火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

54 / 74
54.喜劇

  (45京8754兆2213億7755万2322)

 

 

 下田は、ソウルの矢で自殺した。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (49京3421兆6564億1286万8965)

 

 

 ソウルの弾丸で自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (57京3212兆7674億8765万7643)

 

 

 短剣で自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (78京3311兆8965億3311万5634)

 

 

 篝火の温かさに酔いしれながら、自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (90京2123兆6743億8933万3333)

 

 

 篝火の光に感謝をしながら、自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (164京3311兆3546億9366万2445)

 

 

 自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (234京6533兆7785億2234万7754)

 

 

 自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (342京7343兆6643億7875万8965)

 

 

 自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (497京5633兆8987億3244万7745)

 

 

 自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (674京5332兆8786億3231万9765)

 

 

 自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (897京3143兆7854億8743万2334)

 

 

 自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (1067京3312兆1334億7745万7333)

 

 

 自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (1563京7457兆4221億6634万7433)

 

 

 自殺する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (3垓2312京5644兆6744億3322万7854)

 

 

 気がつけば、膝をつき、祈りを始めていた。

 ずっと、見逃していたことだった。

 自分にとって、一番寄り添いたかったもの。

 篝火にむかって、下田は頭を垂れた。ひたすらに縋り付き、救ってくれるものを求めて。事実、その光と熱は闇を遠ざけた。あの恐ろしい化物の存在を、少しでも忘れることができた。

 だが、徐々に足りなくなってくる。どうしても、救いには慣れができてしまうものだ。新しい刺激がないと、恐怖が蘇ってくる。

 だから、下田は両目を潰した。

 常に暗闇を傍においておけば、それだけ篝火の素晴らしさ、炎の神聖さが際立つからだ。それに、自分で作り出した闇は、案外、心地いいものだった。常に眠りについているようで、心が安らいでいく。それはあの、おぞましい深淵由来のものとは違う。

 そして、性器も切除した。

 自分をとにかく、周りの世界から切り離しておきたかったからだ。今まで抱いてきたあらゆる欲望を消し去る必要がある。だから、その大本を失くすことにした。男でもなくなった彼は、より自分と炎だけの世界に傾倒していった。

 祈りだけが、彼の軸になっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  (231垓5326京7854兆7874億34444万3453)

 

 

 彼は祈り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (984垓2331京6743兆8997億3431万6845)

 

 

 彼女は祈り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (5463垓1257京4553兆7885億7933万3342)

 

 

 白い流れが、それぞれの軌道を維持しながら、断続している。

 やや奔放な傾向。

 下田はジークバルドらしいと、緩く笑った。ソウルの流れは、その人の性根を如実に表している。たとえ目が見えずとも、その流れを感知すれば、相手のほとんどを理解することができた。

 飽きないのは、やはり、ちとせのソウルだ。できれば彼女に直接触れて味わってみたいものだが、理由を用意するのが難しい。ただでさえ、心配をされているのだ。こんなこと言えば本当に気が狂ったのだと思われるかもしれない。

 だが、ソウル、魂が視えるのは事実だった。いつからか、祈りは自身の核に影響を及ぼしていたようだった。篝火を、炎を一心に崇め続けていたら、こうなっていた。

 そして、篝火の構造についても、理解が及んだ。そして、その使い方も。

 くすくすと笑みを漏らしながら、頬杖をつく。

 篝火での移動は、イリーナだけしか扱えないものだった。しかし、その本質を理解した今、下田はそれを簡単に行うことができる。彼女と同じ技術を身に付けたということは。彼は妙な感慨に浸っていた。つまり、彼女と同じ存在になったということだ。

 これで、いつでも簡単に全員を連れて、祭祀場から脱出することができる。時間的制約に囚われず、いつでも適当にイリーナを殺してから逃げることができる。

 

「ふふ」

 

 自分のことが可笑しかった。未だに、そんな思考がふって湧いてくる。薄く口紅を引きながら、自分を見つめてくる生徒達に顔を向けた。

 

「なに?」

 

 高坂が、我に返ったかのように頭を振った。実際にそう見えているわけではないが。ソウルがそのような形に流れているので、手に取るように分かった。

 

「言ったじゃん。目は、大丈夫だよ。前にも何回か見せたでしょ。すぐに治せる。だから、心配しなくていい」

「いや、そうじゃなくて。何だ、お前、その、女装に目覚めたのか」

「あはは」

 

 下田は自分の修道服に触れた。たしかに、これは女物だ。化粧も少ししている。

 

「違うよ。僕、ちゃんと女の人好きだもん。これは、飾りみたいなもの。こうするとさ、やりやすくなるんだ。色々とね」

 

 立ち上がり、前へと進み始めた。先にいる高坂とちとせが、びくりとして道を開けてくる。

 

