(2億5473万1294)
はあ?
(2億8087万5547)
どういう糞だこれ。
無理だろ。
無理無理。
(3億1389万9826)
萎えるんだけど。
こういうことされると。
(5億4066万4231)
「お――――い」
下田は篝火の前に戻ってきた瞬間、上を見た。そして手をメガホンのように形作って、呼びかけを続けていた。
ぴょんぴょん跳び上がりながら、天へ猛烈にアピールをする。
「助けてくれませんかあああ? お―――い、誰かああああ。僕に知恵をくださああああい。無理でえええす。今度ばかりはちょっと、厳しいかなって思うんですよ。あんなの、無理に決まってるじゃないですか。キリストさんはこの世界の神じゃないんだから。ここの使命人に遠慮する必要なんて、どこをどう見ても、有り得ないじゃないですか。どうして中三の時、トイレの中につまらない授業を分別してたんですか?。だいたい、三丁目の山田さんのせいでもあるわけですし。人食いの中の口で、ホームパーティをしながら血を掛け合う役所仕事をどう解釈すればいいのでしょう。B、黙ってた方がいいよ。いえ、A、よく聞きなさい。周りを見なさい。どうして? 仏教にでも鞍替えしろとでも? 昔よく読んだ漫画があったっけなあ。いいですか、醜い逃避はやめなさい。貴方の悪い所です。すぐにそうやって逃げようとする。逃げてなんかないよ。こうやって経済の事を考えると気持ちがいいんだ。たくさん叫べば、母さんもきっと風呂を早く沸かして、テレビを点けてくれるんだ。A、正気を保ちなさい。ここまで来たのでしょう。今までも、無謀ではあったはず。今度も必ず、希望が見えてくるはずです。今までの自分を信じてください。自分の目的を、見つめ直したらどうですか。そうしたらきっと、二丁目によくある、珈琲沸かし器の隣で素敵なワルツを聞きながら、ステップの第十五段階の可能性を宇宙の流れのままに、分別できるでしょう。あはは、ちょっとさ、Bもヤバくなってんじゃん。当たり前じゃないですか。貴方の貴方ですから。影響を受けるのは当然でしょう。二人でワルツを踊ればいいの? それで、海底の神秘を横目にマンゴーをかぶりつくわけだ。A、周りをよく見てみなさい。うん? 注目をたくさん浴びています。ほら、その中に、貴方の最高のデザートが鎮座されているのでは? あ、ほんとだ。えっと、誰だっけ。ええと、確か、動物の名前が混じっていたの様な。時間に関係する言葉もあったはずですよ。何だっけ、修学旅行? はあ? どうしてそんな言葉がいきなり出て来たんですか。いよいよ頭がおかしくなったみたいですね。付き合いきれません。えええ、今更でしょ。行かないでよ。Bがいたからこそ、家族の親和性を調律段階まで保てたんだから。まあ、そこまで言うなら、最後まで付き合いますが。ありがとう。やっぱりちとせは最高。私以外の女の名前を出すなんて、本当にデリカシーのない男子ですね。あれ、君って、ちとせの妹だったっけ。エレベーターのコールガールみたいなものですね。はは、全然噛み合ってない。奈良に行ったんでしたっけ。はあ? ですから、修学旅行。中学は近畿地方をめぐりましたよね。そうだねえ、公園にいた鹿が可愛かったなあ。夜も男子の部屋に全員集まって、テレビ見た気がする。あ! 私も気がつきました。そうだったそうだった。ヨルシカだ!」
大扉から出てきた彼女は、呆気に取られている。
そこへ向かって、下田は駆け出した。
そして殺そうとして、グウィンに殺された。
(8億4526万899)
「痛み分け、ですね」
「うーん…」
「一生分の恥です」
「五百万生はあると思うけど」
「まだ、ぼけているんですか? ちとせに公開告白でもしますか?」
「意味ないよ。どうせ皆死ぬのに」
「前向きに行きましょう。課題を再確認するのが一番です」
「再確認ねえ」
とりあえず、次の相手はわかっていた。
四体。
ユリア、リリアーネ、フリーデと、グンダ。
別に数が増えたことに対しては、どうとも思っていない。それに関しては適応するだけだ。諦める要素はない。
この中で、最も先に殺すべき相手もわかっていた。
それは、リリアーネだ。彼女は、フォドリックを殺した直後からある術をかけてくる。今のところ回避にも反詠唱にも成功できていない術だ。
何度か食らったことはある。あの喉の詰まるような感触。名称はわからないが、実際に受けてみて効果はわかっている。
術の封印。
食らった瞬間から、下田は魔術も奇跡も使えなくなった。どんなに強くイメージしても、発動できなくなった。そればかりではなく、声も出すことができなくなった。これが、何を意味するか。詠唱も反詠唱も、並列詠唱も圧縮詠唱も、術の不可視化も何もかもが不可能になったということだ。
つまり、下田の攻撃手段は近接だけになる。
それだけ? と思うかもしれない。まだ戦えるだけましなのではないかと。
しかし、相手を考えてみてほしい。
グンダは言うまでもない。その体格から考えても、近接戦闘において最強格であることは間違いなかった。だが、図体のでかさが逆に弱点となることもある。いくらでも、戦いようはあると思っていた。
問題なのは、残りの三人の女性だ。
正直、侮りもあった。老練の技を持つフォドリックに比べたら、歳も性別に関しても、戦闘では劣っているのではないかと。三人は姉妹だと聞いていたので、その情を利用して崩す手はいくらでも考えられた。容易いと、錯覚していた。
