火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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73.クリア

 ちょっとずるかったかなと、場違いな回想をする。

 本当は、それほど不安ではなかった。あまりにも彼の存在が大きすぎた。だから、もっと構ってもらうための言い訳のようなものだった。

 子供の頃から、孤独だった。物心ついた時には、親や兄と妙に考えがずれることが多いと気が付いていた。

 事故で家族全てを失くし、孤児院に預けられてからも同じだ。大人は優しくしてくれたが、同じ子供達からは排斥されていた。彼らの意見を総合すると、ミレーヌは何を考えているのかわからない、不気味な相手らしい。

 できる、ということを誇らなくなったのはそういう背景も原因かもしれない。頭の構造が、普通の人とどこか違っている。ギフテッド。彼女は十歳になった時、既に英語、フランス語、ドイツ語、中国語、ラテン語を習得していた。資格を取りつくしていた。

 だが、結局そんなものはあまり意味がない。想像もつかないような事態に巻き込まれた時、頭がいいだけの子供なんて流されるだけの存在になる。

 少し、不安ではあった。あの女、ウーラシールが並べ立てたものと寸分の狂いもなく一致していたからだ。グウィンから記憶を戻してもらった時、ぞっとしなかったと言えば嘘になる。だが、自分のこれまでを疑うような真似はしなかった。

 戦いの前夜、ミレーヌはホークウッドの温もりに触れながら、決意していた。彼と一緒なら、どこまで行ける。自分という存在をいつまでも確信していられる。だから、絶対に二人で生き残るのだと。そう、何度も自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 剣戟。

 弾かれる。どちらなのかは、言うまでもない。

 ホークウッドの片腕が、へし折れる。

 

「ミレーヌ」

 

 自分の呼吸を感じていた。荒くなったまま、戻らない。焦るほど、状態は酷くなっていく。武器を持つ手に力が入らない。

 

「ミレーヌ、聞いてくれ」

 

 獣が、飛ぶ。

 騎士だった何かが、獣じみた叫びを上げながら突進してくる。

 彼女は短く息を吸いながら、刃をきらめかせた。筋はわざわざ意識せずともなぞられていく。何度も修練したからだ。かつて、大切な男が目覚めるのを心待ちにしながら、彼に恥じるところがないように、吐くほど繰り返した。

 だが、手応えがない。アルトリウスは大剣を滑らかに動かした。少なくとも、彼女にとってはそう見えていた。もはや全盛期の力ではないのだろうが、そうでなくとも隔絶した実力差のせいで、まともな剣筋だと勝手に認識する。

 成すすべなく首に刃が入るのを待っていたミレーヌは、いつまでも最後の瞬間がやってこないことにようやく気がついた。

 

「お前なら、抜け出せる。逃げろ」

 

 ホークウッドは叫びながら、アルトリウスを押し返した。さらに追撃で短剣を投げるが、相手は宙返りをしながら華麗にかわしていく。着地した後は、折れた左手をぶらりと下げながら、姿勢を低くした。本当に、動物のようだった。

 ミレーヌはその威圧感に押されて、無意識に後ずさっていた。だが、後ろのおぞましい気配を感じ、強引に足を止めさせられる。

 自分達を囲むようにして、闇の靄が広がっていた。円形の空白地帯を、作り出している。

 確かに、彼女自体は抜けられるかもしれなかった。さきほど吹き飛ばされて腕がわずかに靄に触れた。それでも、何ともなかった。

 ホークウッドは違う。彼の顔の右半分は既に毒に侵されていた。彼の方は決してこの閉ざされた場所から逃げられない。それはつまり、ミレーヌもまた逃げられないということだった。彼女にとって、見捨てる選択肢は絶対にありえない。

 

「やだ…」

「お願いだ」

「貴方と、一緒にいる。一緒に死ぬ。私の前からいなくならないでって、約束したでしょ」

 

 徐々に、視界が暗くなってきているのがわかった。それは、ほとんどが殺されてしまったという絶望に起因しているだけではない。本当に、篝火の明かりが弱くなってきていた。奥に見える闇の境界が、徐々に近づいている気がする。

 ミレーヌは深呼吸をしながら、大剣を構えた。刃から、炎が漏れる。お願い。強く望んだ。宿っている薪に、今だけは助けを望んだ。

 ホークウッドと目を合わせてから、左右に散る。

 ちょうど真ん中の部分にアルトリウスが着地した。常識から外れた速度だった。武器を振るう速さも、全身全霊で意識しなければ捉えきれない。恐ろしいのは、相手は片手で大剣を振り回している点だった。正気を失ってもなお、驚異的な強さを誇っている。

 救いなのは、一体だけだということだった。相手は一見、人の構造を保っている。二方向から同時に攻めれば、必ず対応できない場面が出てくるはずだ。

 ホークウッドとの呼吸は、ぴったりと合っていた。アルトリウスは彼の方を向いている。ミレーヌはその背中に向かって、全力で刃を振り下ろした。

 腹に、灼熱を感じる。

 反射的に下がっていたのが、致命傷を避けた要因だった。

 目の端でとらえた限りでは、アルトリウスは体を回転させたらしかった。ほぼ同時に、彼女とホークウッド両方の斬撃へ対応してみせた。それだけではなく、こうして反撃をも加えてきた。

 追撃は、ミレーヌの方にやってはこなかった。

 

「だめ!」

 

