視界が、徐々に明瞭になっていく。
篝火のすぐ横には、白い竜の女性が立っている。
彼女は口を押さえながら、嗚咽を漏らしていた。その綺麗な瞳から、涙が零れ落ちようとしている。下田の方を見て、何かを言葉にした。
「アキ、どうしたの?」
体が、まるで自分のものではないみたいだった。それでも声に反応して、ちとせの方を見た。
彼女は、普通に、存在している。
下田は数度瞬きして、急に吐き気が込み上げてきた。
「うそ、ちょっと、アキ!」
両腕が、疼く。
ちとせの叫びを聞いて、ようやく自分の両腕がなくなっていることに気がついた。指の先から腕の根元まで、ぼろぼろと崩れ落ちていく。落ちた腕は、粉状の見た目になって床に広がった。まるで、灰のような。
下田は尻餅をついた。いつの間にか、自分の口から悲鳴が飛び出していた。あの、痛みが。痛いほどの熱が両腕から広がり、彼は恐怖に慄いた。それが全身に広がっていけば、あれの再来だ。もう二度と、味わいたくない激痛。
幸いなことに、その心配は杞憂に終わった。何かが進行する前に、下田は意識を失った。まるでわけのわからない事態に対して、完全に許容できる量を超えた脳が、拒絶反応を起こしたようだった。
目を開けると、質素な天井が視界に広がる。
口を大きく開けて、喘ぐように呼吸をした。体を動かすと、どうやら自分はベッドに寝かされていることが分かった。
額の汗を拭う。そうして初めて、自分の両腕が戻っていることに気がついた。
「目覚めたか」
隣のベッドで、カルラが横になっている。枕に片耳をつけて、彼の方に笑いかけてきていた。
ここは、病室のようだ。下田も、何度か行ったことがある。カルラの見舞いで。
そこまで考えて、ずきりと頭痛がした。
自分は、どうして。
「ここは…」
頭が、働かない。今まで起きたことを、現実として受け止め切れていなかった。
「今は、いつ、ですか。僕は、僕は」
「落ち着け。お前の体はイリーナが完治させたが、まだ安静にしていた方がいい。六日も眠っていたんだ。起き上がるのも苦しいだろう」
六日。
その言葉を、前にも聞いたことがある気がする。ただ、今の下田は必死に気持ちを落ち着けることで精一杯だった。自分だけが、目の前のあらゆることから切り出されたような、非現実感が拭いきれない。
動揺している下田を見て、カルラは落ち着かせようとしたのか。ゆっくりと半身を起こすと、ずりずりと下田のベッドに移ってきた。二人分の体重を支えることになり、さらにベッドのへこみが大きくなる。
「ぎりぎり、だったな。もう少しで、儀式が始まる。お前は広場に行けないが、大丈夫だ。ここにいても、道は開かれる」
混乱した思考の中で、だんだんとはっきりとした一つの意思が芽生えていく。儀式が行われるという事実が、非常に大きな焦燥感を下田に与えた。
「行かないと…」
「アキヒロ?」
「駄目だ、知らせないと。皆が」
起き上がろうとしたところで、カルラに優しく押さえられる。今の下田にとっては、弱っている彼女の力にさえ抗えない。
「どうしたんだ。急に」
「行かないと! 僕、僕だけじゃない、皆、罠に気がついていないんだ。カルラさん、聞いてください。あれはきっと、エルドリッチの、仕業です! このまま儀式を、続けさせちゃ駄目なんです!」
あれは、下田だけに起きたことではないと、彼自身もわかりかけてきていた。敵側は、まさにあの瞬間を狙っていたのかもしれない。彼は少しも、自分に起きている現象を理解していなかったが、それでもやらなければならないことを考えられる程度には回復していた。
だが、カルラは離さない。
彼女は下田と同じ枕に顔を預けると、彼を横抱きにした。強く、抱きしめてくる。彼女の鼻が頬に擦りつけられて、下田の呼吸は落ち着いていった。
「もう、いいんだ」
見れば、彼女は辛そうに泣いていた。下田の頬にキスをして、それでもなお苦しそうに涙を流していた。その異常な様子に、彼の方ももがこうとする動きを止める。
胸の中から、熱が生まれる。その熱は全身に広がり始めた。
あれだ。あれが、また来る。
だが、その恐怖は初めよりもましになっていた。それはカルラが、優しく触れてくれているおかげなのかもしれなかった。
「もういい。お前は、お前たちは頑張った。頑張ったんだ。ごめんな。全部我々の罪だ。側にいる、最後までそばにいるから。どうか、苦しまずに…」
腕が燃え始める。その炎は近くにいるカルラに害を少しも及ぼさなかった。下田だけが、燃えていた。下田だけが、苦痛を強いられていた。
彼女の胸の中で、悲鳴を上げる。わかっていたとしても、全身を焦がされる激痛には少しも慣れなかった。
自分の叫びに交じって、カルラの泣き声が聞こえる。それは意識が完全に途切れるまで、ずっと続いていた。
「愚かな母親を許してくれ、ジョック」
(6)
「…」
下田は、ベッドの上で天井を眺めていた。
初めは、理解することを拒否した。逃げていた。ただ、やってくる痛みに対する怯えだけが、しばらく頭の中を占めていた。