「どこいくの」

 

 下田は、ちとせのソウルに見とれてから、答えた。

 

「実織のお姉さんと話しに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薫は、既に部屋で座っていた。

 下田が入っていくと、すぐに注意を向けてくる。だがそれは警戒というよりも、困惑の方が大きい。彼女から流れてくるソウルは、微妙に震えていた。

 

「急に呼び出してしまってすみません」

 

 彼女は少し無理をして微笑んでいるようだった。

 

「それはいいんだけど。下田君、どうしちゃったの。皆不思議がってる」

「いきなり本題に入りますけど、いいですね?」

 

 余計な話をする気はない、という意思表示をすると、相手も背筋を伸ばした。

 

「……いいよ」

「どうして、実織を生かしたんですか」

 

 質問の効果は、十分理解しているつもりだった。だが、予想以上に相手の驚きは強かったらしい、薫とフリーデの魂が共鳴して、少々目に痛いほどの流れができてしまっている。失敗したな、と、下田は後悔した。もう少しゆっくりと話を進めればよかった。

 

「何を、言ってるの」

「篝火に捧げられるとき、彼女だけは、無事でした。最初は本当に不思議だったんですが、貴方の事を思い出して。貴方が、祭祀場と何か取引をして、彼女の命を救おうとしたのではないかと」

 

 ソウルが感じられるようになってから、下田は余裕が生まれた。だから、燃やされる時に、周りの状況を感じることができるようになった。その時、生徒達はほぼ全員魂が破壊されつつつあったのだが、例外が一人いた。実織だけは、何の影響もなかった。今までは自分の苦痛だけで精一杯だったために、気がつけなかった事実。

 薫は、まるで怪物を見るような顔で下田と相対した。

 

「否定はしなくていいです。確証は取れているので。僕は嘘をつきました。まだ、本題に入ってないんです。貴方が自分の弟を捨てて、妹を選んだことなんて、どうでもいい。知りたいのは、過去です。貴方が今に至るまでの事情です」

 

 彼女は呼吸を数度してから、顔を押さえた。

 

「なんで…」

「訊くまでもないですよね? 僕たち全員が、関係あることだからです。お願いします。つらいのはわかっています。それでも、全部話してください」

「貴方は、一体…」

「早くしてください」

 

 十秒ほどの沈黙の後、彼女は話し始めた。

 大方、予想していた通りのものだった。彼女はアメリカで、最初期の混乱を乗り越えたらしい。侵略の、序盤を。

 

「初めは、大したことがない事態だと思ってた。政府も事態が収拾したと発表していたから。でも、それは違った。その時にはすでに、国のトップは殺されていた。奴らは、大王の軍勢は既に奥深くまで浸透していた」

 

 きっかけは、わからないらしい。ただ、気がつけば、有り得ない存在が、想像の産物でしかない化物、亡者が、はびこるようになっていた。

 最初の一週間ほどで、おおよそ七割の国が行政機能を失ったらしい。綿密な計画の上での、侵攻だった。国同士が連携して、対抗してこないよう、迅速に行われた。

 

「相手も一枚岩ではなかった。私は、サンフランシスコで、フリーデと出会った。彼女とは色々あって、協力する間柄になった」

 

 その後も、彼女の一進一退を聞くことになった。下田は、正直あまり興味がなかった。今こうして聞いているのも、最期の確認をするためだ。既に分かっていることを確かめていく作業は、あまり面白くはない。

 そして、彼女は最後に日本へたどり着いた。

 

「私は、私以外の全てを終わらせてしまった。でも、それ以外どうしようもなかった。あんなのに、勝てるわけがなかったの。だから、取引をした。彼らを認める代わりに、家族を救ってほしいと。家族だけは、見逃してほしいと」

 

 それならなぜ自分達も残っているのかと疑問だったが、そこはあまり大事ではなかった。知ったとしても、意味がないように思えた。

 自分の思い出に浸って悲しんでいる彼女を、一人にしておくことした。短いお礼だけを言い、部屋から出る。それから自分の部屋に向かって、ゆっくりと進んでいった。

 辿り着き、扉を開け。ベッドに腰かけた。

 

「なに?」

 

 プリシラは、憔悴した顔で下田を眺めていた。

 

「ごめんね。今まで色々。僕は、色々なことから、逃げてた。見たくない現実から、顔をそむけてた」

 

 彼は口を吊り上げる。プリシラが一歩後ずさった。

 

「この繰り返しからも。もっと、大事にすることにしたんだ。これから永遠に付き合っていくわけだから、ちゃんとしないとね。一回一回どう過ごすか、300兆くらいを一グループにして考えていこう」

 

 彼女は、首を振った。そのたびに、涙がぽろぽろと零れていた。

 

