んだくらいじゃ、何も学べない無能ということ」
ソウルの短剣を消すと、彼女は鼻で笑って、下田の杖を拾った。ぞんざいに投げてくる。何とか受け止めた彼は、相手を油断なく睨んで言った。
「どうして、こんな所にいるんですか」
「そのままそっくり貴方に返すわ。私からすれば、一人じゃ何もできない子供が、こんな敵地の奥にいる方が異常だもの」
「敵地…」
不吉な言葉を聞いて、下田は青くなった。
「ここはもう、ロスリックの王宮の一歩手前よ。祭祀場は一体何をしているのかしらね。貴方なんかを先行に回すなんて」
下田は、事前にヨルシカから聞いた情報を思い出していた。ロスリック城は、いくつかの層に分かれている。城壁の周囲には兵士の訓練場や離れの宮があり、そしてその内側にはとても巨大な書庫があると。そこからしか、玉座の間には行けないと、注意されていた。
それではあの一瞬で、城壁からはるか内部へと移動したことになる。どうして自分がそんなことになったのか、まるでわからなかった。
ふと、視線を感じて顔を上げると、クリムエルヒルトと目が合った。彼女はじろじろと、下田を観察していた。まるで自分の理解できないものを何とか自身の枠組みに捉えようとしているかのように、その表情は複雑そうだった。
「とりあえず、行くわよ」
「え?」
「どうせ貴方一人でここにいても、助けが来る前に殺されるわ。ついてきなさい」
「なんで」
彼女はため息をついた。
「鈍い子ね。別に、今、貴方を殺す気なんてないわ。いい? 私と行動した方が、貴方にとっても得だってことよ」
もし、彼女が本気で言っているのだとしたら、それはもう、永遠に分かり合えないのも同然だと考えた。
「一体、何が得なんですか。ぼ、僕は貴方を信用していない。言ってることも信じようとは思いません。当たり前じゃないですか。貴方は、僕達の友達を殺した。シフも殺したんだ。それは絶対に許されないことです」
「悪かったとは思ってるわよ」
相手はあくまで余裕そうな態度を崩さない。
「で? 代わりにここで私が死んでみせた所で、一体何が解決するの? 目の前のことが何も見えていないのね。それじゃ駄目なの、意味がないわ」
この人はやっぱり、自分のしたことに後悔などしていないのだろう。口ぶりで、そうはっきりとわかった。
「先生が、どうして貴方と行動しているのか、わかりません。もし、あの人を脅したりとかして、無理矢理苦しめているのなら、やめてください」
彼女は笑みを消した。組んでいた腕をほどき、真面目な表情で見返してくる。
「へえ、貴方にはそう見えているの? 私が無理矢理、望まないことを彼にさせてるって?」
低くなった声に多少怯んだものの、下田は頑張って彼女から目をそらさなかった。
「先生は、あんな、酷いことに協力するような人じゃない。きっと、周りの誰かがそれを変えてしまったんだと思います。だから、もう、やめてください。僕達は、ちゃんと先生と一緒に現実へ戻りたいんです」
下田は、精一杯自分の気持ちを込めて、相手にぶつけたつもりだった。だが、話している途中から、クリムエルヒルトは何かをこらえるように肩を震わせた。そして話し終わると同時に、大きな声で笑い始めた。
自らの言葉をおざなりにされたことに、怒りが沸く。
「ぼ、僕は真面目に言ってるんです。先生を」
彼女の顔が間近にまで迫った。思わず息が詰まる。相手は冷たい無表情で、下田の目を覗き込んでくる。先ほどまでの笑みはまるで嘘のようだった。
「私よりも、彼との付き合いが長いくせに、何もわかっていないのね」
彼女が一歩近づくと、それに押されて下田は一歩下がる。はっきりと、彼は相手の憤りを感じていた。
「あの人がどんな思いで、どれほど苦しみながら進んでいるのか、わかってもいない。それなのに、あの人を理解したふりをして、的外れなことばかり言っている。貴方みたいな人を、無能と言うのよ。わかったら、余計な口は慎みなさい。殺すわよ」