だが、繰り返しの後、次第に現状がわかりかけてくる。間違いない。自分は、同じ日々を過ごしている。過去に戻っているだとか、そういう表現をしてもいいかもしれない。そんなSFでしか起こらないことが、自分の身に起きているのだと、ようやく受け入れた。
「目覚めたか」
カルラが横のベッドで言ってくる。もう、数回聞いた言葉だ。始まりはいつもあの篝火の前で、固有能力の欄を開いている。それから腕が両方ともなくなって、気絶する。そして目覚めれば、病室で。自分の体が燃え始めるまでカルラと会話をする。
彼は手で、目頭を押さえた。ベッドの淵では、白い竜の女性が立っている。彼女は無言で、下田を見下ろしてきていた。
(11)
どうにか、しなければ。
下田は一つ、逃げることをやめることにした。このまま何も事態が進行せず、ただ痛みだけが積み重なっていく。いい加減、現状を変えたかった。
「目覚めたか」
声をかけてきたカルラへと顔を合わせる。
「カルラさん」
「どうした?」
「教えてほしいことが、あるんです」
下田は言葉を切る。彼女が、下田が燃え尽きる前に言っていたことが、ずっと頭の中でしこりとして残り続けていた。そう、難しいことではない。だが、それを確認するのというは非常に固い勇気がいることだった。
「火継ぎの儀式が、もう少しで始まります。カルラさんは、一体、何を知ってるんですか」
彼女が動揺したのが、見なくてもわかった。
「儀式で、想定外のことが起こります。貴方は、何か、知っているんですよね」
「何を、言ってるんだ? アキヒロ、急にどうした。まだ、眠っていた方がいい。お前は、何日も目を覚まさなかった。落ち着いてくれ」
「答えてください!」
下田は半身を起こし、カルラのベッドに飛び込んだ。思ったよりも体は動く。ただ、カルラは違うようで、詰め寄られても全く抵抗を見せなかった。
「僕は、僕たちは、そこで、苦しむことになる。苦しみながら、死んでいくことになる。答えてください。貴方は、何か、知っているんですね? 僕は、貴方がそう言うのを、確かに聞いた。何度も聞いた。だから、そうに決まってるんだ。教えてください」
「アキヒロ…、アキヒロ、駄目だ」
「何が、駄目なんですか。知っているのなら、言ってください!」
カルラは決して下田と目を合わせようとしなかった。それが、ほとんど答えを言っているようなものだ。彼は絶対に逃すつもりはなかった。今までの苦痛を全て無駄にするなど、到底許されることではない。
彼女と鼻がくっつきそうになるまで詰め寄り、繰り返し叫んだ。ローブの襟をつかみ、何度もゆすった。彼女が苦しそうにしても、やめなかった。それくらい、下田は必死になっていた。
「許してくれ…。私は、言えない。無理なんだ。できない」
「そんなの、知りません。僕はもう、嫌なんだ。何もわからずに消えていくのは。いいから、全部、話してください!」
「何事ですか」
いつの間にか、病室の扉が開かれていた。下田の声は、彼自身の予想以上に響いていたのだろう。ヨルシカが早足で部屋内に入ってきて、下田とカルラを引き離した。
「シモダさん。回復したのは嬉しいのですが、もう少し安静にしていてください。一体、どうしたというのですか…」
ヨルシカの視線が向けられると、カルラはびくりと肩を震わせる。それは明らかに恐怖の反応だった。
「カルラ、何があったのですか」
「それは…、申し訳ありません。少し、会話に熱が入って、何でもありません。私は、何もしていません。申し訳ありません」
ずっと俯きながら、そう答える彼女に対しては、ヨルシカはしばらくじっと観察していた。やがて深くため息をつくと、下田へと顔を向けてくる。
「貴方達二人の問題には立ち入るべきではありませんね。ちゃんと、話し合うのですよ。ところで、シモダさん。急ですみませんが、もう普通に歩くことはできますか?」
本当は、もっと追求したかった。だが、ヨルシカが来てからのカルラはさらに頑なになったようで、これ以上の話が聞きだせるとは思えなかった。
さらには、ヨルシカ自身の事も気になる。彼女も、どこか、いつも通りではなかった。何かに焦っているようで、妙にたたずまいに落ち着きがない。
「とても重要なお話があります。例の件にも関係しています。一緒に、私の部屋に来てくれませんか?」
カルラを少し気にしながら、頼んできた。下田は、思い出す。前も、ヨルシカは儀式の前に話があると言ってきた。もしかすれば、何かが変わってくれるのかもしれない。
下田は頷いて、ベッドから降りた。少しよろけそうになったものの、すぐにヨルシカが支えてくれる。
「行きましょう」
彼女の手に引かれるようにして、病室を出た。出る直前、カルラの怯えた顔と一瞬だけ目があったような気がした。
部屋に向かう途中のことも、知っている。
「こんなところで、何をしているのかね」
グウィンが現れて、結局ヨルシカの話は聞けなかったのだ。今回もそうなるのだろう。だが、下田は決意していた。今度は自分も話そうと。何が起きているのか、何が起こったのか。それを知るために。
