火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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63.下田彰浩と高原ちとせ

「あん? 全員じゃねえな」

 

 集団が座る一番前の、一段上がっている場所に、丸椅子を置く。そこにどかりと腰かけたノミは、チンピラのような姿勢で足を地面に打ち付けた。

 貴樹もその横に座りながら、欠けている者達を確認する。イーゴンは、この集まりに参加する気がないらしい。十分想像できることだった。ルドレスもいない。あの石の玉座で考え事でもしているのだろう。リリアーネとユリア、クリムエルヒルト、アリーは、そもそもまだ意識を取り戻していなかった。その看護のために、イリーナも席を空けている。

 だが、それ以外の全ての者達が、ノミと貴樹に注目をしていた。こうして見てみると、彼らの間にははっきりとした溝ができているのが分かる。座る席の位置で一目瞭然だ。ホークウッド達と祭祀場の者達は、時折互いを確認していた。

 

「まあいい。そいつらには個別で向かうだけだ。じゃあ、改めて自己紹介をするぜ。おれはノミってんだ。このバカを支えてきた影の主人公ってとこだな」

 

 貴樹は初めから興味なさそうに壁にもたれている。

 まず口を動かしたのは、ジークバルドだった。

 

「未だ、この珍妙な状況が理解できないでいる。我々は、刃を向け合う者同士であったはずだ」

「さっきタカキが言った通り、事情が色々と変わった。火継ぎは糞なので、えー、別の方法で何とかしたいと思ってる。だが、それをグウィン達が黙って見てはいないだろうな。だから、こうして皆と話し合いをしたいと思った」

「それが、わからないと言っているのです」

 

 フォドリックが、胡乱な視線をノミに投げた。

 

「貴方が、かの大王の血族だという話は理解できる。言葉はともかく、立ち振る舞いが如実に物語っている。だが、我々に一体どうしろと? 急に使命を捨てろと言われて、素直に従うとでも?」

「ああ、そこは大げさにとらえなくてもいい」

 

 ノミは、否定するように手を振った。

 

「あんた達には、何も命令しない。これからここを離れて、親父達の側につくと決めても止めはしない。頼みたいのは、一つだけだ。邪魔をしないでほしい。今、おれ達の時間は非常に限られている。留まり、敵ではないという顔で、余計な害を与えることだけはするな」

 

 フォドリックは、考え込むようにして椅子に座り直した。その隣のシーリスは、複雑そうに貴樹をちらちら見てきている。彼が微笑むと、すぐに顔を他へと向けた。

 

「とにかく、これからすべきなのは戦力の補強だ。奴らは強い。少しの妥協も許されない。的確な策も必要になってくるだろう。だから、今大事な戦力が欠けてしまっている状況を、何とかして変えないといけない。下田を、正気に戻す」

 

 静まり返った空間の中で、その落ちくぼんだ目をある集団へと向ける。

 

「おい。聞いてんのか? お前らに向けて、話すぞ。不思議でたまらないんだが、苦しんでいるあいつの元へどうして行ってやらない? クラスメイトなんだろ? それがどうして、こんなところでぼうっとしてやがるんだ?」

 

 言われても、ちとせ達はさらに押し黙るだけだった。そこへ向けられる他の者達の目は、ほとんど同情的だ。ノミのものとは、大きく違っている。

 

「で、でも、本当に、わからないんです。どうすれば、いいんですか」

 

 新宮が震える声で言った。

 

「どうしろ、とは?」

「だって、あんな…。あんなに変わって。あれは、もう、下田君じゃない」

 

 ともすれば、非常に冷たい言葉だった。だが、新宮の表現に対して、反論をする者は現れない。生徒達全員が、すでに認めていることのようだった。

 

「あいつは、あいつはどうして、ああなったの?」

 

 ちとせは静かにつぶやいた。顔色が悪いのは、意識が戻ったばかりというだけではないようだ。その目は痛ましそうに閉じられていた。

 

「ばけものだよ」

 

