40.取るに足らない六日間
(1)
下田は、今まで慌ただしかったせいで忘れていたことを、思い出した。
目の前では篝火が揺れている。心なしか、今までよりも明るい色になっている気がした。勢いも、強くなっている感じがする。
炎の輝きを見ていると、少しだけ時間を忘れる。色々な事から、解放される。
「なんか、嘘みたいだよね。もう少しで、現実に帰れるなんて」
隣で、ちとせもぼうっと前を見つめていた。彼女もまた複雑そうだ。喜べばいいのか、それとも。下田も同じだ。草野達を救える可能性が間近に迫っているというのに、それを素直に喜べる気分ではなかった。
広場には、できればいたくない。それでもこうして生徒達がほとんど集まっているのは、召集がかけられたからだった。ヨルシカから、重要な話があるらしい。
下田は石の玉座を見やった。薪の王が安置される場所。計五つある玉座を、順番に眺めていく。
唯一生きているルドレスは、目を閉じて過ごしている。眠っているわけではなさそうだった。これまでほとんど、彼が眠っている所を見たことがない。
そこから左右に同じ玉座が広がっていく。巨人ヨームの首。それはあまりに巨大で、逆におぞましいとは思わなかった。死骸となってもなお、今にも目を開き何かを喋り出しそうな雰囲気があった。
ただ、その他はあまり下田にとって気持ちの良いものではない。一つの玉座に二つの首。ロスリックとローリアンだ。気分が悪くなってきても、彼はしっかりと目にいれた。自分はそうする義務があると思っていた。
クリムエルヒルトに脅されて、下田は彼らを殺した。魔術で行っただとか、そういうのは関係ない。問題なのは、彼らが果たして自分が命を奪っていい相手だったのか、わからない点だった。見えない体を使って潜んでいる間、ロスリックと貴樹の会話を聞いていた。その時はとても、悪い人には見えなかったのだ。
そして、事を終えた瞬間、クリムエルヒルトから毒のことは嘘だと知らされた。彼女への怒りよりもずっと、何も疑うことをせずに翻弄された自分自身の事が嫌だった。祭祀場の者たちに薪の王を屠った功績を褒められても、その気持ちがなくなることはない。
そして、四つ目の玉座にはミレーヌとホークウッドの首。
特にミレーヌの顔は苦しそうだった。何よりもその目が、最後まで誰かへ向けられていたかのように必死なのが、何とも言えない切なさを感じさせる。彼女とそう関わりが多かったわけではないが、彼女も含めたロスリック城で行動を共にした者達のほとんどが死んだことに、何も感じないわけはない。彼らが互いを曲がりなりにも仲間として、一緒に行動していたことを思い出すと、たとえ下田達と対立していたとしても、複雑な思いは消えなかった。
最後に彼は、一番右端の玉座を見た。同時に、あれからのことを振り返る。
貴樹の、先生のことは考えるのを避けていた。あの時、彼が祭祀場に来た時、宇部を殺した。その瞬間、彼のことが別人に思えた。そしてその憎悪が自分たちにも向けられているとわかった時、胸が張り裂けそうになった。
彼が捕らえられ、しばらくすると、最後の薪を得る作業が再開された。ルドレスと同じように、生きたままでいさせることもできた。しかし、彼女はルドレスとは違って、静かに受け入れることをしなかったのだ。
「あの人は、無事ですか」
火守女は両足を失ってもまだ、自身のことを気にかけていないようだった。別室へ運ばれた貴樹を心配しているようだった。
「大丈夫ですよ。命に別状はありません」
ヨルシカがそう答えると、彼女は安堵したように息を吐いた。その時点ですでに、下田は違和感を感じていた。あの人はそんなに素直に感情を表すような人だったかと。少なくとも、貴樹が祭祀場から連れ出す前は、全ての情動が人形めいていて、少し苦手だったのだ。それが今は少し違う。片方だけに宿る瞳が、彼女の印象を大きく変えていた。
「貴方の行動は称賛に値するでしょう。外からの誘惑に惑わされることなく、己の使命を最後まで貫いた。誰にでもできることではありません」
「はい…、ありがとうございます」
彼女は礼を言いながらも、どこか上の空な様子だった。胸を押さえながら、少しの間だけ別の方向を向く。貴樹が運ばれていった方向を。
「彼は、どうなりますか」
「どう、とは?」
「彼には、罪はありません。全て、流されてしまった私の責任です。どうか、彼には厳しい処罰は与えないでください。お願い、します」
ヨルシカは虚を突かれたような表情をしてから、頷いた。
「我々としても、初めからあの方と対立しなければならなかったのには嘆いていました。貴方の願いは、果たされるでしょう」
「感謝いたします…」
ユリアが進み出る。火守女を石の玉座まで運ぶ役割なのだろう。だか、ユリアがすく傍にまで近づいたところで、火守女は再び話し始めた。
「すみません、彼に、言伝をお願いできますか。私は、あの人にたくさんの迷惑をかけてしまいました。感謝と、謝罪を伝えてください」
「わかりました」
