「褒めてやらんこともない」
草野の頭を、隣にいた芳野が叩いた。
「いだっ」
「何偉そうに言ってんの。お前、何もしてないじゃん」
「んだよ。せっかくいい感じな流れになってたのに。空気読めてねえな~」
「それは草野じゃん」
久慈も突っ込んでから、下田に笑いかけてくる。
「本当に頑張ったと思うよ。ありがとう。ちとせが寂しくならないようにしてくれて。やるじゃん。下田になら、任せてもいいね」
「でも、でも」
彼は涙を流すばかりではなく、子供のように嗚咽を漏らした。視界が歪んで、もはや懐かしい仲間達の姿をよく認識することができない。
「僕は、みんなを助けることができなかった。みんなは、僕を信じてくれたのに。何も、できなかった。いいように騙されて……、結局」
「下田は、自分ができる限りのことを、したんだと思う」
国広は元気づけるように微笑んでくれた。
「俺が抱いた疑念を、ちゃんと事前に話しておけばよかった。祭祀場を信用しちゃいけないって。でも、怖かったんだ。もし本当にそうだったら、俺達には希望はなかった。そんな状況を、下田はひっくり返したんだ。凄いことだよ」
「ひっく、うう……」
ただただみっともなく泣きながら、内心では自身への嫌悪が強くなっていた。本当に、卑怯な奴だ。自分を騙すことばかり上手くなっていく。
「もう、どうしようもないよ。せっかくここまで来たのに。これ以上どうすればいいのか、わからない」
下田は頭を抱える。
そして俯いた視線の先に、手が伸びてきた。顔を上げると、草野が不敵な笑みを浮かべている。非常に郷愁にかられるものだった。授業をさぼる時とか、ちょっとした悪戯を仕掛ける時に見た顔だ。何度も見た、表情だ。
「今までだって、壁はあった。そうだろ? それでも彰浩は、乗り越えてきたんだ」
芳野は腕を組んで、大きく頷く。
「普通なら、諦めるのにさ。続けてこられたんでしょ。見直したよ」
久慈は優しく、下田の肩を叩いた。
「でも、前とは違って、今は一人じゃない。私達がいる」
国広は力強い瞳を、下田の顔に向けてくる。
「俺達の力も使ってくれ。託すよ。皆の無念を……、晴らしてくれ」
既に、芳野の探知能力は利用していた。もし他の者達のも使えば、かなり、戦略の幅は広がるだろう。打開の一手になり得るかもしれない。
草野の手を、下田はしばらく眺めた。色々な感情がごちゃごちゃに混ざり合っていた。どうにもならない悲しみと、たとえ生死の狭間の中でも、彼らと会えたことの喜び。そんな皆と協力できるという、懐かしさと嬉しさ。
そして。
いつの間にか、短剣を握っていることに気がついた。特に驚きはなかった。ここはそういう、空間なのだ。「外」では、まだ時間はほとんど経っていないのだろう。
そのまま下田は流れるように、短剣を己の片目に突き立てた。
草野達は驚いて、身を引く。
しっかりと刃の先でかき回し、眼球を執拗に破壊していく。血が頬を伝い、顎の先から地面へと落ちていった。
「彰浩……?」
戸惑いの声を上げる草野を視た。
どうしようもない笑いが、こみ上げてくる。
「あはは……」
わかってはいた。
あり得るはずがないのだ。
「凄いよ。本当に、凄い。お前は本当に、誰かを騙すことが得意だな」
「何を、言ってるんだ」
国広が本当に理解できない、という顔をしている。正常な片方の視界でそれを見た。
思わず感心もする。
「もういいよ。上手いなあ。こういう状況で、草野達がこんな形で出てきたら、思わず、言う通りにしちゃうかもね。でもさ、わざとなの?」
下田は、狂暴な笑みを浮かべた。刃で刻まれた片方の目に触れる。
「これ全部、空っぽなんだけど。表面だけ似せて、どういうつもり? さすがに怒るよ。それは彼らに対する侮辱だ。隠れてないで出て来いよ、ウミ」
短剣を走らせ、素早く全員の首を掻き切った。実体はないはずなのに、草野達だったそれらはちゃんとした形で死んでいく。そして全員の死体が、やがて溶けた。それらは一つに集まっていき、また人間の形を取り始める。
いや、人間ではない。
臀部から、尻尾が生えていた。
「あのさ…」
「まあまあ。そう怒らないでください。シモダさんは本当は優しい方だと、私もわかってますよ」
「その姿だと、勢い余って殺しそうなんだけど」
ウミは、ヨルシカの姿をしていた。
その美貌を綺麗に歪ませて、卑しい笑みを浮かべる。
「へえ。本当に? 本当に、そういうつもりなのかい?」
「そっちの問答に付き合う気はない。ほんと、油断できないな。結局は僕の体目当てってわけだ。宿主がどうとか言ってたくせに。成り代わる気満々じゃん」
「ちょっと、そんなこと言わないでよ。あたしは、全部、アキのことを思って行動してるんだから」
今度は、ちとせだ。
「どこがだ?」
「もう、アナタの手に負える事態ではなくなっている。負けるよ? 確実にね。だから、助けようと思ったんだ。ワタシがもっとアキヒロの奥底に入り込めば、力を得られる。器としての限界を超えた、四つ目の意識が誕生する。それがどれだけ戦いに影響を及ぼすか、わかってるだろう?」
「またその話か。嫌だって、何回も言ってるはずだよな」
「でも、彰浩には死んでほしくないの」
「おい」
たちが悪かった。
それは、入院していた頃の姿ではない。
まだ働いていて、家事もたくさんこなしていた頃の母だ。使い古されたエプロンを着て、腰に手を当てている。こちらを心配しながらも、少しだけ怒っているという表情は、まさに瓜二つだった。
「アナタが生き残るためには、もっと、強くなる必要がある。その助けをしようと思ってるんだ。悪い話じゃないだろう?」
「論外だ。消えろ」