 ホークウッドはバランスを崩していた。片足を丸ごと斬り取られたのだから、当然だ。倒れ行くその体に向かって、アルトリウスが接近していた。

 ミレーヌは悲鳴のような声を出しながら、前へと飛んだ。かわされることなど想定もしてない、ただ自分の体を、剣を割り込ませるだけの動き。

 その叫び以上に、獣の声が大きく轟いた。

 ホークウッドのもう片方の足を切断した剣が、そのままの勢いでミレーヌに流れていく。それは彼女の急所どころか、体すら狙っていなかった。

 両手に、異常な痺れを感じる。少したってから、自分の武器が飛ばされていることに気がついた。直後、腕を掴まれて、思いっきり投げられる。

 受け身すら取れずに、ホークウッドの側に転がった。

 

「逃げろ、逃げてくれ…」

 

 ウーラシールの言葉を、思い出す。

 そう、初めから、相手はミレーヌをあまり傷つけようとはしてこなかった。あくまでその攻撃はホークウッドの方に集中している。四肢を斬り落とし、生かす。そして彼の目の前で、ミレーヌを。

 彼の目は虚ろになりかけていた。出血がひどい。やはり、アルトリウスは下された命令を守り切ってはいない。ホークウッドは死にかけている。

 

「ホーク」

 

 這いずりながら、彼の唇に触れた。少し前に剃ってあげた髭の跡がわずかに残っている。少し笑ってから、深く接吻した。

 たとえどうなるにせよ。心だけは留めておくつもりだった。どんなことに惑わされない。ただ嫌なのは、愛する人に見られることだった。

 アルトリウスが手を伸ばしてくる。ミレーヌの方に。殺すためではない。同時に、鎧を脱ごうとする動きもあった。

 兜が外れかかった瞬間、俊敏な影が飛び込んできた。

 迫る手が止まる。ミレーヌは、ゆっくりと顔を上げた。

 アルトリウスの首に、曲刀が刺さっていた。反対側の肌には、短剣が浅く食い込んでいる。その刃は銀色に輝いていた。闇に近づきつつある空気の中で、それはとても際立って見えた。

 キアランは、相手が倒れても刃を動かし続けた。うなじに深く刺していき、かき乱す。アルトリウスが暴れた時間は、わずかだった。こと切れた群青の騎士の上にまたがって、象牙色の髪の女性は、宙を眺めていた。

 だが、その表情はよくわからない。顔のほとんどが闇の靄に侵食されていたからだ。体も同じだった。キアランは篝火の側で倒れていたはずだ。闇の円の外にいた。それなのに無理やり入ってきたので、侵食が進むのは当然だ。

 彼女は片手をアルトリウスの頬に添えると、囁くように言った。

 

「我が友。最愛の…」

 

 靄が晴れていくと同時に、寄り添うようにして転がった。ミレーヌは息を乱しながら、確認する。かつて伝説にも謳われた騎士達の死体は、今はもう親しい男女が並んで眠っているようにしか見えなかった。

 俯き、涙がこぼれる。

 わずかに呼吸をしているホークウッドの顔に、雫が垂れていく。

 

「行かないで、一人にしないで……」

 

 のそりと、毛深い前足が近くに立った。

 初めそれを幻だと考えていたが、はっきりとした生き物の息遣いが聞こえてきて、ミレーヌはびくりと上を見る。

 

「血を」

 

 巨大な狼は、自身の頬から血を流していた。静かな瞳を彼女に合わせながら、さらに顔を前に出す。赤い流れが、ホークウッドの側にまできた。

 

「彼を再び、狼血の誓約へ導く。時間がない」

 

 ミレーヌは縋るような気持ちで、狼の血を彼の口へ入れ始めた。途中から、下田に対してヨルシカが使っていた方法を真似ていく。そして徐々に、彼の顔色が戻ってきているのが分かった。

 彼女は同時に、奇跡も使い始めた。昔少し修めただけものだ。ホークウッドに褒められるための道具みたいなものだった。だが何もないよりはましだ。両足と、肩口にある傷を塞いでいく。止めどなかった血の流れが緩やかになり、やがて止まった。

 シフはそこまで見届けると、ゆっくり前足を折る。ミレーヌに向かって、深く頭を下げる格好になった。

 

「傲慢だった」

 

 深い声は、淡々と言葉を紡ぐ。

 

「深淵の監視者とは、本来そうあろうと望んだ者、あるいは少なくとも自ら戸口を叩いてきた者に対してのみ、課せられるべき責務だ。だが、我々はお前の外見と素質に吸い寄せられた。手遅れだろうが、謝罪をする。恨まれても仕方がない」

 

 ミレーヌは黙って聞いていた。語っている狼の瞳をずっと観察していた。それが心からのものなのか、疑うように。

 それは相手もわかっているようだった。目をつぶってから、顔を別の方へと向ける。

 

「私は、仇を取るつもりだ。この身が果てるまで、深淵に対する。落ち着いたら、来るがいい。強制はしない。他にもまだ、戦っている者達がいる」

 

 シフはそう結ぶと、力を振り絞るようにして駆けていった。その姿が完全に見えなくなるまで、彼女はじっと座っていた。

 ホークウッドの呼吸が安定したのを確認すると、立ち上がる。これから何をするべきなのか、未来のために何をしなければならないのか。考えたミレーヌは、まだ抗おうとしている篝火へと向き直った。

 その中にある楔を、眺め続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆ 

 

 

 背後に迫りつつある闇を感じる。

 前よりも、濃くなっていた。おそらく、まだ先がある。完全に光が失われるまで、侵食は止まらない。

 だが、境界線は止まっていた。

 額から汗を流しながら、四メートルは優に超えている大きな女性が祈っていた。

 

「固定しました。ですが、あまり長くは。どうか…」

 

