プリキュアオールドスターズ ~プリキュア5の同窓会~   作:おじ

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37.素晴らしき哉、人生!

 淡いピンク色の花びらが、黒スーツの胸ポケットにすべりこんだ。

 

 おや、と男が顔を上げると、満開の桜が空の青を彩っている。

 どこまでも続く、絢爛な景色。オフィスの窓から臨める街並みには、昨日までたしかになかった春の息吹。新しいはじまり、出会いと別れの季節が今年もまた巡ってきた。

 

 ポケットから花びらをつまみ出すと、人差し指の腹の上に乗せる。蝶の羽のように儚く繊細なそれはそよ風につれられて、危なっかしくも軽やかに仲間たちのいる場所にもどっていった。

 

 彼女たちの再会を鮮やかに祝う、燦爛たる自然の演出。

 

 一夜のうちに咲いた桜のあとでは、どんなサプライズも霞んでしまう。今さら引き返すわけにもいかず、片手にぶらさげた白い箱を恨めしそうに眺めたあとで、止まっていた彼の足はまた歩みをはじめた。

 

 桜並木を抜けると、湖畔の傍の建物が見えてくる。敵として何度も訪れた因縁の地。プリキュアのリーダーになろうと考えついて友好関係を結ぼうとしても、彼女たちの警戒が解かれることはなかった。結果、いつもの戦闘に発展したのだから彼だって文句は言えない。

 

 今となっては、敗因もはっきりとわかる。あの頃わからなかったのが、不思議なくらいに。

 

 心臓の脈打つ間隔が短くなるのに比例して、歩く速度は緩やかになる。呼吸が浅いのは、きつく締めなおしたネクタイのせいかもしれない。面接を受けるわけではないのだから、喉元とネクタイの結び目の間に指をつっこみ、気道を確保する。

 

 インターホンに手の届く距離までくると、会話のシミュレーションをして時間をかせいだ。昨夜は傑作に思えた冗談も、冷静になってみるとまるでつまらない。さんざん思案した挙句、結局はなるようになるだろうという結論に落ち着いた。彼の作戦が思い通りに運んだことなど、そういえばなかったのだから。

 ルーレットを回転させるような興奮と緊張を指先に込めて、ボタンに触れる。珍客の対応に出てくるのは、五人のプリキュアのうち誰か、それとも妖精か。確率の低いギャンブルを楽しんでやろうと、彼はボールを投げ入れる。

 

 そのとき、扉の隙間から彼女たちの賑やかな声が漏れ聞こえてきた。彼の放ったボールは、回転盤のポケットに落ちる前に回収される。正当な賭けではないと、判断されたのだ。

 

 呼び鈴を鳴らすことによってパーティは中断され、楽しい雰囲気は不信感に領されてしまうかもしれない。たった一枚の扉さえ、それぞれの世界を隔絶する不可侵の壁に成り得る。

 

 約束どおり彼女たちが再会を果たせたのなら、それでいい。自己満足のお節介だと自覚していながら、あわよくばもう一度だけ大人になった彼女たちと言葉を交わしてみたいなどと願った。滅多にお目にかかれない仲間という存在を、しっかりと目に焼き付けておきたかった。

 どうやら人間は年をとると、話し相手に飢えるものらしい。衝動を自制できずここまで来た自分に呆れつつ、きょろきょろと周囲に視線を巡らす。見つけやすい玄関前の適当な位置に、要冷蔵のシールが張られた箱をそっと置いた。

 

 向こうから扉が開けられなかったら、彼はそのまま立ち去っていたことだろう。

 

「そこで何をしている」

 

 ナッツハウスの元店長は、誰の目からみても不審な動きをしているブンビーに訝しげな視線をなげかけていた。

 

「あぁ……ちょうどよかった」

 

 ひどく間抜けな恰好でいたところを見られて少々居心地の悪さを感じながら、彼は手土産の箱をナッツに差し出す。賭けが無効になっていなければ、大損をするところだった。誰もいないホールで、空回りするルーレットがかたかたと虚しく揺れている。

 

「若者に人気の店のケーキらしい。口に合うといいんだが……」

 

 かすかな冷気と甘い匂いを放つ箱がナッツの手に渡るのをたしかめると、彼は露骨に安堵の息を漏らした。女子学生や主婦ばかりの行列に並ぶというのは、新規の取引先を開拓するより遥かに骨の折れる仕事だったからだ。

 

「それじゃあ、私はこれで……」

 

 玄関の向こうに、夢原のぞみが一瞬だけ現れた。彼の視界の隅から隅へ、横切っていった彼女の顔には満開の笑みがある。

 

 ラジカセから流れる音楽と、ささやかな乾杯の響き。お菓子とジュースがいっぱいに並べられたテーブル、姦しいパワフルな女子トーク。彼女たちがとり戻した、幸せな時間。

 それを邪魔するつもりなど、ブンビーにはなかった。彼はもうプリキュアの敵でもなければ、味方でもない。彼らの間にあるケーキの因縁だけでも、清算しておきたかっただけなのだ。

 

「上がっていかないのか」

 

 呼び止めてくれたナッツの一言も、社交辞令なのだとブンビーは知っている。国王である彼は礼儀を重んじるから、差し入れを受け取っておいて声をかけないというのは失礼だと考えたのだろう。

 だが、ナッツが扉を開けてくれたとき、彼はやはり来るべきではなかったと悟っていた。パルミエ王国の妖精は、邪悪な気配を感じとることができる。外の物音など聞こえるはずもない喧騒の中にあって、ナッツが彼の来訪に気づいたのはそのために違いない。

