火守女と灰と高校教師(完)   作:矢部 涼

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終.火守女と高校教師

 両足が激痛に包まれて。

 そこから、空白が続いていた。

 ホークウッドは目を覚ます。手を動かしてみた。まだ、満足につながっている。おかしな話だった。アルトリウスは容赦がなかった、既に四肢は失っているとばかり。

 目に、痛みを感じた。

 視界に光がはじけている。

 何度か瞼を開け閉めして、徐々に周りが明瞭になっていった。

 思わず、声を漏らした。

 舌が、何度も頬を滑ってきたからだ。同時に荒い息と、少しだけ獣くさい臭い。ホークウッドは困惑した。完全に頭がこんがらがった。だから、ミレーヌがどんな乱心をしてこんなことをしてきているのかと、まともではない思考をした。

 

「やめなさい。行くよ」

 

 若い女性の声がして、身を起こす。

 尻尾をぶんぶん振りながら、獣は呼びかけてきた飼い主についていった。狼と似ているが、どこか違う。随分と、雰囲気が柔らかくなっている気がする。毛の色も肌色に近く、あのシフの血統からずれている感じがした。

 それにもっとおかしいのは主らしき人間だった。今まで見たことがない服装をしている。派手な色で、ふわふわと柔らかそうな生地をつかっていそうだ。フードが後ろについているが、一体どこに刃を防ぐ要素があるのか、謎だった。

 若い女は耳から妙な管を伸ばし、手元にある小さな箱をいじっていた。まだ立ち上がれずにいるホークウッドを胡乱そうに見た後、早足で去っていく。狼もどきもまた、その後についていった。未だ尻尾を勢い良く振りながら。

 立ち上がると、どこかの広場のようだった。それなりの数の者達が歩いている。そのいくつかは、ホークウッドに注意を向けていた。懐からさっきの女が持っていたような箱を取りだし、裏面を向けてくる。

 

「すげえ。コスプレじゃん。撮影いいですか」

 

 そして、眩しい。

 ホークウッドは無視して、歩き始めた。腕を目の前にかざしながら、直感に従って歩いていく。何が起こったのかはわからないが、とにかく太陽の光が完全に戻っていることだけは確認できた。というより、さらに増大している。元の世界よりも。

 自らの状況を呑み込む前に、強烈な衝動が体を進めていた。どうなろうと関係がない。自分にとってはただ一つだけで十分だった。彼女の姿を確認するだけでよかった。

 よくわからないまま、知らない街を少し歩いた。なぜか、方向は決まっている。何かが導いてくれているようだった。ホークウッドには確信があった。

 黒い柵が、横に広がる。

 どこかの広い敷地に近づいたことだけはわかった。荘厳ではないが、それでも大きな建物だ。清潔感もある。窓から、子供の集団が席に座って何かをしているのが見えた。ホークウッドは胸騒ぎが大きくなっていくのを感じる。

 正面の門にたどり着くと、同時に奥の入り口の扉が乱暴に開かれた。

 飛び出してきた少女は、掴もうとしてくる腕を巧みにすり抜ける。その歳からでは考えられないほど洗練された身のこなしだった。明らかに戦闘の訓練を積んでいる。痺れるような頭で、そんな観察をした。

 まだ叫んでいる太めの女性が制止するが、金髪の少女は止まらなかった。ホークウッドを目にすると、さらに走る速度を上げた。転びそうになってもうまく踏みとどまり、ほとんど速度を下げることなく門に到着する。

 乱暴に蹴って開くと、固まっているホークウッドに抱き着いた。

 

「ホーク…」

 

 十歳くらいの子供だ。だが、わかる。その姿は出会いの時と一致している。肩を軽く超える長さの金髪が風に吹かれて頬にかかる。

 

「ミレーヌ」

 

 彼女は顔を真っ赤にしながら、声を上げて泣いていた。だがそれは悲しみから来るものではない。ホークウッドも、同じ感情に支配され、同じ表情を浮かべた。より彼女を固く抱きしめる。

 

「ずっと一緒だよ。これからも」

「ああ、離さない」

 

 木の棒か何かで、叩かれる。

 慌てて彼女を下ろすと、追いかけてきていた女性が非常に憤慨している様子でまたあの箱を取り出した。もう片方の手は、心配するようにミレーヌを抱きとめている。

 ミレーヌははっとして、その女性に言った。

 

「違う! この人は、そういうのじゃない。警察はやめて! 呼ばないで!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

