彼女は、自分のことを画家と称した。
「えっと…」
近づいて来るや否や、いきなり抱きしめてくる。だが、それに驚きこそあれど、拒絶をしようとは思えなかった。むしろ、相手のぬくもりを感じれば感じるほど、下田の中の殻に閉じこもっていたものが絆されていくようだった。
この、におい。
「…?」
今度は、少女の方が困惑し始めていた。彼女は既に満足したのか、下田から離れようとする。しかし、彼は少女の腰に腕を回し、さらに強く抱き寄せた。彼女の来ている服に皺が寄り、多少の抵抗を見せ始めても、やめなかった。
このソウル。
扉から漏れていたものと同じだ。下田にとっては、とても落ち着く色と形をしていた。
「そろそろ、話をしたいの。真面目なこと」
「君の…、君からは、いいにおいがする。どうして?」
「わたしに、訊かれても困る」
彼女を放すと、他のことにもようやく目が行き始めた。
この牢屋には、下田を除いて四名の収容者がいる。
クリムエルヒルトと画家。この二人はまだ、わかる気がする。特に少女の方は、ヨルシカが嫌いそうな見た目だ。特に服の裾から覗く鱗なんかは。
しかし、残りの二人の男達は良く知らなかった。
クリムエルヒルトを気絶させた赤い頭巾の男。彼は白い口髭を生やしていて、老人と言ってもいい年のようだった。しかし、体は厳つく、いくつもの戦いを乗り越えてきたと思わせるような立ち振る舞いを見せている。目にするのは二回目だった。地底湖で、貴樹達を逃がした咎で捕まっているというのはわかっていたが、結局どういう存在なのかはわからない。
そして、さらに不明なのが、一番奥で座っている細長い顔の男だった。肌が真っ白で、周りの明かりをよく反射している。色素の薄い顔とは対照的に、その瞳はとても濃い紺色をしていた。
薄汚れた法衣を着ているが、そんな姿であっても、強い存在感は霞んでいなかった。虜囚の身でありながら、まるで屈している気配がない。必ず自分の状況が好転すると、信じてはばからない思考が溢れ出ていた。
下田の視線に少しの間合わせてから、法衣の男は鼻を鳴らした。
「あの女は我々を苦しめて殺すことに決めたのか? こんな混ざり切った汚物を放り込んでくるとは。ただでさえ陰気のこもった場所だというのに」
「ううん。わたし達を助けてくれる、とても大事な人だよ」
「お前の妄言を聞くのは飽いた。さきほどまでのように、苦しげに寝込んでいた方がよほど可愛げがあったぞ」
下田は、画家の少女を観察した。確かに、元気があるとはいいがたい見た目だ。ここで、かなりの時間を過ごしているのだろうか。心配という感情が、久しぶりに湧いてきた。なぜか彼女に対しては、気遣ってやらねばという意識が芽生える。
「今は、大丈夫なの?」
髪を梳いてやると、彼女はくすぐったそうに首を動かした。インベントリから、一番上等な櫛を取り出す。少女の後ろに回り込み、ぼさぼさになっている髪を整えていく。
「何してるの?」
「え、何だろ。気になったから? 本当に苦しかったら、寝床も用意するよ。本当に大丈夫?」
「う、うん」
少しだけぼうっとしてから、彼女は立ち上がった。その足取りは、心配するほどでもない。しかし作業の途中だったので、下田も立って相手の頭を追いかけようとした。
「待って」
櫛を構えたまま、彼は固まる。
「時間は限られてる。本題に入りたいの」
「でも、髪がさ。話しながらでも、できると思うけど」
「とりあえず、座って」
「うん」
櫛を消して、下田はその場に腰を下ろした。少女は彼から少し距離を取って、赤い頭巾の老人の傍に座る。そこに何か、もやもやとしたものを感じた。
「貴方にとっては、私達が一体何なのか、訊きたいことはたくさんあるだろうけど。それは未来に取っておいて。まず、貴方にやってもらいたいことがあるの。とても重要なこと。私達も貴方も、救うための大仕事」
下田は興味がなさそうに視線を斜め上に向けた。
「とにかく、わたしたち全員がここから脱出することが大事。だけど、他にも条件があって……」
「僕は?」
少女と、顔を合わせる。
「なに?」
「だから僕は、どうなればいい」
「私達と一緒に、戦うの」
「うーん」
下田は苦笑する。
「話が、違うよ。僕がここに来たのは、殺されるためなんだ。完璧に。それがどうして、そんな流れになってるの。君が、僕を殺してくれるんじゃないの? その方法を知っているんじゃないかって、ヨルシカが言ってた」
少女は痛ましげに表情を動かした。
「わたしは、そんなことしない」
「じゃあ、僕、その。もう行っていいかな。癪だけど、またヨルシカと一緒に考えないといけないから。あいつ嫌いなんだけど、それしかないんだ」
「駄目。貴方は…」
「駄目って、何?」
老人が、少女の前に出た。何も帯剣していないというのに、構えてみせる。下田は、考えた。それなりに体格差がある。が、丸腰の相手を排除することは容易だ。だが、その思考は、あくまで怒りの残滓の様なもので、直後には落ち着くことができた。
「なんで、君に決められないといけないんだ? 生きる時も、死ぬ時も、自分の意志でやるべきだろ。僕は死にたいから、死ぬ。君が決めるな。言葉は、考えてから口にしろ。不愉快なんだ。そういうことされると。殺されたいのか?」
あれ。落ち着いていたはずなのに。
言葉は暴れていた。意識が引っ張られてしまう。段々と、少女が憎たらしい存在に思えてくる。自分の邪魔をしてくる存在。どうすればいいか。排除をするしかない。
少女は怯まなかった。老人の背中から出てきて、下田の目の前に立つ。
「酷く浸食されてる。苦しかっただろうね」
「何だ?」
「貴方が死にたいのはよくわかる。でも、ごめんなさい。その意思を汲み取ることはできない。貴方には、生きて、全員を救ってもらう」
「お前…」
