火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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38.天使とゲルトルード

 予想よりも早く対象が見つかって、貴樹は少々機嫌を治した。

 ロスリックにおいては、三柱と呼ばれる王家を支える役職がある。騎士、祭儀長、賢者。その権力は、城にそびえる三つの塔に象徴されている。ならば、エンマはそのうちの一つにいるのではないかと考えたのが、当たったようだった。

 塔内の扉は固く閉ざされていたが、貴樹にとっては障害ですらない。ただ、あまり物音を立てすぎるのもよくなかった。あまり、ゲルトルードを刺激したくはないからだ。

 

「階段上がるから、しっかり掴まって。大丈夫、ゆっくり行くから、怖くないよ」

 

 混乱と不安で一杯の彼女の顔を撫でて、進み始める。再び目を覚ましてから、全くしゃべる気配がない。貴樹が味方なのだと理解させるのも一苦労で、書庫でのことは完全に忘れているようだった。

 だが、貴樹につかまって歩くことで精いっぱいの様子を見て、彼は考えを改める。今の彼女は、まるで赤子のようだ。移動中、何度泣かれたかわからない。それはそれで可愛かったのだが、彼女の記憶がどんどん過去へとさかのぼっている点には、不吉なものを覚えた。このまま放っておけば、どうなるのか。

 

「大丈夫?」

 

 後ろをついてきている画家の少女が、言ってくる。

 

「うん。今は比較的落ち着いてるし。このまま進もう」

「その子のことも、あるけど」

 

 相手の視線が、自分の顔をなぞるのがわかった。

 

「……そうだね。自分で自分の顔を見れないからわからないけど、やっぱり酷い?」

「今、こうして歩いて話せているのが、不思議なくらい」

 

 痛みは感じなかった。状態が落ち着いたのか、それとも感覚が麻痺しているのか。どちらにせよ。貴樹には休むという選択肢はない。今はこの塔の最上階を目指す。それだけを考えることにした。

 一番上には、個室が一つだけある。その扉には鍵がかかっていた。それを蹴り壊して、中に入る。

 本当なら三つの塔全てを回るつもりだったが、一番最初に当たりを引くことができた。

 

「彼らは、敗北したのですね」

 

 木の丸椅子に、小柄な老婆が座っている。来ている法衣は、ある程度の権威を示している。祭儀長エンマは、一見冷静でいるように思えた。

 

「勘違いしないでいただきたいのは」

 

 貴樹はベッドに、ゲルトルードを座らせる。そしてもう一つの椅子に座ると、エンマと向かい合う形になった。

 

「僕は、貴方をどうこうするつもりはないんです。ロスリックへ来たのも、彼女の話を聞くためです」

 

 そうして、ゲルトルードを示して見せる。

 

「貴方の言葉には、何も信憑性がないと、自覚していますか? オスロエス様を殺し、兵士たちも殺し…。今日、貴方一人によって、ロスリックは滅ぼされるのでしょうね」

「はぐらかさないでください。オスロエスに関しては、貴方達も扱いに困っていたはず。処理されて、むしろありがたいと思っているのでは? 他の者達、ゴットヒルトなどは、正当な防衛をしたまでです。相手が殺す気なら、こちらも覚悟を決めるしかない」

(こいつ、何を怖がっている?)

 

 エンマの様子に疑問を覚える。彼女の額には汗がはっきりと見えた。しかもその恐怖はおそらく貴樹に対してではない。あえてそこへ視線を全く向けていないのが、逆に過剰に意識をしていることへと証拠になっていた。

 貴樹は俯いた。大きく溜息をついて、身体的にも精神的にも疲労しているということを、相手に印象付ける。

 

「本来なら、彼女の縁者である貴方たちを、誰も殺したくはなかった。僕は、ロスリック側と手を結ぶことさえ考えていました。共に、火継ぎに対抗するため、協力することだってできたはず。正直、今からでも遅くはないと思っています」

「戯言を」

 

 エンマはここで初めて、感情の平衡を崩した。顔を上げれば、はっきりとした憎悪の目を、貴樹に向けてきている。

 

「愚かな言葉を、そうとわかっていて口に出す貴方は、始末に負えません。今更、私達の間に何かしらの関係を結ぶ余地があるとでも? それに、酷い勘違いもしています。縁者などではありません。それはただの、化け物です」

 

 ゲルトルードを見るエンマの表情は侮蔑と恐怖に染まっていた。

 

「そこなんです」

 

 貴樹は語尾の震えを自覚した。小さく深呼吸をして、己に自制を呼びかける。

 

(我慢しろ我慢しろ我慢しろ…)

 

 頷いて、相手の意見に理解を示すふりをする。

 

「結局、彼女という存在において、貴方と僕で決定的なすれ違いが生じてしまっている。僕には、分からないんです。貴方達がこの子を恐れる理由は何ですか。もし、彼女がゲルトルードでないのだとしたら、一体、何者なんですか? 教えてくれるだけでいいんです。それがここへ来た目的ですから」

 

 椅子から立ち上がり、貴樹は膝をついた。作法が日本と違うのかはわからないが、こちらの気持ちが最大限に伝わるように、頭を下げる。

 ここでそんな行動に出るとは思ってもいなかったのだろう。エンマは戸惑うように声をかけてきた。

 

「やめなさい。貴方にそうされたところで、憎らしさが増すだけです。…そこまで言うのなら、一つ約束をしてください。彼女のことを理解したら、すぐにここを離れ、二度と戻ってこないと。私達とは関係のない、どこか遠くで生きるのなら、こちらも干渉はしません」

 

 貴樹は微笑んでみせる。

 

「ありがとうございます。もちろん、従います。話してくれるだけで、満足ですから」

 

 エンマは頷き、考えをまとめるように目を閉じた。十秒ほど待つと、ゆっくりと話を始める。忌まわしい思い出を振り返っているような、低い声の調子で。

 

「貴方も薄々わかっていると思います。それは、王家の長女、ゲルトルードではありません。言わば、幻です」

 

 ロスリックは、火継ぎのために王家を存続させていると言っても過言ではなかった。代々ふさわしい薪の器となるために、あらゆる方法が選ばれた。

 だが、呪われた血の営みの結果か、オスロエスと王女との間に生まれた子は、悉くが体に異常を持っていた。

 長男ロスリックは、歩みと体の頑丈さを。ローリアンは歩みと声を。二人には到底、王としての役割を全うできるとは誰も考えてはいなかった。故に、ただ薪の器として生きていくことが、彼らの使命になった。

