火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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53.悲劇

  (45京3122兆7654億3233万3486)

 

 

 終わっても、熱は未だに消えていなかった。

 両腕を再生した後、思いっきり地面を殴った。骨が砕け、肉が露出しても、数回繰り返した。これで紛らわせられるのなら、ありがたいと思っていた。

 

「ちょっと、アキ!」

 

 自分でもおかしいのはわかっていた。頭がおかしくなっている。

 だが、それ以上の激情が、渦巻いていた。

 心配して近づいてきたちとせの胸ぐらを、掴む。驚いている彼女を、無理やり持ち上げた。そのまま、首を絞める形になる。

 彼女は、理解ができないという顔で、苦しむ。

 

「誰のために、やってきたと思ってる」

「な…に…」

「なんで、邪魔をした? 殺せたんだ。もう少しで。なんでだよ」

「やめ……」

「信じてたのに、信じてたんだ。裏切った。皆裏切った」

 

 手を離す。彼女はうずくまって、げほげほと咳き込んでいた。

 ぐるりと、生徒達を見回した。

 彼らの、何の危機感もない、呑気な様子を眺めた。敵がすぐそばにいるというのに、それに気づかないばかりか。

 刺々しい感情が、次から次へとあふれ出てくる。

 どいつもこいつも。

 

 それから、下田は自分の部屋に閉じこもって、最後まで出なかった。儀式での戦いを放棄したのは、本当に久しぶりのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (45京3122兆7654億3233万3487)

 

 

 発想を転換することにした。

 いや、今まで薄々気がついていたことに、ようやく向き合うといった方が正しい。

 下田は、自分が妙なこだわりを捨てずに、無駄に時間を過ごしていたことを後悔した。途中から既に必要はなくなっていたというのに。そもそもヨルシカを殺す意味はなくなっている。彼女に居場所を知られているから、何だというのだ。誓約を破棄しなくても、追っ手は全て殺せばいい。今の下田にはそれができる。たとえヨルシカ本人が来たとしても、退けることは難しくない。

 自分一人だけだったら。

 目が覚めた気分だった。

 今までずっと、無理をしていたのかもしれない。

 家族でもない他人まで、助ける道理がどこにあるのだろう。説明をする時間も惜しいのだ。そして信じてくれる保証もない。なぜ、そこまで労力をかける必要があるのか、わからなくなっていた。

 これは、逃げではない。

 下田は自分に言い聞かせる。

 少なくとも儀式は止める。あとは、自分達でどうにかさせればいい。

 

『いいのかい?』

「何が?」

『いや、何というか。今までのことを否定するのは、虚しいだろう』

「意味がわからないよ。僕は初めからこの世界を脱出して、お母さんに会うことが目的なんだ。足手まといなんてどうでもいい。邪魔をしてくる奴らなんか、勝手に死ねばいいんだ」

『フフフ…』 

「何が可笑しい」

『退屈しないなと思ってね。アナタがそう思うのなら、それでいい』

 

 

 

 

 

 イリーナが、不死街にいる機会はそれなりにある。

 ソウル集めの最中、誰かが怪我をしたらすぐに駆け付けられるように、小屋の篝火の前で待機しているのだ。今までは気にしてもいなかった。生徒たち全員で逃げるという目的の上では、手を出してはいけないタイミングだったからだ。ヨルシカの誓約を破棄しなければ、意味がない。

 今までは。

 

「どうかしましたか?」

 

 一人で小屋まで戻ってきた下田を見て、イリーナは尋ねてきた。他の生徒達は、まだ別の場所で亡者を狩っている。

 

「少し、気分が悪くなったので、休ませてもらってもいいですか?」

 

 彼女は近づいてくる。

 

「奇跡は消耗しますからね。頭を私に向けてください」

「はい、お願いします」

 

 体を彼女へと向けたと同時に、ファランの速剣を発動させる。首を切断されたイリーナは、何をされたのか全く理解していないようだった。下田への気遣いを含んだ微笑みのまま、絶命している。

 護衛の役割だった、シーリスもまた一瞬遅れて事態を把握したようだった。

 

「シモ……」

 

 事前に仕掛けておいた魔術で、シーリスの胸に穴を空けた。倒れかかる彼女に向かって、隠し持っておいた短剣を突き刺す。

 顔についた血を奇跡で浄化する。転がっている彼女たちの死体を呪術で燃やす。迅速に、戦闘の気配を消すことに専念した。

 小屋を出て、下田は走り出す。焦りも、緊張も今のところない。ただ冷えた気分だけが、自分の奥底に溜まっていくようだった。

 逃げるわけではない。

 とにかく機会を作り出すのだ。祭祀場の者達へ報いを受けさせるのは、後でいくらでもできる。だが、結局はそれからどうするかが一番重要なのだ。現実へと戻る方法を探す。それを見つけることができれば、心おきなく戦いができる。

 ずきずきと、頭が痛んだ。下田は無視をした。

 目的地は、ロスリック城だ。あの大書庫になら、きっと手かがりがある。それなりに長い一人旅になるだろうが、孤独ではない。自分には、話し相手がいる。

 

「つけられてますね」

「というより、追ってきてるな」

「ばれるのは想定内だよ。誰かな」

『大方、エルドリッチの配下だろうねえ。彼らとまともに戦うのは初めてだ。いけるかい?』

「僕、ウミのそういうところ好きじゃないな」

 

 背後から迫るゾリグの大剣をかわす。 

 インベントリから、月光の短剣を取り出す。

 

「わかりきったこと、訊かないでよ」

 

 

 

 

 不死街を抜け、生贄の道に入った。そこからは、やや進行する速度を遅くすることにした。あまり急ぎ過ぎてもいけない。自分の体力とよく相談をして、あまり無理のないペースで先を目指した。