下田はここへきて、失望と呆れが大きくなってきた。少女の大言は、無知から来るものだ。下田の実力も、周りの実力も、世界がどうなっていくのかも。何も知らないからこそ、救うなどという言葉が出てくる。
だから、彼は嘲笑を相手に向けた。
「こんなところに閉じ込められているから、まるで、状況が理解できてないんだな。確かに、僕はできる。お前達をここから出させて、火継ぎも阻止することくらいは、可能だ」
「気狂いも、ここまで来ると」
奥の細面の男が、笑い声をあげた。
「見事な余興に成り得るものだな。久方ぶりに、笑わせてくれる」
「そこそこかなあ」
下田の呟きに、男は笑みを消した。壁にもたれさせていた体を動かすと、前のめりになる。短い白髪が、何かの風に揺られている。
「どういう意味だ、小僧」
相手に、下田は流し目を送る。挑発するように。
「魔術は使う。多分、武器の扱いも相当慣れてますね。腕の筋肉が均等についている。奇遇ですね、僕と同じ双剣使いだ。でも、そこそこくらいかな。リリアーネくらいには勝てるけど、ヨルシカには負けそう。疑問なんですけど、どうしてそれくらいで一番でかい態度取ってるんですか? 僕に一瞬で殺されるくせに」
前半の方は、ほとんど反応がなかった。下田の安い言葉に乗ってくるほど、幼稚な相手でもない。しかし、ヨルシカの名が出てきた瞬間から、様子が変わった。向かってくる視線にもはっきりした感情がこもるようになり、侮蔑するような薄笑いは小さくなっていった。
「道化も、そこまでくると不愉快だな」
温度が、低くなった気がした。
「思い上がりも甚だしい」
「試してみますか? 今から武器を渡すので、殺しに来てください。僕は素手でやるので。それくらいが、ちょうどいい感じになると思います。五秒くらいはもつかな」
頬を、はたかれる。来るのはわかっていた。だが、殺意のこもったものではないので、今更労力を消費して動くほどのものではないと、彼は考えていた。
最初に涙を見せた所以外、目立った感情の起伏を見せなかった画家の少女が、初めてはっきりと下田を睨みつけていた。老人に持ち上げてもらいながら平手打ちをした後、やや怒ったように、慌ただしく下りる。
「やめて。時間が、ないの」
少女は、法衣の男にも顔を向けた。
「サリヴァーン。彼の狙いは、この場をかき乱すこと。安易に乗らないで。私達全員のためにならない」
男は憮然としたまま、再び壁に寄りかかった。
その様子を確認した後、少女は下田の側にまで歩いてくる。じれったいと言わんばかりの表情になっていた。可愛い、と素直に思う。やはり小さな子供は、感情をそのまま出している方がいい。
「自暴自棄になるのも、わかる」
「何がわかるんだ」
下田は引きつった笑みを浮かべた。
「お前は、何もわかってない。ここから出たとして、火継ぎを止めたとして、ヨルシカ達を全員殺したとして、何の意味があるっていうんだ。無駄だ。どうせ、助からない」
「知ってる」
「深淵の化物どもが来る。何もかもが呑み込まれて…、無意味になる。僕の、僕の、故郷も、地球も、この世界もそうなった。あんなのに、勝てない。何千、何万、何億。無限に、永遠に挑んだとしても、かなわない」
「知ってる」
「……そもそも、次なんてないんだ。もし、もう一回ウーラシール達と遭遇すれば、絶対に逃げられない。わかるんだ。そういう予感がする。だから、火継ぎを止めるのは無理だ。奴らから逃れるためには、火が不可欠だから」
「知ってるよ」
「…お前に、何が」
脳の中で、蠢く。膿が活発化するのを感じる。
下田は、ソウルの光球を浮かべた。それで、周りの空気が一気に緊張を孕む。赤い頭巾の老人が眼光を鋭くした。
「お前に僕のしてきたことの何が、わかるっていうんだ?」
「苦しんだとしても、まだ頑張らないといけない。貴方が本当に辛いことは」
矢を、形作る。
「理解したふりを、するな。言葉に気をつけろって、言ったはずだ。お前が、僕の何を知ってる? こんなところで閉じこもっていたくせに、何もかもわかってるみたいなふりしやがって。プリシラと同じくらい、癪に障る女だ。本当は、僕がちゃんと死ぬ方法も知ってるんじゃないか? それなのに、自分の目的のために、僕を無理矢理生かそうとしてる。そんな気がしてきた。話してくれないのなら、話す気になるまで、手段を取るだけだ」
少女は老人の制止も聞かずに、下田へとさらに近づいた。その表情は、下田の脅しに少しも怯えてはいない。むしろより強固な決意の顔をして、彼と相対していた。その顔は、前のプリシラを思い出させる。ソウルの雰囲気が似通っているだけに、下田には、段々と両者の違いが判らなくなってきていた。それがなぜかより苛立たせた。
「知ってるの」
繰り返される相手の言葉に、下田は耐えられないとばかりに吐き捨てた。
「何も、わからないだろ!」
「知ってるもん!」
予想外の大きな声に、下田は一瞬怒りを忘れて、相手を茫然と見た。今や彼女は頬を紅潮させて、涙目になっている。荒く呼吸を数回すると、少女は震え声で続けた。
「何回も、何千回も、何億回も、何垓回も、貴方は死んだ。殺された。ちとせや、周りのみんなに頼ろうとしても駄目で、貴樹先生に助けを求めても駄目。だから、一人で戦うしかなかった。どいつもこいつも、貴方なんかよりずっと強い人ばかりで、何度も嫌になって、やめようと考えた。姉さんやグウィンに勝てなくて、吐くくらい鍛錬をした。それでも…、結局は自分しか信じられなくなって、どうしようもなくなって、何もかもが無駄に終わっていく様を眺めた。わたしは…たしかに、貴方がどれだけ苦しんだが、全部を理解することはできない」
下田は、信じられないと言いたげに、首を振った。
「なんで…」
「ずっと、見ていたから。貴方が世界を描き直しても、私だけは、取り残される。記憶も保持される。何度も絵画世界に飛び込んで…、貴方についていく他なかった。途中で止められはしなかったから。それほどに、貴方と、プリシラのつながりは強固だった」