「でさあ、俺は言ったわけ。金かけた方が、気持ちがこもる。だから、割れはしない。サイトは知ってるけど、一度もそれでいたしたことはないぜ。知ってるけど」

 

 息が、詰まった。 

 肌に、懐かしいような新鮮のような感触が吸い付いてくる。少し固い襟の部分。ワイシャツが少しきついと感じたのは、初めてだった。

 心地いい騒がしさが、鼓膜を揺らす。心まで揺り動かしてくるようだった。

 

「は? おいおい」

 

 隣に座る草野は、ぎょっとした。

 

「そ、そんなに感動することか? 俺、格好いい?」

「うん」

 

 下田は適当に答えながら、鼻頭を抑えた。涙を止めることもできたが、あえてそのままにした。相手を、抱きしめる気が起きかけたが、やめた。草野だからだ。

 

「そっか…。じゃあ今度、イチオシの店に連れてってやる。並べ方がいいんだよ」

「また、エロ本の話してんの?」

 

 下田が立ち上がったと同時、一人の女子生徒が草野の背中をこづいた。茶髪の先が少し丸まっている。それを少し揺らして、彼の方を怪訝そうに見てきた。

 

「下田、どうして泣いてんの? うける。草野が汚い話してたからでしょ」

「はあ、お前な。いいか高原、こいつはそこまで純情ってわけじゃないぞ。この前だって…」

「知らねえよ。いいからどけ」

「あ、もう半かよ」

 

 草野が離れていく。

 席に座ったちとせは、少ししてからこちらを向いてきた。

 

「なに?」

「いや…」

「そ」

 

 たいして興味もなさそうに自分の鞄に手を突っ込んでいく。そして適当に教科書を取り出していった。下田としては、これ以上情報量を多くされるとパンクしてしまいそうだった。おぼろげな頭で、そういえば自分は日本史が好きだったと思い出す。本当に久しぶりに、そんなことを考えていた。

 画家の少女が、言っていたことだ。

 下田は前を向き、座ろうとする。

 何もかもが正常に戻ってくれるわけではない。地球を作り直すというのは、それだけ難しいことなのだ。だから、どこか失敗してしまう可能性も十分にあった。全員の記憶が、無事に移動できなかったことも十分あり得た。

 最後にちとせを一瞥して、息を吐き出した。

 これでいい。

 たとえ今までのことを忘れていても、ちとせはちとせだ。彼女もまた、ここに戻ってこられた。それだけで、満足できる。彼女は報われた。下田の願いは、その幸せだ。何も、自分がそれを叶える必要はなかったのだ。

 そう言い聞かせて、足の力を抜く。

 

「アキ!」

 

 好きだった自分の愛称を呼ばれて、直後には重みを感じていた。彼女の体の重み。もう離れることはできない存在の証。

 ちとせは顔を大きく歪めながら、既に頬を濡らしていた。

 

「私、目の前が白くなって…。戻れたの? ここは、ほんもの?」

 

 下田は抱き着いてくる彼女の首に、手を回した。

 怖がらせるなよ、と誰かに文句を言う。時間差があるなんて、聞いてなかった。

 

「うん。そうだよ。戻ってきたんだ」

 

 既に大体の生徒が席に着き、ホームルームが始まる前の落ち着いた空気になりつつあった。だが、ちとせの行動でかき乱される。少しの静寂があった後、ざわつきが大きくなった。

 少し離れた席にいた芳野が、呆気に取られた顔で言う。

 

「え、ちょっと待って。何してんのあんたら。まさかそういう……きゃああああああああああああああ! うっそお」

 

 それは悲鳴というより、嬌声に近かった。

 下田も驚いたが、すぐに受け入れていた。数秒二人は唇を合わせた後、もっと密着する。大勢の目にさらされていることは確かだが、それでもこの感動は少しも色あせなかった。

 女子達がきゃあきゃあ騒ぎ始める。中には、スマホで撮影している者もいた。後で上手く回収しなければならないと、ちとせの香りを楽しみながら思った。

 

「はあああ? なんですけどおおおおお! 夢かこれは。そうだな、二度寝しよ」

 

 草野のうるさい声でさえ、気にならない。むしろもっと騒いでほしいと思った。それだけ、実感できるから。自分達が成し遂げたのだと、理解できるから。

 

「下田!」

 

 さらに叫びが上がったかと思えば、高坂が飛びついてきていた。同じく実織も椅子を倒しながら、加わってくる。

 二人も同じように泣いていた。それ以上に喜びを爆発させていた。

 