言い返す口はうごかない。ただ気圧されて何もできなかっただけではない。貴樹のことを言っている彼女の表情は、本当に苦しそうだった。彼のことを真摯に思いやっていなければ、出すことのできない顔だ。
クリムエルヒルトに対する印象がぶれて、下田には迷いが生じた。背を向け、歩いていく彼女を見て、少し躊躇ったのち、足が動く。結局彼女の言う通り、今の状況を乗り越えるためにはついていくしかなかった。
「自殺して、祭祀場に戻ろうとしても無駄よ。私がそうさせないし、どうせ、貴方にそんなことできる気概なんてないでしょう」
ちくちくと様々な嫌味を言われながら、書庫を進んだ。途中いくつか戦闘が発生したが、彼女はものともしなかった。下田は完全にその背中についていくだけの存在だ。それでも我慢をしていた。そうするしかなかったからだ。
段々と疑問がわいてきたのは、少しずつこの状況に慣れてきた時だった。彼女は、どうして一人で行動をしていたのだろうか。貴樹や、他の者達と合流を目指しているのか。彼女は何かを探しながら進んでいる様子だった。このロスリック城に、貴樹達もいる。そう考えるだけで、落ち着かない気分になった。カルラ達は自分の捜索をしているのだろうか。
クリムエルヒルトが立ち止まったのを見て、下田はようやく前方に何者かが現れたことに気がついた。見た所すぐに、術士だとわかる。かなり大柄な男で、三角帽子を目深にかぶっていた。口回りの白鬚と皺で、かなりの高齢であることが伺えた。
驚いたのは、彼女がその男に向かって、礼をしたことだった。だが、その動作はどこかおざなりで、本気でやっているわけではないことはすぐにわかる。
「お久しぶりです。お師匠様。驚きました。まさか、王家の犬に成り下がっているなんて。私に一度殺されて、何か心境の変化でもございましたか?」
老人は答えずに、真っすぐ下田を見つめてきた。無言で懐から杖を取り出すと、青白い光が広がった。
そして、いきなり目の前で光がはじける。一瞬のことで、一体何が起きたのか訳が分からなかった。
「あら、狙いはそっちなんですね。寂しいですわ」
クリムエルヒルトは、いつの間にか五つのソウルを漂わせていた。下田は遅れて気がつく。今、自分は守ってもらったのではないか。
光の舞踏が始まる。相手と彼女のソウルの矢がぶつかっては消え、そこら中に青い火花を咲かせていた。双方ともに全く引けを取っていない。彼らにはお互いの魔術の軌道が見えているのだろうか。下田にとってはあまりに速すぎて、理解がまるで追いつかなかった。
先に変化を加え始めたのは、彼女の方だった。一定本数の矢を一つの部隊として編成し、それぞれが異なる軌道をなぞるように操作した。その難易度の高さは、三つの塊をどうにか動かせる段階にしか至っていない下田にはよくわかる。
そして、老人の頬に傷がつけられた。それをきっかけとして、彼も戦い方を変える。杖を地面につけると、そのまま下へと沈み込んでいった。
ばっと、クリムエルヒルトが下田の方へと振り返ってくる。思わず身構えたが、彼女の放ってきた光をかわす余裕はなかった。瞬間、周りの光景が捻じれていき、視界が暗転する。
そして彼は、クリムエルヒルトたちを見下ろしていた。
自分が今どこにいるのか、少しの間理解を要した。そして書庫の一段上の階層まで一瞬で飛ばされたのだとわかったとき、既に勝負が決しているのを目で認識した。
老人は、おそらく何かしらの転移の術を持っていたのだろう。それで、下田を狙おうとした。人質にとって彼女の動きを鈍らせようとしたのかはわからない。どんな試みにせよ、それを読んでいた彼女によって、失敗に終わっていた。
相手の四肢にソウルの塊をぶつけ、潰した。老人は地に伏せ、そのそばで彼女はつまらなそうにその姿を見下ろしていた。
「下りてきなさい」