 

「悪役は引き際をわきまえているものだ」

 

 あの日の共闘は、互いの利害が一致した業務提携のようなもの。他にどうすることもできなかったから、苦渋の選択で妖精たちは彼を頼った。それは妖精たちの無力さを提示する、屈辱を伴う決断。

 ナッツハウスの窓からは、きっと湖に浮かぶボートも見える。破壊の形跡はなくなっても、プリキュアを苦しめるために利用した怪物の素体がすぐそこにあるのだ。一度ついた汚れは、決して消えない染みとなる。職を変え、スーツを新調したところで、どうやっても隠せない穢れ。

 

 だからナッツは微笑みで、その染みがとっくに目立たなくなっていることを教えてあげた。気にしているのは本人だけで、十年前にこぼしたものは、太陽が乾かしてくれている。

 

「あんたはもう、悪役なんかじゃない」

 

 桜の蕾が開いたような、胸のつかえがとれる感覚。

 

 おかしな夢をみて笑いながら目覚めた朝、雨の天気予報がはずれた午後、満月と涼しい夜風に迎えられる千鳥足の帰り道。そんなさりげない喜びが、ブンビーの心をくすぐった。

 

 書類に目を通しただけでその人物を知った気になるのは、管理職の悪いくせ。ばかがつくほど正直で、お世辞のひとつも言えない。それがパルミエ王国のナッツだった。だからこそ彼はナイトメアに騙されて、王国の門を開けてしまったのだ。

 上司の機嫌を伺うのとはちがう、口下手な男の率直な言葉。そんな彼が扉を開けたままにして、ブンビーを迎え入れようとしている。

 

 妖精は無力ではない。戦闘の役に立たなくても、その優しさで人を救うことはできる。

 

 ナッツの強さを認めたとき、ブンビーもまた微笑んでいた。そして、彼は踵を返す。報酬は十分すぎるほどもらった。これ以上、なにを望むのだ。契約が切れてしまえば、依頼主と委託先の関係は終わる。いつの間にか慣れていた、割り切った付き合い方。

 

 名残惜しさなど感じない。よりにもよって、季節は春。桜が舞うから感傷的な気分にもなるけれど、社会人にとって別れは飽きるほど経験するイベントである。このまま元の道を戻り桜のトンネルをくぐり抜ければ、二度と会うこともないだろう。

 

「待って!」

 

 ことん、とボールの落ちる音がした。振り返ると、ルーレットは静かに停止して、彼の勝ちを知らせている。去り際にテーブルに置いたボールが、勝手に転がっていったらしい。

 

 美々野くるみに差し出された手紙を、彼は無意識に受け取っていた。

 

「これは……」

 

 慌てて玄関先に飛び出してきた彼女の勢いに気圧され、半ば強引に押し付けられたようなものだから、ブンビーはそれがもたらす意味を理解するのに苦労した。封筒の口は赤いバラの紋章でとじられ、宛名を書くべき箇所に妙な文字が並んでいる。

 

 そういえばプリキュアのピンチに前触れなく現れたミルキィローズも、このように彼を混乱させたのだった。

 

「見てわからないの? パルミエ王国の招待状よ」

 

 青いバラの戦士らしい棘のある口調でこそあったが、敵対していたときとはちがう、彼女なりの親しみが込められている。

 

 ブンビーが、パルミエ王国を滅ぼした組織の一員であった事実は覆せない。直接の関与はともかく、彼は妖精に憎まれて然るべき故郷の仇。裁判に召喚されるという話なら納得できるが、純粋な好意を以て客として招こうというのだろうか。

 

「ナッツ様、構いませんか?」

「もちろんだ。いつでも歓迎する」

 

 彼らに対してやったことを正当化はできないが、言い訳はできる。毎日どこかで起きている交通事故を見過ごして、自動車が販売されるのと同じこと。土地開発と称して森林を伐採し、海に土砂を流し込むエゴイズムの蔓延した社会。その事業で誰かが傷つき、なにかが犠牲になったとしても、少数の声にまで耳を傾けていたら身動きがとれなくなってしまう。

 ドリームコレットを手に入れるために妖精の国が滅んだところで、ブンビーにとっては関係のない世界の出来事。向こう側が見えないように高い壁を築き、任務に忠実な門番を配することで、罪悪を背負わずに済むと思っていた。

 

 しかし、その一方で良心から逃れられるはずもないと理解していた。過去は一生つきまとう。妖精を苦しめた以上に、ブンビーもまた苦しむ運命にある。

 そのしこりを、彼らは取り除こうというのだ。くるみのくれた手紙は、ブンビーが勝手にこしらえた門の、架空の番人に対する解雇通知書。まるで必要のない人事だった。向こう側の閂は、とっくにはずされていたのだから。

 

「……来てくれるわよね?」

 

 言い訳も、罪悪も、それに相当する裁きも彼女は求めてなどいない。差し入れのケーキや誠意だって、あとでいい。たった一言の短い返事で、くるみの顔にかかり始めた靄を晴らすことができるのだ。

 

「まったく……」

 

 最も難しいのは、自分を許すということ。会社の同僚に相談するわけにもいかず、一人で立ち向かうには勇気が足りない。力を貸してもらいたかったのは、ブンビーも同じだった。

 

 契約が切れたなら、また新しく結びなおそう。双方の合意は確認済み。書類は後日、手渡される。

 

「いつになっても、きみたちにはかなわない」

 

