絶世の美女が俺の恋人に!? 前世は王女様とその従僕。いや、全部マッチポンプだから! 作:里奈使徒
殴る。蹴る。また殴る。
俺、白石翔太——今まさにクラスメートにリンチされている男。
三十分。たぶん、それくらい経った。最初は歯を食いしばっていたが、もう顎に力が入らない。視界の端がちらちらと明滅している。
「ぐふっ!」
腹に蹴りが入る。胃の中身がせり上がり、酸っぱい液体が床を汚した。
はぁ、はぁ。肺が縮んだみたいに、空気が入ってこない。
囲んでいるのはクラスメートたちだ。昨日まで「おはよう」と言葉を交わしていた連中。今は誰も目を合わせない。ただ拳を振り下ろし、靴底を叩きつけてくる。
殴られるたびに、身体より深いところが軋む。
小金沢紫門。小金沢グループ御曹司。この学園の王様。
奴の仕掛けた罠に、俺は綺麗にはまった。
何があったかは、今は言わない。
ただ、俺は真実を伝えただけだ。それだけなのに。
「……お前ら、頭おかしいぞ」
血の味がする口で、吐き捨てた。
「頭がおかしいのは、てめぇだろうが!」
佐々木が怒鳴り返す。紫門の一番の腰巾着。飼い主がいないと何もできない男だ。
「そうだ。草乃月さんを襲うなんて許せん!」
別の声が重なる。正義の味方ごっこか。反吐が出る。
「ち、違う。俺は襲ってなんかいない」
何度目だ、この台詞。誰の耳にも届かない。
「貴様は、土下座だ。紫門さんの怒り、思い知れ!」
佐々木の靴が俺の後頭部を踏みつけた。
がっ。
額が床に叩きつけられる。目の奥で白い光が弾けた。こめかみのあたりが熱い。血だ。
少し離れた場所で、紫門が口の端を吊り上げていた。腕を組み、楽しそうに首を傾げている。
いつもの爽やかな笑顔はどこにもない。他人を踏みにじるときだけ浮かべる、あの顔だ。
はぁ、はぁ、くそ。痛い。全身が痛い。
普通に学校に通いたかっただけだ。それだけなのに、なんでこんな目に遭う。
「紫門……」
床に這いつくばったまま、奴の名前を呼んだ。喉から絞り出すように。
「お、なんだ? 謝罪か?」
紫門が一歩近づいてくる。期待に目を細めている。俺が泣いて許しを乞うのを、待っているんだろう。
「し、死ね!」
残った力を、その一言に込めた。
紫門の頬がぴくりと引きつった。一瞬だけ。すぐに薄い笑みに塗り替えられる。
「お~い、まだ元気みたいだぞ」
声が少し上擦っていた。苛立っているんだろう。
「真剣にやれ。こいつにはたっぷり反省してもらう」
「「は、はいっ!」」
靴が飛んでくる、拳が飛んでくる。さっきより重い。手加減が消えた。
紫門ォオオ!!
腹の底が煮える。悔しい。悔しくて頭がおかしくなりそうだ。
でも、もう身体が動かない。限界だった。
「や、やめてく……」
声が途切れた。
視界の端に、何かが見えた。
佐々木が木刀を振りかぶっている。
う、嘘だろ。
剣道部の稽古用。白樫の、本物だ。あれで殴られたら——骨じゃ済まない。
佐々木の目が据わっていた。頬が赤い。息が荒い。興奮で正気を失ったような顔だ。
振り下ろされる。頭蓋骨に。
死ぬ。
心臓が喉元まで跳ね上がった。指先が痺れる。背筋を氷が這い上がってくる。
しかし——。
「やめろぉおお!」
声が教室を裂いた。
——え?