「だからさ、貴方ともちゃんと話したい。声を出してくれるかな。僕は、興味があるんだ」

 

 彼女は何かを話した。しかし、聞こえない。頭痛のせいで、集中が乱れた。

 

「駄目かあ。ま、いいや。これからたくさん、機会はあるわけだしね。まずはさ、ちとせに告白してこよう。多分ふられるけど。そんな気がする」

 

 立ち上がった下田に向かって、手が伸びてくる。その白い鱗のついた手が顔全体を覆ってきた。何か得体のしれない感触がしたような気がした。

 しかし、彼女は実体ではない。そのまま容易にすり抜けて、下田は扉を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 案の定、ふられた。

 考えさせて、とのことだったが、多分答えを出すのは現実に帰ってから、という考えがあるのだろう。つまり、実質告白は失敗したも同然だった。

 下田はそれでも、ちとせと関わろうとし続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何度も何度も、下田は全員との会話を続けた。どうせ六日間が過ぎれば皆忘れてしまうのに、毎回毎回同じような話、同じような展開を続けた。もちろん細かな所で工夫を施すのは怠らない。それがマンネリを招かないコツだからだ。あまり仲が良くない宇部や、丸戸のことも知ろうとした。そして、やっぱり彼らとは合わないということを再確認した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インベントリは、やはり便利だ。

 下田は手始めに音楽を始めた。楽器の種類が豊富なのはありがたい。全てを極めるまで、それなりに時間をかせぐことができるだろう。それに音楽自体も、やっていると普通に楽しい。高坂がギターを齧っていたので、その方面の話で彼と盛り上がることもできた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悪くない、と思える自分がいる。

 祭祀場の者達もこちらが友好的に接している限り、同じようにしてくれる。彼らも、使命を譲れないという点を除いては、ほとんどが良い人たちなのだ。だから、彼ら全員とも会話をした。特にオーベックとはやはり気が合った。彼と談義をかわすことはなかなか楽しい。そしてやはり、ヨルシカと仲良くすることはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かがおかしいと気がついたのは、いつからだっただろう。

 初めはほんの小さな視線の違和感だった。自分に向けられている視線の質が、何か、変化したように思えた。それは全員ではなく、一部の者達だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宇部が、近づいてくる。

 喧嘩を売るためではない。彼の表情は険しくはなかった。何かが突っかかって取れないとでも言いたげに、もどかしいような、訳が分からないような不思議な顔をしていた。

 

「どうしたの?」

 

 彼はまじまじと下田を観察している。その様子に、何か、非常に嫌な予感を覚えた。そのどこか呆けたような顔は、いつか、見たことがあるからだ。

 宇部は、周りの者達を確認するように視線を巡らせた後、下田に向かっていった。

 

「お前、誰だ? いたかこんな奴」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが冗談ではないことは、やがて分かった。

 下田は、急に捕らえられることになる。それを行ったユリアに訳を聞いたところ、祭祀場に見知らぬ者が侵入していたら、誰だってこうするといった答えが返ってきた。

 もちろん、すぐに解放された。そうした方が良いという意見が、祭祀場内で上回ったからだ。特にジークバルドが、下田を閉じ込めておくことに反対してくれた。おかしいのは捕まえた方だと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、今度はジークバルドに捕らえられた。

 解放に賛成の票は少なくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 回数を経る。

 既に半分以上の者達に、よく奇異の目を向けられるようになる。そういった相手に警戒されるたび、下田は必死に事情を説明しなければならなかった。自分は、味方なのだと。元からここにいた、存在なのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕が、わからないの」

「うんと」

 

 新宮は苦笑して、首を振った。

 

「ごめん、同じ高校だった? 私達と同じ状況なのはわかってるけど、ちょっと怖いよ。だってさ、その、今までどこにいたの?」

「ずっと、一緒に戦ってきたよ。それに、僕は、皆と同じクラスだ。戸水先生の所」

「紗奈、もしかしたらさ」

 

 実織は指を顎に当てた。下田の方を見て、同情するように目を伏せた。

 

「私達、本当に忘れてるのかもしれない。だって、こんな世界だよ。何があるのかも、わからないし」

「でも……」

「とにかく、私達は何とかして思い出す努力をしよう。ごめんね下田、私達、頑張るから」

 

 実織はそう言って、他人に向けるような笑みをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちとせはかなり憤っているようだった。

 

「ありえない。なにこれ。冗談にしても酷すぎる!」

「ちとせ…」

「だってそうでしょ、皆アキを忘れてるふりしてる。何のつもりか知らないけど、今すぐに辞めさせないと。小学生のいじめでも、こんなにあからさまにしないよ」

 

 できれば、今すぐに彼女の頬に接吻をしたかった。

 

