火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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62.トリオ

 一番前に出てきたのは、オーンスタインだった。

 

「間違いない」

 

 今までの印象とは、やや違う雰囲気をまとっていた。何かに深く感動しているようだ。その声と視線は、はっきりとノミへと向けられている。

 

「ご帰還を、どれだけ望んでいたか。長子様、まさに我々の使命が、叶えられようとしています」

「はあ?」

 

 ノミは耳をほじくるような動作をした。

 

「何言ってんだお前。つーか誰だよ」

「な…」

 

 オーンスタインは槍を置いた。

 

「何を、おっしゃいますか。貴方に仕えてきたあの日々は、幻などでは」

「お前も」

 

 竜狩りを、ノミは指差す。

 そしてその指は、後ろのアルトリウスに向かった。

 次は、キアラン、ゴー。

 最後に、グウィンに向けられた。

 

「お前らも、知ったこっちゃねえ。どちらさんですか~?」

 

 ノミは頭の横で指先をくるくると回した。

 グウィンは、大剣の柄に手を置いたまま、動かない。

 

「一体、どうなされたというのですか。その言葉遣いも…」 

「知らねえよ。…わかったか? おれはお前ら側じゃない」

 

 オーンスタインは槍を手に取る。震えるほど強く握られていた。

 ノミはふんと鼻を鳴らした後、貴樹と下田に顔を向けた。

 

「おれが最初に突っ込む。適当に続いてくれ」

 

 下田は何度も瞬きをする。

 

「実体、あったんですね」

 

 腰に手を当てる。ノミは少し、興奮しているようだった。

 

「まあな。それなりに強いと自負してる。頑張ってついてこいよ。おれの速度は、お前らの常識を超えるぜ…」

 

 両足に雷が鳴ったかと思えば、そこから浮力が生まれていた。嵐の王と呼ばれていた所以。自由自在の機動を生み出す技が容易にノミを高速で運んだ。

 真横に。

 

「あ」

「は?」

「え?」

 

 無名の王の体は爆発的な速度で動き、貴樹と下田を巻き込んで右方の建物へと激突した。その衝撃でまだ損害を免れていた壁が粉々になり、土煙が上がる。そこから浮かび上がる影達は、じたばたと暴れていた。

 

「おい何してんだあああああああああああ! ゴミ糞野郎おおおおおおおお!」

「いだっ、暴れんなって。あれ、おっかしいな」

「ちょっと、どいてくださいよ。重いんですけど」

「わ、わかった。ふんぬっ」

 

 三重の叫びが響いた。

 突っ込んだ家屋を貫通し、さらにその勢いは止まらずに、上へと吹き飛んでいく。ノミの動きに押された下田と貴樹は、途中で弾かれて別々の屋根に落ちた。

 貴樹は粉砕された屋根の上で腕を組みながら、空中で回転しているノミを眺める。

 

「だ、だれかあああああ! ちょっとこれ、止めてくれええええええええ! 久しぶりすぎて、制御がわからあああああん! おえっ、のうが揺れる……」

 

 ひとしきり不安定な軌道で飛び回った後、真っすぐ地面へと加速していく。派手な音をたてて墜落したノミは、呻いてから立ち上がった。

 その横顔を、貴樹に殴りつけられる。

 よろめいたところを、下田に股間を蹴られた。

 無名の王は、少し高くなった声で文句を叫んだ。

 

「何すんだあああああああああ! ぶっ」

 

 下田のソウルの弾丸が三発、頬にぶち当たった。

 

「何が常識を超えるですか。今、ここで、おとぼけする意味がどこにあります?」

「いや、真面目にやったんだけど」

「だったら尚更ゴミだろ。死ね。燃えろカス」

「あ? 何だその言い草。今までと同じ立場だと思ったら大間違いだぜ? わかるか。お前らの中で、一番強いのがおれだ。言葉遣いに気をつけろな?」

「なわけねえだろ。ノミの分際で。俺に決まってる」

「でも、先生負けそうだったじゃないですか。僕の方が多分ましですよ」

「はあ? 何言ってんだガキめ。ママのおっぱいでも吸ってろ」

「精神年齢は余裕で僕が上みたいですね」

「あーあ、下二人がしょうもない争いしてらあ」

「お前は底辺だ」

「期待させてこれですよ。死んだ方が良くないですか」

「お、お前ら…。そんなに言わなくたっていいじゃねえかよおおお。自分で体動かすのどれくらいぶりだと思ってるんだ。ぶっつけ本番とか無理に決まってんだろ…。ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ、クズとマザコンがあああああああああああああああああ!」