ヨルシカは心なしか下田の方へ身を寄せ、グウィンを見据えた。そこには、決然とした光がこもっているように思えた。
「わかっておられるはずです」
あれ、と思った。前と、明らかに違っている。ヨルシカの態度も、ずっと強気になっている。
老人は下田の方を見て、目を閉じた。何かを考えるような間が数秒続いた後、ゆっくりと体を移動させ、二人の道を開ける。
「行きなさい。もう、時間はあまりないだろう」
「感謝いたします」
わけのわからない気持ちで、下田も頭を下げる。どうして今回はこうもあっさりと進んだのか、わからなかった。事態についていけていない心地で、彼女についていく。
ヨルシカの部屋に入ると、下田はついに我慢できなくなった。慌ただしい彼女の背中に向かって、話し始める。
「もしかして、内通者が誰か、わかったんですか。だから、今このタイミングで」
「そうですね。その通りです。私は、確信を得ました」
もしかしたら。下田ははっとした。その内通者が、何か儀式に仕掛けをしたのかもしれない。そして自分達を消し去ろうとした。筋は通っていると、彼は考えた。カルラが、その内通者だという可能性もある。段々と、その想像が事実であるように思えてきた。
ヨルシカはどこかに腰を下ろすこともなく、奥の壁へと歩いていった。そして壁の一部に触れながら、何かを唱える。すると、触れた部分から穴が徐々に広がり始めた。まるで幻のように消えていき、人が十分に通れる道ができる。
「これは…?」
「万が一のためのものです。行きましょう」
彼女はまた、腕を掴んでくる。それに半ば引っ張られるようにして、下田は先へと進んだ。
部屋の隠し穴から先は、さらにもう一つの小さな部屋が広がっていた。そこへ入った直後、彼は言葉を失う。
わずかな異臭が、鼻をついた。
その元は部屋のあちこちにある。白く、細長いものが、何本も大きな壺の中に詰め込まれていた。そこだけではなく、壁一面にも短剣で無理やり止められていたり、隅の床に無造作に積まれていたりしている。中には、腐っているものもあった。
それらは、明らかに、尻尾だった。
「醜いでしょう?」
ヨルシカは、一瞬だけ下田の耳に口を近づけた。それから、転がっている尻尾を無表情で眺める。
「何度切り落としても、生えてくるんです。剣でも、魔術でも、呪術でも、斬っても焼き潰しても。私の体から離れても、再生は続いています。だから、本当に邪魔で…」
下田は、何と言っていいのか、わからなかった。そもそも、相手が自分の言葉を待たずに歩きだしていた。この部屋からさらに、横穴が開いている。漠然とした不安が、下田の中で芽生え始めた。なにかが、食い違っているような。自分は、何かとんでもない、間違いをしているのではないか。
穴を進んでいくと、途中で坂になった。大した勾配はない。ヨルシカについていくことは簡単だった。
穴の中の道は、すぐに終わる。出口らしき部分を通り過ぎると、少しだけ広い空間に出た。さらに近くにある螺旋階段を昇っていく。そのかなり荒廃した見た目で、ここに前にも来たことがあるのを思い出した。祭祀場のすぐ横にある、塔だ。下田にとっては、あまり気持ちの良い場所ではない。草野など、膿の犠牲者が隔離されている場所だからだ。
階段を登りきると、手前から二番目の部屋を目指した。そこは、生徒達が隔離されている部屋の隣だ。横の開いている窓で、隣の生徒たちの様子を見ることができる。一度、イリーナと一緒に来たところだ。
ヨルシカは部屋の扉をノックする。それから、少し上ずった声で呼びかけを始めた。
「失礼します。一人お客を連れてきました。入ります、お兄様」
扉が開かれる。もはやヨルシカの手は痛いほどに下田の腕へと食い込み、まるで彼をもののように、無理やり中へと引っ張り込んできた。一番よくわからないのは、ヨルシカはなぜかとても楽しそうな様子であることだ。
だが、そんな疑問はすぐに消えてなくなる。中にいるものが、一瞬理解できなかった。いや、何なのかは知っている。しかし、それを事実だと認めることが、あまりにも滑稽で、下田はただただ立ちつくしていた。
「ああ。見ない顔だね。ヨルシカ、どうして連れてきたんだい?」
エルドリッチは首をかしげている。対する下田は、もはや腰が抜けて、その場に座り込んでしまった。
ありえない。なぜ。どうして、こんなことが。
ヨルシカは嬉しそうに答える。
「これは、何かを知ってるようだったので。余計な事をする前に、お兄様に合わせようと思ったんです」
「そうか。偉いね。自分で判断することは、とても大事な事だ」
「フフフ、お褒めに預かり、光栄です」
「ひ……」
ついに、自分の頭は狂ってしまったのかと思った。だって、ヨルシカは言っていた。内通者は確定したのだと。だから、それが誰なのかと、下田と共有するために、ここまで連れてきたはずなのだ。こんなはずはない。有り得るわけがない。まさか、内通者というのが、彼女自身だなんて。
「シモダさん、どうしたのですか? お兄様の前で、失礼ですよ」