「いいよ。本当に忘れてるみたいなんだ。多分、何か、敵の術のせいだと思う。大丈夫だよ、きっと現実に帰ったら全部元通りになるよ」

 

 言いながら、彼は動機を激しくさせていた。

 お願いだ、お願いだ、お願いだ。

 ちとせは彼の隣に座って、肩を叩いてきた。強く、笑いかけてくる。

 

「そんなに強がんなくてもいいよ。一緒に何とかしよう。もし、何とかできなくても、あたしがいる。あたしは、アキをずっと憶えてる。元気出して」

「うん。ありがとう」

 

 お願いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前に篝火がある。

 両腕が灰となって消えていく。

 下田はそれをゆっくりと観察してから、彼女の方を向いた。

 ちとせは、今までよりも一秒ほど遅く、こちらに気がついてきた。

 どうか。

 彼女は、下田の惨状を目にした瞬間、驚きを露わにする。だが、そこには心配と不安だけが含まれているわけではなかった。それには、彼自身の存在に対する驚きもあった。

 駆け寄ってくる。それは彼女の生来の性格から来ているのだろう。だから、下田がこうして大怪我をすれば、どうにかしようとしてくれる。

 

「だ、大丈夫? イリーナさん、この人大怪我してます!」

 

 たとえ見知らぬ人に対しても、助けようと動く意思がある。

 イリーナに治療されている途中、ちとせはこちらを気遣ってか、色々と話しかけてきてくれた。

 

「びっくりした。急に篝火から現れるんだもん。祭祀場の人とか?」

「…」

「でも、日本人っぽい顔してるね。私達と同じってこと?」

「うん」

「今まで、どこにいたの? よく、生き残ってこられたね」

「頑張った、から。凄く苦労したんだ」

「名前は?」

「下田彰浩」

 

 彼女は手を差し伸べてきた。

 

「じゃあ、下田。よろしくね。あたし達、現実に戻るから。一緒に行こう」

「うん」

「同い年、だよね。高校はどこ?」

「うん」

 

 下田は自殺をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベッドから半身を起こし、傍に立っている白い女性を見た。

 

「大丈夫? アキ」

 

 ちとせは、倒れた自分を運んでくれたらしい。彼女が部屋を訪ねてこなければ、もう少し硬い床で眠り続けることになっただろう。

 彼はお礼を言って、彼女が部屋から出ていくまで普通の表情を保っていた。

 それから、胸を押さえる。荒い呼吸をしながら、徐々に俯いていく。途中から、苦しげな呻きが加わった。喘ぐように呼吸をし、できればそのまま窒息して命がなくなればいいのにと思いながら、回復するのをひたすら待った。

 過呼吸が終わった後、下田はじっとプリシラを見つめた。

 

「頷くか、首を振るだけでいい」

 

 彼女は頷いた。

 

「あれは、幻だった。夢だ。実際に起きたことじゃない」

 

 彼女は頷いた。

 

「でも、正しいことだ。お前が見せたのは、この先に待っている未来だ」

 

 彼女は震えながら頷いた。

 

「この、繰り返しの能力には、限界がある。回数の制限がある。無限に戻れるわけじゃない。限界を超えれば、僕は、剥離していく。この世界から、徐々に消失を始める」

 

 彼女は鼻をすすりながら頷いた。

 その瞬間、下田は立ち上がる。その勢いに怯む彼女にも構わず、大きく詰め寄った。相手を鋭く睨みつけながら、両の拳を握る。

 

「いいか。よく聞け。もうこの回でいい。僕から、固有能力を消せ」

 

 プリシラは首を振った。

 

「もう、戻れないようにしろ」

 

 首を振る。

 

「燃やされて、魂を破壊されて、僕は死ぬんだ。初めから、そうすればよかった。それが正しい運命だった。今からでも遅くはない。やれ」

 

 首を振る。

 

「やれ!」

 

 プリシラの姿が消える。そして、少し離れた所に、再出現した。もちろん、下田はそれを読んでいた。ソウルの流れを把握すれば、造作もないことだ。だから、魔術を縄にして、上手く彼女に巻き付けさせる。実体がなくても、拘束する手段はいくらでもある。そうなるよう、詠唱を組み替えるのも一つだ。

 

「これから、お前を拷問する。僕の望む言葉が出るまで、苦しめさせる。わかるな?」

 

 彼女は首を振った。そして、必死に、言葉を伝えようとしてきた。

 声が聞こえないので、下田は最初理解をしないようにした。だが、その言おうとしている言葉が単純で、口の動きがわかりやすい類のものだったので、声がなくても意味を理解することができた。

 彼女はずっと、繰り返している。

 

 頑張って。諦めないで。お願い。

 