 一番後ろの方で座っていた男女から、幼い声がした。その歳には合わないほどの軽蔑と、憎しみの冷たさが含まれている。

 イアンは赤い目で吐き捨てた。

 

「ばけものは、パパと、ファエラ姉ちゃんを、食べたんだ。ママも食べそうだった!」

「そうです。私達はきっと、あの騎士達よりも先に、あの人によって殺されたと思います」

 

 由海は沈んだ声で賛成した。ジアンナと幸成も暗い顔で頷いている。彼らには例外なく、恐怖が刻み込まれていた。下田への恐怖が。

 

「俺には、あいつがわからねえ」

 

 高坂もまた、指で眉間を揉んだ。

 

「あっさりだったんだ。そりゃあ、宇部と丸戸はどうしようもなかった。それでも、少しは、躊躇いが出るはずなんだ。でも、下田は違った。あいつは…、楽しんでるみたいだった。奴らの体を斬り裂いた時、笑ってた」

 

 グンダが、重々しく言う。

 

「彼は、許されざる罪を犯した。大王様を一度殺めた。あまつさえ、その遺骸をさらに傷つけたのだ。我々としても、もはや彼を受け入れることには賛成しない」

「それに、精神を回復させることは不可能だろう」

 

 カルラは、言葉の途中で目を伏せた。

 

「あれほどまで深淵の膿が侵食している例など、初めて見る。さきほどまでまともさを保っていられたのがおかしいくらいだ。手の施しようはないだろう。取り除ける段階にない」

「ほっとけばいいんだ。あんなの」

 

 イアンがまたつぶやいた。

 それに、ほとんどの者達は賛成しているようだった。

 ホークウッドは、貴樹に気まずい視線を向ける。

 

「俺も、悪いがそう思うぜ。またミレーヌを狙われたらたまったもんじゃない。いつ暴発するかわからない呪術を、抱え込むようなもんだ」

 

 貴樹はほくそ笑まないように努力していた。流れは非常に良い。段々と下田に対する不安があふれ出しつつある。彼はそれだけのことをしでかしてきたのだろう。そして、それをかばおうとする者もいない。同じ地球の生徒達もまた、下田を信じられなくなっている。

 今度こそ、排除できる。あれはもう下田じゃないとかなんとか言い訳を作って、殺すことができる。今、この場は段々と言葉が爆発しつつあった。由海達を中心にして、貴樹と同じような考えが伝染していっている。

 唯一画家の少女が泣きそうな顔になりながら止めようとしているが、効果はなかった。彼女の声は、さらに大きい怒りと怨嗟の言葉で消されていく。

 そこへ上手いこと油を差そうと思い当たったところで、すぐ横で怒号が放たれた。

 

「黙りやがれええええええええええええええええええええ!」

 

 同時に、刃の先から雷が弾ける。それは真っすぐ天井に向かっていき、表面だけを破壊した。かけた石の塊が、ノミと彼らの間の席に落ちていく。

 悲鳴をさらにかき消すように、どたどたとノミは地団駄を踏んだ。石造りの床に次々と穴が開いていき、その振動で彼が座っていた椅子が倒れた。

 もっとひどいのはその顔だ。目の端を痙攣させながら、ぎょろりと呆気に取られている者達を睨みつける。

 

「さっきから聞いてれば、てめーら、何様のつもりだ? つくづく、癪に障るぜ。あいつのことを、あいつがしてきたことを何一つとして知らねえくせに、よくもそんな言葉を吐けるな」

 

 軽蔑の笑いを漏らしながら、ノミは急に頭を抱える。その視線はねめつけるようにして、相手に固定されていた。画家の少女が、首を振っている。無駄な行為を戒めるように。

 くくく、と半ばやけくそな声を出した。

 

「そうだったそうだった。よく考えれば、お前達だいたい、関係あるじゃねえか。義務があるなあ? よおし、もう決めたぞ。後悔はしねえ。おれは後でぶっ殺されるだろうが、構わねえ。決めた。お前達には、知る義務がある」