火守女はほっとしたように頭を下げる。だが、表情が緩んだのは少しの間だけだった。胸をさらに抑えて、まるで自分の事が理解できないかのように困惑気に口元を結んでいた。
ユリアが優しく手を差し伸べる。それに答えようとして、途中で動きを止めた。火守女は、氷漬けされたかのように、全身を固めていた。
「どうか、しましたか?」
ヨルシカの呼びかけにも答えず、彼女は何度か瞬きをした。自分の長い髪に触れて、もう片方の手で口を押さえた。
その指の隙間から、震える声が漏れてくる。
「できれば、できればいいのですが。やはり、その、直接言葉を彼とかわすことはできるでしょうか。人づてに伝えるのは、失礼なのではないかと」
「残念ながら、それは難しいでしょう」
「少しの間、一言だけでもいいのです。私は……あの人がしてくださったことに何のお返しもできていないのです。ですから、せめて、言葉だけでも自分の口で伝えなければ」
もはや、火守女の顔色は白を通り越して青くなっていた。自分自身でもどうしてこんな事を言っているのか、理解できていない様子だった。
「今の彼は、安全とは言えません。特に貴方を会わせたら、どんな行動に出るか。最悪、彼自身を傷つける可能性があります。それほど、不安定な状態なんです」
ヨルシカの答えに、火守女はしばらく俯いていた。
「はい。承知いたしました。我儘を口にして、申し訳ありません」
「いいのですよ。さあ、貴方には薪としての役割があります。玉座に移動してください」
火守女の体は、全身の力が抜けているようだった。もう一度顔を上げる。その顔は一見、平静を取り戻しているかのように見えた。
ユリアが立たせようと、彼女の腕を掴む。その時だった。
火守女はいきなり全身をこわばらせると、ユリアの手を弾いた。さらに這いずって、少しだけ距離を取った。それは明らかに拒絶の意思を示していた。
この時初めて、場の空気に緊張が含み始める。
「ゲルトルード?」
「私、は」
篝火の傍へ、火守女はずりずりと近づく。それから周りを見回した。何もかもに怯えているような表情をする。
「私、私は、ゲルトルードでは、ありません」
「…では、火守女。これは、一体、どういうつもりですか?」
「どういう…?」
その行動をした本人が、不思議そうに首を傾げた。それから、段々と表情を歪ませていく。何か、おぞましい事実に気がついてしまったかのような、恐怖が浮かんでいた。
「あの人に会わせてください」
「落ち着いて。さきほども言ったでしょう。それは難しいのです」
「会わせてください…」
「ユリア、彼女を玉座へ」
命じられた者の手が近づいてくると、火守女はさらに這いずり始めた。必死に遠ざかろうとしている。だがそんなものに意味はなく、ユリアによって行く手を阻まれる。両腕を強くつかまれると、もがき始めた。
「どうしたというのですか。落ち着いてください」
「……たくありません」
もはや、彼女はすすり泣いていた。ユリアに無理やり持ち上げられても、頭を大きく振って、逃れようとしている。その姿は、使命に準じる火守女ではなくなっていた。ただ一人の怯える女性がいるだけだった。
「わた、わたし、私は、死にたくありません! お願いします。彼と会わせてください、話させてください。このままお礼を言うことも謝ることもできずに、死にたくない! 気づいたのです。私はわかったんです。最も愚かだったのは誰なのか。ようやくわかったんです! だから、それを、確かめるまで、こんな、火継ぎの使命などに関わってはいられません! 離してっ! 私を、彼と会わせてください。私が愚かでした。何もわかってなどいなかった…」
彼女の体が地面に落ちる。抱え上げようとする相手の動きに反抗して、床にべったりとお腹を密着させた。それから亀のように丸まって、その場から動かない意思をはっきりと示す。だが、その守りは徐々に崩されていった。
下田は、途中から耐え切れずに目をそらしていた。何か非常に残酷な事が、行われている気がしたからだ。彼女は劇的な変化を遂げていた。それが良い方なのか悪い方なのかはわからないが、そうさせたのは先生であることは確かだった。今の彼女にとって、それはとても残酷な事に思えた。
何度も捕まえられそうになりながら、火守女は這いずっていく。向かう先は、貴樹が運ばれていった方向だった。
「申し訳ありません、申し訳ありません。タカキ様、助けてください。 私が、間違っていました。貴方を、恨みます。貴方がいなければこんな、こんなことに気がつかなかった。何も知らずに死んでいけた。恨みます。こんな苦しいものを教えた貴方を忘れません。助けて、助けてください…。死にたくない、死にたくありません。タカキ様、タカキ様。お願いします……。すみません、私が全部」
言葉は唐突に途切れた。
下田はようやく顔を合わせて、何が起こったのかを直視する。いつの間にか復活していた宇部が、彼女へと剣をふるったのだ。その刃は正確に当たり、彼女の首を綺麗に断っていた。泣きはらした目から光が消えていく。最期にパクパクと動いていた口は、まるで誰かの名を形作っているようだった。
