火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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39.崩壊、降臨

 画家の少女がさらわれたことを話し、次の目的地はアノ―ルロンドに決まった。火守女の瞳をエルドリッチが持っていることもある。そろそろ、あの人食いの年貢の納め時が来たということだろう。

 ただ、その前に、貴樹はほぼ全員から説教じみたものを聞かされることになった。どうして、自分たちとの合流を考えなかったのか。火守女を助けるためとは言え、どうしてさらに自身が傷つく選択肢を選び続けるのか。

 特にアンリとフリーデは、イルシールに戻ってからもまだ言い足りない様子だった。貴樹としても今回はかなり無茶をしたと思っている。絵画世界の時と連続してこれなのだから、言い訳のしようもない。彼がどこへ行くのも、一人ではなくなった。皆は、全体に彼を単独行動させないと決めたらしい。

 反対に、完全に記憶が戻った火守女は歓迎されているようだった。一部を除いて。

 

「初めましてで、いいのかな」

 

 道中、薫が話しかける。その目は興味津々といった様子で、何かしら嫌な予感を貴樹に抱かせた。

 

「いえ、貴方のことは存じ上げています。灰様のご家族だとか」

「よろしくね。思ったんだけど、どこか具合でも悪いの?」

「?」

 

 薫は火守女に宿る貴樹の瞳を一瞥する。

 

「いやね、なんか元気ないなって。私が貴方の立場だったら、ずっと舞い上がりっぱなしになると思うんだけどな。自覚がないようだから、言っておくけど。貴方は、誰にもできなかったことを、成し遂げたんだよ。前代未聞だよね。貴くんが誰かに執着するなんて、今まで一度もみたことがない」

 

 火守女はどう答えればいいのか、わからない様子だった。薫から目を離したり、逆に薫の真意を確かめようとじっと見てみたり。貴樹はちゃんと足元に気をつけるよう言いたかったが、姉はさらに畳みかけた。

 

「私…この先を考えてみたんだ。貴方がはっきりとした態度も示さないまま、私の弟と一緒にいて、どうなるんだろうって。貴くんは、自分が傷つくような行動を絶対にしない子だった。そのためなら、どんな手段でも厭わないの。でも今は貴方を助けるためなら、どんな方法も取るようになってる。正直、怖い。きっと、大げさでもなんでもなくて、貴方はいつか、貴くんを殺す。たちが悪いのは、彼がそれを苦にもしないし、後悔もしないだろうってこと」

 

 彼女がフリーデの体の中にいなければ、とっくに殺している所だった。薫の意見に、皆どこか思う所があるようだ。それでも直接言葉に出して反論しようとする者はいない。貴樹としては余計なお世話という意見以外は何もなかった。

 だが、彼が何かを言った所で、雰囲気が改善されるわけでもないだろう。火守女は言われてからずっと俯いて、必死に考え事をしているようだった。彼女の思考を邪魔したくなくて、貴樹は側で歩き続けるだけしかしなかった。

 アノ―ルロンドまでの道は、貴樹にとってはあっという間に感じた。今の彼らを足止めできる敵など進む先には存在しなかったし、彼を何となく避け始めた火守女のことを考えるので、時間は矢のように過ぎ去っていった。

 エルドリッチの居城へと向かう間、その守り手による襲撃を警戒はしていた。しかし、そういった類の戦闘は全くなかった。それはアノ―ルロンドの城内に入ってからも同じで、さすがに何かがおかしいことを全員と共有した。

 かつて、グウィンの一族が根城とした場所。今では栄華の名残すらなく、ひどく荒廃してしまっている。そしてエルドリッチが座しているであろう玉座の間までやってきて、彼らは目的の達成がそう容易ではないということを知った。

 エルドリッチも、その側近の者たちも、姿を消していた。多少の時間をかけて城内の全てを見回ったが、気配すらつかめない。完全に、無人と化していた城内は、貴樹達の思惑を嘲笑っているかのようだった。

 

「どこに、行ったと思いますか?」

 

 アンリも腕を組んで考えていた。

 

「深みの聖堂でしょうか。あそこも、人食いの馴染みは深いはずです」

「俺たちが来ることを見越してたっていうのか。逃げることが目的なら、聖堂に行くのはおかしいな。あそこも結局ここと変わらない。俺たちを止められないのは、相手もわかっているだろう」

「そのどちらでもないとしたら、あれは一体どこに潜んでいるのかしらね」

 

 貴樹は質問した手前ではあるものの、何となく答えはわかっていた。それはきっと、アンリたちも同じだろう。それでも信じたくないという気持ちが、会話の中で現れていた。

 どちらにせよ、彼らは次にやるべきことを決めなければならない。全員の目が、貴樹へと向かった。

 

「とりあえず、エルドリッチのことは一旦忘れましょう。あれにも何か企みがある。いずれ、相対することになる。僕たちが次にすべきなのは、話し合いです」

「誰と、何を話し合うっていうんだ?」

 

 ホークウッドの疑問に対して、貴樹は少し溜めてから答えた。

 

「既に薪は全て、僕達か、祭祀場に所有されています。彼らは今、僕達の居場所を探しているでしょう。火継ぎの使命のために最後の戦いを仕掛けようとしている。しかし、生憎僕には彼らと戦うつもりなどありません。だから、話し合って、相手を納得させて、和解します」

 

 しばらく皆は無言になった。彼が本気で言っていると理解するのに時間をかけているようだった。特に一度離反した者たちは信じられない様子で貴樹を眺めていた。

 アンリが一番に反論をしてきた。

 