 ナッツハウスの玄関で、人間の姿に扮した妖精と怪人が笑っていた。パルミエ王国の国王とそのお世話役、中小企業のサラリーマン。正体も職業もちぐはぐだけど、一通の手紙が彼らに共通の目的をくれた。

 

 いずれは招待状も、契約書もいらない。ただの友人として桜が見られる日のことを、彼らはそろって夢みていた。

 

 

 

 ふわふわと風船のように弾む心が、彼女を屋上に連れ出した。

 

 酸素や窒素のかわりにヘリウムを充填された体が浮いて、雲にタッチしてもどってくる。そんな子どもっぽい想像をしながら、春日野うららは空を仰いだ。

 

 目覚ましのアラームに強制されない意識の覚醒、カーテンを開くと澄みきった空気が朝陽に照らされ、透明に輝いていた。秒針はいつもより緩慢に時を刻み、朝食には思いつきのアレンジを加える。いい天気、なんて呟いてみたのはさすがに芝居じみていたかもしれない。

 

 晴れたら、黄色を基調とした春らしいワンピースを着ていこうと決めていた。厚いもこもこの精鋭たちは、冷たい北風と氷の結晶から彼女を守る任務を完遂し、短い休暇に入る。クローゼットの故郷に向かう彼らの背中に、薄手の新兵は敬礼をした。小春日和にまた会おう、と。

 

 耳をすませば、電車と線路が奏でる心地よいリズムが聞こえた。風が木の枝と戯れて、小さな葉を鳴らしている。干したばかりの布団に似た、温かなにおい。瞳にふれる空の色。

 この一瞬はきっと、カメラの枠に切り取られた画面では再現できない。ふさわしい台詞と美しい音楽がなくたって、映画よりずっと素敵な一日。

 

 世の中に娯楽が氾濫するほど、人生の楽しさは軽んじられる。生活を豊かにするための科学が、人の心を貧しくさせた。うつむいて携帯電話を操作する歩行者、信号機と左折する車、道路にこびりついた得体のしれない汚れ。そんな場所で上を向いたら、誰かにぶつかり何かに躓き、アスファルトとの距離が縮まるだけ。高層ビルと電線に囲まれた灰色の空は窮屈そうで、自由とは程遠かった。

 

 鳥は、いかにも楽しそうに空を飛ぶ。翼を羽ばたかせ続けるのは疲れるだろうに、それでもそこから離れようとしないのは、よっぽど気持ちのいい風が吹いているからにちがいない。

 

 憧憬は、新しい夢につながる。うららには翼のかわりに、階段のステップを踏む足があり、扉を開ける手があった。そして、その場所を目指す意志がある。悲劇のヒロインを演じるには、あまりにも自由すぎた。

 

 ナッツハウスの上空を旋回する、巨大な鳥。上昇気流をつかまえて、ちぎれた雲の間を縫うように滑空している。あの大きさはタカか、ひょっとするとワシかもしれない。それとも、彼と同じちょっと不思議な生き物だろうか。

 

「どうしたんだよ、こっそり抜け出して」

 

 真上を通り過ぎる鳥の影を追って上体を仰け反らせていたうららは、突然かけられた言葉に驚いてそのままひっくり返りそうになった。いつだって彼の登場は、タイミングがよすぎるのだ。

 

「考えごとか」

 

 十年前の夕暮れの公園、こっそり一人で泣いていたところを彼に見られた。あのときもシロップは心配して、スタジオの屋上までついてきてくれたのだった。ずいぶんと不器用な励まし方だったけど、ため息が漏れるくらい嬉しかったのを覚えている。

 

「ううん。ただ、風が吹くのを待っていたの」

 

 開け放された窓のそばでカーテンがはためき、振り返った拍子にスカートの裾がひらりと揺れるように、ひるがえる彼女のチャームポイント。

 

「また、見つけてくれたね」

 

 ツインテールの魔法にかけられて、シロップは春に咲くヒマワリを見つけた。滞留していた時間の流れを、気まぐれな風が吹きとばす。一瞬が永遠に感じられ、髪を押さえつける彼女の仕草が、現像できないフィルムに残る。

 

「……待った甲斐があったな」

 

 風が去ってからも、彼は目を細めていた。太陽よりも眩しくて、きらきらと輝くレモン色の光。十三歳だった春日野うららの未来が、ここにある。今日だけは、あの頃と同じ髪型で。

 

「こんないい風、久しぶりだ」

 

 隣に並び、手すりに腕をのせる。空を飛ぶよりずっと低い、屋上からの眺め。でも、悪くないと思えた。

 

「……ありがとう、シロップ」

「いいって」

 

 てっきり彼はその言葉を、ちょっとした息抜きに付き合うお礼だと解釈して、軽く返事をした。

 

「さすがのあいつらも、おれたちの分のケーキまで食べたりしないだろ」

 

 玄関からもどってきたナッツの手には、人気店のロゴが印刷された箱があった。流行に敏感な本日の主役たちは目ざとく差し入れの正体を見破り、目を輝かせていた。うららの姿が見えないことに気づいたのは、そのときだ。

 

「そのことも、なんだけど……」

 

 彼の勘違いと階下に用意されたケーキの存在を知って、うららは困ったように笑う。おかげで言いにくくなってしまったけど、都合よく風は吹いてくれない。またこの場所にみんなが集まるという奇跡が起こせたのだから、あとは素直な気持ちに従うだけ。

 

「あのとき、わたしを迎えにきてくれて」

 

