天界は空に浮いた大陸である。したがって、地震というものとは無縁の存在だった。
その天界の端。「奈落」と呼ばれる崖から少しだけ離れた区画に、天使「天空橋朋花」は住んでいた。
そして天界でのある昼のこと。
朋花は、部屋の中で地面が揺れるのを感じた。
先程も記述したが、天界では自然現象としての地震は起こり得ない。
ただ、人為的には揺らすことができる。浮いているだけだから、外力を与えれば良いのだ。
地面の揺れを感じ、その数瞬後に、何かを引き裂くような爆音が聞こえた。
次に、部屋の壁を突き破って何かが飛び込んできた。
人型のそれはソファーにいた朋花の前まで転がってくると、すぐに跳ね起き……口元をおさえて咳き込んだ。
「…百合子さん?」
天使「七尾百合子」は、数回咳き込み、口から赤い飛沫を散らす。
「…汚しちゃった」
「っ…百合子さん、すぐ、」
「逃げるよ」
赤い飛沫は朋花の装飾を穢した。
朋花が申し出た治療を蹴って、百合子は朋花に煤だらけの手を伸ばした。
「…わかりました」
朋花は咄嗟に手近にあった……
▶︎ 小さなナイフ
傷薬のボトル
____________________
ナイフルート
「天命のツバサ…じゃなくって、今は『明日の夢へと向かって』か」
百合子が主への祈りではなくオリジナルの呪文を呟くと、彼女の背中の煤けた翼が輝き始めた。
「神様とケンカしても、案外なんとかなるかもね。…掴まって、飛ぶから」
朋花は小さく頷くと、百合子は一度翼を羽ばたかせ、
「…体は」
「大丈夫、今はそれより」
戸惑う朋花を抱き抱えて、自分が突き破ってきた壁とは反対側の窓を突き破って飛び出した。
「大丈夫?」
「…はい」
百合子は朋花を抱えたまま、路地で姿を隠すように飛ぼうとしたが、すぐに行き先を塞ぐように火線がとんだ。
「やっぱり見つかるかぁ…!」
弾けるように飛び上がって、落ちるように方向を変える。
「このまま、奈落まで行くから」
追い縋るように引かれた火線を転がるようにして避け、速度を上げた。
「…どうして、逃げようとしたんですか?」
百合子の腕の中の朋花が、風を切る音と破砕音に負けないよう叫んだ。
「朋花ちゃんがいないなら、天界にいる意味はないから。朋花ちゃんはどうして私についてきてくれたの?」
朋花は追いかけてくる緑色の光弾に向かって、初級の魔法をいくつか飛ばす。
干渉しあった術式は崩れ、その場に濃密な魔力を振り撒いた。
緑色が魔力の高まった空域を通過する時に今度は拡散の術式を投げ、緑色の追尾の術式を拡散の魔力帯が打ち消した。
「…百合子さんがいなくなったら、寂しいと思ったから」
「ごめん、聞こえない!」
追尾の術式が効力を失ったのを見て、百合子がもう一度路地へとびこむ。
十字路をいくつか曲がりながら、一度朋花を抱え直した。
「百合子さんが…好きなんですっ!」
隠匿の術式を組みながら、朋花が叫んだ。
その声が耳に届いた百合子は、少し嬉しそうな顔をして…路面にあった影から暗い槍が数本伸びる。
「っ…」
腕の中身を狙うように伸びた槍から庇うように、体を捩って。
「…だめか」
その中の一つだけが百合子の腕を貫いた。
百合子は地面に降り立つと、朋花を地面に押し付けた。朋花はすぐに影に向かって発光の術式を向けた。
影に編まれた術式は指先ほどの光で掻き消えたが。
「百合子さん…」
「朋花ちゃん、それ、かして」
百合子の腕の傷は消えない。
百合子は、朋花が握りしめたままの小さなナイフを左手で指さした。
朋花が握りしめたナイフを手渡すと、百合子は少し迷った後に頭の編み込みをナイフで切り落とした。
「これじゃ、朋花ちゃん抱えられないから」
切り落とした編み込みを、朋花の右手に巻き付け、結んだ。
「このものに、翼をさずけよ」
血が滴った指先で、編み目を少し撫でた。
「これで、朋花ちゃんでも飛べるはずだから。行き先は、私の信頼できる…」
血が滴る腕を朋花が指先で握りしめ、おそらく痛んだのだろう。百合子が言葉を止める。
「百合子さんは、こないんですか…?」