「別に薪としてなら、首だけでもいいんだろ」
宇部は残った体の方を乱暴に蹴ってから、鼻で笑った。
その後、火守女の首は玉座へと置かれた。
部屋へと戻る途中、宇部以外の生徒たちは誰も喋らなかった。下田もまた何も話す気になれず、その日はずっと横になっていたのを覚えている。胸の中に、吐き気がずっと留まっていたような感覚は、今でもわずかに残っていた。
例え、現実に戻ったとしても、全てが元通りとはいかないのだろう。先に裏切ったのは貴樹ではあるが、下田にとっては、もう、彼に合わせる顔がない。向けられた憎悪の表情が頭にこびりついて離れなかった。
火の粉が、目の前を横切る。それで我に返った下田は、まだ片付けていない作業で気を紛らせようと考えた。何もしていないと、嫌な事ばかりが浮かんでくる。
固有能力の欄を開く。篝火に触れている間、周りの時間が止まる。そしてその効果は、下田が触れている別の人間にも適用される。強化された能力は条件さえそろえば、非常に強力なものとなるだろう。
それが、さらに進化するとするなら、どうなるのか。
まだ下田には躊躇いがあった。クリムエルヒルトが進化に必要なソウルを得る手助けをしてきたというのが、引っかかっているのだ。どう考えても彼女にそうする理由はないはずだった。下田を強化したところで、得があるとは思えない。
何か、計画が進んでいるのではないかと疑っていた。自分がこの能力を進化させてしまうことで、何か、致命的なものが確定してしまうのではないかと。
だが、そのクリムエルヒルトは、もう何もできる状態ではないことは確かだった。こんなことになったのは彼女にとっても予想外で、多分、もはや計画なんてものはとっくに瓦解しているのだと。そう、下田は信じることにした。
自分の能力が強くなることで、この先の戦いで役に立つ可能性を捨てきれなかった。できることは、何でもすべきだ。そう考えて、進化を承諾した。
取得していた結晶の古老のソウル、そして双王子のソウルが消費されていく。予想とは違って、全く何の変化も感じられない。体が軽くなっただとか、力があふれてくるだとか。そんなものはやってこず、ただ目の前の文字列だけが進化の結果を表していた。
『描き人』
・貴方は、竜の娘の庇護下にある。
「…?」
これは、どう、考えたらいいのだろう。
それはあまりに、進化前の固有能力とかけ離れているように思える。名称も、その内容も、抽象的過ぎて、何ができるのか全くわからない。ただ一つ、竜の娘という言葉には推測できる余地があった。そのまま受け止めるのなら、ヨルシカの事を指しているのではないか。
しかし、篝火の横を見て、もう一つ選択肢があることに気がついた。下田からそう離れていない場所で、白い女性が立っている。明らかに異質な存在なのに、周りの誰も気づいている様子はなかった。
今まで何度か見たことのある、その輝く頬は、鱗で一部覆われていた。臀部から伸びる尻尾も、彼女が人間ではないことを示している。ヨルシカと同じ、竜の血を引いているような姿をしていた。
女性は、口を堅く引き結び、何かに耐えている様子だった。その視線は下田に真っすぐ向いている。とても悲しんでいるようで、下田は思わず話しかけようとした。
「アキ、どうしたの?」
その前にちとせが声をかけてくる。直後、女性の姿は消えていた。ちとせにも、その存在は知覚できていないようだ。何かしら落ち着かない気分になって、何でもないと答えた。なぜか両腕が、疼いている気がした。
大扉が、開かれる。
そこで下田も、意識を正した。時間だ。ヨルシカからどんな話があるのか、ちゃんと聞かなければならない。
しかし、そこから現れたのは、彼女だけではなかった。
粗末な甲冑を着た老人が、ヨルシカの前を歩いている。目元に深く皺が刻まれ、頬は痩せこけている。そして密集している白い髭だけ見れば、今にも倒れそうな年寄りにも思えた。しかし、目だけは違う。そこには、燃えるような光があるような気がした。
さらに変なのは、後をついていっているヨルシカだ。彼女は老人へ直接顔を向けることなく、やや俯き気味に歩いている。そこには隠しきれない畏れがあった。
祭祀場の戦士たちが、全員膝をついていることに遅れて気がつく。下田達はその揃った動作に戸惑った。まるで王を迎える臣下だ。それほど出てきた老人は偉いのかと思い、彼も恐る恐る、彼らに続こうとした。
「よい」
老人は、下田達に向けて手を向ける。ぷるぷると、その腕は震えていた。何だか、別の意味で心配になってきた。
皆を見回した後、低く咳払いをする。杖を不安定ながらも床につくと、柔らかく微笑んだ。そして出てきた声は少しだけ苦しそうだったものの、聞く者を安心させるような深さがあった。
「このような老いぼれがいきなり出てきて、困惑しとるだろう。無理もない。今まで儂はずっと眠っておった。火継ぎの使命が果たされようとしている今、こうして目覚め、君たちに会えたことを嬉しく思う。儂の名前はグごほっ、がはげぇあっ!」