 休む時も完全に意識を手放してはいけない。少なくとも一つの意識は覚醒させておく。目もつぶらない。少なくともイルシールに入るまでは、不眠で進むつもりでいた。

 ロスリック城への行き方は二つある。白いデーモンに運んでもらう方法は使えない。彼らを使役するための旗は、祭祀場にあるからだ。

 だからもう一つの方を使う。クリムエルヒルトと行動しているときに、彼女から、どうやって先生たちがロスリックに到達したのかを聞いていた。イルシールの地下牢に、彼女の門がある。すでに消えているだろうか、おそらくつながり自体は残っている。下田の移動の奇跡を利用すれば、機能するはずだった。

 追っ手は、意外と来なかった。最初のゾリグと、坊主頭の男くらいで、あとは来る気配がない。ありがたいことではあるのだが、それはそれで妙な不安も感じた。だが、戻ることはできない。今は進むしかないのだ。

 不思議な気分だった。前にここを通った時は、周りの支援に奔走した。だからなのか、今は酷く楽に感じる。一人の方が辛いに決まっているのに、下田には周りの風景を眺めながら空想にふける余裕まであった。

 二番目に、したいことは何だろう。母に会えた後は、どうするか。彼女の手術が成功したら、一緒に寿司でも食べに行きたい。

 

「寿司か。いいね」

 

 巨大な蟹の目玉を握りつぶしながら、未来のことを考え続けた。

 

 

 

 

 太陽が、おかしい。

 感覚的に、既に儀式が間近に迫っているのはわかっていた。数日経過している。生贄の道は終わり、ファランの城塞の中程当たりまで到達していた。早いとも遅いとも言えない、無理のない速度だ。

 だが、漠然とした不安は消えていなかった。何かが大きくずれている。

 そんな気分になるのは、空のせいかもしれない。前よりも、暗くなっている気がした。太陽の色もどんよりとしている。この世界で目覚めた頃よりも、悪化しているように感じた。暗闇の部分が増えている。

 その感触は進む度に強くなっていった。カーサスの地下墓が酷かった。前から薄暗い場所だったのに、今は常に魔術の光を灯さなければ、まともに進めない。その闇に乗じて襲ってくるスケルトンへの対処も面倒だった。

 イルシールの景色が眼前に広がっても、思ったほどの解放感を得られなかった。

 橋を渡りながら、太陽を観察する。

 

「儀式は、もう過ぎている」

『感想は?』

「はあ?」

『どういう思いでいるのか、気になるんだよ。今まで何度挑戦しても乗り越えられなかった六日目を終えたんだ。感動もひとしおだろう』

「お前のそういう所も、虫唾が走るよ」

 

 橋の終わりが見えてくる。何かが襲ってくる気配はない。既に王を失くしているこの国は、ほとんど機能していないのだろう。遠目で見た時は綺麗だと思っていたが、実際に街へと近づくと、所々荒廃している。

 踏み込んだ足が、唐突に震えを感じ取った。すぐ前の地面が、崩落し始める。それに巻き込まれる形で、下田は落下していった。

 不測の事態でも、彼は冷静だった。橋の高さはかなりある。普通に落ちれば、死ぬだろう。

 事前に着地地点に魔術を置いた。そして、両足にもソウルの塊を纏わせる。体を真っすぐにして、余計な抵抗が及ばないようにした。少しでも軌道がずれれば、失敗するからだ。

 地面の魔術と、足の魔術が反発し合う。落下の速度は急激に緩和され、余裕を持って下田は降り立った。

 随分と下に来てしまった。イルシールの本城には用がないので痛手とまではいかないが、余計な手間を取らされることになるのは確かだ。

 上を見る。氷の崖がいくつも並んでいる。直接上がることはかなり難しい。周りはかなり視界が悪く、光はほとんど届いていない。魔術の光で辺りを照らしながら、屈伸を何回か繰り返した。

 今の彼にとっては、大した問題ではない。何かにつかまって登る必要はないからだ。また、魔術を使えばいい。暴発の作用を利用して、空に浮かぶこともできる。

 来たことがない土地とは言え、下田はそれほど緊張していなかった。もちろん油断をしていたわけではなかったが、ある種の安堵があった。それ故に接近する未知に気がつくことができなかった。

 反応できなかったわけではない。ただ彼の動き以上に、その手は俊敏だっただけだ。

 黒い毛むくじゃらの手が、下田の全身を掴んだ。有り得ないほど巨大な手。

 同時に、周りの地面にひびが入る。彼は何度も抜け出そうともがいたが、拘束から出ることは叶わなかった。魔術を何度もぶつけたが、確かな手応えがない。

 そのまま、下田は引っ張り込まれた。

 

 

 

 

 目を開けても、まだ暗闇だった。

 何度か瞬きをして、自分がちゃんと意識を取り戻していることを確かめた。全身が倦怠感に包まれている。一日中寝ていて、急に起きた時の感じと似ていた。

 両手を広げてみると、右手の指先に硬い感触があった。それに冷たい。氷だ。感じる気温からしても、今いる場所がイルシールからそう離れてはいないことはよくわかった。

 光を灯すと、左右が氷の壁に挟まれていることがわかる。上に向けると、どこまでも闇が続くだけだった。

 どうやら相当深くまで引きずり込まれたらしい。下田は短剣を取り出し、周囲を何度も確認した。自分を掴んだ何かが、襲ってくる可能性がある。おそらく、かなりの巨躯だ。戦ったことのないタイプ。何らかの術も使う。

 しばらく待ってみても、沈黙しかなかった。音も聞こえない。少なくとも、近くに何らかの動物がいる気配はない。

 とりあえず、上昇してみることにした。崖を登り切って、どこにいるかを詳細に確かめる必要がある。かなりの高さがあるが、ロープを使うわけでもないので、大丈夫だと考えていた。

