火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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64.家族喧嘩

 貴樹は足をぶらぶらさせながら、隣に座る火守女をちらちら確認していた。

 ずっと、彼女は気もそぞろだ。こちらが話しかけても、まともな返事をしてこない。顔を合わせようとしても、すぐに逸らされてしまう。まさか急に訳もわからず嫌われたのかと恐怖したが、どうやら単に避けられているだけのような気がしてきた。

 なぜなら、時折彼女からの視線を感じるからだ。貴樹が見ていない時だけ、火守女は彼を眺めている。だがそれに気づいて動くと、すぐに洞穴の方へと視線が戻ってしまうのだ。こればかりは彼も不思議だったが、原因の一部は何となくわかっていた。

 

「解せないんだが」

 

 佇んでいるノミが、こちらを向いてきた。

 

「お前、どうして下田にそこまで味方するんだ。奴の経験に同情したからか?」

 

 同情だけなら、他の者も同じく抱いている。今、この篝火の広場では重苦しい空気がずっと漂っていた。皆が、下田のことを考えているに違いない。

 貴樹は、異様な危機感を覚えた。気のせいかもしれない。だが、なんだか最近、自分の影が薄いような気がする。

 察するに、下田はかなりの苦労をしてきたようだ。その思いを祭祀場の者達も汲み取って、大いに心を動かされている。急に彼があれほど強くなったのも、そこに関係しているのだろう。貴樹達の助けが来るまで、懸命に強者相手に持ちこたえていた。そして、この無名の王、ノミにどこか気に入られている。

 はっとする。

 これではまるで、物語の主人公ではないか。

 貴樹はぶんぶん首を振った。いや、どう考えてもあらゆるスペックで、自分の方がふさわしいはずだ。中心人物は自分のはず。有り得るわけがない。

 

「いや、勝手に思考に沈むなよ。質問しといて」

 

 ノミは困ったように相手の奇行を見た後、その場に腰を下ろした。

 

「わかりやすいよな。まあ、否定はできん。はっきり言って、おれはあいつにとことん生きてもらいたいと思ってる。それは別に、あいつの経験を知って、同情したからじゃない。もっと、単純なことだ」

 

 目で、先を促す。

 少しの間考えるような沈黙をした後、ノミは口元を緩めた。

 

「大事な女が育てた子だ。気にするのは当たり前だろ」

 

 貴樹はその意味を飲み込めなかった。回りくどい表現をせず、もっと具体的に話せと言おうとした。

 しかし、その前にノミは手を上げる。これ以上、話ができないと意思表示しているようだった。

 

「よお、元気か?」

 

 全員の視線が、上へと向けられる。一瞬前まで、鮮やかな白光が点滅していた場所だ。奇跡の光。

 下田は、出現した後も浮いたままでいる。その視線ははっきりと対象へ向けられていた。

 

「ノミ野郎…」

 

 憎悪とも呼べる強烈な視線を受けたノミは、特に表情を変えなかった。

 

「元気みたいだな。よかったじゃねえか」

「質問をする」

 

 下田は降り立った。その顔は依然として、氷漬けされたままだ。だがもう、その肌を侵食する醜い存在は消えている。それだけでも、印象は大きく違った。かなり柔らかくなった。ただそれでも、彼が非常に怒っていることには変わりない。

 

「僕の、記憶を、皆に見せたのはお前か?」

「そうだ」

「結果、それがどんなことをもたらすか、知った上で?」

「いや、わかるわけねえだろ」

 

 下田はしばらくノミを睨んでいた。

 その視線を受け続けているノミは、やがて薄く笑う。

 

「すまん、嘘だ。誰かがお前に同情をして、犠牲になってくれることを期待していた。お前は、重要な戦力だからな。多少の代償は構わないだろう」

「…お前の」

 

 その手から、呪術剣が生成されていく。

 

「四肢を焼き斬って、残った部分を、不死街の底に捨てる。わかるな?」

「へえ。面白い自由研究になりそうだな」

 

 ノミは立ち上がり、剣槍を拾い上げた。くるくると二回転させて、肩の上に担ぐ。その刃からちょうど、閃光が弾けた。

 

「病み上がりには悪いが、手加減はしねえぞ」

 

 軽蔑するような含み笑いが起きた。

 それはたいして大きくはない。だが、衝突する寸前の張り詰めた静寂の中では、やけに際立って聞こえてきた。

 下田は徐々に炎を消していき、首だけを回して声のした方を見る。

 

「何だ?」

「いえ……。ただ、おかしくて」

 

 ヨルシカはまだ嘲りを顔に浮かべている。

 

「貴方は、本当に愚かなままですね。最初から、何も変わってなどいない」

「竜女」

 

 下田は首を回した。骨が鳴る。

 

「今、少し手が離せないんだ。後で構ってやるから、黙ってろ」

「ミサもチトセも、貴方のせいで死んだようなものです。私でも、呆れています。その足りない脳を最大限稼働しても、たかが知れていますね」

 

 彼女は白いドレスの裾を揺らした。

 

「貴方がどうなろうと勝手ですが、その無様な行動だけはやめてくれませんか? 目に映るととても、不愉快なので」

「ふう…」

「思えば、前もそうでした。貴方は目の前で母親を殺されたのにもかかわらず、ただ、腰を抜かして泣いているだけでした。楽しいですか? そんな愚図な本性に皮を重ねていって、多少なりとも通用している現状が。滑稽です。私だったら、そんなことには決して耐えられないでしょう。早く自害した方が、身のためなのでは? そうすれば母親もチトセも、喜んで迎えてくれるはずです。…まあ、チトセの方は醜いあれがついたままかもしれませんが」

 

 ヨルシカは、自身が光に包まれていることに遅れて気がついたようだった。だが、何も行動することなく挑戦的に下田を睨みつけたまま、消失する。同時に下田の方も転移していった。どこに行ったにしろ、彼らは同じ場所へ再出現しているのだろう。

 

「いいのか?」

 