 

 彼の体から、白い靄が出始める。それらは球体の形を取って、分かれていった。

 

「ソウルはどこに宿るか、知ってるか?」

 

 答えは待たない。

 

「頭に宿ると言う奴もいる。内臓、体全てに均等に分けられているなんて意見もあったらしいな。精神、思考そのものが源だとする説も多い。だが、くそったれだ。そんなもんは全部、間違いだ。おれはこう考えている」

 

 指を一本、立てた。

 

「ソウルは、記憶に宿るんだ。今までそいつが歩んできた道のりを、全て反映する。だから亡者はそれを強烈に求めるのさ。奴らには、蓄積されたものがないから。今しかないからだ。過去を、未来を埋めようと渇望し続ける」

 

 ソウルたちは貴樹以外の全ての者達に入り込んだ。避ける暇もないほどの速度だった。ちなみに貴樹は前に一度拒否をしていたので、除外されたのだろう。彼はつまらなそうに天井を眺めていた。これから、何が行われるか、既に理解していたからだ。

 

「今のは、下田のソウルだ。これからお前らは、あいつの経験を理解してもらう。膨大なものになる。だが、安心しろ。たいして時間はかからない。超ダイジェストでお送りするんで、心配すんな。……地獄の苦しみを味わってもらうがな」

 

 貴樹は、すぐに耳を塞いだ。

 阿鼻叫喚になることは、わかりきっていた。

 特に女性たちの叫び声がうるさかった。その中で上手く火守女のものだけを抽出して、脳内に保存するという技術も持ち合わせていなかった。甲高い悲鳴と、低い呻き声があっという間に空間を支配する。

 ノミは、げらげら爆笑していた。転げまわっている者達を指差しては、罵倒を浴びせている。彼はこれを、酷く利己的な目的にも使ったようだ。彼がかなり下田へ肩入れしていることは、明らかだった。

 貴樹はその中でも抜け目なく移動し、火守女を抱きかかえた。彼女は唇を噛んで涙を流している。その体の震えを優しく抑えるようにして、床に座り込んだ。何度も頬に口をつけて、彼女の感覚を紛らわせようとする。役得も極まれりと、恍惚な表情でくっついていた。

 数十秒が経ったところで、ほう、とノミが息を漏らす。

 足を震わせながら、何とかちとせが立ち上がった所だった。彼女は涙で顔を散々に汚しながら、片手で口を押さえている。すでに何度か吐いているようだった。

 

「も…う……」

「ああん? 聞こえねえなあ」

「もう、わかった、から。やめて。やめ、てよ! 見せるのはやめて…。わかった、よ」

「何が、わかったんだ」

 

 ノミは、指の骨を鳴らした。ちとせへ、冷たい視線を投げる。

 

「おれ達全員、あいつの全てはわかってやれない。でも、少しは努力しようぜ。お前、まだ一回も発狂してないだろ。あいつの何百億分の一の苦しみも理解しないうちに、何がわかったっていうんだ? おとなしく受け入れろ」

 

 次の瞬間、ノミは殴り飛ばされていた。本人も全く予期していないといった顔で、壁へとめり込む。

 拳を振り切った貴樹は、すぐにうずくまっている火守女へと戻った。

 岩壁に頬をむにゅりと歪ませたまま、ノミは目だけ彼へと動かす。

 

「何してんの?」

「よく考えたら、ひもりんが苦しんでるのはお前のせいだなと思って」

「ええ……。大脳破壊されてるよこの人。お前止めなかったじゃん…」

 

 悲鳴の渦は、やがて小さくなっていった。記憶に耐えられなかった者は気絶していき、まだ意識がある者も、静かに苦しんでいた。深い悲しみに覆われた静寂。もはや拒否する言葉すら出ず、誰もが無言で下田の軌跡を追っていた。その波に乗れない貴樹にとっては退屈な時間になったかもしれないが、実際は違った。火守女を慰めているだけで、この世の全ての幸せを味わっているような気がしたからだ。