「はあ? ちょっと二人とも。アキはあたしが独占中なの」

「いいじゃねえか。分かち合おうぜ」

「よかった。ほんとによかった…」

 

 四人で抱き合っていると、いよいよ周りは理解ができなくなってきたようだ。突然今まであまり接点がなかったクラスメイト同士が泣きながらくっついていれば、普通は異常だと思うだろう。少し前まで興奮していた女子達も、不可解な様子で観察をしていた。

 高坂は下田と手を打ち合わせた後、我慢できないという様子で別の方に向かった。

 

「朱音、ちくしょう、やべえ、本物だ…」

「あ?」

 

 久慈は向かってくる高坂の体を器用にかわして、その腰に蹴りを入れた。攻撃を受けても、高坂はものすごく喜んでいる。勢い余って壁に当たり、そのまま地面を転がり回った。

 

「ああああ、好きだ…」

「きもっ。何なのお前。次やったら玉の方を潰すからね」

 

 そうは言ったものの、ちとせの接近に対しては何もしなかった。彼女が抱き着くと、久慈は戸惑いながらもその背中をぽんぽんと叩く。

 

「あかね、あかね…」

「ど、どうしたん? なんか今日、おかしいね」

「めぐみ~!」

 

 ちとせが芳野の方に向かったと同時に、実織もまた親友に飛びついていた。

 

「ごめんね、ずっと…」

「どうしたの? ま、まあ、いいけど。えへへ」

 

 新宮はでれでれと顔を緩めている。

 クラスの中で起きている珍事を、国広は何とか冷静に受け止めようとしている。だが下田と目が合うと、観念したように肩をすくめた。どうなってるの、と口の動きだけで伝えてくる。それに答えようとしたところで、上のスピーカーから音が鳴った。

 

「わあ、すげえ、チャイムだぜ! これだよこれ」

 

 高坂が飛び起きて、下田の肩を叩いてきた。あまり興奮しすぎるとクラス内で変な噂を立てられるかもしれない。だが、彼の喜びには下田も大きく賛同していた。肩を組んで、もはや懐かしい音色を味わう。

 前の方のドアが、勢い良く開けられた。

 

「おーい、何してるんだ? 職員室からも聞こえてきたぞ」

 

 下田達は一気に黙り込んだ。

 ようやく望みを叶えて興奮しきっているはずの四人は、一斉に入ってくる男を見る。

 芳野が、困ったように言った。

 

「先生、変なんですこの人達。急に騒ぎ出して。ちとせは下田にキスするし」

「それは…、びっくりだな。とりあえず席に着いてくれ。まずは教頭からクラスの騒ぎで怒られた話でもするか?」

 

 貴樹は人の良い笑みを浮かべた後、俯いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 ぱっちりと、目を開ける。

 

「よし! 完璧だ」

 

 すぐに顔を上げると、何かにぶつかる。瞬間、そばにいる女性の体がびくりと跳ね上がったのがわかった。

 貴樹は痛みなど感じない、だが、額がぶつかってしまった相手は違うだろう。

 

「あ、大丈夫?」

「…あの、ええと」

 

 手から、炎をこぼす。そして火守女の顔を照らした。彼女は目を一杯に開き、口も同じくらいぽかんと開けていた。

 可愛い。舐めたい。強烈に思う。

 

「期待通りだよ。げほっ。ばっちり。俺感動しちゃった」 

「タカキ様?」

「大丈夫大丈夫。さっさと済ませよう」

 

 まだ何もわからない様子の彼女を、ゆっくりと倒していく。その顔を両側に手をついて、貴樹は息を乱し始めた。

 

「結局、あれだな。あいつはガキだったってことだ」

「どういう、ことなんですか?」

「簡単な話さ」

 

 興奮が、かなり高まってくる。本来なら失神しているかもしれない。これからすることを想像するだけで、今までは危なかった。だが今は、体調が最悪の状態だ。この苦痛のおかげで、少しは抑えることができる。意識を保てる。

 

「君は天使だ」

「はい。…はい?」

「つまり、そうでなくしてしまえば、一緒に帰れるね」

「あの、」

「こういう、話があるんだけど」

 

 貴樹は服を脱ごうと手を動かす。だが、そもそも元から何も身に着けていないことに気が付いた。さすがは自分だと、恍惚な気分になる。どこまでも準備が良かった。最高だ。

 

「ソウルは、普通簡単に移動できない。ましてや、お互いに影響を及ぼすほどの交換なんて、難しい。だけど例外がある。ちゃんと合意があった場合に限るけどね。ただ操作をして移すよりもよっぽど効果がある、本能に沿っている行為。つまり、えっちだね」

