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「
織斑春万は戸惑っていた。先程トイレに行ったはずの兄、織斑一夏が未だに帰ってこないことに。もうトイレに行ってから20分も経っている。よほどの腹痛か、それとも別の何かか。どちらにしても、春万の不安は募るばかりだった。
「……一兄、もう試合始まっちゃうよ……」
自販機の前で待っていてと言われた以上、下手に動けない。だが、一夏の無事を確認したい気持ちもある。そこで、春万は誰かに聞いてみることにした。一夏を知らないかと。
「あの、すみません」
「ん?あら、神童くんじゃない、こんにちは」
「……こんにちは」
神童。それは、姉、織斑千冬がブリュンヒルデとなってから言われるようになった名前。だが、春万はそれを嫌っていた。自分からすれば、兄や姉の方が凄かったからだ。しかし、周りの人は一夏には目もくれず、素晴らしい才能を持つ春万だけを見続けた。挙げ句の果てに、一夏を足かせだどうだと騒ぎ立てる。それでも、自分を大切にしてくれる兄の姿は、春万の理想の人物だった。才能云々ではなく、織斑春万として見てくれる。そんな姉と兄が大好きだった。
……彼は知らなかった。家族愛なぞ、この女尊男卑で、才能ばかりを見る世界には、無力であることを。
「……あの、一兄……一夏兄さんを知りませんか?」
「……?知らないけど。どうかしたの?」
「あの、一兄がトイレに行ったっきり帰ってこないんです。見てないですか?」
それを聞いた女性は、さも考えてますよというポーズを取る。そして、こう告げた。
「知らないわね、ごめんなさい」
「……そうですか、ありがとうございます」
その時、試合開始1分前を告げる放送が流れる。それを聞いた春万は慌てて。
「あ、ご、ごめんなさい!もし一兄に会ったら、もう試合会場に行ったって伝えてください!」
そのまま、走っていってしまう。そして、女性は顔を歪める。
「……大方、織斑一夏は誘拐された、かしら?一応報告しときましょう」
腰にかけた通信機を取り、本部に連絡する。
「こちら、スタッフです……」
『こちら、本部。どうした?』
「いえ、織斑一夏が誘拐された可能性があるようで」
『あぁ、やっぱりね……ついさっき、誘拐犯だろう奴から電話が来たよ。織斑千冬を棄権させろとな』
「……へぇ、どうするつもりで?」
その問いに、相手はさも当然のように答えた。
『伝えるものか。彼女は、我々の誇り、栄光、プライドを背負っている。それをただの出来損ない一人によって捨てられてはたまらんからな』
織斑一夏を見捨てる、と。この後、モンドグロッソ決勝戦は無事ではないが開幕。ブリュンヒルデの名は織斑千冬が持ち続けることになったが……彼女はインタビューで、こう答えた。
「……嬉しい、ですが……それよりも、いなくなった一夏が心配なんですが……」
千冬が、日本政府が一夏を見捨てたと知るのは、このインタビューの1時間後であった。
まぁ、絶対伝えられないよねと。