少し朋花の目を見つめて、照れ臭そうに笑って、
「ごめんね」
目をそむけて言った。
「ね、はやく飛んでよ。朋花ちゃん、昔から飛べたらって」
「百合子さんは、来ないんですか?」
懇願するように、もう一度朋花が聞いた。
百合子は目を背けたまま呟いた。
「行けないかも……ほら、はやく、」
百合子は両手で朋花を奈落の方角へ向かせると、力強く背中を押す。
「おねがい、飛んでよっ!」
朋花は百合子の方を振り向いて、またすぐに前を向いた。
「そんな顔されたら、飛ぶしかないじゃないですか」
「…大好きだよ」
手首に巻かれた髪を撫でて、小さく地面を蹴った。
朋花の翼が、百合子と同じように輝く。
そのまま中に浮いた。
「そうだ、これ……ありがとう」
百合子は朋花に髪を切ったナイフを手渡すと、一歩朋花から下がって、
「明日の夢へと向かって」
朋花の翼が羽ばたき、すぐ近くまできていた奈落に向かって弾けるように飛翔する。下界に向かって飛び降りた。
振り向くとすぐに天界は小さくなっていく。百合子さんの魔力が膨れ上がって、他の天使の魔力に対抗するのを朋花は感じ取った。
今、ナイフに固有魔法をかければ百合子さんを追っている天使程度細切れにできるだろう。
百合子さんを傷つけたものを放っておいていいはずがない。
でも
足取りすらおぼつかなかった私のお世話をしてくれたあの人は、
泣きながら私だけを逃したあの人は、
いつも抱き抱えて飛んでくれたあの人は
私の背中を押してくれたあの人は
「どうしたらいいんでしょう…」
七尾百合子は、それを望んでいるのか。
きっと手に握らせたナイフも、私が生き残る術になればいいと思ったからに違いない。
少なくとも朋花はそう思った。
すぐ、雲に包まれた。
風魔法で水蒸気の冷たさから身を守る。
翼がゆくままに空を滑っていると、雲を抜けた。
目下には、大きな湖が広がっていた。
翼は、その湖の畔に降り立った。
地面に降り立った瞬間に、朋花の右手首から役目を終えた髪が解けて落ちた。
朋花はしばらく呆然とそれを眺めて、はっとして赤に濡れた青い髪の毛を拾い集めた。
左手にナイフを、右手に髪束を握りしめ、朋花は短い草が生えた地面に座り込んだ。
空は青い。太陽が煌めいている。
風が走って、草や木々が揺れる。
あてもなく目の前の湖を眺めていると、正面の水面から2つ顔が覗いた。
「ユリコ?今日はドントカムなプランじゃ…」
「百合子さん?杏奈、今日は…」
じっと見つめあい、両者は驚いたように距離をとる。
たしか、百合子さんが見せてくれた書物だと、人魚という種族だったか…
「ひょっとしてトモカですか?ユリコのフレンズの…」
「……それ…百合子さんは?」
クリーム色の髪をした人魚は朋花の名前を聞き、紺色の髪をした人魚は朋花の手の中の青い髪の持ち主のことを問う。
「…天空橋、ともかです。百合子さんは…」
右手の髪と、それをたった刃物を左手に握っていることに気づいた。
朋花は慌てて刃物を地面におき、人魚2人の様子を伺う。
気にはしていないようだったが
「百合子さんは…」
草の葉に雫が滴った。
「ごめんなさい」
ごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい
握りしめた髪束に謝り続ける朋花を見て、2人の人魚は水から岸に上がった。
魚の下半身を撫でると、それは2本の足とスカートになる。
クリーム色の女の子は朋花の右手に優しく手を重ね
紺色の女の子はおずおずと、どこかからか取り出したハンカチを朋花に差し出した。
「ナイフルート」
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傷薬ルート
朋花は手近にあった傷薬のボトルを手に取ると、蓋を取って百合子の頭の上でひっくり返した。
「…あの、朋花ちゃん、これでも効くのはわかるけどもうちょっと」
「早く逃げるんでしょう?」
「…そうだけどー」
「天命のツバサ…じゃなくって、今は『明日の夢へと向かって』か」