 

 竜狩りの矢が、放たれる。

 オーンスタインが雷の槍を躊躇いなく三人へ投擲した。

 グウィンの片手から、巨大な火球が生み出され、すぐさま標的へと向かっていく。

 対する三人は、一斉に動いていた。

 ノミは一瞬で雷を回し、弾ける輪を形作った。その中心へとちょうど槍が吸い込まれていき、雷撃に囲まれて消滅する。

 下田は膿の口と同時に反詠唱を紡ぎ、グウィンの複雑な呪術を分解した。

 貴樹は何も考えずに拳を振り抜き、ゴーの矢を殴り落とす。

 

「あん? まだ力が残ってるぞ、あのジジイに全部取られたんじゃねえのか」

「そこは、おれの成果だな。お前の中に残り火の一個を残した」

「ま、言いたいことは後で言い合いましょう」

「おれが先陣切るぞ」

「またほざいてるよ」

「見てろ。慣れた」

 

 ぞ、とノミが言い切った瞬間、オーンスタインは身をよじった。しかし、逃れることはできない。一瞬で開いた距離を食い潰して、ノミは黄金の兜に手を伸ばす。横から迫る槍を己の武器で弾き、喉を掴んで押し倒した。

 

「長子、様…」

「よお、久しぶりに見たら、随分と図々しくなってるじゃねえか」

 

 ノミは倒れているクリムエルヒルトを一瞥する。

 

「おれの侍女に手え出してんじゃねえよ。ん? 同じ痛みをくれてやろうか?」

 

 喉の手に力を入れる直前、彼は宙返りをする。それで振るわれていたアルトリウスの大剣とキアランの曲刀から離れることに成功した。

 下がるノミとすれ違うようにして、下田と貴樹が突進する。

 彼らが激突した上から、剣槍を構えたノミが降ってきた。刃の先が地面につくと、膨大な量の雷が流される。ほとんどの者は察知して、その場から飛び上がっていた。ただ一人奇跡の存在のせいで意識が遅れていた下田が、体を硬直させる。足のほとんどが破壊されて、一瞬だけ使い物にならなくなった。

 

「あっ、ごめん…」

「いや、まあ」

 

 未だ連携に不安が残るものの、大きく戦力が増したのは確かだった。四騎士達は、明らかに今までよりも警戒を強めている。それは攻めの配分をやや減らすほどの変化だった。彼らの中には、まだ、グウィンの息子に対する畏れというものがあるのだろうか。特にオーンスタインの動きが鈍ったのはかなり有利に働いていた。

 と、考えるのはまだ早いかもしれない。

 

「よい」

 

 向かおうとしていた騎士達に向かって炎の散る手が振られた。彼らはそれだけの動作で、あらかた理解したようだ。一斉に後ろへと下がっていく。そうして、貴樹達と近い位置にいるのは、グウィンだけになった。

 

「お? ジジイ一人で相手するつもりか? 余裕だな」

「囲んでボコりましょう。あれの呪術と魔術は完封できます」

「いや、二人は手を出すな。おれがやる。へへっ、生身じゃ久しぶりだな親父どの。もう絶縁してっから、関係ねえけどなあ!」

 

 ひゃあっ、と小悪党のような気合を上げた直後、ノミは胴体を寸断されていた。

 その表情は、ぽかんとしている。お手本のような混乱模様だった。

 既に下田が反応しきっている。

 両手から、繊細な光をほとばしらせ、後ろへと傾いていく上半身を覆った。

 だがそこまでした時点で、グウィンの斬撃が下田の両手をも飛ばしている。当然、彼にとってはこのくらいで止まることはないだろう。しかし、その攻撃にはまだ追加があった。彼の切り口が出火し始める。そのせいで、完治の速度に影響が大きく出た。

 さらに下田の首を狙うのを防ごうと、貴樹は動いた。が、直後に頬に多大な衝撃を感じる。グウィンが大きな得物を振るう途中で静止させながら、強烈な肘打ちを直撃させていた。貴樹の意識は一瞬乱れて、その隙をつかれることになる。