 

 既に脳は溶けているが、真面目に考えた上での結論だった。貴樹のソウルを火守女に染み込ませる。そうすれば彼女の隔絶した天使という格に不純物ができることになる。彼女の器とソウルを変化させるほどの交わりがあれば、絵画に拒絶されることもなくなるだろう。

 火守女は少し遅れて理解したようだった。赤くなった目を何度もぱちぱちさせながら、ずりずりと後ろに下がろうとする。

 

「安心して。戻る道も確保してある。そうだよな? プリシラ」

『…』

 

 下田と別れたらしい彼女は、ノミの体に寄り添いながら呆れていた。だが、すぐに苦笑して、頷く。役に立つ道具だと、貴樹は認めた。多少見られていても、仕方ないと思うこともできるだろう。

 

「待ってください」

「やだ。俺もう死ぬし。急がないと。それに、約束したよね。全部終わったら、君を抱くって。一緒に頑張ろう」

「その、ここで行うのですか? もう少し、場所を考えた方が…」

 

 最後まで言わせなかった。目を爛々と輝かせながら、血もついでに吐きながら、貴樹は火守女の体に覆いかぶさった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 額に固いものがぶつかる。

 急におっぱいが固くなったと、でろでろになった頭で考えた。

 両手に力を込めると、台のようなものがあるとだけはわかった。自分の股間がここまで肥大したのかと、最低な思考をした。

 だが、すぐによろける。そこでようやく、自分が立っていることに気がついた。急な姿勢の変化にバランスが崩れて、倒れていく。

 

「先生!」

 

 外野がうるせえなと思いながら、駆け寄ってくる誰かに掴まる。少し触っただけで、女性の体だとわかった。

 

(ひもりん!)

 

 きつく抱きしめる。耳元で大きな呼吸音がして、周りのざわつきが静かになっていった。

 

(…ん?)

 

 何かがおかしいことに気が付く。体全体の感覚が変だ。何かで覆われているような。そしてようやく、自分が服を着ていることに気が付く。そして抱いている相手の肩の感じが、何やら求めていたものと違うことにも。

 目を開けると、泣き顔が近くにあった。

 

「お兄ちゃん…」

「何だてめえ」

 

 離すと、実織ははっとして涙をぬぐっていた。自分の行動を酷く恥じているようだった。

 貴樹にとっては、悲劇に近かった。

 

(何だこの豚。は? どういうこと? まさか)

 

 最悪の想像が、脳内を駆け巡る。嫌なオチだった。まさか今まで体験してきた素晴らしいものの数々は、夢だったのだろうか。教師の仕事をこなして寝不足になっていたせいで、クラスの者達の前でうたた寝をしていた。

 だが、そんな想像もすぐに消えていった。なぜなら、感じたからだ。焦がれてやまない気配の残滓が、遠くから流れてくるのが分かった。その位置を正確に把握した貴樹は、すぐに走り出した。 

 

(おいふざけんなああああああああああ! まだ途中だっただろうがあああああああああああああ! プリシラの奴、条件を満たしたらすぐにやりやがったな。ゴミがアアアアアアアアアアアアア!) 

「ええ、先生?」

「待ってください!」

「おい、タカセンもおかしいぞ…」

「ホームルームやんないの? じゃあちとせ、ちょっと詳しく聞かせてもらうからね」

「アキ!」

 

 誰かが付いてきているような気もする。

 だが、どうでもよかった。

 階段を飛ぶように降りていきながら、玄関口へと向かう。途中ですれ違った教員らは驚いていたが、貴樹は彼ら全てのことを忘れていたので、もはや道端の生ゴミ程度の存在でしかなかった。

 外に出ると、校門を見る。

 そして、複数の者達が起き上がるのがわかった。どうやら上手いこと近くに指定されていたらしい。

 きょろきょろと不安そうに周りを見ていた火守女は、走ってくる貴樹に気がついた。そしてすぐに駆け出していく。その体が近づいていくにつれて、先ほどまでの光景が一気に頭へと昇ってきた。

 脳内麻薬が異常なほど分泌される。その量は、もはや今の正常な彼の精神で許容できる範囲を大幅に超えていた。

 火守女の前で、貴樹は地面に転がる。既に、気を失っていた。

 幸せそうな顔で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 妙に重苦しい空気が漂っていた。

 

「へえ、アフリカあたりに多いんだねえ。中東もいけるんだ―。たくさんカネが必要だけど」 

 