戦いを振り返っていて、自分へ言ってきているのだと遅れて理解した。階段を下り、緊張を強めながら彼女のもとまで歩いた。やはりこの人は強い。勇気を出して死による脱出を図ろうとしても、絶対に止められるだろう。
彼女は顎で、虫の息の老人を示して見せる。
「とどめを刺しなさい」
下田はゆっくりと瞬きを二回した。彼女の顔を確かめるように見た。
「あの…」
「難しくないわ。頭を狙えば、どんなに軟弱な魔術でも殺せる。わかったら、さっさとやりなさい。時間がないの」
「ど、どうして僕がやるんですか。最後まで、あ、貴方がやればいいじゃないですか。そんなこと言われても、急にはできません」
「やりなさい。貴方がやらなければ、意味がないの。こいつのソウルを取るの。貴方だって、望んでいることでしょう」
相手の言葉の意味が、理解できなかった。ただ、先ほど使われた彼女の転移の術が、頭の中でぐるぐると回っている。
何とか理解できるのは、彼女が自分にこの老人を殺させたがっている、ということだった。それは別に嫌がらせでも何でもなく、本気で下田自身がそうしたいのだと考えているのがその言葉の調子から伝わってきた。
ソウルと聞いて、少しだけ思い当たるものがある。
「この人は、一体、誰なんですか」
クリムエルヒルトは苛々しながら答えてくる。
「ただの老いぼれよ。魔術の真髄を見たと周囲に勘違いさせて、結晶の古老と呼ばれていた。実物は、ただ年を無駄に食った弱者」
結晶の古老。
その言葉は、下田も知っていた。何度か自分の視界に入る機会があったからだ。
衝撃で、言葉が震える。
「どうして、貴方が、進化のことを知ってるんですか?」
「何?」
「とぼけないでください! 僕は、貴方のことがわからない。固有能力の進化に、この人のソウルが必要だって、どうやって知ったんですか?」
クリムエルヒルトは、眉を寄せる。
「だから、何なの? そんなもの知らないわ」
下田には、相手が嘘をついているかどうかなど、判断できない。
「じゃあ、僕にこんなことをさせようとするのはどうしてなんですか」
彼女の目が、遠くを見る。
「そうしなければならないからよ。私は、そうするように命じられた。もう話は十分でしょう。いい加減、覚悟を決めなさい。亡者は殺せるんでしょう? それと同じと思えばいいの」
詳細を話すつもりは無いようだった。それでも、彼女がこのことを事前に計画していたという事実は確かだ。下田とここで会ったのも、偶然ではないとしたら。
下田は、確信を持って言った。
「僕を、ここの書庫まで転移させたのは、貴方ですね?」
彼女なら、それが可能だ。何を企んでいるのかはわからないが、下田を初めから待ち伏せしていたのだろう。彼をあの小人達から救ったのも、疑われないようにするためのカモフラージュだ。そう考えれば、もはや彼女の言葉に従う気はなくなった。
「貴方の計画していることに協力なんてしません。何の説明もせずに、信じろっていう方がおかしいです」
「…一度くらいなら、聞かなかったことにしてあげる」
「や、やりません。僕は、何もしません」
できれば、今すぐにここから逃げたい気分だった。彼女を怒らせるのは、最善とは言えないかもしれない。でも、殺されることにはならないはずだった。それが下田の唯一の逃走手段であることを、相手もよく理解している。
クリムエルヒルトは目を細めて、少しの間下田を見ていた。そして息を吐き、冷酷な笑みを浮かべる。
「そう。後悔はしないでね」
胸のあたりに、衝撃を感じた。
少し顔を下げて見れば、胸から青白い刃が突き出ている。そこでようやく痛みがやってきて、下田は床に倒れこんだ。
背後から、刺された。呼吸ができないほどの激痛の中で、下田は見下ろしてくるローブ姿の老人を認識した。結晶の古老だ。おかしい。彼は大きな負傷をして、今も倒れているはずなのに。
「古老は、二体いるの。説明が遅れて、ごめんなさいね」