「いいんだ。無理もないだろう。この子は、きっと、勘違いをしているんだ。この姿でいきなり会えば、驚くのも当然だ」
エルドリッチは、彼に笑いかけてきた。その笑みは、あの人食いは少し違うような気がする。違うようだと、下田は逃避のために自らに言い聞かせていた。
「私はグウィンドリン。かつてはアノ―ルロンドを守護していたのだが、この小賢しい膿に乗っ取られてしまってね。このように、自我を取り返すことには成功したのだが、いかんせん、まだ不安定で……」
「お兄様!」
それは、頭を押さえて倒れようとする、すぐにヨルシカが近寄って、体を支えた。それは彼女の首に腕を回し、二人は抱きしめ合う形になる。
「すまない、まだ長く話せはしないようだ」
「いいのです。確実に、お兄様でいる時間が増えています。大丈夫です、これならすぐに、あの人食いは消え去るでしょう」
「ありがとう。私は、君のような妹を持てて幸せだ」
彼女への愛を囁きながら。
それはヨルシカの肩に頭を乗せる。そして、下田と目を合わせていた。
唇を吊り上げ、歯をむき出しにし、獰猛でおぞましい笑みを、エルドリッチは浮かべている。それは目の前の下田と、ヨルシカ両方をあざ笑うかのようだった。人食いの話には真実などどこにもないことが、下田にはわかった。
騙されている、と彼女に伝えねばならなかった。家族の情をエルドリッチによって利用されているのだと。
しかし、その前に胸の中に熱が生じる。反射的な恐怖で、下田は何もすることができなくなっていた。全身が焼かれるという確定的な未来に、ただただ怯えることしかできない。
ヨルシカが、近づいてくる。その顔はひどく残念そうだ。
「もう、時間なのですね。やはりもっと早くここに連れてくればよかった」
その言葉は、下田が今まで訳も分からずやられていた儀式の最中のことを、確信しているようで。あれがもはや、ただの事故や、エルドリッチだけの仕業だけではないことを、明確に示していた。
目の前が、暗闇に落ちていく錯覚を覚える。
「なんで…どうして……」
彼女の足が、お腹に思いっきり食い込んだ。蹴られたのだと気がついた瞬間、息が詰まるような感覚に襲われる。呼吸ができない。どうやら、胸の骨が折れているようだった。
「げえっ、ぐ、うう」
「どうして? ここまで見せても、まだ理解できていないのですか? 貴方のその、何も詰まっていない脳を最大限動かしても、たかがしれていますね」
ヨルシカは深呼吸をする。彼女の顔は、やや赤みが差していた。下田を侮蔑するかのように見下ろし、頭を蹴る。その顔は、笑みで歪んでいた。いつもの彼女が見せるものとは、決定的に異なっていた。
「嘘だ、嘘だ…」
下田は燃え始めた手を、床に擦りつけた。
本当は、わかっていたのかもしれない。あまりにもタイミングが良すぎた。儀式そのものが、元々下田達がこうなることを見越したものであるという考えの方が、辻妻が合うのだ。始めから、自分たちの犠牲は定められていたのだと。
「あぁ、その顔。良いですよ。もっと私に見せてください。そうすれば、最後くらい、何も役に立たない道具風情でも、多少は価値が上がりますよ。フフフ。気持ち悪い。本当に、不愉快な子供。そのまま苦しんで苦しんで……死になさい」
視界が焼き潰されていく。全身の感覚が炎で覆われていく。
今は少しだけ、その激痛がありがたかった。それは何もない消失の前触れでもあるからだ。意識を失っている間だけは、何の危険もない。消えている間だけは、何も考えずにすむ。
もう何も、見たくはなかった。何にも向き合いたくはなかった。
(14)
どうして、どうして、どうして…
(28)
…
(42)
逃避するのにも、飽きが来ていた。うんざりしたという方が、正しいのかもしれない。このままでは何も変わらないという恐れが、下田を無理やり我に返らせた。
逃げなければ。現実からではない。祭祀場からだ。行くあてなど、知ったことではない。とにかく、少しでも遠くへ。
まずは、問題として、時間があまりにも足りない。下田が篝火の前で腕を失い、気絶した段階で、次に目覚めるのは儀式の直前になってしまう。ちとせ達と話し、一緒に隙を伺って逃げるのには、足りなさ過ぎる。
そう、まずはそこからだ。「戻って」来た時、意識を失わないようにしなければならない。腕自体は、すぐ治るのだと思う。イリーナの技術は確かだ。あとは自分の精神をもう少しだけ強く保てれば、ショックで失神することはない。
カルラが、ちらちらと気にしてきている。何も話さない下田に、気を遣っているのだろうか。それとも、ずっと何もないはずの空間をじっと見つめている彼に対して、何か不安でもあるのか。
下田は、ベッドの傍に立っている女性と顔を合わせていた。白い彼女は、ぽろぽろと涙をこぼして、彼に何かを言っている。しかし声が聞こえたのは最初の方だけだった。一単語も喋らないうちに、頭痛がやってきて、彼女の声が聞こえなくなったのだ。それを相手も知ると、さらに辛そうに顔を歪めた。それからは何度も同じ言葉を言っているようだった。聞こえなくても、必死に謝っていることくらいは分かる。