 実際、そう苦労はしなかった。魔術の暴発を使えば、普通に走るよりも速く登っていくことができる。消耗はするものの、限界が来るまでに上へと到達することができた。

 光を、辺りに散らす。橋の残骸が見えた。やはり、イルシールであることには変わりがない。あの手に引っぱり込まれてどこに放り出されたのかと思ったが、そこは気にしなくてもよさそうだった。

 だが、ここに来て下田も今の状況の異常性を認識した。

 暗すぎる。

 崖を登り切っても、視界の悪さは変わらなかった。自分で明かりを作らなければ、少し先の様子も把握するのが難しい。空を見上げれば、黒い太陽が微かに見えるだけ。

 嫌な頭痛がしてきた。

 あまり見ていたくはない類の光景なのに、その太陽から目が離せない。妙に既視感がある。過去に、何か強烈な感情と共に、目にしたことがあるような。それには嫌な予感しかしなかった。

 

「常陽の民」

 

 ぞっと背筋が粟立ち、下田は振り向いた。声がしたのに、そこには誰もいない。

 

「お逃げなさい。貴方の半身が呼び寄せています。捕らわれる前に、早く」

 

 耳元で穏やかな女性の声がする。言っている内容に反して、やけに落ち着いている調子だった。下田にとってわからないのは、どれだけ動こうともその姿を捕らえられず、また気配も感じることができない点だった。

 

「早く。……フフフ。早く、ワタシ達と一緒になりましょうね…」

 

 声色が暗く沈んだ瞬間、下田はまた手に掴まれていた。今度は予測していたのにもかかわらず。そのことをさらに読まれた。

 引きずり込まれる。前よりもさらに、強い感覚がした。全身が狭い管に無理やり押し込められて、絞られていくような。大きな隔たりを超えた、疲労感が頭の芯を揺らしてきた。未知の感覚に耐え切れず、意識が削られていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、暗闇。

 下田は胸ぐらをつかまれる感触で、意識を取り戻した。体が無理やり揺らされている。獣のようなうめき声が、間近で聞こえる。何か切羽詰まった状況になっていることだけは理解して、まずは視界を確保した。

 眼前に、肥大した顔が広がる。特に酷いのは頬の部分で、肌が泡立っているかのように蠢き、膨れ上がっていた。崩れた口が、彼の首に噛みつこうとしている。

 インベントリから取り出した片手剣で、怪物を斬り裂いた。さらに頭であろう部分を数度刺してようやく、それは地面に崩れ落ちた。

 自分の呼吸が、乱れていくのを感じる。

 異形に動揺したわけではない。今更、暗闇から急に出てこられたところで、驚くほどのことでもない。しかし、転がる骸を見ていくと、有り得ない事実が否応なく迫ってきた。

 服だ。それはチェックのシャツと、淡い色のジーンズを身に付けている。どう考えても、この世界には似合わない見た目だった。地球の人間が着るもの。

 血にまみれたでこぼこの顔を観察する。鼻が高い。目の色からしても、欧米系の男であることは確かだった。薄い茶色の髪は、できもののせいでほとんど抜け落ちている。

 耳が、同じような呻き声を幾つも聞き取った。同じような怪物が、辺りにうじゃうじゃいる。暗闇の中でも、こちらに向かって駆けてくる足音は聞こえた。

 下田は、最悪な気分で狩りを始めた。

 出てくるのは、どれも彼と同じ人間の、成れ果てだった。戦いに適した装備をまるで身に付けていなく、たまに弾倉が空の銃を身に付けている者もいた。

 これらが、幻ではないことは確かだ。踏みしめる地面の感触もはっきりとしている。少し暖かい程度の、気温も。

 今度こそ、イルシールから遠く離れた場所に放り込まれたようだった。周りの地形を把握しようと、とにかく魔術と奇跡の光をそこら中に飛ばす。

 薄々気づいてはいた。だが、下田はずっとその可能性を考えないようにしていた。もう、ごまかすことはできない。事実を、目の前に突き付けられる。

 ある建物が見えてきた。ほとんど廃墟のようになっていて、中に人がいる気配はない。だがそんなことよりも、その建物の外見に目がいった。

 明らかにコンクリートだ。地面には、割れたガラスも散乱している。

 

「これは…」

『見て、わからないのかい?』

「訳が分からない」

『地球の生き物と、地球の建物。それが示していることなんて、わかりきっていると思うんだけどねえ』

「黙れ」

 

 下田は頭を抑えながら、先へ進むことを選んだ。

 大きな街にいるようだった。崩れた高い建物が並んでいる。無事なものは何一つとしてなく、荒廃が辺りを覆いつくしていた。瓦礫のせいで入り組んだ地形になっていて、襲ってくる敵を発見するのに遅れたこともあった。

 現代のビル。英語の看板。乗り捨てられた車。

 建物を丸ごと貫いている、飛行機を見た時、下田もついに認めざるを得なかった。

 

「アメリカ……?」

『あるいは、ヨーロッパのどこかか』

「こんな幻を見せて、僕をどうしたいんだ」

『逃避するのはやめたらどうだい?』

「いや、だって、本当にわからないよ。一体何がどうなって、こんな」

『今までで一番、危険な状況なのは確かだね』

 

 ウミに問いただそうとしたところで、下田は妙な音を聞いた。

 風の音。何かを、吸い上げているような音。それは誰かの悲鳴にも似ていた。

 光を強めると、いつの間にか囲まれていることに気がつく。すぐに武器を構えることはしなかった。相手の様子が、おかしかったからだ。

 黒い靄が、人の形をとっている。目と口の部分だけ、白く塗られているように浮き上がっていた。小さく甲高い音を発しながら、徐々に近づいてきている。

 

「これは、何だ」

『話している暇があったら、逃げた方がいいよ』

 