途中で体をくの字に曲げ、激しく咳き込み始めた。ヨルシカが慌てた様子で駆け寄る。体を彼女によって支えられながら、老人は真っ赤な顔になって、呼吸を落ち着けようとしていた。
下田はちとせと目を合わせる。この人は、もっと眠っていた方がよかったのではないだろうか。
イリーナもはらはらした表情で走ってきて、奇跡を施し始める。にわかに雰囲気が慌ただしくなりかけたが、老人は助けはいらないとばかりにすっと立ち上がり、目元の皺をさらに寄せながら続けた。足がややおぼつかなくなっているのが、見ている側を不安にさせる。
「問題ない、問題ない。参ったの。一番大事なところをとちるとは。やり直させてくれ。儂の名前は、グウィン。今までの皆の働きに、深く感謝をしている。こんな身で言うのも恐縮じゃが、一応祭祀場の全てをまとめる立場にある。よろしく頼もう」
にこにこと、下田達一人一人を見る。そこには、何かを期待するものが含まれていた。だが、彼らが何も喋らないのを見て、少しだけがっかりした表情になる。
皺だらけの指を、いきなり下田に向けてきた。
「そこの君」
「はい?」
「なにか、あるかね」
「えっと…」
「何か儂に質問したいことがあるかと、訊いておる。何かはあるだろう。ほれ、言ってみい」
どうやら質問されたい様子だったので、下田は一生懸命考えた。確かに、不思議なところはたくさんある。
「あの、それじゃあどうして、今まで眠っていたんですか。体が弱かったから、とか?」
「良い疑問だ」
グウィンは、満足そうに頷いた。
「眠っていたというのは、少し意味合いがずれておる。正確には、儂は数千年前に一度死んだ。そしてまさに昨日、復活を果たしたということだ。すべては火継ぎの完遂のため、舞い戻ってきたわけよ」
一瞬、この老人はぼけているのかと思った。しかし、ジークバルド達は少しも笑っていない。周りの者達の反応で、相手の言っていることが事実なのだとわかりかけてきた。それに、下田にはグウィンという名前に聞き覚えがあった。
玉座に座っているルドレスへと目線を向ける。確か彼が、一番最初に言っていたような気がする。
下田の視線を察して、ルドレスは話し始めた。
「このお方こそ、最初の火を見出した、伝説の大王だ。火継ぎという儀式を作り出したのも、祭祀場を創設したのも、グウィン様のお力だ」
「その通り」
嬉しそうに同意して、また咳き込んでいた。それだけを見れば、到底そんな凄い相手には見えない。何千年も前の人物で、さらには死からも戻ってきた。それではまるで、地球で言う、キリストだ。祭祀場の者達の態度にようやく納得がいった。つまり自分たちは神様を目の前にしているということなのだ。
その後容体が悪化したので、グウィンは運ばれながら去っていった。見えなくなるまで、自分は大丈夫だと何の根拠もない自信を口にしていた。あのまままたぽっくりと逝ってしまわないことを祈る。
グウィンの紹介も大事なことだったらしいが、ヨルシカの本題はここからだった。薪が全て揃ったといっても、まだやるべきことがあるらしい。火継ぎの儀式のためには、大量のソウルが必要とのことだった。これから六日ほど、その収集に当てることになった。
さらには、儀式がたとえ終わったとしても、それで全てが終わるわけではないという。最初の火へと到達するための道が開けるだけで、その先にはまだ試練が残っているそうだ。そのための準備や訓練も欠かさずに行っていく必要がある。
下田はようやく意識が切り替わり始めた気がした。どんな形であるにせよ、自分達はここまでやってきたのだ。まだ、エルドリッチなどの敵の動きが読めない部分もある。最後まで油断せずに、自分のベスト尽くそうと決心した。
鬱屈した気分が晴れた所で、ヨルシカの話も終わった。彼女もまたやることがあるようで、自室の方へと戻っていく。
解散ということになって、雑談交じりの喧騒が戻ってきた。下田も皆とこれからのことについて色々話そうとした。しかし、またその動作は中断させられることになる。
大扉が、再び開かれた。今度はやや乱暴な感じだ。中から飛び出してきたのは、修道女のような見た目をした者だった。彼女は下田達を見つけると、早足で近づいてくる。
「あの人、確か…」
ちとせが怯えるような顔になる。それも当然だろう。貴樹が捕まった時、あの女性ははいくつかの生首を抱えて祭祀場に現れたのだ。怖がるなという方が難しい。ただ、下田はその前にも会っていて会話もかわしたことがあるので、多少は平静でいられた。
修道女はただ一点を見つめながら近づいてくる。それは下田でもちとせでもなく、その横にいる実織へと向けられていた。
「みおちゃん」
「だ、誰、え…」
飛びついたといってもいいくらいの勢いで、彼女は実織へ抱き着いた。身長差のせいか、修道女の方が首を曲げて、実織の顔と目線の高さを合わせる。そしてむしゃぶりつくように、顔のあらゆる所に口づけを始めた。
おお、と高坂が感嘆の声を上げる。彼ほど素直になれない下田は、思わず目をそらした。
