私が生まれた時、世界はすでに地獄だった。
かつて、大きな災いがあったという。それがどういうものかを、私は知らない。ただそれは世界にとって致命的なものであり、それまであった世界を、根本から破壊してしまったという。
私が生まれる前、災いの起こる前、世界は『平和』という状態にあったらしい。今では信じられないことに、命を奪い合う争いがほとんどなかったというのだ。あったとしてもそれは数か月か数十日しか続かず、人々はその一層の大半を『平和』という環境の中で過ごしたのだとか。
当時は、それが普通だったのだと、亡き母は語った。『争う』という状況こそが異常であり、他者との交流は殺し合いでも奪い合いでもなく、話し合いで行われていたと。
今は違う。人々は絶えず争いを繰り返していた。メイジも、人間も、エルフすら例外ではなく。砕け散った大地は食べる物も住む場所も乏しく、生きるためには誰かから奪い取る必要があった。
誰もかれもがそうしていた。私もまた、その一人。
物心つくころには、人を傷つける技術を身に付けていた。『売買』の概念より先に盗みの手口を知り、腹が減れば奪い、奪われそうになれば殺した。
それが普通だと思っていた。少なくとも頭では。
だがどうも、心の底ではそうは思っていなかったらしい。
奪うたびに、殺すたびに、心に何か、重苦しいものがのしかかった。奪ったことを殺したことを振り返るたびに、心がやすりで削られるように痛んだ。
時折、幼き頃に母が語った『平和な時代』が脳裏をよぎる。
奪うことも殺すこともなく、奪われることも殺されることもなく、ただ生きることのできる世界。
そんな世界で生きられたなら、私はもっと、幸せに生きられたのだろうか。
苦しみも痛みもなく、微笑みながら生きることが。
もし生まれ変わることが出来たなら、そんな世界に行ってみたい。
『幸せ』というものを、知りたい。
そう願っていたからか、それとも単なる偶然か。
私の願いは叶えられた。
張り付けたような笑顔を浮かべる、不気味なメイジの手によって。
私は、別の世界に転生した。
●○●○●○●○●○●○●○●○
トリステイン王国北部、帝政ゲルマニアとの国境近くに、ベランジェ伯爵家という貴族の領地がある。
かの貴族は、かつては帝政ゲルマニアの貴族であった。トリステインとゲルマニアの戦争の際、ゲルマニアからトリステインに寝返ったという経緯を持ち、そのため誇りと伝統を重んじるトリステイン王国では大変に疎まれていた。
また奇抜な人間を幾度か輩出する家系としても知られており、その汚名と悪名は度々王国の貴族たちの話題に上がっては、その表情を曇らせてきた。
さて、このベランジェ伯爵家の当主、アンリ・ド・ベランジェ・ド・イーペル伯爵に娘が生まれたのは、トリステイン国王とマリアンヌ太后との間に娘が生まれた、その翌年のことであった。
それまでベランジェ伯爵と夫人の間に子供はおらず、二人とも高齢であったことから、子宝には恵まれないのではないかと、二人とも意気消沈していた。
そんなタイミングでの出産、目出度くないはずがない。
伯爵家及び領地であるド・イーペル領では娘の誕生を祝う祭りが三日三晩にわたって行われた。
伯爵も使用人も、乳母ですら祭り騒ぎに興じていた。そのためとうの娘を冷静に観察しようとする者は誰もおらず、娘が出産以後一度も泣かないことなど、誰も気にも留めなかった。
オリアーヌ・ド・ベランジェと名付けられたこの娘の特異性に周囲が気付いたのは、オリアーヌが二本の足で立ち上がりだした、その後のことだった。
「お嬢様ぁ! オリアーヌお嬢様! どこにいらっしゃるのです?」
使用人たちの叫びがベランジェ伯爵家の屋敷に木霊する。