「どう、話し合うというんですか。正直妥協点が全く見つかりません。タカキさんにも話したはずです、どう考えても、和解が成立するとは思えません」

「彼らは、いわば間違った道を進み続けているんです。少なくとも、正しくはない道を。皆、この世界に生きる人なら全てが、乗り越えなければならない問題が存在しています。火が陰り、深淵の時代がやってくる。火継ぎでは決して解決策にならないことを、相手にわからせないといけません。そして彼らと協力しなければ、おそらく何もかもが終わります」

 

 貴樹は火守女と過ごしていくうちに、考えが変化していた。自分の力にも限界はあるのだと。彼女との暮らしを永遠に続けていくためには、もはや、借りられる力を全て利用するくらいではないと、駄目なのだと。

 ゲームでは、薪を集めることが主題だ。だが、そのエンディングの後も、貴樹たちは生きていかなければならない。むしろ今ここからが、本番だと言ってもよかった。

 

「まずは不死街にまで戻って、動向を確かめましょう。それに、ウィンさん達とも合流したい。彼らも鍵になるはずです。祭祀場にいる僕の生徒たちとも、話し合わなければならない」

 

 こうして彼らは、アノ―ルロンドを後にした。貴樹のした話を、全員飲み込んではくれたようだ。もちろん、苦労はするだろう。祭祀場に対して並々ならぬ感情を抱いている者がほとんどだ。彼自身としても、一度格好良く別れたつもりではあるので、次に彼らに会った時、どんな言葉をかければいいのか考えていた。

 火守女が貴樹のした話の途中、何かを確信するようにその瞳を曇らせたのを、彼は気づくことができなかった。両目を失った弊害だった。

 

 

 アノ―ルロンドからイルシール、そしてカーサスの地下墓を過ぎてファラン城塞。不死街までの道のりは、時間こそかかったが、もう何度か通っているルートなので、危険はほとんどなかった。

 ただ、貴樹の気分は優れない。不死街に到達しても、ほとんど火守女と話せていなかったからだ。彼はなんの気まずさも感じていないが、相手は違うらしい。彼女はずっと何かを考えていて、歩くにしても、アンリの傍によくいた。彼が話しかければ答えはする。それでも一言二言くらいで、ほとんどまともに彼の顔を見ることはなかった。

 これは、意識されている? ついに、彼女にも自分の気持ちが伝わったのかと、そこまでは貴樹も前向きには考えていなかった。どちらにせよ、ちゃんと会話をしないと何もわからない。

 不死街でウィン達を探す途中、休憩を挟むことになった。貴樹は家の残骸を見ている火守女に近づいていき、あ、と気の抜けた声を出す。足がもつれたふりをして、正確に彼女の胸元へと優しく倒れ込んだ。

 顔全体で胸の感触を感じて、大いに満足する。彼女の方は慌てた様子で彼の顔を支えてきた。手の感触もまた、いいものだと呑気に考えていた。

 

「大丈夫、ですか?」

「ごめん、ちょっと躓いたみたいだ。まだ感覚に慣れていないのかな。もうちょっと支えてくれると助かる」

 

 これだ、と思った。事故を装ってスキンシップを増やしていけば、そのうち相手にも慣れができる。そうすれば、さらに次の段階へ行っても戸惑われる可能性は少なくなる。会話のきっかけも増えて、妙に広がっていた溝をなくすことも容易だろう。天才か、と溶けかけた脳みそで自画自賛した。

 火守女は答えることなく、そっと貴樹から離れた。おや、と変な体勢で固まった彼の前で、手ごろな岩の上に腰かけたのが、ソウルの流れで分かった。

 

「少しだけ、時間を私に頂けますか? 貴方と、話をしなければいけないと思って」

 

 真面目な声に、貴樹もまたふざけた思考を消した。彼女の正面で同じようにゆっくりと地面に座る。話をするのは、彼も望むところだった。

 

「私は、灰様にとても感謝をしています。今までずっと助けてもらってばかりでした。どうお返しをすればいいのか、まだわかりません」

「いいんだよ。気にしなくていい。僕が好きでやったことだから」

 

 貴樹がそう言って笑うと、彼女はなおいっそう辛そうに顔を歪めた。彼はそういった様子を汲み取ることができなかった。それ故に、考えのすれ違いが起きかけていることも、遅れて気がつくことになる。

 

「…いいえ。私は、決して許されないことをしました。貴方がしてくれたことに、礼をするどころか、危害を加えました。どうか、罰をお与えください」

「罰? とんでもない。君が天使になって攻撃したことは、君自身が止められることじゃなかった。事故だった。それに、君が死ぬことに比べたら、僕の傷なんてたいしたことないよ」

「そんなことはありません。貴方は、そんなに傷つく必要はなかったと思います。私のことなど、見捨てていれば、こんなことにはならなかったはずです」

「いやいや。僕には無理だよ。君を放っておく選択肢なんてなかった。全部、自分で納得してることだから、気にしなくていいよ」

「ですが、貴方は四肢を斬られ、両目を失くし、反対に私は貴方の目を奪ってしまいました。このままでは、貴方に多大な迷惑しかかけません。…もう、私のことなんて、気にしなくていいんです」

 

 ここへきて、貴樹は話の内容がまるで進展していないことにようやく気がついた。彼女と出会った時から今までに、彼女の意識をまるで変えられていないことを、理解した。

自分の言葉がまだ足りていないのではと考え、火守女の方へと近づく。

 