 貴樹はたいして真剣味もなく尋ねた。

 

「あん?」

「追わなくて。あいつら、十中八九殺し合うつもりだぞ」

 

 ノミは、満足そうに長々と息を吐き出した。剣槍を下ろした彼は、まるで一瞬だけ何百年も老け込んだように感じた。

 

「いいんだよ。こういうことは、早めに片付けておかないと。冷や冷やしたぜ。ま、シモダに一発殴られるくらいは許容してやったんだがな」

 

 直後、ノミの頬で爆発が起こった。その大柄な体は何の抵抗もなく転がっていき、石階段に激突する。そこからさらに炎が炸裂した。最終的に彼は石の玉座の真下の壁に全身を打ちすえることになる。

 ノミはぱちぱちと何度か瞬きして、首を傾げた。

 

「なんかおれ、こういうこと多くね?」

「お久しゅうございます。旦那様」

 

 にこにこしながら、クリムエルヒルトが彼の前に立った。彼女はついさっきまで眠っていたのだが、もはやそれを感じさせはしない。激しい熱気が、その赤毛をゆらゆらと際立たせていた。言葉の調子は柔らかいのだが、細められている目の光は激しい。

 その瞳を一瞥してから、ノミはへへへと無理に笑みを作った。

 

「よ、よう。体調は戻ったのか。アナス…」

 

 今度は、ソウルの塊がその頬に直撃した。剣槍が横に転がっていく。数度ノミの顔が衝撃にさらされた後、仰向けに寝っ転がったその体の上に、クリムエルヒルトは馬乗りになった。

 

「貴方なんかに、呼ばれたく、ありません。だいたい、その喋り方は何なんですか。気持ちの悪い。本当に、虫唾が、走る…」

 

 やがて彼女は術さえも使わなくなった。黙っているノミに向けて、何度も拳を振るい始める。その手から血が流れ出しても、やめなかった。

 貴樹は、気まずそうなホークウッドと顔を合わせた。

 

「ぶべっ、ちょっとま……、おちつ、はな、はなしを」

「このろくでなし……。プリシラ様をずっと孤独にさせた。どれだけの罪…。絶対に許さない。お前なんか、お前なんか。命で償え」

「ああ」

 

 振るわれる手を、ようやく掴んだ。ノミは静かに、相手の顔を見上げる。

 

「わかってる。すまなかった。おれが今まで救いようのない馬鹿だったことは、理解できた。だから命を懸けて、お前の願いも叶えてやる。もう、離れはしない」

「うう…」

 

 彼女はさらにもう片方の腕を振り上げたが。それは相手に到達する前に、力なく下ろされていった。それはそのままノミの胸に当てられて、彼女の顔も徐々に下がっていく。

 次第に、周りの者達は腰を上げ始めた。今まで心配そうな空気だったのが、やや変わってきている。貴樹は、前にもこんなことがあったと思い返した。その当人であるホークウッドは、徐々に洞穴の方へと体をずらし始めている。

 クルムエルヒルトは、全身を震わせながらノミの胸に額を密着させた。

 

「どれだけ、待たされたか……。ずっと、待って…。もう生きて帰ってこないのかと。ひっく、死んだものだと、諦めてたのに」

 

 彼女の涙で頬が濡れているノミは、視線だけを動かして貴樹達を見てきた。その顔は、ほとんど思考停止しているように思える。こういう時、どうしていいのかわかっていないようだ。助けを求めるように瞳を揺らしている。

 

「ちょっと」

 

 唯一ミレーヌだけが、面白そうに声をかけた。どこかすかっとしている様子だ。

 

「私達、出ていった方がいいわよね。二人っきりでじっくりと話したら?」

「…うるさい」

 

 クリムエルヒルトは少しだけ顔を上げてから、またノミの体にくっついた。その反応だけで満足したのか、ミレーヌは笑いながら離れていく。

 全員が空気を読んで広場から出た。火守女のそばを歩きながら、貴樹は再び嫌な気配を感じていた。

 やはり、おかしい。自分から、スポットライトが離れていくような気がする。これは明らかに、危険だ。脅威が大きくなりすぎる前に。どうにかして下田とノミを摘んでおかなければならない。

 念入りな、殺害計画を立て始める。上手くいけば、この先の戦いの中で二匹を殺させることができるだろう。

 火守女がぼうっと前を向きながら歩いていた。そのせいで、彼女は途中、何かに躓いてしまう。貴樹は慌ててその体を支えた。勢い余って、深く抱き寄せる形になる。

 

「あの、その…」

 

 火守女は小さく謝って、すぐに離れた。

 貴樹は、その横顔を一瞬だけ観察する。間違いない。頬の色がやや濃くなっているようだった。照れている。あの火守女が、自分を意識している。

 幸せな気分になって、それまで考えていたこと全てを忘れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 下田は大きく伸びをした。準備運動のようなものだ。

 対するヨルシカは、まだ何もしていない。

 

「どうした?」

 

 言われると、とっさに彼女は手を前に持っていった。しかしその行為自体がまるで恥であるかのように、すぐに下ろす。

 

「ここは…、どうして、ここを?」

 

 岸壁に囲まれた場所で、二人は向かい合っていた。下田にとってはそれなりになじみ深い場所だ。最初の戦いの場所。初めて、殺された所。繰り返しの中では、おびただしい回数鍛錬をした場所だ。

 

「ここらへん何て呼ばれてるか、知ってるよな」

「灰の墓所」

「そう」

 

 下田は両足の筋を伸ばし終わった。

 

「お前の墓にもなるけどな」

 

 ヨルシカの方も、張り詰めた気配が濃くなる。彼女は短い詠唱をすると、五つのソウルの矢を自らの周囲に顕現させた。

 

「正直…」

 

 下田も呪術の塊を作った。両者の距離は徐々に開いている。動いているのは、ヨルシカだけだった。だがそれは、別に怯えからきたものではない。どうやら彼女には、何か考えがあるようだ。

