絶世の美女が俺の恋人に!? 前世は王女様とその従僕。いや、全部マッチポンプだから!   作:里奈使徒

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第26話「運転手、石橋真照の苦悩」

 俺の名は、石橋真照。VIP専属の運転手をしている。

 

 政治家の送迎から始まり、今は大企業の社長を相手にしている。身入りはいい。毎年、求人の倍率は千倍を超える。

 

 俺は特別な人間じゃない。ここまで来られたのは、運と、一人の恩人のおかげだ。

 

 手島さん。俺の大恩人だ。

 

 仕事もプライベートも、どれだけ世話になったかわからない。やり手で懐が深く、部下は皆、彼を慕っていた。俺だけじゃない。何人もの人間があの人に救われている。

 

 いずれ手島さんが上に立ち、会社の風土を変えていく。誰もがそう信じていた。

 

 あの事件さえなければ。

 

 利根川河川敷問題。会社の廃棄水で住民が健康被害を受けた。社長は被害者を札束で黙らせ、反対した手島さんを潰した。重度の障害が残った人間もいたのに、「費用対効果」の一言で切り捨てた。

 

 社長はクソだ。

 

 人情のかけらもなく、逆らう者には容赦しない。【鉄の女】と畏れられた馬場さんですら、社長に追い出されるように会社を去った。

 

 世の中は、ままならない。善人が苦しみ、悪人がのさばる。

 

 手島さんには、言葉に尽くせないほどお世話になった。

 

 なのに俺は、この冷血社長の運転手をしている。手島さんを裏切り、社長に媚びを売っている。

 

 生き恥だ。

 

 理由は、金だ。金がいる。

 

 俺には大事な大事な宝がある。妻と子だ。

 

 妻とは幼馴染。告白して結婚して子供ができた。月並みだが、幸せだった。

 

 俺はもともと天涯孤独の身で、家族と呼べる者は妻と子しかいない。かけがえのない宝だ。

 

 なのに。

 

 神様ってやつは、この世にいないのだろう。

 

 現実は残酷だ。

 

 もともと身体の弱かった妻が、出産を機に入退院を繰り返すようになった。心臓の持病が悪化したのだ。

 

 このままではもって数年。早急に移植手術が必要だという。莫大な金と、優秀な医師と、高度な設備が要る。

 

 方々手を尽くした結果、草乃月財閥経営の草乃月病院だけが妻を救える唯一の手段だとわかった。

 

 妻は「無理しなくていい。他のお医者様に任せましょう」と言う。普通の病院では助からない。それは妻もわかっている。死を覚悟しているのだろう。

 

 妻が死ぬのは嫌だ。息子だって悲しむ。何より俺が嫌なのだ。

 

 息子の結婚式にも、孫の結婚式にも、妻と一緒に出たい。妻とずっと暮らしていきたい。

 

 そのためなら悪魔にだって魂を売る。

 

 利根川河川敷問題で手島さんが窮地に陥ったとき、俺は手島さんを裏切った。

 

 連座でクビにされそうになったとき、なんでもするからやめてくれと社長の足元に這いつくばった。涙を流し、嗚咽まじりに懇願した。

 

 その間、社長はデスクの上に両足を乗っけてふんぞり返っていた。

 

 俺は、この社長に首根っこを掴まれている。

 

 しかたがない。しかたがなかったんだ。

 

 毎朝、社長を乗せる。後悔が喉元までせり上がってくる。それでも運転を続けている。

 

 

 

 ☆ ★ ☆ ★

 

 

 

 西日が差し込む午後四時過ぎ。いつものように機械のごとく運転していると、社長から業務外のルートを指示された。

 

 珍しい。仕事以外の無駄を極端に嫌う男なのに。

 

 言われるまま右折し、大通りから一本外れた道に入る。住宅街を抜けると、歩道に学生服の群れが見えてきた。通学路だ。帰宅途中の学生たちが、三々五々、歩いている。

 

 ある男子生徒の前で停止するよう命じられた。ブレーキを踏み、路肩に寄せる。

 

 停止した途端、社長が後部座席のドアを開け、その生徒を力ずくで押し込んできた。

 

 なっ!?