相手の企みはとっくにわかっている。自分でも言っていたはずだ。これ以上脳に膿が浸食すれば、下田は取り返しのつかないことになる。おそらく、死んだも同然になる。それだけは、容認できなかった。
母の姿をしたウミは、肩をすくめた。
「大丈夫かい? アナタって別に、自殺が好きなわけでもないはずだけど」
「お前は、ちょっと勘違いをしてる」
下田は自分を鼓舞するように、胸を叩いた。
「別に、勝たなくていいんだ。時間を稼げればいい。先生が来るまで、持ちこたえるだけでいい」
「ふうん。じゃ、頑張ってみるといい。ワタシはいつでも歓迎するよ」
「待て」
どろどろに崩れたウミに向かって、背中を向けながら言う。
「うん?」
「時間を、作ってくれたのはありがたかった。僕は、偽物だったとしても、皆の前で懺悔することができた。おかげで、色々整理できたよ。ありがとう」
「言葉ではなく、行動で示してくれたらいいんだけどねえ」
「ばいばい」
ウミもまた、手を振ったようだった。
「健闘を祈るよ」
口が辛うじて残っていたのは、僥倖だった。
「太陽……」
特徴的だったのは、その詠唱の一部が、今でも意味の通じる単語だったことだ。大抵の詠唱は、直接単語を言っても効果がない。これはおそらく、術的土台が作られた時代と今では、詠唱に関する言語体系に大きな差異があるためだ。
だが、その中においても、「太陽」を意味する言葉は、変わっていないようだった。古代より、ただ一つの意味で使い続けられてきた。
太陽の光の癒し。
存在する治療系の奇跡の中でも、最高峰の術をかけていく。
下田の残骸の周りに、山吹色の陣が広がる。転がる全てを覆いつくすようにして、眩しい光が散っていった。
一番治りの遅い右腕から先の部分も、一秒ほどで完治する。そして、半身を起こす。手で目を覆っていたちとせが、ちょうど顔を完全にさらすところだった。涙で汚れている、顔を。
「うそ……、アキ…」
「そんな。このようなことが」
イリーナも呆気に取られているようだった。今まさに下田へ奇跡を施そうとした、という体勢のまま固まっている。
当たり前のように自由になっている彼女へ、疑問を抱きかけた。しかし、すぐに答えは出る。自分は一度死んだようなものなのだ。固有能力が効果を切らしても、不思議はない。
彼はこの街に出てから、ある術を最初にかけていた。
惜別の涙という。
これは、瞬間移動の術と並んで、その習得に困難を極めたものだった。もし、即死するような傷を受けたとしても、一度だけ、死を前に踏みとどまることができる。その効果の凄まじさに違わず、気力の消費も膨大だ。
もう、これを使わせられた。
半分ほどの気力が、一気に持っていかれたのを感じる。それに加えて、全身の治療もした。あとどれくらい、術を扱えるか。限界が来るのはそう遠くないように感じる。
立ち上がると、異様なほどの吐き気を覚えた。それはきっと、大術を使った後の反動だけではない。死から辛うじて舞い戻ったという、重い事実に精神が削られただけではない。
「王。我らの王よ」
ユリアが、こちらに向かって頭を垂れていた。右肩はごっそりと持っていかれている。骨が剥き出しになっている。また左足も滅茶苦茶に潰されていて、既に戦える状態ではないことは明白だった。
だが彼女はまだ、刀を握りしめている。
「お逃げください。御身以外を全て捨て、少しでも遠くへ。どうか、我らの大願を叶えてください。貴方さえいれば、続きます。どうか……」
画家の少女が泣き叫んでいる。自らをずっと守ってくれていた存在へと走り寄ろうとする。しかしその途中でサリヴァーンに拾われ、乱暴に放り投げられる。
ゲールの首を上に掲げると、獅子は雷を放った。それが貫通した首級は、一瞬で原型も留めない塵へと変わっていく。司令塔を失った元奴隷騎士の体は、既に穴だらけになって捨てられていた。そういう結末が、似合いだと言わんばかりに。
同時に、サリヴァーンの上半身も巨大な槌に潰された所だった。もし法王が何も行動しなければ、そうなっていたのは画家だった。
「あ~、もう。やだやだ……」
下田は自分の武器の状態を確認した。片方は無事だ。当たり所がよかったのか、柄部分にしか損害は見当たらない。つまり、あの雷の槍をまともに受けたのは、もう片方の短剣だったのだろう。
月光の一振りは、無残に破壊されていた。柔軟性に富み、幾度の衝撃にも耐えていたその刃は、粉々になっていた。
先生。
下田は喘ぐように呼吸する。
お願いします。
早く、来てください。
お願いします。
早く……、はやく。
何とか、食らいつきますから。
全霊をもって、貴方の大切な女性も守りますから。
リリアーネが、こちらを振り返っていた。下田の姿をその瞳に焼き付けるかのように。大きく目を開いて、じっと見てきていた。その表情は波一つない。ただその口元だけが、少しだけ緩んでいた。わずかに動いて、何かしらの言葉を形作る。
逃げて。
彼女の首が飛んでいく。地面に転がったそれに対して、十字槍を振り切った獅子の騎士は少しも注意を払わなかった。その視線は、立ち上がった下田に向けられている。
出血で倒れたユリアから、透明な刀を拾い上げる。止血も行う。
下田もまた、相手を直視した。そうするよう、努力をした。
「灰というのは、存外、稚児に近いようだ」
金色の巨漢はつまらなそうに槌を担いだ。
「大王様を弑したのは、他にいるかもしれんな」
「そこの」
横にいる獅子は、下田から目を外し、手を地面についているヨルシカに顔を向けた。彼女は視線が向けられたのを理解する間を作ってから、大げさなほどに、肩を震えさせた。下田の距離からでもわかるほどに、全身を恐怖で強張らせていた。