 上と下をつないだばかりのノミが、剣槍を振るった。それが貴樹に向かう炎の大剣と激突する。かに思えたが、それはあくまで最初の方だけだった。実際は当たる瞬間グウィンは己の武器の軌道をうねるように変化させ、相手の刃をすかしていた。

 手ごたえの無い感触に無意識に反応したのか、ノミは雷を顕現させていた。が、不発に終わる。グウィンもまた同じものを生み出し、とっくにぶつけていたからだ。そのまま大剣を伸ばし、ノミの腰を刺し貫く。鈍った体に足をついて、蹴り飛ばした。

 懐に入り股間に膝を打ちつけようとした貴樹。彼は顔を掴まれ、持ち上げられる。そのまま勢いよく投げられた。そしてさらに背後をとろうとした下田も、側面に突然現れた結晶槍によって受けに回らざるおえなくなる。

 貴樹とノミが転がっている方へ、下田も魔術の連撃を受けて飛ばされてきた。 

 血を吐いているノミへ、奇跡の光が飛ぶ。彼は少しの間咳き込んだ後、他人事のように淡々と言った。

 

「こう、あれだ。なんだか、親父の全盛期に近いあれこれを感じる」

 

 貴樹はノミの頬に向かって折れた歯を吐きつけた。

 

「つまり?」

「こういう時、ぴったりな慣用句を知ってるか?」

 

 下田は空を眺めている。

 

「逃げるが勝ち」

「正解。シモダは賢いな」

「死ね」

 

 三人が起き上がると、グウィンと騎士達が並んで向かってきていた。大王の顔には、息子に対する多少の思いすらも感じられない。ただ、使命を阻む敵を排除することだけしか、相手の集団は考えていないようだった。前まで少し動揺していた様子のオーンスタインも、平常をすっかり取り戻している。

 

「先生」

「ああ、わかってる」

「え、何? おれはわかんないけど」

「他に、逃げる手段は思いつきますか?」

 

 下田に言われたノミは、周りを少しの間見回した。

 

「おれの、なんだ、乗り物は使えるかもしれねえ。今も憶えてくれているかどうかわからんが、小柄な竜がいる。呼びかけをすれば、どこからでも駆けつけてくれるはずだ」

「多分、僕が殺したやつですね。あそこに転がってるじゃないですか。だからそれは却下で」

「…は? かつての相棒みたいな存在だったんですけど」

「襲ってきたので。正当防衛です」

「過ぎたもんはしゃあねえが。なるほど、状況は理解した」

 

 火守女とイリーナは既に手を止めている。どうやら、篝火の機能は完全に戻ったようだった。後は彼女たちでも、下田でも貴樹でも、操作を開始させればいい。だが、そういう状況は当然、相手もわかっているだろう。

 短い間だけでもいい。グウィンたちに転移を邪魔させない瞬間が必要だった。少しでも注意をそらすことができれば、離脱は成功するだろう。貴樹には、何も犠牲にせずにそうできる方法が、何もなかった。横二人のどちらかを、それとも両方を囮にしようかと、思考を進めていく。

 

「お前はそういうことを、平然な顔で考えられる男だよな」

 

 ノミはにやりとする。貴樹の肩を叩いてきた。

 

「そんな必要はない。おれに任せろ」

「それ、聞くの三度目くらいなんですけど」

「戦わず、気を逸らす方法はある。いいか、おれがこれからあることを叫ぶ。奴らはほぼ確実に、隙を見せるはずだ。お前らはその瞬間に、必要な奴ら全員の転移を完了させてくれ」

 

 ノミは、貴樹に視線を合わせて、感慨深そうな表情になった。

 

「感謝する」

「あ?」

「お前のおかげだ。お前が、おれに気付かせてくれた。一番大事な事を」

 

 その時だけは、彼は貴樹の影響からほとんど抜け出していた。かつて多くの竜を屠ったとされている伝説の存在にふさわしい風格を備えて、貴樹に軽く頭を下げる。だが、その貴重な姿はすぐにまた変わっていき、グウィンたちに向かって顔を向けた時は、生意気な子供のように不敵な表情を浮かべていた。

 

「聞け。かつての同胞達」

 

 その言葉で、グウィン達の進行は止まった。

 全員の注目が集まる中で、ノミはいっそ清々しそうな様子で大声を上げた。

 

