その凛とした瞳はどこか、苦し気に揺れていた。
「本来、このような…、無意味な争いをしている場合ではないのです。我々は立ち向かわなければなりません」
唖然としている下田に顔を向けると、その表情は和らいだ。が、すぐに真面目な顔に戻る。
グウィンは警戒のまなざしを彼女へ向けた。
「この機を伺っていたということか」
「大王様」
彼女はそれから立ち上がっているノミへ、最後に貴樹へと視線を定めた。
「他の方達も。落ち着いてください」
まだ座り込んでいる下田の肩に触れた。その白い手はさらに彼の腕へと流れていき、優しくつかむ。引き起こされる途中で、下田は自分の足の力を取り戻したようだった。最後まで彼女の助けに頼ることなく、真っすぐ立った。
下田は少しぼうっとしてから、己のやるべきことを思い出したかのようにはっとした。
武器を下に落とし、周りの者達に向かって頭を下げる。
「本来は、こんな慌ただしい形になるとは思っていませんでした。無礼をお詫びいたします」
オーンスタインが、威嚇するように槍を立てた。
「既に話をいくらか進んでいるようですが、僕もほぼ同じ意見です。これからやってくる深淵を、貴方達と共に討伐する。これが最善だと考えています」
「シモダも、そうなのか?」
グウィンは崩れたテーブルの欠片に両手をついた。
「我々に対する恨みを忘れることができると?」
「無理です」
下田は拳を握りしめた。その顔が少しの間歪められたが、隣のプリシラがそばに寄ると、元に戻っていく。
「お前達の、してきたことは消えない。絶対に許さない。でも…、きっとどちらが悪なんてことは、わからないんだ。貴方達は生きるために戦った。僕達も同じです。だからこそ、利害の一致は可能だと思っています」
「して、具体的には?」
今度は、プリシラが話し始める。
「おおよそは、そこの、タカキさんが言っていたことと同じです。ですが、彼の計画には一つ、致命的な欠陥があります」
(はあ?)
一瞬キレそうになったが、貴樹は黙っておいた。流れ的に、これ以上言葉を重ねるのは墓穴を掘っているのと変わらないと直感していた。
「確かに、元の地球へと戻ることは可能です。それを妨害してくる深淵の主達を倒せば。しかし、まだ足りないのです。もはや時の彼方へと追いやられたかつての地球。その世界を作るためには、ソウルが足りません。今のままでは、決して完成に至らないでしょう。私達全員のソウルを消費したとしても」
(え、そうなの? マジ?)
貴樹の計画のずさんさが露呈する。結局彼は、プリシラの能力を過信していたということだ。
「ですが、その問題を解決するものがあります」
下田が続けた。
「ダークソウル。暗い魂。それを手に入れられれば、十分すぎるほどの塗料になる。存在は、大王も知っているでしょう」
グウィンは否定も肯定もしなかった。
「かつて貴方は、最初の火を見出した。その力は圧倒的で、闇の時代を覆すきっかけになった。ですが、全てではなかった。光のもとに生まれていた影を、貴方達は見逃していたんですよね。火が持ち去られた後、そこにはまだ、残っているものがあった」
「世迷い言だ」
アルトリウスが、割り込んでくる。それにも構わず、下田は全員に向かって訴えかけた。
「誰に、何に回収されたのかはわかりません。ですがそれは、火のソウル以上の可能性を持っている」
「所在は、ずっと、わかっていませんでした。ですが探し続け、ついに見つけることができました。人類が滅んでいく、地球において」
ノミはプリシラをじっと見ていたが、彼女の方はあえて避けているような節がある。
「深淵の主、マヌス。間違いありません。あの怪物の中に、ダークソウルは宿っています。倒し、回収することができれば…。世界を描けます。まだ外部の干渉に晒されていなかった、地球への道を」
「それで、どうする?」
また、同じような言葉をグウィンは並べていた。貴樹は油断なく周囲の反応を観察する。もし乗り遅れてしまえば、非常に自分にとって都合の悪いことになるのは確実だからだ。
「再び、戦争を繰り返すのか? プリシラ。お前が止めようとしてできなかったことを」
「間違っている」