彼らは伯爵よりオリアーヌの世話を仰せつかった者達であり、最近活発に動き回るようになった娘に大事が無いよう、決して目を離すなときつく命令されていた。
だからこそ彼らは、ミルクを取り換えようと目を離したわずかな隙にオリアーヌが姿をけし、大層慌てた。
不幸中の幸いというべきか、伯爵も伯爵夫人も今日は家を空けていた。二人は狩猟を趣味としており、今日は娘に美味しい猪を御馳走しようと二人で森に出かけていたのだ。
二人が帰る前に娘を探し出す。そうすればオリアーヌの逃亡は無事隠蔽できるだろう。
幸い娘はまだ一歳。そう遠くに入っていないだろう。元いた部屋の中か、その隣りか。行ったとしてもそれが限界のはず。
そう考え、使用人たちは住人がかかりで部屋を探索する。
だが見つからない。家具や調度品を退かし、部屋の隅々まで探し回っても、娘は見つからなかった。
「どうしましょう従者長!?」
メイドの一人が慌てながら上司に尋ねる。
娘が姿を消してから一時間が経過した。今は仕事中の従者まで動員して屋敷中を探し回っている。にもかかわらず、オリアーヌは見つからないのだ。
「ぬぅ…………」
ベランジェ伯爵家の従者長、シャルルの額に冷たい汗が流れる。
もはや事態は伯爵にバレるだバレないだの次元ではなくなっていた。ことはオリアーヌの生命にかかわる。
娘はまだ幼い。暖炉の火や尖ったものなど、危険なものに触れて怪我をする可能性は非常に高く、最悪の場合命を落とす事すらありうる。
「とにかく一刻を争う。屋敷中の者を集めろ。仕事は全部後回しだ。オリアーヌ様の捜索を最優先にさせろ」
「はい! わかりまし――――」
従者の返事が終わるより先。
ドタドタドタ! 彼らの頭上から騒音がした。
「なんだ!?」
叫び、従者長は周りの者達と共に音のした上階に向かう。
捜索中の誰かが棚でも崩したのか? それだけなら問題はないだろうが、もしオリアーヌがその下敷きになったとしたら?
従者長は心臓が止まるかと思った。そのような事態にならないようあらかじめ従者たちには言いつけてある。だが誰しも失敗はするものだ。
「お嬢様、どうか御無事で――――!」
そこにいる、とは限らない。だがそこにいたら最悪の事態だ。だからこそ彼らは階段を全力で駆け上がった。
音のした場所は二階の書斎だった。ベランジェ伯爵はあまり本を読む人物ではなく、書斎とは名ばかりで半ば伯爵の物置と化している部屋だ。
赤子を下敷きにするものなら溢れかえっている。
「お嬢様――――!」
叫び、従者長は扉を勢いよく開ける。
中は酷い有様だった。
本棚、机、甲冑の調度品、様々なものが無惨にも壊されていた。
「…………賊か?」
茫然と彼が呟くのも無理はないだろう。その荒れ具合は赤子を探していたとは到底思えない。もっと言えば何かを探すという行為からはかけ離れた惨状だ。
伯爵を恨む者が嫌がらせをしてきたとか、そういった破壊を目的とした行動の結果としか思えない。
「従者長、一体どうし…………お嬢様!?」
続いて入ってきたメイドの叫びで、従者長はハッとする。
惨状にばかり目を取られていたが、よく見れば部屋の真ん中に、一人の幼子がいるではないか。
少し癖のついた、暗い青色の長い髪は、ベランジェ伯爵の娘であるオリアーヌの特徴だ。
「お嬢様、ご無事ですか!?」
従者長はすぐさまオリアーヌに駆け寄る。
呼びかけられた娘は従者長に振り返った。
琥珀色の、鋭い眼光が従者長を射抜く。
「お、お嬢様。お怪我はございませんか?」
「…………べつに」
そっけない返答。いつものことだ。この娘は口を聞けるようになってから常にこんな感じであり、あまり感情というものをあらわにしない。
