火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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42.憎悪

「起きなさい」

 

 頬を、叩かれる。

 その衝撃で、下田は目を覚ました。大きく息を吸い込む。埃の臭いが、一気に鼻の中へと入り込んできた。

 ぼやけていた視界が徐々に鮮明になっていく。ヨルシカは、冷たい瞳で、彼の回復を観察していた。

 隣を見ると、ちとせもちょうど気がついたところだった。両手を鎖で縛られている。そこまで見て、自分も同じ状態であることが分かった。それに、喉のあたりに妙な感じがする。普通に声は出せそうなのだが、別の何かが詰まっているような気がしていた。

 

「不思議でなりませんね。どうして、こんなことをしたのか。貴方達だけで行動するのは危険なのです。心配していたのですよ」

 

 そんなことは微塵も思っていないことは、表情で分かった。それにエルドリッチを横にして喋っていても、まったく説得力がない。自分はまた、この部屋に連れてこられたのだとわかった。だが、今度は一人ではない。

 

「大方、カルラあたりが口を滑らせたのでしょう。わかりませんね。貴方達などに情を移すなんて」

「なんで、こんなこと…。どうして、なんですか」

 

 ちとせが、ヨルシカを睨みつける。まだ、彼女には抗う意思が残されているようだった。

 

「別に。初めから決まっていたことです。私は全てを計画したわけではありません。いくらでも考えてください。どうせ、大した時間は残されていませんが」

 彼女は、めんどくさそうに言うと、部屋を出ていった。

 その後しばらく、エルドリッチと共に残される。彼は、何も言ってこなかった。ただ、下田の方を舐めるように観察してくるだけだ。そこには純粋な興味以上のものが表れている気がして、ただただ気持ちが悪かった。

 逃げるために、色々と試した。すぐそばには当然刃物の類もない。ならば魔術で鎖を破壊しようと思い立ったが、なぜかこの場では何も発動させることができなかった。どうやら、術を封じる類の何かがかかっているようだ。喉の奇妙な詰まりは、おそらくそれが原因だろう。

 インベントリを利用するのにも、結局手が使えなければほとんど意味をなさない。もちろん道具を選べば強引に拘束から脱する方法もあっただろう。爆弾などを使えば。しかし、そういったものを取り出すためのソウルが、二人分合わせてもまるで足りていなかった。

 

「アキ、アキ…」

 

 ちとせが肩を触れさせてくる。みれば、彼女は唇を噛みしめて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 

「ごめんね」

「どう、したの? 謝るのはこっちの方だよ。僕は、何もできなかった。もっと、うまくやれたはずなのに」

「違うの。私あんなこと言っておいて、実はね、ちょっと疑ってたの。ロスリック城でさらわれてから、誰かに洗脳されたんじゃないかって。少し付き合ってあげれば、治るかもしれないって。ごめんね。私、本当に嫌な性格してる」

「そんなことない。僕は、ちとせと高坂が付いてきてくれるってわかった時、すごく嬉しかった。だから、謝ることなんてないんだ」

 

 彼女は鼻をすすった。頭を振って涙を払う。それから、いつもの強気な笑みが戻ってきた。それに今まで何度か、下田は助けられたことがある。

 

「あんたが正しかった。このままじゃ、駄目。私は、諦めない。アキは危険を承知で私たちに警告してくれた。私も、頑張るから」

 

 しかし、今だけはどこか、不安だった。彼女は何かの決意を固めたようだが、それがいい方向に働くとはとても思えない。二人の小さな会話を、エルドリッチは不気味な笑みで眺めていた。その視線は、下田の方ではなく、段々とちとせの方に向くようになっていた。

 ヨルシカが戻ってきたのは、かなり時間がたってからだった。今は何日目なのだろう。少なくとも、儀式はまだ先のはずだった。彼女の様子が、たいして急いではいないようだったからだ。

 

「遅かったじゃないか。退屈だったよ」

「ああ。今は、人食いの方ですか。忌々しい」

「ウフフ、いい加減彼らも疲れてきているようだよ。可哀そうじゃないか」

 

 ヨルシカは鼻を鳴らして、下田達を見つめてきた。そこには思いやりの心など少しもこもっていない。

 

「貴方達に見せたいものがあります。自分たちの行動がどれだけ無駄か。よく理解することですね」

 