 動き自体は鈍い。完全に包囲される前に、下田は抜け出した。不気味な感じは拭えていない。そして靄の傍を通る時、はっきりとした声が聞こえてきた。

 それは、言葉の形をとっていなかった。下田の分からない言語だったとしても、多分、悲鳴交じりの叫びでしかなかった。何かに追われているのか、激しい息遣いだ。それが何重にも聞こえてくる。何十人もの、苦しみが伝わってくる。

 いつの間にか、自分が倒れていることに気がつく。立ち上がろうとしても、両足に力が入らず、震えるばかりだった。

 自分の身体から、白い靄が出ている。全て、黒い人型の靄に吸い込まれていた。ソウルを、吸われている。わかっていても、動くことができなかった。

 この感覚は、わかる。

 繰り返しの中で、久しく忘れていたものだ。恐怖。何かを怖いと思ったのは、本当に久しぶりな気がした。魔術の光が安定性を失い、周りが真っ暗になる。どこまでも続く闇。普通の精神状態なら、とっくに壊れているだろう。今の下田でも、まともな思考ができなくなりつつあった。このままでは取り返しのつかないことになるとしても、抗う気力が持てなかった。

 轟音が、響く。

 それと同時に靄が一斉に散っていった。いくらか気分が楽になるが、何かが羽ばたく大きな音を聞いて、危険は少しも去っていないのだと理解する。

 初め、前に降り立った存在の全容をまるでつかめなかった。徐々に、その原因をわかり始める。広げられた両翼も、爪のついた足も、赤い目を持つ顔も。全てが黒だからだ。暗闇に紛れて、赤く光る瞳だけが、威容の一部を醸し出していた。

 全身が、重くなるのを感じる。圧倒的な存在を前にした時、弱者がとる当たり前の行動を、するしかなかった。彼は平伏した。無理やり地面に抑えつけられるようにして、前のめりになるしかなかった。

 頭の中では、どうやって逃げるか。それだけしかない。

 創作物でいくらでも登場しているそれは、実際に現実のものとして相対すると、まるで違った。倒すという選択肢をあっという間に消し去る。

 黒竜は、下田になど注意を向けてなかった。耳が裂けるような咆哮をしたかと思えば、翼をはためかせ、上から降ってくる新たな存在を迎え入れようとしていた。

 彼の、後ろ。そう離れていないところに、風が吹く。翼の音がした後、足が地面に付く。下田は勇気を振り絞って、振り返った。

 それもまた、竜だった。全身が、紫色の光る鱗で覆われている。黒竜よりも欠ける部分の多い翼で、下田を煽ってきた。いや、この表現は正しくない。相手はただ降り立つための一動作をしただけだ。それだけでも、彼は必至で地面にうずくまっていなければならなかった。そうしないと、あっという間に吹き飛ばされる。

 二匹の竜は、お互いを見やった後、鼻で息を漏らしながら座った。どうやら、対立しているわけではないようだ。竜たちがお互いの存在に慣れて、周りに目が行くようになるのは、そう遠くない先のことのように思えた。すぐに、塵のように這いつくばっている男を見つけるだろう。 

 だから下田は、息を乱しながら、上に向かって奇跡を放った。ただ大きさと光だけが強くなるように調節された術が、宙で炸裂する。

 竜達の注意がそこに向かったとわかった直後、移動の奇跡を発動させる。先の座標は、正直どうでもよかった。少しでもここから遠くへ逃げられれば、それで。

 吐きそうになる感覚と共に、下田はビルの内部に出現した。

 口を押えて、呼吸音が漏れないようにする。胸を何度も叩き、鼓動を抑えられるようにする。その上で、耳をそばだてた。今のところ、何も聞こえない。竜の気配は、かなり遠くにあるようだった。明確に追ってきている様子もない。

 何とか精神を落ち着けて、今の状況を整理しようとした。だが、どこから手をつければいいのかわからない。そもそも、何かを解決する必要性はないのかもしれなかった。とにかく、元のイルシールに戻ればいい。そうすれば、あの規格外の化け物も気にしなくてよくなる。

 

「憐憫を」

 

 途中から、下田は既に行動していた。短剣を声のした方へと走らせる。月光が、喋りかけてきた何者かを照らした。

 

「カラミットとミディールは、お互いしかもう同族がいないと思っています。多少いがみあっていても、共にいるしかないやるせなさ。哀れんだ方がよろしいのではなくて?」

 

 鳥肌が立つほどの美貌があった。現実離れしすぎていて、同じ人の顔とは思えない。それは整っているからだけではなく、彼女の表情そのものが全て作り物めいているせいでもあった。

 

「そして、貴方には感謝を」

 

 首を狙う。しかし、不可視の壁によって防がれる。月光が散乱し、相手の金色の髪を輝かせた。それだけだった。刃は決して届かない。

 

「大王の唾棄すべき計画が遅れたのも、貴方の協力があってこそ。さすがは使徒。蛇や小娘などよりも、よほど我々のために働いてくれる」

「お前の、言っていることが何一つわからない」

 

 下田はやっとそれだけの言葉を吐き出した。近づいてくる女性は、先ほどから一度も瞬きをしていない。眼球が硝子玉のようで、見ているだけで不安を煽ってきた。

 

「何が、使徒だ。僕を、意味のわからない枠組みに入れるな」

「ご自分の姿を、よく見てくださいな」

 

 女性の手が伸びてくる。暗闇の中で映える白さだった。彼の両腕を示してくる。

 

「竜の右、深淵の左。我々の時代を司る要素を備えている。主も興味を示しています。だから、呼び寄せた」

「さっきから、言葉が耳を滑る。お前は何だ。何が、したいんだ」

「平等を」

 