従者長はオリアーヌの体に触れ、本当に怪我がないか触診する。一通り見て大丈夫そうだと判断し、彼は胸をなでおろした。
「ふぅ…………全く心配しましたよ。いいですかお嬢様。勝手にどこかに行ってはいけませんよ。危険です」
「かんがえとく」
『分かりました』とも『嫌だ』とも、彼女は答えなかった。
一体どこでそんな返事の仕方を覚えたのやら。従者長は頭を痛めた。
「…………えっと、それでお嬢様、これをやったものを見ましたか?」
そういって従者長は荒れ果てた書斎を指差す。
十中八九賊の仕業だ。ベランジェ伯爵家はとにかく敵が多い。これほど酷いものはまれだが、屋敷への嫌がらせというのは実は少なくなかった。
「わたしだ」
「なるほどそうでございましたか。つまりこれをやった賊はお嬢様と…………いまなんと?」
「わたしがやった。ためしうちがしたかった」
そう言うと、オリアーヌは従者長に持っていたものを投げてよこした。
「っとっと!?」
慌てて受け取る。
よくよく見て見れば、それは杖だった。
それはベランジェ伯爵の杖だった。
正確には予備の杖。頻繁に狩りに行く伯爵は、度々杖を無くしたり壊したりしており、その時のために複数の予備を持っているのだ。
オリアーヌが持っていたのは、その予備の一つ。おそらくはこの書斎に保管されていたものだろう。
「えっと、つまり、これはお嬢様がなさったと?」
「そうだ」
オリアーヌは頷いた。
「まさか」
従者長は信じられなかった。
なるほどこれがメイジの仕業というならば、納得はいく。
メイジは魔法という、普通の人間には扱えない力を持っている。土を金属に変えたり、炎を生み出したり、遠くの物を見たりなど、その効果は様々だ。
従者長はメイジではないが、メイジである伯爵の魔法を何度も見てきた。
以前倒れた木が道を塞いでいたことがあった。伯爵は魔法を唱え水の鞭を生み出すと、それで木をバラバラにし森に投げ込んだ。
その時切り刻まれた倒木と、荒れ果てた書斎が、従者長にはダブって見えた。
「…………それは、その」
従者長はなおも言いよどむ。
魔法で部屋を破壊した。それは良いだろう。
だがそれをこの娘がやったというのが、彼にはどうも信じられなかった。
齢一歳の幼子が、書斎に保管された杖を探し出し、習ってもいない呪文を唱えて、魔法を発動させた。
信じられるはずがない。そんなことはありえない。
彼女に魔法を教えたものなど誰もいないのだ。このような破壊をもたらす魔法を教えたものなど!
従者たちにメイジはいない。伯爵も夫人も、オリアーヌに魔法を教えるのはまだ早いとよく話していた。
ならば独学で身に付けたということになる。
メイジと杖の関係性を、ルーンの必要性を。
齢一歳の子供が、だ!
「…………神童」
震える声で口にする。
幼くして聡明な子供をそう呼ぶことは従者長も知っていた。
しかしはたして、そんな言葉でくくれるレベルなのか?
学習能力が高いという次元ではない。それは最早、最初から知っていたとしか――――
「しゃるる」
オリアーヌの言葉が、茫然とする従者長を揺り起こした。
「あ、お、お嬢様。何でございましょうか?」
「おなかへった」
そう言うと、オリアーヌは従者長の返事も聞かず、書斎から出て行った。
「…………」
従者長は黙って、その背中を見つめる。
オリアーヌ。オリアーヌ・ド・ベランジェ。ベランジェ伯爵の一人娘。暗い青色の髪と、琥珀の瞳の幼子。
生まれた瞬間以外一度も泣かず、ハイハイもそこそこに立ち上がり、言葉を覚えるとすぐ会話をし、感情というものをほとんど見せない。
そして、異様な魔法の才能を持つ。
(オリアーヌお嬢様…………)
従者長シャルルは、部屋を去るオリアーヌの小さな背中に、何か恐ろしいものを感じた。