 光陰矢の如し。

 時間の流れは意外と早いものだ。

 下田にとっても、あの世界でのことは今振り返ればあっという間にも思えた。期間としては、おそらく二か月にも満たない。

 だが、一方で逆の考えもあった。短いと感じるのは、あくまで表面的なものをさらうだけの話だ。彼は今までで一番長い体験だったと確信していた。おそらくこれからの人生においても、更新されることはないだろう。あの繰り返しを含めれば、どんな長さも意味を持たなくなる。

 墓石が並ぶ風景を横目に、下田は視線を何とかして無視していた。

 既に、戻ってきた時から数週間が経っている。初めは、かなりどたばたしていた。周りの環境の整理やら、勉強の勘を取り戻すやらで、今日まで行くことができていなかった。

 母親の墓は、ちょうど霊園の真ん中あたりにあった。死亡の日付はおおよそ十七年前になっている。

 当然の帰着だった。下田美紗は、もう死んでいる。育ててくれたプリシラも、どこにもいない。下田は、前よりも可哀そうな子供として扱われていたようだった。親戚の家に住まわせてもらってから、高校入学と同時に自分から一人暮らしを申し出ていたらしい。もちろんそんなことは彼にとって知ったことではなかった。だから最初は、勝手の違う生活に戸惑ってばかりだった。

 

「ユイノウキン? ねえシモダ、これなに?」

 

 下田のスマホを、リリアーネは見せてきた。当たり前のように他人のものを使っている彼女は、ちとせの刺すような視線も当然流せている。

 

「ちょっと、うるさい。周りの人の迷惑になるでしょ」

 

 十分注目は浴びていた。ただでさえ人目を引く女性ばかりなのに、その中に下田が混ざっていれば尚更目立つ。バス内の一番奥の多人数席を何度も振り返ってくる人もいた。

 

「でもさ、チトセのためでもあるんだよ。だって、二ホンだと駄目らしいじゃん?」

「あのね、私がいつ認めたの? 別にこだわらなくたっていいでしょ」

「だが、大事なことだ」

 

 ユリアが窓から手を離して、言い争いの中に入ってくる。彼女は手ごろなブランド物の英字シャツを身に着けていた。ちとせの所有物だ。そしてリリアーネも黒のパーカーのチャックをだらしなく開けながら下田の腕に寄りかかっている。ちとせの私服だ。

 

「ジュウコンは認められていない。法の中で縛られて生きるのは、全員にとって望むことではないだろう。だから、やりやすい環境の中に身を置くことが肝要だ」

「言うな! あ、すみませ~ん。静かにしますから。…いい? ユリアさんも。もっと常識をわきまえて」

 

 だが、ちとせも段々と絆されてきているのはわかっていた。最初は彼女達の存在が近くにあるだけで微妙な顔をしていたが、今はもうほとんど諦めているようだ。段々とリリアーネ達に言いくるめられることが多くなってきた。

 一昨日会った、ちとせの父親を思い出す。もしこんな事情が知られたら、殺されるだけでは済まない。今の所、相手にはあまり良い印象を持たれていないようだった。ちとせは親バカなだけだと気にもしていないが、実際はわからない。下田としても、もし娘ができたら自分のような男に託したいと思えるか、自信がなかった。

 バスが、目的地の近くに到着する。降りた下田は時計を確認した。まだ、指定された時間になっていない。五分ほど早かった。

 だが、既に他の者達は全員集合しているようだった。

 高坂は最初元気に手を振っていたが、段々と苦虫をかみつぶすような顔になってきていた。

 

「なんかその絵面、むかつくな。漫画の主人公かよ」

「代わってもいいよ」

「いや、遠慮しとく。苦労しそうだから」

 

 ヨルシカの鋭い視線を浴びて、高坂はすぐに退散していく。

 

「それで、誰が予約したんだっけ?」

「タカキじゃねえのか?」

 

 ホークウッドが指差す。

 肝心の本人は、まだ火守女と話をしていた。初めから、こちらへ顔すら向けていない。

 いや、と下田は自身の間違いを訂正する。もう彼女は火守女ではない。オセロットという、名前を得ていた。付けたのは貴樹ではない。どうやら彼女の方から提案してきたらしい。生まれるはずだったロスリック王家の末子。そこから、取っているのだという。下田にはあまり女性らしくない名だという気がしていたが、貴樹達が納得しているのなら、何も口出しはしない方がいいと結論付けた。

 

「いや、絶対水色の方がいい」

「そうなんですか?」

「わかった。じゃあ今度店に直接行こう。一緒に。三時間くらいはこもれるはずだから」

「私は、正直よくわからないので…」

 