 新芽が萌す春の朝、軒下で生まれた猫の子どもと、ベランダでまどろむ洗濯物。うららの笑顔から彼が連想したものは、そんな愛おしい日常ばかり。予定より一時間も早く到着した桜まみれのみんな、二つに結った髪を風になびかせる彼女の後ろ姿。それらを目にしたときと同様、幸せが彼の胸をノックした。

 

「おれは運び屋だからな」

 

 強い想いがあれば、どこにだって届けられる。切手のかわりに勇気を添えて、投函してさえくれたなら、その先は彼に任せたらいい。返事を持ってかえるまでが、運び屋の仕事なのだ。

 

「これからは……さ、何かあったら声かけろよ」

 

 手すりの上で組んだ腕の中に、顎を埋める。遠くの空を眺めて、うららを乗せて飛んだのはあの辺りだったかな、と思い出してみる。

 

「役に立てるかは分からないけど……」

 

 歌も芝居も知らなければ、電話もメールも使えない。仕事で手紙は運ぶけど、気持ちの込めた手紙は書けない。泣いている女の子に、かける言葉もみつからなかった。

 ただ、一人で意地を張るよりも、頼りない誰かが傍にいてくれた方がずっとマシだということを、シロップはよく知っている。

 

「お前がどこにいたって、飛んでってやるよ」

 

 そっぽを向いたまま、言葉を風に託すように、口をつぐんだあとの彼は雲の落しものを探していた。覗きこもうとしても視線を合わせてくれない彼の横顔に、うららはほっとする。下手くそな優しさのつかい方、しわくちゃの手書きの搭乗券。

 

 たった十年で、かんたんに人は変わらない。彼も、私も、そしてみんなも。だから同窓会はこんなにも楽しいのだと、わかった気がした。

 

「わたしもいつか、自分の翼で空を飛んでみたいな」

 

 今までは迎えにきてもらうばかりだったから、今度は自分から会いにいきたい。オーディションの結果を待つだけの毎日から、旅立つとしよう。

 

「そして、世界中に夢を届けるの」

 

 パスポートはみんなの笑顔、搭乗ゲートはこの空の向こう。電波の届かない異郷の地、妖精の国や闇の世界にまで伝えたい想いがある。奇跡の輝き、希望に満ちた未来の美しさは、髪や肌の色、言語や文化がちがってもかならず分かち合えるはず。

 

 大人びた彼女の表情、遠くを見据える眼差しと口調から感じられる芯の強さ。シロップが見上げなければならないほど、うららは高く飛翔していた。

 

「世界か。そりゃ大変だ」

 

 晴れた日の空は気持ちいいけど、悪天候の日ももちろんある。横殴りの雨、体を刺す冷気、突き立てられる稲妻の剣。強風に煽られても荷物を落とさず飛び続けるのは、容易なことではない。

 だけど、シロップが口を出すまでもなく、うららはそれを覚悟していた。重く垂れこめる雲を抜け、目的地がまだ見えなくても、途中で引き返したりしない。みんなの夢が光となれば、彼女はどんな場所でも輝けるのだから。

 

「うん。きっと、すごく大変だと思う」

 

 手すりの端にとまった蝶を、微笑ましく眺める。小さな羽でも飛べるのだ。風さえ吹けば。

 

「でも……」

 

 お母さんに憧れて選んだ役者の道。みんなが応援してくれた初ステージ。人生のシナリオは白紙のまま、失敗してもやり直せない。だから芝居を楽しんで、アドリブを続けていればいい。

 

「春日野うららは、へこたれませーん」

 

 歌を口ずさむようにそう言うと、彼女はシロップに笑ってみせた。

 

 あの頃と同じ。とびっきりの、はじける笑顔。

 

 

 

 ケーキにナイフを入れるときの緊張と興奮は、本の表紙をめくる感覚とよく似ている。

 

 物語のはじまる気配と、指先に馴染む紙の手ざわり。最初に現れるのは余白に飾られたタイトルのみのページ、そして登場人物より先に列挙される作者にとって大切な人の名前。秋元こまちが本を愛する理由の一つに、この献辞がある。

 

 家族、友人、恩師、同僚……知らない名前ばかりなのに、幸せな結末を先に読んでしまった気分になれる。感謝の込められた、さりげない一文。もし、そこに「パルミエ王国とプリキュアの仲間に捧ぐ」なんて書いてあったら、読者はどんな顔をするかしら。

 

 食器棚から皿を取り出そうとするナッツの衣擦れと、陶器がぶつかる小さな音を背中で聞きながら、こまちはそんな空想にふける。

 

 献辞には、姉と両親の名前も書き添えたい。そうなると、表現をもっと工夫する必要がある。日常を過ごす我が家と、ファンタジーに類する世界。異なるジャンルを違和感なく、一文で簡潔にまとめなければならない。

 知識の辞書を引いて言葉のリストを作成し、並べて置き換え、添削する。結局のところ、この一連の作業がこまちは好きなのだ。冒険小説を読んでいるみたいに、この先どうなるのかが楽しみで仕方がない。自分の考えた物語をだれかに読んでほしいというよりは、ただ書きたいという衝動があるだけ。花は決して人間を喜ばせるために咲くのではない。

 

 言葉を紡ぎ、文章を編む。それが自分の喜びなのだ、とこまちは知る。

 

「どうなんだ」

 

 皿と盆の準備を終えて、手持ち無沙汰になったナッツが唐突に口を開いた。あとはこまちがケーキを切り分けてくれるのを待つだけなのだが、生クリームとスポンジ生地から成る魅惑の城は依然としてテーブルの上に聳えている。

 ナッツに頼まれて手伝いを引き受けたのに、こまちの方が作業を遅らせてしまってはみんなに申し訳が立たない。のぞみたちは十等分されたケーキを、今や遅しと待っているのだ。