 

「女王陛下が、新たに子を身ごもり、お産みになった時、たとえそれが女の子であったとしても、我々は大いに喜びました。その子は、何の障害も持っていなかったからです。産まれた時に泣き叫び、母親に抱かれた時には安堵の表情を浮かべる。そんな当たり前のことをしただけで、その子の存在は大きくなっていきました」

 

 だが結局、血の呪いというのは逃れられないものなのだろう。ゲルトルードが大きくなり、営みをある程度始めると、徐々に異常が現れ始めた。

 彼女はそれまでよく笑う子供だった。母親によく懐き、使用人などに対しても甘えてくる。それが急に、よく泣くようになった。事情を聴いてみれば、たどたどしい言葉で、何度も同じ答えが返ってきた。

 友達がおかしいと。

 彼女はその時、ほとんど外には出ていなかった。城内ですべてが完結していた。使用人や家族がいるものの、友達ができる機会はあるはずがない。

 そしてさらに時間が過ぎると、事態は悪化した。

 彼女を世話する使用人が次々と死体で見つかった。どれもがほとんど体の形を保っていなく、全身のいたるところに穴を空けられて息絶えていた。次第に世話をしようとする者はいなくなり、彼女は書庫の奥に引きこもるようになった。

 

「それでも、王女様は定期的に会いに行きました。危険だと我々が止めるのにも関わらず。あの方だけは、攻撃を受けることもなく。無事でいられた。…ですが、その状態も長くは続きませんでした」

 

 ある時突然、王女は血相を変えて書庫から出てきた。いわく、ゲルトルードの声と光が失われたと。

 危険を覚悟で数名が検査したところ、彼女は確かに視力と声を失っているようだった。治療しようと試みた所で、彼らはその存在を目撃することなる。

 ゲルトルードと瓜二つの少女が、苦しむ本人の傍に立っていたという。その背中からは白い光の翼が生えていた。そして次の瞬間には、書庫内の全ての者が殺された。光の線によって、全身を貫かれて。

 

「我々は、彼女に近づくことすらできなくなりました。書庫の扉を封鎖して、あれが外に出ないようにするのが最優先だと、オスロエス様が判断したのです。…そして、おかしなことが起き始めたのは、その頃からでした」

 

 空から光が降ってくると、使用人の一人が言い始めた。その言葉はやがて他の者にも伝染していき、城の三分の一ほどが、光を幻視するようになった。彼らは時間が過ぎていくほどに摂り付かれたような行動をとり始める。夜の決まった時間になると、書庫の前に集まり出し、祈りを捧げるようになったのだ。

 新たな信仰を得た彼らは、ある存在に焦がれていたようだった。天からの使い。口をそろえて、天使という言葉がさも高尚なものであるかのように言っていた。

 王家は、すぐにこの天使信仰を異端だとして排除しようとした。が、その判断を巡って城内は分裂。三柱のお互いに対する牽制も相まって、国は一時期大いに荒れた。王家の力に陰りが見えていたのも、内乱を助長していたのかもしれない。

 王族にも悉く不幸が襲った。オスロエスは次第に正気を失っていき、竜信仰に傾倒するようになった。王女は娘の惨状を憂いたのか、姿を消した。そして、ロスリックとローリアンは、王家の使命であった、火継ぎを拒否したのだ。

 

「少し、訊きたいことが」

 

 貴樹は長い話を整理しながら、尋ねた。

 

「オセロットという、名前に覚えは? 王家の末子だと記憶しているんですが」

 

 エンマは驚きを表した後、溜息をついた。

 

「いもしない末子です。オスロエス様が狂気に落ちた後、愛でるようになった幻。あの方にはもはや、現実を認識するの力はありませんでした」

 

 嘘をついているわけではないことは、確認できた。オセロットは、王女が失踪する前に産んだとゲームにはあったが。この女が認知していないはずがない。だとしたら本当に、幻の存在ということになる。

 彼女の話は続いた。

 

「このままでは王家は没落していくと、我々は考え、ついに元凶を取り除くことにしました。あるだけの戦力をそろえ、考えうる対策をし、書庫内に突入しました。そこで、ゲルトルード様が死んでいるのを発見しました」

 

 衰弱死だろう。誰も来ない書庫内では、世話をしてくれる人も、食事を作ってくれる人もいない。

 そしてそのそばに倒れていた少女。ゲルトルードとそっくりの彼女の処理に困っていたところ、エルドリッチが接触してきたという。祭祀場に対する対抗策として、同盟を結ぶための取引材料にもなった。

 

「死体は?」

「はい?」

「書庫になぜ、ゲルトルードの死体を残しているんですか。埋葬するべきでは? それとも、動かせない事情でもあるんですか」

 

 エンマは何を言っているのかわからない、という顔をした。

 

「もちろん、死体は埋めました。安らかに眠れるよう、何十もの術の仕掛けを施して。貴方は、一体何を言っているんですか?」

 

 貴樹はしばらく沈黙した。ベッドに静かに座っている、ゲルトルードではない女性を眺める。彼の視線を追ってから、エンマは顔をやや青くした。

 

「貴方が何を考えているにせよ、それを傍に置いておくことは、お勧めしません。私の話を聞いて、理解したでしょう。今まで、一度もそれに牙をむかれたことはないのですか?」

 

 エンマの目が、貴樹のいくつかの傷の上を滑っていく。なるほど、と、確信を得た。書庫内で片耳を奪った光線は、やはり天使の術なのだろう。視界が悪くなっていたとはいえ、残り火の動体視力でも捉えることはできなかった。

 エンマの話に、虚偽の部分はない。起こったことは、確かに起こったのだし、彼女が危険な存在になり得るという話も、参考にはなった。しかし、貴樹は途中から、相手に対する侮蔑を抑えていた。

 これはあくまで、彼女の主観の話でしかない。

 

「ロスリックにおいて、火継ぎのためにおぞましいことが行われていたのは知っています。それがゲルトルード本人にも施されていたことも。貴方がたはさも、自らを被害者であるかのように語りますが、当然の報いを受けたという考えは、ないんですか?」