「僕は、こんなことへでもないんだよ。君のためなら、何だってできるんだ。君のことが好きだから。正直、生まれてこの方そんな感情を抱いたことなんて今までなかった。同性はゴミだし、異性はもっとゴミだった。だから、今、この瞬間一つ一つが、楽しくてたまらないよ。幸せなんだ。だから、君がそんなに心配する必要はない」

 

 会話を聞いて他の者たちが集まってきた気配がしたが、割り込んではこなかった。

 しばらく、沈黙が続く。火守女の動きは少しだけ忙しなかった。ソウルの流動性が強くなっているとも言える。まるで理解できないものを目の前にした子供のようだった。

 

「どうして……、好きなんですか。私は天使です。得体の知れないもので、存在してはいけなかった。そう、周りからも言われてきました」

「だって、ものすごくあり得ないくらい、可愛いし。君の行動全てが、愛しいんだ。守りたいって、死なせたくなって考えるのは、当たり前じゃないかな。それに君は天使を悪くとらえてるみたいだけど、僕のいた世界では違う。あっちでは天、空が神聖なものだと考えられていて、天使は神様の使いとして崇められてる。崇められるからには相応の美しさを備えているだろうってことで、形容表現にも使われたりするね。そういう意味では、君は天使みたいな女性だ。僕にとってこれ以上もなく」

 

 彼女が小さく、首を横に振る動作をした。

 

「…申し訳ありません。少し真面目に答えてくれませんか」

「大真面目だけど。愛する人には幸せになってほしいんだ」

「幸せ」

 

 彼女は不安定な声で繰り返した。

 

「幸せとは、何なのでしょう」

「難しくないよ。命があって、自分が望んでいることがちゃんと叶えられている状態を言うんだと思う」

「望んで、いること」

 

 今度ははっきりとした言葉を口の中で転がしている。

 

「そう、君自身がやりたいこと。僕はその手助けをしたいと思ってる。君の喜びが、僕の喜びだ」

「私がやりたいこと…。わかりません。何も、思いつきません」

 

 それは自分自身に言い聞かせているようだった。否定の仕方には、どこか焦燥が表れている。よくないと思った。自らを騙している者が、幸せだとは到底思えない。

 

「本当にそうかい? 何なら、それを見つけるために僕も協力するよ。何だってする」

 

 また、沈黙。

 この時、貴樹は自身の言葉がどう受け止められているかを、客観的にとらえられていなかった。ただひたすら、彼女との間にある壁を壊したい一心で、気持ちをそのまま言葉にしていた。それが次第に、相手を追いつめていくとは知らずに。

 間をあけて、彼女は喋りだした。何かを決心したような、彼女には珍しい毅然とした声だった。

 

「やりたいことは、わかりません。ですが、何をしなければならないのかは、わかっています。私は、火守女です。そして、薪を保有しています。この身はずっと、火継ぎのために捧げられることが決まっていました」

 

 貴樹は少し面食らって、まだ続きそうな彼女の言葉を遮る。

 

「それは、他者から押し付けられた幻想なんだ。君は、他の誰にも、命令される必要はない。自分の事、自分の幸せのためだけを考える権利があるんだ。それを使命だとか、そういうもっともな言葉で侵害されるのは、とても悲しいことなんだよ」

「私は、わかりません」

 

 彼女の口調で、何やら会話が良くない方向に進んでいることがわかりかけてきた。それでも、ここで止めるわけにも、妥協するわけにもいかない。貴樹としても、これは非常に重要なことだとわかっていた。今まで自身の事情や周りの事情で避けてきたものと、相対しているのだから。

 

「この身に薪が宿っているとわかった時、何かに選ばれたような、許されたような、心と体が浮き上がる感触を覚えました。これを、幸せと言うのではないですか? こんな私にもこの世界のためになるのだと。それは確かに、私にとって嬉しいことではないのですか?」

「違うんだ。幸せっていうのは、自分自身の命を犠牲にして、得るものじゃない。もっと…,なんていうか、前向きなもので、楽しいことで」

「それは、貴方の幸せではないのですか?」

 

 貴樹も、その概念について語る言葉を多くは持っていない。この世界に来る前、日本の高校で教師をしていた頃は、知らなかったのだ。嬉しいとか楽しいとか、心の底から感じられるようになったのは、彼女と会ってからだった。だから、これが幸せなのだとすぐに断定した。人によって、形は様々なのだと未だに理解していなかった。

 火守女は今や立ち上がり、声の大きさも普段からは考えられないものになっていた。視えなくとも、どんな表情をしているのかは貴樹もわかっている。ただそれを即座に受け入れられるほど、彼の経験は深くなかった。誰かと、真剣に向き合った経験は。

 

「私が生きるというのは、貴方の望みではないのですか? 幸せ、幸せと何度も口にしていますが、それは、全て私から離れているように聞こえます。それに…灰の方は確かに言いました。約束をしました。私が色々なものを見て、色々なことを知った後でも意志が変わらないのなら、それは尊重すると。ですが、灰の方は火継ぎをなくそうとしています。さきほど、わかりました。私は…、嘘をつかれていたんですね。始めから、私の意志など、気にしていなかった。どうするかは、とっくに貴方が自分の中で決めていた」

 

 指摘されても、彼は平然とした表情を繕った。なぜ、彼女の前でも感情を偽らなくてはならないのか、段々とわからなくなってきている。

 