 ヨルシカは窓の方へと向かう。そこは確か、隣の部屋がのぞける部分のはずだった。

 

「見なさい」

 

 彼女は下田とちとせの両方とも持ち上げる。そして、無理やり窓の方へと押し付けてきた。苦しみながら、中の様子を理解する。そこには、前と同じく膿に侵された生徒達が寝かせられていた。

 

「真実を」

 

 ヨルシカが、何かを唱える。すると、窓の表面が移り変わっていくような気がした。変化の線のようなものが、左から移動していく。それが視界の全てをなぞり終えたとき、目の前の光景は大きく変わっていた。

 寝ていた生徒たちは、活発に動き回っていた。お互いに飛びかかり、貪り合っていた。頭も体も、干からびた姿で。それは明らかに亡者の姿と酷似していた。かろうじて男女の違いが分かるくらいで、誰が誰なのかは判別できない。しかも全員が残っているわけではなく、手足や頭の残骸らしきものが、あちこちで積み上がっていた。

 

「う…」

 

 両手が不自由でなければ、口を押さえている所だった。顔をそらそうとして、ヨルシカに無理やり固定される。もはや彼女は、笑っていた。下田達が苦しんでいるのを楽しんでいるようだった。

 

「もうとっくに、彼らは手遅れでしたよ。貴方達が少しでも誠実に、ここへ通い詰めていれば、違和感にも気づけたかもしれません。哀れですね」

「ふざけんな!」

 

 ちとせが身をよじる、と同時に空中に縄が出現した。それらは真っすぐヨルシカの手足を拘束しようと放たれる。固有能力だけは、まともに使えるようだった。

 しかし、縄たちは全て、紫色の光球によって吹き飛ばされる。エルドリッチはち、ちと舌を鳴らした。

 

「詰めが甘いね。遅いよ」

 

 ちとせは髪を掴まれて、壁に叩き付けられる。それからヨルシカはさらに、彼女のお腹へ魔術を放った。短い悲鳴を上げて、ちとせはうずくまった。頭から、血が流れ落ちてくる。

 

「ちとせ!」

「懲りないのですね。やはり、二匹もいらなかった」

「もう、殺すのかい?」

 

「馬鹿な事を言わないでください。篝火に転送されたら、もっと面倒なことになります。死なない程度に拷問をすればいいでしょう」

 

 ちらりと、ヨルシカは下田を見た。まるで何かを期待しているかのような表情だった。

 エルドリッチが笑みを深くする。

 

「それなら、良い案があるんだ」

「なんですか?」

 

 人食いは唇をゆっくりと舐めた。

 

「ちょうど、お腹がすいていたんだよ。貴重な若い女性だ。少しつまんでも支障はないだろう?」

 

 ちとせへと何とか向かおうとする動きを止めた。あたりは、彼女の荒い呼吸だけが響いている。

 自身の言葉の余韻を十分に確かめた上で、エルドリッチは動き始めた。

 ヨルシカは、つまらなそうにため息をつく。

 

「それでも構いません」

 

 不定形の膿の下半身が、ずりずりとちとせへ近づいていく。対する彼女は怪我のせいでまともに動けなかった。ただ、人食いの化け物が来るのを待っていることしかできなかった。

 

「ま、待って」

 

 下田はたまらずに声を上げた。これ以上、誰かが傷つくの見ているだけなのは、嫌だった。

 

「僕が、代わりになります。だから、彼女に手を出すのはやめてください」

「ん―」

 

 エルドリッチは人差し指を口元に当てた。多少は、迷ってくれているようだ。視線が彼とちとせの間を忙しなく行き来している。それはまるで、子供のように無邪気なしぐさだった。好物を選べと言われて、迷っているみたいだった。

 

「駄目ですよ」

 

 ヨルシカもまた、なかなかいい娯楽を見ているような声音だった。

 

「シモダさんは、大事な祭祀場の仲間なんです。そんな酷いことは、させられません」

 

 ついに、この女の頭はおかしくなったのかと思った。今までの行動で、そんな発言ができるとは思いもしなかった。いや、わかっている。彼女はちゃんと理解していて、楽しんでいるのだ。下田は、見物をさせる方なのだと決めている。

 

「そうだねえ。どっちも魅力的なんだけど、やっぱり女の肉がいいねえ。ごめんねえ、また機会があったら、アナタの方も味わってあげるから」

 

