プリキュアオールドスターズ ~プリキュア5の同窓会~ 作:おじ
一滴の雫が水無月かれんの目の前を通り過ぎ、床に落ちるとぴちゃ、と弾けた。
階段を降りる足を止めて、彼女は踊り場に溜まった水を見つめる。ちょうど窓から差し込む日光が蒸発させているのか、そのまま床に染み込んでいるのかは不明だが、水はそれ以上溜まることはなく床を濡らす程度の被害で収まっているようだった。
さらに一滴、雫が落ちる。かれんは天井を見上げて、大きな黄色いシミを認めた。
雨漏りかしら。シロップたちが飛んでいった空を思い出して、かれんはその可能性を否定する。春にしては厳しい、じりじりと焼きつけるような日差しを遮ってくれる雲はどこにもなかった。この水はきっと、屋上に設置された貯水タンクや天井の中にある水道管の漏れによるものだろう。
踊り場の隅には、ひどい水垢ができていた。衛生管理を徹底しなければならないはずの病院において、あってはならないことである。かれんは運が良かったものの、入院患者が水で足を滑らせて転ぶかもしれない。
病院の職員が普段からこの階段を利用する場面を、かれんは何度か見たことがある。たとえ考え事をして上の空だったとしても、今まで誰の目にも留まらなかったはずがないのだ。そのくらい、踊り場の水垢と天井のシミはひどい。本当に誰も気付かなかったとしたら、彼らの目は節穴である。観察能力に欠けた、患者を看病する資格のない者たちだ。
しかし、彼らは患者の病状が悪化すればすぐに対応するし、ナースコールがあれば直ちに駆けつける。水漏れを発見して修繕を依頼するくらいの能力はあるはずなのだ。
それでも未だに放置されているのは、職員の怠慢。数秒に一滴の漏れなんて、怪我や大病を患った人を救う仕事に比べればどうでもいいことなのかもしれない。このくらい大丈夫、誰かがやってくれるさ、今はそれどころじゃない……。そのような等閑が積み重なり、水垢と天井のシミは徐々に進行していった。
たかが一滴の水。それが引き起こす微々たる変化に、人の目は反応できなくなったのだ。気が遠くなるような長い時間をかけて、踊り場の光景は職員の目に馴染んでいった。
そうやって考えると、かれんの職員に対する憤りは容赦に変わった。小さな取るに足らない出来事が、いずれ大きな問題を引き起こす原因になるなんて思ってもみない。取り返しがつかなくなってから、初めて気付くものなのだ。
いつの間にか、水無月かれんが大人になっていたのと同じ。病魔に冒された坂本に、死が近づきつつあるのと同じ。毎日のように会っていた仲間が、ナッツハウスに集まらなくなったのと同じこと。
川を流れている水は、海に出ると散り散りになってしまう。だからといって、川を堰き止めてしまえば氾濫する。一つの場所に留まることは許されず、流れに従うしかなかったのだ。
いずれは誰かが注意して、水漏れは修繕されるだろう。しかし、いつかは他の箇所で同じことが起きる。結局は、その繰り返しだ。
坂本の病室に戻るまでの間にかれんは職員とすれ違ったが、水漏れを報告することはなかった。彼女は皮肉な笑みを携えたまま、扉を開ける。さっきまで寝ていたはずの坂本は、ベッドから上半身を起こして窓の外に広がる青空を眺めていた。
彼の視線の先を追っていくと、そこには大きな雲が浮かんでいる。シロップたちを見送ったときは雲一つない晴天だと思ったのに、どこから流れてきたのだろう。その雲はやけに堂々としていて、まるで初めからそこにいたような風体で佇んでいた。
「どなたか、お見えになっていたのですか?」
振り返った坂本の顔を見て、かれんはひそかに動揺する。病院の職員が水漏れの被害を感知できなかったように、ずっと傍にいたからこそ気づけなかった。
彼はもう、水無月家の執事ではない。両親が不在の間、かれんの寂しさを和らげてくれたじいやとは違う。今の彼がかれんの心にもたらすものは、不安と寂寞。誰にも平等に訪れる宿命、死という永遠の別離。
彼がいたから、広い屋敷で女の子が一人きりになることもなかった。お茶を淹れてくれて、一緒に遊んでくれた執事はもうどこにもいない。
車の後部座席から見える後ろ姿。子どもの頃は車の仕組みも運転もさっぱり分からなかったから、片手間にシフトレバーを素早く操作する様がかっこいいと感じた。ウインカーの、機械的だけど心が落ち着く音。たまにルームミラーを覗くと、視線が合う。
友達と歩いて帰るのも楽しかったけど、坂本の運転に身を委ねる時間もかれんにとっては特別なものだった。車という閉ざされた空間に二人きり、ハンドルを握る彼はいつもより頼もしかった。
今はもう運転なんてできない。一緒に水無月邸に帰ることもない。彼がそう願ったとしても、決して叶わないだろう。
坂本は、ずいぶんと老いた。誰よりも近い場所で、彼が弱っていくのをかれんは静観していた。だから、どうして今さらショックを受ける必要があるのか彼女には分からない。本当はずっと前から知っていたはずなのに。