なぜ、泣くのだろう。
下田は唇の端を、震わせた。
泣きたいのは、こっちの方なのに。
(43)
意識が戻った瞬間、歯を食いしばる。ちとせの悲鳴。腕が灰となって崩れていく。
倒れまいと頑張ってみても、脳天を貫くような痛みで全てが決壊した。下田の空しい抵抗を嘲笑い、意識が失われていく。
失敗した。
(46)
失敗。
(53)
失敗。
(68)
明らかに無駄な努力をしていると、わかりかけてきた。人間にはどうやら痛みの許容量みたいなものがあるらしく、それを超えるような激しいものがやってくると、強制的に意識を断絶させて、本人を守る機能があるようだ。本人の精神を。
今はそれもありがたくはなかった。何か、打開策を考える必要がある。単純に考えれば、痛みを許容できる範囲にまで小さくすればいいわけだ。下田には、その方法に一つ心当たりがあった。
奇跡。それを使えば、ましになるのではないか。自分のできることをしていかなければ、きっとこの先も続かない。戻ったら、すぐに奇跡を行使する。それだけを目標にして、下田は炎に包まれていった。
(70)
今まで、意識したこともなかった。
結論から言えば、失敗した。
今まで奇跡を使う時どうしていたか。聖鈴。それは別に必要ない。あくまで補助をする役割だからだ。それよりももっと根本的なものが、戻った瞬間のタイミングでは欠けていた。
両腕がないということは、両手もない。下田は奇跡の行使を、治したい傷部分に手をかざすことで完遂していた。いわば、手を、術の起点として扱っていたのだ。故に、そもそも奇跡を発動することすらできずにいた。
どうすればいいのかは、わかっている。起点の意識をもう少し柔軟にすることだ。手から奇跡を放つのではなく、治したい部分から直接奇跡を発現させればいい。少しだけ習った放つ回復の応用とも考えればいいのだろうか。
それをどうにか成功させれば、意識を保つことができる。
(75)
奇跡は出ない。
失敗だ。
(82)
失敗。
(86)
何となく、感覚がつかめてきたような気がする。同時に、これの難しさも理解する。奇跡においても、イメージの重要さは大きい。今までずっとしてきたやり方を変えるのは、わかっていても難しかった。
イメージの中では常に成功していた。あとは、現実が追いつくだけだ。
下田は何かに躍起になっている自分を、遅れて自覚した。何かに一生懸命になっている間だけは、余計な事を考えずにすむのだろう。けっして、楽しいだなんて言えるものではなかったが。
(92)
一瞬だけ、光ったような気がした。
それは、結局幻だった。
(114)
「うそ、ちょっと、アキ!」
ちとせの叫びが、合図だ。彼女の切羽詰まった声は、いい具合にこちらの意識を切り替えてくれる。下田は集中をした。己の腕が、光に包まれる想像。それによって、腕が再生されていくイメージ。
ぐぐと、ないはずの腕に手ごたえがあった。それで慢心することはなく、さらに、奇跡の行使を続けていく。歯を食いしばった。尻餅をついても、他のことに気をとられないようにした。
治れ。
治れ。
「なおれ!」
思わず叫んでいた。声に出すこと。それがもしかすれば、良い方向に働いたのかもしれなかった。イメージを強固なものにさせたのだ。
イリーナが駆けよってくるのを見て、自分がまだ意識を保っていることに気がついた。腕の方を見ると、しかし何もない。てっきりとっくに再生されているのかと思ったが、それはまやかしの感覚のようだった。根元の傷口が、ややふさがっているに過ぎなかった。
下田の雑な治療の上に、イリーナが手をかざす。彼女の光は、徐々にではあるが確実に、下田の腕を再生し始めた。結局技術の差は絶対ということだ。
これでも、上出来だろう。
ふう、と息を吐いて、それから達成感に浸りかけている自分に唖然とした。何一つとして事態は改善されていないというのに、気が緩みかけている。むしろ、頑張らなければならないのはここからだというのに。
大扉が、開かれる。
その音が、下田にはやけに大きく聞こえた。
「何事ですか?」
グウィンの後ろをついてきているヨルシカは、下田の現状に気がつくと、心配そうな顔になった。それは本心から思っているような表情で、そこに何か裏があるなど、到底考えようもなかった。
だが、もう知っている。こうやって振る舞っている彼女の姿は、ただの一面に過ぎないのだと。残酷で非道な側面もあるのだと、下田はもうわかっていた。
自分の口から、言葉にならない呻きが漏れる。ヨルシカを目にするだけで、あの時の情景が浮かび、恐怖が蘇ってくる。蹴られた腹と頭の痛みが、戻ってくるような気がした。
結局下田は、治療の負担も相まって、直後に意識を失うことになる。一度決意したはずなのに、またくじけそうになっている自分の心の弱さが、心底嫌だった。
ただ、同じことは繰り返さなかった。眠り続けていたのは一日ほどで、今までよりも明らかに早く回復することができた。目覚めた場所も、自分の部屋だった。