 確かに、終わるまでにはそう時間がかからなかった。彼らの全員が、苦しみの表情を緩めていく。気絶してしまった者も、意識を取り戻し始めた。だがその様子を見るに、意識を失っている間も、解放はされなかったようだ。

 誰も、しばらく声を出さなかった。平常な様子を保っている者など、一人もいない。中にはただ座っていることにも耐えきれず、体を床に投げ出している者もいた。

 強烈な余韻の中、初めて動きがあった。

 

「ちく、しょう。ちくしょう…、くそ」

 

 高坂は何とか立ち上がることに成功する。震える体を引きずりながら、列席場の出口へと向かい始めた。

 それを、ノミは止めようとしない。高坂が何をするつもりなのか、どこへ行くのかわかっているのだろう。

 続いて、彼よりも確かな動きで起き上がった者がいた。

 

「どうするつもりだ?」

 

 今度は、ノミも尋ねた。

 言われたちとせは、深呼吸をしながら、赤くなった目を拭う。鼻を数度すすってから、ノミと視線を合わせた。

 

「決まって、るでしょ」

「ふーん、で、何か策でもあるのか?」

「知らないよそんなの!」

 

 ちとせはまた涙をこぼしそうになりながらも、叫んだ。

 

「でも、でも行かないと。早く、早く…」

「おう、じゃ、頑張れよ」

 

 彼女は早足で出口へと向かっていく。途中で高坂の肩を強く叩いてから、一緒に走り始めた。彼らにはもう、ほとんど迷いがないようだ。扉の閉められる音が、やけにこの場に残り続けた。

 それを皮切りにして、続々と他の者達も立ち上がり始めた。まだ体も動かせない様子のイアンを抱きかかえて、由海が出ていく。幸成とジアンナも、憔悴した顔で去っていった。彼らは、まだ、衝撃が少ない方なのだろう。下田の記憶の渦中にはいないから。

 一方で祭祀場の者達は全員、未だ思考の渦に沈んでいるようだった。若いシーリスは、フォドリックの胸に顔をうずめ、泣き続けている。震える口で、何度も謝っているようだった。己の祖父にではない。

 

「おい、そこ」

 

 ノミの目線は、実織に向かっていた。彼女は膝を抱きかかえながら、ずっと下を向いている。声が駆けられると、ゆっくりと顔をずらした。

 

「…なに?」

「お節介かもしれないが、いいのか? ちとせに先を越されても」

 

 実織は、瞬きをした後、苦しそうに笑みを作った。

 

「あなたはすごく、意地悪だね」

 

 彼女は諦めたように、遠くを見つめた。その目から、薄っすらと雫がこぼれる。それには、ただ悲しみだけが含まれているわけではなかった。強い羨望と、諦観。それらがちとせ達の去っていった方向に定められている。

 

「あんな…、あんなのを見せられたら。誰だって。誰だってさ…」

 

 ノミは目をつぶった後、さらに別の方へと視線を向けた。

 

「おい、何をぼさっとしてる」

 

 壁に寄りかかっていたヨルシカは、一度無視をした。だが、ノミが小さな雷を作り、鳴らしたことで渋々顔を合わせる。

 

「貴方と、話すことなどありません」

「ああ。おれなんてどうでもいい。でも、わかってるだろ? 行動しないのか?」

「何を言っているのか、理解ができません」

「わかってるんだろう」

 

 ノミが繰り返し訊くと、彼女はやや表情を強張らせた。少しの間宙を見つめて、何かを振り払うように首を振る。

 

「…知らない」

「人の心は、愛情だけで満たせない。鍵は、一つじゃないんだ」

「どうでもいいです」

 

 彼女は、足早に出ていった。

 ノミは欠伸をしてから、両手を握り合わせる。それは、まるで何かに祈っているような仕草だった。

 そして最初から最後までずっと、貴樹は息を荒くしながら火守女との合理的なスキンシップを楽しんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 高原ちとせは、自分の事をあまり高くは評価していなかった。