もはや実織の顔はゆでだこのようになっている。もがもが言いながら相手を突き放そうとしているが、修道女はさらに抱きしめる力を強めた。前髪を上げておでこに三回ほどキスをした後、自分の頬を相手の顔へと擦りつける。実織が愛おしくてたまらないといった様子だった。
「なに、一体、何なんですか! は、はなれてください」
「もうちょっと。久しぶりだから。……え、やりすぎ? いいじゃない。これくらい、許してよ」
「勝手に、一人で、会話しないでください!」
実織が両手で修道女の頬を引っ張る、大人の女性の顔が変な風に歪むのは、下田はあまり見たことがなかった。ちとせがさも面白い光景を見たといわんばかりに興味深そうに眺めていたが、彼はそこまで他人の気分でいられなかった。実織の羞恥がこちらにまで伝わってくるようだ。
結局落ち着いたのは、散々彼女がいじられた後だった。乱れた髪を直しながら、今なおじっと視線を送ってきている修道女を、やや怯えた顔で見つめ返している。
「ごめんね。アメリカに行った後も電話では話したけど、直接会うのは久しぶりだったから…。ちょっと、想像してた形とは違う再会になっちゃった」
「貴方が何を言ってるのか、まるでわから…」
驚いたのは下田も同じだった。現実での国の名前を、この女性から聞くことになるとは思いもしていなかった。
ただ実織はそれ以上に状況を受け止め切れていないようで、耳にかかる髪が跳ねているのも放置して、相手を呆然と見た。
「なんで…」
「信じられないかもしれないけど、私だよ」
「お姉ちゃん?」
「そう。君のお姉ちゃん」
それから修道女が話し出したことは、到底、信じられるものではなかった。
戸水薫という、姉が実織にいることは知っていた。クラスどころか、学校中の者達がその事実を理解していた。日本でスカウトされた後、女優としての活動を始め、すぐにアメリカに活動拠点を移した。そして有名なハリウッドの大作映画に出演したということで、日本でもニュースになったことを覚えている。
その彼女が、フリーデという今の女性の体に精神だけくっついているという状況説明は、さすがに今までたくさんの超常的なものを見てきた身としても、受け入れがたい。
ただ、肝心の実織が彼女と何やら小声で話した後、信じることに決めたらしい。どうやら実の姉しか知りえないことを言ってきたからのようだった。下田には周期だの、二十七だのという、よくわからない単語しか聞こえてこなかったが。ただちとせは理解したようで、にやにやしながら二人を見ていた。
その後、さらに実織へ触れようとした薫は、急に動きを止めた。表情も雰囲気も大きく変化し、まるで別人のような口調で説明を続けた。
今度ははフリーデ自身が喋っているらしい。彼女曰く、薫の体を探し終えるまで、協力し合う関係なのだという。言葉では嫌そうな感じだったが、ときおり薫との会話らしき独り言を聞いていると、なかなか気心の知れた間柄のようだった。
この祭祀場でしばらく休むと言った後、再び薫が表に出てきた。ずっと苦笑しながら黙っていた新宮の方へ行き、実織と同じように抱きしめていた。新宮家と戸水家はかなり昔から付き合いがあるようなので、この二人も再会を喜ぶのは当然なのだろう。ただ、新宮の方はかなり感極まっているようで、涙も流していた。
一日目は、そうして、あらゆることが重なった慌ただしさの中過ぎていった。どのような形にせよ、終わりが近づいているのだということは、下田もわかっていた。
二日目から五日目にかけては、ひたすらソウルを集める作業をした。不死街で定期的に出現する亡者を狩ればいいのだが、もちろん不測の事態も起こる。祭祀場の戦士たちと協力して、皆が一つの目標に向かって進んでいた。
さらに待ち受ける戦いのために、下田も魔術や奇跡の鍛錬を怠らなかった。しかし、いつものようにとはいかない。彼がロスリック城から戻ってきた頃から、カルラはほとんど表に出てくることがなかった。彼女は、療養をしなければならない状態になっていたのだ。
下田も、初めて見舞いに行った時は言葉を失った。彼女は明らかに弱っていて、前までの様子とはすっかり変わっていたからだ。顔色も悪く、ベッドからほとんど出ることができなくなっていた。その原因は、ほとんど足にあるのだという。
「大丈夫、なんですか?」
「すまないな。最後まで、お前達に関わってやれなくて。それほど酷くはない、そんな心配そうな顔をするな」
彼女の足は、黒い不定形の物質に侵食されていた。まるでエルドリッチの膿のようだったが、それとは別のものだという。しかし、同じ深遠で生まれたものであることは確かだと語った。そして、これは自分が受けるべき当然の罰だとも。
罰。
その言葉は、次の見舞いでも聞くことになる。下田はカルラが寝ている部屋に入ろうとして、既に先客がいることがわかった。声からして、ジークバルドのようだ。
「わかっている。わかっているんだ…」
「本当に? 今までも、今も、正直見ていられなかった。シモダは、あの子じゃない。結局辛い思いをすることになる」