 闇が濃くなっている。下田は額に汗をかきながら、ここから逃げ出す算段を立てていた。鬼から逃げて、虎の巣に入った気分だ。この、得体のしれない女性を殺すのが一番直接的な方法だが、何かの予感がそれを止めていた。おそらく、下田にとって最悪の結末が待っていると。

 それはこのまま待っていても変わらないと言ってもいた。

 

「世界を、あるべき状態に戻すのです。全ての者の悲願です。神を気取る大王達を排除し、差分のない時代を作る。身も心も震えることでしょう。貴方は、その中核の一部を担える」

 

 声の調子は、軽やかだった。気分が高揚しているような。だが、彼女自体の様子は、最初から何も変わっていない。それが下田自身の情動と大きくかけ離れていることを、尚更強く意識させた。この女は、人間ではない。ただそうであるかのように振舞っているだけ。

 

「ふざけるな。お前達の争いに興味はない。勝手にしてろ」

 

 移動の奇跡は使えない。もう、体力の限界が近づいている。下田は、インベントリの中から閃光手榴弾を取り出す準備をした。一瞬でも隙を作れれば、逃げ出すことはできなくもない。術では、どれも通用しない気がした。だから、地球の武器を使う。

 

「Ⅿ84スタングレード。好い選択です」

 

 女の手に、手榴弾が握られている。下田は驚愕を何とか抑えようとした。直前に彼女は、彼の横の空間に手を突っ込むような素振りをした。そこはちょうど、インベントリの保管庫があるとイメージした所だった。他人に、自分のインベントリを使われた。

 下田は魔術の暴発で横へと飛びながら、続けざまにソウルの弾丸と炎を放った。お互いに引き合わせ、軌道をより複雑にする。

 

「まあ……」

 

 全て、女性に届く前に消失する。不可視化させていた矢を三本、相手の死角にぶち込んだ。それは確かに相手へ刺さったかのように見えた。首の部分に突き立っている。

 

「どうやら、誤解なさっているようですね」

 

 だが、それは見せかけに過ぎなかった。矢は、湧き出た膿に飲み込まれていく。人形のようなうなじから悍ましい膿が漏れ出ているのは、より異常性を際立たせた。

 月光の短剣を、弾けさせる。確かに見えている点に向かって、容赦なく突き刺した。

 

「貴方に、危害を加えるつもりはないのです。ただ、名誉なことを、受け入れてもらうだけ」

 

 下田は、歯を食いしばった。

 食いちぎられた腕に、奇跡をかけようとする。しかし、発動する気配がない。喉に詰まりを感じた。沈黙の禁則をかけられたのだ。詠唱はなかったはずだ。いつの間に、やられたのだろう。

 女性は大きく裂けた口で、彼の部位を咀嚼していた。何かを見定めるかのように、表情がより曖昧になっていく。もごもごと頬を動かしながら、ゆるく言葉を紡ぐ。

 

「非常に濃厚で…重厚ですね。貴方が常人ではありえないほどの経験をしてきたのはわかっていますが、これほどのソウル。一緒になった後、じっくりと話してもらいたいものです」

「何、を」

「一蓮托生の身になる以上、紹介は必要ですね。わたくしのことは、ウーラシールと呼んでください。姫君でもよろしい」

 

 くすりと、作り物の笑顔を向けてきた。喉が動き、腕全てが嚥下された。

 下田の肉片で唇や歯の間が真っ赤になっている。その光景は、エルドリッチを思い出させた。人食いだ。この女も。

 

「ふざ…」

「最初は皆同じです。同じになることを怖がる。でも、すぐに心地良くなりますよ」

 

 ウーラシールは一歩下がる。溶け込むような漆黒のドレスをはためかせて、踵を返した。彼女の姿が闇に消えていくまで、下田は最大限の警戒をしていた。だが、同時にどうもしようのない恐怖がじくじくと背筋を蝕んでいた。

 段々と選択肢は一つしかないのではないかと思うようになる。このまま待っているよりも、戦うよりも、リセットした方がいいのではないか。やけっぱちでもなんでもなく、本当に合理的な意味で、そう考え始めていた。

 今自殺すれば、祭祀場の篝火に戻れる。きっと、そのはずだ。

 すぐに下田は、自分の短剣で喉を刺そうとした。急所を躊躇なく一突きして、一瞬で意識を失う予定だった。

 しかし、体が動かない。

 足がゆっくりと崩れていく。がくがくと震えて、自分から腰を下ろさなければ、派手に倒れてしまう所だった。背筋に汗が伝い、その気持ちの悪い感触に一瞬でも気を取られてしまえば、何もかもが終わってしまうような気がしていた。

 闇から、ウーラシールが出てくる。彼女は横にずれて、膝をついた。これから、何か神聖なことが行われるのだと言わんばかりに。

 下田は、今まで感じたことのないほどの悪寒が、全身を走り抜けていくのを感じた。近づいてくる重い足音が聞こえる度に、それは強くなっていく。最初に見えてきた、黒い毛むくじゃらの手だけで、意識が失いそうになるほど気持ち悪くなった。

 

「主よ。捧げ物です」

 

 自分の呼吸が、聴覚の大半を占める。喘ぐように息をした。何か、抵抗をしなければという意思は芽生えるのだが、体の方はまるで動いてはくれない。

 それは形容しがたい化け物だった。一番最初に目につくのは、極度に肥大した左腕だ。右の方は人間のものと同じ程度のサイズなせいで、より異常性が際立っている。両腕とも紫色の布が幾重にも巻き付いていて、その隙間から真っ黒な毛がはみ出していた。

 地面に突っ伏しながら、下田は胃液を吐いた。見てもいないのに、存在が傍にあるというだけで、押し潰される。みっともなく、涙も流していた。

 顔には、四つの赤い目玉。口は大きく裂け、灰色の歯が並んでいる。体躯の半分近くを占めている巨大な角にも、目が沢山開いていた。それらすべてが、下田に向いている。だから、彼は直視できない。直視していないのに、呑み込まれてしまいそうな心地になる。伸びている長い尻尾が地面を擦っている音だけで、全身が強張った。