 今まで、本気で夢中になれるものを見つけたことはない。高校生ならまだまだ普通だという、父親の声もあったし、ただその時その時を楽しく過ごせればいいと思っていた。

 背は並。中学までバスケをしていたから、足にはまだ筋肉の名残があるが、段々とたるんできているような。少しだけ、気にしていた。また上手く時間を作って、ジョギングでもすれば、引き締まった細さが戻ってくるのではないか。

 自分の顔のことも、もの凄く肯定的に見ているわけではなかった。悪くはないのだろう。かつて宇部に散々言い寄られた経験もある。だが、そのことを思い出すと、むしろ自信がなくなってくる。それに、あの実織などと比べたら、完璧だとは思えなかった。

 だから、親友の芳野恵美に頼んで、髪を染めた。不思議と、茶色の方が自分に合っている気がしたからだ。毛先の方を軽く丸めて出かけることが習慣になった。少しだけ化粧も始めた。

 夢見がちな所があると、よく言われる。何せ、母親がまだ生きていた頃は、何度も自分には王子様がいて、いつか迎えに来てくれると騒いでいたのだ。未だにそれは、なかなか恥ずかしい思い出として残っている。父親もよくネタにしてくる。

 担任である貴樹やクラスの人気者の国広を、久慈や芳野と一緒になって熱を上げていたのも、そういう願望のせいかもしれない。それでいて、いざ実際に男性との関わりを深めようとはしなかった。あまり、勇気を持てなかった。夢が覚めるのが怖くて。今までそれでも好意を抱けるほどの相手に出会ったことがなかったのも、一因だった。

 下田彰浩という男子のことを、最初はあまりよく思っていなかった。

 いや、本当の最初、まだ学校にいたころは、意識すら向けていなかったはずだ。彼はそれだけ、印象の薄いクラスメイトだった。うるさい草野の横にいることくらいしか憶えていない。

 それが色々あって、同じ隊として関わるようになった。

 なんなの、あいつ。

 当時はずっと考えていたことだ。気が弱く、いつもどこかびくびくしている。それで時折自分たちを責めるように見る視線が、気に入らなかった。はっきりものを言わないタイプが、一番苦手だった。

 だが、そういう印象は正しくはなかった。一緒に戦い、国広のおかげで互いのことを知ろうと思えた時には、彼女は下田のことを見直すようになっていた。それに、母親をもの凄く大事にしている所も共感できた。からかうとちゃんと面白い反応を返してくれるのも可愛いと思っていたし、まるで弟ができたような気分で、隊の仲間達を失った悲しみを紛らわすことができた。

 

「あいつ、あいつはよ…」

 

 隣で、高坂はみっともなく涙を流している。ちとせは一瞬それをからかおうとも思ったが、自分も同じ状態なのを思い出して、ただ頷くだけに留めておいた。

 

「すげえんだよ。ありえねえ。俺、だったら、無理だ。誰にもできることじゃない」

「うん……」

「耐えられるわけがない。なのに、あいつは、さっきまで、守ろうとしてたんだ」

 

 扉の前にまで来て、彼は壁を殴りつける。既に下田が拘束されている牢は目前にまで迫っていた。あのノミというおかしな名前の男が、場所の記憶も含めていたのだ。だからこうして、真っすぐ向かうことができた。

 

「うたがっちまった。ちくしょう! 俺は、どう、あいつに謝ればいい。あんな、凄い奴の前で、どんな……」

「それでも、行かないと」

 

 はっきりと言うちとせも、実は未だに足の力が戻っていなかった。気を抜けば、その場に崩れ落ちてしまいそうだ。頭の奥が強く締めつけられている感じがして、顔の体温調整が狂っていた。ずっと熱くてたまらなかった。