「気色悪いね、君」
下田の胸に短剣を刺しながら、リリアーネは面白そうに笑っていた。既に彼は四肢を斬り取られ、地面に転がされている。
もう決着は付いたも同然なのに、彼女は適当に下田の内臓をかき乱して遊んでいた。
「取るに足らないと思っていた。私の判断は間違っていなかった。でも、君は変わった。変化というより、進化かな。凄まじい成長だね。その、エルドリッチの膿のせいかな。違うな。君の動きは、積み重ねを感じさせるものだ。イーゴンもジークバルドもシーリスもフォドリックも、経験の差で負けたみたい。本当に、気味が悪いよ。解剖してソウルの一つまみまで観察したら、理解できるかな。ね、ヨルシカに直談判してあげようか? 私、君ともっと一緒にいたいな。もっと面白いものを見せて」
実際に戦ったのは彼女ではなかった。
それを守る、ユリアだ。
今のところ、まるで歯が立っていない。それは術が使えないだとか、今までの戦闘で消耗しているだとか、そういう諸々の要素がなかったとしても、同じ結果になるとわかるほどの実力差だった。
ここまで来ると、下田にでも相手の能力を何となく見極めることはできる。他の二人、リリアーネとフリーデも同じくらいは強い。立ち振る舞いでわかる。
三人とも、フォドリック並か、それ以上の強者だ。
そこに加えてグンダも入り込んでくる。
彼らを同時に相手にするために重要な妨害用の魔術も使えず。
絶対に避けきれない攻撃のための回復の奇跡も使えず。
向けられる術用の詠唱も使えず。
一体、どう、戦えというのだろう。
「早く、殺しなさい。儀式の再開を」
ヨルシカが玉座の傍から離れ、歩いてくる。大した距離ではなかった。下田からでも少し走れば到達できる程度の長さだった。
リリアーネが息を吐いて、顔だけを相手へ向ける。
「わかってますよ。でも、気になりませんか? もったいないです。彼だけは、贄から外してはどうですか。調べたいことが沢山あるんです」
「殺しなさい。三度は、言いません」
四体を抜ければ、ヨルシカまで辿り着ける。最後の関門だった。もう少しで殺せるのに、最後の障害がどこまでも固く高く立ち塞がっていた。
リリアーネが、溜息をつく。下田に向かって、すまなそうに微笑んだ。
「ごめんね。無理みたい。せめて、苦しむように殺してあげるね」
下田は血を吐き出しながら、ただ一点を見つめていた。その憎悪の視線を一心に受けたヨルシカは、鼻で笑う。
怒りや憎しみは、とても消耗する感情だ。長くは続かない。いずれ激することに疲れて、ただそうしなければという義務感だけが残る。
だが、下田の場合は違った。今まで受けてきた、これからも受けるであろう全ての苦痛を。贄として燃やされる苦痛や魔術や剣で体を削られる感触、そして乗り越えられない悔しさを全て、祭祀場の者達、ヨルシカへと注ぎ込んでいた。
「ころじで、やる」
リリアーネはくすくすと笑った。
「沈黙が解けたね。最後の言葉を聞こうか」
どれだけ。
たとえどれだけ、先が長かろうと。
必ず、辿り着いてやる。
お前を。
お前を、殺してやる。
「よる、しかあああああああああ」
白い手が伸びる。
顔をつかまれて、いとも簡単に引き上げられた。
「羨ましい。そんなに思われて。ヨルシカ様、良かったですね」
目の前にある竜人の顔は冷たいままだった。
「気持ちの悪い。さっさと死んでください」
ヨルシカの手に力が入る。
下田の顔がきしんでいく。彼は叫んだ。苦痛と憎悪の入り混じった呪詛を、相手へと浴びせた。頬骨が砕け、眼球が飛び出し、脳が潰れていっても、まだ声を出し続けた。自分の頭が変形していく。陥没し、脳漿が漏れ出してくる。
彼女に顔を握りつぶされて、下田は新たな区切りをした。
逃避はもうやめよう。目的が果たされるまで、戦い続けると。
青ざめた顔で、そこから目を逸らす白い鱗の女性がいた。
(9億3451万9807)
まず、遅い。
武器を振るう速度が。かわすタイミングが。致命的な攻撃に気がつくまでの時間が。相手の位置を把握することが。こうすると決めてから実際に行動に移すまでの時間が。思考の速度が。相手の動きを目で追う速さが。何もかもが。
人間、人間でしかない。感覚を肌で感じ、その信号を神経系を通じて脳に届かせる。そこから脳が選択し、命令を出して身体へと送る。行動が決定されるまでの手順が、人間の範囲内に留まってしまっていた。選択肢自体も有効なものが何一つとしてない。凡庸に過ぎる。
「獣のようにか? 四本足で飛び回れとでも?」
動物の動きを参考にする手もある。だがそれらと自分では体の構造や筋肉のつき方が違っている。上手く、人用に落とし込む必要があった。
「女はどうだ?」
一理ある。男と女に限って見ても、構造は異なっている。
ユリアの動きは、フォドリックと同じくらい洗練されているが、女性特有の滑らかさがあるような気がする。もちろんその細腕では考えられないほどの腕力でいつも叩き潰されるのだが、理解を深めることは重要だった。
「ちげえよ。馬鹿。感情的な問題だよ。変化を求めるなら、まずは人間関係に手を突っ込んだらどうだ? 女だよ。今度の敵は女が多いだろ。つまり、その体をもっとよく知ることも有意義ってわけだ」
「どういう意味ですか?」