 辛うじて、足の部分だけに目を向けることに成功する。発達した筋肉。逃げる自分にあっという間に追いついて踏み潰す。そんな想像が膨らんだ。

 

『立つんだ。いいかい、冷静に、恐怖を抑え込むんだ。逃げないといけない。アキヒロ、諦めない方がいいよ』

 

 ウミの緊張した声を聞くのは初めてだった。だから、これがよほど危険が差し迫った状況であることはわかる。    

 目玉が、左腕の膿に向いた。

 

「先客がいるようですが、心配しなくても大丈夫ですよ。主は、全てを受け入れると仰っています」

 

 ウーラシールは、代弁をしているようだった。下田としてはその方がありがたい。この化物がもし言葉を話せるとしたら、おそらくその声も耐えられないほど悍ましいものであることに違いないからだ。

 

「さあ…」

 

 足音がゆっくりと近づいてくる。それに下田は過剰に反応した。胸が張り裂けそうになるほどの焦燥感と共に、震えながら立ち上がった。倒れるなと、何度も自分に言い聞かせる。もう少し距離を空けてから、死ななければ。今ここで自殺しようとしても、絶対に阻止される。そんな予感がはっきりとある。

 一歩後ずさり、下田は固まった。両の足首を、闇に掴まれている。原理も何もわからない術なので、分解することは叶わなかった。

 深呼吸をしてから、彼は瞬時に両足を切断した。魔術で浮き上がった直後には、再生を完了させている。そのまま瓦礫の間を縫うようにして、疾走を始めた。 

 二匹の竜が近くなってくる。

 何とかして。

 下田はもう息が切れかけている自分を叱咤した。

 何とかして、あの竜達を巻き込めば、必ず完全な隙が作れる。自分がちゃんと、死にきれるだけの隙が。

 後ろから追ってくる気配はなかった。それでも、下田は異様な恐怖を感じていた。かなり走っているのに、少しも前に進めていないような。そんな考えが際限なくあふれてくる。

 竜達が、彼に気がつく。一度逃げたせいか、今度は正確に向かってきた。彼は自分で考えつく限りの術構成を取捨選択する。攻撃をしてきたとしても、一度だけ凌げればいい。そうすれば、おそらく自分なんかよりもはるかに気配の濃いあれに注意を向けてくれる。いや、そもそも何もしなくていいのだ。竜達に殺してもらえばいい。

 だが、その計画は直後に破綻した。右の方から急に黒い手が飛び出してきて、全身を捕まえられたからだ。

 瞬間、下田ははっきりと悲鳴を上げた。

 

「場所を変えた方が良いということですね。我ら同胞全ての前で、行いたいと。素晴らしい心遣いです」

 

 竜は、現れた化物とウーラシールを目の前にしても、平然としていた。路傍の石に向けるほどではないが、たいして珍しくもないものに対する関心だけで済ませている。 

 同胞。

 下田は、今まで考えないようにしていた可能性が、正しかったのだと理解した。彼らはお互いを良く知っているかのように振舞っている。事実、その通りなのだろう。共に戦う味方ならば、自然なことなのだ。

 魔術や呪術を、拘束してきている手にがむしゃらにぶつけた。徐々に化物の体へと近づいている。自分でもよくわからない叫び声を発しながら、それでも最大限の集中をした。

 三術を絶妙に融合させ、小さな雷を作り出す。希望を掴みたい一心で、化け物へとぶつけようとした。が、術も含めて腕が丸ごと膿に飲み込まれる。内部で炸裂させても、相手は身じろぎ一つしなかった。

 誰か。

 下田はもがいた。既に半身が、化物に取り込まれていた。

 

「やめろ…。やめて……」

「記念すべき時です」

 

 自分の喉へ、ソウルの矢を発射させる。しかし直前でウーラシールが消してしまった。

 黒い方の竜が、鼻を鳴らした。それからたいして興味もなさそうに、涙でぐちゃぐちゃになっている下田の顔を眺めていた。

 もう、なりふりなど構っていられなかった。

 

「誰か、助けて。誰かああああ! 助けてください! お願いします、助けてえええええええええ。嫌だ、こんなの嫌だ。母さん、母さん母さん母さん母さん、助けてよ。誰か僕を殺してええええ、早く、もう、……」

 

 

 

 

 

 化物の内部は、声で溢れていた。

 下田は聞く。耳が勝手に全てを拾ってくる。

 苦しみを、怨嗟を、悲痛を。

 