 

 ところが、清潔なはずの皿を洗いはじめたナッツを見て、急かされたわけではないとわかった。彼の動作はいつもより緩慢で、そういえば皿を取り出すだけで随分と時間がかかったものだ。きっと、話しかけるタイミングを探っていたのだろう。

 

「いい小説は書けそうか」

 

 長かった沈黙の割には単刀直入な切り出し方。それでも、彼なりに熟慮して慎重に選んだ言葉。こまちは記憶というメモ用紙に、そんな彼の人情の機微やちょっとした癖をこっそり書き残す。心を落ち着かせる静かな声、発音や息遣いに至るまで。

 

 無愛想だけど優しく、不器用だけど誠実な登場人物をいつか描くときのために。

 

「まだ分からないわ」

 

 とりあえず二等分にしたケーキを見て、こまちは菓子職人と作家の共通点に気づく。試行錯誤の末に生まれたものも、味わうときはあっという間。ナイフやグラシン紙に付着したケーキの一部は、食べてさえもらえない。

 

「書こうと思っても書けなかったり、そのときは満足できた箇所も後から読み返すと直したくなったりするものだから」

 

 今日の同窓会で得たものは多いが、この感情を言語化し、文章にまで昇華させるのは難しい。アイデアと執筆の間には、深く暗い谷がある。鉛筆の橋をかけたところで、渡った先には果てしない荒野が広がっているのだ。

 読者に巡り合えるまでは、ひたすら孤独な虚しい戦い。そして、見返りに読者が感想という水を恵んでくれる保証はどこにもない。

 

「それでいいんじゃないか」

 

 一枚だけピカピカになった皿をテーブルに戻して、彼はナイフをもつ彼女の手を眺めた。十等分の切り分け方がわからなくなり、空中で切っ先が彷徨っている。怪我をさせないようにそっとこまちの背後に回ると、ナッツは彼女の手の上に自分の手を重ねた。

 

「書きたいときに書けばいいし、休みたいときは休めばいい」

 

 柔らかな生地の中に、ナイフが沈んでいく。目測だから正確ではないけれど、おおよそ十等分になるだろう。手を離して、あとの作業はこまちに任せる。

 

「焦る必要はない。こまちの未来は、こまちのものだ」

 

 手の甲に残る彼の温もりが、処女作を完成させたときの気持ちをこまちに思い出させた。厳しくも公正な評価をくれて、書き直すたびに最初から最後までちゃんと読んでくれた。どんなに時間がかかったとしても、秋元こまちの続編を楽しみにしている読者がここにいる。

 たった一人でいい。図書館の棚にぎっしり詰められた本の中から、見つけてくれたら。自分の書いたものを読んで、最後の文章のあとで幸せなため息を吐いてくれたら、そのとき作品ははじめて完成するのだろう。

 

「うん。でも私、ナッツさんに約束するわ」

 

 切り分けられたケーキは、とても等分とはいえない有り様だった。仕方がないから、前日に食器を洗ってくれたかれんとくるみには大きめの一切れを、乾杯の数分後にシュークリームと豆大福の半分を平らげたのぞみとうららには小さめの一切れを、わからないように配分するとしよう。

 もちろん、こまちは責任をとって最も小さな一切れを選ぶ。三口程度でなくなってしまっても、彼と一緒にナイフを入れたそのケーキは、特別な味がするはずだから。

 

「すこし休んだら、また歩き出すことを」

 

 彼が出してくれた皿に、慣れない手つきでケーキを取り分ける。和菓子屋ではなく洋菓子店の娘に生まれていたら、もっと器用にこなせたかもしれないのに。

 もっとも、そんな仮定が成立しないことくらいこまちは承知している。小説と同じで、こまちの人生にだって矛盾のない道すじがあり、和菓子屋を営む秋元家の次女に生まれたからこそ今の彼女に帰着する。店と同じ名前、ナッツの好物の豆大福、和菓子職人を志す姉。実家がパティスリーアキモトだったら、すべて辻褄が合わなくなってしまう。

 

 幼いころ、まどかが作ってくれたおやつの白玉団子。とても美味しくて、笑顔になれる味。感謝の気持ちを綴った手紙が、こまちの夢の礎となった。

 

「この先も、何度も立ち止まってしまうことがあるかもしれない」

 

 ケーキを食べて、日が暮れて、同窓会が終わってしまえば、ナッツたちはパルミエ王国に帰らなければならない。時間は消耗品であり、短くなる鉛筆や小さくなる消しゴムと同じ。原稿用紙を何枚も無駄にして、頭の中で迷子になったアイデアをさがし回り、書き出しのたった一文字のために苦しみ続ける。

 

 それでも彼女はコンパスの代わりに筆を持ち、地図の代わりにナッツのくれた絵本と共に、往くべき道を決めたのだ。方向転換や引き返すことができないとしても、この先にあるのが自分の未来なのだと信じている。

 

「だけど、私は前に進むわ」

 

 ラストシーンがどうなるか、今はまだ分からない。ただ、ページを遡れば、親友とナッツの言葉に励まされる。

 

 こまちが変われば、ラストも変わる。

 

 きっと、こまちにふさわしいラストシーンが見つかるはずだ。

 

「明日も、必ず」

 

 強くなった彼女の頼もしい言葉に、ナッツの心は安らいだ。

 

 

 

 たくさん笑ってたくさん食べて、すっかり緩くなってしまっていた頬の筋肉は、大きなあくびを我慢することなどできなかった。

 