「おれは、プリシラを愛している!」

 

 てっきり声を出すふりをして下半身を露出するのではないかと疑っていた貴樹は、操作をしながらも微妙な思いになった。これの一体どこが、相手の注意を散らす言葉なのだろう。ただ自分の気持ちを表現しているだけだ。

 だが、グウィン達への効果は劇的だった。特にオーンスタインなどは槍を取り落とし、そのまま膝から崩れ落ちようとしている。他の騎士達も、明らかな驚愕をノミに向けていた。まるで、世界の真実を突如知らされたかのような混乱ぶりだった。

 グウィンもまた、向かおうとする足を止めていた。表情に大きな動きはないが。視線は違う。今まではもう見限っていた感じで断絶していたノミへのそれが、今は一直線に向けられていた。その瞳は、何かを思考するかのように揺れている。

 とはいえ、もはやノミ本人がそれを認識することができたのかは不明だろう。もう彼は存在が消えている。他のこちら側の者達も皆、この広場からいなくなっていた。転移はほとんど完了された。

 

殿(しんがり)か。何ができる?」

 

 グウィンの言葉に、ただ一人残された貴樹は首を傾げる。

 

「何か、勘違いしてるみたいですね。俺ももう行きますよ。でもどうせ、追ってくるつもりなんでしょう?」

 

 手を掲げて見せる。そして指を三本、真っすぐ伸ばした。

 

「俺達は、逃げも隠れもしません。三日後、再びこの場所で決着をつけましょう。まだ、そちらの刻限も余裕があるはずです。お互いに納得のいく結末にするために、万全の準備をしてください」

「理解に窮している」

 

 グウィンは口に生えた薄い黒髭を撫でた。

 

「我々が、みすみすお前達を逃がすと思うのか?」

「別に止める気はありませんけど」

 

 貴樹は肩をすくめる。本当にそう思っているような雰囲気を作り上げた。

 

「断言します。貴方達はその時、考えを改めることになる。火継ぎなどよりもよほど世界のためになることへ奉仕を希望することになるでしょう。だからそれまで、よく考えていてください。自分たちの道の正しさを」

 

 貴樹は堂々としたまま、自らを転移させた。結局ちゃんと話し終えるまで、相手が襲ってくることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 周りの空間が認識できるようになると、二つの影がすぐ横を通り過ぎたのがわかった。

 下田は膿にまみれている方の腕を伸ばし、篝火の中核にある剣を引き抜く。すぐさま凶暴な炎が彼に襲い掛かったが、肥大化した膿が全てを呑みこんだ。

 一方のノミは、あらゆる攻撃をしながら篝火を破壊し始めた。火継ぎの大剣がなくなった状態では、その強度も底が知れている。彼の武器、体によって、組み立てられている木の構造物があっという間に崩れていった。

 

「そこまで、しなくてもいい」

 

 下田が振り返ってくる。

 

「ひやひやさせないでください。先生だけいなくて、どうなることかと」

「話があっただけだ。おかげで、三日の猶予を作れた。追手の心配はないぞ。多分」

「事前に相談してくれ。全くよ」

 

 ノミは息を大きく吐き出してから、その場に腰を下ろした。

 だが、今の状況はあまり休めるものではないことになっている。

 すでに祭祀場の者達のほとんどは、武器をこちらに向けてきていた。その中のフォドリックが、鋭く貴樹たちを睨みつけてくる。

 

「大勢引き連れて、ここを乗っ取るつもりか」

 

 正確には、その視線は下田に向けられていた。

 

「さあ。僕がここを指定したわけじゃないので。できれば、二度と戻ってきたくなかったですけど」

「まあ、とにかく落ち着いてください」

 

 貴樹が立ち上がって両手を広げても、彼らは下がらなかった。

 

「僕達には、戦闘の意思はありません。ただ休ませてくれればいいんです」

「それは、随分と都合の良い頼みだと思わないか?」

 

 ジークバルドは、珍妙な兜を下田から逸らした。どうやら彼らはほぼ、下田に対して整理できない思いを抱えているようだ。一体、何をやらかしたのだろうか。どうやらはゴミは相変わらずゴミのままらしい。このままジークバルド達に便乗して、下田を排除できるチャンスだと考え始めた。