「婢女。貴様の体たらくには失望を通り越し、虚を感ずるのみ。だが、相応の罰は受けさせる。その体、忌まわしき血の全てを吐き出させ、清浄なものに替えてやろう」
「は……」
ヨルシカの声も、押し潰されたかのように萎えている。
「も、もうし、もはや、何の、申し開きもございません。で、ですが、どうか御慈悲を。オーンスタイン様……」
下田は、妙な納得をしていた。
彼女が絞り出した名には、憶えがある。
竜狩りオーンスタイン。
グウィン王直属の四騎士。神代の頃、竜との戦争が全盛を迎えていた時、大王の下でその武を遺憾なく発揮した者達。その中において、長を務めた傑物。記録によれば、名も知れぬかの長子よりも多くの竜を屠ったとされている。はるか昔に起きた大戦で死んだという説が大半だったが、たった今覆されたわけだ。
では、横にいる巨体の素性にも察しがつく。
処刑者スモウ。
神代の後期において、ようやくその名が記され始めた。その残虐さと力で、多くの王家の敵を刑していたとされている。オーンスタインと組み、共に戦うことが多かったらしい。
彼は、あまり予想をしていなかった。考えないようにしていたというのが、正しいかもしれない。
老いていたとはいえ、神とも称される大王。あの六日間の中で戦ったグウィンよりもはるかに強大な存在が、二体もいるとは。誰だって、考えたくはない。
詐欺のようなものだと、下田も考えていた。普通、王様が一番強いのではないのか。都合の良い考えなのはわかっている。それでも、強かったのだ。あの老グウィンは、最後を飾るにふさわしい実力を持っていた。ラスボスだった。
それなら、目の前の存在は何なのか。
裏ボス?
続編へと辻褄を合わせるための、デウスエクスマキナ的舞台装置?
もっと、理不尽な何かだ。
右手でユリアの闇朧を構える。その刀身に沿うようにして、左の月光の短剣を擦らせた。薄い緑の光が一瞬だけ強まり、静寂の中へと溶けていく。自分の精神もまたその状態に合うようにしようと努めた。
状況は、最悪ではない。
自分は生きているし、ユリア以外の戦える者達が死に絶えただけに過ぎない。
いや、正しくはないようだ。下田は短剣で片目をそぎ落とした。あの一瞬のウミとの対話と同じように。そして、リリアーネのソウルがまだ彼女の遺骸に留まっていることを把握した。
彼女もまた、囚われているらしい。完全に死にきることができない。治療すれば、きっと、息を吹き返すのだろう。だが、今それをしたところで意味はなかった。そもそも、相手がそうさせてくれるはずがない。
ちとせ達が悲鳴を上げた。下田から思わずといった形で身を引く。
擬態は既に完全に解いている。半身を膿に包まれた醜い姿がさらけ出されていた。些細な術を使う容量すらも、惜しい。何もかもを捧げなければきっと、一瞬で全てが終わる。
『何もかも? 嘘つき』
「黙れ」
それはウミに対してだけの声ではなかった。ちとせ達へ。空気をも押しのけるようなスモウの金鎚へ。雷が走っているオーンスタインの槍へ。痛いほど胸を叩いてくる心臓へ。自分が最大限の集中をするために、あらゆる雑音を拒絶した。
オーンスタインはまだ、ヨルシカの方を向いていた。スモウは画家の少女に注目している。彼らにはそれぞれ、優先したいと考えている目標があるようだ。そこには、下田は含まれていない。意識にすら、上っていない。
「決闘を」
発した言葉で、相手の注意が多少向いたのを感じた。
「このような身で、おこがましいとは考えています。ですが、無抵抗の者達を初めに殺すのは、王に仕える者としてはどうなのでしょう。グウィン王に、殺しやすい相手を優先して処理したと、正面から報告できますか? ま、もうあの爺は死んでますけど」
露骨な挑発には、当然乗ってこない。
「他の者達に対処するのは、僕の後にしてください。貴方達に決闘を申し込みます。僕が負けたら、好きにしてください。ただそれまでは、僕とだけ戦ってくれませんか」
「凡愚よ」
オーンスタインが、槍を浮かした。それだけで、周りの空気が重く沈んでいくような錯覚がする。兜から伸びる視線は、不思議そうに下田へと向けられていた。
「異人の考えはわからぬ。貴様は、何を言っている? 深淵に頭を食われたか」
スモウもまた、呻くような笑い声をあげた。
「一度目で死んでいればよかったな。どれ、二度と再生しないよう、潰してやろうか」
「…わかってないな」
下田は刀を肩に乗せ、右手をよく見えるようにかざした。鱗で覆われた中指を、真っすぐ立てる。おそらくその細かい意味は相手に伝わらないだろうが、何を言いたいのかは大まかに理解できるだろう。
追い打ちをするように、思いっきり嘲るような表情を浮かべた。
「どっちも相手してやるから、かかってこいって言ってるんだ」
弾けるような音が、刹那の間に到達した。
既に三つの詠唱を並列、圧縮も終えている。歯を食いしばりながら、全身全霊をもって、小さな雷を作り出した。
オーンスタインから放たれた、より大きな雷槍。それが下田の左手と衝突し、簡単に彼の体を破壊していく。下田が作った雷のおかげで、多少は相殺できていた。
復活した時、改めて確認できたことがある。無事に残っていた部分のほとんどは、膿で覆われている所だった。自分で雷を作り出す修練を繰り返していた時も感じていた。どうやらこの膿は、雷に対してかなりの耐性を持っている。
だから、左半身を前にして、彼は受けきった。腕の全ては駄目になり、肩も多少弾け飛んだが、それだけだった。必殺の雷槍を、凌いだ。奇跡を使えば一瞬の内に治せる程度の負傷で、収まっていた。
上へ投げておいた短剣を掴む。