頭の中で、彼女の言葉が反響していく。音だけが広がっていって、その内容を汲み取ることがほとんどできなかった。何を言っているのか、理解できない。
「何を言ってるんだ?」
「思考から、逃げないで」
彼女が近づくと、思わず下田は一歩下がった。彼女の視線からは、どこまで行っても逃げられないような気がした。
「わからないはずはない。たとえ認識できていなくても、予想はしているはず。貴方なら、もう、理解することができる。薄々、わかっている。貴方の固有能力は、過去に戻るわけじゃない」
下田は腰を下ろした。確かに、知ることから逃げるわけにはいかなかった。それで、何かが開けてくれるのではないかと、わずかな期待が湧いてきた。
「じゃあ、一体、何なんだ」
「疑問に思ったことはない?」
少女は、彼の両腕を示した。
「なぜ、いつも最初に、両腕が欠けてしまうのか。能力の代償だけで片付けてしまうには、限定的すぎる。それに、安すぎると思わない? もし過去に戻る能力だとしたら、その代償も相応に重いはず。体の一部、それも奇跡ですぐに治せる所を捧げたくらいで、代償として成り立つわけがない」
「でも、まだある。この能力には、限界があるんだ」
「皆から忘れられるのは、あくまで副作用でしかない。もっと、両腕という部分について考えてみて。代償と考えたとしても、なぜ、腕なのか。正確には、手なのか」
彼は目を細めた。
「使うから? 手を使って、何かをしてる。もしくは、されてる」
「そう」
「過去に、戻る能力じゃない。でも、儀式の六日前に戻ってるのは事実だ。つまり、時間を飛び越えたのではなく、世界そのものを、越えた?」
「うん」
「並行世界。小説の中だけの話だと思ってた。でも、どうやって? どちらにせよ、手段が必要なはずだ。別の可能性の世界への道を開くためのものが」
少女もまた、腰を下ろした。
「待てよ、君の言ってた、絵画世界。絵画……。そうか、別に道なんて開くまでもないんだ。自分で、別の可能性を作ってしまえばいい。あるいは、描けばいい」
「うん!」
「じゃあ、僕は……。何なんだ、これは。こんなの、規格外すぎる。自分で、世界を、描いたってことなのか? この祭祀場も、そこにいる人たちも、全員、作られたってこと?」
「でも、幻じゃない。完璧に模倣された世界ではあるけど、本物と言っていい。もし、本当の本物だけしか認めないのなら、もうとっくに、何もかもが失格になっている。はるか昔から」
少女も、下田と同じように周囲をそれとなく探した。そこに、幻の誰かがいるかどうかを確かめるように。
「…プリシラか」
「そう。あの人は、竜と神の間に生まれた。でも備わっていた力は、そのどちらもはるかに凌駕するほどのものだった」
「世界を、絵画として作り出せる」
「おそらく、数えきれないほど、あの人は作品を仕上げた。最初が、真剣な目的のためなのか、それともただの戯れなのか。わからないけど、とにかく世界は何度も更新されているはず。貴方が、関わる前にも」
「更新? 変更ではなく?」
「普通の絵を描くのだって、必要なものがある。塗料が必要。世界の塗料、絵の具は、ソウルなの。人の魂、あらゆるものの魂。規模が大きくなるほど、その量は膨大になっていく。世界全てを描くために、どれだけ消費されると思う? もちろん、世界の全てのソウルだよ。彼女の塗料に、全てが吸収されて、新たに描かれる世界へと、全て移される。貴方の言う、並行世界とは少し違う。世界が死んで、世界が生まれるの。ただ、それだけ」
頭の奥が痺れている。自分で理解をしながら言葉で確認してくほどに、現実感が逆に薄れていった。
こんなの。
彼女の、力は、あまりにも強大だ。全ての生命の生殺与奪を握っているようなものだ。神にも等しい。いや、それ以上なのかもしれない。
「じゃあ…」
「そうだよ。時間に,あまり囚われない」
「別の可能性。そもそも、僕達がこの世界に来なかった可能性を…」
いや。
下田はちゃんと考えることにした。
「グウィン達が、地球を侵略しなかった、できなかった可能性の世界を描くことができれば、何もかも、なかったことになる。僕達は、日本に戻れる…」
しかし、少女は首を振った。
「できないよ」
「どうして?」
「プリシラが、なぜ、あのタイミングを最初としたのか、考えてみて」
「能力を、進化させた時」
「あの時ようやく、彼女が完全に自分の力を使えるようになった。もちろんそれより前のこともちゃんと認識しているんだろうけど、さすがに彼女でも、数千年前の地球を鮮明に描写することはできない。世界を描くのは想像もできないほど繊細な作業。莫大なイメージ全ての細部まで、完璧にしなきゃいけない」
「でも、僕が、僕達がやれば…」
「私は、あの人の力のほんの一部を受け継いでいる。貴方も、きっと同じ。でも、それだけでは駄目なの。結局あの人が主体だから。私達が変えられるのは、わずかな部分しかない」
「プリシラに、協力させれば」
「あまり膨大な作業はできない。理由は、わかる?」
下田はしばらく考えて、わからないと答えた。
少女の顔が、引き締まる。
「例外がいる。プリシラの力に干渉されず、自由に世界に入り込み、逃れることのできる存在が。深淵の存在だけは、私や、貴方と同じように、更新されずに飛び越えてくる。ソウルの根本的な法則から、完全に外れているの。だから、狭間でも存在することができる」
「狭間…」
「この世界が、一枚のキャンパスだとしたら、当然、外がある。そこには、何もない。ただ暗闇だけがある。プリシラは普段、見えない時はそこにいるの。そこで、作業の準備をしている。貴方に、世界を描かせる準備を」
下田も考え続けた。