 

 声が喉で詰まる。誘拐じゃないか。

 

 周囲の学生たちが足を止め、こちらを見ている。だが黒塗りの高級車に気圧されたのか、誰も近づいてこない。

 

 男子生徒がパニックを起こしている。社長が恫喝して無理やり黙らせた。

 

 無茶をしやがる。

 

 こんな真似をして、一体何の用があるというのだ。

 

 社長の指示で車を発進させる。バックミラー越しに後部座席を確認する。

 

 少年は落ち着きを取り戻したらしく、きょろきょろと車内を見回している。革張りのシートや木目のパネルを、物珍しそうに眺めている。

 

 純朴そうな顔だ。どこか息子に似ている。

 

 ん? あの制服は。

 

 息子と同じ南西館高校だ。ネクタイの色から判断するに二年生。息子と同学年だ。もしかしたら息子の友達かもしれない。

 

 息子は、二ヶ月ほど前から暗い顔で帰宅するようになった。様子を聞いても「部活で疲れてる」としか言わない。どれだけ問い詰めても「心配しないで」の一点張りだ。

 

 日に日に覇気がなくなっていく。そして風呂場で、全身の痣を見つけた。

 

 胃が縮み上がった。

 

 駆け寄って問い詰めても、息子は口を開かなかった。

 

 業を煮やした俺は、息子の日記を盗み見ることにしたのである。

 

 その夜。息子が寝静まった後、部屋に忍び込んだ。

 

 机の引き出しに手をかける。取っ手の冷たさが指に食い込む。

 

 本当にいいのか。

 

 息子のプライバシーを暴こうとしている。親として、人として、やってはいけないことだ。

 

 引き出しを半分開けたところで、手が止まった。

 

 背後のベッドから、息子の寝息が聞こえる。規則正しいようでいて、どこか浅い。眠りの中でさえ安らげていないのかもしれない。

 

 すまん、武志。

 

 引き出しを開けきった。

 

 日記帳を手に取る。表紙には何も書かれていない。飾り気のないところが息子らしい。

 

 街灯の明かりを頼りに、最初のページを開く。

 

 几帳面な字だ。部活のこと、友達のこと。文化祭の準備が大変だったとか、数学のテストが思ったより取れたとか。読んでいるうちに、知らず頬が緩んだ。

 

 こんなふうに息子の日常を覗くのは初めてだ。妻の看病と仕事に追われて、息子とゆっくり話す時間を作れていなかった。

 

 ページをめくる手が、ある日付で止まった。

 

 二ヶ月前。息子の様子がおかしくなり始めた頃だ。

 

 字が違う。

 

 それまでの伸びやかな筆跡が萎縮している。行間も詰まっている。誰かに見られることを恐れているような書き方だ。

 

『白石君を助けようとしたら、俺もターゲットにされた。小金沢の指示らしい』

 

 息を飲む。

 

 白石。聞いたことのない名前だ。そして、小金沢。

 

 ページをめくる指が速くなる。

 

『毎日辛いけど、お父さんもお母さんも大変だから言えない。自分で何とかしなきゃ』

 

 喉の奥が詰まる。

 

 お前が気を遣う必要なんてない。親はそのためにいるんだ。お前の苦しみを聞くために、俺たちはいるんだ。

 

 でも、息子にそう思わせたのは俺だ。

 

 妻の看病に追われ、仕事に忙殺され、息子の話を聞いてやる時間すら作れなかった。「大丈夫か?」と形だけ聞いて、「大丈夫」と返されれば、それ以上踏み込まなかった。

 

 踏み込む余裕がなかった。そう言い訳していただけだ。

 

『昨日の仕返しだと言って、体操着に泥をかけられた。みんなの前で笑われた。恥ずかしかった』

 

 文字が滲んでいる。

 