「大丈夫?」
イリーナが出ていったあと、ちとせは心配そうに尋ねてきた。
下田は半身を起こしながら、彼女と視線を合わせる。思えば、誰かとまともに会話をするのは、久しぶりな気がした。最近はずっと、ベッドの上か篝火の前で立っている記憶しかなかった。回数など数えていないが、少なくとも二年は経っているのだろう。頭の奥で、疲労がたまっている。
「アキ、あのさ」
ちとせは丸椅子に座りなおす、彼を気づかわしげに見つめてきた。
「何か、悩みがあるなら相談しなよ。あんた起きてから、ずっと変だよ。どうしたの? 何か、あったの?」
下田は俯きながら、自分の限界を感じていた。正直、もう解放されたいと思っている。この、理解しがたい状況から抜け出したかった。全部、自分の都合が良い事実だけを信じていたかった。
だが、それも限界なのだ。彼は顔を上げる。
「実はちょっと、追いつめられてて。聞いてくれる?」
「うん。どんとこい」
自信ありげに胸を叩いた彼女を見て、少しだけ気分が和らいだ。
下田は声を潜めながら、全てを話した。ヨルシカが、エルドリッチと通じていること。このまま儀式を始めさせてしまえば、自分たちは死ぬこと。そしてなぜそれを知ることができたのか。自分の固有能力のことも、全部話した。
不可解だったのは、ちとせが進化のことをまるで初耳であるかのように反応したことだ。それはおかしかった。以前も話したことがあるはずなのだ。そこで何となく、嫌な予感がした。
彼女は、初め驚きで声も出ない様子だった。
「何それ…。そんなのって」
「僕も信じたくないよ。でも、本当のことなんだ。全部この目で見た。何度も見たんだ。僕たちは、ずっと騙されてた。だから、逃げないといけない」
「どこに」
「わからない、でも、できるだけ遠くへ行かないと。ここにいちゃ、殺される」
ちとせが動揺しているのが、その息遣いで分かった。どんな顔をしているのかは、怖くて見られない。もし、疑われたら。くだらない嘘だと、切り捨てられたら。そう考えると、彼女が黙っている間でも、異様な緊張が全身を支配した。
沈黙は、しばらく続いた。下田はずっと返答が来るのを待っていた。しかし、段々と異変を感じ始める。あまりにも、反応が返ってこない。長すぎる。
思い切って顔を上げる。彼女の様子を確かめた。
ちとせは、妙な表情をしていた。瞬きを何度もして、少し気の抜けた顔をしている。きょろきょろと辺りを見回し、下田を見ると、一気に喜びの色を強くした。
「良かった! 目が覚めたんだ。あんた、一日ずっと眠ってたんだよ。大丈夫? 気分悪くない」
これが冗談であるのなら、ちとせの意外な才能を見たと思うこともできる。それほど、彼女の様子はただの演技とはかけ離れていた。その反応は少し前に下田が目覚めた時のものとほとんど同じだった。
「いや、ちとせ、さっきの話は…」
「さっき? 何言ってんの? あんた今まで寝てたでしょ」
「だから、その、祭祀場の話」
「落ち着きなよ。寝ぼけてるの? やっぱり、もう少し休んだ方がいいよ」
下田は一瞬、自分が巻き戻ったのかと思った。何らかの形で能力が暴発したのだと。しかし、それは違うようだった。本当に戻ったのなら、イリーナもいるはずだ。目覚めたとき、ちとせとイリーナがそばにいたのだから。
部屋の隅に、白い女性が立っている。彼女は首を横に振っていた。
下田は思い返す。今までも似たようなことがあった。草野や実織も、下田の固有能力を忘れている素振りをみせたことがある。篝火に触れてさえいれば周りの時間が止まる能力なんて、普通は忘れようがない。つまり、これは意図的なものだ。誰かの、仕業なのだ。
白い女性はまた首を振った。それを睨みつける。
貴方が、やったのか。
瞳でそう問いかけても、悲しそうにされるだけだった。
結局わかったのは、能力を説明しようとしても意味はないということだけ。何度か違う方法で試すこともできたのだが、繰り返すのは危険な気がした。ちとせの、誰かの記憶を改ざんするなんて、そう何度もやっていいことではない。
それでも、下田は諦めていなかった。
次の日から、彼は復帰した。不死街での、ソウル集めを他の皆と一緒にやり始めた。最初はまだ安静にした方がいいと止められたが、受け入れなかった。唯一、祭祀場から出られる機会なのだ。無駄にしない手はない。
ともに手伝ってくれていたジークバルド達が別の場所へと向かうのを見計らって、下田は生徒たち全員を集めた。
「なんだよ、お前のことなんかに時間とられるの、うざいんだが」
下田は周りを油断なく確認しながら、宇部の言葉を無視した。周囲に音送り、消音の魔術をかけて、話の準備をする。正直効果のほどは信用していない。習得してからまだ、それほど経っていないからだ。
太い木の幹を背にして、集まっている全員の顔を一つ一つ見た。果たしてこのうちの何人が信じてくれるのだろう。
