しとしとと雨粒が草木に弾けるさまを横目に、薄っすらと湯気の立つティーカップを傾ける。
この十余年で随分と肥えた舌は紅茶の出来を見極めるには十分で、今日も執事の腕の確かさをしっかりと伝えてくれる。
「……ままならないわね」
その芳醇な香りを存分に味わえないのは、ひとえに私の心持ちの問題。
私の抱える課題に解決の目処が立たない、そのことが消えないしこりとなっているためだった。
微かに溜息が零れ、頭を振って再びティーカップを口元へ運ぶ。焦っても解決しないことは先刻承知なのだから、今はこの味を楽しむことに集中すればいい──そう開き直ることができたらどんなに楽だろうか。
猶予はそう長くない。
あと三年、たった三年が過ぎてしまえば、いよいよ
『ゼロの使い魔』。
前世の世界にて刊行されていたライトノベルのタイトルであり、異世界モノの流行の火付け役を担った名作、らしい。
生憎と前世の私は少し世代が外れており、多少聞きかじっただけの知識しかない。兄の部屋で一巻のさわりを少しだけ読んだことならあるが、その程度の記憶では特に役立つこともないだろう。
何の因果か、そんな世界に第二の生を受けたのが十三年前のこと。ここが『ゼロ魔』の世界であると気づいたのが、今から八年前のことになる。
「はぁ……」
さっきよりも幾分大きな溜息を、今度は意識的に吐き出してみる。多少は気が紛れるかと思ったが、さしたる効果は得られなかった。
原作が始まるとは言ったものの、これから何が起きるのかなんてほとんど把握していない。二年生への進級試験、春の使い魔召喚の折に地球から主人公が召喚され、決闘やら何やらを経て周囲の人々と関わりを深めていく……そのくらいのぼんやりとした認識しかない。
だから、私の憂いは原作で巻き起こる騒動に対してではなく。
三年後に進級試験を迎える──つまり二年後にはトリステイン魔法学院へと入学することになる、私の親友に対してのものだった。
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
いかにも貴族らしき名前に違わぬ、国内有数の大貴族であるヴァリエール公爵家の末娘。
今世では侯爵令嬢として生まれた私と、家ぐるみでの親交を持つ幼馴染。
そして何より、私がこの世界の正体を知る契機となった──
そんな彼女の何が問題なのかといえば、『魔法が使えない』という一点に尽きる。
この世界にはファンタジーらしく様々な魔法が存在するが、
そのため直系の貴族は誰しも、力量の差こそあれ必ずいずれかの系統魔法に適性を示す。その系統は血筋に依る場合が多く、ルイズであれば父方の『水』か母方の『風』のどちらかを受け継ぐものと思われた。
ところが現実には、ルイズの魔法適性は
そのあまりに惨憺たる成績から、ついた渾名が『ゼロのルイズ』。原作で彼女を馬鹿にしていた生徒たちは、トリステイン王家に次ぐ公爵家の権力を恐れていなかったのか甚だ疑問ではあるが。
私はそれを防ぎたかった。
親友が嘲笑われるさまを見たくない。そんな幼稚なエゴから始まった私の試行錯誤は、未だ実を結ぶには至っていない。
今日も今日とて文献を漁ったり系統魔法の性質を検証したりしていた私だが、やはり進展のほどは思わしくない。流石に疲労とストレスが溜まってきたのを自覚して、一旦休憩をとっていたという訳だ。
「そもそも『ゼロ』とは何? メイジではない一般人とは違う。爆発という結果が得られている以上、単なる失敗とは何かが違うはず。精神力を術式に変換する過程に問題があるのか、それとも──」
中身が心許なくなってきたカップをちびちび舐めつつ思索に耽っていると、ノック音とともに扉の向こうから私を呼ぶ声がふと耳に届いた。
どうぞ、と端的な返事を飛ばすと一拍置いて扉が開かれ、声から予想した通りに見慣れたメイドの姿が視界に映る。
「失礼いたします」
「どうしたの、レイラ」
このエウレヴァイン侯爵家に仕え、実質的には私専属のメイドである彼女は私の研究における最大の協力者だ。私の度重なる無茶振りにも嫌な顔一つせず、家の書庫や街の市場を探し回って必要な資料を集めてくれている。
「お嬢様がお探しの書籍がいくつか手に入りましたのでご報告を」
「相変わらず仕事が早いわね……いつもありがとう」
彼女が手にしていた数冊の本を受け取りつつ、紛れもなく本心からの礼を述べる。
本当にレイラには頭が上がらない。つい一週間ほど前にも貴重な文献を取り寄せてくれたばかりだというのに、恐ろしいほどに有能な従者である。
本人は「お嬢様のお望みとあらば」なんて澄まし顔で言ってのけるが、実際にどれほど労力を割いているのかは想像に難くない。
「『魔法詠唱理論』に『先住魔法の対応と対策』、『系統魔法大全』の初版まで……大丈夫? こんな貴重な本、手に入れるために何か無茶したりしていない?」
「問題ありません。これが私の仕事ですので」