「いや、違う。よく考えるんだ。君は本当に今でも、自分を犠牲にしたいと思っているのか? 自分の命と引き換えに、自分を忌み嫌っていた者達も救いたいと考えているのか? それで自分自身が幸せになれるとでも?」

「すみません。二人とも、少し落ち着いた方が……」

 

 初めての経験だった。話せば話すほど、喉が締め付けられるように苦しくなっていった。みかねたアンリが止めに入ってきたものの、もはや両者はお互いに引けないところまで来ていた。お互いの、決定的な価値観の違いを擦り合わせようとしている。

 

「それを決めるのは、貴方なのですか? 私の幸せを、私が決めるのは駄目なことなんですか?」

「でもさっきから、君はわからないって言ってるじゃないか。わからないまま断定することは、危険だと思うんだ。だから、もっと良く考えてほしい。少なくとも、周りの皆は君が犠牲になることを望んでいない。もちろん僕だって。君が傷ついて、苦しむのはとても辛いんだ。死ぬことはもっと嫌なんだ。わかってくれ」

「私、私にだって、辛いことはあります」

 

 涙というのはつくづく不思議だと思った。ホークウッドが感謝の涙を流していた時も、クリムエルヒルトが守り手から解放されて泣いていた時も、画家の少女の時も、貴樹はまるで何も感じられなかった。だが、彼女の、火守女の涙だけは、彼に甚大な影響をおよぼした。見えずとも声が涙まじりになっていて、それだけでもう、全身が落ち着かなくなる。

 

「貴方の言う幸せが、嬉しいとか楽しいとか、そういったものなら、今私は多分、幸せではないんです。ずっと、苦しいんです。ずっと、自分を責めずにはいられないんです。私のためだと言って、灰の方がどんどん傷を負っていく。私にはわからない私の幸せなどのために、身を削っていく。そんな状況で、どう喜べばいいんですか。何をどう、楽しいと感じればいいんですか。私には、自分の幸せなんてわかりません。でも、私なんていない方が、貴方が幸せになれることはわかりました。だから、もう、やめてください。私を守るために、無理をするのはやめてください」

「ちょっと、ちょっと待ってくれ」

 

 そもそもなぜこんなことになっているのか、貴樹は誰かに説明してもらいたい気分だった。だが、わかっている。これはツケなのだと。今まで自分と彼女の、彼女に対する思いの温度差を深く考えてはこなかったツケがきた。

 貴樹もまた声を大きくした。普段感じる怒りとは違う、もどかしさがほとんどを占めている激しい何かが、彼の口から漏れ出ていた。それだけではなく、全身を嫌な悪寒が駆けめぐっている。

 

「言ってるだろ。無理なんかしてない。君を愛しているんだ。こんな気持ち、初めてなんだ。だから、そんなこと言わないでくれ」

「わからないんです。どうして、私なんかを好きになったんですか」

 

 堂々巡りだ。頭痛が段々酷くなってきた。

 

「好きだからだ。好きだから、愛しているんだ。えっと、体も好きだし。足とか、顔とか、頬とか、指先とか、とにかく、全部がいいんだ」

 

 彼女のソウルがさらに激しくなった気がした。間違いない、信じられなかったが、今、彼女は怒っているようだ。

 

「有り得ません。私は、貴方に何もできていないのに、好意を向けるのは、おかしいと思います。先ほど貴方は天使信仰に興味あるような話をしました。私は…気がついていないだけで、貴方にも力を使ってしまっているかもしれません。昔はゲルトルードがそれを使って、城の皆をおかしくさせました。私を、信仰するようになりました。貴方もその影響で、私に魅力のようなものを感じているだけです」

「頼む。それ以上は、言わないでくれ」

 

 貴樹は立ち上がり、彼女へ一歩近づいた。

 

「たとえ君だろうとも、僕の君に対する気持ちだけは、侮辱されたくない。僕は、強いんだ。君が天使だから愛したことなんてないし、天使自体には何も特別性を見てない」

「かつて、洗脳されていた人はある時を除いて皆正常でした。自覚できない呪いというのは、いくらでもあるんだと思います」

「呪い…」

 

 無意識に洗脳を受けているのは、火守女の方だと声を大にして言いたかった。だが、それを実行したとして、今までの会話の流れから、何かが大きく動く可能性は低い。言葉よりも、行動を。彼自体も既に冷静ではなくなっている。彼女が後ずさるのも構わす、思いっきり抱き着いた。

 だが、予想外の力で腕を突き出される。そんなもので動かせるほど貴樹は弱くなかったが、はっきりと拒絶されたという事実が少なくない衝撃を与えた。今まで彼女から明確に敵意を向けられたことはなかった。こんな初体験など、ありがたくも何でもない。

 

「お願いします。私のことは気にせずに、貴方自身の幸せを考えてください…」

 

 そう消え入りそうな声で言うと、火守女は離れていった。周りの皆からも距離を取りたいようだった。数人が追いかけようとするのを、貴樹は止める。ここらの敵は掃除し終わっている。それに彼女だって、たまには一人で考える時間も必要だった。

 貴樹は全身の力が抜けた気がして、その場に座り込んだ。いつの間にか荒くなっていた呼吸を整えていると、アンリの気づかわし気な声が降ってくる。

 

「大丈夫ですか?」

 

 そして彼女は驚いたように息を呑んだ。

 

「タカキさん」

「いや、これは、違うんだ。ちょっと自分でも、うわ、かっこ悪い」

 