 扉が開かれる。

 何を話そうか、直前までは何も思いついていなかった。

 あの、記憶。

 おぞましい繰り返しの記憶。

 血と肉と憎悪でまみれている戦いの記録。

 膨大な、それこそ宇宙が何度も生まれ死んでいくような長さの時間に囚われる。その、苦しみ。

 何もかもが、想像を超えていた。今も理解しているとは思っていない。だから、それに対してよくやっただとか、ただ感謝を述べるだとか、そんなものでは何も変わらない気がした。表面を滑る気休めにしかならない。

 だが、それでちとせは自分に呆れているわけではなかった。

 どうしようもない。

 彼女は両手を頬に当てて、深く息を吐き出した。心臓の鼓動が喉にまで伝わって、視界までもが揺れている。

 たとえどんな苦しみの記憶が続こうと、それらが一番、彼女の心に残っているわけではなかった。どんなに彼自身が呻こうが、他人がその手によって殺されようが、それよりもはるかに強い何かが彼女の頭を埋め尽くしている。

 自分は、どうしようもなく、嫌な女だ。

 下田の記憶の中のちとせは、笑ってしまうくらい、光を宿していた。重く常に沈んでいるような思い出の中で唯一と言っていいほど、自分と過ごす時間を、彼は大事にしていた。まさに全身全霊で、これ以上もなく深い情を向けてきている。

 だめだめ。

 ちとせは嗚咽を漏らした。

 また泣いちゃう。もう泣いてるけど。また、ぐちゃぐちゃになる。

 いくら拭っても涙は止まらないので、諦めてそのままにした。胸をかきむしりたくなる衝動に駆られるが、我慢をする。

 無理にでも笑顔を作って、座り込んでいる下田と向き合った。

 

「まただ、まただ、まただ…」

 

 彼は全身を跳ねさせながらそんなことをつぶやいている。

 

「また、来る。誰かがぼくを斬り裂くんだ。ワタシ達はもう、誰にも慮られることはないんだよ。ずっと一緒にいようね。うるさい、違う。お前も嫌だ。そんなこといってえ。アナタをわかってあげられるのは、ワタシしかいないんだよ? ずっと一緒にいようねえ」

 

 ちとせが一歩踏み込むと、膿の手がぴくりと動いた。かなり欠損しているが、何かを掴むぐらいの機能は回復していそうだ。それは俊敏な動きで伸びると、ちとせの喉元にまで接近した。高坂が動こうとするが、それを手で遮る。

 

「誰だ?」

「ねえ、」

 

 もう、最初の言葉は思いついている。

 ちとせははらはらと泣きながら、悪戯っぽく微笑んだ。

 

「あんたさ、どんだけあたしのこと好きなの?」

 

 自分の性根を、嫌悪した。

 下田への憐憫よりも、その苦しみに対する情動よりもはるかに。

 あふれんばかりの歓喜が、脳を支配していた。

 それはもう、ちょっとした自らへのコンプレックスだとか、子供の頃夢見た存在なんて来てはくれないと知った時の、尾を引く虚しさなどを、丸ごと吹き飛ばしてくれるほどのものだった。

 下田の感情は、ちとせの全てを肯定していた。何もかもを愛していた。ともすれば、家族から向けられたものよりも強烈な情だった。

 こんなのは、今まで味わったことがない。きっとこれからも、他の人からは決して得られはしない。

 

「勘弁してよね」

 

 さらに近づく。

 膿の手が、喉を覆う。

 

「やめろ、まぼろしを消せ。見せるな、見せるな…」

 

 離れようとする下田の顔を、両手で包み込む。彼の錯乱した瞳を、覗きこんだ。

 

「おかげで、あたしの将来めちゃくちゃだよ。どうしてくれんの? もう……、無理じゃん。だってまだ高二だよ? なのに、あんた以外の…」

 

 そこで耐えきれなくなって、ちとせはしゃくりあげた。自分の肌に痛みを感じる。おぞましい膿が侵食を始めている。それでも、前に感じたような恐怖は少しもこみあげてこなかった。これもまた下田の一部なのだと思うと、受け入られる気がする。