前へと倒れていくように、下田は走り始める。闇朧の手触りを確かめながら。
二発目は、考えているよりもわずかに遅れてやってきた。下田が小さいとはいえ雷を作り出したことは、さすがの相手も予想外だったのだろう。
それでも、雷槍はさらに大きくなっていた。確実に仕留める意思が込められている。これを膿で受け止めたとしても、ただではすまない。そして奇跡を使っている間に、畳み込まれる。
だがもう、慣れた。
伸びてくる、熱い線を把握する。
足を擦る。
最小限の動きで、体の軸をずらす。
顔のすぐ横を、雷光が駆け抜けた。かすりもしていない
弱いソウルの塊を利用して、横にかわしたことによる減速を防ぐ。足の魔術を爆発させてさらに加速した下田は、スモウの姿が前から消えていることにも、当然気がついていた。
地面を蹴り、後ろへ飛んだ。
直後には、目の前が金で覆われる。轟音を立てながら、先ほどまでいた場所に槌が振り下ろされる。
しかし地面へ激突する前に、槌の面がくるりと回転した。
スモウは当たり前のように、巨大な武器の軌道を九十度変化させる。下田の方へと向いた面が、常識外れの速度で迫ってきた。風圧がやってくる。彼自体はまだ、着地もしていなかった。自分が一つ行動する間に、相手は複数の手を打ってくるようだった。
腰に設置しておいた魔術へ、ソウルの球を衝突させる。
まるで何かに引っ張られたかのように、下田の体は横へと吹き飛んだ。腰が抉れて肉が剥き出しになってしまったが、あの大槌が直撃するよりはるかにましだ。
並列詠唱を圧縮する。
腰の治療と、攻撃に割り当てた。
体を傾かせながら、ソウルの太矢を五本、スモウに向かって放つ。速さよりも威力を重視した。その代わりそれぞれの軌道を工夫して、絶対に避けられない形をとる。
巨体は動かない。あえてそうしているような余裕があった。
矢が到達する。
スモウには傷一つ付いていない。顔の部分も狙ったが、それすら効いていないようだった。
下田は確信する。
武器だけではない。相手の防具もまた、尋常の領域から大きく抜けている。とてつもなく強力な魔術防護だ。おそらく最大の威力を持つ魔術をぶつけても、意味はない。オーンスタインも同様と考えていいだろう。
オーンスタイン。
当然、側面にいるその騎士も把握していた。どちらにもふっかけたのは、自分なのだから。
体を横へと回転させ、下田は月光の短剣と闇朧を入れ替えた。彼にはもう、利き手という概念はない。どちらも同じパフォーマンスで、完璧に扱うことができた。
短剣を振るう。その先にちょうど、槍の刃があった。
強く、歯と歯を嚙み合わせる。
絶妙な角度に短剣を傾け、向かってくる槍に擦らせていく。徐々に押し込む力を強めていって、その突きの軌道を自分の顔から逸らした。
片側の視界が、消失する。
すぐに自分の顔の半分が削り取られたのだとわかった。短剣でずらさなければ、頭全てが弾け飛んでいた。
重い。
まだ、右腕に痺れが残っている。もし短剣を左に持ったまま受けていたら、へし折られている所だ。いや、丸ごと持っていかれたかもしれない。武器ごと失う危険を防ぐことができた。
こいつ。
限りなく刻まれた時間の中で、オーンスタインを見る。じっとりとした羨望を込めて。
竜よりも、膂力があるんじゃないか。
いいなあ。
白い光で、全身を覆う。二重の光だ。より体に近い方が、顔の再生を担当している。そして、もう一方の光は。
下田はスモウを上から見ていた。
この巨漢自体は、目で追ってきている様子がない。だがそれは、下田の瞬間移動についてこれていないという意味ではないようだった。
鋭い風切り音。
振り下ろそうとしていた闇朧を、停止させる。伸びきった左腕と交差するようにして、右手の月光を光らせた。
当たり前のようについてきているオースタインが、下田の肩に穴をあける。入り組んだ月光の刃を巧みにかわして、確実に突きを入れてきていた。
下田にはわからない。理解できるとも思っていない。その刺突は、大げさでもなんでもなく、神が宿っているかのようだ。その威力も速度も、下田が今まで見た最大を容易く超えてくる。
だが最もおかしいのは、まだ相手がそれでも本気ではないことだった。彼の月光を見てから軌道修正するくらいには、余裕を持たせている。
背筋に、ぞくぞくとしたものが走った。淡い快感。抑えられているのは、今舞い上がってしまえば、確実に殺されるからだ。本当なら快楽の頂まで突き抜けているはずだった。みっともなく涙も流しているはずだった。
落ちていく彼に合わせて、スモウの槌が振るわれる。
目をつぶった。端から涙が零れ落ちた。
一度その槌をかわした時に付けておいた魔術を、足のソウルの塊とぶつける。その瞬間、周りからはまるで、大槌の上に着地して立ったかのように見えただろう。
魔術の爆発によって、多少スモウの攻撃の勢いは殺された。さらに下田も飛んだので、損害は抑えられたと言っていい。それでも、両足の骨が粉砕されたが。
上空から、オーンスタインが降ってくる。限りなく短い時間で、下田の爆発によって加速された跳躍よりも高く、跳び上がっていた。
既に二体の戦い方は理解している。
オースタインの素早い点と線の攻撃で、選択肢を潰していく。逃げる場所を制限していく。そうして追いつめた所に、スモウの防御不可能な面の一撃を叩き込む。
その逆も、きっと確立されているのだろう。
獅子が、薙ぎ払いの準備に入っている。
魔術による移動で逃げるのは無理だ。容易に追いつかれる。
奇跡による瞬間移動も、使うべき場面ではない。消耗を考えてわずかに体をずらす移動を使ったとしても、オーンスタインは余裕で軌道を合わせてくるだろう。