 全員が押し黙る中、彼は自分が泣いていることを自覚した。瞳がなくても、涙というのは流れてくるらしい。ただ、貴樹には自分の経験として、正常な時との比較はほぼ不可能だった。なぜなら、自分の記憶にある限り、人生において初めてのことだからだ。生まれた時を除いて、彼は泣いたことがなかった。

 それも、これは悲しみや不安から来るものではなかった。彼女との溝が埋まらないどころか広がったような気すらするのに、次から次へと喜びがあふれてきた。さらに言えば、危うく絶頂するところだった。

 

「初めてなんだ。彼女は、ちゃんと、自分自身のことで怒った。それはつまり、自分自身のことを考えてる証拠だから。だから、嬉しいんだ。これは凄いことなんだ…」

 

 誰かが声をかけてきたが雑音に終わった。それは貴樹自身が自らの感情に整理をつけていないだけではなく、ただ単純に意識が遠のき始めているせいでもある。火守女との会話の途中から、すでに体の限界は来ていた。

 貴樹の傷はほとんどまともな処置がされていない。奇跡も効かない状況では、打てる手はほとんどなかった。痛みはとっくに慣れていたが、心と体は別物だということだろう。いくら精神が元気でも、やってくる重さには勝てなかった。彼はそのまま幸せそうに失神することになった。

 

 

 

 

 誰かの焦るような声が聞こえた。防御を固くしろ、だとかなんとか。剣戟、何かの唸り声。始め貴樹はそれを遠くで聞いている気分だった。耳が厚い膜で覆われているようだった。それがやがて、はっきりとし始める。意識が浮上し、額のあたりがひりひりした。

 目を開けると、ミレーヌとクリムエルヒルトが難しい顔をしている。白い布や、液体を手に口論していた。ガーゼや消毒液はおそらくミレーヌのインベントリから取り出したものなのだろう。奇跡では治療できないから、医療の方に頼ることにしたわけだ。それでもミレーヌは記憶が定かではないようで、処置をされている身としてはあまり快適ではなかった。

 とりあえず半身を起こすと、二人はまだ寝ているように言ってきた。ただ、そうするわけにもいかないということを、周りの状況で理解する。

 他の者達は、貴樹を中心にして、陣を作っていた。お互いの隙をかばい合い、迫りくる亡者の集団を退けている。

 どれくらい経った、と、彼は自分の感覚がおぼろげになった。かなりの数の亡者だ。それも囲まれている。どこから湧いたのか、見当もつかない。さっきまで、ほとんど処理されていたはずだというのに。

 ホークウッド、アンリ、ホレイス、フリーデ。戦っている彼らを確認して、最も肝心な彼女がいないことを遅れて理解する。

 体のだるさは、一時的に消え失せた。一息で立ち上がると、前線の方へと走る。

 

「彼女は?」

「タカキさん? 目を覚ましたんですね。まだ、休んでいてください」

「ひもりんは、どこですか?」

 

 アンリは、今気づいたと言わんばかりに、はっと顔を青ざめさせた。

 

「貴方が倒れたと同時に、襲撃してきたんです。ですので、あの子を気にする余裕が…。申し訳ありません」

「もう、彼女はここにいないよ」

 

 亡者の群れの中に、突然、人影が現れた。その両目は爛々と光っている。短剣を両手に持ちながら、一番前まで出てきた。

 リリアーネは、嫌な微笑みを浮かべている。

 

「迂闊だよね。駄目だよ、あれを孤立させちゃ。もう祭祀場に着いているんじゃないかな」

「あ?」

「びっくりしたのはねえ、あれが何の抵抗も見せなかったとこ。だって、自分から連れていってくださいって頼んだんだよ。笑えるよね。お兄さん達は、見限られたのかな」

 

 前に立つ亡者をなぎ倒しながら、リリアーネの顔面に向けて足をふるう。鈍い音がして、短剣で蹴りが受け流されたのが分かった。その刃はほぼ壊滅状態だが、一撃をしのいだだけでも、彼女の技量が伺える。短剣だけではなく、持つ手もへし折られていたが。

 

「あれ。おかしいな。お兄さんぼろぼろなのに、強くなってない?」

 

 それが最後の言葉でいいのかと思った。呑気に話している彼女の顔に向かって、上段蹴りを放つ。かわされたが、もう一手でとらえることは確実だった。やや体勢が崩れている。

 リリアーネは亡者の群れに紛れて、さらに後ろへと移動した。

 

「ま、落ち着こうよ。私なんかを相手にしてていいの? 早くいかないと、間に合わないかもよ。薪にするのは、別に首だけでも十分なんだから」

 

 そう言っても、貴樹たちを邪魔する気でいるのは確かだった。リリアーネの周囲には白い仮面を被った軽装備の亡者が固まっている。白い影。

 向かってくる一体の首をもぎ取ったが、それでも武器をふるってきた。前に戦った時と変わらず、異常なほどにしつこい。

 彼の背後を突こうとした亡者が、鎌によって真っ二つにされた。

 

「キリがないよ。お姉ちゃん、提案があるんだけど」

 

 フリーデの姿をした薫を見て、リリアーネは獰猛な笑みを浮かべた。長年求めたものが目の前にあるかのような喜びと、隠しきれない憎悪が表れている。

 

「やっと会えた。フリーデ姉さま。待っててね、すぐに憑りついている女を殺して解放してあげるからね。もとに戻してあげるからね。我慢してて」

 

 亡者の一団が貴樹と薫に向かってとびかかってくる。それをさばきながら、会話をした。

 