 泣きながら書いたのだ。涙の跡がインクを薄く溶かしている。

 

 俺の視界も滲んできた。

 

『もう限界かもしれない。でも、白石君は悪くない。俺が勝手に首を突っ込んだだけだ』

 

 限界。

 

 その二文字が、胸を直に殴りつける。

 

 お前は限界だったのに、俺は何も気づいてやれなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。気づいたら対処しなければならない。でも妻のことで手一杯で、息子のことまで抱えきれないと——

 

 最低だ。俺は最低の父親だ。

 

 震える手でページをめくる。

 

『小金沢は笑いながら見ている。まるで俺たちを虫けらでも見るような目で』

 

 小金沢紫門。そいつがいじめの首謀者だ。

 

 頭に血が昇る。だがそれ以上に、自分への嫌悪が込み上げてくる。

 

『白石君もまだいじめられているみたいだ。俺が助けられなくて申し訳ない』

 

 息子は、自分がいじめられているのに、友達のことを心配している。

 

 自分を犠牲にしてでも、友達を守ろうとした。

 

 その優しさが、息子を追い詰めている。

 

 日記を読み終えたとき、涙が止まらなかった。

 

 日記を元の場所に戻す。引き出しを静かに閉め、音を立てないように立ち上がる。

 

 息子の寝顔を見つめた。眉間に皺が寄っている。夢の中でも何かと戦っているのか。

 

 俺に、何ができる?

 社長に逆らえない俺に、息子を救う力があるのか?

 

 答えは出ないまま、俺は息子の部屋を後にした。

 

 

 

 ☆ ★ ☆ ★

 

 

 

 バックミラー越しの少年が気になった。息子の状況を少しでも知りたい。

 

 車は住宅街を抜け、幹線道路に戻っていた。西日が車内に差し込み、革シートの表面を橙色に染めている。

 

 社長と少年のやりとりに耳を澄ます。

 

 この少年が、息子が庇った同級生——白石翔太君だった。

 

 息子の日記に何度も出てきた名前。息子が自分を犠牲にしてでも守ろうとした友人。

 

 その白石君が、今、社長から理不尽な扱いを受けている。

 

 社長は娘との喧嘩の原因を白石君のせいにしていた。薬だの洗脳だのと、わけのわからない言いがかりだ。その情報源が小金沢紫門だという。

 

 息子を苦しめている元凶の名前だ。

 

 社長の娘は、最初は小金沢の恋人だったが、今は白石君に乗り換えたらしい。振られた腹いせに、小金沢があることないこと吹き込んだのだろう。

 

 白石君の言い分が正しい。悪いのは小金沢紫門だ。

 

 社長は白石君を信じるだろうか。

 

 案の定、聞く耳を持たない。それどころか——

 

 社長が白石君の首に手をかけた。

 

 バックミラーの中で、白石君の顔が歪む。

 

 両手で社長の腕を掴み、もがいている。社長の腕はびくともしない。

 

 白石君の顔から血の気が引いていく。

 

 唇が紫に変わり始めた。

 

 やめろ。

 

 声にならない。

 

 車を止めろ。ドアを開けろ。社長の腕を引き剥がせ。

 

 頭ではわかっている。今すぐそうすべきだと。

 

 なのに、手がハンドルから離れない。足がブレーキを踏めない。身体が、他人のもののように動かない。

 

 信号が青に変わる。アクセルを踏む。車は何事もないように走り続ける。

 

 白石君の目が、一瞬、バックミラー越しに俺を捉えた。

 

 助けを求める目。息子と同じ年頃の、罪のない少年の目。

 

 その目が、俺を射抜く。

 

 助けて。

 

 声にならない叫びが、鏡越しに届く。

 

 妻の顔が浮かんだ。

 

 病室のベッドで痩せ細った身体を横たえ、「無理しなくていいのよ」と微笑む顔。

 

 社長を殴れば、妻が死ぬ。

 

 社長は執念深い。敵と見なした相手には、どこまでも報復する。再就職どころか、妻の治療まで妨害してくるだろう。

 

 妻が死ぬ。

 

 その現実が、俺の身体を縛りつける。

 

 でも——

 

 息子の日記が蘇る。

 

『白石君は悪くない。俺が勝手に首を突っ込んだだけだ』

 

 息子は、自分を犠牲にしてでも白石君を守ろうとした。

 

 その息子に、俺は何と言う?