 エルドリッチは手を伸ばし、うずくまっているちとせを持ち上げた。かなりの細腕なのに、腕力は相当あるようだ。

 下田はあらん限りの力を振り絞って叫んだ。間に割って入ろうともしたが、ヨルシカの抑えからは抜け出すことができない。

 

「やめろ!」

「…あき」

 

 ちとせの目は、朦朧としている。頭を強く打ち付けたせいだろう。それでも強い意思の光を、下田に向けてくる。

 

「あたしは、大丈夫、だから。あの、お願い、します。アキだけは、彼だけでも見逃してください。あたし、抵抗しませんから」

「フフフ、考えてやってもいいんじゃないかい?」

「前向きに検討します」

 

 ヨルシカもエルドリッチも、吹き出しそうな顔をしていた。

 今、もしこの手にナイフがあったら。下田は感じたことのない、強烈な感情に支配されつつあった。あいつらの首両方を、搔き切ってやるのに。何もかも、助け出せるのに。そういった、根拠のない妄想が、下田の限界も示していた。

 

「じゃあ、こうしよう」

 

 エルドリッチが妙案を思いついたとばかりに指を立てた。肩で息をするちとせに向かって、微笑んで見せる。

 

「アナタが食事の最中でも静かでいられたら、彼には何もしないと誓うよ。どうだい?」

「はい。お願い、します」

「やめろ、やめろ、やめろ…」

 

 ちとせは、まだ、笑っていた。

 

「大丈夫。殺されは、しないんだもん。あたしなんかより、あんた自分の心配をしなよ。あたしに、すっごく大きな借りを、作るんだから。覚悟、してよね」

「ぐうううう、うう、う」

 

 下田はまた暴れる。もはや何もちゃんとした言葉にはならなかった。どれだけ渾身の力を込めても、ヨルシカの拘束は逃れられない。自分がひたすら情けなかった。目の前の視界が歪んでいく。彼女は泣いていないというのに、自分ときたらこれだ。

 助けは、こなかった。漫画やドラマのように、絶体絶命の時に都合よくヒーローが来てはくれなかった。そこには、敵と弱者しかいなかった。下田は何一つできることもなく、目の前で起こることを見続けなければならなかった。

 結果を先に言えば、指を三本ほど食われたところで、ちとせは決壊した。

 彼女の強がりなど、結局は無に等しかったのだと、下田にもわかった。最初は、嘆願をし始めた。片手を貪られながら、先ほどの自分の言葉は取り消すと、泣き叫びながら言った。とにかくもうやめてほしいということだけを、頼んでいた。

 エルドリッチの口は、普通の人間と変わらない。一度に開ける大きさにも限界がある。肉食の大型動物などとは違い、人間の部位を一噛みでもっていくことなどできない。故に、ちとせは長い時間をかけて、非常に遅々とした速度で、食べられた。下田はヨルシカに顔を押さえつけられて、瞼を無理やり開けさせられて、それを最後まで見させられた。

 下田も泣き叫んだ。何度も何度も懇願した。喉が潰れて血の味しかしなくなるまで、叫び続けた。激しく暴れてヨルシカに何度も殴られたせいで、顔中に痣ができた。

 両腕を全て貪られたところで、ちとせはあまりしゃべらなくなった。全身にべったりと汗をかき、気絶しているのかわからない様子で頭を揺らしていた。

 ただ、意識の狭間で休むことを、エルドリッチは許さない。彼は、どうすれば相手の痛覚を的確に刺激し、悲鳴をあげさせ続けることができるかを知り尽くしていた。彼は奇跡を使って止血し、決して死なないように注意を払っていた。

 それからは、だんだんとちとせは憑かれたような目でエルドリッチを見るようになった。涙まみれの顔面は、人食いにとって非常に良いスパイスになっているようだ。段々と食べ方に遠慮がなくなってきた。ちとせの口の端から、血がこぼれる。悲鳴の上げすぎで、喉が裂けているようだった。

 下田は、何度も吐こうとした。だが、胃の中のものは少しも出てこない。胃液が少し漏れ出るだけで、脱水症状で死ぬこともできない。

 ちとせは、おぞましい視線の向きを変え始めた。もはや自分ではどこにも行くことのできない、手足が失われた状態で、下田を見据えていた。その目はどこまでも暗く、耐えられないほどに、憎悪があふれたものだった。