「何を…」

「貴方達は、彼女をエルドリッチに引き渡し、その後受けるであろう苦痛も容認したばかりか、法王の城でも、扱いを変えようとしなかった。よくもまあ、そんなに彼女に対して、非道になれますね」

 

 エンマは、完全に狂人を見る目つきになっていた。彼女は憤激した様子で椅子から立ち上がり、貴樹を睨みつけてくる。

 

「話を聞いていたんですか? それはもう、ロスリックの長女ではありません! あらゆる物に災いをもたらす、異端の化物です。存在の末梢を望むのは、正常な者として当然のことでしょう」

「罪悪感は、ないと?」

「答える意味もありません」

「見てください」

 

 貴樹は、顎で、彼女を示した。エンマもまた彼女を見るが、よくわからない様子で視線を戻してくる。彼は足の指をゆっくりとほぐした。

 

「どう思いますか?」

「…」

「彼女の姿形を見て、何か感じませんか」

「…何も」

 

 ぐいっと、自分の顔を相手へ近づける。相手は思わずといった形で身を引いた。

 

「貴方の目は、何のためについているんですか? 彼女を、ちゃんと見てください。これほど、愛らしい生き物は、他にいない。見ているだけで、あらゆる人を幸せにするでしょう。そんな彼女を、貴方達は残酷に扱った。自らがどうしようもない屑だと、理解していますか? それとも老いぼれて、そんなこともわからなくなりましたか?」

 

 エンマは一瞬言葉を失ったようだったが、負けじと言い返してくる。

 

「貴方は、どうかしています。おかしい。嫌悪こそすれど、それに情を移す余地など微塵もありません!」

「それ?」

 

 貴樹はエンマへ歩み寄る。その迫力に押され、彼女は窓際にまで後退した。彼はさらに近づき、彼女を見下ろす。

 

「つくづく、癪な婆さんだな。どうして、彼女をもの扱いなんてできるんだ? 今までの自分の言葉全てが、寿命を縮めていると、理解していたのか? 猶予は与える。彼女に、謝罪をしろ。自分の間違いを認め、頭を下げて、彼女に許しを請え」

「狂人め…」

 

 渾身の力で、貴樹はエンマの体を蹴った。窓へと吹き飛び、騒々しい音で硝子が割れる。欠片が全身に突き刺さる前から、彼女は悲惨な状態になっていた。彼の本気の蹴りの衝撃で胴体が破裂していた。

 ほとんど息絶えているであろうエンマは、城壁へと落ちていく。その体が地面に衝突し、原形もとどめなくなるまで、貴樹は見物していた。初めから、殺すつもりではあった。必要な情報を引き出すまで我慢をしていたのだが、結局失敗に終わった。今のところ、天使をどうすれば元の火守女へ戻せるかが、わかっていない。本当ならば抑えるべきだったが、これ以上彼女への侮辱を吐かせることは許せなかった。

 彼女自体は、再び眠っている。間隔がどんどん短くなっているのはわかっていた。今の彼女は幻。それが本当ならば、消えることだってあり得る。  

 

(残されているのは、あいつらだけか。もう、玉座に向かうしかない)

 

 ロスリックとローリアン。彼らならば、彼女の事情もわかっている。そのはずだ。解決策を得るとしたら、彼らからしかない。

 

「貴方のことが、少しだけわかった。貴方には、二つの面がある。精神の拮抗。それが、正気を保てている要因なんだね」

 

 貴樹が火守女を抱えるのを手伝いながら、画家は言う。

 

「そうかな。僕はできるだけ、素直に生きてきたつもりだよ。表も裏もない人間だと思っている」

『嘘つけ』

「うん。素直ではあると思う。貴方はどこまでも純粋だから、選ばれたんだ」

(こいつ、意味深な発言ばっかして、何なんだ? 俺の気でも引きたいのか?)

 

 いい加減、彼女の知っていることを全て聞き出しておくべきだろうか。自分の知らないことを、他人が思わせぶりに隠し持っているというのは、気に食わない。

 少女のへの尋問を計画している間、彼は部屋の出口へと向かおうとした。が、すぐに体を反転させ、画家の少女の体を軽く足で持ち上げる。

 急な行動に目を丸くした彼女の下に、斧が突き立った。割れた窓から、飛んできたのだ。まだ何かいるのかとうんざりして、その方を見れば、外を大柄な騎士が飛んでいた。

 金の重厚な鎧に身を包み、巨大な斧を持って、空中に留まっている。それを可能にしているのは、背に生えている翼だ。白い翼をばたつかせる騎士が、三体。その内の真ん中が、祈るように手を額に当てた。

 貴樹は即座に判断をして、部屋の壁に大穴を開ける。背に火守女を、肩に少女を捕まらせ、壁の外へと飛び出した。

 何本もの光柱が、塔に降り注いだ。一本一本が十分な破壊力で、彼らが先ほどいた部屋も含めたすべての階層が、一瞬でただの瓦礫と化した。

 

(そういえば)

 

 彼は城壁に着地すると、少女に離れておくよう指示する。

 

(あのババア、天使信仰にはまった奴らがどうなったか、何も言ってなかったな)

 

 三体の羽騎士は、一様に狙いを火守女へと向けていた。崇拝の対象であるがゆえに、殺意はない。しかし、その身をさらおうとしているのは確かで、邪魔をする貴樹に対しては容赦がなかった。

 偶然かどうかは、分からない。ただこの時、彼にはあまり余裕がないことは確かだった。火守女が集中的に狙われている状況で、その守りに集中しなければならないこと。そして体の状態が悪くなっていることも、原因の一つだっただろう。

 三体目のとどめを刺したところで、画家の少女が捕らわれていることに気がついた。急に出現した聖職者らしき男が、彼女の体を拘束している。

 

「マクダネル…」

 

 坊主の男は何も言わず、そのまま膿の底へと沈んでいった。その直後、貴樹の足がそこを踏みつぶす。何の手ごたえも感じられず、舌打ちをした。

 

(やられた。ち、なんで守り手の奴が、こんなところまで来てんだ? 後でもつけられていたのか? あいつは大事だ。助けに行かねえと)

 

