俺には、欲しいものがあった。
けれどそれを欲しがっていた自分はどこへ行ってしまったのか。
いつしか、そんな自分は居なくなっていた。
時は高校2年、文化祭最終日。
知らぬ間に文化祭実行委員にされていた俺は、祭りの終わった後の体育館で黙々と後片付けの作業に従事していた。もちろん一人で、だ。色々面倒ではあったが、ようやくそれも終わる。先生のお眼鏡には適いましたかね?まったく…要所要所で絡んでくるんだよな。俺に気を遣ってくれているのが分かるぶんタチが悪い。突き離そうとすると引いていく。こんな俺だけどさすがに、キレて学校を辞めるという選択には躊躇いがある。何せ、家族が悲しむからな。……ほんと、引き際がとんでもなく上手いんだよなあ、あの先生……。
黙々と仕事に励む俺の周囲からはヒソヒソと、しかしハッキリと。四方八方から俺への罵詈雑言が耳に届く。別に突き刺さりはしない。心は微塵も動かない。そんなものはもう慣れた。
だから、不意に話しかけてきた先生の言葉に驚いて、
つい、表情を崩してしまった。ほんの一瞬だけだったけど。
「比企谷……君が傷つくことを痛ましく思う人が居ることを忘れないでほしい。」
悲しそうに、辛そうに。どこか、諦めたように。
そんな短い言葉を俺に擦り付ける。その手を俺の頭にぽん、と、優しく置いて。
……本当に、卑怯だ。
俺のことをを心底気遣う声音を、頭に残る優しい感触を。
否応なしに感じてしまった。
ありがとうございます、先生。心配してくれて。本当に心底、心配してくれて。
家族以外の人間からこんなことをされたことがあっただろうか。
……あいつだけだよな。俺に優しい他人なんて。それも、もう……。
俺は、教師から嘘の無い真っ直ぐな言葉を掛けられたことがない。上辺だけの言葉なら散々聞かされてきた。本当にウンザリするほどに。他の奴には分からなくとも、俺にはそんなものが通用するわけがなかった。
だけど、先生のその言葉と行動に込められた想いは、真っ直ぐに俺を貫いた。
俺は家族と、もう一人。それ以外の人間とは、俺が大切に思う人意外とは、『必要なとき以外、一切の言葉を発しない』。そう、一切、だ。話すということをしないのだ。
……この時の俺は頭に置かれた先生の手を乱暴に払いのけ、間髪入れず先生の言葉を否定した。
「それが事実だとしても、俺がそんなこと望むと思いますか?それにそもそも、俺みたいなのに同情する人間なんているわけないじゃないですか。もしされても迷惑なだけですよ、先生。そんなんだから結婚できないんじゃないですか?もっと現実見たほうがいいですよ。もっとも、周りの連中はよーく分かってるみたいですがね。俺へ向けられてる言葉、先生にも聞こえてたでしょ?」
俺は周りの人間に聞こえるように、ちょっと大きな声でそう言い放った。
静まり返る体育館。直後聞こえてくる、遠慮のない罵声。
利用させてもらいましたよ、先生。
先生は走り去っていった。涙を流しながら……。
ごめん。本当にごめんなさい、先生。これだけは……これだけは言いたくなかった。結婚のことだけは。ホントだよ?今回は、らしくなく動揺してしまったな…。ま、相手に見る目が無いんですよ先生。そのまま強く生きてください。…あ、それじゃ結婚できないか。強すぎるんだわ先生。もう、同性と結婚すれば?めっちゃモテてるみたいだし。今の時代なら全然アリでしょ。
先生は、優しすぎるんですよ。
まあとにかく、先生に俺の表情の変化を気付かれていなければいいが。動揺で表情を動かされたのは久しぶりだな。
しかし…先生にバレてしまった。先生のあの言葉と行動は、先生なりに確信に近いものを得たからだ。やっぱり甘かった。あの時、相模を体育館に連れ戻すために葉山を使ったのは間違いだった。いつも通り自分だけでやるべきだったんだ。俺の目的は相模を体育館に戻し、文化祭実行委員長として閉会挨拶の舞台にに立たせることだった。葉山が屋上に現れたとき、俺がラクをする選択肢を思いついてしまったんだ。葉山に相模を連れて行かせよう、と。
………さっさと、終わらせたかったんだ。
その結果俺の目論見通り相模は体育館に戻り、文化祭は恙なく終了する運びとなったわけだが。やり方を失敗してしまった。まあ、俺以外のヤツが取り返しのつかないほどに傷つかないのならば、どうでも……。
「やっぱり君はどうしようもない最低な奴なんだな。もう一切、俺のクラスメイトに関わらないでくれないか。迷惑なんだよ。」
最初からそんな気はねーよ葉山。安心しろ。…てかお前、俺とクラス一緒だろ?「みんなの葉山くん」が、俺にクラスから完全に孤立しろってか?そんな言葉も吐けるんだな、お前。ちょっとだけ見直したわ。