 夢原のぞみの手は慌てて口元を隠そうと動いたが、彼女の顔をじっと見つめていたココがそれを見逃してくれるはずもない。

 

「寝不足かい?」

 

 ちょっと間抜けな彼女の仕草を慈しむように、彼は微笑む。

 

 ナッツとこまちが二階でケーキを切り分けている、ほんの僅かな時間。湖畔でココとふたりきり。微妙な緊張を和らげるには、ちょうどいいきっかけとなった。

 

「わくわくして、あまり眠れなかったんだよね」

 

 月の光だけがカーテンの隙間から差しこむ薄暗い部屋の中で、のぞみは明日が今日になる瞬間を見つめていた。カレンダーに赤ペンで印をつけた日付と、携帯電話の待ち受け画面に表示された日付を何度もたしかめる。アルバイトと勉強の毎日に疲れきった体が、睡眠という当然の権利を主張しても、楽しい想像で頭は忙しい。

 柔らかい布団が魔法の絨毯となって、潜在意識の試写会に彼女を運んでいったのは、今からほんの数時間前。

 

「そうだ。ゆうべ、みんなの夢を見たんだよ」

 

 陽光のシャワーを浴びた体に、湖からの涼しい風が吹きつける。空に浮かぶ穏やかな雲は、雨のかわりに桜の花びらを降らせていた。のどかな雰囲気にこだまする、みんなの笑い声。

 人が感じられる幸福に限度があるのなら、超過したそれがのぞみの場合はあくびとなって外に溢れたのかもしれない。

 

「みんなの夢が、叶う夢」

 

 十年分の思い出を整理して、ココに聞いてもらいたいとっておきの話題を決めていた。それなのに、まるで転校生が最初のテストで一番の成績をかっさらっていくようなものだ。

 大学の合格発表でりんと抱き合って喜んだこと、二十歳の誕生日、初めて飲んだアルコール、一人で静かに泣いた夜。とても一日では語りつくせないから、真っ先に口からとび出したのはなんてことない夢の話。もっとも、夢原のぞみは順位争いにまるで縁のない生徒だったから、転校生の能力を素直に認め羨むことができる。

 

「みんな、とっても幸せそうだった。ココも元気に王様がんばってたよ」

 

 水面に反射した光が目に入ったのか、彼は花から飛び立とうとする蝶を眩しそうに見送っていた。大人になった夢原のぞみのその純粋な優しさが、あの頃とちっとも変っていなくて、それがたまらなく嬉しかったから。

 

「のぞみも、先生がんばってた?」

 

 夕日の紅が儚さに染まり、夜の帳が下りる間際。配達屋が仕事を終える、東の空が白むとき。ふと目を瞑ると、教壇に立つのぞみの姿が見えた。

 チョークの粉がまぶされた指、開かれた教科書のページには印刷された字よりも書き込みの方が目立つ。生徒がスーツを着たように、クラスで一番がんばっている一生懸命な夢原先生。

 

「そうだったら、いいんだけど……」

 

 どこかぎこちない、彼女の笑み。せっかくの楽しい同窓会で弱音を吐いていいものか、躊躇いを隠す時間かせぎ。だけど結局は、ココに甘えてしまっていた。

 

「できるのかな。勉強の苦手なわたしが、誰かに勉強を教えるなんて……」

 

 二度の留年、足踏みするだけの歳月。夢原のぞみの自信を喪失させる要素は、社会のあちこちに散らばっている。自動車の運転免許、就職、結婚。同級生は順調に大人の階段を昇っていった。いくら能天気な性格でも、焦燥という言葉くらいは知っている。

 夢の中ののぞみは、みんなの未来を眺めているだけだった。そこに鏡は置いてなくて、自分の姿は見えない。魂だけが空中に漂っているように、彼女の存在は誰にも認められず、ただぼんやりと佇んでいた。

 

「じゃあ、テストしようか」

「え?」

 

 こちらの世界で学んだたくさんの言葉。それらは不安と絶望に悩まされていたココに、大きな勇気をくれた。たった一年の臨時雇用、卒業まで見届けることは叶わなかったけど、せめて先生としての役目は果たしたい。卒業試験は、マンツーマンで。

 

「たとえば……前途洋々」

 

 目の前に広がるのは湖だから、向こう岸にはボートで渡れる。そんな屁理屈では部分点すらもらえないだろう。彼の求める答えは、しっかり耳を傾けていればきっと見つかる。

 

「この四字熟語の意味を、のぞみはどう説明する?」

 

 国語教師を目指す者にとっては、簡単すぎる問い。順風満帆と迷いかけて、のぞみは慎重に言葉を選んだ。

 

「えっと……将来の可能性が開けて、希望に満ち溢れていること」

 

 定期試験なら確実に点をもらえる解答。だけど、小々田先生の授業は満点をとることが目的ではない。

 

「そうだね。教科書や辞書にはそう書いてある」

 

 勉強はときに、子どもから自由な発想を奪ってしまう。余分な枝を切るだけが、剪定ではない。広い場所と豊かな環境さえ用意したなら、樹はすくすくと育つのだ。

 

「でも、それだけでは理解できない生徒がいたら、なんて教えたらいいだろう」

 

 テストで重要なのは、出題者の意図を読み取ること。のぞみは先の解を、心の消しゴムで消した。教科書の説明文より覚えやすい、生きた経験。不出来な生徒だったからこそ、人一倍苦労したからこそ、ちゃんと理解できている。

 

「“明日のことはわからないけど、がんばっていればきっと楽しい未来が待っているよ”って」

 

