全身が焼けるように熱い。それは、あの焦がされるような痛みとは違っている。ただただ自分の全てが沸騰しているようで、意識と体がばらばらに引き裂かれている気分だった。意識だけは、はるか先に行っている。あの女の体にナイフを突き立てている。
殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。
頭の中で、別の自分が声を出していた。やるべきこと、しなければならないことだけを考えられるように、今だけは、他のどんな余計なことも思い出さないように。下田は、これまでになく集中していた。
ヨルシカの姿が、大きくなってくる。彼女がどんな反応をしているのかは、気にならなかった。どうせ、殺すのだから。死人が何を叫ぼうが、意味はない。まずは、顔だ。あの憎たらしい顔を切り裂いてやったら、どんなに素晴らしいだろう。
これが終わったら、今度はエルドリッチだ。あの化け物にも、報いを受けさせねばならない。ちとせの受けた全ての痛みを何倍にもして、返さなくてはならない。
ひたらすら猛進している意識が引き戻されたのは、自分の体が止まっていることに気がついた時だった。
下田は、肩を掴んできている。老人を睨みつけた。相手の目は静かだ。周りはほとんど下田の突然の行動に動けなかったのに対して、グウィンだけは冷静に対応していた。
「そんなものを振り回すと、危ないぞ」
「は、な、せええええええ」
邪魔する奴はどうするべきか。当然、同じように排除するだけだ。下田は決めつけていた。見るからにか弱そうな老人へと、ためらいもなくナイフを振るった。正確に、相手の首を狙うことができた。
「もはや、正気ではないようだ。すまない」
グウィンは既にショートソードを鞘に納めていた。
下田は振るったはずの腕がなくなっていることにやっと気がつく。斬られた腕は、宙を飛んで横の床に落ちた。ナイフが転がり、やけに大きな音を響かせる。
いつ斬られたのか、まるでわからなかった。
「ぐ…」
だが、こんなことで止まるわけにはいかない。すぐそばに、もう少しで届きそうな場所に、ヨルシカがいるのだ。彼は歯を食いしばり、それから痛みをごまかすための叫びをあげた。それはほとんど獣と変わらなかった。
「死ねえええええええええええええ!」
三つのソウルの矢を、発現させる。こんな精神状態でも、成功させることができた。三つとも全てを、ヨルシカに向けて放つ。急所なんてものはまったく気にしていなく、ただ相手が酷く傷つき苦しめばそれでいいとでも言わんばかりの、雑な軌道だった。
が、その行き先をさえぎるようにして、グウィンが手をかざす。すると三本の矢全てが、跡形もなく消えていった。初めから、下田の魔術など存在していなかったかのように。
「この―――」
さらに魔術を行使しようとして、急に視界が回転を始めた。そればかりか、少し宙を移動したあと、床が眼前に近づいてくる。頬で衝撃を全て受け止めた彼は、自分の体が血を吹き出しながら倒れていくのを、見物した。
グウィンは、再びショートソードを握っている。これ以上なく速く、そして正確に首を切断された下田は、未だ残る激情と共に、死への道を転がり落ちていった。
背中に当たる、固い木の感触。
下田は目を開けると、蒼白い光が体に巻き付いているのが分かった。何度か見たことがある。拘束の魔術だ。椅子に縛り付けられていて、全く身動きが取れない。
「気分はどうかね」
顔を上げれば、グウィンが壇上に腰かけていた。その横にはヨルシカがいる。
椅子を倒して、どうにか脱出できないかと暴れた。しかし、その椅子にも何か仕掛けがしてあるようで、びくともしない。ほとんど頭しか動けない状況では、だだ睨みつけることしかできなかった。
「君の、突然の行動については皆が戸惑っている。それ自体に対しては、不問にしよう。聞くところによると、ロスリックで色々とあったようじゃな。王子達を殺したのは、君だとも聞いている。できれば、その時の状況を詳しく教えてくれるかの」
ここは、たくさんの椅子が並べられている。会議室みたいだ。最初に、自分たちの使命について説明があった場所だ。下田は、真ん中の列の席に座っていた記憶がある。そこで、それまで理解できていなかった自分たちの状況が、何とか呑みこめるようになったのだ。
だが、それは間違いだった。今まで、自分は、何もわかってなどいなかった。
この場には、ほとんどの祭祀場の者達がそろっている。ジークバルドも、イリーナも、グンダもいる。全員が、下田とあまり顔を合わせようとしていなかった。そこには、単なる警戒以上の何かがあった。
下田は、不安定になっていく自分の呼吸を、何とか落ち着けようとした。俯いて、頭の芯がねじれそうになる最悪な感覚を和らげようとしていた。こんな状態では、自分で死んで逃げようとしてもできない。ここには、一秒でもいたくないというのに。
未だ熱が残っている喉を、震わせた。
「だました…」
ヨルシカは、睨みつけられても平然としている。グウィンの横だからかもしれないが、露骨に内心を表情に出したりはしない。
「何か言ったか?」
「全部、嘘だったんだ」
下田はグウィンの質問などに答える気は少しもなかった。自分でもコントロールできない感情が、山のように積み重なっている。ただ相手を糾弾することでしか逃れられないどうしようもなさを、何とか解消しようとする。
頬の濡れる感触。ここへきて、怒りよりも悲しさや虚しさの方が大きくなっていた。彼らの前で涙など見せたくないというのに、体は言うことを聞かなかった。だが、それもヨルシカを目にすれば、再び激しい怒りが蘇ってくる。
「この女は、エルドリッチと通じてる」
ここにたくさんの人が集まっているのは、好都合だと思った。今こそ、事実を皆に広めるべきだと思った。たとえそれが、自分でもわかっている欺瞞だとしても。気休めにすら、ならないとしても。
「そばの塔で匿ってる。裏切ったんだ。ずっと、だましてたんだ…」
「そうか」
グウィンは神妙に頷いた。
彼の返事と同時に、下田は全員の様子を確認した。薄々、わかってはいた。こんなことをしても、意味はないことくらい。それでも、認めたくはなかった。この世界には、初めから味方など誰一人としていなかった。認めるのは、勇気のいることだ。