 フィリアノ―ルの前に、シラが立つ。斧槍を立てて、死守する構えを取る。

 貴樹は拳の骨を鳴らしながら、まだ余裕そうに笑っている敵達を見た。もっと早くやってくると思っていた。下田から治療を受ける時間が残されているとは思っていなかった。

 つまり、時間を稼いでくれた者達がいたのだろう。おかげで、この場にいる者達は戦える状態を取り戻した。

 不快感は最悪の段階まで行き着いている。

 

(調子に乗ってんな。こいつら)

 

 彼には、悲しむ気持ちが存在していなかった。ただ、目の前の敵を捻り潰して、すっきりしようと考えている。自身の作品を外から汚い泥で台無しにされた気分だった。許されない行為だ。

 歩いていくと、ノミが横に並んできた。

 

「訊きたいんだが」

 

 貴樹は中指を立てる。黙れ死ね、という意味合いを十分に込めて示したつもりだったが、相手は構わずに続けた。

 

「親父は、死んだのか?」

「そんな感じだ。奴らの腹の中で元気にやってるだろ」

「つまり、王のソウルも吸収されて、相手は完全体になったわけだ」

 

 たいして変わらないと、貴樹は思っていた。本来は、頃合いを見てマヌス達を光の中に引きずり出す予定だった。そして弱った所を叩きのめす。それは無効となった今でも、別に叩きのめすこと自体はできるはずだった。であるのなら、変わりはしない。

 

「時間がありません」

 

 下田が一緒に歩き始める。彼は戦えない者達を奥へと下がらせていた。だが、意味はないのかもしれない。もはや、逃げ場はどこにもないのだから。

 

「情報を共有しましょう。少しは、戦ったんですよね」

「変な術を使うくらいだな。あと、女の方も馬鹿力だ」

「なるほど」

「関係はない」

 

 オーンンスタインは、主がいなくなっていることの動揺を上手く抑え込んでいるようだった。あるいは、今はノミをその対象として見定めているのかもしれない。

 

「敵は、滅ぼすのみ」

 

 騎士が言いきったと同時に、全員が走り出した。

 ノミが叫ぶ。

 

「伏せろ!」

(わかってるよアホ)

 

 マヌスの腕が伸びて、手を目一杯に広げながら薙ぎ払ってきた。貴樹は体勢を低くしながら、その攻撃をかいくぐる。ほとんどの者達は対応できているようだった。自信なのか慢心なのか知らないが、下田だけは片手を持っていかれている。 

 もちろん、一撃を凌いだだけでは安心できなかった。毛むくじゃらの腕から闇の霧があふれ出し、ノミとオーンスタインに向かう。一方で、黒い手が高速で伸びていき、下田と貴樹の首を狙っていた。

 お互いの位置を交換する。

 貴樹は霧を殴りつけた。手応えはまるでないが、晴れていくのが分かる。拳に纏っている炎が、打ち消しているようだった。

 オーンスタインが連続で突きを放つ。同時に、ノミは大きく剣槍を振るった。風切り音と共に、複数の手が刻まれていく。

 残る下田は、ウーラシールへ接近していた。ファランの速剣を両手に生やして、彼女の胴体を裂く。

 かに思えたが、結局負傷をしたのは彼の方だけだった。

 

「その調子です。もっと、ください」

 

 もごもご言いながら、女の声が蕩ける。下田の両腕があっという間に喉の奥へと入り込んでいった。その瞬間、下田は嘲笑する。

 ウーラシールの腹の中から、ソウルの矢が十本ほど飛び出してきた。斬られた腕の感覚を手繰り寄せて、術を行使した。さらに女の口から炎があふれ出す。

 それは下田の呪術のように見えたが、違った。炎を、ウーラシールは自分から吐いている。まるで竜のようにあたりへまき散らした。

 その隙間をくぐっていきながら、貴樹はマヌスの顔を殴りつける。

 ぎょろぎょろと、多くの目が見てきている。二本の巨大な角にびっしりと、瞳が出現していた。気持ち悪いと思いながら、その一つ一つから形成されていくソウルの弾丸を視界に収める。

 下がろうとしてもできなかった。両足に闇がまとわりついている。

 貴樹は足に炎を集中させながら、のけぞった。

 鼻先を、剣槍が通り過ぎていく。

 マヌスへと直撃する直前で、止められた。

 ノミは呻く。

 ウーラシールは目を細めながら、刃を掴み続けた。そのままノミは引き寄せ、口を大きく開けていく。頬にまで裂けていき、巨大な牙が伸びてくる。

 オーンスタインが、その顔に槍を刺した。彼女の動きが止まる。

 同時に、下田が無数のソウルの弾丸を消していきながら、マヌスの顔を蹴り飛ばした。意外にもあっけなく、怪物は横に飛ばされていく。

 ウーラシールは舌を出しながら、自身の周りに雷を発生させた。その大きさは今まで見た中で段違いに大きい。四つの矢となって、食らいつこうとしている周りの男達へ一斉に放たれた。

 貴樹はそれを蹴り上げる。

 ノミは同じものでぎりぎり相殺する。

 下田は半身をもぎ取られた。

 オーンスタインは、かわした所で彼女に殴り飛ばされる。

 貴樹もまた、今ので耐久値をごっそり減らされたのが分かった。そう何発も受けられるものではない。かといって、とっさにかわすことも難しかった。

 

「タネはわかりました」

 

 血まみれになった下田が、大声で言う。

 

「おそらく、交換をしています。そいつらは、強固なつながりを持っている。お互いの力を入れ替えられる。マヌスの膂力がウーラシールに移った時が好機です」

 

 実際はその反対を狙うのだとわかりきっていた。でなければ、相手にも理解できるように言うはずがない。嘘だろうが真だろうが、敵はその行動をしづらくなる。狙いを外そうとしてくる。