 だが、火守女を拾った所で、その考えはなくなった。彼女の姿が、再びぶれだしたからだ。それはすぐに収まったものの、今優先すべきことが何なのかを決断するのには十分だった。

 奴らが、どうして画家を狙ったのかは後で考えよう。おそらく殺すだけのためではないはずだ。少なくとも、命に危険が迫るのは随分先になるだろう。 

 彼は火守女の髪に鼻先を触れさせてから、先へと進んだ。

 道中、騎士の数は少なかった。さきほど貴樹がかなりの数を減らしたのもあるだろうが、それにしたところで玉座付近の守りは薄い。どこか別の所へも、動員されているようだ。仲間と合流する手もある。それでも、彼は一人で進むことを選んだ。

 大階段を上がり、閉ざされている大扉をこじ開ける。中は静寂に包まれていた。ただ静かなだけというわけではなく、緩やかな滅びを受け入れているような感じが、内装に表れている。貴樹は内心とは違い、急がずにゆっくりと歩いた。玉座にいる相手に、余計な刺激を与えるのは良くないと思っていた。

 仕えるものが誰もいない間の奥で、彼らは侵入者を眺めていた。

 貴樹は玉座の前まで来ると、一応の礼だけはしておいた。

 

「初めて、お目にかかります。今日は、お聞きしたいことがあって、参上いたしました」

 

 横のローリアンに目を向けてから、ロスリックは頷いた。

 

「知っている。外が騒がしいのは、貴公のせいでもあるのだろう」

「それでも、書庫から転移させたのは貴方ですから。こうなることも、わかっていたんでしょう。できれば、戦いにはしたくない」

 

 大方エンマにでも頼まれて、転移の術を仕掛けたのだろう。自分を追いつめた張本人ならば、手加減をするつもりはなかったが。彼らとは会話を続けるべきだと理解していた。

 

「すまない。こんな城も、王家にも未練はないのだ。しかし、貴公という存在には、興味があった。その子を連れてきた経緯にも。一度、会ってみたいと思った」

 

 ちょうど火守女へ注目が行ったので、本題に入ることにした。

 

「彼女の今の状態にも察しがついていることと思います。正直、貴方がたの薪にも、火継ぎという儀式に対しても、関心はあまりありません。今、彼女は苦しみ、存在ごと消えかけています。僕は救いたい。何か、方法を知っているのなら、教えてください」

 

 ロスリックはしばらく彼女を観察し、長く息を吐いた。言いづらいことを言う前特有の、躊躇うような間があった後、話し始める。

 

「我々は、あの子と全く関わりがなかった。意図的に隔離されていたのだ。故に人伝に聞いた話でよければ、教えよう」

 

 ロスリックの話は、ゲルトルードがエルドリッチに引き渡されるまでの経緯が含まれていた。自分たちでは手に負えないと判断した王家は、天使の少女を人食いに譲渡することに決めた。そこは、エンマとほぼ同じような話だった。 

 ゲルトルードの声と、光を奪った存在には、例えそれがゲルトルードの生き写しだとしても、容赦をされなかったのだと。

 貴樹の聞きたいことは、そんなものではなかった。今の彼女の状態をどうするべきか、解決策を求めているのだ。

 その旨を言うと、相手は少し考える表情になった。

 

「天使という存在は、まだ理解の及ばないところが大きい。ゲルトルードにとっては、昔から視えていたものだった。彼女の、生まれ持った力によって、それが顕現した。幻が、誰にでも見える現実になったというわけだ。今、その存在が危うくなっているのは、様々な要因が重なった結果だろう」

「要因、ですか」

「その子が王家から追放されて長い年月が経つ。ただの術ならば、とっくに効力を失っているほどの長さだ。それでもなお今まで存在してこれたのは、おそらくゲルトルードの瞳がその子自身に移されたからだろう。天使を視る力。それが宿った瞳があるうちは、その子も存在していられた」

 

 だが、彼女が目を持っていた時期など、最初の方だけだ。 

 

「ですが、その瞳は、途中でエルドリッチに奪われた」

「それが、最初の危機だったのだろう。あのまま人食いの傍にいれば、消え失せていた。それを救ったのが、祭祀場だと聞いている。ルドレスが、その子を火守女にしたそうだな。完全な憶測でしかないが、篝火の力というのは、大きい。彼女をそこへ結び付けることで、存在できるだけの余裕を持たせていた。だが…」

 

 貴樹を見てくる。

 

「今の状況を見れば、貴公が祭祀場からその子を連れ出したことくらいはわかる。どんな事情があったにせよ、再び彼女へ危険が迫った」

 

 薄々考えていたことだった。イルシールの地下牢から始まって、時折彼女が苦しんでいるのを見た。貴樹のソウルを与えれば収まったが、やがてそれさえも効果がなくなっていったということだろう。ソウルの寄与さえ受け付けなくなったのは、彼女の存在が危うくなっているのと関係がある。

 貴樹は、自らの行動を後悔してはいなかった。どうにかしなければ、彼女は今ここにいなかったのだ。だが、後悔していないからといって、責任をとるつもりがないわけではない。

 

「では、瞳を取り戻せば、まだ彼女には希望があるということですね。一刻も早くエルドリッチを探し出さないと」

 

 ロスリックはその考えに対して、何か言いたいことがあるようだった。しかし、その前に彼の視線は、貴樹の後ろへと向けられる。そして、目が思いっきり開かれた。

 貴樹もまたそれを追って見ると、火守女が立ち上がっているのが分かった。しかし、その様子は異常だ。顔が病的なまで青白くなっており、その立ち姿は酷く不安定だ。意識がないまま、無理やり体だけが動かされているようだった。

 彼女は、また、あの叫び声をあげる。聞く者全てを拒絶する声だ。

 自分が光に包まれることが分かっても、貴樹は抵抗しなかった。視界が一瞬で入れ替わり、再び鮮明になった時には、ロスリックの隣まで移動していた。

 先ほどまで彼がいた床には、穴が開いている。小さなものだが、その貫通力は驚異的だった。

 

「ありがとうございます」

「ここも危険だ。もう、手遅れらしい」

 