誰も驚いてはいなかった。むしろ、下田が知っているということにたいして、意外だという空気が漂っていた。
「知ってたんですか」
何人かが目をそらす。
その、さも罪悪感があるような動作に、下田の心はさらに乱される。
「初めから、僕達が犠牲になることも。人食いと協力していたことも。全部わかった上で、僕達をだましていたんですか。イリーナさん、僕を、見てください。逃げるな! 質問に答えてください」
びくりと肩を震わせて、イリーナはそれでも無言だった。泣きそうなほどに顔を歪めているが、その悲しそうな表情は一体どういう心境で作っているのか。彼には不思議でならなかった。彼らが、まるで、被害者みたいな態度でいることに、形容しがたい憤りを感じた。
グウィンは、ゆっくりと首を振った。
「君は、まだ冷静じゃない。落ち着くといい」
「あ、貴方達は、僕達を家畜みたいに、考えていたんだ。適当に良い顔でもしておいて、信じさせてから、最後に殺す。こんな、こんなの人のやることじゃない。僕達をこんな世界に呼んでおいて、最後には消えるとわかっていて、どうして平然としてこられたんですか。悪魔だ。貴方たち全員、文句なしの糞野郎だ!」
「知らなかったのだ」
今度は、ジークバルドが喋り出した。
「灰というのは、屈強な戦士で、己の使命もすべて理解し、覚悟も決まっていると。そう、聞いていた」
彼は拳を握っている。下田と同じくらい、やるせなさを感じているようだった。
「ところがどうだ。いざ来てみれば、こんな…、こんな年端もゆかぬ若者たちとは。戦い方も満足に知らない。それでも、やるしかなかったのだ。我らは、使命から逃げてはいけない。どれだけ恨まれようとも、成し遂げるしかない。仕方がなかった」
下田は椅子を大きく揺らそうとした。あまりにも動かないので、怒りでどうにかなってしまいそうだった。
「だから、なんで、そんな顔をするんですか! なんで加害者側が、苦しんでるんですか? ふざけるな! 悪いのは全部、お前らだ! お前らが何もしなければ、僕達に何もしなければ、こんなに苦しむことはなかった。ちとせが食われることもなかった。ずっと現実で、暮らしていけたんだ! 悲しむふりはやめてください」
「それ以上暴れると、舌を噛むぞ」
グウィンは、手を動かした。途端、下田の拘束が強まる。体が占められて息苦しくなり、簡単に暴れられなくなった。
老人を憎悪をこめて睨みつける。どれだけの悪感情を向けられようとも、相手は少しも動じない気がした。
「何もするなというが。儂らは、そうしなければ滅びの道を辿っておった。これもすべて世界のためじゃ」
下田はあらん限りの力で、叫んだ。
「お前達の世界だろ! 勝手に、僕達を巻き込むな! お前達がどうなるかなんて、知ったことじゃない。勝手にしろ。勝手に死ねばいい! なんで、僕達を呼んだんだ。お前達の世界の問題は、お前達だけで解決しろよ! こっちの意思を無視して、勝手に巻き込むないでよ…」
周りは静寂に包まれた。
下田の泣く声だけが、しばらくこだましていた。
「頼むから…、本当に、もう、疲れたから。僕達を、帰して。現実に戻らせてよ。僕は、帰りたいだけなんだ。ただ、いつもの生活をしたいだけなんだ…」
嘲るような笑いが、遠慮もなく響き渡った。
聞こえると、下田は我に返る。涙で歪んでいた視界が徐々に明瞭になっていくと、ヨルシカがこちらを見て微笑んでいるのが分かった。
グウィンが咎めるように言う。
「ヨルシカ」
「あら、すみません。駄目だとはわかっているのですが、その。耐え切れなくて。とても面白い見世物だったので。無知とは、滑稽なのですね」
「黙れ」
下田は、歯をむき出しにする。
「お前、お前の声を聞くだけで、吐きそうになる。その繕った仮面の下で、何を考えてるのか知ってる。くたばれ」
ヨルシカは、挑戦的に視線を返してくる。
「奇遇ですね。私も、貴方に死んでほしいと思っていますよ」
魔術を使おうとしても、何も起こらなかった。前にもあった、喉の詰まるような感覚。ずっと興味深そうに見物していたリリアーネが、にやりと笑った。
「何もできないでしょ? 良かった。君たち灰にも効くかどうかわからなかったけど、上手くいったみたい」
「うううう」
「あはは。怖い怖い」
グウィンが、手を上げる。もう十分だという意味らしい。彼がそうするだけで、誰も口を開かなくなった。
彼は少しも笑ったり、逆に悲しそうにしてはいない。自分のしていることを、当然のように受け入れているようだった。だから、余裕がある。下田に対しても、素直な憐れみを向けてくるだけの余裕が。
「君たちには、最後まで何も知らずにいてほしかった。その方が、幸せだっただろう。しかし、そこまでわかっている以上、説明をする義務がある」
いい予感はしなかった。ヨルシカが、楽しそうな表情になったからだ。それに、こんなことをした事情がどうであろうと、関係ない。許せるわけがなかった。
「簡単に言うと、君は既に望みを叶えている」
予想もしなかった言葉を聞いて、下田は一瞬怒りを忘れた。グウィンが何を言っているのか、理解するので精一杯だった。
「何を…」
「帰りたいと言ったな。そんな願望はもはや意味がない。そもそも、君達は一度たりとも自らの故郷から離れてはいないからだ」
今度こそ、相手も自分も何もかもがおかしくなってしまったのだと、下田は戦慄した。相手の言っていることの意味がわかっても。それが事実だと認識することはあまりにも滑稽に感じた。今度は怒りが強くなってきた。この老人は、適当な事を言って自分の思いを踏みにじろうとしている。
グウィンは、遠い目をする。
「儂は、数千年前、君達の世界へ侵攻した。ヨルシカ以外のここにいる者は、まだ生まれてもない頃じゃ。そこには、衰えることのない光と、まばゆいばかりの…太陽があった。認めよう。儂は君たちにとって、大罪人だろう。自らの世界とそこに住む者のために、君達の種族のほとんどを滅ぼした。生き残りは、この祭祀場にしかいない」
喉が、からからに乾いてきた。
いい加減、夢なら覚めてほしかった。
「ふざ…」