あまり、自分が聞いていい会話ではないとわかっていた。
「ああ…」
「君が未だに忘れられないのは理解している。だが、自分を罰するのはやめろ。ジョックはもういない。シモダを気休めにするな。我らは、もう何もできない」
「わかっている。すまない、ジーク。少し、私も弱っているみたいだ。ここまで来たというのに。今さらだな」
「二人の個人的な話は、二人だけのものにとどめておくべきだと思いませんか」
このままいれば下田はもっと先の話まで聞けただろうが、それは途中で終わる。いつの間にかヨルシカが後ろに来ていたからだ。彼はすぐに謝った。
「いいのですよ。そうですね、今はみな冷静ではいられないでしょう。それぞれの使命に向き合う時が近づいています。貴方も、自分が納得できるような選択をしてください」
自分が納得できること。したいこと。目的。それははっきりと決まっていた。エルドリッチによって精神を侵された生徒達皆を救い、現実に帰る。そして、家族に、母に会うのだ。そのために、今まで戦ってきたのだから。
「どんな人なの?」
「え?」
「アキのお母さん。ちょっと気になって」
ソウル集めの合間の休憩。穏やかな時間が流れる中で、ちとせは尋ねてきた。彼女はその日、珍しく口数が少なかった。下田にもその気持ちは理解できる。奇妙な緊張が、徐々に大きくなってきていた。この世界に来てからおそらく半年も経っていない。だが、今までにないほど濃い期間だった。
その中で元の生活が恋しくなることは何度もあった。それはちとせも同じだろう。しかし、彼女は父親や、病気で亡くした母親の記憶が、ないのだ。その不安は、母親のことを何とか覚えている下田よりも大きいだろう。
自分の母の事を話すことで、彼女の気が楽になるのならいいことだと思った。
「僕が生まれる前に、離婚したらしいんだ。だから、お母さんは一人で、僕を育ててくれた。本当に、一人で。お母さんは、僕を産んだ時、一回心臓が止まったんだって。元々体が弱かったらしいから、難しい出産だったんだ。それからもしばらく、色々苦労したみたいで。親と仲が悪くなっちゃったって。親戚付き合いもほとんどしなかったらしいから、最初はうんと苦労したらしい」
ただ、母自体はそういった話を全くしなかった。下田が中学生になってから、よく面倒を見てくれた近所の人に教えてもらった事実だ。彼が意識して家事などの手伝いをするようになったのも、その頃だった。
「すごいんだね、アキのお母さん」
「うん。尊敬してる。だから、少しでも楽になったらいいなって思って、高校を卒業したら働くつもりだった。でも、それを言ったら逆に怒られてさ。いつの間にか大学の費用も貯めててくれたみたいで、絶対に行きなさいって。お母さん、これからもたくさん働くからって」
「そうなんだ」
だが、そう上手くいきはしなかった。母は、その後末期の乳がんだと診断された。もっと体に無理を強いなければ。もっと、人間ドックに通う余裕があったら。下田は、母が入院しなければならなくなったのは自分のせいでもあると考えていた。
「心配だね」
「手術の成功率は、半々らしいんだ。だから、早く帰って、お母さんが生きている姿を見たい」
ちとせはぽんぽんと優しく肩を叩いてきた。少しだけ、涙目になっている。
「成功してるよ。絶対に。ね、私日本に戻ったら、お見舞いに行っていい? アキのお母さんに会ってみたい」
「うん、もちろん」
自分と同じくらい、ちとせも気分が落ち着いたのが分かった。たとえ何度も考えたことだとしても、改めて目標を見据えるのはいいことなのだろう。
家族に会いたいというのは、ほとんどの生徒たちが望んでいることだった。家族の記憶がなくなっているのはちとせだけではない。高坂も、実織も、新宮も、尋ねてみると覚えていないという答えが返ってきた。
あっちに戻ったら、全部思い出せるのだろうか。そうに決まっていると下田は信じることにした。今それを考えても、堂々巡りにはまるだけだ。
「実際、どうなんだ?」
集め終わった帰り、高坂がこそこそと話しかけてきた。
「え?」
「だから、高原のことだよ。お前って、実織が好きじゃなかったっけ」
息が止まりそうになって、離れて歩いている女子達の様子をうかがった。ちとせが、実織をからかって遊んでいるようだ。その間に挟まれた新宮は、楽しそうに笑っている。
「どういう、こと?」
高坂はにやにやしていた。
「あいつって、ああ見えてガードが堅いんだよ。俺の記憶だと、男子に名前を呼ばせたこともないし、逆に呼んだこともないと思う。お前が、その前例を覆してるわけだ」
下田は、その話に引っかかりを感じた。彼自身の記憶と食い違いがあるような気がしたからだ。
「でも、そんなことはないと思うけど。だって、ちとせって、つ、付き合ってたんだよね。学校でも噂になってた。その、宇部と」
高坂はきょとんとした後、腹を抱えて爆笑し始めた。その騒ぎで、女子達も足を止める。息を何とか整えながら、彼は可笑しそうに言った。