 ウーラシールは、真っすぐ下田へと向かっていく。

 だが、到達する前に立ち止まった。

 彼女のすぐ前に、剣が振り下ろされている。

 

「まだ…、とっておきたかったのに」

 

 少し残念そうな顔の先で、ヨルシカは荒い息を吐いていた。既に片腕を根元から闇の手によって引きちぎられている。すぐに再生されていくが、それを許さないかのように二撃目が迫っていた。

 

「どのように、苦しませてあげましょうか」

 

 背後に潜んでいたリリアーネが、飛んできた魔術を短剣で弾き落としていく。側にいるユリアも、刀を術の合間に相手へ刺し込もうとしていた。

 だが、成功しない。刀の先は折られていた。ヨルシカの腹に穴を空けてから、ウーラシールはユリア達へと大口を開ける。

 上から、下田が槍を向けながら降ってくる。それは正確に相手の喉を貫通し、地面にまで顔を叩きづける。槍の先は地面に刺さり、女の体を縫い付ける形になった。

 貴樹は攻撃をギリギリでかわしていきながら、マヌスの角にしがみつく。壊しがいのある大きさだと思っていた。今度こそはという思いで。折ろうとする。

 直前で、上の様子がおかしいことに気がついた。マヌスの左手が揺れ動き、杖が振るわれる。闇の渦が大きくなっていき、そこから無数の塊が落ちてきた。

 全員が、離脱を余儀なくされる。それも完璧ではなかった。オーンスタインとノミは少し逃げ遅れ、その身に闇を受ける。取り返しのつかない所までは行かなかったが、明らかに彼らの動きが鈍ったのが分かった。

 貴樹は既に、自分の意思が揺らいでいるのがわかった。土下座でもすればいいのかと考えている。

 どう考えても、このままだと負けるのはこちら側だった。段々と削られてきている一方で、相手は未だ万全のように思える。前までは、明確な弱点があった。貴樹の攻撃が一番効果があったかもしれなかった。今は、炎を克服されてしまっている。いくら注ぎ込んでも、こちらが危険になるだけだ。

 

「タカキ様」

 

 下田達が戦っている中、腕に誰かが触れてきた。

 振り返らずともわかっている。声と、肌の感触は絶対に間違えることはない。

 火守女は、何かの決意をしたようだった。前に回り込んでくると、色の違う両の瞳を凛と向けてくる。

 

「お願いします」

「いや…、無理だ」

「可能性があります。惜しむ必要はありません」

「俺は、君をちゃんとした女性として…」

「負ければ、誰も残りません。私は、そんなのは嫌です。どうか」

 

 ノミが地面に叩き付けられる。剣槍が、マヌスの指によって折られていた。さらに指先から雷が発生する。立ち上がろうとしている彼を狙っていた。

 オーンスタインはそれを消し去ろうとしたが、予測していたマヌスが杖を直撃させる。そこから闇があふれ出して、獅子の右腕が犠牲になった。十字槍が、地面に落ちる。

 ウーラシールはリリアーネは掴むと、マヌスの背中に向けて投げた。抵抗する間もなく、毛の間に体が受け止められる。

 下田は怒号を発しながら突っ込もうとしたが、首を魔術によって貫かれた。リリアーネはもがいているが、徐々にマヌスの中へと取り込まれていく。

 

(…くそ)

 

 貴樹は目に力を込めた。それしか方法がなかったのか、最後まで考えていた。

 予想していた叫びは聞こえてこなかった。それでも、白い光が凄まじい速度で走っていく。その方向を制御するのはかなりの集中力が必要だった。

 マヌスの右肩に、穴が開く。前までのように、膿がそこを覆うことはなかった。

 リリアーネが吐き出される。彼女が着地した側に、一本の角が転がった。

 敵も下田達も顔を向けた先で、貴樹は空を飛んでいた。正確には翼を生やしている火守女の腰に捕まっている形で、全員を身下ろしている。

 前のように、暴走することはなかった。今は、瞳が戻っているから。それにその片方を所持している貴樹が、それを防いでいた。彼女の理性を保たせている。

 それでも火守女は、苦しそうに光を形成させた。天使の光線がいくつもその軌道をなぞっていき、マヌスとウーラシールを貫く。 

 マヌスの方が、おぞましい咆哮を上げた。杖から黒い煙が放出されていき、無数の闇の針を作り出していく。そのほとんどが火守女を狙っていた。今や、一番の脅威になった相手へ向けられていた。

 降り立った彼女の前に、貴樹が立ちふさがる。飛んでくる攻撃のほとんどを叩き落とし、炎で呑み込み、それでも取りこぼしたものは下田が落とした。

 霞んでいる白い翼を生やした存在の前に、男女が並んだ。

 貴樹は少しの間振り返り、微笑む。

 

「座標は任せる。タイミングは、俺がなんとかするよ」

「はい、お願いします」

 

 火守女も同じ表情を返していた。戦いの最中にも関わらず、嫌だった力を行使しているのにも関わらず、穏やかだった。貴樹への全幅の信頼が、彼女の状態を維持していた。

 もはやウーラシールは、笑みを消していた。下田への得物を見るような視線は一変し、その対象も変わっている。はっきりと、火守女へ憎悪を向けていた。それだけは初めて、作り物ではないのだと感じられた。

 

「無駄な足掻きを…」

 

 マヌスの開いた穴から、どろどろと何かがこぼれていた。それは溶けた金属のような見た目をしている。

 貴樹が最初に突っ込んだ。マヌスの振るわれる拳を殴り返して、他の者達の進む道を確保していく。

 下田達も、続いてウーラシールの抑え込みにかかった。全員が待っていた。貴樹の一声を。再び光が走るのを。

 