「決して、冗談などではない。君の怒りも正当性がある。だが、考えてほしい。他に方法がなかった。火継ぎに限界があることなど、初めからわかっていた。ならば、他の方法で世界を永らえさせなければならない。本当なら、君達も死んでいたはずだった。何千年も、棺の中で眠ることはなかったのだ。こんなことを知らなくてよかった」
「やめろ……」
耳をふさぎたくても、拘束されていて不可能だ。たくさん叫んで妨害しようとしても、リリアーネが何かを唱えて、声すら出せなくなった。
「もう、理解しただろう。ここは地球だ。様々なものが入り交じり、もはや面影もないだろうが。君たちの、故郷なのだ」
声は出せないのに、荒い呼吸音だけは自分の中で響いている。下田は固く、目をつぶっていた。再び開ければ、何もかもが幻だったということにしてほしかった。
騙されるな、と自分に言い聞かせる。相手の言葉をどうして、信じる必要がある。これまでたくさんの嘘をついてきたのに。この話が真実だと、どうして断定できる? ありえない。ありえるはずがない。これは、自分を動揺させるための方便なのだ。
「すまない」
目の前が、段々と暗くなってくる。内心とは反対に、体の方は衝撃をまともに受けているようだった。意識だけがまた、体を置いてけぼりにしている。相手が途方もない大嘘つきだと、糾弾している。
結局儀式の日がやってきても、下田は目を覚まさなかった。儀式が終わるまで、暗闇の底で都合のいい夢を見ていた。
(116)
これまでのことで、癖がついてしまったのだろうか。やる気がなかったのに、それでも下田は欠け落ちた腕に奇跡を発動させていた。
ちとせが、イリーナを呼ぶ。それも気にせずに、ひたすら己の両腕を治すことに集中していた。集中していないと、頭がおかしくなりそうだった。
「シモダさん! 見せてください」
彼が自分で治すという意思をはっきり示しても、イリーナは近づいてきた。傍目から見ても、彼の技術では完治が困難だと思えるのだろう。彼の奇跡の上から、さらに彼女は重ねてかけてこようとした。
その瞬間だけ下田は奇跡を解除し、イリーナの手を弾いた。呆然とした彼女に向かって、吐き捨てるように言う。
「触るな」
奇跡を行使しながら、自分の部屋の方向へと早足で行く。とにかく、今は一人になりたかった。あまりに重なりすぎた物事を、整理する時間が欲しかった。
大扉が開かれても、そこへは意識的に目を向けないようにした。また暴走してしまったら、無駄になる。
誰かが呼び止めてきた気もしたが、下田は無視した。頭の中では思考がぐるぐると回っていて、周りの音も聞こえていない。
そのせいで、自分の体のことにも気付けていなかった。生徒達の部屋がある横穴へ入ろうとした瞬間、彼はいつの間にか床に倒れている自分に遅れて気がついた。糸の切れた人形のように、まるで力が入らなかった。
結局、治療を受ける羽目になった。イリーナは自分自身が避けられていることに気が付いていながらも、自分の仕事を気まずそうに全うしようとしていた。下田にとっては嫌な時間だった。顔も見たくない人たちと、一緒の空間で過ごすのは苦痛だ。
だが、休息をとったおかげで、気分を落ち着けることはできた。
どんな妄想をしても、仕方がない。要は、確定していることだけを、気にしていればいいのだ。このままでは、祭祀場の奴らの思い通りになってしまうこと。下田達だけでは、ここから逃げ出すなど不可能であること。
ここが地球だということは、突拍子もない嘘だと思うことにした。母親のことも。ヨルシカの話も、全く信用できない。
ちとせ達に事情を話すのは、もはや良い方法ではなかった。彼女たちを巻き込めば、また、あれの再来になる。悪夢のような時間を、繰り返したくはない。
他に、ないのか。下田は必死で考えた。ここは、敵ばかりだ。自分の愚かさを呪う。どうして、こんな者達を信じてしまったのだろう。よくよく考えれば、おかしいことばかりだった。全部から目を背けて、自分はただ安心していたかったのかもしれない。こんな世界に来て、しがみつける組織に身を預けたかっただけなのだ。
選択を間違えたのだ。信じるべきは、同じ人間だった。
下田ははっとする。もしかすれば、先生が、火守女を連れてここから逃げたのも、ある程度事情を知ったからなのかもしれない。火継ぎの儀式が始まってしまえば、何が起こるのかを知っていた。自分たちにそれを話さなかったのは、危険が及ぶのを防ぐため。
思わず、歯を食いしばる。もしそうだとしたら、自分たちは敵の策略にはまり、ずっと味方の邪魔をしていたということになる。先生があんなになるのも当然だ。
まだ、間に合うだろうか。下田は貴樹が戦ってきた場面を思い返す。あの人は強い。もし何とか協力してくれれば、十分に祭祀場への対抗手段になるだろう。これしかない、と思った。とにかく、先生と会わなければ。下田はようやく自分の部屋から出る決心をした。
広場に出ると、何人かが目線を向けてきた。その中でちとせが真っ先に話しかけてくる。
「もう歩けるの?」
「うん。大丈夫。ありがとう」
下田の顔を見て、彼女は妙な表情になった。
「あんまり、大丈夫そうに見えないけど」
彼はなるべく自然に見えるように苦笑した。
「まあ、あんなことあったから。でも、とりあえずは回復したよ」
「ふうん」
「僕、ちょっと用事があるから、行くね」
「何するの」
「あそこにいるジークさんに話があってさ」
本当は嫌だった。祭祀場の者達を目にするだけで、ささくれ立つ心はごまかせない。それでも、下田は我慢してジークバルドに近づいた。
「もう、問題はないのか」
「はい」
「よかった。ん、どうした。顔色が悪いぞ。こういう時は、酒でも飲むのが一番だろう」
「頼みがあるんですけど」
気持ち悪さを抑えて、本題に入る。
「先生と、会うことはできますか」
「ん? タカキのことか?」
「はい。色々その、謝らないといけないこともあるので」
ジークバルドは気遣わしげな表情になる。
「協力してやりたいのは山々だが、私には何もできない。彼は今、非常に不安定な状態だ。無理もないが。だから、制限も大きい」
下田は、最初の六日間の記憶をたどった。それでも、例外があったはずだ。
「でも全く会えないわけではありませんよね」
「そうだな。昨日も、ミオリと…カオルが会いに行っていたな。だが、彼女たちは特別だ。家族として、話さなければならないことがたくさんある。例外的に許可が下りた」