 

「全部、貴方のせいですよ」

 

 ヨルシカが、耳に口を近づける。興奮した吐息がかかってきた。楽しくてたまらないといった様子だ。

 

「貴方がくだらない妄想を言わなければ、彼女は逃げることもしなかった。捕まって、ここへ連れてこられることもなかった。今、あそこでこうして苦しみ続けているのも、貴方のせいです。可哀そうですね。貴方がいたばかりに」

 

 本当は違う部分もある。そもそも、彼女たちが全ての元凶だ。しかし、ちとせの視線を受け続けている下田は、ヨルシカの意見をほとんど受け入れていた。何もかもが自分のせいだと、考え始めていた。

 ちとせの耐えられない視線は、じきになくなる。エルドリッチが、彼女の両目をくりぬいたからだ。舌を出しながら大きく口を開けて、二つ同時に飲み込んだ。そこから、ちとせは誰にも意味の分からない、恨み言のようなものを言い始めた。喉が駄目になっているので、普段の彼女の快活な声とはかけ離れていた。老婆のような、醜い声だった。

 エルドリッチは両方の耳を食いちぎってから、もののようにちとせを横に放り投げた。満足げに口元を緩め、お腹をさする。

 

「ごちそうさま。やっぱり、いいね。悲鳴を聞きながら貪るのは最高だよ。こんなところかな。これ以上やると死んじゃうね。内臓も食べてみたかったけど」

 

 それからしばらく、下田達は放っておかれた。期間は数日ほどだったが、永遠のようにも思えた。エルドリッチに観察されながら、下田はちとせだったものを見ていた。正確には、何も見ていなかったかもしれない。目を閉じなくても、どこか別の世界へと飛んでいける気がしていた。実際に何度か、それが成功したこともある。そこでは、皆がいるのだ。母さんもちとせも、友達の皆も、全てが笑顔だった。お母さんがいつでも好物のロールキャベツを作ってくれる。痛いことも苦しいこともない世界。

 

「わかりますか?」

 

 それは多分、ほとんど反応を示さなくなった下田に、退屈を感じたからなのだろう。ヨルシカは部屋の中に入ってくると、再び無理やり彼を持ち上げた。顔同士がほとんどくっつく距離で、話しかけてくる。

 

「あのまま泳がせて逃がすこともできました。貴方に全てを話すことなんて、そもそも必要のないことでした。お互いに何も余計な干渉をしない方が、火継ぎも滞りなく進んだでしょう。それでも、こうして、わざわざ貴方に見せているのはなぜだか、わかりますか?」

「母さん、母さん、母さん、母さん、母さん、母さん、母さん、母さん」

「私が貴方を、憎んでいるからです。この手で殺してやりたいほどに、憎悪しているからです。たくさん、たくさん苦しんでほしかったんです。…お前を見るたびに、あの女の影がちらつく。貴方とのあらゆる瞬間が、拷問のようでした。どれだけ、殺してやりたくなったか。特に、貴方が私の姿のことでくだらないお世辞を言ってきた時は、危なかったです。何も知らないくせに、聞き触りのいい言葉だけ並べたてて。本当に、不愉快な男。でも、フフフ。そういう、無様な顔は好きですよ。ずっとそうしていてください。最後まで」

 

 ヨルシカの瞳もまた、昏い輝きで満ちていた。下田の視界一杯に、深淵が広がっていた。それでも、彼は別の何かを見ていた。必死に逃避をしようとしていた。

 

「母さん、母さん、母さん…」

 

 ふう、と相手はため息をつく。それから、唇を吊り上げて、とても楽しそうな笑みを浮かべた。

 

「本当に愚かですね。そうやって、何も知らないで。このまま消えていくのを待つだけ。自分の母親がとっくに死んでいることも思い出せずに」

 

 楽しい世界の想像が、唐突にぶつ切りになった。異様なほどの頭痛に襲われて、下田は顔をしかめる。

 なんだか今、とても、有り得ないことを聞いた気がする。

 

「母さん、かあさ」

「シモダミサ。私も、名を憶えていますよ」

 

