―――古代に来てから3か月が経過した。
「ふ、ふ、ふ、ふ―――」
浅く息を吐き出しながら呼吸のリズムを作る。フォゥから教わった様に、自分の呼吸を整えてリズムを作る。全てを忘れてしまったから呼吸から走り方まで全部組みなおしだ。空っぽになったスキルを全て詰め直している。その中でも底の底、根幹となる部分の構築をする為に今朝も走っている。ベルカ城下を覆う様に広がる城壁の上は一応走れる。警備の兵士や騎士達がその上に居たりするのだが、毎朝走っているともう見慣れてくる。というのも、別にここをランニングスポットにしているのは俺1人じゃないので他にも走っている人はまあ、時間帯を変えれば見かけるだろう。同じように朝走り込んでいる人たちもいるが、おれよりも遥かに体が出来上がっている事もあって、先を走って行ってしまう。
それでも3か月目となるとこうやって、ジョギング程度の速度であれば走り込みも出来るようになってくる。体に負担をかけない、無理をしない程度にという前提条件があるが。それでも少しずつ、体力の総量を増やすトレーニングを始められていた。フォゥが言うには器を切断した斬撃の傷跡はもうなく、綺麗にくっついたからまた同じ様な攻撃を喰らわない限りは心配する必要もない……という話だった。だからこれからは本格的に体のトレーニングに入れた。
「おはよう今朝も運動かい? 頑張ってね。あと陛下にはもう少し大人しくなってくれって頼む」
「うっす、ありがとうございます、頑張りまっす。最後のは無理っす」
「無理かあ……まあ、そうだよなあ……」
軽いジョギング速度を維持しながら城壁の上で見張りをしている兵士と軽いやり取りをする。ここら辺に俺を目当てに聖王陛下がポップする事はもはや周知の事実だった。まあ、それでも城の騎士達が聖王を連れ戻しに出撃してこないのは、本当に必要なときは本人が遊びに出ない事、そしてやるべき事はちゃんと全部処理してから時間を作っているからなのだろう。そこだけを見れば間違いなくちゃんとした大人として働けているのだろうが。それでも毎回大臣や宰相への精神攻撃を忘れないのはどうかと思う。
「ま、それも平和な証かぁ……」
ちょっと疲れた。
走っていた足を止めて、城壁の凹凸部分に腰を下ろして休む。数分休んだらそろそろ診療所へと戻ろうかな、と考えながらフォゥに持たされた水筒を開けて中の水を飲む。流石に春がすぐそこまで来ているだけあってだいぶ暖かくなってきた。時折涼しい風が吹いてくるときもあって、そういう時はもう1枚着たいなあ……なんて思う事もあるが、それでも普段は半袖でも十分と言える程度の暖かさになってきた。
「疲れた、か」
そんなもの、元は感じる事もなかった。どれだけ無茶しても体がついて来るし、余裕だった。だけど今では普通の苦しさを感じれる。疲れてて息も苦しいのに、そこに感じているのは確かな充実感だった。最近は毎日が楽しいと思えてしょうがない。体を動かす事、少しずつ積み上げて行く事、新しく学ぶこと、色々とある。覚えなきゃいけない事がたくさんあるのは現代にいた頃と何も変わらない……だけど今はそれが楽しい。
なんでだろうなー。
心持ち1つで、人は大きく変わるのだろう、たぶん。
「どうなんだろ、ヴィヴィ。俺は少しは君に近づけてるのかな」
視線を王城へと向けた。城下町の奥へ、その中央に座す聖王の居城へと。あそこに聖王ルートヴィッヒとその家族たち、そして数多くの兵士や騎士達が住んでいる。その大きさは言葉で表現するのは難しく、広大な土地を有して多くの人々が維持する為に暮らしているのだ……と言えば良いだろう。この国、そして世界の中心なのだから当然だろう。そしてこのベルカ城下も、また人口の増加に合わせて何度も拡張されているらしい。
城下の周りに城壁が出来て、その外に街を伸ばしたら城壁を崩してその外にまた新しいのを作る。それを繰り返してこの城下町は広大な拡張を繰り返して来た。その中心点にオリヴィエはいるのだ。そしてこの先の運命の中心にもいる。この先、ベルカという世界の歴史と向き合おうとするなら必然的に彼女と向き合う事にもなる、そう言うレベルで彼女は渦中の人物だ。
だが今は違う、今はただの少女だ。俺がただの力のない少年の様に。まだ10歳の少年である様に、彼女も10歳の少女でしかない。
