俺は大切な人を傷つけたくない。
俺が傷つくことで大切な人も傷つく。逆もまた然り。何よりも大切な人の為に、今の状況は絶対に避けなければならない事態だったはずだ。
上手くやってきた筈だった。俺はある事情により入学式に出ることは出来ず初登校が3か月ほど遅れてしまったが、やがて学校に通えるようになってしばらくして、俺はこの総武高校には俺がいじめられていたことを知る人間がひとりも居ないようであることを知った。この事実を知った俺は、生まれて初めて本当に運が良かったと、こんな幸運があってもいいのかと、学校で表情を崩してしまったのを覚えている。
それ以来、俺は手に入れたその日常を絶対に手放さないように必死に努力した。孤立はするが、いじめの種を自ら蒔かないように。他人に踏み込ませないように。そうしてただただ同じ毎日同じ日常を繰り返すように、目立たないように、自分を戒めながら日々を過ごしてきた。そうしてようやく俺は人生で初めて、平穏な学校生活を過ごしていけるようになっていた。
悪くない日々だった。学校に敵が居ないというのは本当に幸せなことだった。家族と過ごしていても何も隠さなくてよかった。両親や小町の前では本当の自分で接することができているんだと、そんな恥ずかしいことまで思ってしまっていた。俺にとっては天国のような日々だった。学校でも、徐々にそれほど警戒もしなくていいんだと思い始めた。こんなにずっとずっと気を張らなくても良いのだと。家以外では絶対に休まることがなかった俺だったが、ここでも休んでいいんだと、勘違いしてしまった。
だから、考えてしまった。もう、大丈夫なんじゃないか、と。平穏な日常を過ごすうち、小学校、中学校では絶望に染められていた俺の頭の中だったがこの高校では、別のことを考える余裕が生まれてしまったから。俺の深い深い奥底にあったものを思い出してしまったから。俺は何も変わっていない、どうしようもないガキだったんだ。
だから、手を伸ばしてしまった。自分が、壊れてしまうとも知らずに。
居なくなってしまったいつかの俺が、希ったものへ。
文化祭が終わってから最初の登校日。
登校してすぐさまステルスヒッキーを発動しつつ教室に入った俺は、流れるように自分の机に突っ伏して寝る体勢に入った。なんてことはない、普段の俺のルーティンだ。よし。いつも通り空気になる。俺は空気だ、空気……。
しかし今までは完璧であった俺の渾身の擬態はこの日この瞬間から、空しいものとなった。俺がその一連の動作を終えるまで、朝の喧騒がぴたりと止んでいたのだ。イヤな予感がした。いや、確信か。クラス内は不気味なほどに静まり返っていた。
それも、長くは続かなかった。
静寂を切り裂き聞こえてきたのは、俺に対する容赦の無い誹謗中傷。…まあ、そうだよな。文化祭の片付けのときに体育館で、先生を傷つけてまで俺に止めを刺したのは、他ならぬ俺自身なのだから。これでまたさらに、周囲は俺に近づかなくなるだろう。俺にとって大切な人ができるのを、そういう人が傷ついてしまうことを、それを阻止できたんだ。もう誰も俺に、踏み込ませてはならない。
そんなことはもうとっくに、分かっていたはずだったのに。
しかし、あっけないもんだなあ……俺の平和な日常の終わりは。
俺は机に突っ伏したまま、罵詈雑言をBGMのように聞き流しながら溜息を吐いた。
また、あの地獄のような日々が始まる。
俺はそれを自覚し、机に突っ伏しながらも一気に警戒度を上げた。手出しをしてきそうな奴は……居ないな。とりあえず大丈夫か。懐かしい感覚だ。
………?これから俺は限りなく近い未来に確実に酷い目に遭うというのに、懐かしいだなんて感傷に浸れる余裕があるんだな……。もう長いこと、俺は身体への暴行による痛みを感じていない。早くまた慣れなければな。あとは…表情にも気を付けよう。恐怖や絶望を、絶対に表情に出してはいけない。出してしまうと、あいつらはそれに呼応するかのように必ずあの表情になる。あれは殴られるより怖いからな。あの、俺をいじめてくる奴らの笑顔は。
他人事のように、達観したようにそんなことを考えていた。近いうちに確実に自分の身に降りかかる恐ろしい事態のことを考えていれば、動揺して取り乱したり、呼吸が速くなったりするのが普通なんだろうが……。なぜ俺は落ち着いていられるんだろう。どう考えても異常だ。客観的になりすぎている。本当に他人事のようだ。久しぶりのこの状況に遭って、俺は壊れてしまったのだろうか……?