 下田のとめどない思考は、一瞬でバラバラになり、静止した。目の前の視界が明瞭になっていき、ヨルシカの愉悦に満ちた笑みだけが広がっていく。

 下田美紗。

 それはたしかに、自分の母親の名前だった。

 ヨルシカの背中が波打っている。正確には、ドレスの布が。どうやら、尻尾が激しく振られているようだった。彼女が異常なほどに感情を高ぶらせている。彼女にとっての最大の喜びが、下田の苦しみであることはもはや明確だった。

 

「なん、で」

「ですから、貴方の母親は死んだと言っているんです。私が殺しました。この手で胸を貫き、内臓を引きずり出して。温かい血の感触は、今でも感じられます。そうでしたね、貴方は憶えていなかった」

「うそだ」

 

 頭痛が酷くなってきた。

 

「いえいえ、本当ですよ。だって、ちゃんと札を見て確認しましたから。ビョウインと、言うのでしたっけ。よくわかりませんけど」

「うそだ!」

 

 叫ぶと同時に、胸の中に熱が生まれた。熱と共に痛みも。そこと頭痛が合わさって、目の前が不安定になり始める。熱が徐々に全体へと広がっていく。

 

「ああぁ、もう、おわり、ですか。もったいない」

 

 ヨルシカは深く、艶の乗った吐息を流した。下田を嬉し気に見つめながら、彼を地面へと無造作に投げ捨てる。地面についた瞬間、彼の体は燃え始めた。

 

「うそだ、うそだ、うそだ…」

「そうだ」

 

 彼女はぽん、と両手を打ち合わせる。

 

「貴方の母親に関する記憶ですものね。消える前に、ちゃんと戻してあげます。ええと、確かこうして」

「やめろ、やめて」

「やめませんっ。フフフ」

 

 長い指が、額に当てられる。そこから、勢いの激しい何かが流れ込んでくる。それが、頭の中にある、ずっと詰まっていたものを、少し破壊したような感じがした。

 途端、ある光景が強烈に浮かんでくる。

 下田は、意識が消失する最後まで、ずっと悲鳴を上げていた。ヨルシカはずっと、指を噛みながら、その様子を満足げに眺めていた。

 意識が消失している間の、暗黒だけが、彼にとっての救いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (115)

 

 

 最初、自分が立っていることを知覚できなかった。それでも倒れなかったのは、もう何度も経験していることだからだろうか。

 現実感が返ってきたのは、誰かの悲鳴を聞いてからだった。ずっと聞いていた人の声。これは、誰だったか。

 そうだ。ちとせだ。

 下田は両手がなくなっていることが、少しも気にならなかった。それに伴う激痛も、今は無視していられた。なぜなら、すぐ横に彼女がいたからだ。目を大きく開けて、とても焦った声で、こちらを心配しているちとせが、そばにいたからだ。

 

「アキ、だいじょう――」

 

 がむしゃらに、彼女へと抱き着いていた。腕がほとんど欠けているのが本当にもどかしかった。もしちゃんとあったら、しっかりと掴まっていられるのに。ちとせの存在をもっと強く感じることができるのに。

 

「ちょ、ちょっと、あんた、急にどうしたの」

 

 下田は無言で彼女の首元に鼻をうずめた。いつもうっすらと感じていた彼女の香りがした。

 ひゅうっ、と高坂が口笛を吹く。実織が、顔を赤くしながら、二人が重なっている姿を眺めていた。新宮は苦笑いをする。宇部は舌打ちをする。丸戸は、横の宇部の機嫌が悪くなったことを感じて、冷や汗をかく。

 

「はな、離れてって。もう、ほんとに、わかんないから! 落ち着け! 何してんの。わかる? あんた今、やばいんだって! やばい怪我してんの!」

 

 腕で突き放された。下田は、少し離れてからまじまじとちとせの顔を見つめる。その視線に対して、彼女は怒っているのか焦っているのかよくわからない目をしていた。

 

「あれ、なんで」

「は?」

「なんで、ちとせ、普通なの。だって、だって。ちとせ、なんで」

 

 彼女は本気で心配そうな顔になった。

 

「え、あんた、正気? もしかして、寝ぼけてんの? 夢から覚めたみたい。イリーナさん! 来てください。ちょっとこいつおかしいです」

「夢」

 

 さすがは、ちとせだと思った。

 これまでの全てのことが、解決したからだ。

 おかしいとは思っていた。こんなのはあり得ない。自分が過去に戻って、ヨルシカの裏切りを知るなんて、どんなシナリオだ。あまりに荒唐無稽が過ぎる。夢。そう、これは全て夢なのだろう。自分のネガティブ傾向にある思考が生み出した、幻だった。