「おいA。お前もわかってるんだ。はっきりした方がいい。好きな女とやれば、なんか、こう、変わるんじゃないか? 道が開けるかもしれねえ」
「え~、でも、誰がそんなことしてくれるの?」
「いいですか、真面目に考えましょう。C、議論を混乱させるのはやめてください」
「さっきからうるせえな。戦闘で相手の肉を裂くことと、肉に挿れることに何の違いがあるんだ。経験は大事だろ。B、いい子ぶるんじゃねえよ。もう何人か殺してるんだろ? 殺しとまぐわいに何の違いがあるっていうんだ?」
「恥ずかしいよ。そんな話題はやめよう」
「いやいやいや、ごまかすな。お前は俺だ。何も興味がなければ、俺がこういう発言するはずもねえ。わかってるんだぞ。わかるぜ、生き死には本能を刺激するからな。子孫を残そうとする欲が増すんだ。何度、ちとせに抱き着いた? そしてその内どれくらいの割合で、押し倒そうとした?」
「わああああああ、やめて。そんなこと言わないで」
「八割は、やろうとしてましたよ。しかも周りの目がある中で」
「ちょっとお、Bまでいじめてこないでよ」
「だろ? もういいじゃねえか。告白しようぜ。失敗してもいい。どうせ忘れてくれるしな。いや、待てよ無理やりでもいいか。どうせ皆死ぬしな」
「それだけは、駄目だ。そんなことは、許せない。守るべきラインだ」
「構わねえよ。でも忘れないほうがいいぜ。俺がこれを言ったってことは、お前の欲の片隅にそういうことがあるってことだ。いつか、決壊しないといいな」
「別の,発散方法を見つければいいでしょう。そういう性欲を全て戦いに向けては? 私も、感じていましたよ。障害を越える度、極上の悦楽が全身を駆け巡ったでしょう。難題に何度も挑んで、乗り越えた時の快感はたまりません。転がる死体という、目に見える勲章もありますし」
「おお、いいじゃねえか。そういう考え方もありだな。頑張ろうぜ。ユリア、リリアーネ、フリーデ、グンダの死骸に向けて唾を吐く所を想像してみろよ。楽しみになってこないか?」
「唾に失礼だよ。そんな時間もないだろうし。そうだね、全部終わったら、亡者にでも貪らせよう、あいつらの餌にするのが一番ふさわしいと思う」
『全員、直接食べるのはどうだい? 憎い相手の血肉を糧とするんだ』
「おい、一人気の狂った阿保がいるぞ」
「また膿ですか。ちょくちょく出てきますね」
「無視するのが一番だよ。信用できない余所者だし。頭もおかしいから嫌い」
『力を、あげよう。君が欲しくてたまらないものだろう?』
「思うに、改善点はいくつかあります」
「そうだな。まずは武器だ。片手剣を扱うのはもう限界だろうな。速さが圧倒的に足りていない。別のに持ち替えるべきだ」
「あれでも軽い方だと思うけど。もっと素早く振り回せるものと言ったら、短剣? 長さが弱点になるよ。皆、そうそう近づかせてはくれない」
「そこは、先達を参考にすればいい。特にリリアーネだな。これから関わりを深めていくとしたら、彼女だ」
「なるほど。二刀流ですか。確かに魔術等に割く部分がそっくりそのまま空きますからね。リーチが劣っていても、手数を増やしていく方針。試してみる価値はありそうです。リリアーネという、格好の手本もいる」
『つれないねえ…』
「決まりだな。当分はそういう感じで」
「あの人苦手なんだよなあ。でも、やるしかないか」
「土下座でもすれば大丈夫そうですけどね。得意でしょう?」
「リリアーネとやればいいんじゃないか?」
「目元の黒子がそそりますよね」
「二人とも、真面目にやろうよ…」
「何、見てるの?」
言われてみれば確かに。
向かいに座っている女性の顔を観察した。上に二人の姉がいるだけあって、顔の作り自体は少し幼いようにも感じられる。だが、目元の黒子がそこに妖艶さを加えていた。ちぐはぐ故の魅力というのも、確かにいいものだ。ただ、性格のせいで台無しだ。表情はころころと変わるので、その可愛さを考えても、もったないなく感じた。
「あのさ、君から話があるって言うから待ってたんだけど。じろじろ見てないで話しなよ」
「リリアーネさんは、火継ぎについてどう思いますか?」
「うん? どういう意味?」
「その在り方の是非です。欠陥があるとは思いませんか?」
隣に控えているユリアが鋭い視線を向けてきた。それは怒りではなく、警戒の意味合いが強い。そもそも初めから、この二人には下田の雰囲気の変化を気取られているようだった。オーベックにも指摘された目の色や立ち振る舞いなどは繕えているつもりだ。それでも、隠しきれない何かがあるのだろう。
リリアーネは意外そうに目を細めた。
「欠陥ねえ。むしろ、良いことを探す方が難しいね。シモダ、これってヨルシカの差し金なの? 私を、試してる?」
「別に。僕と同じ意見かどうかを確認したかっただけです。安心しました」
「へえ、君もそんなこと考えてるんだ。ちゃんと報告しておくからね」
「やめてくださいよ。勘弁してください」
「あはは」
彼女の笑い声が空虚に響いた。口では笑みを作っていても、こちらを見てくる目は油断がない。下田の動きを一つも逃さずに把握しようとしている。
リリアーネは頬杖をついて、こちらの目を覗き込んできた。
「私が何を考えてるか、わかる?」
「いいえ」