 

「お前が生きて、呼吸をしていると思うだけで、何事も心から楽しめなくなる。わかるだろ。お前だってそう思ってるもんな。僕に対して。両思いだ」

 

 彼は呪術を消した。両手を頭に持っていき、大きな欠伸をする。それに対して、ヨルシカは怪訝そうな目をした。それにも構わず、地面に転がっていた年季の入っているショートソードを拾い上げる。

 

「何を?」

「ハンデだよ」

 

 少し間をおいてから、付け加える。

 

「ああ、えっと、つまり縛りみたいなもの。圧倒的な実力差があると、普通にやればすぐ終わっちゃうんだ。だから手加減が必要になる。僕は符呪以外の術を使わない。奇跡も。これくらいなら、まあまあもつだろ? 二十秒くらい」

「貴方の、」

 

 ヨルシカは言葉を切って、さらに五つ、魔術を追加した。平然を保とうとしているが、その綺麗な眉間に寄っている皺はごまかすことができない。

 

「安い挑発になど乗りません。どのような条件であろうと、殺すだけです。貴方の首を、貴方に肩入れしている者達に突き付ける瞬間が、待ち遠しい」

「それで、どうするんだ?」

 

 下田はからかうような口調になった。

 

「誰も味方がいなくなって、結局は兄様に泣きつくのか。愚図なのはどっちだか。あんな化物を家族だと勘違いしているなんて」

「わかっています」

 

 彼女の拳が強く、握りしめられる。

 

「人食いは、人食いでしかない。グウィンドリン兄様は、もうどこにもいない」

「じゃあお前、何のために生きてるんだ?」

「それは…」

「お前の本質を、教えてやろうか」

 

 下田は自分の剣に青白く符呪をした。

 

「何かに依存していないと、駄目なんだよ。そうだろ?」

 

 ヨルシカは俯いた。

 

「大方、親からも捨てられて、まともに愛してもらわなかったんだろう。竜の血を引いているせいで、虐げられていた。オーンスタインの接し方を見ればわかりやすい。でも、グウィンドリンだけは違った。彼だけは、お前をまともな相手として認識していた」

「よく、舌が回りますね」

「産んだ母親のことを恨みながら、庇護してくれる相手にくっついていることだけを考える。そういう、糞つまらない暮らしをしていたんだろうな」

「……」

「でも」

 

 下田は口の端を吊り上げる。

 相手の顔に嘲りの視線を合わせた。

 

「本当にそうか? プリシラを、お前は本当に憎んでいたのか?」

「…シモダ」

「違うんだろ。やっと、わかったよ。お前が僕を嫌っているのは、嫉妬しているからだ。プリシラを取られたのが、嫌だったんだ。ママは私を捨てたのに、別の誰かに構っている。そういう思いが、常にあったんだろ。可愛いでちゅね~」

「黙ってくれませんか?」

「それだけじゃない。僕の境遇自体も、羨ましいと思ってたんだよな? そりゃあ、お前なんかよりはずっとましだよ。僕の母さんは、最高だ。最高の家族だ。お前を捨てて、別の誰かを庇護した竜の娘なんかよりも、ずっといい親だ」

「黙りなさい」

「どうするんだ? ん? もう兄様もママもいないぞ。今度は、誰に依存するんだ? まさか、僕か? だったらごめん。受け入れられない。アバズレは無理なんだ」

「黙れ…」

 

 今や、ヨルシカの顔は醜く歪んでいた。目の前の男に対して、最大限の憎しみを向けていた。

 

「気持ち悪い。そういうのを、ガキって言うんだよ。わかるか? 独りじゃ少しも前に進めない、愚図の窮まったクソ女」

「死んでください」

「命乞いをしなくていいのか? 今の内だけだぞ」

「死になさい」

「言葉だけは一丁前だな。お前が死ねよ」

「死ね」

「くたばれ」

 

 ヨルシカは、右手から剣を伸ばした。

 

「シモダァァァ、アキヒロオオオオオオオオオオ!」

 

 叫びと共に、両者の距離はほとんどなくなっていた。そのあまりに素直な軌道に、下田は呆れる。結局真っすぐ突っ込んでくるだけだ。

 ヨルシカの速剣を、符呪した剣で受け止める。本当は最低限の動きで避けて、上手いこと反撃を狙えるチャンスだった。だが、あえてそうしない。彼女の攻撃をできる限り正面から防いで、焦らせる。彼女が追いつめられて、絶対に勝てないのだと十分に理解させてから、仕留める。

 飛んでくる三本の矢に反詠唱を行う。彼女はそれを予期していたようだ。右足を動かし、下田の腹を狙っている。その膂力ならば、容易に貫き、内臓を押し出せるだろう。

 下田は斜めに傾いていきながら、刃を振り下ろす。同時に頭を曲げて、迫ってくるファランの速剣から逃れた。

 訓練で使い古されているとはいえ、符呪されているショートソードは簡単にヨルシカの足へ吸い込まれていった。彼女は距離を取ろうとするが、遅い。切断された右足が血を吐き出しながら転がっていく。

 

「右足」

 

 ヨルシカは体勢をほとんど崩さなかった。ぼこぼこと斬られた部分が波打つ。前へと倒れるようにして、さらに速剣をきらめかせた。

 

「左腕」

 

 その軌道を、下田は完璧に読んでいた。わざと右耳を斬らせてから、ごくわずかな移動だけで致命傷を避け、反撃を行う。速剣を所持していた彼女の腕が、振り切った勢いそのままに吹っ飛んでいく。

 やはり、推測は正しかったようだ。体の再生は、無意識でできるようなものではない。下田の奇跡ほどの治療速度を発揮するためには、ちゃんと集中する必要があるようだ。こうした戦闘中では、それほど速く完治させることはできない。

 ヨルシカの瞳が、目前にまで迫る。それは、苦渋で歪められていた。

 

「右腕」

 

 彼女は半端な姿勢で飛ぼうとした。だが、両腕と片足が欠けた状態で、満足な動きができるはずもない。

 