 いや、そもそも。下田はさらに可笑しくなった。自分の考えが傑作すぎて、世界中の人と共有したくなった。

 そもそも、この世界自体が、空想の産物なのではないか。下田自体、学校生活に不満を持ったことはない。しかし、それはあくまで表面的なもので、知れずに溜まっていた鬱屈が、こんなできの悪い妄想を作った。今まで話したこともなかった高原ちとせと仲良くしているのも、そういう願望が産んだものなのだ。

 そうに決まっている。要は、祭祀場もヨルシカも、この世界も本当ではなく、自分は夢を見ている最中なのだ。

 ならば、さっさと終わってほしかった。ちょっと、これはやりすぎな気もするのだ。ここまで追いつめられるのは、彼自身も望んでいない。それに、もうとっくに疲れ果てていた。さっさと目覚めて、制服を着て、草野と学校の前で合流したかった。たわいのない授業を聞きながら、たまに寝入ってしまいたかった。病院の個室で、本を読んでいる母の横顔を眺めて、一日の終わりを感じたかった。

 

「はは、は、ひ、ひ」

 

 この時、下田は狂気に落ちかけていた。むしろ、遅すぎるくらいだったのだろう。全ての痛みと恐怖が、堰を切ってあふれだそうとしていた。自分の体が、どこまでも軽くなっていくのがわかる。暴発の前兆。

 だが。皮肉にもそうはならなかった。

 大扉は、既に開かれている。

 

「何事、ですか」

 

 やってきた声を聞いて、下田は止まった。その瞬間から、あらゆる音と周りの者達が消え去り、出てきたたった一人の、美しい女性だけが目に映っていた。その長い睫毛に彩られた瞳を向けられると、胸が異様に苦しくなった。

 ひりつくような笑い声。侮蔑の表情。

 高坂の叫び。足の火傷。エルドリッチと彼女の歪んだ微笑み。

 ちとせの悲鳴。貪られていく体。

 ヨルシカの、全てが飲み込まれるような昏い目。

 

「……ぅ、ぅ」

 

 頭に強烈な光景が浮かぶ。

 そこは、たくさんの瓦礫が積まれていた。あらゆるところで、煙が上がっていた。

 下田は、頭を抱え、すぐにやめた。片方の手が、なぜか、自分の知らないうちに発動されていた自分の奇跡で、再生されていくのが分かる。その速度は、今までの彼の経験から言っても、異常とも言えるほどだった。

 

「…………る」

 

 瓦礫の上で、一人の華奢な女性が立っている。入院用の薄い服を着て、頭は抗がん剤のせいで髪の毛がほとんど抜け落ちている。

 彼女は、下田に向けて必死に呼びかけていた。何を言っているのかはわからない。しかし、こちらを本当に心配してくれているのだとわかった。母はどんな時でも、息子のことを優先する。それでどれだけ彼女自身が傷つこうとも。

 彼女の背後に、誰かが迫っている。

 インベントリを開いて、一番ソウル消費の少ない、小型のナイフを選んだ。そこへほとんど目を向けていないのに、指の感覚だけで、操作が全て完了していた。完全に再生された片手でそれを握る。血がにじむほどに、強く握る。

 

「………してやる」

 

 彼の目の前で、母は胸に穴を空けられた。飛び出すのは、意外に小さな子供の手。しかしそれはしっかりと相手を傷つけるように獰猛な動きをしていた。抜き取られると、母の体から大量に出血が始まる。

 彼女が倒れると、そこには少女が立っていた。母の体を乱暴に蹴りながら、下田に近づいてくる。全身血で染まっていなければ、将来に大きな期待が持てるほどの、可憐な少女だ。

 ただ、普通ではない部分がある。顔のバランスの良さも人間離れしていたが、それよりも、背中の方から生えている尻尾が、非人間であることを強調していた。

 皮肉にも。

 下田を狂気から救ったのは、成長したかつての竜の少女だった。

 母を殺した、相手だった。

 狂おしいほどの憎悪だった。

 

「殺してやるヨルシカアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 そうして、下田は走り出す。

 生まれて初めて強烈な殺意を抱いた相手へ。 

 逃げ場のない、地獄へと。

 

 

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