「ちょっと友達が……」
声が震える。動揺を隠すことはできなかった。それでも、坂本は静かに微笑み頷くだけ。
「そうでしたか」
巨大な雲は依然として、窓の外に浮いている。もしも天国というものがあるのだとしたら、あの雲には坂本を迎える使者が乗っているのかもしれない。ばかげた考えだが、このときばかりはそう思えて仕方がなかった。かれんは強風が雲を吹き飛ばしてくれるのを願い、まだだめだ、連れて行かせはしない、と念じてみたりした。雲を見つめる彼の目に宿った羨望を、消し去りたかった。
「私も、ふと彼らを懐かしく思うことがあります」
不意に、坂本はそんな台詞を口にした。
「彼らって……?」
窓の外を眺めていたのなら、飛んでいくシロップの姿を目撃したかもしれない。ただの巨大な鳥だと思い過ごしてくれなかったのは、シロップの正体を知っていたからだろうか。プリキュアの秘密を知っていて、気づかないふりをずっと続けていただけなのかしら。ぐるぐると、かれんの頭の中で様々な推測が入り乱れた。
「私の古い友人のことです。別れてから、ずいぶんと長い時間が経ちました。今ごろ、どこでどうしているのか……」
空を仰ぎ見る彼の表情には、再会を諦めたような寂しさと僅かな期待があった。かれんは家族同然の付き合いをしていながら、これまで坂本のプライベートな交友関係を知ることはなかったが、彼女にとってののぞみやこまちのような仲間が彼にもいたのかもしれないと考えてみる。
「私にはもう、遠い旅に出かける体力は残されていません。ですが、あの雲を見ていると、不思議な縁が私と彼らを導いてくれるような……そんな気がしたのです」
昨日の出来事を思い返しながら、かれんは同調するように頷いた。もう二度と、みんなで集まることはないと思っていた。それぞれの道を進んだ彼女たちは、昔のような関係には戻れないと諦めていたのに。みんなとの再会は、偶然という言葉だけでは片付けられない。
「あの大きな雲も今は一つの塊ですが、いずれは風に引き離されるか雨となって消えるのでしょう」
「そうね」
いつまでも同じ形で留まれるものはない。時間という絶対の敵が、必ず崩壊させてしまう。大切なもの、家族のつながりや仲間との絆にもいつかは終わりがくる。
「しかし、それで終わりではない。最近になって、ようやく私にもそのことがわかりました」
彼の口調は病人と思えないほど前向きで、皮肉にも別れの連続である人生への希望が込められていた。きっと、彼が友人との再会を果たすことはできないだろうに、どうしてそんな言い方ができるのか、かれんには分からなかった。
そんな彼女に言い聞かせるようにして、坂本は喋るテンポを落とす。ゆっくりと、かれんが言葉の意味を理解できるまで。中学では生徒会長を務め、もうすぐ医者になる彼女への最後の授業だった。
「雨粒は、川を流れて海に出るでしょう。海の広さに、途方に暮れることがあるかもしれません。それでも、またいつか一つの雲として集まれるのなら、私はそうしたいと思うのです」
窓の外の景色からかれんの顔に視線を移して、坂本は微笑んだ。
「その雲が私にとって、前より居心地のいいものになるかもしれませんから」
皺の数が増えたという点を除いて、彼の優しい笑みは昔と変わっていなかった。かれんが電話で両親と楽しそうに話しているのを見て、みんな――主にのぞみとうらら――が楽しみにしているセレブ堂のお菓子を庭のガゼボに運んでくるときの彼は、そういえば今と同じ表情をしていた。
入院してからかれんがいつも見ていた彼の笑顔は、本当の笑顔ではなかったのだ。そのことにさえ、気づけなかった。
「じいや……」
雲と雨と海、水の流れを通して彼の伝えたかったことは何となく分かる。分からないのは、どうして彼がそんなにまでしてかれんの世話を焼くのかということ。もっと自分のために時間を費やせばいいのに。読みたかった本を読んだり、美味しいものを食べてちょっとでも幸福を覚えたらいいのに。そうしてほしいのに……。
「じいやは、みんなに私の卒業を教えていたのね」
彼はいつも、かれんのことばかり気にかけている。来月から社会人になる二十四歳の彼女を、まだ保護者のような目で見ている。
昔は何もかも彼に任せきりだったけど、今はもう違う。かれんは家事を勉強して、自分のことは自分でできるようになった。料理だって、適度な分量さえ弁えたらどうってことはない。たまに食材を買いすぎて腐らせたこともあるが、その程度のミスは誰にだってある。彼女にはもう一人で生きていく能力があるのだから、坂本が心配するようなことは何もないのだ。
「本当に、話し相手がほしかっただけ?」
卒業式の直後にこまちが連絡をくれたのも、のぞみが同窓会を思いついたのも、偶然なんかじゃなかった。彼の電話が、すべてのきっかけとなっていた。
高校や大学の友人ならともかく、どうして彼はのぞみたちを選んだのだろう。中学時代の友人と疎遠になることなんて、珍しくもないだろうに。