「なら、二人と一緒に行くという形をとれば、僕も会える可能性があるということですね」
ここで、ジークバルトは怪訝な顔つきになる。
「かもしれん。だが、そこまでしても、満足な結果は得られまい。彼女たちに訊けばわかることだが…」
「ありがとうございました」
相手の口から、家族という言葉出てくると、不快感が増した。一体、どの口でジークバルドは言っているのだろう。
家族、家族。下田は、どうしてそのことを今まで考えてこなかったのだろうと、自分に呆れた。と、同時に激しい怒りの感情が、内でとぐろを巻き始める。祭祀場の者達は当然、擁護しようもない。しかし、もっと大きな罪を犯している者がいることに、気がついたのだ。
彼女たちは、すぐに見つかった。広場で待っているだけでよかった。毎日のように実織と薫は広場で食事をとっていた。その習慣を知っていたので、会うこと自体は簡単だ。
「何? 話って」
「大胆だね。こんなところで告白?」
「ちょっとお姉ちゃん…」
二人の様子を、観察する。初め実織は自身の姉のことを受け止めるのに苦労しているようだった。だが、やはり姿が違っても家族同士は通じ合うらしい。今では、常に行動を共にするほど打ち解け合っていた。
それ故に、下田の感情は尚更乱される。
「下田?」
「あ、うん。話ね。ごめん、家族の時間を邪魔して」
「いいけどさ。大丈夫? 腕はもう平気なの?」
「心配してくれてありがとう。元気にはなったよ」
実織もまた、下田の様子にいつもと違う何かを感じているようだった。
「うーん、ほんとに? 顔色酷いよ」
「ちょっと、寝不足かもしれない。緊張しちゃって」
「わかるよ。私も」
薫がからかうような笑みを作る。
「なら、寝る場所を変えてもいいかもね。私達の部屋に来ればいいじゃない」
できれば、あまり喋らないでほしかった。その声を聴くだけで、下田は冷静でなくなっていく自分を感じる。今でさえほとんどいつも通りを繕えていないのに、これ以上刺激されればどうなるのかわからない。
「頼みがあって。二人は一度、先生に会ったんだよね。今度は、僕も一緒に行きたいんだ。僕だけだと許可が下りづらいみたいで」
二人の様子から、前の面会がどのような形で終わったのか想像できた。
「それは構わないんだけど、あまりお勧めはできないかな。貴くんは、誰かと話せる状態じゃない。私達にも全く聞き耳を持たないの。だから、難しいと思うよ」
「何も話はできなかったんですか?」
「ん―、そういうわけじゃないけど。やっぱり、彼は冷静じゃないから。まともなことは何にも」
実織がその時を思い出しているのだろうか。沈んだ顔になった。どういうことを言われたのかは、想像ができる。きっと今下田がヨルシカ達に対して思っていることと大差ないだろう。先生も、被害者だ。ここの者達の。
「一回だけでいいですから。何とかなりませんか」
「ごめんね。無理だと思う。私達はもう行けない」
「…そうですか。すみません、こんなこと頼んで」
「いいのいいの」
薫は微笑むと、実織にインベントリから出してもらった甘菓子を口に入れた。
段々と、下田は己の抑制が崩れかかってきているのを自覚した。心の中ではどんどん醜く黒いものがあふれてきて、吐き出す衝動が大きくなっていた。
大した意味はないのだと思いつつも、我慢することができなかった。
「食べられるんですね」
「うん? ああ、もちろん味は感じるよ。このフリーデの身体が特別なのか、すごくお腹が減るってことはないんだけどね。食べる?」
「いや、そうじゃなくて」
わかっていても止められない。むしろ我慢する必要があるのが不思議だった。これは、正当な怒りだ。自分には言葉をぶつける権利がある。
下田は心底相手を軽蔑しながら言った。
「実の弟を裏切っておいて、よくもまあ食べ物が喉を通りますね。僕だったら、もっと、深刻に考えますけど」
場の空気が、冷えた気がした。今広場には、生徒達くらいしか集まっていない。他の話をしていた者も、下田の声を聞いて彼へと注目しだした。
言葉が、どんどんあふれてくる。
「先生と一緒にいた人達も、殺したんですよね。僕も少しですが、行動を共にしたからわかります。皆、貴方がまさかこんなことをするなんて思いもしなかったでしょう。どういう、気分なんですか。皆は殺される前、どんな言葉を貴方に浴びせたんですか。彼らの思いを全て踏みにじった感想はどうですか。自分が嫌にならないんですか」
頬に衝撃がやってきた。実織が動いたのは分かっていたが、あえて何もしなかった。
横に振りぬいた手を下ろして、彼女は涙目になっている。自分の姉がけなされた怒りからか、頬が赤くなっていた。
「やめて。なんで、そんなこと言うの? 下田、酷いよ。お姉ちゃんだって、すごく後悔してるんだよ。でも、しょうがなかった。悪いのは、あいつの方でしょ。私達を裏切ったんだよ」
「後悔か」
涙ながらに、彼女へ語ったとでも言うことか。その場面を想像して、滑稽さに我慢ができなくなった。よりにもよってこの女は、実織にそんなことを言ったというのか。
下田が笑うと、実織はさらに赤くなった。
「あのさ、いい加減に」
「実織」
見もせずに、彼は乱暴に吐き捨てた。
「僕は、君の姉と話してるんだ。お願いだから、黙ってろ」
彼女がさらに何かを言おうとしたが、薫に止められた。未だ、余裕そうな態度を崩していない。それがさらに下田を煽っていた。どうして実織と平気な顔をして一緒に過ごせるのか、理解に苦しむ。
「よっぽど、貴くんのことを慕ってくれていたみたいだね。それは嬉しいことだけど、みおちゃんに乱暴な言葉を使わないで」
「質問に、答えてください。どうしたら、今そんなに平気そうな顔でいられるんですか?」
「平気なんかじゃないよ。でも、皆が現実に帰るためには、貴くんの行動は止めざるおえなかった。後悔はしてるけど、これ以外に選択肢があるとは思ってない」
「とぼけるな!」
下田は叫んだ。目の前の女が憎くて仕方がなかった。
「貴方は、わかっているはずだ。全部わかってるんだ! 貴方が裏切ったのは、先生だけじゃない。わかってるんだろ! 後悔したかどうかなんて関係ない。そうした時点で、許されないことなんだ」