下田は既に、何かの決意を固めているようだった。そこにはもう、かつての姿はない。膿に侵食されていた頃の、むき出しの憎悪は消えていた。
「貴方達はどうして、別の道を選ばなかったのか。僕達人間のことを、ただの燃料以外の存在として認識していれば、もっと、問題は単純になったはずです」
その目は逸らされることなく、大王に向かっていた。
「今度は、僕達もいます。もちろん、最初は難しいかもしれません。ですが必ず、貴方達別世界の存在を、地球の皆に受け入れさせる。共存です。最初から、選ぶべきだった。貴方達は虚しい遠回りをしていた」
「つまり、そういうことなんです」
貴樹はここだ、となるべく自然な形で言葉を挟んだ。
「すみません。僕は嘘をついていました。大王、貴方達の野望を、最後まで手伝うつもりはなかったんです。本当はもう少し後で説得するつもりだったんですが、下田が早めに言ってくれて、かえって良かったかもしれません」
直前までどのような話がなされていたのか理解していない下田は、そこで不思議そうに見てきた。それに合わせて、親指を立てる。途端胡散臭そうに眉をひそめてきたが、無視した。
(くそ、ダークソウルだと? 初耳だ。やられたな)
どうやら、お邪魔虫一斉処分作戦は無効になってしまったようだ。おそらく、あの自分が途中で退出した話し合いの時に、誰かが余計な入れ知恵をしたのだろう。この場で話されてしまった以上、軌道修正は不可能だった。
「もちろん、信じられないのはわかります。ですが、どちらにしろマヌスとやらを滅ぼすことに、僕達の中で食い違いはないはず。そちらの中のわだかまりは、重要な戦いが終わった後にいくらでも対処すればいい。お願いします。共に戦いましょう」
しばらく、考えるような間が空いた。騎士達の反応は一つにまとまっている。己の王の考え次第だと。
グウィンは、黙っているプリシラを見た後、下田に向かって言った。
「綺麗な言葉だ。誰もが一度は望む。だが、シモダよ。お前は我々を信じられるのか? わかっているぞ。経験の中で染み込んだ感情は容易に消えはしない。口では都合の良いことを並べようと、実際に納得しているかどうかはわからない」
「最初はそうでした。嫌だった。でも、もう違う」
下田は迷いが出ないよう、心がけているようだった。それでもややぎこちない動作で、ヨルシカの体に近づく。その肩を抱き寄せ、頬同士を密着させた。かなり背伸びをして。
「僕は…、こいつを憎んでいました。ですが、考えを変えました。許しはしません。それでも、直接血がつながっていないとしても、家族を恨み続けることはできない。これから、証明していきたいと思っています。たとえかけ離れた世界の者同士でも、共存していけると」
プリシラは、近くにある彼の顔に対して、笑いかけた。それは息子に向ける親のような微笑みだった。満足したように目を閉じる。
瞬きを繰り返し、瞳から涙がこぼれていった。再び完全に目を開いた時には、その印象はやや幼くなっている。表情にも、余裕がなくなっていた。
ヨルシカは弾かれたように下田から離れる。彼のことをまるで珍獣のように眺めた後、慌てて目元の涙をぬぐう。だがそれはあまり意味がなかった、次から次へと、溢れているからだ。しばらく止まらなかった。
「落ち着けよ」
「と、とうとう、気が狂ったのですね」
「しっかり憶えてるのか。いや、真面目だ。正直な気持ちを言った」
下田は口を曲げながら、斜め上を向いた。
ヨルシカも鼻を鳴らす。目の縁を赤くさせながら。
「ぞっとします。こちらから願い下げです。貴方のような弟を持つなんて」
「僕も、お前みたいな妹なんて嫌だ」
「…」
「…」
「馬鹿なんですか? どうやらとっくに目も腐りきっているようですね」
「お前は脳が溶けているみたいだな。僕が兄の方に決まってるだろ」
「私が姉です」
「死にたいのか?」
さらに二人は続けようとしたが、すぐに現実に戻ってやめる。貴樹としては完全に白けて、この隙に立て直しを図ろうとも考えたが、グウィンの様子を見て思いとどまった。大王は、シモダとヨルシカを交互に見てから、ゆっくりと首を振る。