「何をしたんだ。随分好かれてるみたいだけど」

「ちょっとね。嫉妬ってやつかな。それより、このまま馬鹿正直に付き合ってちゃ、間に合わないよ。ここは私たちで何とかするから。貴くんは先に行って」

 

 他の者達も、同意見のようだった。クリムエルヒルトが、緊張した顔で言ってくる。

 

「あの子を助けたら、またすぐに合流しましょう。いいですか、今旦那様一人で祭祀場の者たち全員と戦う必要はありません。目的を達成したら、すぐに戻ってきてください」

「わかった」

 

 とりあえず全員が問題なく戦っているのを確認してから、貴樹は包囲の突破を始めた。数は多いが、しょせん雑魚の寄せ集めだ。リリアーネの妨害もあっさり乗り越え、先へ進むことができるようになった。

 

「待って」

 

 薫が叫んでいる。

 

「私、なんていうか、ごめんね。彼女に言いすぎた所もあった。責任は感じてる。あの子それで、気に病んだのかも。ごめんなさい」

 

 貴樹は足を止めずに走り続ける。不死街から祭祀場まで、どれくらい離れているのかはわからない。二つの位置関係さえほとんど把握しきれていない。だが、別にそんなものは必要なかった。転移の道がつながっているからだ。

 出会う敵の相手もほとんどせずに、まっすぐ篝火のある廃屋を目指した。そこから祭祀場の広場まで一瞬で行ける。そう、時間はかからないはずだ。

 向かう途中、貴樹は己の言葉の足りなさを自覚していた。思うに、火守女は一種の罪悪感にとらわれている。彼が自分のために傷つくことが、耐えられないのだ。そこまで心配してくれるのはもちろん嬉しいが、このままでは駄目なのもわかっていた。

 もう少し、落ち着いてじっくりと会話をすればいい。自分もまだまだだと思った。まだ、彼女は自身の価値について考えることを避けている。自身の気持ちから目をそらしているといってもいい。

 貴樹としても、今まで払った犠牲をさらに重ねるのは、さすがにやりすぎだと思っていた。彼女と同じくらい、自分自身も大事にしているのだと、ちゃんと伝えるべきだろう。ただ自分の気持ちを押し付けるだけでは駄目だったのだ。

 それでも、彼女が自分自身の命を進んで危険にさらすことは、注意しなければならない。その点には貴樹も少し怒っていた。厳しく言うのは気が進まないが、彼女との関わりにおいて、妥協はなしにしたい。

 本気でそうできるのかと自問自答しつつ、全速力で廃屋にたどり着いた。中にある篝火は変わらず燃えている。

 腕の欠けた根元をかざし、彼は篝火の力を発動させる。ただ、前は当たり前のようにできていたものが、意識しなければならなくなったのは変わった点だろう。自身の体が曖昧になる感覚に包まれて、周りの雰囲気が一瞬で変わった。

 

 

 足が冷たい石床の上に立つのがわかる。ぱちぱちと近くで篝火の音が聞こえていた。

 貴樹の耳は、すぐに火守女の声をとらえる。酷く弱弱しく、そしてそれは下から聞こえてくるようだった。

 他の方角からも、驚いたような声がしてくる。

 

「誰…?」

「先生だ」

 

 取るに足らない、聞き覚えのある声。一度周りを見渡せば祭祀場の戦士たちがほとんど全てそろっていることを理解しただろうが、貴樹はただ一点だけを見ていた。

 暗闇の中で、火守女の形がソウルとして認識される。彼女はどうやら、床に倒れているようだった。

 血の臭い。

 貴樹は一歩踏み込む、広がった血だまりの上に来た。危険な量だ。ほとんど失血死してもおかしくないほど。

 彼女の体を形作るソウルは、頭から膝上までで途絶えていた。つまり。貴樹は時が制止したような空間で考える。彼女の両足は既に失われている。斬られたのだろう。少し離れたところに、無造作に転がっていた。そう感じた。

 

『タカキ』

 

 彼は彼女の言葉をかがんで聞き取った。ノミの警告もほとんど気にならない

 

「灰様…もうしわけ、ありません。私はまた、貴方に迷惑を……」

 

 火守女はまた泣いているようだった。嫌だな、と素直に思う。また、悲しませてしまった。そうしたくないのに、繰り返してしまった。

 だが、今の貴樹は自己中心的だった。彼女の痛みに同情する前に、何やら非常に不愉快な存在があちこちにいると考えている。

 

「誰だ?」

 

 対して大きく声を出したつもりはないのに、広場に響き渡ったような気がした。

 

『タカキ、よく聞け。今すぐに彼女を連れて戻るんだ』

「足を、やったのは誰だ?」

 

 二度の呼びかけで、相手も反応する余裕が出てきたようだった。ずっとにやにやしていた宇部が喜々として進み出てくる。

 

「俺だよ。先生。いい気味だな。そんなになっちまって。でも俺たちを裏切ったんだから、当然の報いだよな? そいつも最初は我慢してたんだが、途中から泣き始めたんだぜ」

 

 正直、貴樹には誰なのか思い出せなかった。ただ相手の発言だけで全てが完結していた。貴樹は火守女から離れると、声のした方へと歩き出す。

 相手も身構えたようだった。

 

「はは、くんのかよ。馬鹿だな。いいか、前の俺とは違うんだ。聞けよ。俺の身体能力は十五倍になってる。あんたも似たような能力持ってるんだろ。残念だな、格上がすぐそばにいて」

 