 

「お父さん、僕が守ろうとした白石君を助けてくれなかったの?」

 

 そう問われたら、何と答える?

 

 妻のためだった? 家族のためだった?

 

 そんな言い訳が、息子に通じるか?

 

 白石君の顔色がさらに悪くなる。もがく力が弱まっていく。

 

 このままでは死ぬ。

 

 心臓がうるさい。背中を汗が伝う。手のひらが滑る。

 

 なにか。暴力以外で——

 

 社長を直接止めれば、俺の人生は終わる。でも何もしなければ、目の前で少年が死ぬ。

 

 間接的に、社長自身が手を離すように——

 

 前方に渋滞の列が見えた。

 

「社長、そろそろ時間が……」

 

 声が震えていないことを祈りながら、わざと混んでいる車線へハンドルを切った。

 

 めざとい社長のことだ。渋滞から到着時刻を逆算しているはず。次のアポは重要な案件だ。

 

 白石君に構っている場合じゃないだろう。さっさと手を離せ。

 

 一秒が引き伸ばされる。

 

 社長が手を離した。

 

 白石君が激しく咳き込む。顔に血の気が戻り始めた。

 

 よかった。

 

 安堵と同時に、胸の底が重くなる。

 

 俺は結局、何もできなかった。白石君を本当の意味で助けられなかった。

 

 息子の正義感を、俺は踏みにじった。社長の機嫌を損ねないよう、小細工を弄しただけだ。

 

 社長は白石君を殴り、車外に放り出した。ドアが開き、少年の身体が歩道に転がる。通行人が足を止め、こちらを見ている。社長は構わずドアを閉め、何事もなかったように新聞を広げた。

 

 さっきまで少年の首を絞めていた手で、新聞をめくっている。

 

「なんだ?」

「い、いえ」

 

 しまった。バックミラー越しに睨んでいたらしい。

 

 視線を落とす。

 

「何か文句でもあるのか?」

「い、いえ、なんでもございません」

「ふん、わかっているだろうな」

「はい、もちろんです。社長の御恩を忘れたことはありません」

 

 社長が鼻を鳴らし、足を組んで新聞に戻る。余計なことを話すなという意味だ。

 

 話すな、か。

 

 社長のあの剣幕から察するに、次は白石君を殺すかもしれない。

 

 くそ。

 

 社長は今、機嫌が悪い。いつものように黙っているべきだ。他人を助ける余裕は俺にはない。無心に仕事をこなすしかない。

 

 車外に放り出された白石君の姿が目に焼きついている。恐怖で震えていた。社長は彼の父親までクビにすると宣告していた。泣きそうな顔だった。

 

 情けない。自分が情けない。

 

 息子はいじめの標的にされても、敢然と立ち向かったというのに。

 

 息子は白石君を守ろうと必死だった。たとえ自分が犠牲になっても。俺も息子に誇れる父でありたい。

 

 小金沢紫門と白石君、どちらが悪人かなんてわかりきっている。

 

 意見ぐらいはすべきだ。

 

「あ、あの社長」

「なんだ?」

「先ほどの少年、白石君は悪くありません」

「君には関係ない話だ」

 

 にべもない。

 

 社長は新聞を広げたまま、こちらを見ようともしない。

 

 めげるな。愛想がないのはいつものことだ。

 