 あーあ。

 ちとせは責めるように彼の顔を見つめた。

 完璧にやられちゃってる。

 唇を、彼のそれに近づける。

 

「責任とってもらうからね。私の…初めても二回目も、あんただから。……ねえ、お願い。戻ってきてよ、アキ」

 

 目をつぶり、顔を前に動かした。

 口に、柔らかい感触が当たる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちとせは少なくない衝撃を感じた。

 いきなり目の前に下田とは別人の顔が現れた。

 から、ではない。

 それは少しクセの付けられた、肩に届く程度の茶髪で、勝気そうな目尻がぴくぴくと痙攣していた。

 どう考えても自分と瓜二つの顔が至近距離にいれば、誰だって驚くだろう。それでも、彼女はみっともなく後ずさるような真似をしなかった。その顔は、明らかにちとせへの敵意で歪んでいた。

 

「あんたが、ウミってわけ」

 

 相手は無表情になった。鼻で笑いながら、ちとせから離れる。自分の顔なのに、背筋がぞくりとした。決して自身では持ちえない鳥肌の立つような艶が、相手の顔から伝わってくる。

 

「あの害虫の仕業か。くだらないね」

「気持ち悪いから、その姿やめてよ。まだ元の姿の方が可愛げあったけど」

「虚しいね」

 

 ちとせの顔で、ちとせの声で、冷たい印象を感じさせる。

 

「彼の、ほんの上澄みをすくったくらいで、何もかも理解した気になってる。思い上がりも甚だしい。せめて一億年くらいは、彼と一緒に苦しんでから来てよ」

「あっそ。ところでお願いがあるんだけど」

 

 相手の出方は読めている。人の感情を引っ掻き回して、ペースを崩すのが得意なのだ。その挑発に安易に乗ってはならない。丸め込まれれば、ただただ呑みこまれて終わるだけだ。自分の言いたいことだけを伝える。

 

「アキを、解放して。彼はもう十分すぎるほど苦しんだ」

「だから、見当違いなんだよ」

 

 ウミはいつの間にか短剣を持っていた。それを迷いなく自らの鼻に突き刺す。ちとせに模して作られた顔が切り刻まれていく。少し怯むものを感じたが、さらに歯を食いしばってそれから目を逸らさずにいた。

 

「ワタシは、別にそうしてもかまわないと思ってる。でもさ、ほら、彼の方が、離してくれないんだよ」

 

 にぃぃと、口が裂けていく。

 

「アキヒロが、拒絶してるんだ。これ以上、まともに生きることをやめている」

「へえ、いいの?」

 

 彼女もまた笑った。

 

「いい加減身を引かないと、やばいことになるよ。ウミの部分が全部消えてなくなるまで、燃やされるかもしれない。あんただって、消えたくはないでしょ」

「脅してるつもりなのかな?」

 

 ウミは、その場に腰を下ろした。

 

「正直、何の意味もないよ。ただの苦痛は、耐えればいいだけだし。さっき言ったことの意味を、ちゃんと理解してもらう必要があるね。いいかい、ワタシはすでに、アキヒロの脳深くにまで同化している。完全にワタシから解放させようと思ったら、彼の脳まで破壊しないといけなくなるよ」

「それは…」

「わかってきたかい? もちろん、解決策はあるんだ。例え脳味噌のほとんどを焼かれようと、奇跡で再生させればいい。ただ、内部の神経、細かい部位、それらを何の後遺症もなく治せるほどの技術を持つ奇跡使いなんて、いないだろうね。ただ一人以外は」

 

 ちとせは、唇を噛んだ。

 

「ワタシの知る限り、アキヒロだけだ。彼の奇跡は、他の追随を許さない。つまり彼はその気になれば、ちゃんと自分を助けられるはずなんだよ。でもそうはしていない。そうする気がないから。いかに自分が無駄なことをしているか、わかっただろう」 

「で?」

 

 ちとせにはもう、躊躇いなどなかった。止まる選択肢は初めから持っていない。

 