 しかし、貴樹が実際に言葉を発する前に、皆の前に出てきた者がいた。

 イリーナは、胸に手を当てながら訴える。

 

「どうか、彼らの言葉を聞いてくれませんか? 皆様の所から移動して、様々なことがありました。それに、私達には大きな負い目があるはずです。取り返しのつかないことを、たくさんしてしまったはずです。私は……、もう、どちらが正しいのかわからなくなりました。ですが、傷ついた者達を休ませることには、何の迷いもありません。どうか、お願いします」

 

 大きく、何かが地面に打ち下ろされる音がした。

 槌を置いたイーゴンが、腕を組んで彼女を見ている。

 

「血迷ったか。ついにそこまでおかしくなったというわけだな」

 

 彼女は、自らの騎士に対してあまりしたことのないであろう態度を貫いた。決然と、その厳しい視線にむかって相対した。

 

「いいえ。これははっきりとした、私の意志です」

「…おい」

「はい?」

 

 イーゴンの指が一点に定まる。

 

「頬の血は、何だ。そいつらに、やられたのか?」

「あ、ち、違います。その…」

 

 底から響くような声が続く。

 

「もういいだろう。交渉する価値もない。使命から逃げた者の末路は、決まっている」

 

 彼が向かおうとする前に、イリーナは彼女にしては強く叫んだ。

 

「この方たちのせいではありません! これは、私が、今まで使命だと信じていたことにつけられた傷です。ですが、ほとんど私自身のせいで…」

「どういうことだ」

 

 そこからは、貴樹が説明をした。グウィンの軍勢のことを、祭祀場の者達は静かに聞いていた。だが、途中からイーゴンはその場からいなくなっていた。自室に戻ったのか、別のどこかへ行ったのかは、よくわからない。だがその歩みにみられる怒りは、貴樹たちに向けられたものではなくなっていた。

 それでもまだ受け入れない意見の方が多かった。それをひっくり返したのは、ヨルシカだ。

 

「やむを得ません」

 

 彼女は立って、視線も向けずにノミを指差した。

 

「要求は呑むしかないでしょう。どちらにせよ、私達の抵抗は無意味です。これを見れば、貴方達でもわかるはず」

 

 ノミが、あの太陽の長子だと全員理解した段階で、既に交渉は終わっているようなものだった。祭祀場の者達の中で迷いが生まれて、やがて賛成の意見が多くなっていく。結局今までは違うぎこちない雰囲気の中で、受け入れられることが決まった。

 

「あーっ、疲れた疲れた。やっと終わったなあ」

 

 下田の声は空しく響いた。誰も、彼のそばにはいない。祭祀場の者達はもちろんのこと、生徒達も近づこうとはしていなかった。唯一画家の少女だけが、何か声をかけようとして、はっとしたように表情を凍らせていた。

 貴樹は既に別のことに意識が言っている。何をどうすべきは今後の自分に任せるとして、今はとにかく一息つきたかった。その体は既に火守女へと向かっている。戦闘のせいで先延ばしにしてきたことを、清算するつもりでいた。

 

「先生」

 

 下田が呼び止めてくる。これ見よがしに舌打ちをしてから、そっちを見た。

 

「んだよ」

「とりあえずは、安全は確保されたんですよね?」

「まあな。そんだけか」

「それと、これからどうするべきかも、わかってるんですよね?」

 

 下田は大きく伸びをしていた。今にでも欠伸をしてから寝っ転がってしまいそうなほど、全身の力が抜けているようだった。

 

「ああ」

「よかった。これで、アキヒロも満足できたね」

 

 貴樹は瞬きをしてから、鼻で笑って火守女への歩みを再開した。まともじゃない男の相手をすることほど、無駄なことはない。安心するように顔を俯かせた後、下田はぶつぶつ何かをつぶやき始めた。

 

「うるさいうるさい…。でも、大事だよそうだよね。うんうん。最初、最初は大事だ。選択肢はある。いっぱいあるねえ。黙れ、黙れ、黙れ。アナタの方がうるさいよ。うるさい! あはははは」

 

 下田は、片手を動かし、肩から生えている膿の顔をもぎ取った。ちょうどその時、意識を失っていたちとせが身じろぎをする。

 そこへじとりと目を向けながら、彼は膿の塊を貪り始めた。ほぼ全員がぎょっとそれを注目し始めても、続けている。食事の時間はすぐに終わり、人間性の怪物はほとんどその体を失っていた。心なしか、蠢く膿の勢いも弱まっているような感じがする。