つまり、意識が消失した後だ。篝火に捧げられた後、自分はその狭間に飛ばされている。そこで、プリシラによって、描かされている。次の世界の絵だ。
両腕が欠ける理由も、そこなのだ。おそらく、描いていく過程で、意識だけだとしても、酷使されている腕が耐えられなくなる。だから、作業が終わった時、つまり最初に戻った時、結果として両腕は無くなってしまう。
「あまりに長くそこにいると、やがて嗅ぎつけられる。深淵の恐ろしさは、知っているでしょ。もし、狭間で捕まったら、本当の意味で、終わりになる。永遠に捕らわれてしまうの。だから、プリシラが今まで描いていた絵と、大きくずれたものは作れない。できれば、少しでも変化の少ないものがいい。時間のずれも最低限にする」
「だけど、それじゃあ、意味がない。結局、辿る未来は変わらない。見てたのなら、知ってるだろ」
「うん…」
肯定したものの、少女は少しも絶望してはいなかった。むしろより、瞳の輝きは増していった。
「たとえ少しの時間だとしても、救える命があるとしたら? それを誰かとの交渉材料に使えるとしたら?」
下田も、段々とわかりかけてきた。もし、一日。一日だけでも今までの開始地点より過去に戻れたとしたら。
「火守女、か。だとしたら、先生を…」
「これだけは、覚えておいて」
少女ははっきりと続ける。
「独りだと、考えてはいけない。周りの人を頼るの。一人じゃ乗り越えられないことも、誰かと協力すれば、きっと、解決できる」
「でも、先生がいても、深淵の奴らには勝てないよ。無理だ」
そして、もし力が戻ったとしても、結局負けることには変わりない。今まで見てきた貴樹の戦いは確かに、期待を持たせるようなものであったが、それはウーラシール達と遭遇するまでの話だ。いくら彼と言えど、竜や化物に勝てるとは思えない。
「そうと、決まったわけじゃない。薪を得た火守女を最後まで守ろうとしていた彼は、当然、深淵がやってきた後のことも考えていたはず。火継ぎを阻止するということは、そういうことだから。彼にはいつも、ある種の余裕があった。この世界のことも、この世界が辿る結末もよく理解している。だから、必ず、糸口を見つけている」
「それが何なのか、わからないから、問題じゃないのか」
「それでも、頼るしかない。今の私達にできることは、彼に協力を仰ぐこと」
下田は、目をつぶりながら、今までの会話を反芻した。まだ、納得できない部分は多い。そして彼にとっては、まだ何かを続けることの意義を、ほとんど見いだせていなかった。
大きく、首を振る。
「まだ、何かできるのはわかった。でも駄目だ。知ってるんだろ。どうせ切り抜けたとしても、もう母さんはいない。……これ以上、何の意味があるっていうんだ」
少女も首を横に振った。
「だから?」
「だからって…。だって、母さんは殺されてて。それはもう、何千年も前の話だ。戻れないのなら、結局……大事な人は、残ってないんだ。何のために、生きていけばいいのかわからない」
「うるさい」
下を向いてぶつぶつ言っているのを遮られ、下田はゆっくりと顔を上げた。少女はこちらを一瞥してから、顔を逸らした。
「何だって?」
「そういうのは、聞き飽きた。恥ずかしくないの? いい年して。もうお爺ちゃんみたいなものなのに。母さん、母さんって。この、ま、まざこん」
微妙な空気が流れた。下田としては、この発言を受けて、激する気分にもなれない。だが一方で、少女の方はかなり怒っているようだった。呆れていると言っても正しい。今までとは違い、彼の方を見ることすらせずに、畳みかけてくる。
「そうやって、過去のことばかり気にしているから、ちとせにふられたんでしょ。大事な人が残ってないって、なに。また、肝心なことに気が付けてない。貴方が今まで曲がりなりにも続けられてこられたのは、本当に母親のためだけなの? もっと周りの、今いる人たちのためにも、頑張ってきたんじゃないの?」
「ちとせは、考えさせてって言ったんだ。だから、まだふられたとは」
「やかましい。今一度、よく考えてみて。貴方だけに、全てが任されるわけじゃない。でも、貴方が始めることで、きっと、皆が救われる道が開ける。それを前にして、尻込みをする理由がどこにあるっていうの? 今いる、大事な人たちを守る。私も、やるから。一緒に始めるよ」
下田は、不思議だった。
つまり母親のことは諦めろと言われているのにも等しいのに、怒りが湧いてこない。未練が沢山あるはずなのに、この時だけは、悲しさは薄まっていた。全ての鬱憤を吐きつくせたわけではない。しかし少女との会話の中で、確かに、晴れていくものがあった。
子供に、諭されているという気がしない。まるで年上の人に、親に、説得されているようだった。
一理ある。
自分は、もう、取り返しのつかないことをしてしまった。ちとせ達には、いくら謝っても足りないくらいだ。そのことは、たとえ世界が変わったとしても、関係がない。彼女達にしてしまった過ちを取り消さなければ、きっと、
会う資格がない。
すとん、と胸に落ちた気がした。自分の目的が、明確になった。全身に、力が入る。
「…?」
少女が怪訝な顔をした直後、下田は頷いていた。
「やるよ。やってやる。火守女を救おう」
「うん」
「そのために、まず、何したらいい」
少女は座り直して、再び彼と目を合わせてきた。
「時間がない。今すぐに、タカキに会いに行く。私を連れてここを脱出するくらい、兄さんにはできるでしょ」
「わかった」
下田が立ち上がると同時に、少女も腰を上げた。今一度確認するように、尋ねてくる。
「覚悟は、決まった?」
「ああ。前へ進むしかない。僕には、それが全てだ。今までも、ずっとそうやってきた」
「知ってる」
少女はふっと笑った後、ずっと長い会話を黙って聞いていた老人に、顔を向ける。彼は静かに彼女と下田の両方を見つめていた。
「お爺ちゃん、またね」