「ごめん。急に。でも、重要な事なんだ。皆にとっても。これから話すことは、多分、皆驚くと思う。それでも、冷静に聞いてくれないかな」
自分の部屋でちとせに話したことと全く同じ内容を、話していく。しかし、能力のおかげで知った部分は変更せざるおえない。必死に考えた結果、偶然ヨルシカの会話を耳にしたということにした。我ながらかなり苦しいが、他に思いつかなかった。
ほとんどが、少なくない驚きを示した。二人を除いて。
宇部は、面白くもない冗談を聞いたとばかりに苦笑した。
「おいおい。何だって? お前、病気だろ。どうやったらそんな、突拍子もない妄想を抱けるんだ」
「本当なんだ。僕は、この目で…」
「くだらねえ。やっぱり時間の無駄だった。行くぞ丸戸。こんな変な奴と関わってられねえ」
「そ、そうだな」
丸戸もまた、鼻で笑ってくる。
「下田。お前、無能なくせに、さらに俺らの足まで引っ張るのかよ。どうしようもないな」
二人が去っていくのを、もっと強引に止めることもできた。しかし、下田にはできない。たとえ自分が聞く側だったとしても、受け入れるかどうか自信がなかった。それくらい信じられないことを言っていると、自覚はしていた。
残った者達も、しばらく言葉を発しない。その顔には異常はなかった。やはり固有能力がらみの会話だけは、影響があるようだ。
最初に話し出したのは、実織だった。
「下田。それは、本当なの?」
「うん」
「でも、それは、勘違いじゃなく? 本気で、言ってるの?」
「そうだよ。僕たちはここにいちゃいけない」
実織ははっきりと疑念を表していた。
「ちょっと変な話を耳にしただけで? 考えすぎとかは」
「それはない。ヨルシカは、僕達を騙してた」
はっきり言い切ると、彼女は微妙な顔になった。
「でも…逃げて、どうするっていうの。私にはちょっと、無理だよ。だって、お姉ちゃんを置いてはいけないし。その、馬鹿兄も。お姉ちゃんは、祭祀場の指示でずっと動いていたって。だから、そんなに気にしなくていいんじゃない? 考えすぎだよ」
「違う! この目で見たんだ!」
思わず声を荒げている自分に気がついて、下田ははっとした。今までの鬱屈を、彼女へぶつけるのは間違っている。自分が嫌になって歯を食いしばっていると、実織は立ち上がっていた。
その顔は、申し訳なさそうになっている。
「下田、おかしいよ。どっちにしても、ごめん。私は、どこかに行く気なんてない」
「ここにいると、死ぬんだ」
「私はそうじゃないって信じたい。お姉ちゃんまで疑いたくない。本当にごめん。そういうことだから」
彼女が去ろうとすると、さらに新宮も腰を上げた。彼女も少なくない動揺を感じているようだったが、既に決意を固めている目をしていた。
「実織が残るなら、わたしもそうする。このことは誰にも言わないから。ごめんね」
すでに四人が去って、わかっていたとしても気分が沈んだ。ため息をついて、木によりかかる。これは、自分の責任だ。もっと説得力のある説明とか、決定的な証拠を用意できなかった。こうなるのは、当然かもしれない。
「で?」
すぐ横で声がして、思わず飛び上がった。ちとせが、優しく肩を叩いてくる。
「しっかりしなよ。で、どこに行くの? とにかくここから遠ければいいんでしょ」
「え…」
「なに? ぼうっとしちゃって」
ちとせは平然としていた。下田の話の衝撃からは立ち直っているようで、すでにしっかりとした視線を向けてきていた。その真摯な光に、なぜか、直視できない感情を覚える。
「どうして」
「ちょっと、しっかりしてよ。あんた自分が言ったことちゃんと把握してる? 逃げなきゃいけないんでしょ。宇部と丸戸のバカ二人がチクってるかもしれないじゃない。さっさと行動しないと」
「でも、信じるの? 疑ってるんじゃ」
「まあ、正直信じたくないけど」
彼から目線を外し、頬を指で搔いた。口元には照れるような笑みが浮かんでいる。
「アキって、そういう嘘はつかないでしょ。何の得もないもん。それに、私達戦友だから。信じないでどうすんの」
「高原のくせに、いいこと言うなあ」
高坂は既に槍を取り出していた。周りを油断なく観察している。下田と顔を合わせると。肩をすくめて見せた。
「ま、俺は別にお前とすんごく親しいわけじゃないけど。あいつらが怪しいっていう意見には賛成だな。前々から思ってたんだ。どっか胡散臭いんだよな」
「俺は知ってたみたいな態度、ださいからやめなよ」
「はあ? じゃ、お前は残れよ」
「男二人だと見栄え悪いじゃん。私が華をそえてやるから」
「自分が華の役割できるとでも思ってんのか?」
「決めた。高坂は囮に使う」
「やっぱり、寝返っちゃおっかな~」
「あんたそれシャレに…」
二人は、下田の笑い声で会話を中断した。それから、彼が泣いているのを見て、さらに微妙な表情をした。下田にとってはそのシンクロした動作が可笑しくて、泣き笑いが止まらなかった。何だか久しぶりに、気分が安らいだ気がした。