 衣服の話をしているらしい彼は、ようやく注目されていることに気がついた。気取った仕草で時計を確認し、店の方へ体を向ける。

 

「六時ちょうどだ。行こう」

 

 本音を言えばどういう思いで皆の前に立てているのかは不思議だったが、渋々感謝をしなければならない部分もあった。こうして関わった全員を集めるのに一番尽力したのが、貴樹だからだ。オセロットのご機嫌取りが一番にあるのは分かっていたが、それでも全員にとっていい働きをしていた。

 団体向けの居酒屋ということはわかっていたが、中に入ってみると意外と洒落た内装をしている。洋風の飾りつけを丁寧にしていて、流れている音楽もスローテンポのものが多かった。

 こういう選ぶセンスだけは良くてむかつく。そう思いながら、下田は先を歩く貴樹を眺めた。

 一個の長いテーブルの周りに、全員がぐるりと腰かけた。

 下田の隣には、ちとせとヨルシカが陣取る。そしてちょうど正面には、画家の少女が座っていた。実は彼女にも名前が必要なのではないかと確信しているが、納得できるものを今まで思いつけていない。

 

「では、こうして再会を祝して…」

「なに仕切ろうとしてんの?」

 

 実織は、貴樹がコップを上げようとするのを止める。

 

「んだよ」

「あんた、自分がそういうポジションだって思ってるの? ぷぷ、だったらアホじゃん。なわけないっての」

 

 彼女は口を押さえてから、下田の方を見てきた。舌打ちをした貴樹以外全員が、その資格は下田にあるのだと目線で伝えてきていた。

 ちとせにも促された彼は、首筋をかきながらコップを上げた。

 

「じゃあ…、乾杯」

 

 高坂がずっこけるような真似をしたあと、楽しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 

 一緒に苦難を乗り越えた絆というものがあるのなら、こうして会話できていることが目に見える証なのだろう。

 アリーとイアンは、どちらがランドンに構ってもらっているか、可愛らしく言い争っていた。たとえあの期間を共にした夫、父親でなくとも彼らの家族であることには変わりない。

 由海と幸成も、下田達と同じ行動をしていたらしい。戻った瞬間、二人とも教室から出て、廊下で抱き合って喜びを分かち合った。周りの生徒達から、たくさん質問攻めにあったそうだ。そういう話を、ジアンナは黙って聞いていた。幸成の肩に手を回しながら。

 

「駄目だ」

「いいじゃん。ホーク、おねがーい」

「可愛くおねだりをしても駄目だ。恥ずかしくないのか」

「うるさいなあ」

 

 一番日本へ来るのに苦労したのは、ホークウッドとミレーヌだろう。彼らは一時期それなりの苦労があったらしい。確かに見た目だけ考えれば、不審がられても無理はない。イアンと同じくらいの少女と気難しそうな大人の男。ミレーヌの孤児院の許可を取るのが、一番難しかったとホークウッドは語っていた。

 楽しそうなミレーヌは酒を渡そうとしない彼に抱き着いた。そして、短く顎へ接吻をする。

 

「これで、いいでしょ? 私だって心は大人なんだから」

「お前、前にそれやって通報されかけたの忘れたのか?」

 

 と言いながらも、彼はまんざらでもなさそうだった。

 下田が思ってもあえて言っていなかったことを、隣のちとせがつぶやく。

 

「ロリコンだ…」

 

 合法になるまで、彼らの前途に幸あれと願う。

 こうして全員と会うと、ダークソウルの力は偉大だと感じる。

 まず、言葉の壁が無くなっていることがありがたい。この者達の間だけだが、たとえ人種、母語が違っていても、スムーズに会話ができる。かつてあの世界に住んでいた者達も、地球の人間達と意志疎通ができている。

 もぞもぞと、足元で誰かが動いている。そして画家の少女は這い出てくると、下田の膝の上に座った。

 

「美味しい?」

「うん」

 

 彼女の来ている服だけは、新しく買わなければならなかった。ちとせのも、母親のお古も大きすぎて着れない。女の子用の服を選ぶのは、ちとせに大いに協力してもらった。多少、他人の目は気になったが。

 

「こんなに賑やかなの、初めて」

「そうだね」

「ありがとう」

「こっちこそ」

 

 左右から意見のありそうな視線が向かってきていたが、今は彼女との時間を優先した。

 

 

 

 

 

 