 ココがのぞみに求めた、そのままの解答。彼女という樹はしっかり育ち、枝を伸ばしてたくさんの葉を茂らせていた。たくましい幹は自信を、涼しい木陰は安穏をもたらす。草の上に寝転がって空を仰げば、お日様もあくびをしていた。

 

「それでいいんだ」

 

 教員免許をもっていない先生は、世の中にたくさんいる。両親や上司、先輩や同級生。自分が正しいと信じるもの、失敗や過ちを語るのに資格なんて必要ない。憧れ、不満、信愛と対立。それぞれの教材が、生き方を教えてくれるだろう。

 

「みんな同じさ。自分に自信がないし、将来に不安を感じている」

 

 大人っぽい髪型と、服装の趣味。時は移りゆくものだから、夢原のぞみはこれからもどんどん変わっていく。中学二年生だった彼女の面影は、そのうち見つけられなくなるかもしれない。

 なくしたものを探してズボンのポケットを叩けば、手に伝わる感触は革の生地と自分の腿だけ。だからココは、彼女の瞳をのぞきこむ。

 

 果たしてやっぱり、そこにあった。いつまでも変わらない、彼女のよさ。希望という名の流れ星。

 

「だけど、のぞみはわからないところを一緒に悩み、考えてくれるだろ」

 

 頼りないけど、信頼される。おっちょこちょいで、放っておけない。そんな先生がいてもいい。学校を卒業しても、人生の授業は続いていくのだから。

 

 生徒と共に学び、成長していく。生徒の夢を応援して、励ましてあげる。教師になる資格なんて、のぞみはとっくに満たしていた。

 

「それが教科書にはできない、先生の仕事だ」

 

 春風が終業のチャイムを鳴らす。最後の答え合わせは、桜の魔法が解ける前に間に合った。夢にたなびく霞が消えて、赤ペンのキャップが外される。丸で囲むのは、彼女が選んだ最良の答え。

 

「ありがとう」

 

 目指す場所は、ここにある。そのことを確かめたくて、のぞみは同窓会を開いたのだった。

 

 夢や幸せの意味を知らない人も、世界のどこかにいる。楽しくて笑っちゃうとか、独りが寂しいとか、大好きなみんなが大切だとか、そんなこともわからない人に教えてあげたい。

 人生の素晴らしさを。

 

「わたし、忘れないよ。ココが教えてくれたこと。ココといたこと」

 

 気球に乗って春の空を飛んだ。夏にはボートの上で満天の星空を眺めた。大きな木に登って秋の町を見渡した日もあった。クリスマスイヴの新雪に残した二人の足跡は消えてしまったけど、思い出は残る。

 

 共に過ごした時間はたったの一年なのに、夢原のぞみの人生において彼の存在は大きすぎる。曲がり角でぶつかったときは、こんなことになるなんて思いもしなかった。

 学園の図書館で運命の再会を果たし、彼の正体を知り、あれやこれやという間にプリキュアとして戦っていた。あの日、のぞみが早起きに成功して悠々と登校していれば二人は出会わなかったのだから、寝坊は神様の導きだったのかもしれない。

 

 のぞみとココからすべてがはじまり、プリキュア5の物語が生まれた。ひとまず幕は閉じたけど、場面転換の後にいつかきっと再開される。

 

「みんながいたこと」

 

 そろそろケーキが切り分けられて、りんが大声で二人を呼ぶだろう。長年放置されていた鬱憤を晴らすような、賑やかすぎる今日のナッツハウス。追い出された静寂が明日には帰ってくるけれど、扉はいつもみんなの訪問を歓迎している。

 

「忘れられないさ」

 

 今も昔も太陽が変わらず空に在るように、彼らの心から決して失われないもの。それはとりとめのない会話や、一緒に見た景色。思い出という宝物。夢原のぞみのくれた希望は、いつまでも眩い輝きを放っている。

 

「ぼくらが夢を見ているかぎり」

 

 プリキュアの伝説と比べたら、語り継がれるはずもないありふれたお話。それでも、みんなが忘れることはない。

 

 夢を抱き、追い続けて、叶えた少女がいたことを。

 

 

 

 空になったグラスに、ペットボトルの口を近づける。水無月かれんの好きな飲み物を、夏木りんはしっかり記憶していた。

 

「はい、どうぞ。かれんさんの好きなグレープジュース」

 

 なみなみと注がれた小さな葡萄の海を見つめ、かれんは意外そうな顔をする。

 

「あら。ワインは置いてないの?」

「え、かれんさん。昼間からそんな……」

「冗談よ」

 

 五人がいつも一緒だったころ、年上の彼女をからかうのは楽しかったけど、からかわれる日がくるなんて。

 出会ったばかりのりんとかれんは花の趣味も違えばお茶の好みでも口論になる、正反対の性格。いがみ合った翌日は口もききたくなかったのに、今では互いの個性を尊重して笑っていられる。

 

 たとえばいつか、かれんの担当する患者の病室に、りんの育てた花が置かれることもあるかもしれない。そんな話で二人はしばらく盛り上がっていた。

 

「クレープも喉が渇いたクク」

 

 招待されたのにもてなされるわけでもない王女は、口ばかり動かしている彼女たちにさりげなく接待を促す。

 

「じゃあ、クレープ王女にもグレープジュースを」

「かれんさん、やっぱり酔ってる!?」

 

 果たして彼女にそのつもりがあったのか真意は定かではないが、自分の口からとび出した駄洒落がおかしかったらしく、かれんはお腹を抱えて笑った。妖精の体質に合わないから飲み物はノンアルコールしか用意していなかったはずなのに、今日のかれんはずっと愉快な調子。