「お気を付けください」
頭を下げる。
そして下田の背に少女が掴まった瞬間、その体勢のまま言葉を発してきた。
「シモダ、頼む」
両手をつき、懇願を見せる。
「お嬢様が、こんなに生き生きとしているのは、初めて見る。お前が、彼女を守れ。それだけを望む。頼んだ」
「…はい」
下田は重々しくうなずいてから、牢の出口に向かった。最後まで、奥のサリヴァーンだけは、くだらないとばかりに目をつぶっていた。
見えない体を使えば、目的地には簡単にたどり着ける。今や下田は、祭祀場の誰にも看破されないような術構成を編み出すことができた。足音も同時に消して、少女の気配も失くして、記憶にある場所へと迅速に移動した。
一度来て、失望してからは、二度と足を向けなかった場所。
貴樹が捕まっている部屋へと、入り込んだ。
「誰だ」
五感では絶対に感じられないはずの下田達を、貴樹は確かに認識していた。彼の両眼が潰れているのを見て、下田は悟る。見えているのだ。ソウル自体は、どうやっても消すことはできない。その輝きが、貴樹にも感知されている。
少女が背から降りるとと同時に、見えない体を解除した。既にこの部屋の侵入を防止する全ての術は分解している。後は音送りを全体に広げておくだけで、誰の邪魔も入らない個室が出来上がった。
「先生、僕です。下田です」
「下田…、もう一人いるな」
「わたしだよ、タカキ」
貴樹はようやく身じろぎした。少しだけ前に進み、ベッドに乗せていた頭を動かす。視界が確保されていないのにもかかわらず、少女の位置を正確に見通した。
「どういう、ことなんだ」
「貴方を、助けに来ました。もちろん、僕達が貴方にしてしまったことは、取り消せません。それでも、償いをさせてください」
貴樹は息を吐いた。
「何だ、お前の自己満足に、付き合わされるのか?」
「いいえ。信じられないでしょうが、聞いてください。僕達は、火守女を助けます。だから、貴方にも協力してほしいんです」
「どうやって?」
少女を中心にして、やり方を説明していった。貴樹は聞けば聞くほど、笑みを大きくしていった。それはほとんど下田達を馬鹿にしているようで、ほとんど信じていないのは明らかだった。
鼻で笑った後、貴樹は上を向いた。
「そんなことに、頼れっていうのか? 下田、お前が今までそうしてきたっていう、証拠がどこにある。俺が、騙されるとでも…」
最後まで続かなかった。彼は言い切る前に、めんどくさそうに口を閉じた。そこから、しばらく間が空く。別に続ける言葉が思いつかなかったわけではなさそうだった。下田は、気配を感じる。今、貴樹は、一人ではない。誰かと、何かと会話をしているようだ。
しばらくして、貴樹は不服そうに顎で促した。
「来い」
「はい?」
「だから、近づけって言ってんだよ。俺の肩に触れてくれ」
下田はおずおずと歩いていき、彼の体に手を伸ばした。指先が、鍛えられた肩に当たる。
「で、何をしたいんだ。裏切り野郎」
『おれは、何度も、説明したはずだ』
思わず離しそうになった。いきなり知らない男の声が聞こえてくれば、誰だって驚く。それに、頭の中で響く声というものに、あまりいい思い出がなかった。
『おれがノミだ。で、あいつがグウィン』
「はあ?」
『元から二ついたってことだよ。あ、えーと、よう! 初めまして! おれは、ノミっていうんだ。このボケをずっとサポートしてきた影の主人公だな』
下田は、とにかく一つ一つを呑み込んでいくことにした。
「誰、なんですか?」
『こいつの馬鹿げた力の源さ。残り火を与えてやってた』
「おい。前置きはまだ続くのか? 眠くなってきた」
『そうだな。時間がない。タカキ、こいつの話は信用できるかもしれない。俺が、その証拠を伝えられる可能性がある』
「はあ」
貴樹の中に、確かに別のソウルがある。それは少しだけ、下田の方へと近づいてきた。
『これから、お前の記憶を見る。一瞬で終わるから、心配するな。お前の体験を知ることができれば、これ以上の証拠はない。大丈夫か?』
「別に、いいですけど」
『じゃあ、失礼』
何かが入り込んでくる感覚と共に、ノミと呼ばれているソウルは振動し始めた。よく見れば、それは、苦痛の動きのようにも見える。耳を凝らせば、その悲鳴も聞こえてくるような気がした。
確かに、一瞬で終わった。心配になってきたところで、既にノミは貴樹の方に戻っている。
「大丈夫ですか?」
『ありえねえ……』
その声は、震えていた。悲しみも、怒りも、全てが込められている。
『お前、お前は。こんなの、正気の沙汰じゃない! お前が、こうして、目の前で動いていること自体が、奇跡だ。ふざけるな。あいつは、これを……』
「やかましい」
貴樹が、不機嫌そうに呻いた。
「で?」
『…こいつの言ってることは正しい。こいつなら、お前の望みを叶えることができるだろう。これから、お前の方にも記憶を移す。きついだろうが、お前なら、耐えられるだろ』
「え、じゃあやめろよ」
一瞬、間が空いた。
『いや、証拠見せろつったのはお前だろ。見ないで、どうするんだ』
「誰が好き好んで、このガキの思い出なんぞに浸らなきゃいけないんだ? 気色悪い」
『どうしろと?』
「あ? お前馬鹿か? ひもりんを助けられるなら、何だって利用してやる。おい、下田。失敗したら、まずお前を殺してやるからな」
『おれが苦しんだ意味は?』
下田はようやく、話が進んだということを理解した。そして、貴樹のこともだんだんわかりかけてきた。今まで、この乱暴な言動は、どうしようもない現状から来るものだと思っていた。しかし、これはまさか元々の性根が素直に表れているだけなのではないか。
そして少女も交えて、どうするべきかを話し合った。問題は、貴樹もまた、世界を飛び越える必要があるということだ。彼も事情を理解したままでなければ、上手くはいかない。下田と少女だけが知っていても、合流した時に必ず不具合が生じる。それが、致命的なミスになり得る可能性が高い。