「目の前の男の子を、一刻も早く排除しろって、私の一部がずっと言ってくる。隙が、少なくなったよね。今までは笑っちゃうくらい子供だったのに。はっきり言って、まともに会話できてるのが怖いよ。どうしてそんなに内がぐちゃぐちゃなのに、まともを繕えるの?」
「いきなり狂人扱いですか? 酷過ぎます」
気持ちが悪いのは下田も同じだった。どうしてそんなに当たり前のように、こちらの精神を透かしてくるのだろう。非現実的だ。あってはならない気がする。不純物だ。取り除くべきだろうか。
「それ、活性化してるけど、いいの?」
指摘されて、下田は自分の左腕を見た。今まで手の甲までしか浸食していなかった膿が、二の腕を覆うほどにまで大きくなっていた。こんな見た目を晒せるはずがなく、擬態で普通の肌を作っていた。それを、リリアーネは看破している。
「ああ、いいんじゃないんですか? 奇跡を使えば何とかなりますよ」
「君がいいなら、私は別に何も言わないけど」
彼女の手が、ぶれる。
刃のきらめき。
日常的な習慣のように、短剣が下田の胸を斬り裂いていた。軽装の皮鎧が敗れる。肌が晒されて、傷からわずかな血が漏れていく。
そこへ、リリアーネの指が触れた。じっとりと上から下へとなぞっていき、途中で横に広がった円の形を血で描いた。
「輪も、浮き出ていないね。面白い。姉さん、候補が新しく出てきたかもしれないよ。適応できる可能性がある。タカキは、捨てようかな。あんなになっちゃったし」
「気まぐれも、程々にしろ」
ユリアが首を振る。馬鹿馬鹿しいと言いたげに、下田を見下ろした。
「心に留めておけ。我等に手出しをしたら、報いを受けることになる」
下田は訳が分からないという顔を、作った。
「えっと、話が見えません。とりあえずひと段落したのなら、本題に入ってもいいですか」
「フフ、だってさ。そういうことにしてあげようよ」
ユリアは再び離れた所で、見張りを再開する。その警戒の度合いが、さらに増しているような気がした。
下田は、立ち上がり、膝を地面に付いた。その行動の途中でリリアーネは武器を抜きかけていたが、直後、首を傾げた。
頭を床につけて、平伏している彼に、怪訝そうに声をかける。
「何をしてるの?」
「お願いします。僕に武器の扱い方を教えてください。貴方の戦い方に感動しました。ご教授いただければ幸いです」
そこで初めて、きょとんとされた。何もかもを知っているという彼女の余裕が、一瞬だけ途切れたような気がした。ゆっくりと瞬きを数回した後、口を押える。
息の漏れる音が聞こえてきた。
どんどんと片手で机を叩き、体をくの字に折り曲げた。髪の隙間から覗く耳がじんわりと赤くなっている。肩が震えていて、その様子は無邪気な少女のようだった。
可愛いと、素直に思った。
「可愛いな」
リリアーネはさらに大声で笑った。
思っただけのつもりが、口に出ていたらしい。いや、これは自分のせいではない。おそらく、Cが勝手に言ったのだろう。正直、やめてほしかった。この人の機嫌を取りたいわけではない。慣れ合うつもりもなかった。
彼女は呼吸を落ち着けてから、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
「で、戦い方を教えろだって? どういうつもりかな」
「祭祀場に貢献したいんです。今のままじゃ、僕は弱くて使い物になりません」
「ふうん」
リリアーネは身を乗り出して、腕や肩を触ってきた。彼女の衣服から鎖骨が見える。一瞬そこへ口をつけて、肉をかじり取りたい衝動にかられた。傷をつけられて、血を流す彼女はどのような顔をするのだろう。そしていざ死ぬとなった時は? どういう命乞いをしてくれるだろう。
いや、そんなことはしない。彼女はそういう相手ではない。最後まで、余裕を保っているだろうか。
『でも、三分の一ほどを食らってやれば、可愛い鳴き声を上げてくれるかもねえ』
一理ある。
「ないない。頭がおかしいよ」
「自己紹介かな? あんまり独り言とかしないほうがいいよ。気持ち悪いから」
リリアーネは下田から離れて、腕を組んだ。
「体は確かに貧相だね。術師だとしても、まだ足りない」
「術は、いいんです」
「うん?」
「武器を使った戦い方だけで、強くなりたいんです。でもそっちの言う通り腕力にも限界があるので、短剣くらい軽いものでないと限界がすぐにきます。だから、リリアーネさんに頼んでるんです。僕の知る限り、短剣使いの最高峰に」
お世辞はたいして効いていないようだった。
相手は笑みを収めて、人差し指を顎に当てる。
「私が戦ってるとこ、君に見せたことあったっけ?」
「あるんじゃないんですか? 僕もよく知りませんけど」
「適当だなあ。言い分もちょっと、あれだよね。舐めてる」
下田は、片手剣をインベントリから即座に引っ張り出した。首筋に向かってきた刃を弾く。これで終わりではないのはわかっていた。同時に二本目の短剣が胸へと迫る。一音節の詠唱をさらに圧縮。その刃にソウルの矢をぶつけた。軌道がそれて、椅子に刺さる。
リリアーネは口笛を吹いた。感嘆してくれているようだ。
「反応はまあまあじゃん。驚いたよ。ここまでとは思ってなかった」
反対に下田は自分自身に変わらない失望を感じていた。攻撃を受けた剣には、もう何の衝撃も残っていない。本気の彼女の力ならば、流したとしても痺れが長く続くはずだった。手加減されていたのに、ほとんどギリギリで防ぐことしかできなかった。