 宇部はすとんと、自分の体がいつの間にか倒れてることに驚いているようだった。そして、自分の足が潰され骨があちこちから飛び出しているのを見て、絶叫を始めた。

 貴樹はただ教えたいだけだった。足をどうにかされるというのは、それだけ辛く痛いものなのだ。宇部が十分にそれを感じ取ったと思った所で、彼の頭を踏みつぶした。血とぐちゃぐちゃの脳漿しか残らないほどにまで何度も繰り返した。

 悲鳴が上がる。

 

(なるほど。そっちに固まってんのか)

 

 正直、うんざりだった。火守女の何億分の一の価値にも満たない砂利達が、この世界にいること自体がおかしかったのだ。いい機会だと思う。彼は生徒達を処理することを今ここで決断した。不死身なのはわかっている。だが、精神まではそうではないだろう。上手い殺し方をすれば、すぐに再起不能になるはずだ。

 

『タカキ、頼む、聞いてくれ。落ち着いてくれ。奴らはこのことを計画してたに違いない。お前を向かいうつ準備を万端にしているはずだ。今すぐ、火守女を連れて逃げるんだ』

 

 頭の芯は冷えているのに、それ以外は灼熱のようだった。

 

「タカキ、吾輩たちはこれ以上、無駄な争いをしたくない」

 

 大きな体が進行方向を遮ってくる。グンダだろう。彼は本気でそう思いながら話しているようだった。

 

「本来の目的を思い出してくれないか。お前の感情もよくわかる。だが、それ以上に大事な存在のことを忘れてはいけない」

「どいてください」

「自分の部下たちと、元の世界に戻る。それこそが、一番の望みではないのか」

「どけ」

 

 グンダが動き出すよりも前に、貴樹は彼の股下に潜り込んだ。それから渾身の力で相手を蹴り上げる。何かを破壊した手ごたえはなかったが、グンダの体は吹っ飛んだ。あっという間に天井へと到達すると、それすらも突き破り、全身が外に出ていって見えなくなった。

 周りの動きがにわかに慌ただしくなる。その中でも、ちゃんと、生徒達の気配は感じ取っていた。どうやら逃げようとしているらしい。まるで被害者のような動きように思わず嘲笑がもれた。

 一体何を勘違いしているのだろう。傍観していた奴らも同罪だというのに。

 

『おい、止まれ! 思い出せ、お前が一番今しなきゃいけないことは…』

(黙って、俺に、力をよこせ)

 

 ずんずんと頭に声が響いてくる。意味までは取れない。ノミのやかましい声とは違って、静かだった。だが、無視できないほどに大きくなっていた。

 ジークバルトと、フォドリックが、剣をふるってきた。片方を弾いて、もう片方に当てる。二人のバランスが崩れた所で、足を回転させて吹き飛ばした。

 魔術の線が見えたので、最小限の動きで避ける。撃ってきた方角と位置は分かっている。ヨルシカは、遠距離を捨てて、一気に接近してきた。が、彼女が何かをする前に、貴樹は攻撃を終えている。効いたのかはわからないが、先へと進む隙ができた。

 動かない者もいる。あまり関係はないと、貴樹は思っていた。生徒ほどではないが、祭祀場の戦士たちにも失望していた。彼女を傷つけた報いを受けるべきだ。例外なく、全員が。

 目の前に生徒しかいなくなった時点で、頭の痛みは最高潮に達した。熱っぽい感じだ。もしかすると、放置していた傷口のせいかもしれない。体にいい影響を与えるはずがないのだ。

 気がつけば目の前が床になっていた。一瞬何が起きたのかもわからなくて、自分が血を吐いていることにも遅れて自覚する。胸の奥が異常なほど熱かった。何かを開放するかのように燃え上がっているようだ。意識の混濁が始まった。

 誰かが叫んだ後、足に何かが巻き付いた。拘束の魔術かと思い、引きちぎろうとする。が、それは一向に叶わない。よくよく感じてみれば、普通の縄のようだった。そうだというのに、残り火の膂力をもってしても、千切れる気配がない。

 

(こいつら、全員、ぶっ殺してやる)

 

 遠くから何度も攻撃されながら、貴樹は思う。

 

「加減を考えてください。もう少しのはずです。首から上は狙わないでください。あと一割……、やめてください」

 

 祭祀場に静寂が戻った。

 どこかで泣いている気配もしたが、痛いほどの静けさだった。

 貴樹は自分が倒れていることを理解している。だが、何を意味しているのかはまだ考えたくもなかった。

 今まで感じていた湧き上がる力が、消えている。これは久しぶりの感覚だ。何の加護もない状態。残り火が効力を切らした時のもの。

 

「イリーナ、そろそろのようです。篝火のそばへ」

 

 横を、女性が足早に通り過ぎていく。

 自分が、ミスをしたことは認めよう。冷静になるべきだったと。しかし、まだ手はあるはずだった。あっちのホークウッドたちが気付いてくれれば、この状況を脱することもできる。

 イリーナは篝火に向かって何かを唱える。途端弾けるような音がして、誰かが出現した。その人は手に持っていた荷物を下へと放る。少しの時間でも持っていたくないと言わんばかりに。

 ヨルシカが、ため息をついた。

 

「際どいところでしたね。随分と時間がかかったようですが」

 

 フリーデは、薫は淡々と答える。

 

「勘弁して。こっちだって苦労したんだから。二人生け捕りにしなきゃいけないなんて、無茶にもほどがある」

 