「離れろ!」

 

 彼らは、その声と共に離脱する。敵もまた追いかけようとしたが、その前に数本の光線がその足止めをした。ほとんどが、マヌスに直撃している。張っていた魔術の防壁も、闇の靄も何もかもを貫通して、怪物に深い傷を与えていた。

 

「もう一度だ」

 

 繰り返せば、勝てる。

 そう思った時、顔に固いものが当たった。

 何かの障壁のようだ。

 それを押しのけようとした所で、真実に気が付く。

 

「おい!」

 

 ノミが切羽詰まった様子で叫ぶ。だが、貴樹にはそれに答える余裕がなかった。何かが込み上げてくる感じがして、耐え切れずに咳をする。地面が大量の血で染まっていった。

 倒れているのは、彼だけではない。下田も同じように苦しんでいた。見た所体のどこにも異常がないのに、気を失いそうになるほどの苦痛が全身を駆け巡っている。まともな思考ができない。何が起こったのか、わからない。

 

「間に合って、良かった」

 

 ウーラシールは余裕を取り戻していた。そして、溶けている何かの部品らしき金属を愛おしそうに拾い上げる。

 

「まさか…」

 

 下田は何度も自分に奇跡を使っていた。だが、回復する様子がない。つまりこれがただの術による損害ではないということだった。もっと根本的な何かが攻撃されている。まるで、細胞が続々と死んでいくような。

 下田もまた、理解をしたようだった。震えながらも、何とかして立ち上がる。

 

「それも、食ってたっていうのか? 核を…」

「貴方達人間が作ったものです」

 

 ウーラシールは鼻歌混じりに闇を動かした。それらはノミやオーンスタインの攻撃を避けていく。目標に向けて走っていく。

 

「少々、危ない所でした。何十回目かの、半減期が迫っていましたから。貴方達に害をぎりぎり及ぼさないほどまで弱ったら、意味がないでしょう?」

 

 自身は今放射能にさらされているのだと、確信した。火守女やヨルシカ達は平気そうだ。彼女達は、やはりどこか人間とは違っているらしい。細胞を破壊する不可視の毒が、聞いていないのだから。

 闇の刃にむけて、シラは武器を動かした。だが、狙いは彼女にない。例えかわしたとしても、闇は彼女を殺すことはしなかった。さらに後ろにいる女性を、狙っていた。

 ノミがつかもうとするが、ぎりぎり届かない。

 刃はしっかりと、フィリアノ―ルの頭を貫通していた。シラが叫び声を上げる。制止も聞かずに飛び出していき、マヌスの反撃に遭った。

 

「申し訳、ありません…」

 

 光の境界が、狭まっていく。倒れた彼女は虫の息だった。下田が即座に奇跡を飛ばそうとするが、その光はあっけなく消えてしまう。明らかに、今の彼は術を行使できる状態ではなかった。

 

「では、存分に」

 

 ウーラシールが歩いてくる。攻撃しようとした火守女がオーンスタインによって拾われる。彼女への攻撃を、貴樹は何とか止めた。だが、次にやってくるマヌスの手には対応できない。

 耐久値が、一気に削られる。もうわずかしか残っていなかった。何か小さな針に刺されただけで、最後の残り火が失われる。

 発砲音が、いくつも鳴り響いた。

 ウーラシールは耳を吹き飛ばされた後、残りの弾丸を魔術で防ぐ。

 建物間から出てきた由海達が、こちらへ向かって必死の形相で言った。

 

「今のうちに!」

 

 彼女達も余裕はない。貴樹と下田ほどではないとはいえ、多量の放射能に晒されている。ジアンナと幸成も胸を抑えていた。口の端から、血がこぼれている。

 最後にアリーが、拳銃を使った。放たれた弾丸は、マヌスによって呆気なくはたき落とされる。

 だが、代わりにやって来た光線が、その手を破壊した。

 貴樹は、声を張り上げる。言葉にはなっていなかった。ただ気合を形にして出していた。芯の定まらない体を前へと推し進めながら、胸から上がってくる血を吐き出しながら、拳を振りかぶる。

 ウーラシールはまだ余裕を保っていたが、直後に顔をしかめた。

 彼女の腹から、螺旋状の剣が突き出ている。その刃はすぐに炎を放出し始めた。

 

「中から攻めれば、どうかしら?」

 

 ミレーヌは咳き込みながら、さらに武器を押した。それから離れて、代わりに突っ込んでいくシフとすれ違う。

 大狼は、マヌスの顔に噛みついていた。抵抗はされる。その身に大量の闇を受けながら、獣らしく唸っていた。マヌスのもう片方の角に、牙が食い込んでいく。狼の体から大量に血が出ても、それは止まらなかった。

 暴れ出そうとするマヌスに向かって、ノミとオーンスタインが突っ込む。彼らは闇にむしばまれながらも、怪物の持つ杖を手ごと破壊した。

 ウーラシールには、傷一つない。だが、わかる。彼女の存在が、確かに揺らめいていた。貴樹にも視認することができる。彼女は、マヌスに完全に依存しているのだ。そのつながりによって力も行使できるが、自分だけでは存在を保つことができない。だから、滅ぼすのはマヌスの方だけでいい。それで、終わらせられる。

 下田が、動き出そうとするウーラシールの体を雷で吹き飛ばした。貴樹にはっきりと目配せをしてくる。

 その動きは気持ち悪いと思ったが、止まることなく走り続けた。

 吠えるマヌスの顔に向かって、拳をぶつける。一度だけでは済まなかった。相手の体が倒れ込んでも、続けた。連打をした。覗く赤い目を潰し、口の中の牙を折り、蠢く闇を炎で消し飛ばしていきながら、最後に頭を粉砕した。