「ああ、あれね。くく、ただの噂だよ。宇部の方が目立ったアプローチかけて、それに嫉妬した女子が行動起こして、どんどん話が変わって、なぜか真実と真逆のことが周りに流れたわけだ」
下田は、ちとせの視線を感じながら聞いていた。さらに声を小さくする。
「そうなの?」
「見てる側は面白かったけどな。朱音達もいいネタができたって言ってた。だってお前、あいつが必死で断ってんのに、食い下がる宇部の無様さといったら…」
「二人とも、何の話をしてんの」
ちとせが女子達の輪から抜けてきて、目の前に立っていた。
高坂は平然と返す。
「お前の彼氏の話だけど?」
「またその話? ほんとうざいわ。なんでそんな今更の話してたの」
「下田が聞きたいって言ったんだよ」
「え、ちが」
「ふーん、気になってたの?」
ちとせは意味深な笑みを向けてくる。高坂に助けを求めようとしたが、彼も同じような表情を返してきて、ようやく悟った。からかわれているのはちとせではなく、自分なのだと。そしてこの後、二人に散々いじられた。対してありがたくはなかったが、こういう会話をするのは久しぶりな気がしたので、気分は紛れた。
そして、六日目。ついに準備が完了した。あとは儀式を行うだけだ。その時間も、それなりに迫ってきていた。
「シモダさん」
待機しようと広場に向かって歩いている途中、後ろから声をかけられた。振り向けば、予想よりも近くにヨルシカの顔がある。思わず一歩下がろうとしたが、その前に腕を彼女がつかんできた。
その、やや焦ったような動作に違和感を覚える。
「どうしたんですか?」
「お話ししたいことがあります。もうあまり時間がありませんが、私の部屋に行きましょう。とても、大事なことです」
そこで下田も、背筋を引き締めた。何の話なのかは想像がつく。何かがわかったということなのだろうか。
彼女と移動している間、前にヨルシカと会った時の事を考えた。ロスリック城へ向かう前、彼女は一つの疑念を表していた。内通者の存在について、下田が考えてもいなかった可能性を示したのだ。
それは生徒達の中に、エルドリッチに協力している者がいるという可能性だった。宇部と丸戸。その二人をヨルシカは疑っているらしい。だから、法王討伐の際にもあえて同行させたのだという。
下田は、盲点を突かれた思いだった。普通なら、有り得ないことだ。そもそも、メリットがない。結局現実に戻るのに、あんな人食いに与することへ、何の得があるというのか。しかし、可能性自体は捨てきれなかった。あの二人はそう思われても仕方がないくらいは普段の行いに目が余るものがあるのだ。
ヨルシカの手が、やや強く二の腕に食い込んでいる。痛みを感じるほどではないが、今までの彼女の雰囲気からすれば、尋常ではないのは確かだった。下田も早足でついていきながら、緊張を強める。何か事実が分かったのなら、それを受け入れる覚悟をしなければならない。
「こんなところで、何をしているのかね」
横穴から、グウィンが現れた。しばらく見ていなかったが、今の老人は状態が安定しているようだ。静かな目が、ヨルシカを真っすぐとらえている。
「少し、話を。すぐに終わります」
「難しいの。こんなことをする必要はないはずだ。今すぐに、篝火へ戻りなさい」
「ですが、グウィン様…」
彼女は懇願するように頭を下げた。
「駄目じゃ。必要のないことをするでない」
「私達にとっては、とても重要で」
「ヨルシカ」
目の奥の炎が、強まった気がした。
「もう、儀式が始まる。彼らも、己の目的を果たす時が、近づいているのだ。余計な事はするでない。それが一番、彼らにとっても良いことなのだ」
下田はよくわからずに、会話を聞いていた。ヨルシカは唇を噛んだ後、下田の腕を離す。このままでは駄目だということはわかっていたが、何も言えなかった。グウィンの迫力に押されて、言葉を失っていた。
ヨルシカは戻る途中、しばらく黙っていた。下田の方はその沈黙に落ち着かないものを感じて、意を決して話しかける。
「今ここで、話せないんですか?」
「重要な事なので。残念ですが…、儀式が終わってからにしましょうか。それからでも間に合うでしょう」
淡々と答えてくる。彼女の背中が実際の距離よりもどんどん離れていくようで、下田は頭を振り絞って何を言うべきか考えた。が、思考よりも先に口が勝手に動き出す。
「あの、なんていうか、今まで、ありがとうございます」
「?」
ヨルシカは歩きながら、顔だけ振り返ってきた。下田はもう、自分の気持ちを正直に話すことにした。
「最初は、こんなよくわからないことに巻き込まれて、嫌だったんですけど、ヨルシカさん達が手助けしてくれたおかげで、ここまで来れました。もう少しで、お別れになっちゃいますけど、あっちに戻ってからも忘れません。本当に、ありがとうございました」
そう言って礼をし、頭を上げると、ヨルシカは立ち止まって体もこちらに向けてきていた。表情は柔らかくなっている。
「いいえ。私達は、当然のことをしているだけですよ。それでも、そうですね、貴方の感謝はとても嬉しいです。私も、忘れません。灰の方たちのことは」