「聞いてください。私は小金沢紫門という男がどんなに酷い男か知っています」

「誰が君の意見を聞いた?」

「申し訳ございません。出過ぎた真似をしているのは承知しております。ですが、言わせてください。白石君の言葉は正しい。悪いのは彼じゃない。悪人は、小金沢紫門です」

「君も根も葉もない噂を流すのかね」

「嘘ではありません。真実です」

「妄言もたいがいにしろ」

「本当です。信じてください」

「君もしつこいね……そこまで断言するなら、何か根拠でもあるのかね?」

 

 具体的な証拠を見せなければ、疑い深い社長は絶対に信じない。

 

 証拠なら、ある。

 

 息子の名誉を守るため、誰彼構わず話すわけにはいかなかった。特に、この冷血漢には。

 

 だが、白石君の命がかかっている。

 

 武志、すまん。

 

 俺は、小金沢紫門たちが息子をいじめていることを伝えた。

 

「……というわけなんです」

「そうか。君の息子も南西館高校だったな」

「はい、ご息女とは別のクラスですが……とにかく小金沢紫門がいじめをしているのは事実です。証拠なら息子の日記を見てもらえばわかります」

「まぁ、証拠としては不十分だがね」

「社長!」

「まぁ、クソ真面目な君が自分の息子の名を出してまで話したんだ。信じようじゃないか」

「本当ですか!」

「あぁ、紫門君はいじめをしている。それで、それがどうかしたのかね?」

「それでって……いじめをしているんですよ。どちらが悪人かわかりますよね?」

「ふっ、君は勘違いをしているようだ」

「勘違いとは?」

「紫門君は、いじめをしている。君に言われなくても当然知っているよ」

「ご存じだったのですか!」

「当然だろ。学園は、大事な娘が通っているんだぞ。学園長を通じて、クラスの様子は手に取るようにわかっている」

 

 知っていた。知っていて放置していた。白石君も息子も被害者なのに。

 

「ご存じだったのならどうしてですか」

「ふっ、君は青いな。これはオフレコだぞ」

「は、はい」

「世間体があるから公言しないが、率直に言おう。いじめ結構じゃないか。わが社をけん引してくれる婿殿には、それぐらい覇気があったほうが頼もしい」

 

 こいつは何を言っているんだ。

 

 落ち着け。冷静になれ。立場を忘れて怒鳴り散らすところだった。

 

「いじめをしているんですよ。小金沢紫門の性根は曲がってます。それなのに庇うんですか!」

「君はまるでわかっていないな。いじめはいじめられているほうが悪い」

「はぁ? そんなわけないだろ!」

「静かにしたまえ。私を怒らせたいのか!」

 

 つい言葉を荒げてしまった。社長が声を荒げる。

 

「大変、申し訳ございません」

 

 頭を下げる。社長の機嫌を損ねるわけにはいかない。

 

「無知な君に一つ教えてやろう。何度でも言ってやる。いじめはいじめられているほうが悪い。いじめを受けるのは、いじめを受けるだけの理由がある」

「わ、私の息子が悪いっていうんですか」

「悪いに決まっている」

「ど、どうしてですか!」

 

 声が震える。殴りたい衝動を必死に抑えつける。敬語を保てた自分を褒めてやりたい。

 

「どもるんじゃない。いいか、いじめられる奴らを見てみろ。大抵、体力に頭脳、容姿、協調性全ておいて劣っている。自らを鍛えていない怠惰な証拠だ」

「それはあまりに一方的な考えです。能力は関係ありません。仮に能力に優れていても、いじめられることもあります」

「違うな。君は、筋骨隆々の男をいじめたいと思うか? 学年主席の男をいじめたいと思うか? 例えいじめたいと思う奴がいても、学園側がさせんよ。優秀な人材は、金の成る木だ。要するに、優秀な者はいじめを受けない。努力を怠った無能者には誰も手を差し伸べようとはせん。必然、無能な者がいじめられるに決まっているだろ」

「ち、違う。違います。努力をして必死に頑張ってもそれを認めない非道で心悪しき人達がいるからいじめが起きるんです。社長のお言葉はあんまりだ。被害者の気持ちを、痛みを欠片もわかっていない」