 貴樹はまだ諦めてなどいない。だが、目の前の異様には、今まで感じたことがないほど動揺させられた。

 火守女が宙に浮かんでいる。背中に光の翼を生やし、貴樹たちを見下ろしてきていた。その顔には感情がなかったが、おぞましい憎悪の叫びが全てを物語っている。はっきり言って、この空間には少しもいたくないと思った。

 だが、気になることもある。飛んでいる火守女の真下で、誰かがひざまづいていた。幼い少女のようだが、顔の特徴はよくわからない。全身が干からびていて、とても生きている存在とは思えなかったからだ。書庫にあった死体が、動いている。

 叫び声が一層大きくなると、貴樹たちへ向かって、何本もの光線が向かってきた。貴樹は上へと飛び、天井を突き抜けた。光線の速度はまさに脅威だが、追尾してくるわけではないらしい。王宮の屋根にまで上り、一息ついた。

 

「あれは、ロスリックのなにもかもを滅ぼすつもりだ」

 

 二人の王子もまた、同じ場所まで避難していた。動けないローリアンも、転移によって運んできたのだろう。ロスリックはややくたびれている様子だった。

 

「放っておいても、戻るわけではありませんよね」

「それどころか、このままでは彼女自体が危ない。自身の力を使いきれば、あとは、滅びるのみだろう」

「本当に、そうですか?」

 

 彼は王子と視線を合わせる。エンマの話を聞いた時から膨らんでいた疑問が、ある仮説にまで行き着いていた。

 

「天使という存在には、まだ謎が多い。例えば、祈り子のようなものがいれば、消えるまで相当の時間がかかる可能性もあります」

「祈り子だと? そんなもの、どこにもいなかった」

「見えて、なかったんですか?」

 

 まただ、と思った。彼女に関して、貴樹しか知覚できない現象が重なっていた。

 死体のことを話す。特徴を聞いていくと、ロスリックは信じられないと言わんばかりの表情になった。

 

「それは明らかにゲルトルードだ。つまり、彼女自身が、奪われた相手であるはずの天使に利用されているということか」

「とにかく、止めるためにはその死体をどうにかする必要がありそうです。何とか接近するしかありません」

「それでどうなる。祈る者を消せば、天使もまた消える可能性が高い。結局後には何も残らなくなるぞ」

 

 貴樹もそこで思考が詰まっていた。エンマの話が実は逆なのだということは察しがついている。今、助ける相手はゲルトルードではなく、天使なのだということも理解している。そこから先がわからなかった。今からエルドリッチを見つけ出し、瞳を返してもらう時間はない。

 考えていると、ロスリックが見つめてきているのに気がついた。

 

「あの子以外に何かが見えると、それは確かだな?」

「はい」

「…貴公の視覚は、特殊なのかもしれない。どうしてなのかはわからないが、あの子と非常に親和性を持っているようだ。そうでなければ我々でも認識できない祈り子を見られるわけがない。もしかすれば……、貴公の瞳はすでに感染しているのかもしれない」

 

 感染。ここにきて、引っかかる言葉出てきた。

 

「天使というものが王家にとって恐れられたのは、二つの伝染力があったからだとされている。一つは信仰。彼女は誰かに幻を見せて、それを信じさせていた。天使信仰の広がりは、あっという間だった。三柱達がまるで止められないほどに。もう一つは幻自体だ。彼女に影響を受けたものは、彼女の存在を確信する。それがさらに、存在の強化につながっていた」

 

 屋根を光が突き破ってきた。居場所がほとんどばれている。

 

「つまり?」

「彼女の祈り子とやらが消えても、存在を保つためには、瞳が必要だ。たとえそれがゲルトルードの瞳ではなかったとしても、少しは代用が効く可能性がある」

 

 ここへきて、貴樹もようやくわかってきた。

 

「僕が、祈り子の代わりをすればいいということですか?」

「いや、駄目だろう。今までも、貴公はあの子を実際に存在しているのだと信じ、そう扱ってきたはずだ。それでもああなっているということは、ただ貴公が祈るだけでは意味がない」

 

 ロスリックは、貴樹の顔を指差してくる。

 

「貴公の目を、あの子へと移植すればいい。そうすれば、根本的な解決にはならないだろうが、おそらくしばらくは落ち着かせることができるだろう。しかし、それはあまりに貴公にとって重い選択なのではないか? 今ここで、決断する時間はないだろう。ならば、別の方法を考えなくてはならなくなる」

 

 貴樹は腰を折り曲げ、足を上げる。足の中指を無事な方の左目に突っ込んだ。器用に瞳の周囲を穿ると、もう片方の足で落ちてきた目を受け止める。それをロスリックがいると思われる方向へと差し出した。

 

「一応傷つけずに取り出せました。これでいいですか?」

 

 いとも簡単に行われた行為に、ロスリックは反応が遅れているようだった。少しして、瞳をとる手の感触がした。

 簡単にはいかないか、と、貴樹は冷静に受け入れていた。もとからつぶれている右の方は、おぼろげに世界が認識できている。目を形どる線が、白い、おそらく奇跡と思われる線でおおわれるのが分かった。これは、ソウルの流れなのだ。自分が何を感じ取り始めているのか、正確に理解をした。

 しかし、左の方の視界は真っ暗だ。視えるようになるまで、もうしばらくかかるだろう。

 

「その目を持って、彼女へ近づけばいいんですね?」

「そうだ。だが、貴公が運ぶには困難が伴うだろう。私とローリアンで、どうにかしてみせる」

「いえ。貴方の弟にまで手を煩わせるわけにはいきません。僕が行きます。目を運ぶ役割は、貴方に任せます」

 

 貴樹がそう強く言うと、ロスリックは沈黙した。再び天使の叫び声が響いてくる。貴樹のすぐそばの天井が、崩落した。王宮は確実に破壊されている。

 

「最後に訊きたい。貴公がそれほど躊躇わずに決断をできるのは、なぜだ? 一体、あの子の何に、価値を見出している? 力がほしいのか」

 

 痛みを紛らわせように、貴樹は満面の笑みを浮かべた。

 

「彼女を何よりも、愛しているからですよ」

 

 

 ローリアンは彼らが飛び降りる寸前まで、何かを言いたげだった。急に来たよく知らない男に、兄を預けるのは不安だったのだろう。だが、ロスリックは貴樹を、多少なりとも信用することに決めたようだった。

 

「しっかり掴まってください」

「ああ」

 