だから、口を開いた。
舌の先で、呪術の炎を操作する。この状態で詠唱するのは、なかなかコツがいることだった。術を操る部位のこだわりを失くすことは簡単だったが。
相手からは、下田が口から炎を吹き出したように見えただろう。実際は彼の上唇の先を少し焦がしながら、火球が放たれた。
オーンスタインは体を捻る。鎧を着ているとは思えないほど軽快な動きで、下田の呪術を避けた。
だが。
下田はほくそ笑む。
これで、確定した。まだスモウの方はわからない。だが、同じ金色なのだからそうに決まっている。魔術は効かないが、呪術は通用するようだ。でなければ、わざわざ避けるはずがなかった。そのまま槍を振るっていれば、下田を仕留められたというのに。
下にいるスモウは、さらなる追撃を行わなかった。それを仕掛ける寸前に、太い足を動かして離脱する。炎の柱が立ったが、誰にも当たらなかった。
警戒はされているのだろう。呪術は一番苦手だが、仕方がない。軸とするものを変えていく必要がある。
着地し、即座にスモウへと接近した。貴重な瞬間だった。この二体がやや分離されている所を、狙わない手はない。
もちろん相手もそれを読んでいる。下田の動きに完璧に合わせて、大槌が迫ってきた。
それが届くぎりぎりの範囲を見極めて、踏みとどまる。
なかなか良い調子だった。前までの銀騎士、黒騎士戦のように、恐怖が大きくなりすぎているわけでもない。程よい緊張が、視野を広げるのに役立っていた。だから、ちょうど足元に転がっている黒騎士の槍を認識できている。
槍は急に動き出し、下田の横に浮かんだ。そして槌を振り切ったスモウへと真っすぐ飛んで行く。
相手はこともなげに籠手部分で弾いた。
それこそが、下田の狙っていた行動だった。
槍との間にある、術的つながりを辿る。一度掴んでしまえば、発動は容易だ。詠唱するまでもなく、槍から炎が湧き出していく。それは直後、炎の奔流へと変わった。
これで少しは損害を与えられると、わずかに期待していた。
しかし、炎が吹き荒れた後、スモウの姿は消えている。地面についている、逆さまの槌だけを残して。
少し上を見る。
どうやらスモウは、槌を支点にして跳んだようだった。あの一瞬の中で、炎の嵐の範囲から逃れることができている。その図体には決して似合わない、俊敏さだった。
化け物め。
下田は切り替えて、後ろを振り向く。
今度はオーンスタインだ。既に眼前にまで迫っていた。刀で受けるのは駄目だ。ユリアの闇朧であっても、脆いものは脆い。それは実際に戦ってきて散々わかっている。短剣に月光を纏わせ、リーチを伸ばす。それで相手の意表を突くつもりだった。
雷光。
オーンスタインは、槍を動かしていない。刃の先をこちらに向けてすらいない。なのに橙色の光が視界に引っ掛かっている。弾ける音が鼓膜を震わせている。
上下が入れ替わる。
空と地面が交互に視界を通り過ぎていく。
下半身が丸ごと破壊されたのを、ようやく理解した。
相手は足を一歩前に出しているだけだ。だが、残滓がある。足の先から、雷の塊がまだ留まっていた。回転する視界の中で、舌を巻く。纏わせることができるのは、槍だけではないらしい。
普通は、体自体に雷を伝わせることは無理だ。自滅することにもつながる。おそらく、オーンスタインの身に付けている防具は、魔術耐性があるだけではないのだろう。だから、雷の柔軟な利用が可能になっている。
体が硬直しきって、吹き飛ばされるがままになっていた。
離脱を。
と、思いかけた所で、風圧が迫る。
下田は同時に五の魔術盾を重ねた。
とっさの判断で、誤った対応をしたことに気がついたのは、金の大槌が全身を打ち据えた直後だった。
青白い光が砕け、重い衝撃が駆け巡る。
呼吸ができない、肺ごと潰された。
下田の半身は勢いよく飛んで行き、遠くの建物に激突した。
即座に、奇跡の光を広げる。
だが、かなりまずい状況であることは確かだった。この状態で追撃をされたら、完全に、とどめを刺される。飛ばされた距離を、相手は簡単に詰めてこられるだろう。
だが五体満足になり、崩壊した壁から出ても、何もやってくることはなかった。広場の方へと目を向けると、スモウが槌を地面につき、腕を組んでいる。巨体の視線の先には、地面にはいつくばっているヨルシカの姿があった。
「何を怠けている? 再生するがいい。貴様の犯した所業は、少しの苦痛で終わるものではない」
ヨルシカの片腕を削ぎ落したオーンスタインは、さらに彼女の背中へ槍を突き刺した。雷が、伝導していく。白い体が痙攣して、薄い唇から甲高い悲鳴が飛び出した。オーンスタインはさらに突きを繰り出そうとしている。
そういった様子を、スモウがつまらなそうに眺めていた。
「その女にぃぃ、さわるなあああああああああ!」
下田の急接近に、オーンスタインは狂いなく対応する。彼の握っていた短剣を受け止めて、月光の散乱をかわし、返しに槍を横へと振った。
頭の中の血管が全て切れているような気がしていたが、それでも冷静な思考を保てていた。自分で自分のことが一瞬わからなくなる。すぐに理由を作った。こいつらは、もう自分に勝ったと断定していた。舐められている。だから、これはそういう怒りなのだ。
のけ反り、刃をぎりぎりで避けていく。後ろに倒れる勢いで一回転し、ヨルシカを蹴り上げながら距離を取る。彼女の体は転がっていき、長椅子の一つにぶつかった。既に再生が始まっている。その顔は、下田へと向けられていた。
「ほう」
オーンスタインは槍を払った。竜の血が飛び散る。
「やはり、理解するのは難しい。憎むべき女を助けるのか?」
「勘違いするな」