「君は……何をしているのかな……」
夢を見なくなった。彼女とあの夢で逢えなくなった。逢いたい、そう思っても逢えない。きっと自分が持っていた力の全てを失ったから。だけどそれは悪い事だったのだろうか? 逢えない事は苦しい……だけどオリヴィエから離れて、1人の時間が生まれて、漸く自分だけで物事を考えられるようになってきた気がする。最近はイリスも工房で変態の股間にショットガンをぶっ放すので忙しいらしいし、1人の時間は前よりも増えてる。だから色々考える時間は増えている。
自分が何をすべきなのか、何をしたいのか、何をしなきゃいけないのか。
この3か月間、ゆっくりと考えてきた―――時間だけは、腐る程あったから。
流されるようにベルカにたどり着いて、感情のままに暴れて、消えたいと思って、死にたいと思って……それでも、オリヴィエの事が大事で、何とかしなきゃいけないと思った。結局のところ俺はあの子を救いたいんだという事が、良く解った。その気持ちだけはこの3か月間変わる事がなかった。だからきっと、これが俺の行動の根底にあるものだと思っている。
朝日を受けて僅かに煌めく白亜の王城の姿を眺め、息を吐く。
「どうすれば良いのか解らないけど、絶対に、君を助けに行く」
聖王は助けられないと言っていた。彼は王だから、やりたいのなら自分の手で彼女を救え、と。
連れ去りたいのなら攫え。
欲しいのなら迎えに行け。
その為に必要なものを身に付けよ。
その通りだ。まさしくその通りだ。
俺はまだ、自分の両足で立ってはいない。現代での生活は家族や聖王教会によって支えられていた生活だった。言われる事、やる事、やるべき事、その全てが誰かに与えられ、歩く事まで全て指示されていた人形としての人生だった。そして今は立ち上がる為に手を伸ばして貰っている。手を取って、立ち上がらせて貰っている。
そしてそこから背を押して貰っている。どこに行きたいのか、何をしたいのか。それを口に出す様に誘導させられた、今、漸くそれを自覚出来た。覚悟して決めたとかじゃなくて、ふと見返したら気づいたのだ。
俺はオリヴィエ・ゼーゲブレヒトの事が好きだ。
だから彼女に笑顔で居て欲しい―――救われて欲しい。
だから助けたい。助けなくちゃいけない。俺がその笑顔を曇らせたから。
それがきっと、クラウスの言う”男の責任の取り方”という奴なんだろうと思う。
「なあ、そうだよな……クラウス」
声も届かない場所にいる親友、本当に俺がやらかした事はごめん。言い訳もできない。最低だった。最悪でもあった。もっと前からお前に相談すりゃあ良かったよ。嫌な事は嫌だって口にすれば良かったんだ。辛いって助けを求めれば良かったんだ。それが漸く解った。乱れていた心のバランスが体と共に整う様に、自然と心が前向きになる。
視線を王城から外してベルカの市街へと向ければ、城下へと向かって進んでくる馬車の一団が見えてくる。もう人がやってくるような時間か、と思うと立ち上がり背筋を伸ばす。
「よっし、そろそろ戻るか」
朝食までには診療所へと帰らないと。そう思ってジョギングで診療所へと帰って行く。
帰ってきて朝のジョギングの汗を流す為に風呂場で井戸からくみ上げた水を頭から被る事で流す。これがこの時代のベルカにおけるスタンダードなスタイルだ。最初は違和感のあったこれも、数か月も経過すれば普通になってくる。ともあれ、こうやって汗を流し終わると既に朝食がテーブルの上に並んでいるので、フォゥに感謝しつつそれを平らげる。料理の腕前もプロフェッショナル並のフォゥの経歴が気になる所だが、そんな事を考える前に食べる事に集中してしまう為、何時も気づけば食べ終わっている。
それを眺めていたフォゥがふと、笑みを零した。
「良い顔をする様になったな坊主」
「えー……そうには見えないけど? 何時も通りの顔じゃない」
横で朝食を食べていたイリスがこっちの顔を覗き込みながら怪訝な表情を浮かべるが、フォゥはそれに気にする事なくま、と声を零した。
「お前がどんな悟りを得たのかは知らないけども、それが全てだと思うな。覚悟したと思った事の大半は実際には覚悟できてないもんだからな。覚悟は試されて初めて覚悟出来ているのかどうかが解るもんだ。まだ心は揺れ動けるって事を忘れるなよ坊主」