 ロスリックは貴樹の首にしがみついた。彼を背負う形で、貴樹は天井に開いた穴から飛び降りる。予想通り、天使は迎撃をしてきた。

 光線が狙いをつけて、向かってくる。空中では受けるしか手がなかった。貴樹一人だけだったならば。

 ロスリックは耳元で詠唱する。直後、二人は白い光に包まれ、床の上にまで転移していた。何本かは追ってきたが、貴樹は走って避ける。ロスリックの術があれば負担はかなり減るようだった。

 

「そう、何回も使えるわけではない。時間をかけない方がいい」

「わかりました」

 

 叫び声とともに、十を超える光線が向かってきた。そのうちの半分ほどはロスリックが光弾で軌道をずらし、残りは貴樹自身がかわしながら、どうしてもよけきれないものだけ、足で蹴り落とした。

 

『一割削られた。残り四割』

 

 速さだけではなくその威力も桁違いだ。貴樹は受けた足の痺れを自覚する。今までそんなことはなかった。それだけ、目の前の存在はこの世界から逸脱しているということなのだ。

 だが、貴樹はすでに光線の速度に慣れ始めていた。目で追って把握することの無謀さを噛みしめている。ソウルの流れを視れば、それぞれの光線の軌道や、位置を正確に理解することができた。そこには、速さはあまり意味をなさない。

 自分の体の動きが次第に洗練されていくのが分かる。ゴットヒルト達との戦いで得たものが、強化されている感覚だった。それでもなお、何もかもがギリギリだ。どうしようもない場面がいくつかあった。そういうときは、ロスリックが転移をさせてくれる。二人の力が合わさって、徐々に天使の真下へと近づいていた。

 相手も、学習をし始めているようだった。敵の柱が何なのかを。

 光線の軌道が変化を始める。貴樹を直接狙わなくなっていた。たとえ彼へと向かってきたとしても、その狙いは彼の背中にいるロスリックへと向かっていた。転移先を、読まれることも多くなってきた。

 貴樹はそのたびに自分が対応する必要に迫られる。ただかわすだけでは間に合わなくなり、光線を弾いたりしていると、残り火の耐久力は二割にまで削られた。

 どれだけミスをせずにいられるか。集中力の戦い。それは貴樹にとって、得意とするものだ。今は特に、怒りの感情が目の前の敵へ到達することしか見えなくさせている。天使へ向かって祈っている死体へ近づくほどに、自身の憎悪は膨れ上がった。

 そしてついに、目標の目の前に到達することができた。

 貴樹は足で、ゲルトルードの死体の姿勢を崩す。それは気遣いも含まれているかのような優しい蹴りだったが、天使の動きが止まるのには十分だった。光の翼が弱まり、ゆっくりと床へと落ちてくる。ロスリックが魔術でその体を受け止めた。

 

「ゲルトルード」

 

 死体の顔もまた、燃えるような憎悪でゆがんでいた。そこにはかつて可憐だった少女の面影などどこにもない。

 

「君は、苦しかったんだね。王家の血の営みに、君は耐えられなかった。だから、昔から視えている友達の力に縋ったんだ」

 

 エンマの話で一番おかしかったのは、ゲルトルードが幼少期において、あたかも幸せに毎日を過ごしていたかのように語っていた点だ。王家の内情を見れば、そんなわけがないことはすぐにわかる。

 ロスリックとローリアンが王家のおぞましい行為に絶望し、反発を抱きながらも耐え忍ぼうとした。未来の火継ぎを否定しようという意思を隠しながら。

 だが、もし、ゲルトルードは違ったとしたら。彼らのように先を考えて我慢するのではなく、もはや爆発するのが抑えられないほど、憎悪が強まっていたとしたら。その時自分の元にとても大きな力があったとしたら。行使の誘惑に耐えられる者がどれだけいるだろう。

 

「僕が同情を口にしても、意味はないだろう。それでも、君の苦しみを忘れはしない。できれば君の怨念を救いたいと、その気持ちだけでも伝わってくれると嬉しい。僕は、君を幸せにしたかった。……とでも、言うと思ったか?」

 

 貴樹も彼女に負けないくらい、憎しみをこめて睨みつける。

 ゲルトルードの声と光を奪い、王家に多大な損害を与えた。それが、天使の所業だとエンマは語っていた。だが、それはおそらく、間違っていたのだろう。ゲルトルードは、自分から天使に全てを捧げたのだ。彼女の祈り子となるために。彼女を使って、復讐をするために。

 これまでにないほどの激情に支配され、相手へと言葉を投げつける。

 

「彼女を顕現させたのは感謝する。でもわかっているのか? 彼女の苦しみの元凶は、お前だ。お前が、彼女の存在を、おぞましいものとして周囲に認識させた。どれほど時が経っても、彼女に憑りつき、自身の苦痛の記憶すらも共有させた。そして今こうして、彼女自体が望まぬことを、無理やりさせている。ふざけるな! 俺のひもりんを使うんじゃねえ! いいか、よく聞け。彼女にふさわしいのはゲルトルード、お前じゃない。俺だ。俺が、お前みたいな糞の代わりに、彼女を幸せにする。わかったら、死ね」

 

 貴樹は、死体を散々に踏みつぶした。

 同時にロスリックが、倒れる天使の顔へ手を近づける。貴樹の瞳を奇跡の光で包むと、彼女の眼窩へと近づけた。

 

 

 

 

 

     ◆

 

 

 長い夢を、見ているような感覚でした。

 現在というものが曖昧になり、様々な記憶がばらばらに流れていきます。自分と、自分ではないあの子の記憶。網目のように重なり、絡まり合い…。そんな混乱した状況の中でも、はっきりと、その声は聞こえてきました。

 守ると。誰にも、傷つけはしないと。そんな力強い声がまるで昔から当たり前であったかのように、馴染みを伴って染み込んできます。

 よく、わからない人。ずっと私みたいな化け物に話しかけてくる人。怒るのも悲しむのも、全部私のためにしてくれる人。私の代わりに、そうしてくれるひと。

 その人の言葉が、あの子から伝わってくる苦しみの記憶の中で一層、際立って見えるのは、自然な事なのかもしれません。生まれた時から一緒で、どうにかして助けたいと思っていたのに、結局何もできなかった。私という存在が、私という実体をを得てからも滲んでいた苦悩が、その声を聞く時だけは、弱まっているような気がしました。