お願いしている私が言うのもなんだが、明らかにメイドの仕事からは外れているような気がする。
こういう時に彼女が謝罪や褒美を受け取らないことはわかっているので、もう一度「ありがとう」と礼を告げるに留めておく。一礼して部屋を去っていくレイラの姿を見送ってから、私は手元の書物に視線を落とした。
「『系統魔法を発動する上で欠かせない詠唱という要素であるが、これはメイジの精神力に指向性を持たせて発動する術式を定義するためであり』……」
時に黙々と、時に声に出しながら本を読み進めつつ、頭の中でこれまでに得た知識と新たな情報の擦り合わせを行っていく。
めぼしい情報はそうそう見つかるものではない。膨大な文献を漁ってとにかく知識を詰め込む以外に、私に取れる方法はないのだ。
「『系統魔法は火、水、土、風、虚無の五種からなり、それぞれが世界を構築する最小単位に対応するものである』……流石は五百年前の第一版。今とは考え方も多少違っているのかしらね」
現在の標準である四大系統ではなく、五大系統を軸に理論が展開されているのがその証拠だ。
『虚無』。始祖ブリミルの伝説に語られる五番目の──否、零番目とでも呼ぶべき系統。
最強の系統はどれかという議論があったならば、筆頭として挙げられるのはまず間違いなくこの『虚無』だろう。しかしその担い手は長らく現れず、今やその存在は御伽噺の中の代物と化している。
実際それは、
「……………………あ」
そこへ行き着いたのは偶然か必然か、早すぎたのか遅すぎたのか。
「まさか」
一つの答えが、私の中で明確に形を成してしまった。
「ルイズが、『虚無』の担い手……?」
口に出したことで、疑念は確信へと昇華された。
初めに脳裏を過ぎったのは、「なるほど」という純粋な納得だった。それは何とも、
そういえば原作主人公の平賀才人は、学院の先生から伝説の使い魔とか何とか呼ばれていたような気がする。平凡な日本人だった彼が突如そんな力に目覚めたことにも、そういう理屈なら納得がいく。
ルイズの『ゼロ』の正体は、もはや確定的と言っていい。落ちこぼれと蔑まれた少女が、一人の少年との出会いをきっかけにその才能を開花させていく。そんな物語が、きっと原作では描かれていたのだろう。
「だから『ゼロの使い魔』……そういうことだったのね」
そうだとするなら、私の憂慮は単なる杞憂に過ぎなかったということになる。
入学から原作開始までの一年間こそ周囲の扱いは酷いものだろうが、その間は私が側にいればいい。原作さえ始まってしまえば彼女は立ちどころに成長し、すぐに私の庇護なんて必要としなくなるのだろうから。
だから、私の出番はそこでおしまい。
元よりルイズは王位継承権すら持つほどの大貴族。そこに伝説の『虚無』の担い手という称号が加わったのなら、もはや彼女を見縊る者などいないだろう。
きっとそれは、彼女が迎えるべき最高のハッピーエンドへの第一歩で。
私のすべきことは、
それ以上は蛇足であり、余分なのだと結論づける。『自分が原作キャラを救おう』なんて思い上がりは早々に捨て去り、正史の流れに身を委ねるのが最善なのだと。
────
それでいいのか、という叫びが心の内でさざめいた。
極めて客観的に、神の視点から見下ろすように、本当にその結末が最善なのかと問いかける声があった。
ルイズはただの
伝説の再来。その称号が呼び込むのが良い結果ばかりだとは、私には到底思えない。
『虚無』がルイズにもたらすもの。きっとそれは名声であり、崇拝であり、そして世界を左右するほどの力だろう。
『虚無』がルイズから奪うもの。きっとそれは平穏であり、自由であり、そして真っ当なメイジとしての未来だろう。
「──、そんなの」
改めて己に問うまでもない。
何も手を出さなければ、原作通りに物語が進めば、それで円満に解決する話なのかもしれない。
下手な干渉は逆効果で、正史への道を閉ざすだけの結果に終わるのかもしれない。
そんな理由で黙って見過ごせるのなら、そもそも親友になんてなってはいない。
「……させない。あの子を、体のいい人柱になんてさせはしない」
この世界の人間にとって、始祖ブリミルは神にも等しき存在。伝説の象徴たる力を利用しようとする輩はいても、消し去ろうと考える者などいない。
だから、私がやるしかない。
傲慢にも伝説の『虚無』を否定できる人間は、この世界で私だけなのだから。
「ルイズ、あなたはゼロじゃない。私がゼロじゃなくしてみせる」
そのための手段は、この身の中に眠っている。
その存在を認知した瞬間に封印し、生涯決して使うまいと誓った異端の力。そんな決意を固めるまでもなく、普通に生きていれば使う機会などなかったはずのハズレ能力。
正攻法があるならそれでいい。使わずに済むのならそれに越したことはないが──いざとなったら、躊躇うことは許されない。
すなわち、転生特典。
神に与えられた祝福で、私は『