再び、腕を掴んでくる。彼女の手はつつと肌を滑り、下田の手に到達すると、固く握りしめた。視線を合わせながら、顔をぐいと近づけてくる。
「特に、貴方のことは。楽しかったです。とても」
下田は、広場に来た後も、自分の顔をこそこそと触っていた、変に熱くなっていないか、心配だったからだ。離れた所で待機し始めたヨルシカをちらりと見ると、彼女は笑顔を返してきた。こそばゆくなって、すぐに顔をそらす。
「また、二人でデート?」
ちとせが座りながらからかってくる。
「そんなんじゃないよ」
「でも、あの人の顔、ちゃんとよく見た? あんたに夢中みたい。見てるこっちが恥ずかしくなるんだけど」
「ええ、そうなのかな。全然、普通だと思う」
ちとせは、呆れた顔になった。
「あんたの将来が心配になってきた」
広場の入り口では、実織と薫が話していた。
薫は、どうやら下田達と一緒のタイミングで現実へ戻るわけではないらしい。祭祀場の者達と協力して、自分の体を取り戻してから、すぐに同じ所へ帰ると、自分の妹の頭をなでながら言っていた。
「下田くん」
薫は実織と一緒に傍へとやってくる。
「皆も。みおちゃんと、仲良くしてくれてありがとね。この子、めんどくさい部分もあるから、ちょっとん? って思っても、許してあげて」
「お姉ちゃん、やめてって…」
実織に押しのけられて、薫は笑いながら離れていった。彼女も、寂しいのだろうか。下田は、薫がどこか無理をしているような感じを受けた。心配していた妹とやっと会えたのに、また離れ離れになるのは辛いだろう。彼女の問題が解決することを祈った。
生徒たちは篝火の周囲に、円になって座った。内側へ一番近づいているのは、宇部だった。彼に、自分たちが集めたソウルを送り出すことになっている。その重要な役目は、彼自身の立候補によって、決まった。対抗しようとする者は、誰もいなかった。
円の中心には、イリーナが立っている。彼女も緊張している様子だ。この場には、祭祀場のほとんどの者がそろっている。ずっと姿を見ていなかったオーベックという術師まで、顔を出していた。しかし、グウィンの姿はない。さっき出会った下田にとっては、あの老人が今どこにいるのか不思議だった。大事な儀式と言っていたが、自分は出ないのだろうか。
徐々に、静寂があたりを包む。
灯されていた明かりが、すべて消えていく。
イリーナが跪いている宇部に近づいたのが、始まりの合図だった。
彼女は手を篝火へかざすと、玉座の方へ体を向ける。
「偉大なる薪の王たちよ
今や火は陰り
王たちに玉座なし
貴方たちの炎を
継ぐ者へ預けたまえ」
静かな、それでいてはっきりとした宣言がなされた時、玉座で変化が起こった。薪たちが、燃え始めている。首も、生きているルドレスも等しく、薄暗い広場の中で光を放っていた。
五つの玉座から、炎が動き始める。それらは中央へと集まってきて、イリーナの手元に全て収束していった。
炎の塊。しかしそれは呪術のものとは違うような気がした。それはイリーナの肌に触れていても、害をなさない。激しい印象を感じさせるのに、その炎へ対する恐れはまるでわいてこなかった。
彼女はそれを、宇部へとふりかける。おそらく、彼の中に集まった大量のソウルに反応しているのだろう。宇部の体が、一瞬、赤くなった。
最初の火への道が開けると、言っていた。つまりこれからその場所へと転移するのだろうか。いよいよ差し迫った瞬間を前に、下田は胸の中に熱いものを感じた。涙が出そうになるのを、こらえた。気が早い自分に呆れてしまう。まだ、全て終わったわけではないのに。
熱い感動は、胸から広がり始める。そして、全身に行きわたったのを自覚すると、下田は、自分の腕が燃えていることにも気がついた。
声を出そうとするも、途中で途切れた。いくら意識しても、喉が正常に動いてくれないようだった。そして、やがて気が狂いそうになるほどの激痛が全身をかけめぐり、自分の体がその場に倒れたことも気にする余裕がなかった。
熱い,熱いと、その言葉だけが脳内を埋め尽くす。すでに、目が焼けただれ、何も見えなくなっていた。暗闇の中では、痛みがさらに強くなってくる。
耐え切れなくなって、無我夢中で転がりまわった。誰かの体とぶつかる。その誰かも、暴れまわっているようだ。だが、下田にはもう、他人を気にする意識などなくなっていた。炎に対する恐怖だけが、膨れ上がっていくばかりだった。
永遠にも思われる時間が過ぎた後、下田はようやく安らぎを得た。何もかもが曖昧になって、上下左右の認識もできなくなり、何も感じられなくなった。母親の姿が大きくなり、最後に笑っているのを見た記憶が、延々と再生される。
唐突にそれは途切れてしまい、自分の悲鳴や誰かの悲鳴が、幻聴として聞こえてきた。
そして、暗黒が下りてくる。
(2)
『描き人』
・貴方は、竜の娘の庇護下にある。
「は……え…」
ぱちぱちと、目の前の篝火が鳴いていた。
この章がある意味一番、ダークソウルらしいかなと思ってます。