ところで葉山。俺、クラスでもどこでも最初から孤立してるし関わってもねぇと思うんだが?上手くやったはずだったんだがなあ……はぁ。
……あの先生、どんだけ俺を贔屓目で見たら気が済むんだよ。普通に考えたら俺のやったことなんてただの鬼畜の所業じゃねーか……。
しかし、変に勘ぐられるような隙を俺から先生に与えてしまったのも事実。
やはり、俺の世界に余計な人間を入れるもんじゃないな。ほんと、まったく……。
まあ、俺のことで先生がそんな突拍子もない思考に飛ぶに至ったのは、俺のことを理解しようと踏み込んできた先生だからこそ、なんだろう。あの先生は俺を理解しようとしている。そんな変人、そうそう居るわけがないのに。事実そんな人は今まで、家族しか居なかったのだから。
あともうひとり居るか。いやもう、居た、だな……。だからもう家族だけか。
そうだ。忘れもしない、中学校の入学式の前日の夜。忘れるわけがない。あの時は俺が小学校でいじめられていたのが母さんにバレて、泣かせてしまったんだ。
「何かあったら母さんに言ってね、八幡。お願い、お願いだから…っ……!」
……いや。ずっと前からバレていたんだ。当たり前だよな。小学生に隠し通せるもんじゃなかった。しょっちゅう傷だらけで帰ってきてたし、ランドセルは壊されてボロボロだった。だからあの日入学する前の、俺を取り巻く環境が変わるあのタイミングで、母さんは俺にあんなことを言ったんだ。その時の俺は…全力で逃げた。自分の部屋に閉じ籠った。頭の中が真っ白になって、どうしていいか分からなかったから。
今でも本当に情けない。動揺した自分が。
大好きな母さんを、あれほどまでに心配させてしまっていた自分が。
別に俺は、両親に愛されていないわけでも、小町に蔑ろにされているわけでもない。むしろ、仕事で多忙な両親はそれでも俺と小町に寂しい思いをさせないようにと昔からかなり気にかけてくれているし、小町も俺のことを心底慕ってくれている。ちょっとブラコンすぎるのでは?と、心配してしまう程度には。
だけど母さん。俺が通う中学校は公立校だったんだ。今まで俺を虐めてきた奴らが他のところから来た連中と一緒になって俺を虐めるようになるだけだ。いじめが激化こそすれ、決して治まることなんてない。何よりも卒業する前から、いじめてくる奴らが散々俺にそんなことを言ってきてたしな。
オヤジも分かっていたんだと思う。それは俺の小学校最後の冬休みのこと。オヤジがそれとなく俺に、転校を勧めてきたことがあった。もうすぐ転勤の話があるんだが俺と一緒に来るか?って。本当にオヤジが希望すれば転勤できたんだろう。オヤジもいいタイミングだと思ったんだろうな。それは小町と俺にではなく、俺だけに向けた提案だった。そして。
「八幡。苦しい時は頼っていいんだ。むしろ頼れ。それが家族ってもんだぞ。」
これはその後続けて、オヤジが俺に掛けてくれたもうひとつの言葉。
あのとき俺へのいじめがあれほど凄惨なものだと分かっていたなら、オヤジは引き摺ってでも俺を転校させたんだろうな……。
その言葉を聞いた俺は、茶化して誤魔化した。
「小町と俺を離れ離れにさせる気か!この鬼畜!」
……と。凄まじく動揺していたことを覚えている。
道化を演じていなければ俺は、泣いてしまっていたかもしれない。情けなくて悔しくて、どうして大好きなオヤジにこんな思いをさせているんだ、何が悪かったんだと、頭の中ではぐるぐると思考が空回りしていた。
オヤジの提案は本当に嬉しかった。その魅力的な提案に靡きそうにもなった。
だが小町は筋金入りのブラコンだ。ヤバい、あれはヤバい。俺が居なくなったらどうなるか分かったもんじゃない。それに俺は、今の学校が楽しい楽しいと、毎日ニコニコキラキラしながら俺や家族と話す可愛い小町が大好きなんだ。愛する小町を置いてはいけない。俺も大概なヤバいシスコンだった。
先生。先生の言葉も本当に本当に、嬉しかったんですよ。
俺が傷つくことを痛ましく思う人、か……。
そう…ですね。その通りだよ。平塚先生。
そんなことは、分かっているんだ。
俺が何年、いじめを受けてきたと思ってるんだ。
そんなことは、頭と体に深く深く刻み込んでいるんだ。
もし俺を愛してくれる家族が傷ついたら。
それに、あいつが傷ついたら。
俺は耐えがたいほどに痛ましく思うに決まってるじゃないか。
俺の数少ない大好きなものくらい、大事にさせてくれよ。
それがこんな俺をずっとずっと、支えてくれているんだよ……。
何年、両親を、小町を、欺いてきたと思ってる?