 ウーラシールは、噛み切り声を上げる。もはや女の顔を成していない。ただ口の部分だけがほとんどを占める醜い顔面を揺らしながら、走り出した。その進行を、よろめている下田には止められない。

 彼女の企みは明らかだった。その向かう先には、ちとせ達がいる。彼女達を食らおうと、さらに大きく叫んでいた。

 その口の中に、槍が投げられる。それほど速くはない投擲だった。普段の彼女であったなら、余裕をもって避けられたはずだった。

 だが結局、刺さったものに対応しようと、高坂の前でもがき始める。彼もまた胸を抑えながら、歯を食いしばっていた。下田に向けて、一心に視線を向けていた。

 

「やれ!」

 

 貴樹が足を上げる。

 下田は、符呪された槍の把管を絞った。

 ウーラシールと、マヌスにそれぞれ到達する。

 だが、足りていなかった。マヌスはまだ元気が残っている。ぎりぎりで貴樹の蹴りを避け、闇の刃を彼の喉に向けてきた。

 対する貴樹の方は、動けない。再び倒れようとしている。

 当たる直前で、マヌスが停止した。少し顔を下に向けたかと思えば、苦し気に震え始める。

 怪物の体から、炎が吹き上がった。それは一瞬、老人の姿を形作る。

 

『責任は取ろう。不甲斐ない王を許してくれ』

 

 グウィンの炎によって、マヌスは縛られ続ける。

 もう少し足掻いた後、火守女による光線が届いて、相手の体のほとんどが弾け飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆ 

 

 

 ほとんどが、満身創痍だった。

 支えようとちとせが走ってくるが、制止する。もう意味はないかもしれないが、あまり近づかない方がいい。

 下田はヨルシカとユリアに支えられて、前へと進んでいた。

 その先には、ノミへ礼をし終わったオーンスタインがいる。槍を地面に置くと、静かにその場に座り込んだ。

 前に来ると、別の方へ目を向ける。

 既に、フィリアノ―ルは息絶えていた。彼女の顔は次第に萎れていっている。それは呪いというより、ただ元に戻っているという感じがした。時間の揺り返し、それがおそらく、目の前の黄金騎士にも作用している。

 オーンスタインは兜を外した。出てくる顔は変化の途中であっても、勇壮な印象を失っていない。そこから覗く瞳は、真っすぐ下田を捉えていた。

 

「槍の…」

「何ですか?」

「その槍は、何という?」

 

 かざしてみせる。

 

「管槍といいます。ここの管を使えば、素早く刺突ができます」

「そうか」

 

 最後にヨルシカを一瞥してから、彼は目をつぶった。全身の力が抜けていくのがわかったが、それでも後ろへ倒れていくことはない。

 下田はその顔が干からびていくのを、ちゃんと見ていた。見るべきだと思っていた。彼の同胞も、主もいない。ならば、共に戦った自分が見届けるのが道理だ。

 手も段々と開いていき、握られていた十字槍が傾いていく。下田はしっかりとそれを掴んで、オーンスタインの横に突き立てた。

 立ち上がって、寝ているノミに近づく。

 

「あまり動くな」

 

 こちらを気遣うように言ってきているが、よっぽどノミの方が酷い状態だった。もう立ち上がれないらしい。下田も、彼も悟ってはいた。

 画家の少女は全力を出している。できる限りの速度で描いている。だが、間に合わないようだった。

 

「おい。タカキも」

 

 下田としては、貴樹が当たり前のように歩いてきていることが異常に感じた。無論彼の顔は吐き出された血にまみれて、見れたものではない。彼は、画家の少女にダークソウルを渡していた。マヌスの体内から取り出したものだ。

 それは、この暗い空間の中では見えなくなってしまうほど黒い魂だった。貴樹はそれを得るためにさらなる汚染に晒されたはずだが、表面上は何とか平常を保っている。まともにノミを身下ろすことができていた。

 

「まあこんなもんだ。満足してる。未来はつながった」

「そんな御託を並べるために、時間を割くのか?」

 

 貴樹がつまらなそうに言うと、ノミは笑った。

 

「肩に、触れてくれ。知りたかったことを教えてやる」

 

 下田もまた、その指示に従った。触れると、プリシラの姿が見えるようになる。彼女はずっと、ノミの顔を眺めていた。

 それに笑いかけてから、ノミは言ってくる。

 

「おれ、の、名前は」

「ああ」

「はい」

 

 確かに聞こえた。貴樹も理解をしたようだった。ちゃんと認識できている。

 だが、貴樹は鼻で笑った。

 

「なんだそれ。やっぱうっすいな。ノミの方がましだ」

 

 それを聞いて、少しだけノミは大きく目を開いた。そして、くくとこもるように息を吐き出していく。かなり楽しそうだった。

 

「そう、だな。その通りだ。良い名前を、付けてくれて、ありがとうよ。……じゃあな、相棒。楽しかったぜ」

「下僕の間違いだろ。さっさと死ね」

 

 結局湿っぽい顔は何一つとして見せることはなく、ノミは目をつぶった。プリシラが、下田の方に移ってくる。しがみついてくる。下田もまた、目を閉じた。彼女から伝わってくる悲しみを和らげようと、その肩を撫で続けた。

 間もなくして、画家の少女がキャンパスから手を離した。光が小さくなっていく世界の中で、ゆっくりと貴樹達の方へと歩いてくる。闇の中で、白髪がわずかな明かりを受けて輝いていた。

 

「完成したよ。あとは、入るだけ」

「もう、いいの?」

「うん」

 