「残念ながら、提案を受け入れることはできない。このままお前達を殺し、祭祀場にいる薪を全て得る。その方が確実だからだ。常陽の民を、信じることなど不可能だ。なぜだかわかるか?」
グウィンは顔を片手で覆った。その指の隙間から、燃えるような瞳が貴樹達を捉える。王にはそぐわない感情が渦巻いていた。
「我々が、お前達の世界と邂逅したのは、決して偶然ではない。我々は、地球のことも、そこにいる住民のことも、何一つとして知らなかった。だが、お前達は違う。違うのだろう?」
激しくはない。燃え上がるほどでもない。それでもはっきりとした憎しみが、大王の様子には含まれていた。
「自分が、自分の世界が、まるで見世物のように、大衆に消費されているとわかった時、どのような心情になるかわかるか? それだけではない。もしかすれば、お前達の種族の誰かによって生み出された存在に過ぎないという可能性を突き付けられた時の気持ちを、理解できるか? 我々のこれまで味わってきた辛苦、あらゆる不条理があらかじめ仕組まれていたとわかった時、その元凶に報いを与えることに何の罪がある。間違っているかもしれないのだとしても、お前達に止める権利があるというのか?」
貴樹は、初めて男性との会話で泣きそうになった。深い同情がその胸を焦がしている。同時に、地球人の愚かさを改めて知った。
下田は静かに言った。
「だから、貴方達は、最初に日本を襲撃したんですね」
「そうだ」
グウィンは既に武器を抜いている。周りの騎士達も同様に。
「我々はゲームの中の存在ではない。戦いを通して、お前達にも理解させるとしよう」
貴樹のコウモリ的思考が、熱を発しながら回っていた。心情的には完全にグウィン側へと傾いている。今自分が味方すれば、戦力的には申し分なくなるだろう。問題は、その後の処理だった。まずノミ、下田、ヨルシカはちゃんと殺さなければならない。祭祀場へと持ち帰る事実は、上手いこと脚色する必要があるだろう。そのためには、プリシラの存在も邪魔になってくる。
とそこまで考えた所で、大きな体が間に割り込んできていた。
緑髪がさらさらと流れていく。
フィリアノ―ルは、厳しい表情でグウィンを見下ろしていた。
「もう、ごまかしはたくさんです。うんざりしました」
「王女様! 危険です、奴らに背中をむけるなど」
「シラ。下がっていなさい」
彼女はずりずりと椅子を引っ張って、グウィンと貴樹達の間に置いた。そして、あまり音を立てることはせず、腰を下ろした。
「大王、偉大なる父上。刃を交わして何とします? プリシラ様と、シモダ様が語ったことはまさに光明のようなもの。受け入れぬ道理はございません」
「その者達を庇うのか?」
「たとえどのような事情があるにせよ、最初に争いを始めたのは私達です。大王様の語り方には作為的なものがあります。貴方は結局、侵略を選んだでしょう。初めからそれしか考えていなかった。さも、彼らに罪があるような言い方は、あんまりではありませんか。罪を犯したのは、私達です。自らの世界のことを、自らだけで解決できなかった無能の集まり」
言葉は強いが、声は穏やかなままだった。大王も、騎士達も、それに対して怒っている様子はない。ただ、声を聞いていた。
「にもかかわらず、彼らは歩み寄ってくれているのです。私達の世界というのは、この部屋、宮殿、荘厳な街ではありません。私達自身です。どんな場所でも、命をつないでゆけるのなら、十分ではありませんか。私は、賛成します。彼らと手を取り合いたい」
「裏切られれば、全てが無に帰す」
「初めから、裏切っていたのは私達だけです。こちらから信じなければ、同じ道を辿るでしょう。正しい決断を願います」
貴樹は再確認する。
本来、彼女はここにいないはずだった。フィリアノールは高い塔の上で仮初の眠りについている。そういう、設定だった。違いが出てきたのは、やはり、地球とのつながりのせいだろう。それがあらゆる差異を生み出した。ただ絵画世界に閉じこもるだけだったプリシラが、規格外の存在として様々な影響を与えている。もし彼女が生まれてこなければ、自分が火守女と出会うこともなかった。永遠に、別々の道を進んでいた。