「あいつが、どうしようもないお馬鹿さんなのはわかった。忘れてるなら、思い出させないと。あいつのせいでいたいけな女の子が一人、離れられなくなっちゃったって、ちゃんと言ってあげるの」

「もう、アナタの声なんて届かないよ」

「届かせる」

 

 さらに前へと一歩出る。ウミはその動きに反応して、腰を浮かせた。その下半身がだんだんと崩れ始める。黒く埋め尽くされていく。

 

「ここが、浅い所だってことはわかってる。あんたなら、つなげられるでしょ。もっと、アキがいるくらいまで深く、連れてって」

「…いいのかい?」

「早くして」

「今でも、アナタはぎりぎりだけど。それでも、構わないのかい?」

「御託はいいから。さっさとしろ」

 

 ウミは、確かに、嬉しそうに笑っていた。

 だが本当にそうなのかはわからなくなってくる。既に相手の姿はどろどろに崩れていて、かなりの大きさにまで拡散していたからだ。暗い膿が、ちとせの視界を覆い尽くそうとしている。

 

「交換条件ってことで、どう?」

「あぁ…」

「あいつが納得したら、ちゃんと、出ていってね」

「まさか、こんなに、上手くいくとは」

 

 全く。

 ちとせは自分に呆れていた。

 ウミが本当に嬉しそうに覆いかぶさってくる。

 

「念願が叶ったよお。アナタを、味わうことができるなんて…」

 

 なんたらは盲目って、よく言ったものだわ。

 思わず自嘲の笑みが漏れる。

 こんなことになっても、少しも後悔しないなんて。 

 ちとせはさらに深く、沈み込んでいった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 左手を、誰かに握られている。

 頬に濡れる感触がした。

 最初はあまりの体の怠さに負けて、それを無視していた。だが、段々と耐えられない痒さがやってくる。嫌だ嫌だと思いつつも、下田は手を動かそうとした。しかし、その前に涙は誰かによって拭われる。

 予想もつかなかった感覚で、思わず目を覚ました。

 

「あ…」

 

 気の抜けたような声がした直後、誰かが腕にしがみついてきた。何度も目を開け閉めして、視界を明瞭にさせていく。

 目の前で揺れる白髪へ、下田は右手を置いた。

 画家の少女はすぐに顔を上げてくる。

 

「よかった。本当に」

「ここは」

「個室の一つです。あれから…半日ほどが経ちました」

 

 イリーナもまた目を拭っていた。自分が目を覚ましたのを、たいそう喜んでくれているようだ。いや、少しおかしい気もする。彼女に加えて、画家の少女も、ユリアも、リリアーネも、実織も、高坂も。ただ喜んでいるという枠に収めるには、足りない気がする。

 そもそも、自分は取り返しのつかないことをしたはずなのだ。ついに正気を失い、貴樹に襲いかかってしまった。その様を、たくさんの人に見られていたはずだ。

 好きな人にも。

 そこまで考えて、下田は思考が切り替わった。まだ記憶は曖昧だ。しかし、何かがあった気がする。夢の中で、ちとせとたくさん話をしたような。

 

「あ、の…」

 

 下田は左手を握り直す。柔らかい感触だ。

 

「ちとせは? どこにいますか? なんだかすごく、会いたくて」

 

 今の彼の、朦朧とした意識でも、認識することはできた。彼女たちはさりげなく視線を彼から見て左へと一瞬だけ向かわせた。すぐに取り繕われたが、わかる。特にイリーナの表情が暗くなったのが把握できた。

 その視線を追うと同時に、左手の感覚を再認識した。握っているのは、握ってきているのは、誰かの手だ。とても柔らかくて、暖かい。女性の肌の感じ。

 下田は誰かの制止もかまわずに、左へ目をずらした。

 彼の左手を握っていたのは、ちとせだった。彼女は目をつぶり、浅く呼吸をしている。その左半身を、大量の膿に食い潰されながら。

 

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