 中学生の時点でずいぶんと大人びていた彼女が、大人になると幼くなるなんて。成長の不思議さを実感しつつ、屈託のない彼女の笑顔にりんは安心した。

 

 ガンバリーナとの戦いを終えてかれんが病院にもどったとき、ベッドに坂本の姿はなかった。

 くるみが付き添っていなければ、彼女は廊下の長椅子から腰を上げることもできなかっただろう。連絡を受けてみんなが駆けつけたとき、水無月かれんは子どものように目を赤く泣き腫らしていた。

 

 悲しみが癒えるのには長い時間がかかるけど、涙の痕はもう乾いた。笑えるくらい、元気をとり戻した。だから彼女は、きっと大丈夫。

 

「みんな、お待たせ」

 

 小皿に取り分けたケーキをもって、ぞろぞろと四人が階段を降りてくる。甘いにおいを嗅ぎつけたのか、のぞみは室内に入るなりみんなの注目を集めた。

 

「よーし、みんなで記念写真を撮るぞー! けってーい!!」

 

 美味しそうなケーキを前におあずけを食った彼女たちは、不服そうな表情をしつつも、のぞみの提案に素直に従った。のぞみが言うのだから、仕方がない。ブンビーの届けてくれたケーキも一緒に写る今が、大切なのだろう。

 

「それで、誰がシャッターを切るクク?」

 

 三脚の前に並んだ十人は、それぞれ顔を見合わせた。

 

「シロップ」

「だから、なんでおれなんだよ!?」

「あ、じゃあわたしがやります」

 

 くるみに指名されたシロップがあからさまに嫌がったから、立候補したのは最年少のうらら。

 

「はいはーい! わたしにまかせて!」

 

 小学生のように元気いっぱいの挙手をして、のぞみが集合の列から抜ける。

 

「のぞみ。使い方わかるの?」

「……わかんない」

 

 かれんの心配したとおり、電源も入れられなくてうな垂れる言いだしっぺ。見るに見かねて助け舟を出したのはナッツである。

 

「見せてみろ。……これをセットして、ここを押すんだ」

「……って、もうナッツがやった方が早いんじゃ!?」

「いいじゃない。本人がやる気になっているのだから」

 

 機械の扱いを妖精から教わる幼馴染に呆れるりんとは対照的に、こまちとココはそんな彼女を微笑ましく眺めていた。

 

「ああ。のぞみには、のぞみのペースがあるんだよ」

 

 セルフタイマーとフラッシュの設定を何度もやり直すのぞみの一生懸命な姿を見て、りんも認めた。

 

「それもそっか」

 

 のぞみはやっぱり、あれでいいのだ。

 

「よし、じゃあ撮るよ! みんな笑って!」

 

 十秒の猶予があるのだからその台詞は気が早すぎるのだが、みんなの笑顔の準備はできていた。

 

 シャッターのボタンを押したのぞみがカメラから離れ、列に戻るまでのどたばた騒ぎ。転んで、起こして、頭や肩を叩いている間にランプが明滅する間隔は短くなる。ずいぶん慌ただしい記念撮影だった。

 

 眩しいフラッシュを合図に切られたシャッター。その瞬間に、みんなの笑顔は過去になる。幸せは、写真みたいに保存できない。

 

 だからこそ、彼女たちは今のうちにお腹がよじれるほど笑って、山のように積み重なっていた話題を消化するのだ。懐かしくて楽しい、プリキュア5の同窓会。終わりがあると分かっているから、存分に今を満喫している。

 

 明日からはまた、それぞれの人生を歩まなければならない。かれんは新たな環境に身を置き、のぞみは大学にもどる。次の再会が約束されないままお開きにはなるけれど、そのことに不安を感じるものは誰一人なかった。

 

 この数日の出来事で、彼女たちの絆が永遠に不滅だと、わかったのだから。

 

 

        ○

        

        ○

        

        ○ 

 

 

 陽当たりのよいとある人家では、今朝も騒がしいやりとりが家の外にまで響いている。

 

「のぞみ、急いで! 初日から遅刻なんてかっこ悪いわよ」

「だって、寝ぐせがなかなか直らなかったんだもん」

「ほら、その言葉づかい。もう社会人なんだから気をつけなきゃ」

「はーい」

 

 上り框に腰かけて、革靴に踵を押しこもうとしている娘の背中に、母親は心配を隠しきれない。

 

「忘れものないわね?」

「……あっ!」

 

 飛び上がって自室に駆けもどる彼女の、どたどたした足音。思わず、ため息が漏れる。

 

「いくつになっても、そそっかしいんだから」

 

 パジャマは脱ぎ散らかしたまま、ベッドの掛布団は床に落ちたままの部屋なのに、忘れ物はあっさり見つかった。

 

 目に入った途端、ひったくるようにキュアモを掴み、回れ右をして扉に向かう。もうひとつの忘れものを思い出したのは、体を回転させる間際だった。

 

 キュアモが置いてあった机の上。そこに飾る写真立ては、一年前からふたつになった。

 

 サンクルミエール学園のテラスで笑っている、五人の女の子。十年の時が経過したナッツハウスで、やっぱり笑っているみんなの写真。

 

 着慣れないスーツが似合うようになったら、また会いたい。

 

 写真の中のみんなに、夢原のぞみは微笑みかけた。

 

「いってきます」

 

 そして、彼女は走り出す。

 

 扉を開けて、夢に向かって。

 




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