「……うす!」
「俺からはそれだけだ。そしてそれとは別に―――」
フォゥがふぅ、と溜息を吐いた。
「エレミアの一団が来た」
「それってつまり……”白い傷跡”って人が来たって事だよね?」
「あぁ。仕事の報告とか諸々で王城へと向かってるから顔を出すのは明日頃になるだろうし、補給やら依頼の処理でまあ、一月はここに留まるだろう」
フォゥの言葉にそっか、と声を零してしまう。一月はここに留まる―――の言葉の次は言われなくても解る。ここを離れるという事だ。そしてそれはつまり、ついに命の恩人であるフォゥから別れて生きて行くという事になるのだ。それを自覚するとなんか悲しくなってくる。これまでこんなに良くしてもらっているのに、この人に関しては何もお返しできていないという事実に気づいてしまった。当然のように良くされて、当然のようにそれに甘えてきた。なんか、せめて何かをお返しでもできれば良いのに。
「あぁ、もう、そんなに露骨に悲しそうな顔をするな……全く、少しは嬢ちゃんみたいに遠慮を失くせば良いのによ」
「私そこまで遠慮ない?」
「勝手にあっちこっち弄ってるだろお前はよ」
「だって不便だしー?」
そう言うイリスは一切態度を崩さない。この数か月でベルカの生活に慣れる―――事はなく、過激派現代人としてフォーミュラを使った生活の改善をちょくちょく行っていた。実際、プログラミングや改変、そういう分野においてはフォーミュラを超える技術がこのベルカには存在していないのだから。それを使って疑似的にシャワーを自分専用に再現するとかこの女はやっていたのだ。
それでもまあ、井戸から大量の水を汲んでくる必要はあるから俺はバケツで被る派だったが。
シャワーなんてなくてもどうにかなるんだ。
「全く悪びれもしないな。だけど、ま、子供なんだからそれぐらいふてぶてしくしてりゃあいいさ。子供なんて本来庇護されるべき存在なんだ。迷惑かけてるとか、お返しとか、そういうのは一切気にするな。それでも気になるってなら……そうだな」
フォゥは腕を組みながら背を椅子の背もたれに預けると天井を見上げ、それから視線を戻してくる。
「お前らが成人したら飛びっきりに良い酒を持って来い。それでいいさ」
フォゥの言葉のこくこく、と頷いて応えた。お酒、ちょっとだけ飲んだ事がある。と言ってもワインなのだが。あまり、その美味しさは良く解らなかった。昔は口にした所で酔う事もなかったし。だから本当に口にする意味のないものだった。だけど大人たちはそれを何時も美味しそうに笑って飲んでいたから……美味しく飲めるようになるのは、ちょっと憧れるものがある。
だからお酒か、と思った。そして改めて頷いた。
「じゃあその時は飛びっきりに美味しくて良いお酒を持ってくるよ」
それで成人をまたここで祝えたら、良いな。素直に今はそう思える。明日を生きる事に、明日に進む事に少しでも希望が持てる。やるべき事があって、やりたい事があって、その為にしなきゃならない事が今は解る。そのおかげで自分の意思で踏み出せる。
そしてそれが出来ると、他の事も見えてくるし、感じられるようになる。
漸く、シド・カルマギアという少年が生き始めた……という気がした。
「そこらへんアンタはセンスなさそうだからあたしで見繕うわ」
「ちょっと酷くないか?」
「は? 黒以外の色を選べるようになってから吠えなさい」
ぐうの音も出なかった。でも服って大体親に任せるもんじゃん……? 色合いとか急に言われても無難に黒か白ぐらいしか選べない。そこんところ、イリスは女子らしいファッションセンスで上下の色を合わせないとか、コントラストとかちゃんと考えてくる。だから服の購入は主にイリスの仕事で、俺の着ている物は聖王かイリスの趣味で構築されていた。
いや、俺にセンスがないという訳じゃないんだ。決してそうじゃないんだ。
認めないぞ。俺にだって人並みのセンスがあるはずだ。ただ、まだ磨かれていないだけなんだ。
……そうだよね?
そんな事を考えながら穏やかな一日を過ごす。恐らく明日―――一生を通じて忘れられない、師となる人物に会う事を待ち望みながら。
春は出会いと別れの季節。ベルカ城下での数か月の日々もそろそろ終わり。旅が始まれば年単位で戻る事もなくなる。
即ち育成本番。