グウィン達をけしかけることもできたが、そういう思考のせいで遅れた。そのせいで、未来は定まったも同然になる。
「信頼か」
大王は武器を収めた。それから再び席について、下田の方を向いた。
「お前達は、我々を信じるのか?」
「はい」
「タカキ」
「もちろんです」
「我が、不肖の息子よ」
ノミはようやく、グウィンと相対した。返答を渋るようにしていたが、やがて考えが固まったのか、迷いのない様子で頷いた。
「あんた達が、プリシラにしてきたことは忘れない。だが、いつまでも引きずるほどおれは愚かじゃない。別に縁を戻すつもりはないが、一緒に戦うことを約束する」
「妙な話になったものだ。思惑通りにいった試しがない」
グウィンは長々と息を吐き出した後、フィリアノ―ルを見上げる。逡巡するように目をつぶり、やがてはっきりと口に出した。
「末の子の、行動に免じよう。それほど時間はない。すぐに、策を練る必要があるだろう」
それから、やや驚いたように見てきている臣下達に向けて言った。
「納得はできないかもしれん。だが、ついてきてくれるか?」
彼らは迷いなどしなかった。動揺を見せたのは一瞬にも満たない時間だけで、すぐに自らの王へとかしづく。オーンスタインはそこで兜を初めて外し、固く握っていた槍を離した。アルトリウスとキアランは同時に膝をつく。ゴーは、その巨躯を流れるように折り曲げた。最後にシラが、王女の側で頭を下げた。
アルトリウスが、代表して声を出す。
「我らは、大王様に忠誠を誓った身。そのお考えに殉じるのみです。どのような状況になろうと、最後までお供いたします」
会談の結論が出された瞬間だった。
その光景を、貴樹は興奮の中で眺めていた。つまりこれで、対抗する戦力がそろったわけだ。敵として戦うのも捨てがたかったが、横に並んで共通の敵に対するのも、素晴らしいと思った。だからなるべく自分への矛先が向かないよう、締めの言葉を出す。
短い拍手をして、貴樹は笑顔を維持した。
「素晴らしい。考える限り最高の結果です。未来は、これで保証されたようなもの。まずは祭祀場に戻り、報告をする時間を下さい。それから、僕達全員で集まり、知恵を分け合いましょう。安心してください。きっと僕達なら、あらゆる困難を乗り越えていけるはずです」
(あれれ。おかしいぞ…?)
貴樹は純粋な表情を作りながら、感じていた。
自分へと向けられる、全員の視線を。
結局ごまかしきれなかったのだと、そこに含まれる感情で把握した。
「交渉において重要なのは、いかに相手を誘導するかということ。お互いの妥協点を探るだけでは、一生成功しません。要求をそのままぶつけた所で、意味はなかったんです」
べらべら口を回すが、あまり手応えがないのはわかっていた。拘束を破ることくらいは簡単だ。周りの感情を気にしないのなら。
と、貴樹は内心強がってみせるが、実際彼の両腕と胸に巻き付いている縄は、力でどうにかできるものではなかった。下田が出現させたものだ。元はちとせが使っていた能力だった。対象に接触すると、ソウル自体を縛る。つまり、目に見えている縄はまやかしで、それを噛みちぎろうとしても意味はない。
「あえて、過激な提案をする。そしてすぐに本命の代替案を提示する。心理学的にも有効とされている方法ですね。相手に、こちら側が妥協をしたと錯覚させ、受け入れやすいように誘導するんです。というわけで、僕は決して、本気であんなことをしたいと思ったわけではありません。ひもりん、信じて」
正面に座っている彼女は、困ったように横を見た。助けを求められたノミは、首を振る。
下田が、腕を組んで見下ろしてきた。
「あの、普通に謝ってくれるのが一番なんですけど。一応先生のそういう所はわかってるつもりなので」
(かーっ、ぺっ。なにホモくさいこと言ってんだ? 気持ちわりい。ガキの癖に偉そうな態度取りやがって)
「おい、こいつ絶対反省してねえぞ。しまいには深淵に寝返るんじゃないか?」
「うーん、さすがにそこまでは」
ノミから自分がした発言全てを皆に報告され、貴樹はそれなりの窮地に立たされていた。特に、火守女に知られたのが痛い。その前に彼女を依存させるつもりでいたのだ。