少女曰く、彼も自分達と同じことはできるという。常人なら狭間の世界は耐えられないそうだが、貴樹なら可能らしい。
「彼は一度、私の作品の手伝いをしたことがある。ソウルの受け渡しくらいはできるの。だから、助手としても必要。新しい作品を作るためには」
「具体的に、その狭間とやらに行くためには、何をしたらいい」
「私が、道を作る。描くと言ってもいいかな。でも、それだけじゃいけない。あっち側、つまりプリシラからも干渉がないと、無駄になる」
「って、ことは」
「うん。兄さん、貴方はもう一回焼かれる必要がある。儀式に捧げられる瞬間、プリシラが狭間へ引っ張り出そうとしてくる。その時が、一番近いの。その瞬間、兄さんは自分の意志で道を通らないといけない。そうしないと、結局今までと同じになる。私は、兄さんの後を付いていくだけでいい」
意識が消失したまま、腕だけを使われるということだ。プリシラの思い通りに。
「待て」
貴樹は、納得していないようだった。
「俺は? どうやって行けばいい」
「兄さん、出して」
まさかとは思っていたが、予想は的中したようだった。下田はインベントリから、山吹色の液体が入った瓶を取り出す。ここへ向かう途中、少女に入手するよう指示されたものだ。彼女は、これが保管されている場所を知っていた。
「このエスト瓶は」
ふたを開けて、貴樹へと近づける。
「篝火との、結びつきを得るためのもの。肉体が破壊され、ソウルが失われそうになっても、篝火がひきつけて、回収する。不死になることができるけど、反対に、贄の証でもある。篝火へ自分のソウルを捧げる存在になってしまう」
「よし」
貴樹は瓶の口に食らいついた。歯で瓶を傾けると、中身を全て飲み干していく。しっかりと嚥下されるのを確認した後、少女は溜息をついた。
「まだ途中だったんだけど」
「ようは、ソウルが、体から抜け出ようとする瞬間を狙うんだろ。理屈はわかる。できるだけ狭間に近づくためには、こういう荒療治も必要だってことだ」
「話が早い」
それからは、割と慌ただしかった。ヨルシカが確認をしに来るのを警戒して、下田は一度戻る必要があった。それから彼女の接近を感知できる術を地下牢に置いて、貴樹の部屋に引き返す。
下田と貴樹は、儀式の直前まで作戦を練った。お互いに何をすべきなのか。おそらく、戻れるのはかなりぎりぎりの範囲だ。迅速に行動し、上手く合流しなければ、火守女を守り切れない可能性がある。その点に関しては、下田に大きな責任が伴っていた。彼が何とかして彼女を守り、時間稼ぎをして、不死街で貴樹達と合流する。それが作戦の趣旨だからだ。
細かいところも決めている間、少女は黙々と絵を描いていた。道を作っていた。
ヨルシカは、結局最後まで再びやってくることはなかった。
下田は、自分の体内に熱が発生したのを感じる。時間的にもちょうどいいタイミングだ。儀式が始まった。
「行くよ」
既に腕が燃え出している。奇跡を重ねても意味はない。少女が示した、キャンパスへと走り出した。
「痛すぎるだろ」
貴樹もよろけながらついてくる。
正直、一見普通の絵画に見えるものに思いっきり飛び込むというのは、勇気が必要だった。だが、既に儀式は進んでいる。急がなければまた最初に戻るという焦りが背中を押してくれた。
下田は、キャンパスに飛び込む。抵抗はなく、ついた指先から一瞬で飲み込まれていった。
火に焼かれる痛みが、暗闇に包まれる恐怖を和らげてくれる。
意識が失われることはなく。本当に自然なつながりで、下田は宙に浮いていた。辺り一面が、黒と、白い小さな無数の欠片で構成されている。自分の実体を掴むのに、少し時間がかかった。
「ここは…」
まるで、宇宙だ。
「もう少し下」
少女が裾を掴んでくる。彼女に引っ張られる形で移動をした。
着いた先には、既に先客がいる。
白く、完璧な長方形のキャンパス。木の丸椅子。整えられた絵筆。それらを眺めていた女性は、やがて下田達に気がついた。
彼は、まだ、複雑な感情を禁じ得ない。だが今は、それら全てに蓋をして、やるべきことをすると心に決めていた。
プリシラもまた、気詰まりがあるような様子で伺ってきている。少女が近づいても、その目はずっと下田に向けられていた。
「わかるでしょ。協力して」
その口が開く。
「―――――――」
「そうだよ。そのつもりでこうしたの。だから、今すぐに、始めないと」
「――――――――――――」
「わかってる。そんなに変えるつもりはない。多分、ぎりぎりで終わるはず」
少女は、プリシラと会話できているようだった。しかし、下田にとってはちぐはぐなものでしかない。とにかく協力を仰いでいることはわかったので、待つことにした。
しかし、段々と思考が進んでいく。この、まるで無数の星に囲まれたような場所は、ある考えを抱かせた。
地球。
かつては、別々だったはずだ。グウィン達のいた世界と、地球のある世界。だが、グウィンはその絶対的な境界線を越えて、侵略をした。自分たちの世界を守るために。そもそも、どうやって、越えることができたのだろう。どんな術をもってしても、そんな芸当ができるとは思えない。
下田は、いつの間にか奥歯を噛みしめていた。
「お前か…?」
その声色に、プリシラが肩を揺らす。下田の視線から、やや顔を逸らした。彼は一歩、彼女へと近づく。
「お前の力としか、考えられない。本来は、交わらないはずだったんだ。だけど、お前が、地球への道を、開いた。そうなんだろ?」
苦しそうに歪められた表情が、答えだった。
「兄さん」
少女の声が遠くなっていく。徐々に、収まっていたはずの熱が胸を焦がすほどまでに大きくなっていった。