 なのに、この胸を締め付けてくる痛みは、何なのでしょう。あの人とよく一緒にいるようになってから、私は自分でも制御できない感情に何度も戸惑いました。それはあの人が傷ついていく度に強まっていって。私の意識が不安定になってからも、彼の行いを見て、存在しないはずの心が、縮んでいく感覚に陥りました。

 誰にも傷つけさせないと言われても。小さな少女は叫びました。その子はあの可哀そうなゲルトルードではなく、彼女と共に全てを過ごしてきた私の代弁者のようでした。

 貴方自身がどんどん傷ついていく。耐えられないのは、それがほとんど、私のせいでそうなったということ。

 祭祀場の方々と戦っていた時も。

 絵画世界から脱出する時も。

 私がいなければ、きっと、もっと楽な形で彼は進んで行けたはず。今回のことだって、彼が平静さを失いその代償を支払わせられたのはいつだって、私が原因でした。

 そして、よりにもよって。

 私は私の力を何も制御することができず、あの人へ直接攻撃を加えてしまった。その時ほど、自らの情けなさを感じたことはありません。どんな償いをしようとも、たとえあの人がいつものように何でもないという顔で許したとしても。私は、私を許せません。決して許しては、いけないのだと思います。

 体が、軽くなっていきます。あの子の憎悪が、王家に対する全てのわだかまりが自分の体から離れていきます。しかしそれで解放された気分にはなりませんでした。代わりに、もっと重く苦しいものが入り込んできました。

 倒れそうになった体が、誰かに支えられたのが分かりました。

 

「大丈夫かい」

 

 いつもの声。一番謝りたくて、一番どう顔を合わせたらいいのかわからない人の声。

 片方の視界が、鋭い何かで覆われます。少しだけ痛みを伴うものでした。最初は緑色で、それから徐々に、様々な色に細かく分かれていきます。

 

「どこか、苦しいの? 僕がわかる?」

 

 彼の声は不安げに揺れました。どうしてそうなってしまっているのかは、自分の頬が濡れる感触で、おぼろげに理解できました。どうやら、私は、泣いているようでした。それは、悲しみなのか。それとも、彼の顔、表情がぼやけていながらも、視覚で認識できていることに対して、思う所があるからなのか。

 それとも、右に宿る瞳が、彼の暖かいソウルで満たされていて。またも彼が自分を犠牲にしてしまったことを、理解したからなのでしょうか。

 とにかく、相手の苦しみを少しでも和らげたくて、私は返事をしました。その語尾がどうしようもなく震えてしまうのには、困りました。

 

「はい……、大丈夫です。灰の方」

 

 これまでとは、決定的に変わった何かを感じながら、それでもまだ変わらないものにしがみついていたいという気持ちと共に、

 私は、少しだけ、光を取り戻したのです。

 

 

 

 

 

     ◆

     

 

 宗教というものに、貴樹は一度も縋ったことはない。そんなものよりも自分の能力を信じていたからだ。

 

(神よ…)

 

 だが、今だけは違った。意識が戻った彼女の姿は、何かに祈らずにはいられないほど神秘的なもののように思えた。涙を流し、貴樹の呼びかけに答えてきた様子に対して、彼は大きく心を動かされていた。

 

(彼女の液体も、全部俺のものだ)

 

 貴樹は頬を彼女の顔にくっつけて、不器用に涙をぬぐった。そのままキスしてしまいそうになったが、今ここでそうしてしまえば何もかもが歯止めが効かなくなるとわかっていた。そして、彼女自体も驚いたように顔を引いたのも、躊躇わせる一因になっていた。

 

「どこか、おかしなところはない?」

「いえ、大丈夫です。私よりも、貴方の方が…」

 

 どうやら、記憶が全て戻っているようだった。ゲルトルードと彼女のことを考えれば、解放されたと表現した方が正しいかもしれない。

 

「久しぶりだ」

 

 彼女は身じろぎする。

 

「あの…」

「君とちゃんと話すのは、すごく、久しぶりな気がするんだ。今までのこと、憶えているかな」

「今まで…、わかり、わかりません。あ、いえ、違います。私、なんてことを。貴方のしてきたことを、憶えていると、思います。すみません、ずっと…」

 

 うーん、と貴樹は彼女を形作るソウルを観察した。顔を、直接見ることができないのは残念だ。彼女は今ひどく混乱している。その様を表情としてちゃんと認識できないのはとてももったいないことだ。きっと、もの凄く可愛いに違いない。

 

「落ち着いて。大丈夫。ゆっくりでいいから。まずは、片目が見えているかどうか、訊いてもいいかい? 拒絶反応は起きてないみたいだけど、ちゃんと機能しているのか、確かめたいんだ」

 

 少しの間があった後、彼女は答えてきた。

 

「大丈夫だと、思います」

「じゃあ、僕の頬を触ってみて」

 

 どこか遠慮するような手つきで、指示に従っている。彼女の動作にはそれでも迷いはなく、彼の顔を触ることができた。

 

「次は顎、首、うん。よし。肩と胸も、なるほど。お腹、太腿も触ってみて。ん、ちゃんと見えてるみたいだね」

 

 そのまま流れでちんこと言いそうになったが、今はそういう時ではないと思い直す。

 

「僕の顔がわかる?」

「はい…」

「髪の色は?」

「白、ですか」

「染めたんだ。オシャレってやつ。君はどう思う? 似合ってるかなこれ」

「わかり、ません。私には、あまり…」

「僕の顔の作りってどう思う? 自分ではバランスが取れてると思うんだ。褒められることも、多かったし」

「すみません。あまり、見えなくて。ぼやけていて、わからないんです」

「ごめんね。傷ついた瞳を移しちゃったから。いい奇跡使いの人に頼んでみるよ」

「ただ、」

「ただ?」 

「所々に傷があるのは、わかります。灰の方がこれまでどれだけ、困難を乗り越えてきたのかは、私にもわかります。耳も、額も、両目も、全部私のせいでそうなったことくらいは、わかっています。わた、私は、貴方にどう、何をどう、謝ればいいのか。今こうして、話をする資格すら、私にはないと思います」