それに、もっと駄目なのは二本目への対応だ。魔術を使ってやっと間に合った。つまり、術を封印されている状況では殺されていたということ。話にならない。下田は自分の握っている片手剣を見下ろす。これでは無理だ。
「楽しそうだね」
ゆっくりと、リリアーネと顔を合わせた。
「はい?」
「ううん。気にしなくていいよ。急に攻撃なんかしてごめんね。面白そうだから、教えてもいいんだけど、時間は限られてるからさ。さすがに赤子に字を教えるみたいな作業はしたくなかった。でも、君は大丈夫っぽい」
「じゃあ…」
「いいよ。弟子なんてとったことないけど、真面目にやるから。ただし、ちゃんと上下関係はわきまえること。私の事は、師匠と呼んで」
「嫌です」
リリアーネは、手から顔を離した。風船がしぼむ時のような息を口から漏らす。
「なんで?」
「もう、師匠はいるので。混乱しちゃいます」
「じゃあ、先生は?」
「それももういます。別の呼び名にできませんか?」
「えー」
腕を組みながら、斜め上を彼女は見た。口を開けたり閉めたりして、たいして真剣でもない思考にふける。その様子を、ユリアが呆れたように見ていた。
数十秒ほどたってから、リリアーネは我に返った。下田を見据えて、からかうような笑みを作る。
「じゃあ、姉様で。私、そういえば弟もいたことなかったし。目上を敬うっていう点では、似たようなもんだよね。どうかな」
不思議と、不快感はなかった。多分言葉の違いでしかないのだろう。これがもし母親に関することだったら、この回は無駄になっていたところだった。彼女を殺すしかなくなっていたからだ。
下田は苦笑した。
「貴方も大概ですよね。いいですけど。姉様、これからよろしくお願いします」
「見て、姉さん。私達に弟ができたよ」
ユリアは首を振りながら溜息をついた。下田はその動作を観察する。細胞の一つ一つまで動きを把握するように、じっとりと見る。そこに、殺すための手がかりがあると信じて。
(10億6749万4395)
ユリアに首を飛ばされる。
(12億5498万2314)
ユリアに首を飛ばされる。
(15億5620万4410)
ユリアに心臓を刺される。
(17億987万8974)
二つの短剣を扱う際のメリットは何か。
単純に、手数が増える。例えば片方で相手の武器を受けて、もう片方で体へ突き刺す。一本を逆手に持てば、より変化を持たせた攻撃が可能となる。
他にもできることはある。相手の振るってきた武器を流して軸をずらした後、もう一本の短剣をその武器へ叩きつける。脆い武器種なら破壊を狙えるし、できなくても、相手の手から落とせる可能性がある。
自分と同格かそれ以下の相手ならば。
「何だ?」
初めは無視をしていたが、しつこくついていくと、ユリアはようやく相手をしてくれる気になったらしい。
「腕相撲って知ってます? 要は、僕と力比べをしてほしいんです」
「リリアーネに頼め。あっちなら、喜んで対応してくれるだろう」
「貴女がいいです。興味があります」
ユリアは歩いて行った。下田の話を最後まで聞くことすらしない。精一杯愛想良く振舞ったつもりだが、彼女はそういうのを好むタイプではないらしい。
「なんで、怖がってるんですか?」
たずねると、彼女は止まって振り返ってきた。
下田は愛想笑いをする。
「貴方達って、本当の姉妹ではないんですよね。そういう感じがします。だけど、そうだとしても、リリアーネさんをどうして怖がってるんですか? あっちの方はちゃんと慕ってくれているみたいなのに」
「何の、でたらめを言っている?」
「腕相撲をしてくれたら、姉妹関係の修復に協力しますよ。一番上のフリーデさんのことも調べてあげます」
彼女の特徴的な、冷気を含んだ視線が全身を撫でてきた。
何度も戦っている内に、彼女の達の関係も段々と浮き彫りになってきた。確かに、個々の力はとてつもない。前の関門の三人よりもはるかに強いのだろう。しかし、連携という点に関しては、劣っていた。彼女の達の中に、わだかまりがある証拠だろう。特にリリアーネとフリーデの関係は複雑だ。彼女達がちゃんと話したところをほとんど見たことがない。それはおそらく、リリアーネが一方的に何かを憎んでいるせいだと考えられた。
そして、そのことにユリアが悩んでいることも、わかっていた。板挟みは苦しいだろう。
ユリアは戻ってきて、下田を見下ろした。
「お前が、何を企んでいるのは知らないが…」
「ただ腕相撲をしたいだけです。お願いします。協力も惜しみません」
こんなことを言われても信用できないのはわかっていたが、彼女の望みも理解をしていた。ユリアは少し考えてから、渋々頷いた。
「私のことは、誰にも言うな」
「わかっています」
色々やり方を教えながら、腕相撲をする。と言っても彼女はあまり真面目ではない様子だったので、考えられる限りの挑発をした。さらに奇跡があるので本気でやってもいいという免罪符も与える。
腕をへし折られて完敗した下田は、考えた。
彼女の攻撃を受けて流そうとしても、全部は無理だろう。はっきり言ってゴリラ以上の膂力と表現してもまだ足りない。避けるか、わざと食らうしか選択肢がない。奇跡が使えないので、絶対にかわす必要がある。
そのために、何をしなければならないか。
観察だ。