 貴樹は今度こそを無視をして行こうとも考えたが、相手の指がこちらに向けられるのを確認して、注意の半分を下田へと向けた。

 

「ど、れ、に」

 

 下田は楽しそうに目をつぶっている。興奮で頬を真っ赤に染めている。細かく見れば、その口の端からだらだらとよだれがこぼれているのがわかった。

 指は貴樹に向けられた後、言葉に合わせて方向を変えていく。

 

「し、よ、う、か、な」

 

 ちとせへ。

 ヨルシカへ。

 クルムエルヒルト。

 

「か、み、さ、ま、の」

 

 その、法則性は分からない。

 とにかく選択に迷っているようだった。だから、何も考えずに決めようとしている。指は貴樹も含めた四人を一巡した後、また最初に戻ってきた。

 ノミが、下田へと向かおうとする。その顔は厳しく引き締められていた。

 

「い、う、と、お、り」

 

 指は結局、貴樹のところで止まった。

 直後、下田は横へと倒れていく。

 が、その動作は九十度近くまで傾いた時、一変した。まるで倒れる力をそのまま推力に変えるように、慣れた感じで下田は疾走する。その瞳と、口と、全ての注意は貴樹の体へと向けられていた。どろどろに溶けていた。

 ぼこぼこと、半身の膿が波打つ。

 

「せんせえええええええええ、いただきまあああああす!」

(お、ちょうどいいな。口実ができた。踏み台おつ~)

 

 その精神状態が極限にまで来ているのは、少し前からわかっていた。その時から立てていた計画とも呼べない思いつきを実行しようとする。ただ、下田は()()()()強いので、余計な消耗をすることもわかっていた。そこは許容して、目障りな存在を排除する。

 だが、貴樹よりも先に、ノミが走っていく。

 

「皆、手を出すな! おれが何とかすぶへぇっ」

 

 ノミの拘束をギリギリで避けた下田は、やや崩れた体勢のまま足をその顎にぶち当てた。その勢いのままノミの肩を踏みつけて、一気に飛び上がる。軌道は狂いなく、貴樹へと向かっていた。

 今の通り、どうやら理性を失っても平常時と変わらない技術は維持しているらしい。なるべく波風の立たないマイルドな殺し方を考えながら、貴樹は構えた。

 彼の左右では、ホークウッド達が武器を抜いていた。だがもちろん、彼らに参加させるつもりはない。例え少しの可能性であっても、彼らが傷つくようなことにはさせたくなかった。その場合、下田の死に方も非常に苦痛の混じったものになるだろう。

 貴樹の考えていた戦い方も、下田がどう出てくるかの予測も、全てが無駄になった。相手は貴樹達へ到着する前に、足を止めていた。急に壁にぶつかったかのような停止だった。

 下田は、吐きそうな顔になっている。手を口へと持ってくると、揺れる視線を一点へ向けた。どう見ても、何かを非常に怖がっているようだった。

 

「なんで、お前が…」

 

 怯えの対象となっているミレーヌは、眉をひそめた。

 さらに一歩後ずさる。

 

「ちがう! ここは現実なんだ! ウーラシールがいるはずがない。そうに決まってる。幻だ。これはまぼろし……」

 

 大きな天啓を得た顔で、下田は笑顔になった。そして、ぼろぼろと涙をこぼし始める。嗚咽を漏らしながら笑うという、器用な事をやってのける。

 

「そっか、そうだったんだ。ぼくは、まだ、抜け出してないんだ。おかしいと思った。こんなに上手くいくはずない。まだ、六日間に捕らわれてるんだ」

 

 膿が大きく動く。彼の片手が上がって、魔術の矢が作り出される。同時に呪術の炎も出現する。奇跡の光が、その二つの術に覆いかぶさっていく。

 ばちばちと、弾けるような轟音が生まれる。

 

「食ってやる。ざけんな。ぶち殺してやる…。ウーラーシール。もうお前なんて怖くない。今なら勝てる。食らってやる。糧にする。このふざけたまやかしを解いて、本当の明日を手に入れるんだ。くたばれ」

 