「左足」

 

 四肢を全て切断されたヨルシカは、地面に転がった。それに対して冷静な顔で、下田は見下ろす。想像していたものと、何かが違った。

 

「九秒くらいか。脳に雷を流せば、一瞬だ。じゃあな」

 

 符呪の種類を変えようとして、その行動を途中で止めた。

 相手の体が、透明になりつつある。

 下田は下がって、彼女が見えない体を発動させるのを観察した。

 警戒をしたのは、初めての行動だったからだ。過去の戦いにおいて、彼女がその術を行使したことなど一度もない。全くの予想外だとは言わないが、今までとは違う流れを感じずにはいられなかった。

 そして、その練度も、予想より高かった。大げさでなく、下田のそれよりも完璧な行使をしていた。もはや半端な視覚では、まるで位置を把握することができない。どうやら、ソウルの流れさえも隠蔽できているようだった。これでは音だけが頼りだ。

 と、彼女は思っているのかもしれない。

 下田は目をつぶり、半歩下がった。

 顔のすぐ前を、不可視化された魔術が通り過ぎる。 

 腰へと複数の線。

 連撃だ。

 ちょうどその軌道に、剣を合わせた。微妙にそれぞれずれているので、細かく対応していく。手に伝わってくる衝撃から判断して、矢と速剣を不規則に混ぜているようだ。

 区切りがつくまで防いでから、一本の矢を分解し、彼女の接近に攻撃を合わせた。実際に目に見えるわけではないが、向かってくる敵意の線から逆算すれば、位置を割り出すことくらいは余裕だ。

 が、空振りに終わる。

 その時確かに、派手な音を聞いた。

 魔術同士がぶつかり、爆発する音を。

 ヨルシカの体は、おそらく、急速に横へ移動していた。その加速が、下田の予測を上回った。

 下田はぎりぎりを見極めて、顔を引く。

 しかし、間に合っていなかったようだ。

 喉が裂け、呼吸ができなくなる。息の代わりに、大量の血が吐き出された。

 奇跡の光で、傷口を覆う。完治させながら剣を振るい、さらに追撃を加えようとするヨルシカへ牽制した。

 

「あら、見間違いだと良いのですが」

 

 姿を現した彼女は、指を口元に持っていき、あてつけるような笑みを漏らした。

 

「貴方がそういう人だと忘れていました。少し前に言ったことも忘れる脳しか持っていませんでしたね」

「…お前相手に、正直でいくと思うか?」

 

 下田がもう片方の手に速剣を出現させると同時に、ヨルシカの姿が再び消える。

 間違いない。もはや確定だ。明らかに彼女は意識をしている。いつもの戦い方から脱却して、別の道を切り開こうとしている。そのためならば彼の技を真似することも厭わない。

 加えて、段々とヨルシカの動き自体も変わりつつあった。それは、記憶にある彼女よりも洗練されている。脅威になるほどの差はまだないが、この短い間で変化できているということ自体が異常だった。

 おそらく、下田の記憶を体験したせいだ。ノミが、彼女だけを例外とするわけがない。そこに刻み込まれた戦いを理解して、下田の動きを感じた上で、彼への対策を立てようとしている。

 彼女の攻撃をかわしながら、素直に嫉妬した。

 結局、自分がこれまで膨大な時間積み上げてきたものは、それほどおおげさなものでもなかったのだ。才能があり、身体の性能にも恵まれた者ならば、はるかに短い時間で同じ領域に到達できる。

 ヨルシカもまた、その例に十分当てはまっている。

 

「あと一年くらい戦い続けたら、追い抜かれるなあ」

 

 言い切った時には、既に彼女の喉を貫いている。魔術の爆発で逃げようとする前に、設置されたソウルの塊を分解した。慣れないうちは、不可視化の並列には苦労するものだ。いくら彼女といえど、まだ粗がたくさんある。

 が、予想外のことしてきた。そのまま怯んで下がってくれれば一番良かったのに、反対に前へと飛び込んできた。剣がさらに食い込み、彼女は血を吐きながら喉に手をやる。その肌から青白い光が大きくなっていき、小さな奔流が放たれようとしていた。

 下田はそれを悠々と分解しようとして、頭に鈍痛を感じた。

 まずいと思った時には、反詠唱が失敗している。自分が万全の体調ではないことを、少しの間忘れさせられていた。

 回避に専念する。

 ヨルシカは下田が飛ばしたソウルの弾丸を受けてもひるまずに、さらに懐へと入り込んできた。

 彼女の足が、下田の腰にめり込んでいく。骨が粉砕されていくのを、下田ははっきりと感覚した。表情を見るに、相手もそれをたっぷりと感じているようだ。

 あえて自分から横へと転がり、衝撃を緩和させる。彼女のふり降ろされた拳を断ち切り、返す刃で胸へと差し込んだ。

 ヨルシカは頭を振りかぶると、躊躇なくぶち当てに来る。

 下がろうとしたが、何かに掴まれて一瞬固まった。

 その隙だけで、十分だった。

 下田の額に彼女の頭が炸裂する。強烈な頭突きを食らった彼は、目の前の点滅をどうにかすることに気を取られた。

 というふりをした。

 下田は魔術の爆発で位置を変え、ヨルシカの斜め後ろに瞬時に回る。彼女が反応しきる前に、左肩を斬り裂いた。

 同時に、顔のすぐそばでソウルの矢が出現する。その数は、全方位を覆い尽くすほど多かった。分解が間に合わないと判断し、渋々奇跡を使う。

 祭祀場への道へと続く入口に出現し、下田はヨルシカを見た。相手もまた、こちらのことを眺めていた。

 彼女はとんとんと、指で頭を示してみせる。もう片方の手で、腰を撫でた。

 

「頭と、腰を破壊しましたよ? この程度ですか」

 

 下田もまた親指で、肩を指す。

 