 最初に動いたのはミレーヌだった。生死をさまよっているホークウッドを引きずりながら、絵の中に入っていく。早足だった。当然だ。地球に行ければ状態は元に戻るが、今は一刻の猶予も許されない。

 続いて、由海達が入っていく。彼女達の中に犠牲が出なかったのは幸いだった。相手を考えれば、奇跡的だ。

 下田は立ち上がる。よろめいたが、また支えてくれる者達がいた。ちとせは彼の手を握り、優しく引っ張っていく。彼女の歩みもまた不確かだった。被ばくしている下田の近くにいれば、無事では済まない。

 実織と高坂も、無言でそばについていた。彼らも、汚染のことは何一つ気にしていないと言った様子だった。ただ下田を讃えるように、時折見てくる。

 ユリアとリリアーネが、彼の後ろを静かに付いていった。彼女達を見てから、下田はキャンパスに触れる。

 飲み込まれるような心地がして、気が付けば宇宙のような空間に出ていた。

 憶えのある場所だ。

 戸惑うちとせ達を安心させながら、徐々に下へと向かった。 

 再び、キャンパスが立っている。だが先ほどのものよりも大きい。画家の少女は、その白地に手を触れる。託された、暗い魂を入れていく。

 

「地球を、描く。もう少しだから、皆、頑張って」

 

 下田は力を振り絞って近寄った。おそらく、ヨルシカから血を分け与えられていなければ、とっくに死んでいる。竜の血は、放射能の影響も多少は小さくしてくれるようだ。だが、他のちとせ達は違う。急がなければならなかった。

 

「待てよ」

 

 氷のような声が、ぽつりとこぼされた。

 振り向くと、貴樹は見たことのない顔をしている。恐怖とも言えるし、強烈な怒りの感情を含んでいる表情だとも感じた。

 

「ひもりんは、どこだ?」

 

 画家の少女が、ゆっくりと瞬きをしたのがわかった。下田も確認をする。確かに、彼女の姿はなかった。ここへ来る前、篝火の広場にはいたはずだ。少女の話も聞いていた。遅れることは、ありえないはずだ。

 

「おい」

 

 貴樹が一歩前に出ると、少女は顔を上げる。

 

「落ち着いて、聞いて」

「そうじゃねえよ。戻れ。何してんだ?」

「これは、貴方のせいでも、彼女のせいでもない。仕方がなかった。マヌスを倒すためには、きっと、必要だったから」

「殺されたいのか? 戻せ」

「火守女は、来られない」

 

 彼は息を呑んだようだった。表情の全てが消え去り、苦し気な呼吸音だけが響いている。

 下田はさりげなく詠唱の準備をした。反射的にそうして、なぜこんなことにならなければならないのか、虚しい心地がした。

 

「は?」

「さっき天使の力を使ったことで、彼女のソウルと器が完全に逸脱した。私と、プリシラの力が及ばない領域まで、上がってしまった。だから、はじかれるの。絵画世界を渡れない。こちら側がどんなに寄っても、彼女が望んでも、無理なの」

 

 貴樹は片腕をかすめさせた。

 少女の喉元に向かうはずだったそれは、下田によって掴まれる。

 

「先生、落ち着いてください」

 

 頬に、拳がめり込んでいくのが分かった。まともに反応できず、殴られる。何とか奇跡を行使できたが、次は分からなかった。既に頭の痛みは大きくなってきていて、術にまるで集中できない。

 

「もう一度、よく考えてみて」

 

 拳を向けられても、少女は怯んでいなかった。

 

「このまま戻って彼女に会ったとしても、変わらない。貴方も、限界なの。火守女は私に黙っておくように言ってた。絶対にこうなるからって。彼女の思いも、汲んであげて」

「まだあったわけか」

 

 貴樹は首を回して、骨を鳴らした。

 全員を、見据えてくる。

 

「まだ処理しきれていないクソ共が残ってたな。裏ボス戦ってわけだ」

「先生…」

 

 貴樹の戦意は膨れ上がっていた。それはマヌス達に対するものとほぼ変わっていない。彼は、深淵の化物と、同じ地球の人間たちを同列に捉えていた。初めから、そういう男だった。

 

「抵抗してもいいぜ。どっちにしろ皆殺しだ。なんで彼女が残されたまま、お前らみたいなのが幸せになるんだ? ふざけんなよ。誰も行かせねえぞ。俺を戻す気になるまで、死ね」

 

 地面を蹴った直後、その姿は消えていた。

 目に見えないほどの速度で迫ってくるのかと身構えたが、何もやってこない。

 そして、プリシラが困った顔で出現した。

 

「いいの?」

 

 少女が尋ねると、プリシラは頷いた。どうやら彼女の方は別の考えを持っていたようだ。貴樹を、彼が大切に思っている女性の所へ戻したらしい。

 下田は少しだけ気が抜けた。不思議と、悲しみはなかった。実際はわからない。後から、色々とこみあげてくるかもしれない。確かなのは、貴樹はこっちの展開の方が納得するだろうということだ。その精神に少しだけ寄り添う。彼はあのまま地球に戻ったとしても、ろくなことにはならないかもしれなかった。自分こそが正常と考えて、周りを異常だと蔑みを持ち続ける。

 それなら、別の道を選んだ方が、彼にとっては幸せなのかもしれない。

 あまり考え続ける時間はなく、すぐに制作に取り掛かった。

 全員が協力して、描いていく。

 それぞれが帰りたい場所、会いたい人を思い浮かべながら、記憶をたどっていく。前にやった時よりも取り掛かる人数が多いので、あっという間に進んでいった。焦りもあったかもしれない。下田は意識をほとんど保てなくなってきていた。一度眠ってしまえば、二度と目が覚めないのはわかりきっている。