下田を刺した古老は、もう生きてはいなかった。首に大穴をあけられて、血を吐き出しながら倒れていく。クリムエルヒルトは、下田が狙われていたことに気づいていた。それでもあえて手出しをすることはなく、泳がせた。
下田もまた口の端から血の泡を吹きながら、もがいていた。背中で大量の血が広がっていくのを感じる。ダークレイスの時と同じ、濃厚な死の気配がやってくる。
クリムエルヒルトが、歩いてくるのがわかる。彼女はかがむと、下田の胸に向かって手をかざした。奇跡の光が発せられる。痛みが一気に和らいでいくのを感じて、無意識のうちに安心をしていた。
しかし、奇跡は途中で止められる。血はほとんど止まったものの、傷口は開いたままだった。激痛がまだ残っていて、下田は思わず彼女と目を合わせる。
「誓いなさい」
彼女は指先を胸に押し当ててくる。内臓をかき乱されるような痛みと嫌悪感で、頭がおかしくなりそうだった。苦痛の叫びを上げたが、彼女は表情一つ動かさない。
「私の指示に、従うと。疑問を持つことも、反抗することも禁止。あそこにいる古老のとどめを刺すの。わかった?」
返事をする余裕もない。まともな思考すらできなかった。ただ、この痛みがなくなってくれるのを一心に願い続ける。
彼女の顔が鼻先にまで近づいた。
「わかった?」
何とか、顎を引くくらいの動作はできた。彼女が微動だにしないのを見て、泣きながら何度も頷く。もう、反抗しようとする気持ちは失せていた。彼は完全に、自分の心が屈服しているのを自覚する。それを情けないと思う心さえ、痛みで消えていた。
胸を治された後、下田は吐き気を覚えながら、魔術を発動させる。矢の狙いを定めると、虫の息の古老へ向かって放った。
目を背けようとしたら、彼女の手が顎を掴んでくる。無理矢理固定されて、相手の頭に穴が開く様子を見せられた。
「痛みに、まるで慣れていないのね。他人を殺すことへの抵抗も強すぎる。克服しなさい。貴方は、これから、もっと理不尽と向き合うことになる。果たすべき使命のために、全力を尽くすの。いい?」
頭が混乱していて、彼女の言っている意味もわからない。いや、正常な状態だったとしても、その言動を理解することは不可能だっただろう。気がおかしくなっているとしか思えなかった。前の、地下墓で会った時は、気にも留められていなかったはずだ。あの後、一体彼女に何があったというのか。
荒い呼吸のまま、下田はうずくまる。脳の飛び散る様子が、何度も脳裏に浮かび上がってきた。全身に鳥肌が立っている。何度も吐きそうになっているのに、できないでいるもどかしさと苦しさで、また涙を流した。
男の声がしたのは、その時だった。
「何を、しているんだ。クリムエルヒルト」
横を見ると、複数人の男女が書庫の広場に入り込んできていた。クリムエルヒルトは下田にだけ聞こえる大きさで舌打ちをした。
声をかけてきた男には、覚えがある。名前は、ホークウッド。祭祀場では怠けている姿しか見なかった。それから脱走をして、貴樹と一緒に行動をしていた。
その横にいる女性も知っていた。ホークウッド達に連れ去られたと、祭祀場では言われていたが、そのような様子ではない。ミレーヌは、下田を見て純粋に驚きを示した。
アンリとホレイスも、祭祀場を抜けて貴樹の方へ付いた者達だ。つまり、彼の仲間達がそろったということだろうか。ただ、肝心の貴樹本人の姿はなかった。そして、全く知らない女性が一人、増えている。
「説明をしてくれ」
下田が落ち着いてから、話が始まった。彼は囲まれて、観察されている。せっかく気分が整ってきたのに、心の底から休まることができないでいた。
「彼を発見したのは、書庫のもう少し外側の所よ。彼の話を聞いてみたけど、本人も状況をよくわかっていないみたい。ほっとくわけにもいかないし、一緒に行動してたの」
何か、口を挟む勇気は持てなかった。嘘を指摘したとして、その返しにどんな目にあわされるのか、想像したくもない。