 三時間ほどお互いの近況を報告し合って、解散することになった。ミレーヌの帰国の期限が迫っていることも関係している。これからも、定期的に皆で集まることになった。このつながりを大事にしていこうと、下田も考えていた。

 

「もっと、深く咥えなさい」

 

 もちろん、課題は残されている。

 下田や貴樹のような、元から地球にいた人達は簡単だった。自分の体に戻るだけでよかった。築いている立場もある。順応するのに時間はかかったが、もうすっかり元の暮らしに馴染んでいた。

 だが、ホークウッド達は違う。彼らは完全に今までいなかった存在として、地球にたどり着いた。この世界で生きていくのに重要な、戸籍というものを所持していない。だから、ホークウッドの出国はすれすれというか、もはや法を通り越した手段で行わなければならなかった。

 下田の移動の奇跡を使うしかなかったのだ。

 地球に戻ってからも、術を扱うことができていた。それは、ヨルシカなども同じだ。

 彼女は深く息を吐き出した。指についた噛み跡を下田に治してもらっている。そして落ち着くと、今度は下田の肩口に熱い視線を向けてきた。

 

「では…」

 

 障害がたくさん出てくるのはわかっている。もしこの先彼女達が病気にかかったりしても、保険が適用されない。他にも、就職の問題もある。下田は、正直全員を自分だけで養っていけるとは思っていなかった。当然リリアーネ達も働く必要があると考えている。バイトをするのにしても、身分を証明するものが必要だった。

 その問題に関しては貴樹が奔走している最中だ。どうやら姉の薫とも連絡を取り合って、裏のルートから戸籍を得る手段を探しているらしい。薫は急にできた貴樹の恋人の存在を大いに喜んでいた。あと数日以内にアメリカから会いに来るそうだ。

 そして、他にも問題はある。

 

「約束、しましたよね?」

 

 ヨルシカは最後に首筋を舐めてから、下田の瞳をじっと見つめた。口の周りが少し赤くなっているが、彼女は気にしていないようだ。

 

「貴方が死ぬ時に、殺してください」

 

 竜の血を引いていることで、彼女は寿命が長大になっていた。このまま年月を経ていけば、先に老いて死ぬのは下田の方だ。だが、それを彼女は良しとしていない。だから、そんなことを言ってくる。

 

「どうだろう」

「貴方がいなくなった後なんて、考えたくありません。きっと、恐ろしくつまらない」

「そうだね」

 

 リリアーネが耳に甘く噛みついてくる。ユリアは、彼の頭に膝を貸していた。彼女達も、普通の人間ではない。これからもあまり年を取らずに生きていく。

 

「その時は、最高のものにしよう。私達も鍛錬を怠らないから。君も、弱くなったりしないでね」

 

 客観的に見れば、狂っているのかもしれない。だが、きっかけは下田自身の行動だった。自分のせいだと、彼はちゃんと理解している。自分が、彼女達を決定的に変えてしまった。その責任は、最後まで忘れないつもりだ。

 

「あるいは」 

 

 ヨルシカは長い睫毛を揺らしながら、下田の唇を眺めていた。

 

「私の血をもっと、ソウルもさらに分け与えれば、貴方は私と同じになるかもしれません。永遠に近い生を得られる」

「いいですねえ。じゃあ、私と姉さんにもちゃんと分けてくださいよ」

「嫌です」

「えー」

 

 扉が大きな音を立てて開かれる。画家の少女の買い物に付き合っていたちとせは、憤慨しながらベッドを蹴った。リリアーネが笑いながら、下田から離れる。

 

「ここ、私の部屋なんだけど!」

 

 歪みは、残されている。

 画家の少女は、警告をしていた。あり得ないはずの存在が複数地球にやって来たことで、秩序が乱れている可能性がある。この地球は、まだ作り直されたばかりだ。いつどこで、綻びがやってくるかわからない。

 さらに、深淵の脅威もあった。マヌス達は滅ぼされているが、他の闇の残滓はまだ生き残っている可能性がある。世界を飛び越えて、下田達の周りに姿を現すかもしれない。だから、訓練は必要だった。それに警戒も。

 下田はちとせに頬をつねられながら、自分の使命を薄っすらと考えていた。もし将来そういう綻びができたら、自分達が修正するべきだ。それが生き残った灰としての、義務なのだと心に決めた。

 だがひとまずは、自分の周りにある問題を片づけなければならない。もしかすれば、それが一番の難題なのかもしれなかった。

 ぐちぐちと文句を言われている下田を見て、画家の少女は微笑んだ。そして気を遣うようにして、ドアをゆっくりと閉めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 改めて、学んだことがあった。もしあの体験の数々がなければ、考えもしなかったこと。