 下田は竜の右手を、思いっきり、横の壁に叩きつけた。岩が砕かれ、破片があちこちに飛んで行く。そのうちの一つが彼の頬を裂いたが、微動だにしていなかった。

 

「ふざけるなあああああああああああああああああ!」

 

 大口を開けて、歯をむき出しにして、プリシラへと言葉をぶつける。それは客観的に見れば、酷く醜い表情だった。激高した鬼よりも、おぞましい顔だった。

 

「何を寝ぼけたこと言ってるんだ? お前は傍で、散々見てきたはずだ。そうだろ! そうじゃないのか! ふざけやがって。頑張ってるだろうが。頑張ったんだよ。何もかもを総動員して、何もかもを犠牲にして、やったんだよ! 気が狂いそうになるほど頭を回して、実際に気狂いになりながらぶっ殺して。散々、やってきたじゃないか。何を見てたんだ。お前の目は節穴か。その顔を潰して、別のに取り換えてやれば、多少はましになるのか? どうなんだ、おい。答えろよ」

 

 彼女は唇を固く噛んでいた。そこから血が出るほどに強く。決して下田から顔を逸らそうとしていなかった。今までで一番、決然としていた。

 

「ずっと自分なんかよりも強い奴ら相手に、必死に食らいついて、全員、殺してきたんだ。どいつこいつもきつかった。もう嫌になりそうだった。それでも、先へ進んでいく度、何とかなるんじゃないかって、乗り越えられるんじゃないかって、思えてたんだ。こんな自分でも、やっていけるんだって」

 

 下田は醜く笑った。それは自分への最大限の侮蔑を示していた。

 

「その結果、どうだ? 僕は、戦いにおぼれて、見失った。傍から見れば、僕は異常者だ。いきなり儀式の始まりで行動し、どんどん殺していく。何の説明もなく。ちとせ達からしたら、僕を止めるのは当然だ。なのに僕は。それを裏切りと馬鹿みたいに思い込んで、見捨てた。その結果、どうなった」

 

 耳の奥が、じんじんする。自分の声で、耳鳴りがしてくる。

 

「結局何もわかっちゃいなかった。僕にとって、祭祀場は敵だった。でも、あいつらにとって僕は? ただの計画のための駒だ。奴らの本当の敵は、深淵だった。火継ぎを行わなければ、世界は深淵で覆われる。あの化物や、ウーラシール、竜が台頭してくる。勝てっこない。ヨルシカもグウィンも、奴らには一瞬で殺される。だから、皆一生懸命なんだ。使命に全てを注ぎ込んでる。僕は、結局、途中参加の外野でしかないんだ。計画の大詰めで消費されるだけの存在。そんなのがいくら頑張ったところで、何かを変えられるわけがないんだ。変えられたとしても、それは僕達にとっても悪い方向なんだ」

 

 火継ぎを止めなければ、自分達は死ぬ。

 火継ぎを止めれば、深淵が来る。自分達は、死ぬよりも酷い目に遭う。

 

「どうすればいいんだ。わからない。いくら考えても、道がないんだ。助かる道がないんだ。教えてよ。お前が僕をこんな目に遭わせてるんだ。何か希望があるから、それを掴み取るためにやってるんだろ?」

 

 プリシラは首を振った。申し訳なさそうに。

 下田は叫んだ。

 

「お前もわからないのに、じゃあ、どうすればいいっていうんだよ! 無理にきまってるだろうがああああああ! 自分ができないことを人に押し付けるなあああああああああああああああああああああああああ!」

 

 どれだけ近くで怒鳴っても、プリシラは動かなかった。その手応えのなさに、次第に下田は怒りが収まっていくのを感じる。そしてやってきたのは、どこまでも続く虚無感と、悲しみだった。

 下田はその場に座り込む。両手で鼻を包んで、涙が出るのをそのままに任せていた。

 

「これ以上、どう頑張れっていうんだ……。わかってる。わかってるんだよ。ぼく、僕は、今まで、僕がやってきたことは、まるで、無意味だった。目的なんて初めからどこにもなかった。あったと思い込んでいるだけだった」

 

 がりがりと頭をかいて、呻くように言う。

 

「地球は、滅ぼされた。グウィン達と、深淵の両方によって。決め手は核だった。後半の混乱した状況の中で、核爆弾が三十発発射された。策略なのかただの不信に駆られた行動なのかわからない、でもそれがとどめで、ほとんどの人類が死んだ。残りも人間でいられなくなった。こんな状況で、生きてるわけがないんだ。母さんは、癌の手術をしなきゃいけなかった。もう、死んでるんだろう。ヨルシカに殺されてる。そもそも、地球が滅びてからもう何千年も経ってる。僕は、」

 

 次から次へと涙がこぼれてきた。できればこのまま海になって、自分をおぼれさせてほしかった。二度と覚めない眠りへと導いてほしかった。

 