貴樹は己の神経に働きかけて、目を潤ませた。実際に涙をこぼすところまで行くとくさいので、ぎりぎりを見極める。とにかく、全員に同情を向けさせる必要はなかった。泣きそうな目を、火守女へと固定する。
「誤解なんだよ。確かに、今ままでの行動からしたら、そう思われるのも仕方ないかもしれない。僕は…、責められても仕方がない。でも、限度はわかってるんだ。こんな誤解を受けるなんて、酷すぎる」
「あ、これはわかるかも」
ミレーヌが急に声を上げた。しげしげと貴樹の表情を観察している。
「だって違うわ。前に、火守女と喧嘩した時も泣いていたけど、あれよりも微妙に眉間の皺の寄り方が浅い。つまりあの時は本気で、今は演技ってことね」
ホークウッドも呆れを通り越し感心しているような調子で頷いた。
「すげえな。あれを見てないと騙されていた」
「タカキさん…」
アンリは悲し気に声をかけてきた。
思わぬ指摘に、思考が止まる。なんとか呆然としたふりをして、ゆっくり瞼を開け閉めした。ちょうどその動作によって涙が零れ落ちるよう、調節する。
「話を、聞いてください…」
「タカキ様」
火守女はすでに考えがまとまっているようだった。最初の方は彼の同情を誘う仕草に動かされかけているようだったが、もうそこには迷いがない。
「どうして、地球を再び滅ぼそうなどと、考えたのですか?」
逃げ切るには跡を残しすぎたとようやく理解した彼は、軌道の修正を図る。
首を振って、頬を流れる涙を周囲に飛び散らせた。
「本気じゃなかった。きっと酔っていたんだ。君という存在に。君以外の全てが無駄に思えてしまっていた。現実が遠くなって、自分の愚かな考えが肥大していった」
(まずは、ひもりんを懐柔できればいい。何とかなるだろ。だって俺だけのひもりんなんだし?)
ノミが剣槍を、貴樹の下半身に向ける。
「何だか苛々してきた。去勢したほうがいいんじゃないか? 度し難いにもほどがあるぞ」
「粗チン野郎がほざいてんじゃねえぞコラ! 俺の伝家の宝刀は、ひもりんという至高の鞘に収まるために作られたんだ。虫ごときがどうにかできると思ってんのか? くたばれ! あほ! まぬけ! さあああある!」
挑発にまんまと乗せられて、記録を更新するレベルの気色悪い発言をしたことに遅れて気がついた。涙は一瞬で乾いてしまったが、すぐに再生産をする。
「うう……。初めからこれは、仕組まれていたんです! この男は、最初、僕の体の中に寄生していました。最初は悪魔の囁きに耳を傾けまいと、無視をしていましたが、結局負けてしまった。おかげでこうしてこいつが外に出た後も、精神は汚されたままで。僕の人格を、いともたやすく歪めていくんです。被害者は、僕の方なんです! どうか助けてください」
「皆、騙されないで」
実織が、すっきりしている顔で言う。まるでこの瞬間を待ちわびていたかのようだった。
「昔から、こいつはああいう感じだったから。家にいた時も。都合が悪くなったら、嘘でうやむやにするのが得意なんだ」
薫もまた、彼女に同調する。
「そうだね。この子、嘘泣き得意だから」
「今すぐその薄汚い口を閉じろ、ババアども! 家族面しやがってええええええ。さっさとぶっ殺……あああああ! くそ、まただ。ノミ、いいか、僕は絶対お前を許さない。元の清らかな僕を返してくれ。また、大事な家族を傷つけてしまった…」
「なあ、疲れないのか? マジで珍獣だな」
確かに、自分の精神構造の変化を感じていた。今までは本音など決して表に出なかったのに、ちょっとしたきっかけで漏れるようになってしまっている。感情の歯止めが効かないというより、そうする必要がないと思いこんでいるようだ。愛する火守女の前では取り繕うこともないと、無意識に言動を選択している。
「今も、変わっていませんか?」
火守女は眉を下げながら尋ねてくる。
「タカキ様は、自分と同じ人間を、憎んでおられるのですか? 家族も…」
「いやいや全然。そんなことないよ」
「私は、嫌です。どうか、考え直してみてください。貴方の苦しみを、なくしたいのです」
「ありがとう。君は本当に、最高の女性だよ。でも、気にしないで。僕は、情の深い人間なんだ。隣人を愛せ。親からもそう言われてきた。今も、胸にしっかりと刻み込んでいるよ」