逃げ始めるタイミングは、意外と簡単だった。戦闘になれば、さすがに祭祀場の者達もこちらの全ての動きを気にすることはなくなる。誰の目もなくなったと判断できれば、下田が見えない体の魔術を使えばよかった。これは自分ではなく、他者にもかけることができる。本来ならかなり困難らしいが、下田にはこの術への適性があった。
離脱してしばらくしても、誰かが追ってくる気配はない。
「歩きづれえな…」
「ちょっと、速度合わせてよ」
「二人とも、あまり離れないようにして」
適性があったとしても、下田は遠隔での術を維持することが苦手だった。そのため、二人に直接触れ続けなければならない。三人はほとんどくっつきあって、前へと進んでいた。亡者などの敵に出会う度に、息をひそめてゆっくりと通り過ぎなければならない。足音などは相手に聞こえているのだ。見えない体と音送りの併用は、まだ下田には不可能だった。
かなり緊張しながら不死街を過ぎていく。予想とは違って、未だ何の障害もなかった。さすがにそろそろ自分たちが戻ってこないことを祭祀場の者達は気がついているだろう。追手も放たれているはずだ。
ただ、やはり、透明になれるというのは強いアドバンテージだった。このまま距離を稼いでいけば、おそらく完全に彼らの捜索を逃れることができるに違いない。
逃げられたとしても、この先どうするのか。
残された生徒たちの事を考えると、目の前が暗くなる。そして現実に戻れるのかも、わからなくなった。このまま、自分たちはこの世界で死ぬのだろうか。
下田は、今だけは未来のことを考えないようにした。他の二人も、同じ不安を抱えているはずだ。事情を話し、ここまで連れてきた自分の責任として、絶対に弱気なところは見せてはいけないのだ。術の維持にも集中力がいる。ただ進み続けることだけを意識した。
不死街もだんだんと終わりが近づいてくる。遠くの方で、小さな塔が見えてきた。あそこの中にエレベーターがある。そこを下りてさらに進めば、生贄の道だ。せめてファランの城塞までには、一気に到達したかった。
建物が近づいてくると、皆の足が早くなる。互いに離れないようにしながら、できる限り早く塔内へと向かった。三人の中では一番高坂の身体能力が高いので、必然的に彼が一番前に出ることになる。
高坂は、塔の前に来ると、扉の前に立った。二人に向かって頷いて見せてから、木の扉を押し開いていく。
地面から、突然火柱が噴き出てきた。下田はその風圧に飛ばされ、地面を転がる。びっくりした衝撃で、術は解けてしまっていた。
背中を打った痛みで呻きながら、何とか体を上げる。いつの間にか、下田達の前に二人の男が出現していた。
「すげえな。本当に来た。竜女の言ったとおりだ」
「そのような言葉は控えることです。彼女が癇癪を起こしたら、すぐに殺されますよ」
「それも楽しそうだな」
高坂が、足を押さえてもがいている。酷い火傷だ。今も燃えている防具を何度も地面に擦りつけている。彼が自分で歩ける状態でなくなったことは、一目でわかった。
坊主頭の法衣を着た男と、巨大な剣を肩に抱えた男が、下田達に近づいてくる。
その二人は、見たことがある。
忘れもしない。エルドリッチの配下だ。大剣の男は、ゾリグ。草野を殺した男。もう一人の方は、名前はわからなかった。ただ、三人いる坊主頭の内の一人だ。実織の呪術よりもはるかに大きな炎を作っていたことを憶えている。
もはや不思議でもなんでもなかった。エルドリッチ側とヨルシカが通じているとわかった以上、こうなることもわかっていたはずだった。
「逃げろ…」
高坂が、槍を構えた。負傷している身とは思えないほど素早く三本を続けざまに放った。しかし、それらは相手とは全く違う方向へと飛んでいく。
ゾリグが笑い声をあげた。
「んん? どうした。焦りすぎだぞ」
油断している彼の背後に、軌道を大きく変えた槍が迫る。ゾリグの大剣が、別々の方向から来た二本の槍をこともなげに切り落とした。
「なるほど。曲芸だな」
残りの一本は、法衣の男によって無力化されていた。
「逃げろ!」
下田ははっとして、まだ立ち上がれていないちとせを引っ張り上げる。そして、すぐに見えない体を発動させた。足が、自分のものでは無いようだった。どれだけ走っても、前に進んでいる気がしない。それでも、走り続けなければならなかった。捕まったらどうなるかなんて、想像したくもない。
しかし、すぐに行く手を塞がれる。黄色い茸の帽子をかぶった妙な術師と、仮面の男がすでに魔術を放っている。下田には、ただ蒼白い光が一瞬だけ見えたとしか思えなかった。自分たちは透明であるはずなのに、位置をはっきりと捕捉されているのもわけがわからなかった。
直後、頭に強い衝撃を感じる。脳が大きく揺らされて、なすすべなく足がもつれた。背中にちとせがいるのを感じる。彼女も痛みに呻いて、一緒に倒れ込んだ。自身の荒い呼吸が聞こえる。鼻から血が垂れていくのがわかった。
立ち上がろうとしても、まるで力が入らない。そばにちとせの存在を強く感じながら、段々と目の前が暗くなってきた。彼の思いとは裏腹に、意識はどこまでも深く落ちていく。彼に、深い絶望を残して。