「自分の肩見てみろよ。うえっ、気持ち悪い。自分だとどんな風に見えるんだ? 竜の再生で肉が醜く蠢く様は」

 

 ヨルシカは口に溜まった血を横に吐いた。

 それが地面につく前に、下田が前へと走り出している。

 厄介な事に、彼女は理解し始めているようだった。

 どういう戦い方を、下田が一番嫌っているのかを。

 結局技をどれだけ磨こうと、体の限界が足を引っ張ることになる。下田とヨルシカでは、肉体の性能にかなり差があるのだ。だから、それがあまり作用しない術戦を中心にすることが、彼にとっての最善手だった。

 だからこうして接近されて、常に近接での戦いに持っていかれると、めんどくさいことこの上ない。

 そして、術が使える余裕もなくなってきている。やはりウミが支援していた部分も大きいのと、ろくに体調がを回復しないままこうして戦っているのが原因だ。既に何度か転移を行使しているのも影響が大きい。

 しかしそれで、決定的な敗因になるわけでもなかった。

 下田は点を見極めて、線を把握しながら、踏み込んでいく。

 何かを操作しようとしているヨルシカの手を寸断した。

 彼女の方が、一動作ごとの速さは勝っているのだろう。

 しかし、つなげていく段階に関しては、下田の練度にまるで達していなかった。彼の組み立てた攻めの流れに、全て対応することはできない。

 さらに、彼女も動きが少し鈍っている。いくら再生するとはいえ、失った血まで戻るわけではない。その純白だったドレスは、赤く染まりきっている。裂かれた布の部分は戻らないので、徐々に肌の露出が多くなっていた。そこを斬られて、さらに赤い模様が広がっていく。

 ヨルシカは、斬撃を受けながらその身を回転させる。

 一瞬、完全に背を向ける形になった。

 その隙を逃さず、後頭部へ向けて剣を突き出す。

 

「は?」

 

 だが、その刃は途中で止められた。

 柄の部分に、白い何かが巻き付いている。あっという間に力が込められ、下田の剣を握っていた右手が潰された。

 そしてそこでは終わらず、もの凄い勢いで横へ引っ張られた。ヨルシカが体をさらに回転させるとともに、巻き付かせた尻尾をたわませる。下田はソウルの矢を飛ばしてすぐにそれを斬り落としたが、その時には自分の体の姿勢が崩れていた。

 彼の顔を救い上げるようにして、彼女の足が放たれる。すぐさま体を持ち上げて、のけぞりながらその蹴りを避けようとする。

 つま先が、目の前を通った。

 と思えば、視界が縦に裂かれている。

 なぜ自分の顔が斬られているのか、理解はできた。彼女は足からさらに、速剣を生やしていた。馴染みのある工夫だ。下田も使ったことがある。

 奇跡を使わず、前へ進んだ。気配を把握しつつ、顔に向けて剣で突く。

 が、手応えはなかった。

 かわした後の攻撃が来る前に、魔術の塊を踏んで離脱する。

 それに対してヨルシカは追ってこなかった。

 戻った視界で、彼女を観察する。

 有効な攻撃を与えられたというのに、ヨルシカはほとんど満足していないようだった。それどころかさらに怒りの表情を強めて、下田を睨みつけている。

 

「おいおい、これは驚きだな」

「このような…」

「それ、そんなに器用に動かせるんだな。いいじゃないか。らしいぞ。すごく、竜みたいだ」

「屈辱を…。貴方は……」

 

 息を乱しながら、下田は突進してくる彼女を見据えた。

 本当になりふり構わなくなったようだ。

 尻尾は、他の部分よりも硬かった。下田の腕力では、一息で剣で斬ることができない。さらに攻撃の手数が増えたことで、段々とダメージが蓄積しつつあった。

 彼女の速剣と衝突した瞬間、ショートソードが折れた。符呪による補強でも間に合わないほど、ぼろぼろになっていた。刃が飛んでいき、下田の頬をかすめる。その傷へ向かって、ヨルシカは指を突き出していた。

 下田はそれを掌で受ける。表面では止まらず、皮を裂き骨を貫通して、裏側へと出た。

 自分の肉を押し出しているその細い指を、しっかりと捕まえる。

 竜の膂力で、無理やり彼女は離れた。その衝撃で、下田の腕が肩から丸ごともぎ取られていく。

 攻防の中で少しずつ仕掛けていた魔術を、即座に相手の周囲へ展開した。十本を超える弾丸が、ヨルシカに向かって収束していく。

 だが、彼女は全てを無視した。

 下田がいる方向へと、迷いなく走り出す。ほとんどの弾丸を身に受けながら、彼の首筋へ青白い速剣を振るってくる。

 無事な方の手でそれを分解する。

 返しで手のひらから伸ばした魔術剣を相手の喉に刺した。

 それでも、ヨルシカは止まらなかった。

 彼女は拳を弾けさせて、下田の肩に直撃させる。はっきりと、骨が折れていく音がした。その衝撃は腕だけに留まらず、脇腹にも伝わっていく。

 どうやら、肉弾戦を望んでいるようだった。別の手段を使った方がいい場面でも、彼女は直接殴っている。完全に、その戦い方はかつてのものから乖離していた。下田の体が破壊される感触を、そんなにはっきりと味わいたいのだろうか。

 また、尻尾が来る。

 下田はファランの速剣で三つに斬った。そのままヨルシカの顔を蹴って、後ろへと下がっていく。

 彼女はその追撃として、魔術を続けざまに放った。その全てに同じものをぶつけていく。彼女の激情をあおるように、狂いなく相殺していく。

 下田が作った炎の塊を、彼女は飛び回りながら避けていった。もう、ほとんど魔術での移動法に慣れてきている。体勢を崩すことがなくなった。おまけにその速度は下田のそれを優に凌駕している。脚力の圧倒的な差がそこにあった。

 かわす合間に魔術を放っていた彼女だが、やがてその行動はしなくなる。下田の攻撃が止まっても、すぐに向かってこようとはしなかった。呼吸するたびに、肩が大きく上下している。彼女の表情からいって、ほとんど限界が来たのは確かだった。