ようやく、薫は笑みを引っ込めた。
「落ち着いて。何を言ってるの?」
「ここで言いづらいのなら、どこかに行きましょう。二人で話すことがたくさんあります。付いてきてください」
ちとせ達の視線も感じたが、今は気にする余裕がなかった。薫が後から付いてきているのがわかる。彼女も、ここだと都合が悪いのは一緒だろう。あるいは、自分を誰もいないところで口封じする気だろうか。望むところだと、下田は歯を食いしばった。
下田の部屋まで、彼女は素直に付いてきた。中に入り完全に二人っきりになっても、何も行動を起こそうとはしない。
「もしかして、狙いは私の方だったり? でも、この体はフリーデのものだからね」
「貴女は知っていた。僕たちは、儀式で生贄にされる」
薫は表情を変えない。変えないよう、努力しているようだった。
「それは、攻めた想像だね。ナーバスになるのはわかるけど、あんまり悪いことばっか考えても始まらないよ」
「いい加減にしてください」
下田は魔術を起動した。ソウルの塊が浮かぶと、その狙いを相手へ向ける。
「もう、うんざりなんだ。だまされるのも、話をはぐらかされるのも」
「…確かに、これは洒落になってない」
それでも、薫は何も構えなかった。それが自分との力量差をはっきり示されているようで、下田は本気で魔術をぶつけてやろうかと思った。しかし、そんなことをしても話は進まない。何とか呼吸を落ち着けて、魔術を消した。
「エルドリッチと、祭祀場が裏でつながっているのも、わかっています。僕には、わからない。実織さんの姉である貴方が、こんなことに加担しているなんて。貴方が裏切ったのは先生だけじゃない、実織さんも、僕達も死ぬことがわかっていて、それを黙って見ていたんだ。本当は、貴方は戸水薫ではないんじゃないんですか。ただ彼女の真似をしているだけ。そうでなきゃ、こんな酷いこと、できるはずがない。へらへら笑って、実織さんの傍にいられるわけがない。同じ人間の僕達を、見殺しにできるわけがない」
「もう、我慢なりません」
見ると、彼女の雰囲気が変わっていた。下がっていた目尻が上がり、怜悧な印象が強くなった。
「ほら、また別人が出てきた」
「カオル、いいから言わせてください。私は、貴方の名誉を守る義務があります。いいですか、シモダアキヒロ。彼女が今までどれだけ苦しんできたかもわからず、よくもそんな言葉を吐けますね。彼女が、これを望んでいたとでも?」
嫌悪で、どうにかなりそうだった。この女も、被害者の顔をしている。フリーデに守られて、自分は傷つかないところでぬくぬくと。
「そっちだって、僕が、これまでどれだけ苦労してきたか知らないくせに。本当は、嫌だった。こんな世界になんて一秒でもいたくなかった。それでもやってこられたのは、仲間のみんなと、いつかは現実に帰るっていう目標があったからだ! 望んでない? そんなの関係ないでしょう。貴方達がどんな事情を抱えてようが、自分の家族を見捨てた最低の屑だってことには変わりない」
「それで?」
今度は薫が戻ってきた。目を細めて、下田を正面から見つめている。
「どうやって知ったのかはわからないけど、何をする気なの? 私を責めるのは好きにしていいけど、それ以外で貴方にできることがあるの?」
下田は、一縷の希望を持って頭を下げた。気に入らないものの、まだ話し合う余地があると思っていた。彼だって、貴樹だけで全てが解決できるとは思っていない。もっと助けが必要だった。
「今なら、まだ間に合います。僕に、協力してください。一緒に、ここから皆を逃がすんです」
「無理だよ」
「なんでですか。貴方も、強いんですよね。そもそもどうして、戦わないんですか。本当に家族はどうでもいいっていうわけですね」
「そんなわけない」
ようやく、彼女は感情を露わにした。声に力がこもり、そんな自分に驚いたかのように固まって、深く息を吐いた。
「でも、しょうがないの。そうするしかなかった」
「それを諦めと言うんじゃないんですか。何もしないうちから、決めつけてどうするんですか」
「私は、諦めたんじゃない。選択をしたの。助けるられる方を、助けるしかなかった」
それを聞いて、助けられる方が誰なのかを、朧気ながら理解する。結局、この人は自分の命が大事だというわけだ。口ではそうしたくなかったという風を装っていても、家族を犠牲にしたという事実は変わらない。どうしようもなかった。下田にとっても、これ以上話し合う必要を感じなかった。もう、彼女の立場は確定したのだ。
この女も、敵だ。報いを受けるべき者の一人だ。
下田が視線を鋭くすると、薫は薄く笑った。
「仮に、私が下田くんに協力したとする。確かに私は強いよ。フリーデも。かなり無理をすれば、祭祀場のほとんどの相手には勝てる。ヨルシカにも、おそらく」
「じゃあ…」
薫は、そこで初めての顔をした。明確な恐怖の表情だった。虚しそうに目を伏せて、自嘲の笑みを浮かべる。
「それでも、意味はないでしょうね。なぜなら、グウィンがいるから。彼とその直属の騎士達には勝てない。誰も、勝てないの」
やけに実感のこもった口調だった。
下田はグウィンに殺された時の事を思い出す。どのように剣が振るわれたのか、まるで理解できなかった。確かに、あの老人は見た目だけで判断してはいけない。
どうやら彼女はすっかり戦意を失っているようだった。抵抗することを止め、実織が死んでいくのを何もせずに見ている。もはや、これ以上説得する意味を感じなかった。自分の命を危険にさらしてまで、家族を助ける意思が彼女にはないのだ。何度も自分の身を削って、下田達を助けようとしてくれた先生とは、大違いだ。
下田は溜息をついた後、薫から目線を逸らした。
「わかりました。もういいです。とにかく、先生と会わせてください。それだけでいいです。でなければ、僕が知った全てのことを、実織さん達にも話します。全て、滅茶苦茶にします」
「それを、私がさせると思うの?」
暗い視線を、彼は薫へと向ける。
「別に。たとえここで殺されるなりされても、次はもっと上手く立ち回るだけです。やるなら、やってもいいですよ」
その調子に異常なものを感じたのか、薫は少しの間黙っていた。やがて眉間を揉むと、渋々下田に行ってくる。