知っている声だ。
でも、知らない声だ。
音が遠くなった。自分の心臓だけが、耳の奥でどくどくと鳴っている。
首を回す。入り口。
麗良が立っていた。
違う。麗良じゃない。
いつもの彼女にあるはずのものが、全部ない。柔らかさ。穏やかさ。お嬢様然とした空気。
逆光の中で金髪が燃えている。青い目が、刃物みたいに光っている。
別人だ。麗良の身体を、誰かが乗っ取ったみたいだ。
教室から音が消えた。誰も息をしていない。俺も、たぶん止まっていた。
「……貴様ら、何をしている」
低くて、冷たい声。ゲームで聞くラスボスの声みたいだった。
空気が固まった。木刀を構えたままの佐々木が、そのまま凍りついている。
「れ、麗良、違うんだ」
紫門の声がひっくり返った。顔つきが変わる。さっきまでの余裕が消えて、いつもの爽やかな顔を取り繕おうとしている——ように見えた。
「君が襲われたと聞いて、心配で心配で仕方なかった。あまりに悔しくて、怒りで我を忘れてしまったんだ」
両手を広げ、大げさに身振りを交える。ギャルゲーの攻略対象みたいな台詞回し。
麗良は反応しなかった。
目だけが紫門を射抜いている。瞬きもしない。
紫門の額に、汗の筋が見えた。
「で、でも、さすがにこれはやりすぎだったね。俺も今、彼らを止めようと——」
麗良が動いた。
一瞬だった。
何か音がした。床を蹴る音だったと思う。
次の瞬間には、もう終わっていた。
「ひぎゃああ!」
紫門の絶叫が教室に響いた。
股間を押さえて崩れ落ちる。床を転がりながら、喉から絞り出すような悲鳴を上げ続けている。顔が真っ白になっていた。たぶん、汗も出ていたと思う。正直、それどころじゃなかったが。
誰も何も言わなかった。
昨日までカップルだった。紫門に寄り添い、腕を組んでいた麗良。その彼女が、恋人の股間を蹴り上げた。
麗良は振り返りもせず、こちらに歩いてくる。靴音だけが、静まり返った教室に響いた。
「く、草乃月さん?」
佐々木が震える声で呼びかけた瞬間——
「べふえらぁあ!!」
同じだった。視界の端で、佐々木が倒れたのが見えた。動いていない。
救急車を呼ぶべきだ。でも誰も動かない。俺も動けない。
麗良は二人を見向きもせず、俺の前で足を止めた。
表情が変わった。
さっきまでの鋭さが消えている。眉が下がり、唇がわずかに開いて、目元が——柔らかくなった。
「大事ないか?」
手が差し出された。
白くて、細い手。かすかに震えていた。
「……ありがと」
その手を掴む。思ったより力がある。ぐいと引き上げられ、立ち上がった。
麗良の目が俺の顔を辿っていた。額の傷。唇の血。頬の腫れ。一つずつ確かめるように。
「よくぞ生きて……生きてくれた」
声が揺れていた。
そして——抱きしめられた。
強かった。痛いくらいに。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
嬉しい。
わけがわからない。
胸の奥が、ちくりと刺された。
甘い匂いがした。高い香水と、彼女自身の体温。頭がぼんやりする。
どれくらいそうしていたか。
麗良が離れた。袖で目元を拭い、背筋を伸ばす。
そして、教室に向かって声を放った。
「皆、聞け!」
よく通る声だった。窓ガラスが震えた気がした。
誰も動かない。さっきの蹴りを見た後だ。逆らえるわけがない。
麗良が俺の肩を抱き寄せた。
「ショウに手を出す輩は、この私が許さん!」
教室がざわついた。
「ショウって誰?」
「白石のことか?」
「なんで急に名前で……」
ひそひそ声が、あちこちから聞こえる。
そしてすぐに、その声も消えた。たぶん、意味を理解したんだろう。
草乃月財閥の一人娘。その彼女が、俺を守ると宣言した。
さっきまで俺を蹴っていた連中の顔から、血の気が引いていく。見て見ぬふりをしていた奴らも、落ち着きなく視線を泳がせている。
昨日までの序列が、ひっくり返った。
最底辺の俺が、一気に頂点に引き上げられた。
これで、助かった。紫門のいじめからも、孤立からも。
普通に過ごしたかっただけだ。友達と笑って、たまには恋もして。そんな当たり前の高校生活が、欲しかっただけなのに。
だが。
麗良が俺を見ている。瞳の中にハートマークが浮かんでいた。いや、マジで。漫画みたいに、本当にそう見えたんだ。
その目を見るたびに、胸の奥がぎゅっと締まる。
この愛情は、本物か。
この笑顔は、彼女のものか。
それとも——俺が作った、偽物か。
やってはいけないことを、した。
確実に。
話は、三ヶ月前に遡る。