 術を扱える限界が。

 下田は胸を抑えながら、右手に力を籠める。

 こちらも、それはほとんど同じだった。

 どういうことだ。

 自分のことが、わからなくなる。

 明らかに、勝てる相手だったはずだ。苦戦するわけがなかった。今までどれだけ、戦ってきたと思っている。いくら彼女が浅い知恵を働かせようと、勝敗を左右するほどのものにはならないはずだった。

 なのにどうして、こんなに長引いてしまっているのだろう。

 残りの気力は全て奇跡に回さなければならない。もう、攻撃に使う余裕はない。

 嘲笑うような、何かの声が聞こえた気がした。

 それはヨルシカの声ではない。

 だから、相手にはしない。ただ目の前の、憎い敵だけを考える。

 不利になるが、何とかなる。上手く流れを感じながら、右手を打ち込めばいい。こっちの力なら、首をもぎ取ることも可能だ。殺すことができる。

 だがその前に、相手の鼻柱を折ってからにしよう。

 下田とヨルシカは、同時に叫びながら踏み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ◆

 

 

 彼女は、自分の価値を信じていた。

 周りのほとんどを見下すことによって、自分だけが自分の中で際立っていると思いこむようにしていた。

 そうでもしなければ、耐えられなかったからだろう。幼い頃から毎日のように繰り返されていた、虐待とも呼べる訓練。彼女は、遠大な目的のためのおびただしい数の駒。その一つとして、責務を全うできるよう、殺し方を教わっていた。

 だから、槍が嫌いになった。

 雷は、もっと恐れるようになった。

 その負の感情を、親に向けるようになったのは無理もないことだ。生まれてからすぐに去っていった両者のことを、どう愛せというのだろう。

 唯一グウィンドリンだけは、彼女のことをおもんばかってくれた。彼との時間だけは、他のあらゆる憂鬱なことを忘れていられることができた。

 だが、そんな幸せな時期は、すぐに過ぎ去っていく。

 使命。

 責務。

 奉仕。

 それらを背負い、仮面を被って、長い年月を過ごしていく。彼女は、火継ぎに対して何の尊敬も抱いていなかった。恨みを持っている大王の一族が注力をしているというだけで、良い感情は持てなくなる。

 鬱屈で押しつぶされそうになる時は、思い出すのだ。

 グウィンドリンとの時間を。

 そして、あの胸がすくような殺人を。

 子供の方を殺さなかったのは、別に情からではない。

 そして、ほんの気まぐれでもない。

 事情はともかくとして、大きな戦争があってからの数千年、彼女にとっての楽しみは、それが起きてからの行動を夢想することだった。

 とにかく、どういう顔をするのかが興味深かった。既に自身の母親が殺されていることを知った時、どんな反応をしてくれるのか。初めはそれを想像するだけでも暇を潰せていたが、やがて足りなくなった。

 もっと、楽しみを増やすべきだと思った。ただ教えるだけではつまらない。できる限り希望を持たせて、最後の最後で、全てはまやかしだったのだと悟らせる。しかもその事実を、信頼していた女性から聞かされる。なんて、素晴らしい娯楽なのだろう。

 事実、それと他の有象無象が目覚めてからは、退屈な時間が少なくなった。それが何の疑念も抱いていない顔で、ただこちらへの憧憬だけを胸に接してきている時は、殺意を抑えるのに苦労した。早く解放して悦楽に浸りたいという思いと、もっと溜めてから、最高のものを味わうのだという思いがぶつかり合っていた。

 だが、結局、計画はまるで上手くいかなかった。

 それどころか、あの男は、災難の元になった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ…」

 

 自分の鼓動が、呼吸がやけに響いている。

 下田の殴打を、首を傾けて避ける。耳の端が吹き飛んで、じわりと血がにじみ出していく。頬を伝い、下に落ちていく感覚は、少しも戦いの邪魔にはならなかった。

 ヨルシカは素早く指先を動かし、相手の耳をもぎ取った。

 重い吐息が、口から漏れた。

 

「右耳、なくなりましたね」

 

 喋っている途中で、自分の腕がへし折られるのを感じる。見れば、下田は邪悪な笑みを浮かべながら、口を動かすところだった。

 

「左腕、無様だな」

 

 今まで、知らなかった。

 何もかも予想外のことが進行し、今に至っている。散々だった。もう、全てを放り出したいという気持ちに、かられたこともある。

 それでもそうしなかったのは、結局、彼女は今まで大したことを知らなかったせいだろう。長く生きてきたのにもかかわらず、経験が欠如していた。

 その時、自分が涙を流していたことを、今でも恥じている。一生の汚点だと、自覚している。

 あの無責任な男。今はノミと名乗っているらしい存在が起こした行動によって、ヨルシカもまた知ることになった。

 下田がどうして、これほどまで邪魔な存在になったのか。

 その、全ての記録を。

 初め自分が少なからず衝撃を受けたのは、どんな矮小な存在でも時間を膨大にかければ、あれほどにまで昇華されると、わかったからだと思った。思いこんでいた。可能性の拡大。そのことを自分に当てはめて、それまでしてきた鍛錬を思い返して、心を動かされたのだと思っていた。

 だが、さすがに自分をずっとごまかすことはできない。

 正直、彼がどんな苦労をしてきたかなど、興味はない。どうでもいい。そしてどれだけ強くなり、数多くの戦士たちを殺してきたかも、眼中にない。

 記憶の旅の中で、最も強烈に残ったのは、

 やはり、自分自身への感情だった。

 その積み重なった憎悪と殺意は、ヨルシカの中の定義を容易に書き換えた。

 結局、グウィンドリンの同情は、片手間だったのだと、認めざるおえない。彼もこちらを庇護しようとしてくれたのだろうが、本当に彼女のためだけを思っていたのかは、謎だ。それが本物の、向けられた感情かといえば、今は疑問が出てくる。