「僕は、もう母さんに会えない。この世界から出ることもできない。この世界で生まれたから。もう、嫌なんだ。続ける意味なんてないよ……。大事な人もいなくなった。何を目的に、戦えばいい。どうせ勝ったところで、何もいいことなんてないのに。僕は、母さんがいないと、駄目なんだ。無理なんだ。もういい。もういいよ。死なせて。殺してくれ」

 

 顔を上げると、誰もいなかった。拘束は解かれ、プリシラの姿は消えている。彼女に、逃げられたことは確かだった。その事実を確認すると、再び自分の中で感情が激していくのがわかった。

 

「プリシラ…」

 

 声が虚しく返ってくる。

 

「プリシラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア! おい、出てこい。どこにいる。逃げるなあああああああああああああ! プリシラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

 

 

 

 

 

 

 

 

 体力の限界が、やがてやってきた。下田は叫ぶことにも疲れて、ただすすり泣きながら、床にうずくまっていた。

 扉が、開かれる。

 

「尋常ではない様子ですね」

 

 見なくても、わかる。

 ヨルシカは下田の傍にまで歩いてくると、腰をかがめてきた。

 

「初めは、ちとせさんが様子を見ようとしていました。しかし、今の貴方は正気ではありません。誰かに危害を加える可能性がある」

「うう…」

「ですがそれは、私がわざわざ来た理由ではありません。貴方の叫んでいた名前に注意するべきだと思ったからです。貴方が、あの女の息がかかっているのなら、残念ですが、連れていかなければいけません」

 

 冷たい言葉と、顔を見る。

 彼女にとって、自分の母親のことは、こうしてすぐに本性を見せるほど嫌なものなのだろう。下田は思った。初めてこの女と気が合ったような気がする。

 鼻をすすりながら、目を拭う。

 

「何を、見ているのですか」

 

 思えば。

 下田は妙な可笑しさに襲われた。

 あの悪夢のような幻の中で、唯一だった。唯一ヨルシカだけは、下田の存在を忘れてはいなかった。ジークバルド達よりも、ちとせよりも。ずっと長く下田のことを認識し、変わらない憎しみを向け続けてきていた。

 実際に笑ってしまう。彼女の綺麗な眉が不快気にひそめられる。

 

「気でも狂いましたか?」

「くくく…」

「早く、立ちなさい」

 

 下田は反対の事をした。より深く頭を床に付けた。

 

「何を…」

 

 そうして、彼は今までにない行動をする。本当は相手にこうさせることを望んでいたはずだった。ヨルシカを地に這いつくばらせ、命乞いをさせる。

 だが、今はもう、なぜそんなくだらないことを思っていたのか、不思議なほどだった。

 

「お願いします。僕を、殺してください」

 

 ずっと憎んでいた相手に、嘆願をした。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連れていかれたのは、予想に反して、地下の方にある部屋だった。てっきりヨルシカの部屋で尋問されると思っていたので、不思議だった。だが、すぐにそんなことはどうでもいいという、投げやりな思考になる。

 中に入ると、ここが誰の部屋なのかすぐに理解をした。

 あまり、飾り気のない部屋だ。おそらく、持ち主の性格が表れている。何の変哲もない丸椅子に座って、グウィンは入ってきた二人を観察していた。

 

「急に伺って申し訳ありません。私だけでは、手に負えないと判断しました」

 

 ヨルシカは下田の体を軽く押す。彼は歩く気にも座る気にもなれなかったが、体は勝手にゆらゆらとベッドの方へと向かっていた。腰を下ろすと、上半身を前に曲げて、下をじっと見つめる。

 

「顔を、上げなさい。無礼ですよ」

「よい」

 

 グウィンは下田へとゆっくり向き直った。その深い瞳は、下田の苦しみ全てを見透かしているようだった。

 

「君の様子がおかしいのはわかっていた。儂と、初めて会った時からそうだったな。何か困っているのなら、話してみるといい」

 

 下田は、小さくこぼすように言った。

 

「殺してください…」

「自暴自棄になるのは良くない。君がそこまで追い詰められたのには、何か理由がある」

「殺してください」

「我々は、意味もなく殺戮を行わない。君の頼みを受け入れるのは無理だ」

「殺してよ……」

 

 下田は顔を上げる。引きつった笑みを浮かべていた。涙を流しながら。

 

「負けた」

「何にだ?」

「僕は、もう、負けました。貴方達にも、他の、全てにも。この世界の何かもに。初めから、挑むべき戦いではなかった。分相応の、行動を弁えていればよかった」

 