頭の膿が蠢いている。もっともっとと叫んでいる。
自分でそれを殴りつけて、感情の混乱を抑えた。
「僕が、殺すんだ。誰にも、渡しはしない。お前のものじゃない。それは、僕のものだ。さわるな。許可しない。資格がいる」
「ふむ、ならば」
スモウが獅子の横に並ぶ。
その大槌に向かって、槍がかざされた。雷が弾けて、槌へと伝わっていく。これで二体とも、その武器が橙の光で満たされることになる。
両方共、踏み込む準備をしていた。足に力が入っていくのが、見ている側にも伝わる。
「貴様を対等の敵として処理し、その資格とやらを得るとしよう」
同時に、突進してきた。
そのわずかな時間で、下田は会話を楽しむ。
「よっ」
「やってますね」
「まあ、こんな感じだけど」
「Aだけでこれなら、上出来じゃないですか? 時間も、それなりに稼げたようですし」
「そろそろ見せてやるか」
「そうだね。自分の中にある何もかもを、ぶつけてやろう」
『嘘つき』
「そもそもおかしいんだよな。なんで相手が二体なのに、こっちは一人で戦わないといけないんだ?」
「不公平ですよね」
「大した問題でもないよ。だって、こっちも二人になればいいじゃん」
下田達は、左右に展開した。
相手の動きが遅くなる。
今まで、固有能力自体を、深く考えたことはなかった。ゲームの中でもらえる特典のようなものだと、簡単に納得してしまっていた。
だが、よくよく考察してみると、下田以外の固有能力は、別に固有でもなんでもないということがわかる。例えば、久慈の能力。彼女は自分の分身を作り出すことができた。一見凄い力に思えるが、サリヴァーンもほぼ同じ術を使っていた。
片方は、月光の短剣を。
もう一人の下田は、闇朧を握る。
どちらとも、武器の持っていない方の手には呪術を形作っていた。
短剣の下田は、既に放っている。
揺らめている炎の塊が、スモウへと向かっていった。速度はそれほど大きくもない。巨体へと到達する前に、十字槍がその炎を寸断した。
詠唱が結ばれる。
真っ二つになった炎は、瞬時に拡大した。スモウの全身を覆うようにして、向かっていく。
スモウの槌が、鳴った。
そこから放たれた雷が、炎を破壊する。術にも大きな損害を与えるようだった。薄い膜のような炎が、散らばり消えていく。
オーンスタインの両腕に、鞭が巻き付いていた。
刀を持つ方の下田は、既に術の不可視化を解除している。そしてじっくりと短い間に観察した。確かに炎の鞭は、金色の籠手を溶かし始めていた。
それでも、隙を見せることはない。冷静に剥そうとしている。
もちろんそれは想定内だった。別にオーンスタインの方を狙っていたわけではない。
本命は、それでわずかに注意が逸れた、スモウだった。
見えない体を解いた短剣下田が、その首元に組み付く。そして月光を多分にその刃へ含ませながら、全力で目に突き刺した。
だが、手応えはやってこない。そもそも刃が当たる前に、彼自身の体が硬直していた。スモウの体から、雷が伝導している。それが短剣下田に牙をむいたのだ。地面へと落ちる前に、彼の体は槌によって粉砕された。すぐに青白い光となって消えていく。
はずれ。
刀下田が、オースタインの懐に入り込む。
本命が一つという決まりはない。
不可視の刀であっても、オーンスタインは正確にその間合いを把握しているようだった。既に鞭を解除しており、刀を破壊しようとしてくる。
刃同士が激突するぎりぎりの瞬間を、見極めた。その直前で刀に意思を込める。刀身がわずかに変形し、槍をかわした。そして元の形に戻り、素早い返しの攻撃で、相手の首の関節部分を狙う。
そしてその行動よりもはるかに速く、オーンスタインの雷が来ることもわかっていた。腰のあたりに、閃光が弾ける。
下田は、三本目の手を、強く意識した。
国広の固有能力。透明な第三の手を生やせる。これは珍しいもののように思える。だが、唯一無二ではないのだ。三本以上の腕を持つ存在などいくらでもこの世界にはいるし、その腕の一本を不可視化させれば出来上がりだ。
これの真骨頂は、術的干渉が生身の手よりも容易になるという点だろう。例えば、相手の魔術を簡単にもぎ取り、自らの制御下に置くことができる。詠唱自体にも干渉できるのだ。それはまさに、反詠唱の結晶とも言えた。
その透明な手で、三術を融合させる。小さな雷を作り出す。それで、オーンスタインのものを乱し、さらに多少分解することができた。先ほどとは違い、腹の一部が抉れるだけで済む。
芳野と、草野の固有能力を組み合わせる。探知で全体を把握してから、細かい攻撃の筋を理解する。汎用性の高い二人の力は、大いに役立った。
槍を寸前でよけていく。
祭祀場の塔で彼らの残骸からソウルと膿を回収した時、下田には感傷に浸る時間も与えられていなかった。ただ力を取り入れることだけを考えていた。
だから、この時だけは。
この時だけは、いいだろう。
下田は四人を幻視する。本物の仲間達を。
彼らに向けた心からの感謝を。
一撃に託す。
オーンスタインの首に、刃が入る。
闇朧が、兜の下を通っていく。肉を裂く待ちきれない瞬間を期待して、それでいながらも完璧な速度と軌道を保っていた。
が、止まった。
下田は浅く息を吸い込んだ。
刀は、獅子の指に掴まれている。透明である以前に、これ以上ないタイミングで、受けようのない間隙をついて繰り出されたのにもかかわらず、槍から離された片方の手がぴったりと闇朧を包んでいた。
単純なことだ。
「十分だ」
身体能力の差。
地力の差。
まだ相手は、全力など出していない。すぐに崩れる仮初の均衡の上で、踊っていただけだった。
槍が振り下ろされる。