「嘘だな」
しかし、下田の葛藤など何でもないかのように、ホークウッドが言った。
「何が?」
「こいつが祭祀場の奴らの付き添いもなく、一人でいた理由はどうでもいい。それよりも、お前があの声を聞いても、戻ってこなかった方がおかしいんだ」
クリムエルヒルトは口を閉じた。
「異常を認識していたのにもかかわらず、俺達と合流しなかったのはなぜだ? 戻る時間は十分にあった。それなのにお前はさらに奥へと書庫を進んで、こいつを助けたっていうのか? 偶然で片づけるのは難しいな」
「それで?」
彼女は挑戦的に笑う。ただそれは下田に向けていたものとは性質が違うような気がした。どこか、楽しんでいるようにも思える。そんな顔をするなんて、今までとは想像もつかなかった。
「私を疑って、何がしたいの? 誓約から抜けろって?」
「いや、別にどうでもいい」
きょとんとした顔も、彼女にしては珍しく思った。
「お前はお前で、自分のやりたいことがあるんだろ。やればいいじゃねえか。とやかく言う権利もないしな。ただ、タカキや俺達へ害の及ぶようなことはするなよ」
ホークウッドは変わった、と下田は強く思った。彼にはどこか、余裕が生まれている。祭祀場にいた頃とは大違いだ。
他の者達はあまり納得をしていないようだったが。彼女を糾弾する以上に優先すべきことがあるらしい。下田は未だ浮いている自覚を持ちながら、彼らについていった。
話によれば、貴樹は今危険にさらされているらしい。敵の罠によって、分断されたそうだ。それを今、助けに向かっている途中だという。
「お久しぶりですね」
遠慮がちに、アンリが話しかけてくる。どう話したらいいのかわからないのは、こちらも同じだった。今ここで、どうして先生についていったのかを訪ねても、仕方がないだろう。彼女達自身が納得している時点で、下田の言葉など意味はない。
「彼らは、どうしてますか?」
アンリは、複雑そうな表情になっている。
「もうロスリックまで来ているということは、問題なく進んでいるんですね」
下田は答えない。その奥にある警戒を察したのだろう。アンリは苦笑をした。
「ごめんなさい。そちらのことを探る意図もありました。話したくありませんよね。でも、これだけは教えてください。貴方を含めた灰達は、ちゃんとした扱いを受けていますか?」
「それは、どういう意味ですか?」
思いのほか自分の声が大きくなったことに、驚く。祭祀場を、引いてはヨルシカを疑われたことに、自分でも意外なほど抵抗を感じている。
「いえ、ただ、私達が離れてからも、色々な困難があったと思うので。私の身で言うのもおこがましいですが、心配していました」
「特に、問題はないです。皆、優しいです」
「そうですか」
アンリは何かを繕うように微笑んで、周囲の警戒に戻っていった。
見た所、彼らは玉座の方を目指しているようだった。貴樹がそっちにいると考えているらしい。このまま先へ進むことへの不安はもちろんあったが、祭祀場の者達と合流することはしばらく望めないので、ついていくしかない。
何か、情報を得ておくべきだろうか。この人達は、二つの薪を持っている。いずれ、戦うかもしれない相手なのだ。ここで、自分が役に立てることがないか、下田はしばらく考えていた。
彼らは、お互いのことをある程度は信頼し合っているようだった。戦いになれば、連携をして、あっという間に片づけてしまう。常に和気あいあいというわけではない。それでも、共通の目的をもって進んでいるという連帯感が彼らの根底にあるのが感じ取れた。
ただ、その中においても、一人だけ異質な存在がいた。下田は、一見してか弱い修道女のように思える相手をちらりと見た。
彼女だけは、今まで一度も会ったことがない。一体、どのような経緯で、ここにいるのだろうか。