 欲望というのは、際限がない。一回満足した所で、また別の望みが出てくる。

 貴樹は火守女改め、オセロットと手をつなぎながら家路についていた。今までは実家暮らしだったが、彼女との時間を大切にしたいのもあって、アパートに引っ越していた。

 

「皆様、元気そうでよかったです」

「そうだね」

 

 彼女は伺うようにして顔を傾けてくる。その目に疑いが確かに含まれていて、貴樹は大げさに息を詰まらせた。

 

「いや、ほんとだよ。再会できて楽しかった」

「嘘はなしと、タカキ様から言ってきたではないですか」

「勘弁してくれ。君への愛情は本物だから」 

 

 あれ、おかしいぞと、彼は心の中で首をひねった。

 最初の頃は初々しいものだったが、オセロットは段々とこちらの心情を常に見透かしてくるようになっていた。完全に思考を把握されてしまっている。それを利用して何かを言い返してくることも多くなってきていた。それに対して負の感情は全くない。彼女が自分の意思をしっかりと持っているのは喜ばしいことだし、尻に敷かれてみるのも悪くなかった。

 おそらく、いや確実に、彼女はもっと魅力的になっていくだろう。それこそ、人間の寿命、数十年単位では決して味わいきれないほど。

 

(ふむ。この方向でやってみるか)

 

 欲望が、膨らんでいく。

 数百年、数千年でも足りない。そもそも、終わりがあるというのが我慢ならなかった。本当の意味で永遠に、彼女と過ごしていくためにはどうすればいいか。計画を立て始める。

 まず、環境の改善が急務だ。住む場所などはどうでもいい。だが、周りの人間の皮を被った畜生達の存在が邪魔で仕方がなかった。その醜さでオセロットの美しさが際立つのは結構な事だ。しかし、そもそも彼女と自分以外がいらないのも事実だった。存在価値を、感じない。

 永遠の蜜月。

 二人きりの環境。あるいは、好きなキャラクターだけがいる世界。

 地球に戻ってきてから考えるにしては荒唐無稽だという思いもあったが、次第に思考を進めていくにつれて、現実味を帯びてきた。

 まだ、細かい所はわからない。それでも手がかりがあるのは確かだ。まずは画家の少女。彼女の力はまだ残っている。世界を移すことも可能だ。

 そしてそれは、この世界に異次元の存在を呼び込むこともできるということ。貴樹は小物くさい笑みをこっそりと浮かべた。

 歴史を、再現する。もしかしたら、別の世界に、全く同じ存在がいるかもしれない。別のグウィン達が、同じことを企んでいるかもしれない。上手くそれを手引きして、地球を侵略させる。ダークソウルの世界と、融合させる。

 深淵も利用する価値があった。それらも呼び込めれば、よりスムーズに環境の整理が進んでいくだろう。王のソウル。ダークソウル。それらを取り込んで、寿命を消す。または、何度も同じことを繰り返して、永遠にオセロットと出会い、結ばれる循環に身を委ねてもいい。

 貴樹は非常にやりがいを感じていた。考えることがたくさんだ。常に全力で生きていかなければならない。あの世界にいた時と同じように。

 横を歩いていたオセロットが、立ち止まった。そして、何やら含みのある様子で貴樹を見てくる。

 

「どうしたの?」

「お願いしても、いいですか?」

 

 彼女の指がより強く絡まってくる。頭の芯が捻じれていくような心地がした。

 

「う、うん」

 

 彼女はしっかりと目を合わせてくる。その瞳が、明らかに潤んでいた。頬の色も鮮やかになってきている。そしていけないことのように、ぼそぼそと言ってきた。

 

「帰ったら、また、してください。はしたないとは、わかっているのですが…」

 

 それまで考えていた何もかもが、吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 これにて一応、完結です。ここまで読んでくれた方、少しでもこの物語に触れてくれた方、ありがとうございます。
 これほど長いものを完成させるのは初めてだったので、色々と拙い所もあったと思います。作者自身も、反省すべき点がいくつかあります。(これを書くまでパッチの存在を忘れていたり)
 ですが、何よりも読者の方々への感謝が一番強いです。感想や評価、そしてアクセスの状況だけでも、とても励みになりました。本当に感謝しています。
 並行して連載していた別の作品に手をつけていくと思うので、良かったらそちらの方も覗いてみてください。
 後書きまで読んでくれて、本当にありがとうございました。また、別の場所で。

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