消耗を覚悟で、移動の奇跡を使った。絶妙なずらしをし、ぎりぎりで避けられるだけの移動を行う。
それを予知していたかのように、オースタインは平然と腕を動かした。
下田の右手が落とされる。
左手が弾ける。
腸が焦げ、血さえも雷によって蒸発していく。
喉が潰され、詠唱ができなくなった。
脳が飛び散る。
片目ごと顔のほとんどに穴を開けられる。
潰れていく視界の中で、月光の最後の輝きが眩しかった。
闇朧の刃が、溶けていく。
雷の付与された槍が、連続で放たれる。
同時に放ったのではないかと思うほど、おかしい速度の刺突だった。もちろん、下田には何一つとして見えていない。ただ己の体が穴だらけになっていくのを、眺めていることしかできない。
『アキヒロ』
奇跡は既に発動している。
だが、治りかけの状態で、槍が胸に突き立った。
雷が思考を全て粉々にしていく。
叫びながらも、同時に詠唱は止めなかった。どんな激痛の中でも、どんな恐怖の中でも、術行使はやめない。今までの訓練で散々練習してきた。今はそれが、より苦痛を大きくする原因にもなっていた。
ソウルの矢を何本も向かわせたが、ほとんどが落とされる。当たったものがあっても、それは全く効果を及ぼさなかった。効かないとわかっていても向けてしまうのは、それだけ今の彼に余裕がないことも示している。
参ったな、と分離させておいた意識が冷静に分析をする。
もう、気力がほどんど残っていない。
まともな回復をできるのは、あと四回くらいだ。それを超えてしまったら、もう、何の術を使うこともできなくなる。このまま雷を受け続けていれば、あまり時間はかからないだろう。
それでも、わからなかった。
どうすればいいのか。どうやって、立ち上がればいいのか。
まるで、思いつかなかった。そもそも、思考がまともにできない。
『アキヒロ、満足したかい?』
うるさい。
誰が、お前なんかを。
何とか、するんだ。
もっと、戦うんだ。
奇跡が行使される。
残り三回。
二回。
動けない。
一回。
「やめて、ください」
雷が止まった。
下田はひゅうひゅう呼吸をする。
徐々に再生されていく視界には、震えている女性の背中があった。
いや、女性達だ。
イリーナが平伏しながらも、ずりずりと下田の前に出る。可哀そうなほどに怯えていたが、何とか上げたその目は、意外にも決然とオーンスタイン達に向けられていた。
「も、もう、十分、彼は、十分苦痛を受けたはずです。罰を受けたはずです」
「火守女」
「い、いえ。そもそも。彼に、罪はあるのでしょうか。最初に取り返しのつかない罪を犯したのは、私達の方ではないのですか? 彼がその報復を考えることに、一体何の、罪がありましょう」
「大王様の殺害を、正当なものとするのか?」
「違います。ですが、報復に次ぐ報復では、何も、世界は救われずに…」
残りは、苦しそうなうめき声に変わった。イリーナの体はスモウに持ち上げられている。
「酌量は与える」
そしてその体は、横の方へと投げられた。彼女は何の抵抗もなく飛んで行き、建物の壁に当たる。地面に落ちても、微動だにしていなかった。背中から、血が漏れ出していく。それが口元にまで広がると、わずかな波が立った。まだ、呼吸をしていることは確かだ。
「二度はないと思え」
下田の肩を覆う手が、さらに強く握りしめられた。
「わかっただろう。灰の女よ。貴様は容赦せぬぞ」
ちとせの表情は、わからない。だが、とても怖がっていることは理解できた。それにもかかわらず、まるで下田を励ますかのように、何度も肩に触れてきている。
「私達が、何をしたんですか」
その声も、不安定だった。
「こんな、訳の分からない世界で、生きようとしただけなのに。自分達の命を、守ろうとしただけなのに。どうして、この人がこんな目に遭わないといけないんですか」
「物は言いようだな」
スモウが嘲笑う。
「ならば、我々も問おう。これをどういうものだと理解している? 原因はどうあれ、今の戦いは、それが引き起こしたことだ。だから頭を垂れ、言葉を発することもなく、受け入れろ」
ちとせが、こちらを見てくるのがわかる。彼女の背後には、眩しいほどの閃光が次第に大きくなっている。
下田は、力を振り絞って半身を起こした。治りかけの喉を震わせて、叫んだ。
「やめろ!」
彼女の胸から、雷槍が飛び出した。それは勢いを少しも衰えさせることもなく、下田の下腹部にも到達する。
二人分の血肉が、地面を彩った。ちとせの血を満面に浴びながら、下田は再び倒れていく。今度は彼一人だけではなかった。
全身で、彼女の体重を感じている。それでも全てではなかった。半分の重さしか、下田にはかかっていない。ちとせの下半身は横に転がっていた。
下田の胸に、ちとせは頬をくっつけていた。その瞳はやや上目遣いで、彼の顔を見てきている。徐々にその焦点は合わなくなってきていた。その細かい表情はわからない。彼の視界も、ほとんどぼやけていた。
彼女はわずかに首を振っているようだった。
その目もまた、否定を込めてきていた。
治さないと。
でも、あと一回だ。
ちとせが死ぬ。
残された奇跡は、賢く使うべきだ。
彼女を助ける。
それをして、自分は死ぬのか。これで彼女達が抵抗できる手段は無くなり、また殺されるわけだ。先生が来る前に、全滅する。
嫌だ。
ほら、ちとせも賛成してるみたいだし。戦力になる方に、使いなよ。中途半端に分散させてどっちも治そうとしても駄目だよ。結局血が足りない。完全に傷を塞がないと、共倒れになる。そうなるくらいだったら、わかるよね。
「だまれ…」
奇跡の光が弾ける。