 だらだらと、全てを垂れ流していく。今までの事を。自分が、儀式の全てを知っていること。自らがどうなるのか。それを事前に知ったから、抵抗しようと考えたこと。祭祀場の者達に、憎悪と殺意を抱いていたこと。そもそも、そういうことを、どうやって知ったのか。巻き戻りのことも、全て。

 思えば、初めてだった。この二人に事情を説明するのは。彼らだけは、今まで一番警戒すべき敵だったからだ。だが、屈服した今では、もうどうでもいいことだった。プリシラのことも、偽ることなく、洗いざらいさらけ出した。

 大体のことを話し終えると、グウィンは頭を押さえていた。

 

「妙な感じだ。ヨルシカ、異常は?」

 

 反対に、彼女は平然としている。

 

「いえ、特には」

 

 グウィンは下田を見た。

 

「どうやら、話は終わったらしいが。儂は何も憶えていない。プリシラの仕業らしいな。だが、ヨルシカが把握しているのなら問題ない。相も変わらず、掴めない相手だ」

 

 何か明確な基準があるとしたら、それは単純な強さではないことは確かだった。グウィンでさえ欺く記憶の操作が、ヨルシカには効いていない。できればこの場でプリシラを再び問い詰めたかったが、もちろん彼女は姿を現していなかった。

 

「何度繰り返しても無駄だろう。これは、そういうものなのだ。シモダ、君がどうして苦しんでいるのか、残念ながら儂は理解をすることができない。だが、孤独ではない。わかるな? ヨルシカ、事の処理を全て任せる。その反応を見るに、我々の使命にも影響が及ぶほどの大事なのだろう」

 

 ヨルシカは、何かを言いたげに唇を尖らせた。

 

「しかし…」

「君とシモダの間にどのような因縁があろうと、関係ない。どちらにせよ彼をこのまま帰すわけにはいかない、誰かが、監視をしておく必要がある。怠ることは、祭祀場への反逆だと思いなさい」

 

 そう結んで、グウィンは目を閉じた。深い思考へと沈んでいった。

 これ以上話をする気がないことはわかったので、下田はここにいる意味を感じられなくなった。頼みの綱の一つが消えてしまったのを重い気分で受け止めながら、部屋から出ていく。その後を、舌打ちをしながらヨルシカが付いてきた。

 

「勝手に移動しないでください」

「……」

 

 彼女は下田の前に出ると、自分についてくるように、ぞんざいに手招きをした。特に抵抗する理由もなかったので、ぼうっとしながら歩き続ける。

 

「ずっと、やかましかった」

 

 移動中も、彼女はそれなりに饒舌だった。

 

「子どもみたいに叫んで、泣いて。甘ったれた貴方の愚図な精神がよく表れているようでした。そのまま黙って、儀式までくたばっていればよかったのに。私が、こんな面倒なことをしなくても済んだはず」

 

 下田は中空を見つめていた。

 

「正直、突拍子もない話です。普通なら、信じられません。ですが、あの女の仕業だというのなら、無理もない。己の目的のためなら、他人をいとも簡単に犠牲にする。気の毒でしたね。まあ、同情なんてしてませんが。貴方にふさわしい、苦しみを受けたと言えるでしょう」

 

 ヨルシカはちらりと振り返ってきた。何の反応もない下田を見てから、つまらなそうに口の端を痙攣させる。

 彼女の手がぶれた。その直後には、下田は首を掴まれて、横の壁に押し付けられていた。気道を塞がれる。呼吸ができなくなり、表情を歪ませる。

 

「死にたいそうですね」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべて、彼女はさらに首を絞める手の力を強くしてきた。

 

「望み通りにしてあげましょうか? 復活したとしても、すぐに殺せば。それを何回も繰り返せば、死に切ることができるかもしれません。喜んで、お手伝いしましょう」

「嘘つき」

 

 下田は、彼女の耳に背後から囁いた。

 すぐさま振り返ってきた彼女は、青白い刃を走らせる。反歩下がってかわし、下田は彼女の目をじっと見つめた。

 

「グウィンはどうして、お前に監視が務まると思ったんだろう。僕を殺せる確証も持てない、こんな竜女なんかに」

 

 相手の眉間に、皺が寄っていく。元々白い肌が、さらに色を失っていく。

 

「言葉に、気を付けなさい」

「気をつけるのは、お前だろ。話したはずだ。お前なんか、いつでも殺せる。こっちはもう、どうだっていいんだ。この回くらいは滅茶苦茶にしてもいい。次のお前に、忍耐を期待しようかな」

 

 彼女の手に、力が入る。

 

「試してみますか? 貴方がどれだけ経験を重ねようとも、越えようのない壁があるということを、思い知らせてあげます」

 

 妄想。

 ヨルシカと、永遠に殺し合いをする。彼女は下田のことを忘れない可能性が高い。だから、何回殺しても、憎しみと悔しさを変わらず向けてきてくれる。そのあとどうやって逃げるかも、考える必要はない。ただできるだけ長く彼女を苦しめさせる。それだけを考える。