 本物は、あれのことを言うのだ。

 下田の鼻を折る。

 入れ違いで、腹を貫かれた。

 血が飛び交う。

 自分の臓物が相手にかかる。

 再生させながら、足を踏みつぶした。

 どんどん削っていかなければ。もうわかってきている。限界は近いのだろう。この調子で下田に奇跡を使わせていけば、やがて切れる。

 

「内臓垂れ流しやがって、だっせえ」

「足の骨全部砕いてあげます」

 

 だんだんと、視界が狭くなっているような気がする。

 体の芯が定まらない瞬間がある。

 だが、戦いは問題なく続いていた。

 お互い、もう他の手段を持ち合わせていない。術もほとんど使えず、武器は己の体だけ。直接傷つけ合い、むき出しの感情をぶつけ合っている。

 それは、断絶だった。

 環境の断絶。

 切り取られていく。下田の部位を一つもぎ取る度、こちらの体が一回削られる度、その感覚は強まっていった。気配として、こちらに向かってきている集団がいるのはわかっている。だがそんなことを気にする気分になれない。

 目の前の男しかいない。

 自分たちだけが、この世界に存在している。お互いに唯一の情を向け合っている。

 そんな気がする。

 息が乱されている。

 ただの疲労のせいだけではないような気がした。

 ヨルシカは知らなかった。

 かなりの時を生きてきた彼女でも、想像もつかない期間。相手はずっと、他の者を殺している間も、彼女のことを見ていた。殺したいと願い続けていた。その強烈な情念が、本物の感情というものなのだと、理解し、最初の自分へ嫉妬した。楽しみを奪った繰り返しの初期の自分をも憎悪した。記憶を体験した直後は。

 頬に、下田の血がべちゃりとついた。反射的に、ヨルシカはその液体の一部を舐めとっていく。気色悪いと思いながら、お腹の部分がふわりと浮かんでいくような不快ではない感覚の正体を掴もうとしていた。 

 太古、竜は食べていたという。

 無力な存在を。

 食べることで、より効率的にソウルを取り込んでいた。

 だがその血を引くヨルシカには、そんな思考は今まで浮かんだことがない。そうしたいと思ったことがない。耐えられなかったからだ。ソウルなど、間接的に得られる。わざわざ気持ち悪い肉に口をつけ、体内に取り入れることなど耐えられない。まして、それが憎んでいる相手となればなおさら無理だ。 

 下田の腕が飛んだ。勢いづいて、ヨルシカの顔に当たった。切り口から肉がこぼれ、彼女の口の端についた。避ける動きでずれていき、不可抗力的に口内へと滑り込んでいった。

 背筋を、強烈な痺れが伝う。

 

「はぁ、あ……」

 

 かつて、エルドリッチは言っていた。

 ソウルとは記憶であり、経験なのだと。故にその濃さは、所持者がそれまでしてきた経験の量、質によって決まる。その点で言えば、この男のそれはまさに。

 こんな、の。

 こんなもの、が……。

 こんなものを、どうして自分は知らなかったのだろう。知ろうとしていなかったのだろう。あまりに無駄だった。これまでの全てが、この瞬間のためのお膳立てに過ぎなかった。あらゆる行動が、これに直結している。

 もはや正気ではない。

 下田はヨルシカの喉をえぐり取りながら、一瞬だけ怪訝そうに見た。

 

「お前…、酔ってんのか?」

 

 答えは、蹴りで返した。爪の先で彼の下腹部を削る。瞬間、ヨルシカはくすくすと笑みをこぼした。

 

「酔ってません」

 

 お互いに血を浴びる。

 お互いの血を掛け合う。

 肉を飛び散らせる。

 たまに口に入る。

 ソウルが、全身へ澄み渡っていく。

 それはもう、情交だった。ヨルシカにはわからないが、本能的に強く惹き付けられていた。永遠に続くものだと、すっかり思い込んでいる。終わりはなく、自分も相手もぐるぐる回っている。そして、時折交わる。

 だが、もちろんあり得ないことだ。

 綻びは明らかに、ヨルシカの方が大きくなっていた。彼女は足元すらおぼつかない。呼吸も不規則になっていて、繰り出す攻撃の精度も落ち続けている。

 当然の帰着として、彼女が先に限界を迎えた。

 下田の二本の指が、布を破き、胸に突き立った。それで止まることはなく、続く他の手の部分もめり込んでいき、拳ごと背中まで突き抜けた。ヨルシカは、自分の吐き出した血と下田の体から滴り落ちる血で、顔が染められていくのを認識する。認識して、訳が分からなくなっていった。

 

「死ね、死ね、死ね…」

 

 下田の方も取り憑かれたように周囲をまさぐっている。幸か不幸か、彼の手は欠けたショートソードを探り当てた。おそらく残り僅かであろう彼の気力が、雷を生み出すことに全て消費されていく。

 ぼろぼろの刃に、雷光が宿った。それは確実に、彼女の脳を破壊するだろう。命の危機が迫っても、くらくらしている頭のせいで抵抗ができなかった。

 生涯最後の光が、視界を埋め尽くしていく。 

 ヨルシカは息を吐き出しながら目をつぶり、次の瞬間になってもまだ残っている自らの意識を、不思議に思った。

 目を開ける。

 顔のすぐ横に、弾ける雷があった。

 

「んで、なんで…」

 

 刃は彼女の耳の端を焦がしている。それだけに収まっている。

 目線を上に戻すと、下田は苦しそうに顔を歪めていた。

 頬に、赤色ではない雫が落ちてきた。

 

「なんで、できないんだよ! くそが…、ちくしょう。なんで、ずっと憎んでたのに。殺したかったのに」

 

 ヨルシカは自身の体を跳ね上げた。

 彼の顔を横に押し、力の限り地面へと叩きつける。未だ震えている足腰を何とか動かしながら、相手の体を押さえつけた。完全に上下が入れ替わる形になる。それでも下田は、右手に握っていた剣を離していた。

 

「おろ、か。ばかな男、ばかですね…」

 

 口があまり回ってくれないが、形勢は逆転したとほくそ笑んだ。すぐに喉へと手をやって、最も苦しむ死に方を相手に押し付ける。

 

「が、か…」

 

 唇を舐めながら、苦痛にあえぐ表情を眺めた。

 これで終わる。

 この男が死ぬ瞬間を見られる。苦しみ、絶望に沈み、まだ生にしがみついていたいという顔を見物しながら、念願を達成することができる。

 本当に?