 ホレイスは既にほとんど虫の息のようだった。彼は転がっているアンリの首に手を伸ばそうとしているが、到底届かない。彼の体はすぐに別の場所へと運ばれていった。

 

「裏切った……、とことん、見下げ果てた、奴…。臆病者……」

 

 クリムエルヒルトも同じくらいひどい状態だ。四肢を切断されて、喉も傷つけられている。おかげで、声は潰れて聞き取るのに苦労を要した。

 薫は冷たく彼女を一瞥してから、ヨルシカへ礼をした。フリーデの体もまたかなり傷ついているようだ。

 

「首三つと、必要な二人。これで十分ですか? 私、休ませてもらいます。かなり疲れましたから」

「構いませんよ。ご苦労様でした」

 

 貴樹は寄り添うように放置されている、ホークウッドとミレーヌの首を見た。ここで全ての思考を放棄するほど、精神的に弱くはなかった。それはある意味、より気の毒なのかもしれない。

 体を折り曲げ、足の拘束を解こうともがく、どれだけ力を入れても無理だった。縄が食い込んで血が出てきても、貴樹は止めなかった。

 

「やめて」

 

 薫が近づいてきた。彼女へ向けて、それだけで殺せそうなくらい鋭い表情を向けた。実際にもう少し距離が縮まれば、飛びついてその首もとを噛み切るつもりでいた。

 

「てめえ…、このババア」

「ごめんね。そういうことだから。でも、安心して。全部、貴くんのためなの。私、私は、後悔してないよ。ごめんね。わかってくれたらいいな」

 

 フリーデの顔が泣きそうに歪んでも、殴りやすくなったとしか考えられなかった。正直、始めから薫のことなど信用してはいなかった。だが、フリーデの方はこんなことを容認しないと思っていた。どうやら、思い違いだったようだ。今まで疑っていたのはクリムエルヒルトの方だった。それもまた、間違いだったのだ。

 貴樹は暴れたが、すぐに意識を飛ばされた。最後まで、火守女の方へ顔を向けながら。

 

 

 

 

 目を覚ますと、そこは部屋の一室のようだった。しかし、扉や壁が厳重に補強されている。牢屋の一種なのだろう。それにしては内部の装飾は凝っているように思われた。

 貴樹は、ひたすら思考する。顔を一点に定めて、これまでのことを考えていた。

 

『…どうするんだ』

(…)

『正直、絶望的だ。お前の姉の思惑にも気付けなかったのは、すまなかった』

(少し、考えてみたんだ)

 

 体の熱は既に引いている。それでも、それはいつでもやってくるのだと、貴樹は分かっていた。そう、遠くない時期であることも。

 

(結局、一番の失敗は何だったのか。原因は何なのか。一番、許せない奴は誰なのか)

『タカキ…』

(あの糞姉じゃないことは確かだ。殺すのは確定だが。俺は当然、自分自身にも怒っている。思考が足りなかったことも、今の状況を作った要因だからな。だが、わかるか。俺が、一番、ぶち殺してやりたい相手が誰か、わかるか?)

『……』

(元々、妙に感じていたんだ。俺はずっと、その感じがこびりついて離れなかった。誰かの手の上で転がっている気がどっかでしていた。俺は自分で考えて、自分の意思で行動していたつもりだが、そうじゃない部分もあったんだ)

『それは、どうなんだろうな。お前は…、今は冷静じゃない。そういう妄想にとらわれるのも仕方がないぜ』

(妄想、妄想…ね)

 

 扉が開かれる。入ってきたのはヨルシカ一人だけだった。正確には、一人と一つの死体が目の前にやってきた。彼女はそれを丁重に扱い、床に転がす。

 見たところ、それは老人だった。痩せ衰え、筋肉の名残はうかがえる。貴樹はその者が誰なのかわからなくても、その立場はよくわかった。わかるような気がした。

 ヨルシカは神妙な面持ちで、膝をつき、礼をした。それは死体にも貴樹の方へも向けたもののようだった。

 

「機は熟しました。我らに薪は全て揃いました。お目覚めください」

 

 同時に、貴樹は体内に異常を感じた。何の痛みもなかったが、一瞬、もの凄く熱っぽくなった。それから、大きな虚脱感。おのれの内部から多くが引きはがされていくような、喪失感に襲われた。

 それは、視ることもできる。貴樹の体から、炎のようなソウルが流れ出ている。それは奔流のように激しく老人の死体に注がれていく。死体、だったものに。

 貴樹は耐えられずにベッドの木枠によりかかった。全身が鉛のように重い。今は、おそらく立ち上がることすら困難だろう。だが、そんな体の異常よりも目の前で起こっている異常の方が、ずっと気にするべきだった。

 老人の目に鈍い光が戻る。体が動き出す。明らかに長時間経っていて、ぼろぼろで痩せこけてもいるのに、老人は腰を起こし、真っすぐ立ち上がった。

 決定的だったのは、先ほどの戦闘の時だろう。貴樹は、なぜか、首から上の防御がない部分だけは攻撃されなかった。そして、残り火の耐久値がどれほど残っているのかも、正確に把握されていた。その事実は、ほとんど彼自身しか知らないはずだった。例外を除いて。

 彼は喘ぎながら、老人を睨みつける。相手は静かに、こちらを見下ろしてきていた。

 

「ノミ…、てめえ……」

「儂は、そんな名ではない」

 

 太陽の神。火の大王。そう称されている老人は、既に興味を失ったかのように、彼から視線を外した。

 グウィンの復活を、この場ではヨルシカだけが讃えていた。

 

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