「早く逃げろ!」

「いやああああああ」

「何なんだ、ゾンビかこいつら」

「空港が封鎖された。本国に帰れない」

「く、食ってる。数が多すぎる!」

「大丈夫よ。ママもすぐに一緒の所に行くから」

「配給が二日もない。あっちも全滅してるんだろう」

「どうして、どうしてこんな…」

「今見たか。おい! ふざけるな! ゾンビだけ相手にすればいいんじゃなかったのか。あいつら、銃弾を…」

「化物……」

「午後二時八分、アメリカ政府は非常事態宣言を発令しました。国民の皆様は決して自分の家から出ず、救助を待ってください。繰り返します…」

「返して! その子はまだ八歳なんですよ!」

「暗闇の中にも、希望はあります。我々は神の御許に召されることで、全ての穢れから解放されるでしょう」

「くだらねえな」

「救いがたい」

「こういう時でも、人間同士で争ってやがる」

「いいですか、訊いてください。司法は崩壊しました。よって、我々は自分達の掟を定めなければいけません。罪を犯した者が裁かれないのは、崩壊への始まりです」

「開けろ。早く開けろ!」

「に、人間だと思ったら違った。何なんだあいつら。まるで―――」

「あはははははは」

「これは災害ではない。そうですね?」

「大丈夫。私は大丈夫。まだやれる。まともでいられる……」

「どうやって死ぬかを考えてる。一週間連続。記録更新だ」

「頼れるところなんて、あるのか? 二日前にラジオで聞いた。カナダの政府が崩壊したらしい。国境を超えるしか、ないのか」

「ソフィア! どこにいるの?」

「殺してくれ。妻も娘も死んだ。これ以上、何の意味があるっていうんだ」

「俺達がクズだと思っているのなら、まだ頭がいかれてない証拠だ。だが、こんなのどこにでもいる。軍隊から規律を失くすと、すぐにこうなる」

「大統領。決断をしてください。選択を。大統領……?」

「あのさ、あっちで高校の奴らが集まってるんだって。行ってみない?」

「泥水も案外いけるもんだな」

「お前を、どこまでも追いかけて、殺してやる」

「どうしても、帰らないといけない。日本を目指す」

「ごめんなさい、こんなことになるのなら、早く死ねばよかった」

「死ね!」

「あいつ、くたばればいいのに」

「貴方が背一杯苦しむことを、願ってますよ」

「殺してやる」

「糞野郎」

「人の形をしていても、考えるな。皮をかぶっているだけの怪物だ。言葉も通じない。囲んで、仕留めてやる」

「お前の腸を引きずり出してやれれば、どんなにいいか」

「苦しみを。貴方に何よりも苦しい死が訪れますように」

「産まなければよかった。あんたのせいで…」

「よくも…。蜂の巣にしてやる」

「くたばれ」

「死ね」

「死ねよ」

「死んで」

「死んでください」

「死ねばいいのに」

「死になさい」

「死んだ方がいい」

「死ぬべきだ」

「何もかも」

 

 

 ずっと、恐怖の叫びをあげていた。早くこの時間が過ぎ去ってくれることを願いながら、終わってしまうことでさらに事態が進行してしまうのを恐れていた。前後上下が不覚になり、ただ何かに覆われている不快な感覚があった。

 自分の核に致命的な侵入を許す直前、体の中で熱が発生した。馴染み深いものだった。今まで何度も味わってきた。憎悪していたはずの炎。

 だが、今は何よりもありがたく感じる。下田はその熱さの中へ身を委ねていった。ただ逃げのびたい思いだけで、今までにない行動をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (45京3122兆7654億3233万3488)

 

 

 口を押さえられた。

 全身を揺さぶられた。

 ようやく、目の前が開けてきた。

 喉が痛い。

 打ち付けられた、背中が痛い。

 

「アキ……、アキ!」

 

 眼前にちとせの顔を広がって、下田は自分がずっと悲鳴を上げ続けていることに気がついた。その場にいる全員が、何事かと近づいてきている。

 わかっていても、自分では止められなかった。だから、強引な手を使うことにする。

 ソウルの弾丸を自分の喉ではじけさせた。声帯が一瞬で破壊され、ようやく黙ることができた。血を大量に吐き出しながら。

 

「ちょっと……」

 

 そしてすぐに奇跡を施す。慣れない部分の治療だったが、数秒で完治させることができた。終わると彼はその場にへたり込み、荒い呼吸をしながら篝火を眺めた。完全に放心状態にある彼は、ちとせが幾度か声をかけても反応しなかった。

 大扉が開かれる音。それも認識しなかった。これが変なのもわかっている。多くの注意が自分に向けられている。ごまかすのはむずかしい。それほど異常な行動をしてしまった。

 それでも、下田は何も考えないようにしていた。頭を何度も叩いて、漏れ出してくる声をかき消そうとする。そうしていなければ、頭がおかしくなりそうだった。

 

「アキ」

 

 ちとせの気づかわしげな声が降ってくる。彼女が屈んできても、下田は別の事を考え続けていた。

 

「落ち着いて。あんたの部屋に行こう。何があったのかわからないけど、ちゃんと話して。そうすれば、きっと、逃がしません」

 

 耳鳴りがして、顔を上げた。

 嫌な鼓動が、再び胸を叩く。

 ちとせは無表情になっていた。

 

「私達は一緒になるのです。主は必ず貴方を捕らえるでしょう。どこまでも追いかけます」

 

 頬の一部分が肥大する。弾けて、中の膿があふれてくる。それは下田は覆いつくさんばかりに広がって、降ってきた。

 

「うわあああああああああああああああ」

 

 魔術の短剣で、相手の首をめった刺しにした。化物は倒れ、徐々に消えていく。下田はすっかり自失状態から立ち直っていた。最悪の形で。

 周りの気配が動く。気がつけば、似たような膿の人もどきに、囲まれていた。

 訳が分からなかった。

 自分は、巻き戻ったはずだ。なかったことになったはずだ。

 しかし、別の考えもあった。腕の膿は時間を遡っても構わず進行した。おそらく、それ関係のものは、次元を超えてくるのではないか。その仮説が次第に事実の様な気がしてきて、彼は絶望した。だったら、一体どうやって、逃げればいいのだろう。

 終わりがない。

 襲ってくる化物は、最初それほど強くもなかった。拍子抜けするほどだ。多少武器を扱ったりはするものの、その練度は話にならない。下田はほとんど消耗せず、術も使うことなく屠っていくことができた。

 だが、徐々に手強くなってきた。七体ほど倒してから、一気にレベルが上がった。それでも下田にとっては普通の範囲内だった。対複数戦の経験は、嫌というほど積んでいる。化物のくせに、お互いを助け合うような動きをされても、何とかなった。

 おかしいのは、弱い個体だった。それらはいくら殺しても、湧いてくる。十回ほど繰り返すと復活しても動かなくなったが、気持ちの悪い存在がそこにいるというだけで、下田の恐怖は増していった。