「くっく、被害者の気持ちねぇ~君なんかよりわかっているさ。どうして僕が? どうして私が? なんでイジメられるんだ? 誰か助けてくれ? そんなところだろ?」

「くっ、そうですよ。必死に生きて苦しみ助けを求めている人の気持ちです。その気持ちがわかるならどうしてそんなひどい事をおっしゃるのですか!」

「ひどくはない。なぜいじめられるかわからない、それは自己分析ができない馬鹿と言っているようなものだ。逆に聞こう? いじめられるのが嫌なら、なぜ現状を変えようとしない? なぜ戦いを放棄する?」

「それは、大勢が相手だからです。一人で抱え込んで孤独に打ち震えていて、抵抗できるわけないじゃないですか!」

「だから愚かなんだ。今の世の中、いじめを受けないためのツールは、たくさんある。なぜ、それを使わない。知らない? なら調べろ。人は、頭なり身体なりを鍛えて自己を守ろうとする。人間の本能だ。何も行動を起こさない者は、怠惰だよ。社会に出ても通用しない。わが社にとってもなんの益もない者だ。効率の悪い無能など、この世にいらない」

 

 社長が言い放つ。

 

 殺す。ぶっ殺す。

 

 こんな男が政治家になる?

 

 ふざけるな。

 

 草乃月涼彦は政界進出を公言している。次期選挙での出馬も決まっているらしい。会社経営で培った資金力と人脈、容赦のない手法を政治に持ち込もうとしている。

 

 「効率の悪い無能はいらない」——そんな思想の持ち主が国政を動かしたら、どうなる?

 

 手島さんのような人間は排除される。弱者は切り捨てられ、庶民の生活は困窮する。この男の価値観が法律になり、政策になる。

 

 背筋が冷える。こいつが政界に出たら、日本は終わる。

 

 ハンドルを握る手が震える。

 

 意地だ。こんな奴に負けたくない。言い返してやる。

 

「それは社長が金も権力もある、恵まれた立場にいるから、そう思えるんです。被害者の立場を少しもわかっていない」

「舐めるなよ。たとえ、私が貧乏人であっても変わらない。私はいじめを受けるような弱虫共とは違う。歯向かう者は全員叩きのめしてやる」

「社長のように立ち向かえる人もいるでしょう。でも、できない人だっています。それが悪いとは思いません。悪いのはいじめをしている人間です」

「なかなか食い下がるじゃないか。私に歯向かうつもりなのか?」

「い、いえ、そんなつもりはございません」

「まぁ、いい。暇つぶしに議論をしてやる。君の言う通り原因は、いじめをする側にあるとしよう。では、いじめの対策はどうすればいい?」

「対策ですか」

「そうだ。物事の原理は一緒だよ。原因がわかれば、対策を打てる。君の考えを聞いてやろう」

「そうですね、親や友達、信頼できる人に頼ることも一つの手だと思います。肝心なのは独りで悩まないことです」

「不十分だな。信頼できる人がいれば、本当にいじめは止まるのかね? 君の息子はいじめられているそうだが、信頼できる人はいなかったのか? うだつが上がらないとはいえ父親もいたんだろ?」

「そ、それは……」

「言わなくてもわかる。心配する親がいても同じだ。いじめは止まらない。いじめを受けている本人が変わらなくてはな」

「ち、違う。別に無理して変わる必要はないです。今の環境を変える方法だってあります」

「環境を変えても意味がない。変えた先でいじめられるのがオチだ」

「そうとはかぎらないでしょう」

「いいや、確信しているね。君の息子のような無能は、どこに行ってもいじめられる。君の息子が弱く、さらに言えば、君が息子を厳しく育てたなかったのが原因だな」

「違う。息子は弱くない。息子がいじめを受けたのは、いじめを受けていた友達を助けたからです。私は息子を誇りに思います」

「はっはっははは! 馬鹿だな。それで君の息子は、その友達とやらを助けられたのかね? 結局、一緒になっていじめられているではないか。溺れている者を助けようとして自分も溺れたら本末転倒だ!」