相手の動きを全て把握するまで、繰り返す。経験を蓄積する。対応するために修練をする。
結局、やることは今までと変わらない。できるまでやるだけだ。
(20億6790万1298)
「うーん。って言われてもね」
リリアーネはくるくると手先でナイフを弄んでいた。彼女は汗の一つもかいていない。対照的に、下田はぐったりと床に倒れている。奇跡を使っていなかったら、切り傷も大量についていただろう。
呼吸を荒げながら、彼はリリアーネを見上げる。
「どうにも、進んでいない、気がして。才能がないのは、わかって、るんですが」
「まだ二日目で何言ってるの? 才能云々も皮肉に聞こえるけど」
「僕に足りないものが何か、わかりますか?」
「うーんとね」
リリアーネはナイフを投げた。それは真っすぐ飛んで、下田の顔のすぐ横に刺さる。頬が切れて、血が流れだしてきた。
「お願いします」
「…戦いにはさ、技術なんて対して重要じゃないの。一番優先するべきことは、己を律すること。どんな状況でも心を揺らされない強さ。シモダには、それは備わってるように見えるよ。単に危機感が壊れてるだけかもしれないけど」
「でも、勝てません」
「当たり前じゃん。君って奇跡使いでしょ。近接で相手に勝ろうとしても意味ない。って、初日でも散々言ったか。そうだね、ちゃんと答えてあげる。君ってさ、守りがおろそかになりがちなんだよね。意外にも、攻める気が強い。ある意味正しいのかもしれないけど、格上とやる時はもっと慎重になりなよ。私のこと、何度も殺そうとしたでしょ。堂々としてるから、あえて指摘しなかったけどさ」
「駄目でしたか?」
「フフ、責めてるわけじゃないよ。でも、理由は知りたいよね。私、君に何もしてないよ」
「その通りだと思います。姉様の思い違いでは?」
「まあいいや。君にまともを求めても無駄だね。とにかく、奇跡が戦い方に影響を及ぼしてるってことはわかる?」
「傷つく前提の戦略を立ててるってことですか」
「無意識のうちにね。駄目だよそんなんじゃ。そもそも攻撃なんて受けない前提でないといけないんだから。奇跡が一番消耗するからね」
「わかりました。今度から気を付けてみます」
「元気は戻ったみたいだから、再開するよ」
へとへとになりながら、下田は広場へと向かった。体は休むことを訴えていたが、まだやることがある。事前に相手と約束をしていたので、遅れるわけにはいかなかった。
篝火の傍まで行くと、座っていた実織が振り返ってくる。
「下田…」
「なに?」
「ほとんど目開いてないけど、大丈夫? 休んだ方がいいんじゃない?」
「いいよ。やる」
彼女は立ち上がり、インベントリから水の入ったペットボトルを取り出した。
「ほら、飲みなよ。結構汗かいてるみたいだし」
「ありがとう」
下田はふたを開けて、中身を顔全体にぶちまけた。熱のこもった肌が冷やされていく。
その様子を、実織は口をぽかんと開けて見ていた。
「そういう?」
「ここで教えてくれるの?」
「え、いや、移動するよ。私の部屋に行こう。お姉ちゃんも見物したいって」
「わかった」
実織の後を付いていく。彼女は時折こちらの様子をうかがってきたが、何か言葉を発することはなかった。静かな雰囲気のまま、生徒達の居住スペースを進んでいく。途中高坂とすれ違って、多少の言葉を交わした。彼は二人を意味ありげに見た後、自分の部屋へと戻っていった。そこから、実織はさらに落ち着かない様子になった。
彼女の部屋に入ると、既に先客がいた。ベッドの上に、フリーデが腰かけている。今は薫の部分が表に出てきているようだった。
「私、邪魔だったかな」
「お姉ちゃんから見たいって言ってきたんでしょ。からかわないで。あ、下田、もっと真ん中に寄せて、隙間空いてると危ないから」
二人で分担してインベントリから畳を取り出し、即席の稽古用床を作った。正直必要はないと思っていたが、実織は普通に柔道や空手を教えるつもりでいる。下田の方も興味があるとだけしか言っていないので、特に訂正をすることはしなかった。
彼女は畳の配置を確認した後、下田の方を向いてきた。
「それで、あ―、道着に着替えないといけないから。いったん外に出てくれる?」
「道着?」
「このままでするわけにもいかないでしょ」
「うん、そうだね」
頭の中では反対の意思がこだましていたが、素直に部屋から出た。少し待ってから、自分も着替える必要があることに遅れて気がつく。インベントリから白い道着を取り出し、身に付けていた軽鎧を脱いでいく。
下着姿になった彼は、自分の両手を見た。左は、ほとんどが膿に覆われている。腕も浸食されて、そろそろ肩に届きそうだった。だが、今のところ声がうるさい以外は実害もないので、放置している。
右手の部分を見る。こちらは、白い鱗が手の甲を覆っていた。膿よりも広がる速度が遅くはあるのだが、気味の悪さは大差がない。
六日間の最初に戻っても、これらは進行している。まるで時間という枠を飛び越えて、下田の体にこびりついているようだった。放っておけばよくないことになるのは目に見えているのだが、現状どうしようもない。腕ごと斬り落としたとしても、再生した時にはまた戻っている。
「終わったよ。入ってきて…」
実織が道着姿で扉を開けた。ぼうっとしている下田を見ると、すぐに目を逸らす。
「まだ途中なら、言って」