「努力はする。でも、あまり期待しないでね。多分貴方は彼に会えるとは思うけど。期待している結果が返ってくるとは限らない」
「…ありがとうございます」
形だけの感謝を述べると、下田は自分のベッドに腰かけた。薫が出ていくまで、何もない壁の方をただ見つめていた。
確かに、話自体は簡単に通った。祭祀場の地下にある一室へと、下田は案内された。薫と実織も一緒だ。彼女達とは必要最低限の言葉しか交わさなかった。気まずいのもあるが、何より下田自身に話をする余裕がない。先生がいる場所へと近づいていくほどに、自分の中の罪の意識が体を伝ってくるようだった。
部屋の前に立つと、二人はあまり入りたがらない素振りを見せた。彼女達の不安は無意味だ。元々、二人を連れて来たのは口実のためでしかない。これからする話の内容も考えると、二人には外で待っていてもらう方がよかった。
下田はそんなようなことを淡々と説明してから、部屋の中に入った。彼女達はどちらも彼を止めようとはしなかった。
ベッドに寄りかかっている貴樹を見て、下田は口を固く結んだ。ロスリックで見た時も思ったが、酷い状態だ。以前の彼とはほとんど別人になってしまっている。髪の色が落ちてしまっただとかそういう外面の変化以上に、彼の内で何かが大きく失われているのが、雰囲気でわかった。
貴樹は、下田が入ってきても全く反応しない。目が見えていなくても、気配はわかるはずだ。そこにすでに拒絶の意味が含まれている気がして、下田は覚悟を決めた。こちらから積極的にいかなければならない。
「先生、僕がわかりますか」
そう呼ぶ資格がないことくらいは、わかっている。それでも、彼は下田にとっての先生だった。
しばらく沈黙があった後、貴樹の口から言葉が漏れ出てきた。
「誰だ」
「下田です。今日は、まず、謝りたいと思ってきました。僕達は何も、わかっていなかった。先生の事を誤解していました。申し訳ありません。全部、先生が正しかった。祭祀場を信用するのは、愚かでした」
これは、怒るだろうなと、自分の言葉を客観視する。これだけ並べ立てても、都合の良い言い訳としか考えられない。散々今まで信じてこなかったのに、どうして今更下田達を許す気になるだろうか。
貴樹は特に感情を乱す様子はなかった。目隠しがされていて、表情はわかりづらかった。口元の動きもない。
急に、彼は独り言をつぶやき始めた。声はかすれていて、内容がほとんどわからない。その調子から言って、穏やかではないのは確かだった。まるで、誰かと口論しているみたいだ。
下田は思わず目を伏せた。貴樹の様子は、明らかに精神に異常をきたしている人のものだった。下田もそうなりかけたからわかる。いない誰かと話すのは、現実から逃避する行動の一つだ。
本当は、もうここから出たほうがいいのではないか。逃げ出したい気分になるが、そうすれば無駄になるものも多くなる。自分は何のために来たのか、それをしっかりと考え、意を決して本題に入った。
「先生を、どうにかしてここから出します。代わりに、お願いがあるんです。皆を助けてください。僕だけじゃ、無理なんです。限界なんです。だから、お願いします。協力してくれませんか」
く、く、という、喉から息が漏れ出すような音が途中から聞こえていた。その笑いが、貴樹から出たということを、下田はできる限り無視した。だが、彼の口元が動き、はっきりと笑みの形を作るのを見て、一歩下がりかける。
「何を、どうすればいいんだ?」
「生徒達と、ここから逃げるんです」
「そんな必要があるのか? ここの人達が裏切ったなんて、確証がどこにある」
彼には、下手なごまかしは効かないだろう。下田は全ての事実を、話すことにした。自分の固有能力の事だ。その途中で、周りを確認する。あの白い女性の姿はない。それでも油断はできなかった。ちとせの時のように、記憶をいじってくる可能性がある。
説明を終えてしばらくしても、貴樹の様子に変化が見られなかった。何を考えこんでいるようだったが、記憶に影響を受けたわけではないらしい。先ほどよりもしっかりとした声で、言ってきた。
「下田。君が過去に戻れるというのは、本当なんだね?」
「はい。もう何回もそうしてきました。これが、夢ではないことは確信しています」
「…それなら、こっちが出す条件を満たせたら、協力できるかもしれない」
本当ですかと、勢いよく答えようとして、ある想像に行き当たった。途端、芽生えかけていた希望がしぼんでいくのを感じる。貴樹が出す条件というのは、おそらく。
「火守女を、助けてくれ。過去に戻れるんだろ。彼女は、使命になんか殉じる必要はなかった。この先も、生きていくべき女性だったんだ。彼女を救う確約ができるのなら、君の頼みも受け入れる」
ここで、嘘を言うこともできた。とにかく下田は今の状況を打開する方法を求めていた。貴樹に助けられると嘘をついて、協力してもらうという選択肢も頭をよぎった。しかし、それは決して許されないことだ。もし、全てが何とかなった後でばれたとしたら、彼は下田達を一生恨み続けるだろう。下田も、自分を決して信用することはできなくなる。人として、最低限のラインを超えるわけにはいかなかった。
「すみません、できません」
「なぜ?」
「僕の、この能力は、戻れる期間に限界があります。能力が進化した瞬間、つまり数日前まで。だから、その、彼女が殺される後までにしか戻れません」
貴樹は再び黙っていた。そこには、失望も怒りも見て取れない。その静けさがより、下田を責めたてているように感じた。
「それじゃあ、無理だ」
「都合の良い頼みだとはわかっています。でも、僕は、貴方の思いを忘れていません。僕達を助けようとしてくれていたのは知っています。それに対して何も返せるものがないのは、言い訳のしようがありません。それでも、お願いします。一緒に現実へ帰る方法を探しましょう。だから…」
自分のありのままの気持ちを話したつもりだったが、それが愚かな間違いだったことはすぐにわかった。貴樹の様子が目に見えて変わったからだ。はっきりと顔を上げ、下田に向かって、嘲笑を浴びせてくる。
「俺が、誰を、助けたいって?」
「その、だ、だから、今まで祭祀場から離れていたのは、事実を知って、彼らの企みを防ごうと」