 

 社長が高らかに笑う。

 

 今までも心を殺して仕えてきた。理不尽で屈辱的な思いは何度もしてきた。

 

 こいつを殴れば、妻が死ぬ。妻がこの世からいなくなる。その思いで、心に蓋をしてきた。

 

 だが、ここまで息子を侮辱されて——

 

 全身に熱が駆けめぐる。血管が脈打つ。

 

 ハンドルを握る手が震える。

 

 社長の首を絞めてやりたい。あの顔を叩き潰してやりたい。

 

 でも。

 

 妻の顔が浮かぶ。病室で微笑む、あの顔。息子の顔も浮かぶ。いじめられながらも、家では気丈に振る舞おうとする姿。

 

 俺がここで感情を爆発させたら、家族はどうなる?

 

 妻の治療費は? 息子の学費は?

 

 すべてが水の泡になる。

 

 いや、それどころか、この悪魔は報復してくる。

 

 妻の治療を妨害し、息子の将来まで潰しにかかる。俺一人の満足のために、家族を地獄に落とすわけにはいかない。

 

「なんだその眼は? 不満があるなら、別にやめてもらってかまわないんだよ。君の代わりはいくらでもいる。だが、覚えておくといい。当然、会社の恩恵は受けられないぞ。懲戒免職だから当然退職金も無し。君の奥さんも、うちの病院から出て行ってもらおう」

「……やめてください」

「なんだって? 聞こえない。もっと大きな声で返事をしたまえ!」

「やめてください。失礼な態度を取って申し訳ございませんでした」

「よろしい。利口な生き方だ。安心しろ。うちの病院は世界に誇る大病院だ。君の奥さんの些細な病気など簡単に治してやれる」

 

 涙が頬を伝う。止まらない。

 

 運転しながら、涙が次から次へと溢れてくる。視界が歪む。でも車を止められない。社長を乗せたまま、運転を続けなければならない。

 

 息子を侮辱されて、それでも頭を下げなければならない。

 

 息子が守ろうとした白石君まで、社長に苦しめられている。

 

 息子の正義感も、友情も、すべて踏みにじられている。

 

 これが現実だ。

 

 金がない者は、金がある者にひれ伏すしかない。弱い者は、強い者に従うしかない。それがこの世界の掟だ。

 

 バックミラーに社長の横顔が映っている。新聞を読みながら、もう俺のことなど眼中にない。虫を潰したことすら忘れているような顔だ。

 

 俺はこの男に何年も仕えてきた。これからも仕え続ける。妻が治るまで。いや、治っても、この男に握られた弱みは消えない。

 

 一生、この男の奴隷だ。

 

 ハンドルを握る手が、まだ震えている。

 

 これくらいなんだ。嫌味を言われたぐらいだ。妻や息子の苦しみに比べたら、なんでもない。

 

 そう言い聞かせる。何度も。

 

 でも、涙は止まらなかった。

 

 信号で車が止まる。

 

 西日が傾き、フロントガラスに橙色の光が差し込む。赤信号の向こうに夕焼け空が広がっている。茜色の雲がゆっくりと流れていく。帰宅を急ぐ人々が横断歩道を渡っていく。誰もがそれぞれの日常を生きている。

 

 青信号に変わる。

 

 アクセルを踏む。

 

 今日も明日も、その先も、俺はこの車を運転し続ける。

 

 いつか、報われる日が来るのだろうか。

 

 いつか、息子に胸を張れる父親になれるのだろうか。

 

 答えは出ない。

 

 社長に天罰が下ることを祈りながら、今日もクソッタレな仕事をこなしていく。

 

 いつか、必ず。

 

 その「いつか」が来ることを信じて。信じなければ、俺は壊れてしまう。

 

 無になれ。俺には愛すべき家族が待っている。それ以外のことは考えるな。

 

 涙を拭う暇もなく、俺は車を走らせた。

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