「ああ、うん。すぐに行くよ」
両腕に擬態がちゃんとかかっているのを確認してから、彼は道着に袖を通した。
正直、柔道や空手が祭祀場の者達との戦いに直接役立つとは考えられない。ほとんどの者が自分よりも体格があり、密着して投げる隙などどこにもありはしない。だが、参考にできるところもあった。二つとも、間合いの概念がしっかりと備わっている。それに基づいた、体捌きの技は大いに参考になった。
短剣のリーチの短さでは、立ち回りに工夫が求められる。拳足を使う武術を深く知ることは、役に立つのではないか。
実織は、教えるのが上手だった。今まで師事されてきたどの相手よりも、言葉の選び方がわかりやすかった。彼女は黒帯で、小さな頃からずっと続けている。実際に技の流れも綺麗で、速かった。それにいい匂いがする。
空手の組み手をした後、柔道の組み手に入る。お互いの道着の裾をつかむので、より密着した形になる。彼女は真剣にやろうとしてくれているが、下田の方は彼女の後ろにまとめた髪からほつれる一本や、声を出している口元が気になっていた。
彼女に何度か投げられた後、下田は起き上がれなくなった。体全体が床に縫い付けられているようだ。本当の限界が来たことを知って、この時間の終わりを惜しんだ。
「明日もやるの?」
「うん。お願いできる?」
「もちろん。私も久しぶりに稽古できて楽しかった」
実織の方も少し息が上がっている。楽しそうに頬を紅潮させる様子は、下田に忘れてしまったものを思い出す気にさせてくれた。現状を、楽しむことも大事なのだろう。
「下田くん、ちょっと習ってたりした?」
薫がベッドから立ち上がり、尋ねてくる。
「呑み込みも早いし。才能あるんじゃない? あっちに戻ったら、私達の道場に来なよ。みおちゃんと同年代の人は、全くいないから」
「考えてみます」
実織も、倒れている彼を見下ろしてきた。
「体験会みたいのもあるし。覗いてみて。私としても、新しい人が増えるのは嬉しい」
「うん。そうする」
「それで…」
薫がにやりと笑う。
「立てなさそうだけど、大丈夫? 自分の部屋まで戻れそう?」
「厳しいですね」
「ここで寝たら? 私達もそろそろ休むから、ちょうどいいね」
「ちょっとお姉ちゃん」
「ベッドはまあまあ広いし。三人でも寝れるよ」
本人はほとんど冗談のつもりで言っているようだった。実織も呆れている。
下田はすぐに頷いた。
「僕が真ん中でいいですか?」
目を開けると、二人は虚を突かれたような顔をしている。実織の方が動揺が大きいようだった。
その反応を見れただけでも満足したので、下田は笑う。自分の全身に奇跡を発動させて、疲労の軽減を図る。数秒もすれば歩ける程度には回復できた。
「冗談ですよ。おやすみなさい」
部屋を出て、しばらく進む。冷汗が背中を伝っていた。
実織の技は確かに綺麗だが、下田にとっては止まっているようにも思えた。殺す気がないので当たり前なのだが、既に達人の技を何度も見ている彼にとっては、子供の遊びの様な感じだった。
問題なのは、その隙をついて相手を仕留める方法を、何度も考えたことだった。頭がおかしい。相手は、実織なのだ。殺すどころか、傷つける必要もない。
『でも、味見をするのはいいだろう?』
「黙れ」
吐き捨てた直後、背後で足音がした。薫がついてきているのはわかっていたので、落ち着いて振り返る。今の言葉も聞こえていたようだが、徹底的になかったことにしようと思っていた。
「あれ、僕、何か忘れ物しましたか?」
薫は無言で目の前まで近づいてきた。インベントリの保管庫の構成を思い返す。殺そうとしてくれば殺せばいい。そう考えるほど、彼女の顔には敵意が含まれていた。
「貴方の部屋にいきましょう。話があるから」
その言葉には素直に従った。こちらも、望んでいたことだったからだ。
薫は明らかに警戒をしているようだった。部屋に入る時も、下田を前に行かせた。彼としては、苦笑ものだ。どうせこちらは勝てっこないのに、そこまで緊張する必要があるだろうか。相手からすれば、得体が知れないのは事実だろうが。
椅子をすすめても、彼女は座ろうとしなかった。壁に寄りかかって、常にこちらを視界に入れるようにしてきた。代わりに、下田が丸椅子に腰かける。
「それで、話というのは?」
「何もないなら、それでいいんだけど。みおちゃんとは、これからも会うんでしょ。念のためにね」
「?」
「できれば、あまりみおちゃんに関わらないでほしいの。何を考えてるのは知らないけど、あの子を、巻き込むのはやめて」
下田は肩をすくめた。
「どうして、彼女の事を心配してるんですか? どうせ死ぬのに」
相手の驚きにも飽き飽きしていた。
「大丈夫ですよ。他の生徒達に話す気はありませんから。もちろん実織さん本人にも。可哀そうですからね。実の姉に見捨てられたってわかったら」
「誰から、聞いたの」
「貴方が話してくれたってヨルシカに報告したら、まずいことになりそうですね」
「…脅しというわけ」
そういう反応にも、うんざりしていた。
「だから、話す気はないって言ってるじゃないですか。貴方のお願いも受け入れますよ。実織さんには必要以上に関わらないようにします」