 いつの間にか、下田の片手には弓が作られていた。雷の弓。そこから五本の同質の矢がつがえられている。彼の頭上には巨大な雷槍がうなりをあげていた。その全てが、ミレーヌを狙っていた。

 ここへきて、さすがに貴樹も認識を改めた。どうやら下田は、さらに次の段階へと到達しかけているようだ。雷槍は分離しかけている。もしあれから複数のものに分かれて向かってこられれば、全てを守り切るのは難しくなるかもしれない。

 だがまたもや、彼の考慮は杞憂に終わった。

 雷の術が消失する。と同時に、下田の体が前のめりに倒れていった。

 

「もういい」

 

 ノミは何かに耐えるようなまなざしを、転がった彼に投げている。そして苦しんでいる下田に向かって、さらに手を触れた。暴れるが、既にノミの操作は終わっているようだ。

 下田は仰向けになりながら、背を弓なりに曲げた。口から、おぞましい悲鳴が漏れ始める。イリーナがすぐさま駆け寄ろうとしたが、ノミが強く遮った。

 

「近づくな!」

 

 膿が、苦し気に悶えだす。下田の全身から、炎が噴き出してきた。それは、平等に彼の肌を焦がしていった。膿の部分も、普通の人間の部分も。イリーナはノミを押しのけてでも向かおうとしていたが、下田へ接近する前に驚いたような声を上げた。

 肩から生えている膿の手が、彼女のすぐそばまで伸びていた。それは、明らかに穏やかなものではない。イリーナを捕らえ、引きずりこもうとしているかのようだった。

 ノミは全員に向かって待つよう指示をした。その間にも、下田は燃やされ続けている。彼の悲鳴が、祭祀場の広場を覆い尽くしていた。

 

「彼に、何を…」

「中にある残り火の欠片を開放した。膿が落ち着くまで、まだかかる」

 

 貴樹はこの場で一番平然とした様子で尋ねた。

 

「どういうことだ。どうして、こいつに残り火がある?」

「知らん。取り込む機会があったんだろう」

 

 ほとんどの者は目を背けていた。

 やがて、皮脂が焼ける匂いも充満してきた。これには貴樹も辟易する。ゴミが良く燃えるのは道理だが、それで不快な思いをするのは明らかに割が合わないと考えていた。

 そして炎が収まったと同時に、膿もまた萎れていた。近づこうをする者を掴もうとしていた腕も、ほとんど焼け落ちてしまっている。肌の表面はほとんど火傷で覆い尽くされて、かすかな呼吸が痙攣する口から漏れるだけだった。

 

「奇跡を」

 

 イリーナはすぐに光を放った。下田の肌が再生されていく。だが、ある程度のところまで行ったところで、ノミはやめるように言った。

 

「なぜ」

「完治させたら、また暴れ出す。ここには、地下牢があっただろう。とりあえず、拘束しておく。それで誰か、シモダを牢まで運んでくれる奴はいねえか?」

 

 少しの間が空いて、ノミは誰も進み出ようとしないのを確認した。剣槍を横に放り投げ、まるでくだらない冗談を言ったかのように笑った。

 

「なんてな。おれがやる」

 

 彼が下田を運んで行っても、誰も喋りだそうとはしなかった。意識を取り戻したちとせは、ずっと考え事をしているようだ。その内容は、いいものではないらしい。下田が消えていった方を見ては、すぐに目を逸らしていた。

 やっと区切りがついたと、うんざりした気分で貴樹は首の骨を鳴らす。このごたごたのせいで、ゆっくり話す暇がなかった。今こそ、火守女と愛を誓い合う時だと、彼女へ向き直る。

 しかし、火守女は心配そうに洞穴を眺めていた。まさに下田が運ばれていった方向。どう見ても、今はいちゃいちゃできるような空気ではないと、さすがに貴樹も理解した。

 では、どうする。

 彼はまた舌打ちをしたくなった。

 下田をどうにかすれば、皆も落ち着いてくれるだろうか。だが、彼にとっては、下田を助けることなど少しもやりたくはなかった。どうして自分の労力をあんなのに向けなければいけないのかわからないし、そもそも他に適任者がいる中でわざわざ行動を起こす意味もわからなかった。

 戻ってきたノミは、話があると、大扉の先の列席場に全員を集めた。

 

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