ちとせの半身が再生されていく。彼女の顔はかなり白くなっていたが、失血死寸前で完治させることができた。目をつぶった彼女を横に転がし、立ち上がる。
立ち上がろうとして、膝をついた。
少し離れていたオーンスタインが、首を振る。
「十分だろう」
「うる、さい」
下田は血を吐く。下腹部の半分が無くなっている。どんどん血が失われていく。同時に、頭も異常に重たかった。詠唱をしても、何も起こらなかった。普通なら、気絶してもおかしくない。完全な欠乏状態に陥った今では、戦いの手段は限られていた。
歯を食いしばり、己を鼓舞するような叫びをあげながら、銀騎士の片手剣を取る。そして刃を支点にして、震えながら立ち上がった。
それでも相手は向かってこない。黙っていても、下田が死んでいくことは確定しているからだろう。もうじき、彼の意識は失われる。
『提案が、あるんだけど』
無視する。
そして、彼は大口を開けた。舌の先で呪術を作るわけでもなく、あがきの詠唱を行うわけでもなく。
自らの右腕に、噛みついた。
鱗の混じった固い肉を食いちぎり、咀嚼を始める。
周りは、まるで停止したかのように静かだった。
まずいどころの話ではない。血の味しかしないし、硬い骨が邪魔だ。噛めば噛むほど、自分のソウルの味には嫌気がさす。それでも、体内に取り入れることを優先した。竜の部分を、全身に行きわたらせた。
今までは、右腕から上の部分にしか作用しなかった。だが、食べて取り込んだことにより、下腹部が蠢き始める。それですべて再生されるなどという都合の良いことは起こるわけがなく、ほんのわずかに傷口が小さくなり、血の出る量が減っただけだった。
「要は、考えようだよね」
「そうだな」
「別に絶望って感じはしませんね」
『やれやれ』
「まだ、やれることはあるし」
「体は動くからな。戦える」
「分析はできます。もう、相手の速度には慣れましたし」
「次はもっといい動きができるぜ」
「その次はもっともっといい戦いができるね」
「続いていけば、殺せるでしょう」
「持ちこたえられる」
「希望は繋がります」
「乗り越えてやる」
「だから」
『……』
ウミに向かって心の中で続ける。
お前は、必要ない。
下田は歩き始めた。
まだ止まっているオーンスタインとスモウへ。実際はどうなのかわからない。もう接近してきているかもしれない。首を飛ばそうと、武器を振るっているかもしれない。
興味はなかった。
別に、勝てなくてもいいのだ。
もう随分、時間が経ったような気がする。
ほとんど、確信していた。
そろそろだ。そろそろ、先生が来る。あと少し、もう少しだけ、二秒くらい稼げば、何とかなるはずだ。なぜなら芳野の探知能力が、接近する存在を把握していたから。もう大きさも強さも判別できないが、助けが来たのだと確信していた。
そして運の良いことに、オーンスタイン達はまだ動いていなかった。下田は笑う。もったいないことをしたな。この隙が、最後だった。自分を侮ったせいで、お前達にはもうチャンスが無くなる。
実際に二秒くらいで、集団が到着した。
まず目に入ったのは、二体の大きな存在だ。
片方は狼。だが、あのシフィオールスとは比べ物にならない。四足で立っているその高さの段階で、グンダの二倍はある。その口からは、鋭い牙が伸びていた。
その背中から、二つの影が下りてくる。
一つは、白磁の仮面で表情がわからないが、おそらく女性だった。金装飾が施された青の被り物の下から、象牙色の髪が出ている。髪の一部分が長く結われ、何かの尻尾であるかのように後ろへと流れていた。
ひらひらとした青い装束に、軽装甲の鎧と籠手を身に付けている。両手にはそれぞれ、別種の存在感を放つ曲刀と短剣が握られていた。刀の方は、まるで太陽のように光っている。短剣は銀色に灯り、静かな殺意をたぎらせていた。
もう一つは、女性よりも一回り背が高い。
兜から伸びる房と、背中を覆うマントは、同じ群青色をしていた。右手には身の丈ほどの大剣、左手には大盾を持っている。その身のこなしは少し歩くだけでも洗練されているのがわかる。ここまで運んできてくれた大狼に、少しだけ触れていた。
咆哮が、下田の鼓膜を揺さぶる。
巨躯を持つもう片方の存在は、翼をはためかせて、搭乗者のために体を安定させた。
あまり美しいとは言えない灰色の竜から、二体が下りる。
「再会は、意外と早かったね」
それはウィンの声をしていたが、見た目は違った。ぼろぼろの鎧と兜、そして、炎が伝っている大剣。その体の中は、おそらく尋常ではない。様々なものが混じり合っているのだと、表面から見てもわかった。
最後の一つは、大きな剣槍を持っていた。
金の頭冠から、豊かな白髪が後ろ気味に流れている。顔色は悪く、落ちくぼんだ目も快活な印象を与えなかった。ぼろきれのような覆いとその下の鎧も、状態が良いとは言えない。
だが、内包しているであろうソウルの香りが、グウィンと非常に似通っていた。今は別の不純物も感じられるが、その立ち姿はあの大王を想起させる。
オーンスタインが、彼らに向かって言う。
「計画は間もなく修正される。貴様らの遅滞は、不問としよう」
下田は爆笑した。
少しも面白くはないし、楽しくもない気分だったが、大口を開けて笑った。笑うことしかできなかった。血まみれの手で、血まみれの胸を叩き、滑稽な自分をひたすら笑っていた。咳き込んで血を吐き出しても、少しの間続けた。
敵全員が、こちらを向いてくる。
下田は目元の涙を拭った。
「…ウミ」
『なあに?』
不思議そうな声には、隠しきれないほどの歓喜が滲み出ている。語尾が微かに震えているのが、彼にもわかった。
「全部やるから。何とかしてくれ」
『愛してるよ、宿主さま』