俺がガキだった所為で隠しきれてはいなかったが高校生になった今では、それなりに上手くやっているつもりだ。いま家族の目には、俺が日々楽し気に過ごす様子が映っているはずだ。もうガキなんかじゃない。失敗はしない。もう、絶対に…。
俺の所為で大好きな人たちを心配させたくない。泣かせたくない。
笑っていてほしいんだ。ずっと。
そのためならなんだって、いつまでだって、我慢してやる。
だから何が何でも、大切な人達に気付かれないように、心配させないように。
何度か失敗したとはいえ、その一心で必死になって地獄のような日々を過ごしてきた小学校時代。
壊れた椅子、画鋲が刺さったボロボロの上履き。そういうものを小町に見せないように、学校では俺のせいで小町がいじめられないように。小町やその友達、周囲の子たちには絶対に弱い自分を見せないように。細心の注意を払ってきた。必死に取り繕って、痛みを我慢して。
這い上がることのない地獄の底で過ごした、中学校時代。
小学校での俺へのいじめ発覚。それ以降、奴らはいじめのあからさまな証拠を残すことを恐れるようになった。巧みに隠蔽する。教師連中が、俺に対するいじめを見過ごせないことになるような決定的な証拠は残さない。本当に狡賢い。まぁこの言葉は今の俺が言えたもんじゃないが…。それに、その点は安心もできた。いじめが発覚すれば親にも小町にもバレていたからな。
家でも学校でも、両親にも、小町にも良い兄であり続ける。俺はそうあらなければならない。そのために極力、家の外では他人の目に触れないようにと…そして、悪い噂なんて吹き飛ばせるよう強くあるようにと、必死に耐え忍んできた。死ぬことは絶対に許されない。家族が悲しむからな。小町なんて、わたしも死ぬなんて言い出しかねないし……。本当に心配になってきた。あのブラコンはダメだ。早くなんとかしないと。
それでも小、中学校時代は同じ教室で日々過ごすクラスメイトの人間、もっと言えば同じフロアにいる同学年の人間にまでも、俺がいじめを受けていることは公然の秘密と化していた。当然だ。俺は幼稚園の頃からずっと、何をしても目立つ同年代トップカーストの奴らからいじめを受けていたのだから。そのメンバーは多少変わっていったが、俺の立場は何も変わらなかった。そんな状況に長く置かれていた俺だったが。
次第に俺は、俺ではない何かに変わっていったのだと思う。
見て見ぬふりをするクラスメイト。
いじめは無いと言い張る教師、大人達。
小学校で、俺は諦めた。
中学校で、俺は表情を消した。
そして高校で俺は、話すことを止める。もう、止めよう……。
小学校では、助けてくれと親や教師に泣き縋った。
親は全力で助けてくれた。教師も話を聞いてくれた。
両親は教師に、いじめの加害者たちに厳しい言葉を投げ付け、必死に俺を守ろうとしてくれた。
でも、いつも側に居てくれるわけではない親には、どうしようもない限界がある。
一時的にいじめは止まる。それも初めのうちだけだった。また、すぐに始まる。
もっと酷くなって。
エスカレートするいじめ。教師は俺のことを見なくなった。
いつしか俺は、頼ることをやめた。
もう、家族にも頼れなかった。頼りたくなかった。
俺が唯一大切にしている人達を悲しませただけだったことに気付いたから。
俺は、諦めた。
中学校では、加害者達は俺が顔に恐怖や絶望の色を浮かべるたび、喜々として攻撃してきた。怖い。本当に怖い。今でも。暴力よりも、あの笑顔が本当に怖かった。
……本当にあれは、人間の顔だったのか?
俺が怖がっている所為なのか?だからあいつらは、あんな顔になるのか?
だったら俺は、反応しないようにしよう。あんな恐ろしい顔はもう、見たくない。
恐怖で、おかしくなってしまいそうだった。
俺は表情を消した。
……話すことは、やがて俺という人間を理解されることに繋がっていく。
俺が必死に隠して深い深い奥底にしまい込んだものを、暴かれてしまう。
事実今日のように、先生のような変人に心配されることになった。
……それと、あいつのように。
それは今後も、俺にも大切なものが増える可能性があることを意味する。
理解されてしまったら。同情されてしまったら。俺の味方になってしまったら。
そんな人は、あいつのように大切にしたいと思ってしまうじゃないか。
もう要らないんだ。大切なものは。これ以上は欲しくないんだ……。
傷つけてしまうから。泣かせてしまうから。
だったら、そんなものは最初から無いほうがいい。
そうだ。無い方が良かったんだ。分かっていたのに……。
だから、もうあいつとも話さない。
……あいつをこれ以上、傷つけないためにも。
高校2年の文化祭が終わった、その3日後。
俺は、話すことをやめた。
読んで頂き、ありがとうございました。
前書き後書きはあまり書きたくないですが、この場だけ失礼します。今後予告なく各話の加筆修正をすることがあります。申し訳ありません。誤字脱字の修正はもとより、細かい描写の加筆修正、余計だなと思う個所を削るといったことがあるかと思います。物語の大筋を壊したり改変したりすることはありません。