「まあ、大変だったよ。それは確かだ。君が何か気後れしているのなら、二つだけ、頼みを聞いてくれないか?」

 

 少しだけ、彼女が安心したのはその動きで分かった。貴樹へとわずかに身を乗り出し、答える声は直前よりも安定している。

 

「はい。何でも申し付けてください」

「まず、僕のことは名前で呼んでくれると嬉しい。でも君は今まで何度か呼んでくれたから、そんなに難しくないよね。もう一つ、君の今着ている服から、ちょっとだけ布を取るから、それを僕の顔に巻いてほしい。さすがに目の部分は隠したいから」

 

 できれば火守女がつけていた頭冠を身に着けたかったが、さすがにサイズが合わないのでやめた。彼女は貴樹が足で黒衣の裾をちぎるのに身を任せ、それから近づいて貴樹の目の周りを布で覆い頭の後ろで縛ってくれた。下の丈が短くなって、彼女の足や脛の部分がよく見えるようになっているだろう。だが今の視界では、肌色というのも認識できなかった。

 その代わり巻く時に近づく彼女の感触を存分に味わった。耳に銀の髪がさらさらと当たり、香水や汚れなどでは決して出せない彼女自身の香りを楽しんだ。貴樹の吐息が火守女の首筋を撫でた時、彼女は落ち着かなげに手の動きを早くした。

 何かが違うな、と、そこへきて貴樹も思った。祭祀場にいたころの彼女よりも、今までの彼女よりも情緒が安定していない。ゲルトルードを引きはがしたことと、何か関係があるのだろう。これは一層、傍でよく見ていなければならないなと決意を新たにした。

 まだまだしたい話はたくさんあったが、玉座にいる者とも話をしなければならなかった。

 立ち上がった貴樹は、ロスリックたちへと向き直る。

 

「協力、ありがとうございました」

「成功して何よりだ。正直、分の悪い賭けだと思っていた」

「そうですね。こちらも安堵しています。僕達はもうこの城に用はなくなったので、次の目的地へ向かおうと思います。貴方たちは、どうしますか?」

 

 言っている言葉の意味がわからないと、ロスリックは首を傾げた。

 

「どう、とは?」

「僕達の利害は、ある程度一致していると思います。このままここにいても、薪として狩られる。貴方たちに異論がないのなら、一緒に来ませんか? 僕としても、貴方たちが仲間に入ってくれると、とてもありがたいです」

「気持ちは嬉しいが」

 

 ロスリックはすでに決断をしているようだった。また、言った貴樹も断られることはとっくに予想がついていた。

 

「私と弟はこのような体だ。旅をするのも難しい。それに、もう疲れた。ここに残り、やってくる祭祀場の者達に少しでも抵抗できれば、それでいい。唯一の心残りが、なくなったからな」

 

 ロスリックは火守女を一瞥して、初めて微笑んだ。

 

「私達も、貴公のような者がいてくれたら、何かが変わったのかもしれない。さらばだ」

「わかりました。貴方の意思を尊重します。では」

(さっさと殺すか)

 

 今、感覚が非常に冴えわたっているのは、追い風だと思っていた。連戦が続いている状況ではあるものの、目の前の王子達を処理するくらいは容易いだろう。あまり火守女の前で野蛮なことはしたくないが、ロスリックの血筋は根絶やしにすると始めから決めていたので、仕方がない。

 彼らを生かしておくメリットは何もないのだ。薪を祭祀場に多く与えすぎると、これからの計画に影響が出る。こちらが確保した方が、何かと都合がいい。それに、少しどころかかなり天使とゲルトルードの事情を理解していたようなのに、何の行動もしなかったロスリック達へは、失望しかなかった。やはり、彼女を苦しめた王家は全員屑以下だと再認識した。

 ローリアンの首に、大穴が開く。声のないうめきをあげ、血を吐き出しながらその場に倒れ伏した。ロスリックと貴樹はあまりに突然の出来事で、その体が床に転がった音で、ようやく異常に気がついた。

 

(あ?)

 

 自らの弟へ奇跡をかけようとしたロスリックが、自分の胸を見下ろす。そこからは、蒼白い矢が突き出ている。直後、さらに追加で何本かが彼の全身を串刺しにした。ちゃんと急所をとらえているようで、すでにその目には生気が残っていなかった。

 双王子の背後から、高校生くらいの男が現れる。もしかしなくても、貴樹の生徒だった。彼はしばらく思い出すのに苦労する。

 下田は青い顔で、二つの死体を眺めていた。彼へ太いソウルの流れが向かっていく。双王子のソウルを吸収したとたん、彼は地面にうずくまり、吐きそうな顔で口を押さえた。

 

「ご無事でしたか」

 

 クリムエルヒルトが、入り口から入ってくる。貴樹の方を見て、少しだけはっとした後近づいてきた。

 

「ここから離れましょう。祭祀場の者たちが近づいています。今遭遇するのはまずいはずです」

「あいつは?」

「どうやらずっと、狙いをつけていたようです。問題はないかと、泳がせていました。とにかく今は、移動しましょう」

 

 すでに、続いてホークウッドたちも中へと入ってきていた。

 貴樹は歩きながら、少しの間振り返る。明らかにここへ、下田一人だけが来ているのはおかしかった。彼の貧弱さを考えれば、そもそもたどり着けないはず。

 貴樹は傍らのクリムエルヒルトを見やった。彼の視線に気づかないふりをしている。さりげなく、結んだ唇を震わせているのがわかった。下田を手引きした誰かについては、確信を得た。問題は、なぜそんなことをする必要があったのかということだ。

 彼女の様子がおかしいことは、前から勘付いていた。時折、貴樹達の目の届かないところで、白い鈴に話しかけていたことも。誰から奪ったのかもわからないそれは、明らかにヨルシカの聖鈴だった。形や装飾で、そうと判断できる。

 問い詰めるだけなら、簡単だ。こちらの情報を祭祀場へ流しているのではないか。だが、貴樹は好都合だと考える。もしそれが本当だとしても、たいして支障はないからだ。

 何も指摘することはなく、彼は火守女の傍について王宮を出た。

 残ったのは、翻弄された下田の呻く声だけだった。

 




 キリがいいところまで行きたいので、もう1話投稿します。
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