百合子が主への祈りではなく、オリジナルの呪文を呟くと、彼女の背中の煤けた翼が輝き始めた。
「神様とケンカしても、案外なんとかなるかもね。…掴まって、飛ぶから」
朋花は小さく頷くと、百合子は一度翼を羽ばたかせ、
「百合子さん、びしょ濡れですね」
「朋花ちゃんがやったんだけどね」
朋花を抱き抱えて、自分が突き破ってきた壁とは反対側の窓を突き破って飛び出した。
「大丈夫?」
「…はい」
百合子は朋花を抱えたまま、路地で姿を隠すように飛ぼうとしたが、すぐに行き先を塞ぐように火線がとんだ。
「やっぱり見つかるかぁ…!」
弾けるように飛び上がって、落ちるように方向を変える。
「このまま、奈落まで行くから」
追い縋るように引かれた火線を転がるようにして避け、速度を上げた。
「…どうして、逃げようとしたんですか?」
百合子の腕の中の朋花が、風を切る音と破砕音に負けないよう叫んだ。
「朋花ちゃんがいないなら、天界にいる意味はないから。朋花ちゃんはどうして私についてきてくれたの?」
朋花は追いかけてくる緑色の光弾に向かって、初級の魔法をいくつか飛ばす。
干渉しあった術式は崩れ、その場に濃密な魔力を振り撒いた。
緑色が魔力の高まった空域を通過する時に今度は拡散の術式を投げ、緑色の追尾の術式を打ち消した。
「…百合子さんがいなくなったら、寂しいと思ったから」
「ごめん、聞こえない!」
追尾の術式が効力を失ったのを見て、百合子がもう一度路地へとびこむ。
十字路をいくつか曲がりながら、一度朋花を抱え直した。
「百合子さんが…好きなんですっ!」
朋花はさっき空にしたボトルを撫でさすると、固有魔法をかける。
「…子豚ちゃん、おねがいしますね」
やけくそになってボトルに唇を落とす朋花。
最上級の褒賞をもらったボトルはぶひぶひ言いながら朋花と朋花を抱える百合子の周りを飛び回った。
路面の影から伸びた影の槍を弾き飛ばすと、追手の集団に飛び込んで暴れ始める。
「ボトル、いいな〜。朋花ちゃん、私には?」
「…私の魔法、5分で切れますけど〜?」
「じゅうぶんだよ」
しぶしぶ、というような時間をあけて、朋花は百合子の頬に唇をつける。
「…大好きですよ〜」
「私も」
百合子は一度路地から飛び上がると、すぐ近くの奈落へ飛び降りた。
みるみるうちに、天界から離れていく。
「朋花ちゃん、雲に入りたいんだけど」
「びしょ濡れなのに気にするんですね」
「大切な人だから」
「…そういう意味じゃないんですけど」
朋花は風魔法で百合子と自分自身を包む。
「朋花ちゃん、下の世界見たことあった?」
「実際には、一度も。でも、百合子さんがたくさん聞かせてくれたのは覚えていますよ」
「綺麗だよ。とっても。…何回言ったけ」
「何回でも言ってくれましたね」
2人が雲を抜けた。
眼下には、大きな湖が広がっていた。
空は青く、太陽が煌めいている。
風が走って、草原や木々や、空を浮かぶ2人を撫でた。
「ところで、ちょっと大事なことがあるんだけど」
「…なんですかー?」
「魔力が…たりないかも」
「…落ちません?」
「朋花ちゃんは泳げる?」
天界に泳げるような場所があっただろうかと地図を思い描き…
朋花は百合子の服をぎゅっと握りしめた。
百合子は朋花の体を抱きしめ、
「…多分、死にはしないから大丈夫だよ」
そっと翼を畳んだ。
重力に従って、2人は湖に向かって落下を始める。
「ロコちゃん!杏奈ちゃん!助けて‼︎」
百合子が下へ叫んだ。
誰ですか、と聞く余裕もなく、朋花は百合子にしがみつく。
「ちゃんと掴まっててね」
水面までの距離が近づいてきた頃に百合子はもう一度翼を開いた。
ぐぐっと減速し、水面が凶器にならない程度の速度まで減速してから着水した。
着水する瞬間、朋花に何かがぶつかった。
ごちん、と音がした。
水の中で目を開いてみると、クリーム色の人魚がぶくぶくと沈んでいくではないか。
紺色の人魚がやれやれ、というふうにくたっとしたクリーム色を掴むと、悠々と水の世界を泳ぎ、もう片方の手で繋がった天使を抱えて水面へと浮かび上がった。
「傷薬ルート」