いきなり、彼女が横を見てくる。そして、穏やかな笑みを浮かべた。下田は少し戸惑った。それまでの彼女の雰囲気とは、かなりかけ離れた表情だったからだ。
鎌をしまうと、こちらに向かって近づいてくる。
「訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「え、あ、はい」
顔に似合わない軽い話し方で、彼女は続ける。
「みおちゃんのこと、知ってる?」
「えっと?」
「戸水美織。あの子も、祭祀場にいるんでしょ? 元気?」
答えるのにも、なぜ相手が彼女のことを知っているのか、不思議だった。
「どうして、」
質問をする途中で、腕を掴まれる。そのまま引き寄せられると、首に腕が回ってきた。横抱きにされるような形で、一気に歩きづらくなる。そしてそんなことよりも、全く知らない女性に密着されているという事実が、焦りを生ませた。
「ま、いいじゃないの。細かいこと気にしないで。教えてくれると、助かるんだけどなあ」
離してほしい一心で、下田は答えた。
「げ、元気ですよ」
「君は、あの子と話すの?」
「え? ええ、まあ」
「ふうん。好き?」
話の進みが速すぎて、下田は困惑しか示せなかった。
「な、なにが、ですか?」
「大抵の男の子なら、嫌いになることはないと思うんだ。あの子、私が言うのもあれだけど、結構可愛いし。ね、どう思ってるの?」
「や、その、わかりません」
「じゃあ、下田くんは別に好きな子がいるとか」
訳が分からなかった。どうして、よく知らない人とこんな話をしなければならないのか。離れようと腕を動かそうとしたが、まるで拘束は解けない。見た目に反して、相手の力はかなり強いようだった。軽く、恐怖を覚える。
「全員、止まって」
助け舟を出してくれたのは、クリムエルヒルトだった。彼女の声で、全員が警戒を露わにする。しかしどこにも目に見える脅威がないので、不審の目が集まった。
「周りに敵もいないようだし、ちょうどいいと思って」
クリムエルヒルトは、こちらを見つめてきた。
「貴方が何をできるのか、まだよく知らないの。魔術でも何でもいいから、全部見せなさい。今、ここで」
なぜ、自分がそんなことしないといけないのか、不満が出かかった。しかし、その前に脳の奥から、声が聞こえてきた。
『返事はしなくていい。動揺するのも駄目。さっき貴方の胸を治した時、毒も入れたわ。致死性ではないけど、死ぬほど苦しむことになる毒。状況がわかったら、瞬きを一回しなさい』
周りには、クリムエルヒルトの声が聞こえていないようだった。音送りの魔術だ。その指向性を強めて、下田にだけ届くようにしている。彼は、呼吸を何とか落ち着かせながら、瞬きを大きくした。
『私の言うことは全て聞くこと。求めるのは、それだけよ。わかったら、自分の技をすべて示してみなさい』
ほかに選択肢はなかったので、下田は魔術のいくつかから始めた。カルラから教えてもらったことを一つ一つやっていく。とはいえ、大した数ではなかった。それぞれの精度もそう高くないことは自覚してたものの、それでも見物する者達の微妙な表情を見て、顔が熱くなった。もはや、辱めだ。
しかし、最後にやった見えない体の魔術だけは、自信があった。発動させ、それが終わると、クリムエルヒルトは大きく頷く。
「これは、使えるわね。大体決まった」
「なあおい」
ホークウッドが、不思議そうに尋ねる。
「お前はこいつを使って、何かするつもりなのか?」
「そうよ」
彼女は何かを決意するかのように、目を閉じた。
「ロスリックの二人の王子を、殺してもらう」
『絶対にね』
聞こえてきた彼女の声で、下田はそれが逃れられないことだとすぐに理解をした。そして確信もする。二人の王子とはつまり、双王子。そのソウルと、古老のソウルは、彼の固有能力を進化させるのに必要なものだった。
彼女は自分の助けになるつもりなのか。その行動の真の意味は、いくら考えてもわからなかった。