「さっき、彼女が殺されると言ったな」
彼の雰囲気はすっかり剣呑なものになっていた。
「下田、お前は、その場面を見ていたんだろ。何もしなかったんだろう。誰がやっただとか、誰のせいでこうなったとか、そんなのはどうでもいい。お前たち全員が同罪だからだ。どういう頭をしたら、そんな都合の良い思考ができるんだ? 今更わかったようなふりをして、どうして被害者みたいな顔で頼みに来れるんだ?」
特に後半は、下田へ大きなショックを与えた。そして自分がいかに馬鹿だったかを思い知らされた。貴樹は傍目から見ても露骨なほど、火守女を愛していた。彼女が死ぬのを傍観していた自分が、どうして彼と交渉できると思ったのだろう。
「ま、別にお前らが彼女を見殺しにしようがしまいが、関係ない」
「え…」
貴樹は笑みを深めた。なぜか胸の突っかかりが取れたような、すっきりとした様子だった。
「初めから、お前達なんかどうでもよかったからだ。俺がどれだけ、お前らを邪魔に思っていたかわかるか? こんな素晴らしい世界で、唯一の穢れがお前達だ。祭祀場から離れたのも、全部彼女のためだ。お前らなんぞ、さっさと死ねばいいと思ってたよ。そしてその考えは正しかった。お前らのせいで、こんなくそったれな状況になったわけだ。覚えてろよ。絶対に、その報いは受けさせてやる」
それは、今までの下田と全く同じだった。その憎悪は、下田がヨルシカ達へ向けるものとほとんど同じだった。それが自分へ向けられているという事実は、もはや貴樹との交渉が失敗に終わったことの、何よりの証拠だった。
初めから? そんなはずはない。先生は、学校にいた時から、皆の事を思いやっていてくれていたはずだ。こうなったのも全部、自分たちのせいなのだろう。もう元の日々には戻れない。変わってしまった。先生も、下田も。
「それにな。一つ言っておくことがある。俺にはもう、何の力も宿っちゃいない。全部あの糞ジジイに取られたからだ。無駄足だったな」
そうして、本当に可笑しそうに笑い始めた。全力で下田を嘲っていた。
それなら、最初にその事実を言うこともできたはずだ。それでもこの人は、下田と会話を続けた。彼を責めるために。
盛大な徒労感と共に、やりきれない怒りが湧いてきた。
「お願いします。本当に、追い詰められているんです」
「知るか。死ね。勝手にしろ」
「…僕は、先生が、もっと、しっかりした人だと」
「お前らみたいなゴミよりはましだろ。エルドリッチによろしく言っといてくれ。俺の生徒達くらいなら、いくらでも食べさせてやるってな。俺も見物させてくれって」
たとえ正気を失った発言でも、下田には看過できなかった。
貴樹へと近づき、鋭く睨みつける。
「そんなことを言うのは、やめてください!」
「なるほどな。その反応からすると、お前はもう見たんだな。誰が食われたんだ? それともお前意外全員か?」
「黙って、ください」
「お前の好きな女子でも食われたか?」
「黙れ!」
下田は、自分でも止められない衝動に襲われて、貴樹へと飛び掛かった。あの、ちとせが食われた記憶だけは、誰にもほじくり返されたくなかった。相手が今冷静ではないのは分かっている。だが、下田の方も情緒が安定していなかった。何かで発散しなければ、もう限界だった。
貴樹の顔へ拳を向ける前に、誰かに抑えつけられる。後ろを見れば、薫が無言で首を振っていた。あれだけ騒げば、外にも聞こえるだろう。彼女から離れた所で、実織が悲しそうに眺めていた。
「離せ」
「言ったでしょ。無駄だって。冷静になりなさい」
「触るな! お前が、どの口で、言ってるんだ」
「…ごめんなさい」
下田の身体が大きく回転する。天井が回り始めたと思ったら、全身が床に叩きつけられた。背中の痛みで、一瞬思考が止まる。投げられたのだと理解した時には、再び薫に抱えあげられる。軽い荷物でも扱っているような調子だった。
「これを仕組んだのは、お前か」
去ろうとしている薫に向かって、貴樹が言ってきた。彼女の動きが止まる。下田は、その表情が何かを耐えるものに変わったのを、確かに見た。
「糞姉、覚えとけよ。お前を一番先に殺してやる。どこまでも追いかけて、ひもりんや、他の奴らの苦しみを何十倍にもして返してやる。どれだけかかってもな」
薫は答えずに、下田を運びながら外へと出た。彼をゆっくりと下ろすと、すぐに駆け寄ってきた実織と抱き合う。実織は、苦しそうに涙を流していた。
「皆、最近おかしいよ…。私達、日本に戻っても、ちゃんといつも通りになれるのかな。あいつがあんなになっているところなんて、初めて見る」
「大丈夫。お姉ちゃんに任せて。全部、上手くいくから」
下田は、彼女の嘘を黙って聞いていた。薫への憎しみや、貴樹への失望も、段々どうでもよくなってきていた。ただただ、虚しさがあった。これ以上、どうすればいいのか。一体誰に助けを求めればいいのか。完全に、手詰まりを感じた。
儀式までの数日間、下田は部屋に閉じこもっていた。もはや問題は、自分の手には負えない。だからと言って、ちとせ達に協力を求めても、結末はより酷いものになるだけだ。
敵と自分の、戦力差はあまりにも大きい。
それでもまだ、諦めてはいなかった。下田に有利な点もあるのだ。相手が知らないと思い込んでいることを、下田は知っている。相手は皆、自分が抵抗することなど夢にも思っていない。それだけの力があるということも。事実、今は彼の力に何の希望もない。
だが、重要なのは機会がいくらでも残されているということだった。限界は、あるのかもしれない。ただ下田は今のところ何度でもやり直すことができる。あらゆる角度から試行錯誤し、全てを試すだけの時間がある。
彼は既に覚悟を決めていた。決して自分にとって楽な道を選ぶことはしないと。ヨルシカ達の思惑通りに、黙って燃やされるだけの存在には、ならないと誓った。
儀式の日、下田は普段通りの様子を装いながら、広場へと向かった。既に全ての者が集まっているようだ。彼は祭祀場の広場をぐるりと見まわした。己の心に刻みつけるまで、注意深く。これから何度も見ることになる戦場と、相対した。
薫と実織が、話しているのが見える。まずはそこへ、歩いて行った。
「ちょっと、いいですか」
二人は下田の姿を見て身構えたようだった。実織の方は、さらに気まずそうに顔を逸らした。