坂本はごく自然なことのように、その答えを教えてくれた。父親が家族のために働き、家族みんなが帰ってくる時間に母親が食事の支度を済ませているのと変わらない。なにも特別な理由などないのだと、彼の口調が示す。
表情はさっきと同じ。優しい笑みのまま。
「私は……お嬢様には、いつも元気な笑顔でいてほしいですから」
子どもは気づかない。父親がどんなに疲れていて、それでも愚痴をこぼさずに仕事を頑張っていることを。母親がどんなに忙しくても、毎日ごはんをつくってくれて家族の帰りを待っていることを。
成長すると、たくましい存在だった親がそれほど大したものではないと思うようになる。そして、大人になってちょっとずつ知っていく。仕事と家事の大変さ。また、子どものときのように親を尊敬する。どうして毎日、当たり前のように頑張れていたのだろう。
かれんの両親は、ほとんど家にいなかった。そのかわり、じいやがいた。父親のように頼もしく、母親のように優しい。けれど、そのどちらとも違う。
「知っていたでしょう? 私たちはもう……」
執事だったときの彼にとっては、かれんの世話を焼くことも職務の内に含まれていた。だから、屋敷を掃除して、車で送迎してくれて、いつでも彼女の傍にいてくれた。何の義務もない今の彼は、かれんを心配しなくてもいい。親子じゃないのだから、責任を感じなくていい。
自分のやりたいことをやって、好きなように生きてほしいとかれんは願っていた。辛いときは愚痴をこぼして、八つ当たりしてくれても構わない。
彼が幸せでいてくれないと、かれんは元気に笑うことなんてできない。
「本当に強い絆で結ばれた友達とのつながりは、どんなに長い時間が流れようとも、決して失われるものではございません」
彼は確信を得て、そう言っているようだった。古い友人としばらく会っていないと語っていたのに、友というものを信じて疑わない。そんな目をしていた。
「私が入院してからというもの、お嬢様は笑わなくなってしまわれました。私では、お嬢様を笑顔にすることはできません。ですから、みなさまのお力をお借りすることにしたのです」
掛布団の上に置いた手を彼は情けなさそうに見つめる。血管が浮き、骨ばった皺くちゃの手。荷物を持つことも、車のハンドルを握ることもない。脈をとられ、注射をうたれるだけの手だ。
「だけど、のぞみたちとはずっと疎遠だったのよ。今さら連絡しても、きっと気まずいだけ……」
「そんなことはありません」
電話でのやりとりを思い出しながら、彼はにっこりと笑った。かれんの心配することなんて一つもないと言わんばかり。
「私からの連絡がよっぽど珍しかったのでしょう。みなさま一様に、お嬢様の身に何かあったのかと心配されていました」
彼は嬉しそうに、例の雲を見上げた。上空の風が強まったらしく、ゆっくりと流されようとしている。そして、その巨大な雲を追うようにして小さな雲が流れていった。
「特に夢原さまは……私がお嬢様の卒業をお知らせすると、まるで自分のことのように喜んでくださいました」
受話器の向こうでのぞみが喜んでいる姿が容易に想像できる。夢原のぞみはそういう人間だった。みんなの夢を応援して、絶対に叶うと信じてくれて、パワーをくれる。彼女のことを思いだすと、自然とかれんの顔がほころぶ。
「お嬢様」
窓の外を向いたまま、かれんを呼ぶ。いつもの呼び方。彼が彼女を名前で呼んだことは一度もない。それは二人が、親子とも友達とも違う特別な関係だから。彼が水無月家の執事で、かれんの大切な人であることに変わりはないから。
「実は、お嬢様のご卒業祝いにと神戸からセレブ堂のシュークリームを取り寄せたのですが、手違いで注文より多く届くらしいのです。お嬢様一人で食べきれるかどうか……」
単なるでまかせか本当の話か判断がつかなかったが、みんなを呼ぶとしたらシュークリームがいくつあっても足りないだろうと考えてかれんはおかしくなった。同窓会までに、追加で注文しておかなければならない。
「じいや……」
いつの間にか、笑っていた自分に気づく。見舞いにくる度、病室の前で表情を切り替えていた。じいやを心配させないよう、できるだけ元気な笑顔で……。そう思っていたのに、実際はどんな顔をしていたのか分からない。一人きりの生活に、笑顔は必要なかったから。
だけど、今はちゃんと笑えている。久しぶりに、自然と。
「ありがとう」
そうして坂本の笑みも和らいだ。子どもの成長を感じた親、人生の門出を祝う友、温かく迎えてくれる家族のように。
「……はい」
窓の向こうでは、風に吹かれて大きな雲と小さな雲が合流していた。病院を出たかれんは、そのことに気付かない。ゆっくりとした、自然な流れだったから。
ちょっとだけ大きくなった雲は、広い空にのんびりと漂っていた。心配事など、なにひとつないかのように。
かれんが出て行ってからしばらくして、坂本は小さく咳き込んだ。
シーツに斑なシミを残して。