 そんなくだらない妄想が、一瞬だけ頭に浮かんだ。行動に移せないのは、もう、下田が疲れているからだ。いい加減、全てを終わりにしたかった。

 

「嫌だ」

 

 ヨルシカは、瞬きをした。

 

「何ですか?」

「お前を殺しても、お前に殺されても、終わらない。どうせ、やり直しになる。もっと、他の方法があるはずだ。例えば無理矢理、僕からプリシラを引き剥がすとか。お前なら、それができるんじゃないか」

 

 彼女は溜息をついた。それから、肩をすくめて、前へと再び歩き始める。

 

「知りません。歯がゆいことこの上ないのですが、私には手が負えない。ですが、方法は存在しているかもしれません」

 

 予想外の言葉に、思わず下田は顔を上げた。ヨルシカは少しだけこちらを振り返って、妙な顔をする。受け入れがたい何かを思い浮かべているようだった。

 

「まさか、本当にこうなるとは。気色が悪い。……言伝を、預かっています。貴方がもし、私へ自らの殺害を頼んできたら、会わせてほしいと。そろそろです。おとなしくしていてください」

 

 最初は、エルドリッチかと思った。しかし、その可能性は既に初めから消えている。向かっている方向が、違っているのだ。ヨルシカはどんどん地下の方へと歩いていく。あの人食いのいる、塔とはまるで別の方向だ。

 彼女は何もない、廊下の途中で立ち止まった。不思議に思いながら眺めていると、何かの詠唱をする。それは間違いなく、擬態の魔術に対する反詠唱だった。目の前の壁が透明になっていき、やがてそれなりに大きな穴ができる。

 中の道の先には、鉄格子が見えていた。隙間から、わずかな光が漏れている。

 

「行きなさい。早く」

 

 ヨルシカに押されて、下田は歩き始めた。彼女がついてくる気配はない。ここから先は、自分一人で進むようだった。

 有り得ないと思いつつ、次第に心細さが募っていくのを感じた。ここは、暗い。どこに目を向けても、暗闇が存在している。目を逸らすことができない。逃げることができない。狭くて、何かがあったとしても、対応できない。

 そんな強迫観念を何とか抑えつけながら、足を一歩ずつ進めていった。あの鉄格子の先に、自分と会いたがっている何かがいる。近づくにつれて、これはヨルシカの悪質な嫌がらせで、実はとんでもない化け物と戦わせられるのではないかと、思い込むようになってきた。

 鉄格子の隙間から、中の様子をうかがうことはできなかった。なぜなら、さらに木の扉があったからだ。ゆっくりと中に入り、扉に手をかける。そのまま押し開くことに、躊躇した。未知への恐怖が、全身を固まらせていた。

 だが、一方で、わずかに漏れ出ているソウルには、惹かれるものがあった。懐かしいような、目新しいような。掴みがたい暖かな感覚にやがて包まれていき、下田はようやく動き出すことができた。

 扉を、開ける。その先は、今までよりも明るかった。

 

「プリシラさま……?」

 

 下田は口を開けながら、固まった。憑かれたような顔をした赤毛の女が縋り付いてくれば、誰だってそうなる。

 女は、どう見てもクリムエルヒルトだった。両足が切断されているせいで、這いずるしかない彼女は、下田の足元に頬をくっつけて、まるで光を見つけたかのように見上げてきていた。

 その顔は、滂沱の涙で濡れていた。

 

「ああ、なんてこと。ようやく、ようやくお会いすることができました。私です。おぼえていらっしゃいますか?」

「お前、」

「私です。アナスタシアです。貴方様の側仕えではなくなった後も、ずっと、お会いしとうございました。プリシラ様、もう二度と、どこかへ行かないでください…。アナスタシアめは、貴方様の言う通りにしました。だから、褒めてください。触れてください……」

「ちょっと、離れて」

 

 横合いから、太い腕が伸びてきた。それは真っすぐクリムエルヒルトの腹へと打ち付けられる。う、と息の詰まる音を出してから、彼女は意識を失った。赤い頭巾の大男は、倒れた彼女の体を抱えて、奥へと下がっていく。下田をじっと観察しながら。

 

「大目にみてくれる?」

 

 そして下田は、部屋の真ん中で起き上がろうとしている、相手を見た。

 彼女は、やつれた顔を向けてくる。

 

「あの人は、かなり疲れてたんだ。だから、抑圧されていたものが出てきてしまった。それよりも、貴方のことが大事。ずっと、待っていた」

 

 白髪の少女は、そう言って一筋の涙を流した。解放されたような笑みと共に。

 

「兄さん。会いたかったよ」

 

   

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