 ヨルシカは、自分の頭を殴りつけたくなった。

 黙りなさい。

 終わらせてしまうんですね。この時間を。これから先、同じものを味わえる保証なんてないのに。気付いているんでしょう? あの情を、きっと彼だけが向けてくれる。他の誰からも、得ることはできない。

 殺さなければ。

 あの悦楽を逃がし、この男を殺したせいで大勢に疎まれて。きっと貴方の結末は、ひどくつまらないものになる。

 まやかしが。

 そっと、血にまみれた腕に小さな手が添えられる。

 少女の顔を、ぼうっと見た。

 

「やめて」

「はい…?」

「もう、やめて。これをけじめだなんて言う男もいるけど、私はいや。兄さんと姉さんが、殺し合うのは見たくない。嫌なの。お願い、離してあげて」

「小娘が…。命令を、私に、するな」

「お願い」

 

 この白髪の少女のことは、排除すべきだとずっと考えていた。だが、グウィンは反対していた。彼女の、特異な力に注目していたからだ。出自がどうであれ、利用すべきものは残していた。

 だが今は、自分の考えだけで行動しよう。手をただ振るうだけで、この少女の首を飛ばすことができる。 

 その前に、声がした。

 

『結局二兎を得るのが、気持ちいいんだよね』

 

 ヨルシカは、即座に手を引いた。

 しかし、下田の頭から飛び出してきた膿は、その白い肌にまとわりついてくる。針を形作り、あっという間に内部へと差し入れてきた。

 

『ちとせもすてがたいけど、ワタシの方はこっちかなあ。ま、少数派みたいだったけど』

 

 妙な違和感は、前から感じていた。

 下田の記憶からして、彼が呪術を完璧に扱えるようになったのは、この膿がいたおかげだ。しかし、先ほどの戦闘においても、かなり巨大な火球を操っていた。膿はもういないはずなのに。

 つまり、それはちとせとどのような契約を交わしたのかは知らないが、結局守る気もない約定だったということだ。下田の脳には、まだ残っていた。

 ヨルシカはうずくまる。竜の血を引いているおかげで、深淵の毒にはまだ耐性があった。それでも、かなりの苦痛であることにはかわりない。もはや、彼にとどめを刺すどころの話ではなくなった。

 

「早く、イリーナを! 兄さんが…」

 

 駆けつけてくるノミに向かって、少女が叫ぶ。

 かろうじて視線を上げると、下田は意識を失っているようだった。だが、出血は止まらない。頭に開いた穴とそれ以外の諸々の傷が、確実にその命を奪いつつあった。

 多すぎる。奇跡使いが駆け付けたとしても、間に合うかどうか。

 それに、脳の一部が欠損している。イリーナといえど、完治させることができるかどうか、わからなかった。

 鈍った頭でも、結論は浮かびつつあった。

 その判断を、一瞬で終わらせる。

 表の憎しみと、内なる声が混ざり合い、どちらが本当の感情なのかわからなくなっていた。どちらも本物なのだと、次第に考えるようになってきた。

 

「ふぅ…」

 

 ため息をつきながら、ヨルシカは腰を上げた。片手の激痛でもう気絶しそうだが、その前に重要な仕事を終わらせるつもりでいる。

 腕を折り、骨をちぎった。

 少女が、呆気に取られている。

 

「何をするの…」

「血を…」

 

 それだけ理解したようだった。少女はヨルシカの腕をとると、そこから滴る血液の流れを下田の口へと合わせた。

 仕方がない。

 ヨルシカは言い聞かせる。

 血を分け与える。竜の血を。

 それは、古くからのしきたりにもあった。もちろん厳密には竜の陣営に属していない彼女には知ったことではなかったが、その行動はある一つのことを意味している。

 気にしないようにした。なぜなら、そういうつもりで行動したわけではないからだ。

 下田は弱々しく咳き込んだ。口の中に入った血が全て吐き出されていく。

 少女は泣きそうな瞳を向けてきた。

 

「駄目。飲み込んでくれない」

「…なるほど」

 

 こちらも深く傷ついているはずなのに、次の案をすぐに思いつけたのは不思議だった。それは決して、願望が表れているわけではない。少なくともヨルシカ自身は、これを合理的な選択肢だと思っていた。冷静ではない思考能力で。

 彼女は歯を食いしばりながら、少女から腕を奪い取る。

 

「手間の、かかる……」

 

 大口を開けて、食らいついた。

 嫌な感触だ。自分の体を食いちぎるなんて、誰だって忌避するに違いない。

 さらに上を向きながら、腕を掲げた。びちゃびちゃと、竜の血が流れ落ちていく。口内に溜まっていく。

 ぷくっと、少し頬を膨らませたヨルシカは、妖しい瞳のまま、下田に近づいた。既に周囲が慌ただしくなっているのにも気がつかず、未だ断絶された世界の中で相方の顔を見ていた。

 自分の顔を下ろしていく。

 さすがに間近にまで迫ると、目を開けていることに躊躇した。瞳を閉ざし、ヨルシカは不本意だと内心文句を言いながら、下田と口を合わせる。

 相手の口内へ血を垂らしていく。喉に詰まらない適切な量と勢いを心掛けた。

 一瞬のようでいて、永遠にも感じられた。

 ぐるぐると回る。循環する。

 下田の状態が落ち着いた直後、ヨルシカは膿が与えてくる激痛で失神した。

 


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