下田は彼女に向かって、深く頭を下げる。
「ごめん。実織さんのお姉さんにひどいこと言って。言い訳のしようもない。あの後話してみてわかった。全部誤解だったんだ。実織さんにも、八つ当たりみたいなことをした。もう二度としないって、誓うよ」
顔を上げると、実織はぽかんと口を開けていた。それが少しおかしくて、下田は笑みを浮かべた。
「ああ、うん。私も。ビンタしちゃってごめん」
「全然痛くなかったよ。上手かった」
それから、薫へと向き直る。彼女は、下田が何をしようとしているのかよくわからないと言いたげな顔をしていた。
「薫さんも。すみませんでした。全部、納得しましたから。僕はもう、決めました」
彼女の目が、少しだけ悲し気になる。
「そう。ごめんなさいね」
「もう、疲れたんです。ただ僕は、現実に帰りたい。それでいいです」
「私は…」
「多分、貴方も色々あったんですよね。仕方がないと思います。では」
下田は自分の行動に意味などないことを、十分に自覚していた。例えなかったことになるとしても、通過儀礼の様なものが必要だと考えていた。いったんここらのわだかまりを真っ白にして、次へと行く心構えを作りたかった。
だから、思ってもいないことを言う。下田には、貴樹が言っていることで一つだけ心から賛成できるものがあった。報いを受けるべき者は、既に決まっている。そこから例外的に外されることなど、薫にはありえない。
篝火へ近づき、ちとせの横に座った。彼女はさきほどから下田の行動を見ていたようだったが、何も尋ねてはこない。ただ、いつも通りにこっちをからかうような笑みを向けてきていた。
「ちゃんと、回復したみたいだね」
「ん?」
「顔色がましになってる。緊張はとれた?」
ましになっている風に見えるのなら、それはきっと、目標がちゃんとできたからなのだろう。
「ううん、少しも。まだちょっと、怖いかな」
「私もだけどね」
「ちとせ」
イリーナが、篝火へと近づく。そろそろだ。
「何?」
「手をこっちに伸ばしてくれないかな。お願い」
「いいけど」
伸ばされた手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。彼女はその行動に多少面食らったようだが、周りを少し気にしてから、好きなようにさせてくれた。
下田は俯いて、相手の手の感触にすがる。歯の根が震えそうになるのを何とかして抑える。目の奥がかっと熱くなって、熱い雫が少しだけ目の端から零れる。
どうか、意思を。なにものにも曲げられない、決意を。
「アキ、泣いてるの?」
「泣いてないよ」
指で目を拭い、震える声で答えた。鼻をすすってから、後ろで見物していた高坂へと顔を向ける。
「あのさ、ハイタッチしてくれる?」
「あ?」
「僕って臆病だからさ、これからの戦いにすごく緊張してるんだ。勢いよくやってくれれば、ましになると思うんだ」
「いいけどよ。高原にやってもらったほうがいいんじゃねえか」
「高坂の方がいい音が出そうだから」
高坂は、口元を緩めた。
「お前って、やっぱり変な奴だよな」
ぱあんと、小気味いい音が鳴った。正直、ちょっと手が痛かった。さすがは運動部の人間だ。予想したよりもすごい。それでも、少しは前へと進む決心が固くなった気がした。これからも、何とか進んでいける気がした。
二人の不思議そうな視線を受けながら、儀式が始まるのを待った。宇部が膝をつき、そこへとイリーナが近づいていく。彼女の口が開く寸前で、下田は立ち上がった。
「あの、すみません」
全員の注目が、下田に向かった。そのほとんどが超えるべき敵であるということを、何度も自分に言い聞かせた。
そのまま歩いて、イリーナの傍にまで近づく。そして、正面へと向き直った。
ヨルシカが、怪訝そうに尋ねてくる。
「どうかしましたか?」
「多分、これから落ち着いて話ができる機会が少なくなると思ったので、ここで、僕に時間をくれませんか。色々と感謝を、述べたいんです」
薫と、さりげなく目が合った。彼女だけは、下田が何をしようとしているのか朧気ながら理解しているようだった。それでも止めようとはしてこない。その様子に、感情が再び再燃するのがわかった。そうすることで、自分が許されるとでも思っているのだろうか。
「いいでしょう。ですが、あまり時間はかけないようお願いします」
下田は頭の中で言葉をまとめながら、息を深く吸った。それでも震えそうになる膝を、ぐっと足を踏みしめて留めさせる。
「全く知らない世界に来た僕達を、助けてくれたのは本当に感謝しています。貴方達がいなかったら、どうなっていたか。想像したくもありません。このままちゃんと恩も返せずに、別れることになるかもしれません」
母さん。
心の中で、母の姿を思い浮かべる。
「思えば、この世界はとても残酷で、本当ならきっと、誰かの助けなんて期待できるものではなかったんでしょう。だから、貴方達の行動がどれだけありがたかったが、言葉だけでは表せません。それで…」
母さん、待ってて。
すぐに行くから。
こいつら全部やっつけて、この世界から脱出して、
すぐに、会いに行くから。
だから、待ってて。
左手で、何かが蠢いた。エルドリッチに植え付けられた膿がまるで喜んでいるかのように何かを語りかけてきていた。下田には、その言葉はわからない。それでも、今の自分の内心に、とても惹かれているのだけはわかった。
繕った表情を、崩し始める。
「…こういう話を、どういう気分で聞いているのか、気になります。自分達の行いの醜さをわかってて、そういう顔を作れるのなら、擁護のしようがない。わかってるのか。たとえ貴方達が忘れても、僕は憶えています。ずっと、続けます。お前達に、最大限の報いを与えるまで」
すでにインベントリから取り出していたナイフを、イリーナの首にあてがった。生徒たちの方は、もう見なかった。ただ心の中では繰り返し謝る。これから、おそらく何度も苦しませることになるだろう。そればかりは、自分の不甲斐なさのせいだ。
何かが、決定的に変わってしまった。自分の中で彼らとの間が完全に分かたれてしまった感覚と共に。
「動かないでください。従わなければ、イリーナさんを殺します」
宣戦布告をした。