真実であり、嘘でもあった。この回ではもうしないが、次からはわからない。相手の四体の内、感情的に付け込む余地があるとしたら、薫だからだ。実織を人質に取ったら少しは戦いでも忖度をしてくれるだろうか。だが、それだけはしたくない。自分の定めた最低限のラインを超えることになる。
下田は相手をじっと見た。あまり納得している様子ではないが、これ以上何かを話そうとする気配はない。話が終わりになりかけている雰囲気の中、彼は口を開いた。
「薫さんの用というのは、これで全部ですか?」
「いいえ。貴方に忠告をしようとも思っていたの。ここ数日の動きが気になる。全てを知っているのなら、今更修練をしたりする意味がないのはわかっているはず。リリアーネに近づいて、一体何をするつもり」
「別に。そっちの想像してる通りなんじゃないですか。暗月の誓約が邪魔なので、ヨルシカを殺そうと思ってます」
「そんなこと…」
「無理ですか? でも、割と進んではいるんですよ。既に何体かは祭祀場の奴らを殺すことができています。残りは、貴方達三姉妹と、グンダだけです」
彼女は身を引いた。いつ間にか、下田は自分が相手へと近づいていることに気がついていた。ここで戦いをするつもりはない。無意識のうちに体が前に出てしまっていた。
「その目、本当に気持ち悪いよ。だから、みおちゃんとは関わってほしくない」
「自分が同類なのを、ちゃんと自覚してますか? 僕の方はもう、薫さんに用はありません。話をしたいのは、フリーデさんの方です。表に出てきてもらえますか?」
「指示に従う必要はない。フリーデ、そのままでいて」
だが、意見は食い違ったらしい。すぐに相手の様子は変化した。顔つきが険しくなり、目尻が上がる。敵意を向けてきていた薫よりも冷たいものが、宿っているような気がした。
「私も、警告をします。妹に、リリアーネに余計なことをしないでください」
「驚きました。ちゃんとあの人を思いやってはいるんですね。てっきり、仲違いをしてるのかと思ってました」
「貴方の、くだらない想像で物事を判断しないでください」
「でも、彼女の信仰していたカアスを殺したのは、事実なんですよね。憎まれても、しょうがないと思いますが」
相手の手に鎌が現れた。下田に直接向けることはしないが、いつでも首を刈り取れる間合いまで近づけた。
フリーデはさらに声を低くした。
「その話を、リリアーネから直接聞いたのですか?」
「さあ? 考えてみてくださいよ。あの人がこういう話を僕なんかにすると思います? 色々調べたんです。ロンドールについて。どうして、そんなことをしたんですか。恨まれるのはわかりきっているのに」
冷たい表情の中に、一瞬疼痛がよぎるのが確かにわかった。なるほど、仕方がなかったというわけだ。そうしなければならなかった事情がある。そしてそれは、リリアーネには説明できないことだ。
「私達を、裏切ったからです。酷い裏切りでした。私は、信仰よりも、妹たちの方が大事でした。だから、仕方がなく」
「そういう事情を、ユリアさんにだけは話したんですね。おっと、鎌は下げていてくださいよ。別に彼女達には何もしてませんって。でも、可哀そうですよ。ユリアさん、板挟みになってて辛そうでした。そこを何とかするのが長女の役目では?」
「わかっています。ですが、私にそうする資格はありません。逃げ続けた報いです」
ロンドールははるか昔に滅びたとされている。オーベックの書斎で読んだ。もう何百年も前の話だという。この姉妹たちについても、オーベックは意見をしていた。曰く得体のしれない不気味な女達らしいが、強さだけは本物だと。
当然だと思った。話を総合して考えるに、フリーデ達は普通の人の寿命をはるかに超えて生き続けている。ただでさえ戦いに類まれな才を持っているのに、何百年も経験を積んでいるのだ。
くだらないことで悩んでいた。そう考えると、肩が一気に軽くなる心地がした。こんな自分が、たった数百万年くらい修行して勝てるはずもないのだ。もっともっと、彼女達の動きを知り、経験を積む必要がある。まだ、停滞していることに悩む段階でもなかったのだ。
もっと頑張ろう。もっと研ぎ澄まさなければ。もっと殺意を大きくしよう。
いやそれだけでは駄目だ。ちゃんと敬意も示さなければならない。思えば、環境だけは恵まれているような気もする。自分の想像もできないような洗練された戦士たちが周りにはたくさんいる。
散々戦ってきてわかったのは、この祭祀場に集まっている者達は選ばれているということだ。徐々に滅びに向かっている世界で、生き残れる実力と運を持ち合わせた者達。今まで地球で比較的平和に暮らしていた自分が、そうそう乗り越えられる相手ではない。そういう意識が、最近足りていなかった。
フリーデは、さらに後ろへ下がっていた。鎌の刃の先を、下田の首に向けている。
「どうしたんですか?」
初めて、彼女の表情に動きがあった。警戒の表情だ。まるで理解できないものを目の前にしているかのような、動揺がわずかに含まれている。
「その顔を、やめなさい」
「何をですか?」
「貴方が、どうしてそんなに笑っていられるのか、理解に苦しみます。一体何が、そんなに楽しいのですか?」
「別に、楽しくなんてありませんよ」
下田は詠唱を始めた。頭の中が全てふわふわとしていた。
「こんな地獄、早く終われって思ってます」
フリーデのことも、もちろん尊敬していた。だから、三秒ほどで殺されたとしても恨むことはしなかった。