「……」
顔を合わせようと努力したが、段々と自分の目がずれていった。彼女の真摯な目線に対することができない。額から汗が流れ始めた。
「貴方は、とても優しい方です」
「う、うん」
「ですが、それを他の方に向けることはしない。私のことを思いやってくださるのは、とても嬉しいのですが、お願いします。もっと周りの方にも目を向けてください。貴方の思いやりを、私が独占するのは忍びないです」
「どうなんだろう。君の悪い癖だ。むしろ足りないくらいで…。僕はもっと君を」
「決めました」
彼女は、しっかりと言い切った。そこに、大きな変化を感じる。遠慮してばかりだったころとは、見違えた。色の違う両目を、分けられた銀の前髪から覗かせる。
「貴方を…変えてみせます。貴方が、私にしてくださったように。家族の方達ともちゃんと向き合えるようにします」
他の者達と一緒になって、彼は火守女に感心していた。まるで他人事のように。しかし、何を言われているのかを徐々に理解し始めて、熱が浮き上がってきた。
追いつめられたような顔から一転、その表情に光が宿っていく。
「え…、それは、その」
「はい?」
「プロポーズって、ことかな。うん、わかった! 永遠に添い遂げようね。きゃっ」
感無量になって、貴樹は顔を真っ赤にして悶えた。そのらしからぬ乙女のような仕草に、実織が吐きそうな顔をする。薫もまた、指で十字を切っていた。
「ぷろ…?」
「でも、いいかい? 夫の考えを諫めるためには、ちゃんとした行動をしなきゃいけない」
「あの」
貴樹は縛られたまま、胸を張った。小物くささがより一層増していく。
「俺を変えるためには、まずするべきことがある。憶えてるよね? 何か一つ、言うことを聞いてもらうって約束。今ここで使うから」
他の者達は、彼への対処を火守女に任せることにしたようだ。それが一番確実で、効果のある方法なのだと、ほぼ全員が理解し始めていた。ノミはつまらない茶番でも見せられているような顔で、その場から離れた。
まだ興奮している顔色で、貴樹は続ける。
「ちゅうをしなきゃいけない」
「頬に、ですか?」
「いや違う」
(落ち着け落ち着け落ち着け…)
「ここ。口にだよ。口と口を合わせるんだ」
「ですが、私のような」
「やってくれないと、拗ねるよ。はい決定! お、お願いしますっ」
跳ねる。羞恥を全身で表現していた。
火守女は周りにちらりと目を向けてから、俯く。少し考え事をする時間が空いてから、ゆっくりと頷いた。
「はい、わかりました。そこまでおっしゃるのなら」
彼女は膝立ちのまま、近づいてくる。恥ずかしいというよりも、本当にしていいのかという不安の方が大きいようだった。貴樹の顔へ拳一つ分くらいまでの距離になる。しっかりと目は開いていて、彼の瞳に写る自分の姿を確認しているみたいだった。それから小さく息を吸い込んで、唇を動かす。
貴樹は後ろにでんぐり返った。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待って! やっぱりうそ」
荒くなった呼吸を何とか落ち着かせる。気絶まで至らなかったのは、多少なりとも成長した証だろう。しかし、本当に重なってしまえばどうなるかわからなかった。
少しだけ目を伏せる火守女に向かって、手をかざす。とっくに下田の拘束は解かれていたが、今の貴樹にはどうでもいいことだった。
「いや、心配しないで。まだ、まだ早いってだけだから。ちょっと、ね? 刺激が強すぎるというか。別のにしよう」
「何が依存させるだよ。どの口で言ってんだか。無理だなこりゃ」
外野からノミが突っ込んだが、沸騰した頭の中には入ってこない。
貴樹は、顔の熱を落ち着けせて、火守女へと向き直った。
「よし、こうしよう。いいかい?」
「はい」
「これから、向かいたい所がある。君も、一緒に来てほしい。つまり…、新婚旅行ということになるんだけど、いい?」
「?」
「挨拶回りも兼ねてるね」
「すみません、一体どこに行くんですか?」
ぼろぼろの兜を横に投げ捨てて、彼は立ち上がった。
「深みの聖堂」