「元凶。僕達の、故郷が、人間が滅ぼされたのは、お前のせいだったんだ。お前がそんな力を持って生まれてこなければ、母さんは――――」
下田は頭に血が上っていて、鋭い蹴りをかわすことができなかった。足が彼の頬に深々と食い込み、遠慮のない勢いで飛ばしていく。衝撃で頬に穴が開き、口内も血と折れた歯で滅茶苦茶になっていった。
舌打ちをしながら、貴樹は首を回した。
「ぐだぐだと。何してんだ? ぺら回しに来たんじゃねえんだぞ。さっさと働け」
プリシラが、口を少し開けて、目を大きく開いてこの傍若無人な男を見た。
綺麗な顔に戻り、下田は立ち上がった。
「酷くないですか?」
「どうでもいいから、やれ」
「先生って、無茶苦茶だったんですね」
だが、頭を冷やすきっかけになったのは確かだった。ここでプリシラと問答をしても、意味はない。この狭間に留まっていられる時間には、限りがある。
作業は、ほとんどプリシラが担う形で行われた。下田は、ようやく実感を伴って、世界を描くということの困難さを理解する。もの凄く繊細な手順を幾つも要求された。そしてある程度急がなければならないという状況も、重圧を感じるのには十分すぎるほどだった。
だが、腕への負担は少ない。それは、三人で分担しているからだろう。話し声はなく、短い手ぶりだけで意思が共有される。同じ技術を持っている者同士の、言葉のない会話。悪くはなかった。むしろある種の感動を覚える。
今までと違うものを作る。行程の進み具合が、やや遅れているのはわかっていた。プリシラの認識が曖昧な所は、下田と少女が補完しなければならない。そうする度、作業の進む速度は目に見えて小さくなった。
それでも、確実に絵は完成に向かっていた。貴樹が居眠りをしながらソウルの筒の役割を果たしている。どれほどの時が経っているのか、普通の物差しに当てはめて考えるのは、かなり難しそうだった。
やがて、背筋に嫌な悪寒が湧く。
見られているような感覚が、強くなってきた。
少女は息を吐き出した。かなり切羽詰まっている印象を受ける。下田と、ちらりと目を合わせてきた。まずい、とでも言いたげだ。
下田も、手の動きに恐怖が現れないよう気をつけた。この感じは、覚えている。もう二度と、会いたくもない存在が近づいてきている。
二人の焦りの一方で、プリシラは一番冷静だった。彼らがミスをしそうになると、すぐに上から修正をしてくる。そういった時の姿は頼もしかったが、下田としては今までのこともあり、複雑な感情は拭えなかった。
左手の膿がかなりうずいてきたところで、絵は完成した。
舟をこいでいる貴樹を揺り起こして、すぐに絵へと向かう。
それは、完璧に、祭祀場の広場を描いていた。中央の篝火の出来が特に凄い。待っている火の粉が動いているような錯覚に陥る。
だが、できた作品を眺めている余裕はなかった。
既に、声が聞こえてきているからだ。あの、平坦な囁き。笑みが含まれているものの、ぞっとするほど感情が込められていない。それは一心に、下田を求めているようだった。再会を待ち焦がれているようだった。
「――――」
プリシラが何かを言っているようだったが、気にしている余裕はない。絵に飛び込むべく、疾走を始めた。慌ただしさの中で、これから始まるあらゆることに対して覚悟を決めている時間もなかった。ただ前に進むという焦りだけで、壁を越えようとしていた。
絵に入っていく瞬間、髪が見えたような気がした。
金色の、流れるような髪が。
「すれ違うほどに、情念も高まるというもの」
ウーラシールは含み笑いをした。
「結末は、決まっています。楽しみにしていますね」
(5463垓1257京4553兆7885億7933万3343)
いつもと、変わらない感覚。
何もない。
消失している間に、感じることはできないからだ。いつも、気がつけば、目が覚めて。否定しようのない現実が、目の前に広がる。
戸を叩く音で、下田は起き上がった。
周りを確認する。自分の部屋だ。篝火の広場ではない。
違う、ことは確認できた。後はどれくらいずれたのか。
髪を撫でつけながら、扉を開ける。その先には、ちとせが立っていた。
「あんた、まだ寝てたの?」
そのややいつもより気づかわし気な声音だけでは、まだ確定できない。下田はとりあえず、寝癖を直そうとする手を止めた。
「うん、ちょっと」
「そろそろだって。皆広場に集まってるよ」
「何のために?」
ちとせは少しの間固まった後、腕を組んだ。
「まだ、寝ぼけてるみたいだね。最後の薪が、来るんだってさ。でも、わかるでしょ? 先生が、それを許すわけがない。全員で備えるって」
この時だけは、許してほしかった。この、奇妙な達成感に浸るくらいの時間は許されてもいいだろう。少しだけ上を向いて、彼は大きく瞬きをした。
はるか遠い記憶。おそらく、ロスリック城から戻ってきて一日が経過したくらいだ。もう少しすれば、捕らえられた火守女が広場に出現する。ほぼ完璧と言ってもよかった。もしこれ以上前に戻ろうとして、描くことに時間をかけていたら、深淵に捕まっていた。
「アキ?」
目の前で手を振られて、下田は我に返った。
「あんた、本当に大丈夫? 体調悪いなら、休んでてもいいよ。あたしが話しておくから」
「いいよ、大丈夫」
下田はゆっくりと深呼吸して、震える指を抑えた。
「先に行ってて。ちょっと、やることがあるから。すぐに行くよ」
時間との勝負だった。
まずは少女のいる地下牢に行って、彼女がちゃんと理解をしているか確認しなくてはならない。その点は、成功していた。画家の少女は完璧に状況を把握していた。それだけ分かれば十分だったので、下田は一作業をした後、すぐに次の目的地へと向かった。
『わかっているね?』
「ああ」
まだ、いくらか顔色がましな、カルラがこちらを見てきていた。修練中に倒れてから少しの間寝込んでいたのだが、小康状態で一旦落ち着いたのがこのタイミングなのは、ありがたい。