 何とかぎりぎりで、完成させることができた。

 

「じゃあ…」

 

 既に察してはいた。 

 下田は振り返り、健気に笑顔を作ろうとしているプリシラを見た。

 

「そうなんだ?」

「…うん」

「どうして?」

 

 彼女は瞬きをする。涙がこぼれる。

 

「あの方のそばにいないと。もう、これでいいの」

「僕は、寂しいけどな」

「お母さんも、そう」

 

 プリシラは頭を撫でてくる。

 

「だけど、私みたいな存在は、これ以上そっちに関わらない方がいい。十分よ。ヨルシカと、仲良くね」

「うん。そっか。そろそろ親離れしないとね」

「私も、子離れしないと。…愛してる、ずっと」

「僕も」

 

 今度は、下田の方は泣かなかった。プリシラの笑顔に同じものを返して、離れる。

 隣に立つヨルシカは、静かにプリシラを見ていた。それに対して頷いてから、プリシラは飛んでいく。どこへ戻るのかはわかりきっていた。その姿が完全に消えていくまで、目を離さなかった。そして握ってくるヨルシカの手も、ずっとそのままにしていた。

 

「行こう」

 

 少女が、最後に言う。

 

「側にいたい人と、離れずに。何が起こるのかわからない。覚悟だけはしておいて。全員の記憶が、維持されるとは限らない。お互いを信じて」

「ほら、」

 

 下田が言うと、少女はきょとんとした。

 

「君も。一緒にいてほしい。触れてくれ」 

 

 ミレーヌは固くホークウッドを抱きしめる。

 由海達は、お互いの体にしがみついていた。

 最後に画家の少女は微笑んでから、下田の足にくっついた。もう、彼の体にはそこしか掴まる部分が残されていなかった。

 多少窮屈な思いをしながら、絵へと進んでいく。

 地球の青い絵が、近くなってくる。

 触れると、どこまでも落ちていく感覚がした。

 それでもそばにいる存在達は離れなかった。

 視界が、白く染まっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 どうして、と半ば怒るように言ってきたので、同じくらい大きく、勢いのある声で返した。

 

「一目惚れだあああああああああああああ! げほげほげほっ」

 

 貴樹の叫びに気圧された火守女は、一歩下がった。そして篝火の側に膝をつく。

 彼女の翼は、消えていなかった。どうやら、画家の少女の言っていたことは事実だったらしい。今も移植された彼女の瞳が疼いている。だから意志を強くもって、彼女の肩に掴まった。

 今の彼女も、なかなか綺麗だと思った。輝く翼は、その神秘性をより高めているようだ。だが、結局貴樹にとって一番は、やはり彼女自身だった。特にその顔は、一生写真に収めて保管しておきたいくらいそそるものだった。

 二人で、篝火の前に座る。その途中で彼は、火守女の目を拭った。そのまま涙を舐めとりたかったが、指を顔の前まで持ってくる気力があまりわかなかった。

 

「君の悪い癖だよ」

「タカキ様、タカキ様…」

 

 篝火に照らされた顔は、鮮やかに染められている。火守女は悲しいのか嬉しいのかよくわからない表情をして、彼の体を横にさせた。

 

「自分の価値を理解してない。もう、俺に隠し事なんてしないでくれ」

「はい…、わかりました」

 

 小さく息を吐き出しながら、何度か頬にキスをしてきた。今の状態だと、興奮は抑えられる。満たされるような思いがどんどん大きくなっていった。

 空は、もう何も見えない。暗闇で覆われ尽くしている。それは、下も同じだった。

 篝火は弱まっている。それは確かだ。だが、十分だった。火守女の顔を認識することができれば、それでいい。

 彼女の膝に頭を乗せていると、今だけは胸の痛みを忘れることができた。既に体は限界に近いはずだが、いくらでも笑えるような気がする。

 

「ひもりんはさ」

「はい」

「幸せだと思う? 思えてる?」

「……貴方との、全ての時間が幸せでした。永遠に忘れません。ずっと憶えています」

「そっかあ」

 

 返事は、最高だった。

 つまり、この世界に来てからの目標は、達成されたことになる。

 朦朧とした意識の中で、今まで味わったことがないほどの多幸感が溢れていた。

 

「君が幸せなら、俺もそうだよ。嬉しいな」

「そう、ですね」

 

 彼女の声はかすれていた。ぽたぽたと、頬に雫が落ちてくる。

 手が、篝火にかざされた。

 

「最後の火が、消えていきます」

「…」

 

 炎の一部が、掌に宿った。一瞬だけ、光が強くなる。

 

「すぐに暗闇が訪れるでしょう」

 

 貴樹は目をつぶる。

 穏やかな沈黙を楽しむ。

 これからすることを思い浮かべていた。まずは、車に乗ってどこかに行く。彼女に紹介できる場所、美味しい食べ物がたくさんある。かつては、そう感じていなかった。だが、火守女と一緒ならばきっと、存分に楽しむことができるだろう。

 暗闇が、覆っていく。だが、瞼の裏ではまだわずかな光が残っていた。おそらく、終わりではないのだ。遠い先、おそらく何千年も先の未来になるだろうが、きっと火は紡がれていく。また、新たな時代が幕を開ける。

 火守女が、頬を撫でてきた。顔を下ろし、その銀髪がかぶさってくる。かかってくる吐息は、小刻みに震えていた。

 光が完全に失われても、彼女の存在はずっと感じていられた。

 

「タカキ様、まだ私の声が、聞こえていらっしゃいますか?」

 

 

 

 

 

 

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