聞こえてくる俺への中傷には、体育館の時のようなヒソヒソとした遠慮はもう微塵も無かった。今はまだ言葉だけで留まっているが、無表情で、自分から人と関わろうとせず、何を考えているか分からない俺のことを警戒しているのだろう。直接俺に手を出してくるような奴は今は居ないようだ。まあ、時間の問題だろうけどな…。
相模と平塚先生を傷つけてしまった。それと……あいつも。何があっても傷つけたくないだなんて、出来もしないことをいつまでやろうとしてたんだ、何人傷つければ気が済むんだ。何様のつもりだったんだ、俺は。だから人と関わっちゃいけないと、ずっとずっと、そうやってきたのに。
何もかも台無しだ。だからと言って、相模や葉山の所為になんてできない。なにより、先生やあいつとの出会いを、過ごした日々を、俺は否定したくない。それがそもそも俺の考えとは相反するものなんだけど、何故かそれだけはしたくなかった。もう、自覚してしまっているから。
それを否定してしまったら。俺は……。
だけど、もう……先生とも、あいつとも、関わらないようにしなければな。ここは家とは違う。いじめをする人間と、俺が大切にしたいと思ってしまった人間が同じ空間に居る。俺が傷つくことを、そんな人たちに絶対に隠し通せるわけがない場所なんだ。この学校と言うところは。
それに先生は大丈夫だとしても、あいつは俺と一緒にいるところを他の奴に見られたら、あいつにまで危険が及ぶ。それだけは絶対に避けなければいけない。
仕方ない。全部、俺が悪いんだ。これは罰なんだ。
……ああ、そうか。さっきの感傷は、俺がこの状況を俺への罰だと定義付けたからだ。俺は罰を受けて許されたいのか。それを願っているから落ち着いて居られたのか。
……そんなことしたって、無駄なのに。無駄なんてもんじゃない。いじめられる俺を見ても、罪悪感を抱いた俺を見ても、諦めてしまった俺を見ても、俺の色の無い表情を見ても、あいつは傷つく。何をしたって、どうしたって。やっぱり傷つけてしまうだけじゃないか。
家族にだってそうだっただろ。俺は必死に隠して。それでも隠しきれずに何度も何度も傷つけて。平和な日常に甘えすぎて、溺れすぎて。そんなことも忘れてしまっていたのか……。
違う。忘れていたわけじゃない。甘えたんだ。
俺は勝手に、土足であいつに踏み込んだんだ。踏み躙ったんだ。あいつなら分かってくれると勝手に決めつけて。押し付けて。あいつは俺を理解したいと、傷つけないよう、優しく裸足で踏み込んでくれたのに。そうして、俺のことをたくさん知ってくれたのに。どこまであいつに甘えてるんだ。俺は。
そうだ。勝手に、あいつの側に俺の居場所を作ろうとしてたんだ。
あいつの隣を、俺が偽りのない俺のままで居られる場所にしたかったんだ。
俺の居場所をあいつの側に新しく作るのではなく。
あいつの世界を壊しながら、あいつの側に泥だらけの俺の居場所を作ろうとしたんだ。
俺と同じ場所に、引きずり込みたかったんだ。あいつのことを。でもあいつは家族じゃない。あいつはそんなこと望んでいるかなんて、分かってもいなかったのに。家族なら、引きずられても引きずり込んでも笑っていられる。なのに確認もしていないのに勝手に分かってくれていると思い込んで、やり方を間違えて。俺もあいつも傷つくようなことをして。
これはお互いが傷つけあっているんじゃない。分かり合ってとか、そんな優しい傷じゃないんだ。俺の傷を、あいつにも擦り付けただけだ。俺は取り返しのつかないことをしたんだ。挙句の果てに、俺が登るのではなく、あいつに俺のところまで降りてくることを望むだなんて。なんて浅ましくて傲慢で身勝手で、自己中心的な考えだろう。どうしようもないバカだ。気持ち悪くて仕方がない。
あいつはもう、俺の中で家族と同じくらい大切なものになってしまっていたのに。
守りたかったのに。俺が初めて家族以外に本当に大切にしたいと思ったのに。
あいつもきっと、俺のことを大切に想ってくれていたのに。
俺があいつを、どうしようもなく一方的に傷つけていただけじゃないか。
土足で踏み込んでおいて、何が、俺が傷つくことであいつが傷つくだ。ふざけんな……!
そんなことは分かっているんだなんて、嘘だった。
何にもわかっちゃいなかったんだ。本当に、なにも。
俺は勢いよく立ち上がった。教室を飛び出す。
背中から、俺への罵声が聞こえる。いつの間にか居た先生が、俺を呼び止める声がする。
関係無い。ひたすら走る。表情が歪む。ただただ、独りになりたかった。
俺は俺の奥底から湧き上がる感情を、抑えつけることが出来なかった。