「アキヒロ? どうしたんだ。他の者達はもう」
迅速に、カルラの体を探る。彼女は仰天して弱々しく抵抗してきたが、その前に、彼女の両足にあることを探り当てた。
ローブを魔術で斬り裂き、剥き出しになった足を見る。彼女の両足は、膿に浸食されていた。しかし、おそらくエルドリッチのものではない。彼女はまた別の方法で、深淵に触れてしまったのだろう。
これは、別に、彼女を助ける意思があって行うわけではなかった。自分のためだ。資格を得るためには、仕方のないこと。
下田の左の膿が変形し、カルラの足と繋がる。そして、一瞬で搾取を終えた。
彼女自体は、何も感じていないようだった。ただ理解をしていない顔で、下田の行動を眺めている。
「何を…」
終えた下田は、出ていく直前に、少しの間立ち止まった。
「さようなら」
『どうしたんだい?』
見えない体を駆使しながら、下田は全速力で走っていた。もう、火守女が現れた頃だろう。急がなければ、間に合わない。
ウミは怪訝そうに話しかけてくる。
『広場の方向じゃないよ。どこに行くつもり?』
「回収できる膿は、あれだけじゃない」
『ああ…、なるほど。けど、いいのかい?』
足を止めずに、進み続けた。
やるべきことの多さと、時間の量がまるで噛み合っていない。
武器の調達、事前の仕込み。
万全とは言えないかもしれないが、十分な準備をできたと判断した所で、広場へと足を踏み入れた。
「そんなことを、する必要が本当にあるというのですか?」
ヨルシカと、宇部が、議論をしているようだった。周りの者達はそれを黙って聞いている。生徒達はほとんど、あまり気の進まない様子だ。
あとから入ってきた下田に、全員の視線が向けられる。その中には当然、篝火の側で膝をついている火守女のものも含まれていた。髪の隙間から覗く片目が、下田を捉えた瞬間、大きく開かれる。イリーナも、同じような反応を返してきていた。
「すみません、遅れました」
彼女達の視覚を欺けないのは当たり前だ。いくら擬態でごまかそうとも、ソウルを見透かされれば容易に看破される。それでも、二人の火守女は何も言ってこなかった。今はそれが、かなりありがたかった。
宇部は、下田を一瞥した後、すぐにヨルシカへと向き直った。
「できることは、何でもやるべきだ。あいつの動揺を誘えれば、それでいい」
「しかし、いくら何でも足を切り落とすというのは」
この会話も、知っている。
火守女を傷つけて、それを見た貴樹がどう思うのかは明らかだ。その時の生じた隙を狙う。まるで宇部が全て考え出したような雰囲気だが、今となってはやや事実と違っているのもわかっていた。
ヨルシカは、さも、気が進まないように振舞っている。しかし、この二人の口論はどこか作り物めいていた。初めから、火守女の足を切断することは決まっていたに違いない。あくまで下田達が納得しやすくなるような回りくどい流れを作るために、そうしているだけだった。
かつての下田は、ただ黙って傍観していた。自分が口を出しても、何も変わらないと思っていたからだ。結局傷つける方向に話が決まっていても、自分の中で生まれる罪悪感の対処で精一杯だった。
先生が、自分達を嫌になる理由もわかるというものだ。
だが、今度は違う。遅れてしまったが、やり直しの機会を得た以上、もう、躊躇いで後悔を残すことはしたくなかった。
うずくまる火守女の下へ、宇部が歩いていく。彼の表情は醜く歪んでいた。少なくとも、彼女を傷つけることに抵抗がないことは確かだった。大振りの剣を構え、細い足に狙いをつける。
宇部の振り下ろした大剣に、正確にソウルの矢をぶつけた。軌道がずれて、刃は彼女の肩のすぐ横を通り過ぎる。
「あ?」
宇部自身は何が起きたのか理解していないようだったが、それ以外の者達は全員、下田が邪魔をしたのだと把握していた。再び多くの視線にさらされた下田は、意識の切り替えを行う。ここが心休まる安全地帯ではなく、れっきとした戦場なのだと。
ヨルシカが、静かに言う。
「何を、しているのですか? シモダさん」
取り除かなければならない障害の一つ。
暗月の誓約。
これのせいで、あの竜女との戦闘が非常に面倒になる。今まではヨルシカ自身を殺すことでしか消せないと思っていた。だが、誓約というものの性質を考えていくうちに、まだ、選択肢があるということに気がついた。
要は、乗り換えだ。新しい誓約を結べばいい。これで、ヨルシカとの不都合なつながりは消えていく。
「てめえ、何のつもりだ?」
宇部が大仰に足音を立てながら、近づいてくる。下田も彼に向かって歩いて行った。正確には、篝火の側へ。
相手が胸ぐらをつかもうと手を伸ばしてきた瞬間、下田は握りしめていた右の拳を動かした。多少は手加減したものの、竜の膂力で殴り飛ばされた宇部は、叫ぶ間もなく地面を転がっていく。
こちらを見上げている火守女を見て、彼は一瞬考えた。
一度は見捨てた彼女に、自分がそうする資格はあるのかと。
しかし、一方でこうも考えた。
自分は、灰だ。灰。捧げられ、燃やされた後に残るもの。滅びの後の残留物。自分達は、地球を、同じ人間のほとんどを滅ぼされた中で、残った存在。まさに、灰だ。そう呼ばれるのにふさわしい。
相手の中のソウルを見る。篝火の炎が、今は愛おしく感じる。
今までの繰り返しの中で、一番したことは何か。時間を、費やしたものは何か。
それは祈りだ。
篝火に縋り、守られる一方で、守っていた。そのおかげで、ソウルが見えるようになった。ソウルを、扱えるようになった。
だから、自分は、火守女だ。
火守女であり、灰なのだ。
唱える。
「誓約。火守女の灰。僕は彼女を、守ると誓います。彼女のことを一心に愛する人へ託すまで」
深淵がやってくるまで、七日と少し。
下田は宣言し、己の全てを懸ける、一週間を始めた。