 

「くるな、くるなあああああああああああああああ」

 

 後半になってくると、さすがに辛くなってきた。体力が削られていくにつれて、敵も強くなっていく。

 下田はあらゆる技術を総動員して、何とかこの包囲網を抜けようとした。化物共に遠慮する道理はない。苦しみという感情があるようなので、容赦のない選択肢を取り続けた。嫌な叫び声も上げる。

 中でも、特に手強い個体がいた。決して動きが速いというわけではないのだが、攻撃が当てられない。気色が悪かった。まるで経験の上で自分の攻撃が見切られているかのようで、その普通らしさが不快だった。

 二番目に強い個体は、しぶとかった。多少攻撃してもすぐにふさがってしまう。だから、下田は雷に頼ることにした。これは、膿に対してかなり効力を発揮するらしい。それでかなり追い詰めることができた。

 が、全滅させる前に体力の限界が訪れる。

 倒れた下田は、一体に無理やり持ち上げられた。叫びながらもがくが、その拘束から抜け出すことができない。

 はっきりと、恐怖した。また取り込むつもりなのだ。あれは嫌だった。それだけは嫌だった。だが体は動かない。

 そして、何かが流れ込んでくる。それは予想に反して、とても熱いものだった。燃え盛らんばかりのソウル。下田は涙を流しながら、段々と受け入れる姿勢になっていった。

 

「シモダアキヒロ」

 

 声がはっきりとしてきた。ややしわがれた声。

 何かがおかしいと気づき始めた時、周りの光景が移り変わっていった。劇的な変化。濃く漂っていた靄が晴れていくかのように、はっきりと視界が開けていった。

 

「どんなに万全を期したとしても、何が起こるのかわからない。油断をしていた」

 

 下田を捕まえているのは、グウィンだった。彼の頬に一筋の切り傷が入っている。今までで一番、消耗しているようだった。

 

「シモダよ、見事だ。完全に我々を、欺いた」

 

 グウィン以外の者達は、惨憺たる有様だった。祭祀場のほとんどの者達の死体が転がっている。そのどれもが、酷く損傷していた。肉片や血が飛び散っていて、石の玉座も赤く染められている。

 その中において、イリーナが胸を抑えながら、あちこちを駆けずり回っていた。彼女自身は無傷だ。まだ、生きている望みのある者達を探そうとしている。しかし、そのほとんどが失敗に終わっている。奇跡の光は虚しく消えていくだけだった。

 例外の一人であるヨルシカは、イリーナに少し助けてもらいながら復活しようとしていた。だが、かなり血を流したせいか、全身が戻っても立ち上がれずにいる。それでも目だけは下田に強く向けられていた。憎悪の目。そして、苦渋も混じっている。

 下田は、全身の力が抜けていくのを感じた。徐々に、理解し始める。一体、自分が今まで何を見ていたのかを。何を見ていなかったのかを。何を、してしまったのかを。

 篝火の周辺で、生徒達が転がっていた。一向に起きてくる気配がない。しかし、意識を失っているわけでも、本当に死んでいるわけでもなかった。彼らはうずくまり、すすり泣いたり、口を押えながら震えて苦しんでいた。何の傷も見られないのに、何かを酷く傷つけられたような様子だった。

 

「あああ」

 

 下田はようやく、全てを理解した。

 ちとせは、少しだけ顔を上げて、彼と視線を合わせてきた。しかし、すぐに逸らされる。そこには、明らかに強い怯えがあった。そして大きな不信も。酷い裏切りを受けたかのような反応だった。

 

「僕は、僕は…」

 

 手に蘇る、肉を裂く感触。

 何度もした。

 自分は、何度も、殺したのだ。

 化物の幻を見ながら、ちとせを、同じ地球の生徒達を殺した。彼らが、立ち上がれなくなるまで。精神を破壊するまで。

 これだけは守ろうとした。これだけはやってはいけないと思っていた。

 そんな最後の一線を、自分はいとも簡単に踏み越えた。

 

「違う……。こんな、僕は、こんなことをしたかったわけじゃ」

「じゃあ、何を、したかったんだ?」

「何を、目的にしていたんですか」

 

 二つが、現れる。

 彼の意識達。両方とも、涙を流していた。表情を歪めずに、無のまま泣いていた。それは虚無であり、諦めだった。

 

「地球に、帰って、お母さんに、会うんだ」

「わかってるだろ」

「わかっているんでしょう」

 

 自分自身に哀れみを向けられることが、こんなに辛いとは思ってもみなかった。下田は何もかもに対して耳をふさぎたい衝動に駆られるが、自分にそんなことをする資格がないことに気がついた。そもそも、世界から何一つとして認められていないような気がしていた。

 自衛としてではなく、ただ本心からの望みとして、彼は自分の意識を断絶させた。そしてやってくる暗闇にまた怯えることになる。今までは束の間の休息だった消失の時間が、牙をむいて彼の首筋に食い込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (45京3122兆7654億3233万3489)

 

 

 

「アキ?」

 

 癖というものは、どんな状態になっても、抜けないものらしい。

 彼の両腕が欠けたと全員が認識する前に、一瞬で再生していた。だから、ちとせにとっては、ただぼうっとしている下田だけが映っている。

 それでも彼女にとっては、いつもとは違う何かを感じ取っていたのだろう。だから、心配するような声をかけてきた。

 だが、彼自身は、それに追い詰められていた。目の前の篝火が、ぱちぱちと音をたてながら火の粉を吐き出していた。その光に当てられていると、全身が温かくなっていくような気がしていた。

 

「大丈夫?」

 

 肩に触れてきた彼女に向かって、下田は微笑んでみせる。

 

「うん、平気。ありがとう」

 

 そのまま流れるように、魔術で自殺した。

 

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